羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

兼六園&金沢城ライトアップ

 新型コロナウィルスの世界的流行で国内でもとんでもないことになっていますが、政府の要請が出る前に遠方に行く用は終えられたので、今のところ影響は少なく済んでいます。国立博物館も休館になったので、早めに特別展を見に行っておいてよかったと思いました。前売券を買っていたのに行けなかった人は気の毒ですが……。宝塚もラルクのライブも中止となり、どちらもチケットが取れずに悪あがきをしていましたが、これにてあきらめがつきました。

 

 ということで、上野に行った次の週末は、輪島塗の蒔絵と沈金の作家に会いに輪島に行ったので、仕事のあと兼六園&金沢城に寄ってきました。泊まったホテルに置いてあったリーフレットで「金沢城兼六園四季物語 冬の段(ライトアップ)」というイベントをやっていることを知ったので。

 

 5時過ぎに金沢駅に戻ってきたので、不要な荷物をホテルに置いたあと、バスで21世紀美術館バス停まで行き、真弓坂口から兼六園に入園。入園料は無料でした。ライトアップは兼六園金沢城公園と玉泉院丸庭園で行われていて、全部まわるとそれなりに時間がかかりそうだったので、まずは腹ごしらえをしようと思い、茶店通りへ。開いていたのが城山亭だけだったので、金沢名物の治部煮を食べることにしました。

f:id:hanyu_ya:20200229224036j:plain茶店通りより、ライトアップされた金沢城石川門

 

 鶏肉があまり好きではないので牛肉に替えた治部煮丼を頼むと、団体客の注文が入ったばかりなので20分ぐらいかかると言われたため、一杯やりながら待つことにし、天狗舞の小瓶と、空きっ腹だとマズいので、ツマミに生麩田楽を注文。件の団体客がうるさかったので、ライトアップされた石川門を眺めながら外で飲むことにしました。その日は日中16℃ぐらいまで気温が上がった2月とは思えない暖かい日でもあったので。

f:id:hanyu_ya:20200229224147j:plain城山亭前に置かれている茶屋椅子より眺める石川門と、注文した生麩田楽と天狗舞

 

 店に入ったときはまだ明るかったのですが、注文した天狗舞と生麩田楽が出てきて店から出ると、あっという間に暗くなっていました。 生麩田楽を食べ終わったあと、スマホをいじりながらちびちびと天狗舞を飲んでいると、お待たせしているお詫びだと言って、店員のおにーサンがお造りを持ってきてくれました。田楽の皿をさげてもらってサービスのお造りをつまみつつ天狗舞を7割ほど空けると、ようやく治部煮丼が到着。すでに酒肴でお腹が膨れていた身には、けっこうなボリュームでした。

f:id:hanyu_ya:20200229224324j:plainその日の夕食。豪勢です。治部煮丼には金箔がかかっていました。

 

 治部煮丼を完食することを優先したので、最後はお腹がいっぱいで天狗舞を全部飲みきれず、小瓶をテイクアウトさせてもらったほど満腹状態になったので、これは1~2時間は歩いて消化しないとダメだろうと思い、再び蓮池門口から入園。

f:id:hanyu_ya:20200229224707j:plain徽軫灯籠

f:id:hanyu_ya:20200229225005j:plain霞ヶ池

f:id:hanyu_ya:20200229224810j:plain唐崎松

f:id:hanyu_ya:20200229225051j:plain明治紀念之標

f:id:hanyu_ya:20200229225150j:plain根上松

f:id:hanyu_ya:20200229225745j:plain霞ヶ池の蓬莱島

f:id:hanyu_ya:20200229225825j:plain栄螺山より霞ヶ池

f:id:hanyu_ya:20200229225902j:plain瓢池の海石塔と翠滝

 

 立入禁止のところ以外はほぼ見たので兼六園を出ると、お堀通りを越えたところにある金沢城公園へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20200229230026j:plain石川橋より石川櫓

f:id:hanyu_ya:20200229230105j:plain公園内より石川櫓

f:id:hanyu_ya:20200229230159j:plain橋爪門続櫓

 

 金沢城公園を横切り、続いて玉泉院丸庭園へ。「玉泉院」とは織田信長の娘で、初代藩主利長の正室となった永姫のこと。永姫が亡くなったあと、その屋敷を取り壊し、ニ代藩主利常が造ったのがこの庭園だそうです。ちなみに、利長の父である利家は加賀を領国としていましたが、藩ができる前に亡くなったので、あくまでも藩祖の位置付けであり、初代加賀藩主は利長で、その跡を継いだ異母弟の利常が二代藩主になります。

f:id:hanyu_ya:20200229230429j:plain玉泉院丸庭園

f:id:hanyu_ya:20200229230351j:plain石垣をバックにした庭園で、石垣を照らすライトの色がだんだんと変わっていく照明プログラムをやっていました。

f:id:hanyu_ya:20200229230309j:plainライトアップされた石垣と雪吊り

 

 玉泉院丸庭園を出たあと、もう少し歩いたほうがいいような気がしたので、南町・尾山神社バス停まで行くことにし、ついでなので尾山神社へ寄ることにしました。昔、前田家に興味が湧いて野田山やら天徳院やら前田家関連の史跡をまわったことがあり、もちろん利家を祀る尾山神社もその時に訪れていて境内は隈なく見ているので、今回は参拝だけして引き上げ、バス停へ。バスに乗って駅まで行き、ホテルに戻り、長い一日が終わりました。

f:id:hanyu_ya:20200229230549j:plain尾山神社の神門

冬ぼたん→ミイラ→出雲と大和

 先々週の金曜は、仕事を3時半で切り上げて、上野に行ってきました。

 

 まずは、時間的に4時半の閉苑に間に合いそうだったので、上野東照宮のぼたん苑へと向かいました。上野はミュージアム街なので、劇場街である日比谷と同じぐらいしょっちゅう訪れていて、時間に余裕があれば寄るので東照宮にも何度も行っているのですが、何故かぼたん苑が開園しているときにあたったことがなく、一度も見たことがなかったので。ぼたん苑を見るためだけに、わざわざ上野まで行くことはありませんし。

f:id:hanyu_ya:20200213152312j:plain冬ぼたん其の一「島大臣」(だったような……うろ覚え)。ちなみに、冬ぼたんは寒ぼたんとは違うそうで、寒ぼたんは単純に低温で開花する冬咲きの品種で、冬ぼたんは春と夏に寒冷地で開花を抑制し、秋に温度を調整して冬に開花させるという栽培技術を用いて咲かせたもの、とのことです。

f:id:hanyu_ya:20200213152400j:plain冬ぼたん其のニ「八千代椿」(だったか?)

f:id:hanyu_ya:20200213152508j:plainみんなこんなふうに藁ぼっちをかぶっていました。

f:id:hanyu_ya:20200213152610j:plain冬ぼたんと五重塔

 

 ギリギリの入苑で誰もいなかったので、これ幸いとぼたんの前に座り込んで写真を撮っていると、スタッフに声をかけられ、「門が閉まるという放送が流れていますが、大丈夫なので、ゆっくり見てください」と教えてくれました。私がいた場所はまだ苑の四分の一ぐらいだというので、そのあとは少々早足でまわりましたが。

f:id:hanyu_ya:20200213152823j:plainぼたん苑内にある枯山水の日本庭園前より、五重塔、紅梅、夕月、そして藁ぼっち冬ぼたん三姉妹……絵に描いたような素晴らしい光景でした。

f:id:hanyu_ya:20200213152901j:plain反対側は東照宮社殿。上野公園は世界遺産まであるミュージアム街であり、なおかつ東照宮寛永寺など徳川将軍家ゆかりの史跡もあるので、ある意味、東京随一の文化スポットだと思います。

 

 ぼたん苑を出ると東照宮の人が待機していて、すでに閉まっていた門を脇から開けて出してくれました。

 

 その後、東京都美術館へと向かい、現在開催中の特別展「ハマスホイとデンマーク絵画」は興味がなかったので見ませんでしたが、特別展開催中の金曜日で、お気に入りのミュージアムレストランであるサロンが8時まで開いているので、そこで早めの夕食を摂ることに。特別展コラボメニューも今回は好みではなかったので、シェフのおすすめ料理の内容を訊き、イベリコ豚のソテーだというので、そちらのプリフィックスコースを頼みました。もちろんテタンジェも一緒です。このシャンパーニュを飲めることが、上野でこの店を選ぶ最大の理由なので。

 

 腹ごしらえを終えたあとは、店を出て東京都美術館を後にし、科学博物館へ――開催中の特別展「ミイラ」を見に行きました。今さらエジプトのミイラには興味がなかったのですが、アイスマン即身仏が見たかったので。アイスマンは説明だけで本体は来日していなかったのですが、宥貞仏はもはやミイラというよりも香煙のせいで黒ずんだ仏像のようで、ありがたい感じがしました。

 

 それにしても、かなり衝撃的な展覧会でした。ミイラをただ展示物として見せるだけではなく、研究分析し判明したことを詳しく説明しているので、これまでにないミイラ展示で斬新ではありましたが、昔と違って今は最新の技術でグルグル巻きでも中身が解析でき、本体が見えなくてもどんな体勢でミイラになっているのかがわかる時代。しかも、その人物の性別も、およその年齢も、病気や怪我までもわかるということが、ミイラそのものより衝撃でした。物証が残っているものは、そのうち謎なんかなくなるのかもしれません。

 

 科博は常設展示が好きで、周囲で開催されている特別展がイマイチで予定より早く見終わって中途半端に時間が余るとよく訪れたのですが、今回はあまり時間がなかったので、ざっと見て終わり。上野動物園のパンダがここにいることは知っていましたが、南極観測隊のジロがいることは記憶になかったので驚きでした。けれども、一緒にいる犬は兄弟のタロではなく忠犬ハチ公……。ではタロは今どこにいるのだろうと疑問に思いました。

 

 最後に、よくマラカイトなどの鉱石を買うミュージアムショップを覗いたのですが、欲しいと思った物はとても衝動買いをするような値段ではなかったので断念。そうこうしているうちに7時半を過ぎたので、8時で閉館の科博を出て、9時まで開館している東博こと東京国立博物館へと向かいました。

 

 東博では現在、日本書記成立1300年特別展「出雲と大和」を開催中。縄文・弥生史研究を趣味とし、「ホツマツタヱ」と記紀、「出雲風土記」「先代旧事本紀」が常に手元にあり、もはや座右の書になっている身としては到底無視できないイベントなので、たとえ不満の多い平成館での展覧会であっても行かないという選択肢はありませんでした。出雲も大和もフィールドワークの神社遠征で何度も訪れている馴染み深い土地なので、さして目新しい物はないだろうと思いましたが。

 

 案の定、見たことがある物ばかりで、銅鐸や銅剣の展示も古代出雲歴史博物館の展示には遠く及ばない見せ方だったのですが、まあ、あちらはそれらを保管展示するために造った箱なので、その点は仕方がありません。

f:id:hanyu_ya:20200216195112j:plain撮影可だった、加茂岩倉遺跡銅鐸埋納状況(復元模型)

 

 とはいえ、出雲大社の宇豆柱と石上神宮の七支刀を同じ空間で見られるというのはすごいことで、METROPOLITAN NATIONAL MUSEUMだからできることだと思います。はっきり言って、お上の力業です。どちらも神宝みたいなものですから。私はそれぞれ出雲と天理まで足を運んで見ましたが、七支刀なんか禁足地から発掘された御神体で、今も通常非公開なので、わざわざ石上神宮まで行っても見られないことのほうが多いという貴重品です。

 

 石上神宮の特別公開を見に行き、初めて七支刀を目にしたときは、6本の枝刃が1本も欠けずに残っている上に、金象嵌の銘文も金色のまま残っていて今でも読める状態の実物を前にして、思わず身震いがしました。物語のように文字だけで知っていた歴史が過去の事実になった瞬間です。宇豆柱も、よく東京まで持ってきたなという感想でしたが、出雲でこれを見たときは「雲太、和二、京三」という平安時代の口遊は作りごとではないのだと確信しました。復元模型どおりかどうかはわかりませんが、平安京大極殿より東大寺大仏殿より出雲大社が大きかったことは確実だと思います。出雲はアマテルの弟であるソサノヲが一宮に鎮座する国、大和はソサノヲの孫である二代大物主クシヒコが一宮に鎮座する国――ということで、DNA的に出雲に遠慮するところがあったのかもしれません。

 

 いつものように考古展示室から本館へ行って1階の常設展示を見たあと、図録を買うためにミュージアムショップへ行ったら、なんと撮影の仕事でお世話になっているスタイリストのS氏とばったり遭遇。美術展好きで、若冲の展覧会は外さず信楽のミホミュージアムとかにも行き、ムンク「叫び」の可動フィギュアも持っているという強者です。また近々撮影の仕事があるので軽く立ち話をして別れ、2階へ行って春信を眺めていると閉館10分前になったので1階に下り、室生寺十二神将を見て終了。春日大社の創建1250年記念特別展を見に行った奈良国立博物館の常設展示室で会ったときにも「おや、こんなところに」とビックリしましたが、1月に東博の常設展示室でこの仏像に会ったときも大いに驚きました。一番好きな十二神将像なので、わざわざ室生寺まで見に行きましたから。来ているのは巳神と酉神の2体のみですが、今月下旬まで東京に滞在しているみたいです。

f:id:hanyu_ya:20200216194210j:plain常設展示の富岡鉄斎「ニ神会舞」。天孫降臨神話のサルタヒコとウズメ。女神の体の曲線と衣装の色のせいか、鉄斎にしては珍しく柔らかな印象の絵。

f:id:hanyu_ya:20200217002021j:plain鈴木春信「雪中の訪れ」。地面に積もった雪の空摺り表現が見事。若衆の足がちゃんと雪に埋もれているように見えます。娘の腰のあたりに、反対側の展示ケースの蛍光灯が写り込んでいるのが残念。正面から撮ると、どうしても避けられませんでした。

f:id:hanyu_ya:20200217002117j:plain鈴木春信「比良暮雪」。座敷八景に通じる見立て絵。

f:id:hanyu_ya:20200217002222j:plain鈴木春信「下駄の雪取」。珍しい題材と、娘二人の体勢がリアルで素晴らしい。

f:id:hanyu_ya:20200217002306j:plain鈴木春信「臥龍梅」。亀戸梅屋敷の臥龍梅のそばでキセルの火を移す若衆と娘。映画みたいにお洒落なワンシーンをすでに浮世絵でやっていました。さすが春信。

宝塚メモ~12月の月組&1月の宙組

 久しぶりの宝塚メモです。

 

 2週間ほど前に日比谷で宙組公演を観てきました。12月に月組公演も観たのですが、特に不満もなく、かといってリピートするほど感動したわけでもなく――といったところで、なおかつ京都遠征記事を書くのが精一杯で、観劇記事まで手がまわらなかったためスルーしていましたが、宙組を観て新たに思ったこともあったので、一緒に感想を記しておきたいと思います。

 

 演目は、月組がミュージカル「I AM FROM AUSTRIAー故郷は甘き調べー」の一本物で、宙組はミュージカル「エル ハポンイスパニアのサムライー」とショー「アクアヴィーテ!!」の二本立て。月組は日本オーストリア友好150周年記念と銘打った公演で、「エリザベート」を制作したウィーン劇場協会が手がけた話題作の日本初上陸作品、対して宙組は、伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節団を題材にしたオリジナル作品と藤井ショー。ということで、評判がどうであれ、エリザベート好き、伊達政宗好きとしては、どちらも見逃すわけにはいかず、なんとかチケットを確保し、相も変わらずバタバタと忙しい中、万難を排して行ってきました。

 

 で、感想ですが、ミュージカル作品としては、ウィーン劇場協会の制作だけあって、構成も楽曲も月組のほうが完成度が高くておもしろかったのですが、トップスターの魅力を見せる宝塚作品としては宙組に軍配が上がるといったところ。月組は、どう見ても男役トップスターのたまきち(珠城りょうさん)ではなく、娘役トップスターの美園さくらさんが主人公でしたから。

 

 美園さんはよくやっていましたが、すでに観劇中に、これほど娘役トップが活躍できる内容なら、ちゃぴ(愛希れいかさん)で観たかったと思ってしまいました。いっそうたまきちの存在感が薄くなったかもしれませんが……。男役トップが主役っぽくない外部向きの作品なので、宝塚ではなく東宝ミュージカルとかでいいので、ちゃぴ主演で観たいと思いました。観ていて明らかに主役ではあるのですが、主役にしてはまだまだ美園さんではオーラが足りず、パンチが弱かったので。一座の中心というか一座を率いる座長には見えないし、舞台に出てきても場面が引き締まるといった効果はまったくもってありませんでした。

 

 その点、宙組男役トップスターのゆりか(真風涼帆さん)は、どこからどう見ても主役という抜きん出た存在で、彼女が出てくれれば舞台が華やぎ、さすがトップスターという感じ。その他大勢とは明らかに違いました。たまきちも、ちゃんとした主役であれば、あのくらいの華はあると思うのですが……ゆりかと違って、たまきちの場合は、華というよりも存在感といったほうがいいかもしれませんが。

 

 けれども、美園さん自身は本当によくやっていました。難しい歌も無難にこなしていましたし。今回、宙組娘役トップスターの星風まどかさんを見たら、改めてそう思いました。というか、宙組の娘役はトップだけでなく全体的にイマイチでした。月組のくらげちゃん(海乃美月さん)のように、ともすれば娘1を凌ぐような実力派や若手スターはいないし、トップの星風さんはゆりかと合っているような気がしないし、歌も難有り。高音が厳しいのか、やたらと地声で歌うので、男役とのハモリが全然きれいに聞こえませんでした。下手というわけではないので、男役ではなく、男優となら相性がよいのではないかと思いましたが。

 

 くらげちゃんは、ちなつ(鳳月杏さん)とコンビを組んだエードラー夫妻役がとてもよい出来で、彼らの息子ジョージ役だったたまきちと同じぐらい物語の中心的人物であり、その役にふさわしい存在感がありました。月組は男役も二番手のレイコ(月城かなとさん)も三番手のあり(暁千星さん)も、それぞれがクセのある役を巧く表現していて、メチャクチャ個性的な悪徳マネージャーであり南米プロサッカー選手でありながら、ちゃんとカッコいいという、さすがの路線スターぶりでした。

 

 一方の宙組の男役――二番手であるキキ(芹香斗亜さん)は総じてよかったのですが、この組は娘役だけでなく、舞台を引き締めるような脇固めも駒不足なので、キキが出てくると舞台が落ち着いてホッとするといった具合。なので、もはや二番手ではなく別格スターを見ているようでした。デュエダンでは、シンガーであるキキの存在感があまりに大きくて、踊るトップコンビそっちのけでガン見していましたし。とはいえ、今回も真風涼帆オンステージでした。ゆりか一人の舞台でピアソラの「オブリビオン」を踊るシーンなんか本当に最高でしたから。ダンサーとして上手いとはけっして思っていないのですが、その場面のソロダンスはダンディで色気があり、ゆりかの良さが存分に発揮されていて、あまりに素晴らしかったので帰って調べたら、振付は「ANJU」でした。やっぱりヤンさん(安寿ミラさん)のダンスは違います。花男――ダンスの花組の男役のダンスです。

 

 ということで、とにかくゆりかがカッコいいので、宙組はこれでいいのかもしれないとも思います。今のこの組の魅力は組力といった総合力ではなく、ひとえに宝塚の男役をやるために生まれてきたような、傑出した男役としてのビジュアルの持ち主であるトップスター真風涼帆にあると思うので。よって組子は彼女を至高の存在として見せるための布陣であり、比較してゆりかの下手さがわかるような、上手い娘役とか別格スターは要らないのかもしれません――今はまだ。でも、いつか近いうちに必ず終わりが来るのが宝塚トップスターの宿命です。

 

 最後に余談ですが、宙組公演はやけに男性客が多いと思いました。その日だけなのか本公演だけなのかわかりませんが。年々宝塚の男性客が増えていることは実感していて、エンターテインメントとしての地位が上がったようで嬉しいのですが、ますますチケットが取りにくくなるような気もして複雑です。雪組もまだ確保できていませんし……。雪組の前回公演はギリシャ帰りで疲れていたのか、チケットを入れておいた財布を仕事場に忘れて劇場に行くというポカを犯して見そびれたので、なんとかして観たいと思っているのですが。

My年中行事~スキーin安比

 今月の3連休の土日は恒例の年1スキーに行ってきました。昨年私のコンディションはイマイチでしたが、ゲレンデ自体の印象はすこぶるよかったので、今年も同じ安比です。

 

 大宮駅で同行の友人と合流し、9時過ぎのはやぶさで盛岡へ。その時間でもいつもより2時間早く起きなければならず、しかも前日は東博に行ったりして帰りが遅かったので、とりあえず荷造りをし、なんとか早起きをして予定の新幹線に乗ったという具合でした。

 

 11時前に盛岡駅に到着し、11時15分発の安比高原行きバスに乗り、安比ヒルズ白樺の森で下車。着くのが12時過ぎになるということはわかっていて、それからランチを食べたりすると滑る時間がなくなるということで、新幹線の中でブランチ駅弁を食べたので、着替えたらスキーセットをレンタルし、すぐにゲレンデへと向かいました。

 

 ……なのですが、リフト乗り場に着いたところでリフト券を買わなかったことに気づき、早々にスキーを外してゲート手前の雪に突き刺し、ハッピーモールまで買いに行きました。リフト券がないとどうにもならないので……トホホホ。レンタルしたときに一緒に買えば宿泊者割引価格で買えたのですが、まあ仕方ありません。ボケていた我々が悪いのですから。日頃私以上に忙しく過ごしている友人もすっかり失念していたようです。今回は新幹線の乗車券も事前購入を忘れていて、当日途中下車して購入する羽目になりましたし……。

 

 新幹線停車駅などハブ駅の窓口や券売機は混んでいることが多いので、基本的に新幹線の切符はネットで予約して事前購入をすることにしています。今回も3連休の初日ということで特急券は1か月前の発売と同時に買ったのですが、乗車区間が違うため乗車券を買うのを忘れていて、そのことに前日上野から家に帰ってから気づき、慌ててえきねっとで予約。最寄りのJR駅にはえきねっと予約の切符を引き取れる窓口や券売機がないため、大宮駅に行く途中の乗り換え駅で改札から出させてもらい、券売機で発券してから行きました。大宮駅まで行って窓口や券売機に並ぶことになると、下手をすれば乗りそびれる可能性があるので。

 

 そんなこともあったので、こんな頭がボケた状態で滑ったら確実にケガをすると思い、リフトに乗る前に気合を入れ直し、セントラル第1リフトに乗車。その日は雪の予報だったのですが、足慣らしに白樺ゲレンデを1本滑り、セントラルクワッドで上がって、さらに上に行くため第2リフトに乗って降りると、山の上のほうはガスっていて視界が悪かったので、早々に挫けて、その日はそれより上に行くのはあきらめて、セントラルゲレンデのカケスコースやオオタカコースを滑ることにしました。

 

 そのうち予報どおり雪が降りはじめ、気温も下がってきて、リフトに乗っていると横殴りで、かなり寒かったのですが、気温を見ると−1とか−3℃ぐらい。スキー場としては大して寒いわけではなく、暖冬で普段があまり寒くないから体感温度が低く感じられるのだろうと友人と話していました。昔富良野に滑りに行ったときなんか、旭川に着いたとたん−20℃とかいう表示を見てビビりましたから。だけど、それでも平気で滑っていましたし。

 

 上から滑ってきて標高が下がると如実に気温も上がったので、何本か白樺ゲレンデまで下りたのですが、そうすると1本の距離が長くなり、重力コントロールする時間が長いため、次第に脚が痛くなってきたのと、1本を終えた後のリフト乗車時間が長くて吹きさらし状態がつらかったので、後半はセントラル第2リフトをリピートして滑っていました。 雪不足で悩むスキー場が多い中、積雪量も150㎝ぐらいあって雪質もよく、天気は悪くても視界は悪くなく、天気がよくないせいで3連休なのに人が少なく、スクール生やスキー合宿の学生ぐらいしかいないという快適なゲレンデで、とても楽しかったので、年甲斐もなくぶっ続けで滑り、第2リフトが終了する3時40分前に最後のリフトに乗って、カルガモコース経由で白樺の森に帰り、その日は終了。

 

 明けて翌日、安比ヒルズ白樺の森は中国人(or台湾人)スキー客が団体ツアーで押し寄せるので日本人客より多いのではないかという環境なのですが、始動が遅い我々は彼らと朝食時間がかち合ってしまい、朝食バイキングのレストランに行ったら席待ちの行列ができていたため、いったん部屋に戻り、9時過ぎに再び出向くことに。そんなわけで、食事を終えてチェックアウトし、滑りはじめたのは10時過ぎでした。

 

 その日の天候は曇りから晴れ、前日雪が降ったので、さらにゲレンデコンディションがよかったので、安比ゴンドラに乗って頂上まで行き、セカンドゲレンデへ。第1コースを滑ったのですが、わりと力を使う疲れるコースだったので、1本でギブアップし、セントラルゲレンデに戻ることにしました。

f:id:hanyu_ya:20200122125626j:plain安比ゴンドラを降りた付近

f:id:hanyu_ya:20200122125722j:plainセカンド第1コースより岩手山

f:id:hanyu_ya:20200122125821j:plainセカンド第1コースの下に見えた雲海

 

 セカンドゲレンデからセントラルゲレンデに戻るためにはザイラーゲレンデを経由する必要があるのですが、セカンド第1コースから第2ザイラーコースCに折れたあと、安直に一番手前にあったザイラークワッドで上に上がってしまったため、ザイラーロングコースかハヤブサコースの上級斜面を下りなければならなくなりました。泣きそうでしたが、いつまでもそこにいるわけにはいかないので、ゲレンデマップを確認し、上級部分が短く見えるザイラーロングコースを選択。覚悟を決めて急斜面に突っ込んでいきました。幸い雪が良くて人が少なかったので、なんとか無事に下り、第1ザイラーコースAを経てセントラルゲレンデへ。その後は無理をせず、中級斜面をくり返し、キツツキコースを中心に、カケスコース、オオタカコース、ハヤブサコースを行ったり来たりしていました。

 

 滑りはじめが遅く、お昼にお腹も空かなかったため、一度も休憩を取らずに、その日もぶっ続けで滑り続けたのですが、さすがに3時過ぎには脚も疲れて小腹も空いてきたので終了しました。前回盛岡駅で食べたいわて牛が美味しかったので同じ店で食事をして帰るつもりでしたが、次の盛岡駅行きのバスは16時発で少々時間があったので、ホテルの売店南部せんべいとマロングラッセならぬアップルグラッセ、コーヒーを購入し、ロビーで飲み食いしながらバス待ちをすることに。

 

  そうこうするうちに4時前になったので、ホテルの玄関に行くと、時間どおりにバスが来たのですが、それは仙台駅行きで、どうやら予約制のバスらしく、予約者を回収するため、遅れてくる客も待っていて玄関前から動かないため、盛岡駅行きのバスが到着して、すぐ後ろまで来ているのになかなか乗れず、結局7~8分ほど遅れての出発となりました。

 

 盛岡駅到着後、いつものように駅ビル内の直営店でパック入り「かもめの玉子ミニ」と「萩の月」のバラを買い、昨年寄った「みのるダイニング」という店に行ったのですが、あいにく満席で、10分も待たずに入れはしたものの、オーダーを取りに来たスタッフに注文しようと思っていたメニューの調理時間を訊くと、ちょうどまとめてオーダーが入ったところなので時間がかかるとのこと。残念ながら切符を買ってある新幹線の出発時刻に間に合いそうもなかったので、食事をするのはあきらめて店を出ました。

 

 仕方がないので駅弁とタカラ缶チューハイを購入し、18時15分発のはやぶさに乗車。これにて2020スキー終了です。

f:id:hanyu_ya:20200125025023j:plainウニ好きなので、「うにとウニと雲丹 味くらべ弁当というのを購入。リピートしたいと思うぐらい美味しく、これで十分満足でした。

令和の高御座と御帳台in東京国立博物館

 本日まで、昨年10月22日に行われた即位礼正殿の儀で使用された高御座と御帳台が、東京国立博物館で一般公開されていましたが、次の機会はないだろうと思ったので、開館時間が長い10日の金曜に仕事を早めに終えて見に行ってきました。

 

 無料で見られたのですが、せっかく行くなら常設展も見たかったので、チケットを買って入館。本館入口を入ったところに設置されていたセキュリティチェックを受けて展示室に入りました。動画とフラッシュは禁止されていましたが、撮影自体は許可されていたので、写真を撮ったのですが、ガラスに人が写り込んで、なかなかうまい具合にはいかず。けれども、オールカラーの説明パンフレットが無料でもらえたので、まあいいかと思いました。

f:id:hanyu_ya:20200120000127j:plain本館入口を入ったところに設置されていたセキュリティチェックの上の垂れ幕

f:id:hanyu_ya:20200120000158j:plain高御座

f:id:hanyu_ya:20200120000258j:plain高御座内部の御椅子。左右に、剣璽国璽および御璽を置く小卓があり、これは御帳台にはありません。剣璽三種の神器のうち草薙剣八尺瓊勾玉国璽は国家印、御璽は天皇印――つまり天皇のみが有する物を置く場所なので、皇后には必要ないからです。

f:id:hanyu_ya:20200120000333j:plain御帳台

f:id:hanyu_ya:20200120000412j:plain総ガラス張りの向こうに、こんなふうに並んで展示されていました。向かって左が高御座で、右が御帳台です。

f:id:hanyu_ya:20200120000438j:plain無料配布されていたオールカラーパンフレット。無料公開、撮影可も含めて、ずいぶん太っ腹だと思いました。

 

 別室で、即位の礼にあたって儀式の威厳を整えるために捧げ持つ威儀物も展示されていました。

f:id:hanyu_ya:20200120002213j:plain威儀物(パンフレットより)。ちゃんと実物が展示されていて写真も撮れたのですが、わりとサイズが大きく、引きにしないと全部が入らず、しかし引きにすると人が入ってきて物にかぶって邪魔になり、まともな写真が撮れなかったので、撮影しませんでした。

f:id:hanyu_ya:20200120002150j:plain即位礼正殿の儀における服装(パンフレットより)

f:id:hanyu_ya:20200120000805j:plain威儀の者の装束。武官の束帯姿です。パンフレットに写真がなかったので撮ってきました。

f:id:hanyu_ya:20200120000836j:plain威儀物捧持者の装束。向かって右は文官の束帯姿です。

 

 ひととおり特別公開の展示を見たあと、本格的に常設展を見る前に腹ごしらえをしておきたいと思い、「ホテルオークラ ガーデンテラス」のオーダーストップに間に合いそうだったので、法隆寺宝物館にある店に行って、スパークリングワインと本日のパスタを注文。入店時に1組いた客も途中でいなくなり、客が一人だけのせいか、ワイングラスを空ける間もなく、すぐに料理が出てきたので、冷めないうちにパスタを平らげたあと、しばらくワインを飲みつつ、もらってきたパンフレットを読み込みました。そして、閉店10分前になったので、店を出て平成館へ。来たときにはまだ明るかったのですが、食事を終えて法隆寺宝物館を出ると、すっかり日も暮れて、美しい月夜になっていました。

f:id:hanyu_ya:20200120000956j:plainライトアップされた東博本館の上空に煌々と照る月。帰って調べたら、翌11日未明に満月を迎えたとのことでした。

 

 平成館では何の特別展も開催されていなかったのですが、東博に来たら、この建物の1階にある考古展示室を見逃すわけにはいきません。

f:id:hanyu_ya:20200120001049j:plain今年初の埴輪「盛装女子」(重要文化財

f:id:hanyu_ya:20200120001126j:plain「盛装女子」の解説文。埴輪の詳細な解説などいつもないので、細かいことは気にしていなかったのですが、改めて「なるほど」と思わされました。やっぱり奥が深いです、埴輪。

f:id:hanyu_ya:20200120001313j:plain今年初の土偶「山形土偶」。すっきりスマートな埴輪とは全然違う印象(笑)。どちらも魅力的で、甲乙つけがたいですが。

f:id:hanyu_ya:20200120001518j:plain今年二番目の埴輪「杯を捧げる女子」。こんなに彩色が鮮やかに、しかも緻密にデザインされた状態で残っている埴輪はめったにありません。ちょっとビックリでした。

 

 続いて、連絡通路を通り、再び本館へ。

f:id:hanyu_ya:20200120001715j:plain今年初の春信「追羽子」。春信画の「鼠、猫と遊ぶ娘と子供」という、子年ならではの作品も展示されていましたが、こちらのほうが好みだったので。

f:id:hanyu_ya:20200120001755j:plain今年初の若冲「松梅孤鶴図」

 

 興味がある展示室を見終わると、ミュージアムショップを物色。考古展示室の前にある企画展示室で見た「天皇と宮中儀礼」という展示がおもしろかったので、東博発行の「『旧儀式図画帖』にみる宮廷の年中行事」という本を購入しました。

 

 本館を出たあとは、隣の東洋館でカタール王族のコレクションを展示する「人、神、自然―ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界―」を開催していたので、特別展だけを見て東博を後にし、次に西洋美術館へと向かいました。

 

 現在開催中の「日本・オーストリア友好150周年記念 ハプスブルグ展 600年にわたる帝国コレクションの歴史」のチケットを持っていたから行ったのですが、こちらの企画展はかなりイマイチでした。ベラスケスのマルガリータとかありましたが、いわゆるハプスブルグ家の肖像画展といった感じ。あまりにおもしろくなかったので、せめてエル・グレコでも観て帰ろうと思い、常設展も鑑賞したのですが、新館の版画素描展示室で開催していた内藤コレクション「ゴシック写本の小宇宙――文字に棲まう絵、言葉を超えてゆく絵」の展示が実に興味深く、こちらを見られたので幾分救われた気分になりました。ハプスブルグ展よりずっと見甲斐がありました。企画展だけだったら、東博を全部見ずに切り上げて西洋美術館に来たことを激しく後悔していたと思います。

京都寺社遠征 その3~岩屋神社、霊山歴史館(付・山城国名神大社および飛鳥坐神社考)

 12月京都遠征の最終日は、山科の岩屋神社に行きました。

 

 11月の京都遠征の最終日に、帰りの新幹線を早めることができなくて、醍醐寺のあと何処へ行こうか悩み、スマホで近郊を調べたところ、この神社を見つけました。不覚にも今まで知らなかったのですが、なんと二つの巨石があるとのこと。前回もとても行きたかったのですが、どう考えても時間がかかりそうだったので日を改めることにし、その時は昔行ったことがあり、さして時間がかからないことがわかっている勧修寺および隋心院を選んだ次第です。

 

 何故時間がかかるかというと、交通アクセスがよくないということもありますが、巨石がある岩屋神社の奥之院は現在の本社の後ろにある山の中腹にあるからです。いうまでもなく、巨石は神社以前の古代祭祀の跡である磐座なので、したがって、これこそが岩屋神社の大本であり、よって奥之院に行かなければ意味がなく、そして山に登るとなると、どうしたって時間はかかります。

 

 ということで、ホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらい、JR線で山科駅まで行き、山科駅から大宅行きの京阪バスに乗って終点で降り、大宅バス停から10分ほど歩くと岩屋神社に着きました。

f:id:hanyu_ya:20200116115912j:plain岩屋神社鳥居

 

 まずはお参りをして御朱印をいただき、境内を一巡して摂末社を確認したあと、奥之院へと向かいました。

 

 川崎大師京都別院の前を通って左に曲がり、案内板に従って右に曲がって山に入り、しばらく登ると、奥之院の石碑と「岩屋皇大神」と書かれた朱色の鳥居群が現れ、陰岩の前に到着。そこからさらに左上に登っていくと、突き当りに陽岩があります。本社から歩いて20~30分といったところですが、山道なのでそれなりにキツイです。

f:id:hanyu_ya:20200116115632j:plain山道を登っていくと途中に岩屋神社奥之院の石碑があります。

f:id:hanyu_ya:20200116115708j:plainしばらく朱色の鳥居の参道が続きます。

f:id:hanyu_ya:20200116115809j:plain岩屋殿前に到着すると、まず陰岩が現れます。

 

 岩屋神社の現祭神は天忍穂耳命、栲幡千々姫命、饒速日命。参拝のしおりによると、饒速日命天忍穂耳命と栲幡千々姫命の皇子で、別名「天火明櫛玉饒速日命」とのこと。……であるならば、『ホツマツタヱ』でいうところのニギハヤヒではなく、クシタマホノアカリということになります。クシタマホノアカリ=櫛玉火明はオシホミミ=忍穂耳とタクハタチチヒメ=栲幡千々姫の息子ですが、ニギハヤヒ饒速日はクシタマホノアカリの弟ニニキネ=瓊々杵の息子であるホノアカリ(クシタマホノアカリとは別人で、彼の甥)の子なので、したがってオシホミミとタクハタチチヒメにとっては曾孫にあたります。クシタマホノアカリは飛鳥を治めていましたが、子がないまま亡くなったので、甥の子であるニギハヤヒがその跡を継いだのです。

 

 本社の現祭神は三柱ですが、奥之院である岩屋殿は二つの磐座から成るので祭神も二柱で、陽岩に祀られているのが天忍穂耳命、陰岩に祀られているのが栲幡千々姫命です。どちらにも表示がありましたが、陰陽それぞれの岩の形を見れば、どちらが男神でどちらが女神かは一目瞭然。男神を祀る陽岩のほうが女神を祀る陰岩より上にあることも含めて、とても偶然の産物とは思えない場所でした。岩の形はともかく、山の中腹に存在する磐座の佇まいは、出雲の須我神社の磐座を思い出しました。須我神社の祭神は須佐之男命ことソサノヲと稲田比売命ことイナタヒメで、当社の起源は二人がヤマタノオロチ退治後に夫婦となって住んだ宮の跡といわれています。ということは、同じような磐座がある岩屋神社も須我神社に匹敵する神代の聖跡と考えてよいと思います。

f:id:hanyu_ya:20200116120415j:plain栲幡千々姫命を祀る陰岩

f:id:hanyu_ya:20200116120508j:plain天忍穂耳命を祀る陽岩

f:id:hanyu_ya:20200116120557j:plain実に意味がわかりやすい陽岩の形

 

 なので、『延喜式』に掲載されている山科神社(式内山科神社)に擬されたこともあるそうですが、現在は否定されているらしく、式内山科神社は山科区西野山にある山科神社ということになっています。

 

 『延喜式』に掲載されている並名神大社の「松尾神社二座」(式内松尾神社)とは現在の松尾大社のことで、松尾大社には磐座があります。同じく、『延喜式』に掲載されている名神大社の「日吉神社」(式内日吉神社)とは現在の日吉大社のことで、こちらにも磐座があります。ならば、『延喜式』に掲載されている並名神大社の「山科神社二座」(式内山科神社)とは、やはり磐座がある岩屋神社こそがふさわしいように思えます。磐座の有無以外にも、岩屋神社は山科一宮といわれる郷社で山科神社は村社だったという現実的な社格差、さらには実際に両社を訪れた印象を踏まえても、岩屋神社のほうがいかにも名神大社らしく思えました。

 

 ……なのですが、『延喜式』の成立時期を考えると、延喜の帝こと醍醐天皇外戚である宮道氏の地位を格上げし確立すべく、彼らが本拠地である山科において氏祖ヤマトタケルとその子ワカタケルを祭神として奉祀する山科神社を名神大社に列した――という説も捨てきれません。というのも、名神大社である平野神社桓武天皇外戚の祖神を祀る神社であり、同じく名神大社である梅宮大社と自玉手祭来酒解神社は仁明天皇外戚である橘氏氏神を祀る神社だからです。ゆえに、古代祭祀場の跡である岩屋神社のほうがどんなに山科神社より名神大社にふさわしくても式内山科神社の当該社であるとは言い切れないため、どちらが式内山科神社かは不明――ということにしておきます。とはいえ、磐座がある以上、山科神社より岩屋神社のほうが縄文・弥生史研究において重要で、神代の聖地であることは間違いありません。

 

 岩屋殿の祭神であるオシホミミとタクハタチチヒメは、『ホツマツタヱ』でいうところのハコネカミ=箱根神とスズカノカミ=鈴鹿神で、その長男であるクシタマホノアカリはアスカキミ=飛鳥君――すなわち“飛鳥に坐す神”であり、次男のニニキネはワケイカツチノカミ=別雷神です。

オシホミミ     箱根神  箱根神社祭神   現祭神名:天忍穂耳命

タクハタチチヒメ  鈴鹿神  椿大神社祭神   現祭神名:栲幡千々姫命

クシタマホノアカリ 飛鳥坐神 飛鳥坐神社祭神  現祭神名:天照皇大神

ニニキネ      別雷神  賀茂別雷神社祭神 現祭神名:賀茂別雷神

 

 クシタマホノアカリ=櫛玉火明は、『日本書記』では「“天照”国照彦“火明”命」、『先代旧事本紀』では「“天照”国照彦天“火明櫛玉饒速日尊」の名で登場します。そして、天照国照彦火明命は大和国の式内大社である鏡作坐天照御魂神社の祭神です。すなわちクシタマホノアカリ=天照御魂神で、天照御魂神は略すと天照神であることから、天照大神天照大御神、天照皇大神として祀られている神の正体が実はクシタマホノアカリであることも多くあります。飛鳥坐神社もその一つで、境内に御神体と思われるものも含めてたくさんの陽石が存在するのも、さらには天下の奇祭と名高い「おんだ祭」――子孫繁栄を願い、夫婦和合の様子を再現する神事――が行われてきたのも、子を生まない后を変えてまで熱望したにもかかわらず子宝に恵まれることなく、己が血筋を残せなかったクシタマホノアカリを祀っているからなのだと思います。

 

 一方、クシタマホノアカリの弟で、ニギハヤヒの祖父であるニニキネは別雷神ですが、別雷神とは賀茂別雷神のことなので、つまり賀茂別雷神社上賀茂神社)の祭神です。何故ニニキネが上賀茂神社に祀られ、その上賀茂神社が山城一宮であるかというと、彼が山城国を造った祖神だからです。

 

 『ホツマ』によれば、祖父である八代天君アマテル=天照の許可を得て国土開発に励んだニニキネは、ヤマクイに琵琶湖の西の山の後ろの土地を開拓するように命じました。そうして拓かれたのが現在の京都盆地で、山の後ろだからヤマウシロ=ヤマシロ=山背と呼ばれ、京都盆地が王城の地となった平安京遷都以後は「山城」の漢字が使われるようになりました。

 

 ということで、ニニキネは山城国の祖神ですが、ニニキネの命を受けて実際に土地を拓いた国土開拓神はヤマクイ=山咋なので、彼も「大山咋神」という祭神名で琵琶湖の西の山――京都盆地の東の果てに祀られて日吉神となりました。さらに、大山咋神は盆地の西の果ての山にも松尾神として祀られていますが、こちらはワカヤマクイ=若山咋のことだと思います。

 

 ワカヤマクイは、十代天君ニニキネの命を受けてヤマシロを開拓した人物ではなく、十二代天君ウガヤフキアワセズ=鵜葺草葺不合の命を受けて、高野川と賀茂川が出合い鴨川となる河合国で別雷神の祭祀に奉仕していたタマヨリに、皇子の乳母として出仕するように促した人物です。そうして宮中に入ったタマヨリは、のちにウガヤフキアワセズの寵愛を受けて御子を生み立后し、彼女が后となってから生んだ皇子――カンヤマトイハワレヒコ=神日本磐余彦は神武天皇となりました。それゆえ、初代天皇の両親であるウガヤフキアワセズとタマヨリは賀茂御祖神として賀茂御祖神社下鴨神社)に祀られ、天皇家に篤く信仰されたのです。その後、大和の平城京から山城に都を遷して平安京を建都した桓武天皇の二人の皇子――平城天皇嵯峨天皇平城京平安京に分かれて争い(いわゆる薬子の変)、嵯峨側が勝利して平安京が都として確定すると、嵯峨天皇は皇女を賀茂御祖神社の祭祀に奉仕させました。それが賀茂斎院の始まりです。

 

 ヤマクイとワカヤマクイの関係性は『ホツマ』からはわからないのですが、『古事記』によると、大山咋神の兄弟である羽山戸神の子が若山咋神とのこと。ウガヤフキアワセズはニニキネの孫なので、ヤマシロの開拓神であるヤマクイと、タマヨリをウガヤフキアワセズの宮に連れていったワカヤマクイは、世代的に考えても伯父と甥の関係ということでよいと思います。

 

 ウガヤフキアワセズは、最初の妃がイツセ=五瀬を生んで亡くなったあと、遺された乳飲み子を育てるため、乳の出がよいと民のあいだで評判のヒヱ=日枝(比叡山)の麓に住む姫――タマヨリにワカヤマクイを勅使として遣わし、彼女を自分の宮に召し出しました。乳の出がよかったということは、ちょうどその頃タマヨリが子供を生んでいたということです。その子はミケイリ=御食入といい、シラハノヤ=白羽の矢が飛んできてタマヨリが孕んで生まれた子――ということになっています。けれども、そんなことは実際にはあり得ません。よって、「白羽の“矢”」というのは『古事記』でいうところの「鳴鏑を用つ神」の比喩表現と考えるのが妥当です――「鳴鏑」とは鏑“矢”のことなので。そして、この神は「葛野の松尾に坐し」と書かれているので、松尾神である大山咋神――つまり、ウガヤフキアワセズの勅使を務めたワカヤマクイということになります。勅使だったからタマヨリと懇意になったのか、はたまたタマヨリと懇意だったから勅使に任じられたのかはわかりませんが。

 

 ところで、名神大社とは、古来霊験が著しいとされ、国家祭祀である名神祭に与る神社のことで、『延喜式』の神名帳には計226社が挙げられています。そのうち山城国にあるのは16社で、『ホツマツタヱ』などを通してわかる本来の祭神や背景について考えると、何故重要視されたのかが見えてきます。16社の概要は次のとおり。

 

賀茂別雷神社

――ニニキネ山城国の祖神、十代天君)を祀る。

賀茂御祖神社二座

――ウガヤフキアワセズ(ニニキネの孫、十二代天君)および、

  その皇后タマヨリ祀る。

貴布祢神社(現・貴船神社

――トヨタ(ウガヤフキアワセズの母)を祀る。

鴨川合坐小社宅神社(現・河合神社)

――タケツミ(タマヨリの父、トヨタマの弟)を祀る。

三井神社

――イソヨリ(タマヨリの母)を祀る。

乙訓坐大雷神社

――オシホミミ(ニニキネの父、九代天君)を祀る。

⑦許波多神社三座

――オシホミミ(ニニキネの父、九代天君)を祀る。

松尾神社(現・松尾大社)二座

――ワカヤマクイ(ウガヤフキアワセズの勅使)を祀る。

⑨稲荷神社(現・伏見稲荷大社)三座

――オオトシクラムスビ(ヤマクイの父、ワカヤマクイの祖父)を祀る。

⑩葛野坐月読神社(現・月読神社)

――アヨミタマ(ニニキネの叔父)を祀る。

木嶋坐天照御魂神社

――アヒミタマ(ニニキネの叔父)を祀る。

⑫自玉手祭来酒解神

……54代仁明天皇外戚橘氏氏神を祀る。

⑬梅宮坐神(現・梅宮大社)四座

……54代仁明天皇外戚橘氏氏神を祀る。

⑭平野祭神(現・平野神社)四座

……50代桓武天皇外戚の祖神を祀る。

⑮山科神社二座

……60代醍醐天皇外戚・宮道氏の祖神を祀る?

⑯天津石門別稚姫神社 ※当該社不明につき詳細不明

 

 ⑥乙訓坐大雷神社の祭神は火雷神ですが、同じ火雷神を祭神とする神社に、北野天満宮の摂社である火之御子社があります。当社は、菅原道真北野天満宮に祀られるより以前に天満宮の地に存在していた神社で、火雷神を祀る地に祀られたので、道真は雷神と結びつけられた――とも考えられています。……なのですが、火之御子社の社名である「火之御子」は、おそらく元々は「日之御子」なので、火雷神とはアマテルの子でニニキネの父であるオシホミミと考えてよいかと思います。前にも書いたおぼえがありますが、戸隠神社火之御子社の現在の主祭神は天鈿女命ですが、元々は配祀神である天忍穂耳命主祭神だったと思われます。だから栲幡千々姫命と高皇産霊命が一緒に祀られているのでしょう――オシホミミの母と祖父にあたるので。つまり、ヒノカミ=日の神、アマヒカミ=天日神といえばアマテルのことで、それゆえ子のオシホミミは日の御子であり、孫のニニキネはアメノミマゴ=天御孫と呼ばれるのです。ということで、別雷神が火雷神の子であるという話は、神話というフィクションではなく、紛れもない事実――すなわち歴史ということになります。

 

 話を遠征記に戻すと、岩屋殿から山を下ってきて本社に戻り、岩屋神社を後にして大宅バス停に行くと、ちょうどバスが行ったばかりだったので、地下鉄東西線椥辻駅まで歩くことにしました。岩屋神社の次はどうするか決めていなかったので、歩いているあいだにあれやこれやと考え、12月14日なら大石神社で何かやっているのではないかと思い至ったので、椥辻駅バス停からバスに乗り、大石神社に行ってみることにしました――なんといっても赤穂浪士討ち入りの日ですから。

 

 何かどころか、スマホで調べると、やはり義士祭をやっていたのですが、いつのまにか混み合っていたバスの乗客のほとんどが大石神社バス停で降りたので、混雑のほどが予想されて行く気がしなくなり、そのままバスに乗って三条京阪に出て、東山の京都霊山護国神社の近くにある霊山歴史館へ行くことにしました――勝海舟没後120年ということで「龍馬と勝海舟をめぐる人々」という展示をやっていたので。

 

 バスを乗り換えて、最寄りの東山安井バス停で降りたあと、岩屋神社界隈には食事ができるような店もなかったので昼食を摂っていなかったのですが、3時前でお腹も空いてきたので、そろそろ何か食べようかと思いながら護国神社に向かって歩いていると、左手に「一休庵」という普茶料理の店を発見。表の札が営業中になっていたので、竜宮門を思わせる入口を通って店の玄関に入り、奥から現れたスタッフに食事ができるか訊いてみると、できるというので、遅いランチにすることにしました。

f:id:hanyu_ya:20200118230503j:plain一休庵入口

 

 口頭でメニューを聞き、加茂茄子の田楽と胡麻豆腐付きのコースというのをオーダーすると、二階の座敷に通され、時間が大幅にずれていたためか、部屋には誰もいない上に、火灯窓からは八坂の塔がよく見えたので、実にのんびりとしたよい時間を過ごさせていただきました。

f:id:hanyu_ya:20200118230542j:plain二階の座敷

f:id:hanyu_ya:20200118230611j:plain座敷の火灯窓から見える八坂の塔

f:id:hanyu_ya:20200118230646j:plain普茶料理の基本コース

f:id:hanyu_ya:20200118230802j:plainプラスアルファの加茂茄子の田楽と胡麻豆腐

 

 食事後、店を出て護国神社へ続く坂を上り、神社の向かい側にある霊山歴史館へ。久しぶりに訪れましたが、海舟の大久保一翁追悼歌とか板倉勝静の詩書とかが見られたので、なかなかおもしろかったです。私は、坂本龍馬西郷隆盛桂小五郎など、薩長を中心とする維新推進派については徳川幕府側の面々に比べると興味がないのでどうでもいいのですが(勝てば官軍で、維新の英雄扱いされた彼らについては残されている史料も多く、世に知られていることも多いので)、家茂の周辺を調べたことで馴染みのある幕臣佐幕派の大名たちに関する見たことのない史料を見ると、自分が思い描いていた人物像が補足されたり、逆に思っていたのとは違うというように裏切られたりして、いろいろと新しい発見があるので楽しいです。

 

 4時半過ぎには霊山歴史館を出て、維新の志士たちのお墓参りにでも行こうかと思いましたが、あいにく雨が降ってきたので、護国神社のお参りだけで済ませ、切り上げて京都駅に戻ることにしました。駅構内のホテルに預けていた荷物を引き取ったあと、宿泊者サービスのドリンク利用券をもらっていたので、ラウンジで無料のコーヒーを飲んで一服してから、伊丹空港行きバス乗り場へ。予定より早い18時10分発のバスに乗り、到着後、空港の1階にある「道頓堀くくる」でハイボールを飲みつつ明石焼を食べ、さらにセキュリティチェック後、「たこぼん」でたこ焼をテイクアウトし、ゲート前の待合室で、充電しつつスマホをいじりながら食べました。一休庵での昼食からあまり時間が経っていなかったのですが、なにしろ食べたのが精進料理だったので、まったく問題なし。そして、ANAの羽田行き最終便で帰り、これにて2019年最後の寺社遠征も終了です。

京都寺社遠征 その2~野宮神社、常寂光寺、宝厳院、法輪寺(嵐山花灯路)

 福田美術館の展示室を2巡すると、閉館10分前になったので、美術館を出て、5時からライトアップ が始まる嵯峨野へと向かいました。

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 嵯峨野には『源氏物語』ゆかりの野宮神社があるので、もちろん初めて来たわけではありませんが、最後に訪れた記憶が20代前半なので、本当に久しぶりでした。松尾大社仁和寺のついでに渡月橋界隈に行くことはあっても、嵯峨野まで足を延ばすことはなかったので。花灯路の期間中は夜間特別拝観が行われる寺社も多く、野宮神社も通常5時で閉まる社務所が8時まで開いて夜間参拝ができるようなので、まずはそちらから行くことにしました。

f:id:hanyu_ya:20200112211058j:plain源氏物語』にも登場する野宮神社の黒木の鳥居。「黒木」とは樹皮が付いたままの木のこと。

 

 野宮神社は、かつて伊勢の斎宮の潔斎所だった野宮が起源で、『源氏物語』の賢木の巻には、斎宮となった娘と共に伊勢下向を決意してこの宮に籠っていた六条御息所光源氏が訪ねる野宮詣での場面が書かれています。本当は潔斎中に会いに行ったりしたらダメなのですが、何をしても許されるのが光源氏なので……。その後神社となり、現在の祭神は野宮大神とされていますが、これは伊勢斎宮が奉仕した伊勢の大神のことなので、すなわち天照大神ということになります。

f:id:hanyu_ya:20200112211255j:plain境内の苔の庭園

f:id:hanyu_ya:20200112211514j:plain境内社と竹林。芭蕉の句「ほととぎす大竹藪を洩る月夜」とはこんな光景でしょうか。季節は違いますが。

 

 お参りをして御朱印をいただき、野宮神社を出ると、竹林の小径を通って小倉池方面に向かい、夜間特別拝観ができる常寂光寺に行きました。過去数え切れないぐらい京都を訪れていますが、この寺には一度も行ったことがなく、いい機会だったので。けれども、特別拝観といっても見られるのは外だけで、建物の中には入れず。本堂にお参りもできなかったので、初めて訪れた寺でしたが、御朱印はいただきませんでした。

f:id:hanyu_ya:20200113021242j:plain竹林の小径

f:id:hanyu_ya:20200113021315j:plain竹林の間から見える宵の空

f:id:hanyu_ya:20200113021349j:plainライトアップ された小倉池。百人一首の忠平(貞信公)の歌で有名な小倉山の麓にあります。

f:id:hanyu_ya:20200113021432j:plain常寂光寺山門

f:id:hanyu_ya:20200113021513j:plain山門を入ると左右に行灯。特別拝観といっても、このようにライトアップされた境内を楽しむだけでした。改めて調べたところ、常寂光寺は昼間でも伽藍内の拝観はできないようです。だから今まで行ったことがなかったのかもしれません。

 

 二尊院までが花灯路のエリアで、常寂光寺の先にある落柿舎――松尾芭蕉が『嵯峨日記』を著したことで知られる向井去来の草庵――でも夜間特別入庵ができたのですが、こちらは昔行ったことがあり(昼間でしたが)、かつ神社でも寺でもないため祭神や本尊に参拝するということもないので、今回はあきらめました。天龍寺は閉まっていますが、塔頭の宝厳院は夜間特別拝観が可能で、そちらのほうが気になったので。せっかく来たからと欲張って時間がなくなり、本当に観たいところが慌ただしくなって満足に観られないという間抜けなことは避けたいと常日頃から思っているので、常寂光寺の拝観を終えると、それより奥には行かずに引き返し、宝厳院へと向かいました。

 

 小倉池を右手に来た道を戻り、竹林の小径の入口を通過して、大堰川沿いに出るために亀山公園を通ったら、ライトアップ はおろか外灯もなく(点いていなかっただけかもしれませんが)、ほぼ真っ暗。花灯路のパンフレットに載っているルートなので人の往来はあるのですが、すれ違う人が稀に持っている懐中電灯の光だけが頼りという道行きでした。ほとんど足元が見えない中、なんとか最後の下り階段をクリアーして大堰川に突き当たると、少し川岸を歩いて嵯峨嵐山文華館の角を左に曲がり、 宝厳院に到着。

f:id:hanyu_ya:20200113021643j:plain大堰川渡し船と嵐山。なんと嵐山もライトアップ されていました。

f:id:hanyu_ya:20200113021724j:plain宝厳院の「獅子吼の庭」。嵐山を取り入れた借景回遊式庭園で、中央左の奥にぼーっと見えるのが嵐山。庭と山が両方ともライトアップ されているのでこう見えます。

f:id:hanyu_ya:20200113021839j:plain 竹林と紅葉――自然が彩なす緑と赤の競演

 

 宝厳院の次は、渡月橋を渡って法輪寺へ。「令和元年デジタルカケジク」というプロジェクションマッピングのイベントをやっていたので見に行ってきました。

f:id:hanyu_ya:20200113022424j:plainライトアップ された夜の渡月橋法輪寺に参詣するために架けられた参道橋だったので、昔は法輪寺橋と呼ばれていたそうです。

 

 実は何年か前にも法輪寺プロジェクションマッピングを見たことがあって、それが歴史的建造物で行われるプロジェクションマッピングの初体験だったのですが、その時の衝撃があまりに大きかったため、以後似たような機会があれば見に行くようになり、大山寺やら二条城やらにも出向いているというわけです。

 

 ちなみに、法輪寺和銅6年(713)に行基が創建した元明天皇勅願寺で、私が最初にこの寺を訪れたのも清和天皇ゆかりの十三まいりが行われているからでした。そんな1300年以上の歴史がある天皇家とも縁が深い古刹でこんなことをやるなんて斬新すぎて、初めて観たときには本当に驚きました。

 

 法輪寺のデジタルカケジクは、以前も今回も夜間拝観料を取ることはなく、二条城のように入場料も必要ありません(二条城は世界遺産で、プロジェクションマッピングの規模も違いましたが……)。参道の階段を上って境内まで足を運べば誰でも見ることができ、しかも温かいお茶の無料サービスまであるという素晴らしいイベントで、これはリピートします。

 

 しばらく本堂と多宝塔を交互に観たあと、お茶を一杯いただき(今回はアップルティーでした)、飲み終わったあと、虚空蔵菩薩もビックリの妖しい電飾で彩られた本堂にお参り。

f:id:hanyu_ya:20200113022525j:plain法輪寺多宝塔

f:id:hanyu_ya:20200113022600j:plain法輪寺本堂

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 この寺で今回見るつもりだったものはすべて見終わったので、京都駅に戻るため、来たときとは違う表参道経由で阪急嵐山駅まで歩き、嵐山線に乗りました。渡月橋付近の人混みを歩くのも、嵐電やバスで座れずに立って帰るのも、バスで渋滞にはまって時間がかかるのも嫌なので、嵐山から京都駅方面に戻るときは、いつもそうしています。それゆえ最寄りの法輪寺が最後になるコース設定にしました。歩き疲れていて時間的に余裕があれば、阪急嵐山駅からバスに乗ることも稀にあるのですが、その場合、終点の京都駅まで寝ることが大前提。そういう時に電車だと乗り過ごすので(笑)。阪急電車は京都駅には行かないので、桂駅で京都線に乗り換えて烏丸駅まで行き、地下鉄で京都駅に向かうのが常なのですが、その日は市バスの一日乗車券を持っていたので、大宮駅で降りて、四条大宮バス停からバスで京都駅まで行き、駅構内のホテルに帰りました。これにて日程終了です。