羽生雅の雑多話

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京都寺社遠征&明智光秀探訪6 番外編~展覧会「若冲誕生~葛藤の向こうがわ~」in福田美術館

 嵐山にある福田美術館では、3月28日から7月26日まで「若冲誕生~葛藤の向こうがわ~」という展覧会が開催され、昨年新たに発見された「蕪に双鶏図」が展示されていました。2019年5月、関西在住の個人が所蔵していたものを、10月にオープン予定だった福田美術館が買い取ったもので、今回が初公開です。発見当時はネットなどでもけっこう話題になり、私もそのニュースを仕事仲間から聞かされて、今や人気が定着して誰もが認めるメジャー絵師の若冲ですが「まだまだ作品が埋もれていて、新しい物が出てくるんだ」と思ったのをおぼえています。三十代の作と想定できる最初期の彩色画ですが、若くても未熟でも、若冲若冲。病的なまでの細かさは、この頃から存分に発揮されていました。鋭い観察眼と巧みな表現力は天性のもので、長年修業したからといって得られるものではないのだと思います。才能というものは、もともとあるものが何かをきっかけに現れたり、熟成されて開花することはあっても、何の種や兆しもないところから生まれたりすることはないのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20210102204542j:plain伊藤若冲「蕪に双鶏図」。雄鶏と蕪の葉の表現が、いかにも若冲

f:id:hanyu_ya:20200807154936j:plain特に鶏冠から首は若冲の真骨頂。しいて言えば、少々真面目過ぎて、かたさが感じられるというところ。けれども、それが若さであり、若さの良さかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20200807155154j:plain伊藤若冲「松に鸚鵡図」

f:id:hanyu_ya:20200807164720j:plain鸚鵡は薄く塗られた胡粉の上から極細の線を重ねて羽毛の柔らかさを表現しています。

f:id:hanyu_ya:20200807164821j:plain白隠慧鶴「楊柳観音図」。白隠禅師の絵、大好きです。円空仏と同じような味わいがあります。計算されたヘタウマさというような。

f:id:hanyu_ya:20200807164902j:plain伊藤若冲「芦葉達磨図」。禅宗の祖である達磨が一本の葦に乗って揚子江を渡ったという逸話が題材で、省略化と誇張表現に白隠や仙厓の影響が感じられる一枚。超細密な鶏図を得意とする若冲ですが、屏風絵などに見られるとぼけた鶏の表情は、細密鶏図にこのあたりの感覚が入り混じった結果、生まれたものなのかもしれません。技巧的な部分はあまり感じられませんが、作品解説によれば、衣の襞の「筋目描き」は、墨の濃さ、水の量をコントロールしなければ描けないものとのこと。ちなみに、賛は狂歌師で幕府御家人の「蜀山人」こと太田南畝。若冲の交友関係が偲ばれ、商人上がりの市政の絵師でありながら、その実力は正当に評価されて、名高い文化人にも一目置かれていたと想像されます。

f:id:hanyu_ya:20200807165123j:plain伊藤若冲「四季花鳥押絵貼図屏風」より。若冲45歳の時の作品。繊細緻密な「蕪に双鶏図」と白隠タッチの「芦葉達磨図」両方のテイストが見られ、この頃には二つの異なる表現方法を同時に取り入れることが可能になったことがわかります。

f:id:hanyu_ya:20200807165226j:plain伊藤若冲「布袋図」

f:id:hanyu_ya:20200807173226j:plain伊藤若冲「髑髏図」。若冲が描いた下絵をもとに彫られた版木で摺られた木版画。先鋭的というか、ホント尖っています。賛の署名は「高遊外」。煎茶道の祖といわれる売茶翁のことです。

 

 その他、曾我蕭白などの作品も展示されていましたが、若冲白隠を観たあとではインパクトが弱く、あまり印象に残りませんでした。それでも十分楽しめました。

京都寺社遠征&明智光秀探訪6 その1~三室戸寺、仁和寺、穴太寺

 今夏は15日からイスタンブール&ウィーンに行く予定でしたが、世界的に感染が止まらない新型コロナウィルスのせいで、とても観光で海外に行けるような状況ではないため、1日から当月予約のキャンセル依頼をホームページで受付しはじめたエクスペディアにエアーの取消を申請し、昨日ようやく先方からの返事がメールで来て、本日直接電話でやりとりをして手続きが完了しました。今年はベートーヴェン生誕250年というアニバーサリーイヤーなので、モーツァルト生誕250年の年だった2006年にウィーンに行ったときから2020年のウィーン再訪は決めていて(モーツァルトよりベートーヴェンのほうが好きなので)、日程がハイシーズンしか組めなかったので、できるかぎり安くと思い、行く気満々で年が明けるとすぐに手配した旅行だっただけに無念です。まあ、ウィーンには何度か行っていて、イスタンブールにも一度行ったことがあるので、今年は縁がなかったと早々にあきらめはつきましたが。コロナは人類に下された天誅のようなものだと思っていますし。悪あがきしたところで、収束しないかぎりどうにもならないし、どうにもできません。帰国して2週間も休めないし。――ということで、残念ながら年中行事である8月の海外旅行はなくなりましたが、7月の4連休は予定どおり京都に行ってきました。

 

 前にも書きましたが、基本的に家にいることが好きで、ダラダラすることも含めて、家ではやりたいことがたくさんあるので、食料の問題がなければ、10日ぐらい平気で引きこもっていられるし、それで生活が成り立つのなら引きこもっていたいタイプです。なので、買い物とか散歩ぐらいの用件でわざわざ外出することはほとんどありませんが、裏を返せば、三つ以上の用件があれば出かけることに躊躇はしません。7月は22日から26日に公開という展示が京都市福知山市であり、かつ宝塚大劇場での花組公演のチケットが手に入ったので遠征してきました。日付が限られている三つの目的があるからには、コロナ禍の最中であろうが、経済活動との両立を政府が認めて推奨し、行き先の施設が開いている以上、体調不良でもないかぎり、予定していた旅行をやめるということはありません。Go To トラベルキャンペーンがあろうがなかろうが。当初は二泊三日の予定だったのですが、タカラヅカのチケットが手配できたのが4連休最後の26日だったので、四泊五日という、近年なかった規模の国内旅行になりました。もう1日休みをとって四泊六日あれば、国内より海外に行く人間なので。

 

 で、4連休ですが、休前日の22日に仕事を終えたあと品川駅へ行き、駅弁の「貝づくし」とタカラ缶チューハイを買って、18時1分発の新幹線に乗車。エクスプレス予約のグリーンポイントがたまっていたので、グリーン車指定席を取りました。20時9分に京都駅に着いて、ホテルにチェックイン後、駅構内の店がまだ開いていたので、この前来たときに目を付けていたオリジナル風呂敷付きの「あじわいぷっちょ しば漬味」を買いに出て、その日は終了。

f:id:hanyu_ya:20200806225750j:plainオリジナル風呂敷に包まれた「あじわいぷっちょ しば漬味」3袋セット。京都に来たときには3袋ぐらいは買って帰るお気に入りの商品で、前回はすでに購入したあとに風呂敷付きを発見したので、次に来たときは風呂敷付きを買おうと決めていました。風呂敷はおまけではないため、その分値段は高いのですが。

 

 翌朝は7時40分過ぎにホテルをチェックアウトし、不要な荷物をホテルのロッカーに預けたあと、53分発の近鉄線に乗車。丹波橋駅京阪電車に乗り換え、さらに中書島駅で京阪宇治線に乗り換えて三室戸駅まで行き、駅から歩いて15分ほどのところにある西国三十三所第10番の札所、三室戸寺へと向かいました。

 

 平安貴族スキーであり、かつ源氏物語スキーなので、宇治十帖の舞台であり、藤原頼通建立の平等院がある宇治はひととおり巡っているので、もちろん浮舟の古蹟である三室戸寺にも行ったことはあるのですが、ずいぶん昔のことで、まだ御朱印集めもしていなかったので、1300年の特別印がいただけるうちに再訪しようと思っていました。今回は御開帳期間ではないため御本尊の千手観音にまみえることはできないのですが、三室戸寺は紫陽花と蓮が有名で、ちょうど蓮が見頃ではないかと思ったので、訪れることにしました。で、蓮を見るなら午前中がいいだろうと思い、朝イチで行けるように前夜に京都入りした次第です。

f:id:hanyu_ya:20200806230622j:plain三室戸寺山門

f:id:hanyu_ya:20200806230216j:plain本堂前の蓮その1

f:id:hanyu_ya:20200806230717j:plain本堂前の蓮その2

f:id:hanyu_ya:20200806230810j:plain本堂と蓮。境内にも周辺ロケーションにも現代的な物がない古刹ならではの風景です。

f:id:hanyu_ya:20200806230854j:plain本堂と白い蓮

f:id:hanyu_ya:20200806230958j:plain鐘楼と蓮

f:id:hanyu_ya:20200807015241j:plain三重塔と蓮。蓮の美しさは蓮園などでも変わらないかもしれませんが、遠景だと如実に差が出ます。蓮園ではここまで美しくない余計な物を排除できないので。

 

 三室戸寺が浮舟の古蹟であることは知っていましたが、名所旧跡ならば絶対に訪れているだろうと、ふとある人の存在を思い出し、以前来たときには気にもしていなかったので確認しませんでしたが、きっと例の物もあるのではないかと思い、改めて境内を探したら、やはりありました! さすが芭蕉翁です。

f:id:hanyu_ya:20200806231448j:plain松尾芭蕉の句碑

f:id:hanyu_ya:20200806231637j:plain句は「山吹や 宇治の 焙爐の匂ふとき」とのこと。

f:id:hanyu_ya:20200806231926j:plain浮舟の古蹟の石碑

f:id:hanyu_ya:20200806232129j:plain浮舟の古蹟についての解説板

 

 雨が降りはじめて、蓮を撮影するのも困難になってきたので、列に並んで御朱印をいただくと寺を後にし、三室戸駅に戻って10時前の京阪電車に乗車。中書島駅で本線に乗り換えて三条駅まで行き、三条京阪前バス停から市バスに乗り、御室仁和寺バス停で降りて、仁和寺へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20200806232623j:plain観音様の御朱印と一緒にいただいた、数量限定の浮舟の特別御朱印

 

 仁和寺は昨年観音堂の特別公開があったので、ちょうど一年ほど前に訪れていましたが、開基宇多天皇の父親である光孝天皇崩御1133年を記念して7月22日から8月30日まで開催される霊宝館の夏季特別展で、私の大好きな国宝薬師如来坐像が初公開され、しかもそちらに限っては21日から26日までの期間限定公開だというので、躊躇なく行くことにしました。この貴重な機会をコロナのせいで逃すということは、個人的にはあり得ないと思っているので……。また、これも以前に書きましたが、仁和寺薬師如来坐像は、神護寺薬師如来立像と同じぐらい好きな仏像で、その他、醍醐寺不動明王坐像、泉涌寺楊貴妃観音像、高野山霊宝館深沙大将立像、興福寺の阿修羅像は、何度でも観たい仏像なので、見る機会があれば迷わず、極力万難を排して見に行きます。国宝薬師如来坐像仁和寺の秋季特別展でも期間限定で公開される予定ですが、コロナ禍の状況が悪化して、休業閉館などの可能性もありえるので、確実に開いているときに行っておくべきだと判断しました。

 

 仁和寺に到着すると11時半ぐらいだったので、霊宝館のチケットと薬師如来の限定御朱印を購入すると、混む前に思い、宿坊の御室会館にある和食処「梵」へ行き、昼食を摂ることにしました。感染対策のせいもあり、空いている店内でゆば丼を食べてから霊宝館へ行くと、館内の人数を限定するため入場制限があり、しばし外で待たされることに。

f:id:hanyu_ya:20200806232903j:plain名宝展の期間中のみ授与される特別御朱印観音堂の特別公開の時にも5枚購入したのでキリがないと思いましたが、お気に入りの仏像の御影入りなので買わずにはいられませんでした。ただし、今回も7種類ほどあったのですが、買ったのはこの1枚だけです。「寛平法皇」の御朱印は後ろ髪を引かれましたが、神でも仏でもない宇多天皇御朱印は、いただいてもただの拝観記念にしかならない気がしたので、思いとどまりました。

f:id:hanyu_ya:20200806233022j:plain和食処「梵」のゆば丼。一番人気らしいです。

 

 5分ほど並んで順番となり、手指の消毒後、検温機の前に立ち、機械音声で「平熱です」と言われてから入館を許可されると、他の展示品にはあまり興味がなかったので、さっそくガラスケースの中に鎮座する小さなお薬師様と御対面。図録などの写真ではわかりませんでしたが、実物は褐色の白檀に加飾された截金がきれいに残っていて、その繊細さに驚きました。

 

 昔、仕事でかかわっていた中国の仏師に薬師如来の木彫像を依頼することがあったのですが、その時に見本となる仏像を求めて、国宝や重文の薬師如来像の写真をとにかく見漁ったことがありました。数ある中から仁和寺のこの像をモデルに決めて、立体作品なので前面だけがわかっても彫れないので、側面や背面、細部についてもわかるようにいくつもの写真資料を探してイメージを伝え、その結果たくさんの写真を見ることになりましたが、やはり実物は違い、思っていた以上に素晴らしい作品でした。百聞は一見に如かずではありませんが、まさにそんな気分。もともと台座下から光背上までの高さが24センチという小像で、方形台座の四方に3人ずつ十二神将の彫刻が施されているという、限られたスペースに細かい彫刻がこれでもかと施された緻密な木彫像なのですが、加飾の緻密さも際立っていました。截金が浮き彫りの十二神将の部分だけでなく、背景にも壁紙の模様のように施されているのですから。平安時代の仏像でこれほど精緻な像は他に記憶がありません。

 

 拝観はもちろんマスク着用が必須だったのですが、もともと仏像と接するときには、吐く息がかからないように普段からマスクのようなものを身につけるらしく、その時に使用する和紙製のマスクが霊宝館の入口とガラスケースの前に置かれていて、一人一枚持ち帰ることができたので、頂戴してきました。薬師如来梵字朱印が押されていて、御利益がありそうだったので。疫病退散は疫神とされる午頭天王と同一化されているソサノヲに祈念しますが、病気平癒は薬師如来の領分です。コロナに感染しても重症化しないように祈念してきました。

f:id:hanyu_ya:20200806233814j:plain和紙製マスク

f:id:hanyu_ya:20200806233707j:plain内側に薬師如来梵字であるベイの御朱印仁和寺の寺印が押されています。

 

 薬師如来坐像を堪能したあと、定印を結ぶ現存最古の阿弥陀像といわれる仁和寺の御本尊を拝んで霊宝館を出ると、御殿は一年前に見たときと基本的に同じ内容なので今回はパスし、仁和寺を後にして御室仁和寺駅へと向かいました。次の目的地は亀岡の穴太寺だったので、嵐電北野線で撮影所前駅まで行き、太秦駅まで歩いて、そこからJRの嵯峨野線亀岡駅に行こうと思っていたのですが、まだ1時前で、亀岡には3時半に着けば穴太寺行きの最終バスに間に合うので、電車に乗っているあいだに周辺情報をスマホで調べると、福田美術館で伊藤若冲の展覧会をやっていて、昨年新発見されて話題となった「蕪に双鶏図」が初公開されていることがわかったので、急きょ行き先を嵐山に変更しました。

 

 この旅行で一番密を感じた嵐山駅前界隈を脇目もふらずに足早に通り抜けて、1時過ぎに福田美術館に到着すると、チケット売り場で、まずは検温&連絡先の記入。問題がなければ当日券が買えるというシステムでしたが、けっこう混んでいました。展示作品は、なんといっても若冲の「蕪に双鶏図」が圧巻でしたが、私の好きな白隠禅師の「楊柳観音図」も見られたので、今回も大満足。福田美術館を訪れたのはたまたまでしたが、なんて運が良いのかと嬉しく思いました。寄り道の時間ができたのも、スマホ検索で福田美術館がヒットしたのも本当に偶然だったので。しかも企画展は本来6月21日までだったのですが、会期中にコロナ禍による休業があったため、7月26日まで延期され、それゆえに見ることが叶いました。そんなことはどんなに望んでも自力ではどうにもできないことなので、これぞ神仏の加護だと思いました。別に御加護が目的で寺社巡りをしているわけではありませんが、数が数なので、いずれの神か仏かが、ねぎらいの意味で幸運をもたらしてくれたのでしょう。福田美術館は撮影可の太っ腹な美術館なので、展示作品については別記事でアップします。

 

 展示ギャラリーは二部屋なので、二巡して40分ほどで福田美術館を出ると、JRの最寄り駅である嵯峨嵐山駅まで歩いて、嵯峨野線で亀岡へ。14時10分に亀岡駅に到着し、ホームページでは感染拡大防止のため21日から再び見学中止となっている亀山城址について、念のため駅構内の観光案内所で確認しましたが、やはり情報どおりなので、今回も亀山城はあきらめて、当初の予定どおり特別拝観が行われている穴太寺へ行くことにしました。穴太寺前バス停行きは1時間に1本でしたが、乗るつもりだった最終バスの1本前に乗ることができ、予定より1時間早い3時前に到着。

 

 西国三十三所の第21番札所である穴太寺は、天台宗の寺院で、慶雲2年(705)に文武天皇の勅願により創建。御本尊は薬師如来ですが、平安時代に地元の郡司によって聖観音菩薩が迎えられ、「身代わり観音」として信仰されています。何故「身代わり観音」かというと、いただいたリーフレットに書かれていた『穴太寺観音縁起』によれば、郡司の宇治宮成は貪欲で、信心の篤い妻の勧めで聖観音像の造立を仏師に依頼したのですが、その仏師に礼として与えた愛馬が惜しくなり、それを取り返すため仏師を射殺して家に帰ると、自分が放った矢が刺さった状態で血を流している観世音菩薩が迎えたという逸話があるそうで、仏師の身代わりになり、なおかつ同時に宮成が罪人となることも防いだという慈悲深い観音ということで信仰を集めたようです。そして、この観音様が弓矢の傷が痛むので、穴太寺薬師如来に癒してもらいたいと願ったため、当寺にお堂を建てて穴太観音として奉安された――とのことです。

 

 その他、穴太寺には昔話の『安寿と厨子王』で知られる厨子王丸の肌守という貴重な仏像もあります。姉の安寿が弟の厨子王丸を山椒大夫のもとから都へ逃がしたときに道中匿った寺の一つが穴太寺だったため、のちに奉納されたという言い伝えがあるそうです。普段は非公開ですが、西国三十三所草創1300年記念の特別拝観で7月1日から31日まで本堂と庭園が公開されていたので、そちらも見ることができました。御本尊である薬師如来は過去に御開帳の記録がないという秘仏中の秘仏であるため見られませんでしたが、その厨子の前に安置されていました。しかし、肌に身につける肌守という性質上、たいへん小さな仏像なので、よくわからなかったというのが正直な感想。単眼鏡を持ってくるべきだったと思いました。

f:id:hanyu_ya:20200806234313j:plain穴太寺山門

f:id:hanyu_ya:20200806234405j:plain穴太寺についての説明板

f:id:hanyu_ya:20200806234558j:plain延宝5年(1677)建立の円応院(本坊)の玄関にある衝立。あちこちに桔梗が美しく活けられていました。

f:id:hanyu_ya:20200806234640j:plain円応院玄関奥の座敷

f:id:hanyu_ya:20200807131216j:plain座敷と玄関を仕切る襖。襖絵は穴太寺の境内図です。見学の都合上、襖は開いていたのですが、こだわって写真を撮っていたら、玄関に設けられた特別拝観受付のスタッフが来て、襖を閉めて全容を見せてくれました。

f:id:hanyu_ya:20200806234835j:plain座敷棚の隣の襖絵

f:id:hanyu_ya:20200806234939j:plain座敷棚に飾られていた一輪挿しの桔梗

f:id:hanyu_ya:20200806235213j:plain庭園に面した主座敷

f:id:hanyu_ya:20200806235408j:plain付書院から見る庭園

f:id:hanyu_ya:20200807022138j:plain付書院に飾られていた一輪挿しの桔梗

 

 お参り後に御朱印をいただき、円応院と本堂の特別拝観を終えると、3時40分過ぎだったので、最後に境内でも美しく咲いていた桔梗の写真を撮って、52分発のバスに乗るためにバス停へと向かいました。これを逃すと次は1時間後の最終バスで、近くに時間をつぶせるような店もないので、エラいことになります。

 

 4時過ぎに亀岡駅に戻ってくると、予定より1時間ほど早くこの日の旅程を終えて時間に余裕があったので、サンガスタジアムのフードコートに行って、前回買った「もり」の漬物セットを購入。ついでに大河ドラマ館の下にある物産館にも寄り、丹波黒豆の甘納豆や丹波栗のジャムなどを買い込みました。四泊五日の今回はスキーの時に使うキャリーケースで来ていたので。

 

 買い物後、亀岡駅に戻って4時半過ぎの電車で京都駅に戻り、ホテルでキャリーケースを引き取って、宿泊者サービスのコーヒーを飲みながら荷物整理をして買い込んだ土産をしまうと、再び嵯峨野線のホームへ。途中の売店で駅弁とタカラ缶チューハイを調達し、17時28分発の特急きのさきに乗って、福知山へと向かいました。この特急は日中に行った嵯峨嵐山駅亀岡駅にも停まるのですが、キャリーケースを持って寺から寺へ移動するのは億劫でとてもできなかったので、嵯峨野線で亀岡に行き、嵯峨野線で京都に戻り、また嵯峨野線で亀岡を通るという、行ったり来たりになりました。まあ仕方がありません。18時52分に福知山駅に到着し、駅近くのホテルにチェックインして、この日は終了です。

群馬寺社遠征&明智光秀探訪5 その2~特別展「沼田藩土岐氏と明智光秀」in沼田市歴史資料館

 副題が「明智光秀土岐定政が従兄弟!?」という、これぞキャッチコピーの見本というような、たいそう好奇心が煽られた沼田市歴史資料館の特別展「沼田藩土岐氏明智光秀」。ステイホームで明智家の系図を作成しているときに偶然、3月末までの会期が6月末まで延長されていることを知ったので、天啓と思い、行ってきました。常設展示室内特別展コーナーというほんの一角だったので、最初は「えー、これだけ?」と思いましたが、数少ないながらも展示品は明智光秀の史料としては第一級の素晴らしいものだったので、すぐにここまで足を運んだ甲斐があったと嬉しく思えました。

f:id:hanyu_ya:20200720195410j:plain展示室に貼られていた特別展の副題についての解説

f:id:hanyu_ya:20200720195511j:plain常設展示室内の一角に設けられた特別展コーナー

f:id:hanyu_ya:20200720195549j:plainコーナーの左の壁に貼ってあった特別展の新聞紹介記事

 

 明智光秀のイトコ、ないしはハトコと目される土岐定政は、沼田藩主として明治維新まで沼田を治めた土岐家の祖で、初めは菅沼藤蔵といいました。菅沼家は今川家の家臣でしたが、寡婦となっていた藤蔵の母の再嫁先である奥平家が今川家から離反したため、縁戚である菅沼家もそれに呼応し、藤蔵は同じく今川家の支配から逃がれた徳川家康に招聘されて仕えることになりました。そして姉川の戦いなど徳川家が参戦した戦で武功を立てて大名となり、父明智定明が殺されて以降絶えていた家を再興し明智姓を名乗り、のちには当主頼芸が美濃から追放されたあと没落していた土岐宗家の跡を継ぐように家康から命じられて土岐定政となり、沼田藩主土岐家の礎を築きました。

 

 見どころはいくつもありましたが、今回の展示品で一番ドキドキしながら対面したのは「土岐頼尚譲状」です。明智家の系図を作る上で何度も活字化された文面を見返し、この文面から読み取れる事実をあれやこれやと推測した資料の直筆の現物が目の前にあるのだから、食い入るように見ました。

f:id:hanyu_ya:20200720112503j:plain土岐頼尚譲状

f:id:hanyu_ya:20200720112553j:plain土岐頼尚譲状の現代語訳

f:id:hanyu_ya:20200720001051j:plain土岐明智氏系図。『群書類従』所収の「明智系図」を基に作成された、きわめて一般的に知られているもの。

 

 パネル展示されていた系図にもあるとおり、頼尚は光秀の曽祖父にあたるとされる人物で、彼の次の代から光秀の血筋である頼典流と定政の血筋である頼明流に分かれ、定政が徳川家に仕えて戦国の世を生き残ったことで結果的に頼明流が土岐明智家、ひいては土岐氏嫡流である土岐宗家となります。ただし系図を見ればわかるように、江戸時代より前においては、光秀が属する頼典流の通字は「光」で、定政が属する頼明流の通字は「定」。つまりどちらも土岐宗家の通字である「頼」ではありません。のちに定政の血筋は土岐氏明智家ではなく宗家となるので「頼」を継いでいくようになりますが。

 

 戦国期に頼明流が「定」を名乗ることになった理由はほぼ明らかで、定政の父である定明が菅沼“定”広の娘を娶って、おそらく定広の婿養子となり、さらに父を叔父に殺された定政が母方の叔父である菅沼“定”仙に身を寄せて、彼の養嗣子になったからです。よって当時頼明流は頼尚の嫡流ではあるが明智氏ではなく、あくまで菅沼氏であり、ならば土岐明智氏嫡流にはなり得ないということになります。というよりも、頼明(頼尚の譲状に出てくる「実子彦九郎」のこと)は単に頼尚が安堵されていた領地を譲られたというだけで、明智城城主の地位は頼典が継ぎ、系譜上頼典の子とされる光安(光秀の父光綱の弟で、光秀の叔父)がその後を継いだのではないでしょうか。たぶん定明は、継ぐ家がなかったから、菅沼家の婿養子となったのでしょう。そして、舅定広の「定」を受け継ぎつつ、実父頼明からは「明」をもらって「定明」と名乗ったのだと思います。

 

 一方の頼典流は、譲状にあるとおり、嫡子頼典は頼尚からは絶縁されますが、紛れもなく明智氏であり、しかし諱には「頼」に代わって「光」が入るようになります。頼典のことも別名を“光”継とする系図があります。これは、定政が菅沼定仙の養嗣子だったがゆえに「定」を継いだように、何らかの理由で「光」を継ぐようになったからで、したがって光継の別名を持つ頼典は、まさにそういう位置付けの存在だったのだと思います。定政の例のように、他氏、他家、他流の養子になったとか、他氏、他家、他流から養子を迎えたとか等々の理由があったはずです。であるならば、おそらくそこに、本能寺の展示解説で光秀の曽祖父とされていた明智玄宣がからんでくるのではないかと思っています。

 

 その他、『土岐定政伝』や『定政伝記』などの土岐家文書の展示があり、それらによると、天正10年(1982)5月に安土城で光秀が徳川家康の饗応役を務めた際に、随臣として家康に従っていたと思われる定政に光秀から贈り物があったことがわかります。文書には、光秀が「自分は土岐一族で定政の従兄弟である」と言って定政に通好みの品を贈ったとあり、今回展示されていた「血吸銘の槍」の他、備前兼光作の剣、土岐氏の烏絲綴織の甲冑、佐々木高綱の馬の轡などを贈っています。これらの品々のことは沼田藩土岐家の家伝秘蔵品目録に記載されているのですが、それによると甲冑も轡も土岐氏伝来の宝であり、したがって土岐一族でなければ真の価値がわからないものなので、わざわざ「通好み」といった表現が使われたのではないでしょうか。

f:id:hanyu_ya:20200720002352j:plain土岐定政伝』に見られる光秀に関する記述

f:id:hanyu_ya:20200720001924j:plain『定政伝記』に見られる光秀に関する記述

f:id:hanyu_ya:20200720002444j:plain明智光秀土岐定政(当時は明智定政)に贈ったという「血吸」という銘の槍

 

 図録が売ってなかったので写真を撮りまくりましたが、それでも物足りなかったので、何か持ち帰ることができる資料がないかスタッフの人に訊くと、記念講演会のレジュメのコピーなら渡せるというので、有料でコピーを取ってもらうことにしました。必要な部分とカラーかモノクロか指示してくれというので、原本を借りて見たところ、とても抜粋できなかったので、全部カラーコピーしてもらうことにしました。「千円以上になるけどいいか」と訊かれましたが、図録を買ったと思えばよい金額なので、お願いしました。

 

 コピーしてもらった資料によると、今回展示されたのは昭和54年に土岐家から沼田市に寄贈された土岐家資料の一部と個人蔵のものだそうです。土岐家からの寄贈品は700以上にも及ぶそうで、先に言及した家伝秘蔵品目録もその一つですが、そこには明智光秀から譲られた佐々木高綱の轡について「土岐家代々嫡長伝来の品」という注記があるとのこと。つまりその意味は、単に土岐家伝来の品ではなく、嫡子長子に伝えられた品であるということです。ということは、光秀の生前はやはり光秀が頼典(光継)→光安と続いた土岐明智家の当主であり、それゆえ「土岐家代々嫡長伝来の品」を所持していたのかもしれません。あるいは、そうではなく、単に、土岐宗家の土岐頼芸が美濃を追放されたのち、または明智城の落城後に散逸したものを、出世した光秀が買い戻しただけかもしれませんが。

 

 安土城での饗応のとき、定政は家康の陪臣ではありましたが、武田攻めでの功により、武田家旧領の甲斐国巨摩郡に一万石を与えられて大名となり、これを機に、菅沼姓から明智姓に改名しました。『定政伝記』には「光秀、其の家声墜とさず嘉しめ贈遺する」という一文があります。つまり光秀は、新たに大名家となり、自分と同じ明智姓を名乗ることになった定政の家を土岐明智家の別家と認めて祝し(どちらが嫡流筋かはともかくとして)、清和源氏の名門として聞こえが高い土岐明智家にふさわしいものを贈った――ということなのかもしれません。いずれにしろ気になるのは、この「贈遺」が本能寺の変の約1か月前に行われたことです。もし光秀がその時点ですでに謀反を計画していたのなら、土岐家ゆかりの宝物が失われないように定政に託したとも想像され、であるならば、光秀は自分の身や家が滅びる可能性があることを想定していたと考えられます。

f:id:hanyu_ya:20200720113352j:plain土岐家文書の成り立ちがわかる年表

f:id:hanyu_ya:20200720113443j:plain土岐家文書の成り立ちがわかる地図

 

 以上のような考察が頭の中を駆け巡るくらい触発された有意義な展示だったので、本当に行ってよかったです。明智光秀土岐定政はイトコなのかハトコなのか、頼尚と玄宣という二人の曽祖父とされる人物は光秀とどう繋がるのか、「光」の通字はどこから来ているのか……このあたりが見えてくれば明智光秀の謎はかなり明らかになると思うので(それが正しいと証明されることはまずないと思いますが……)、引き続き謎解きに励みたいと思います。

群馬寺社遠征&明智光秀探訪5 その1~旧土岐家住宅洋館、沼田市歴史資料館、正覚寺、沼田城、榛名神社

 6月最後の土曜は沼田に行ってきました。6月末まで沼田市歴史資料館で「沼田藩土岐氏明智光秀」という特別展が開催されていて、副題が「明智光秀土岐定政が従兄弟!?」とあり、大いに気になって、とても無視できなかったので。直前まで日帰りで行くか泊りで行くか悩んだのですが、改めて沼田について調べると、「天空の城下町 真田の里」とアピールしていて、土岐氏よりも真田氏が街の推しで、土岐氏に関する見どころがあまりなかったので、日帰りにすることにしました。沼田の城主は真田氏が五代91年、土岐氏が十二代127年で明治維新を迎えるので、土岐氏の治世のほうが長いのですが、「日の本一の兵」である真田信繁ゆかりの地であることのほうが誇らしいことなのでしょう。上野国式内社は手付かずなので神社巡りをしようかとも思ったのですが、それには二泊三日ぐらい必要だったので、またの機会にしました。

 

 大宮発9時26分の特急草津に乗るつもりでしたが、残念ながら起きれず。なんとなく乗りそびれそうな予感はしていたので、特急券は自由席を買っていたのですが、10時45分発の湘南新宿ライン特別快速を利用するより早く着く特急電車がなかったので、特急券を使うのはあきらめて、特別快速に乗車。当初は11時11分沼田着の予定でしたが、1時間半ほど遅れて、12時49分の到着となりました。

 

 電車に乗る前に、昼食の時間が短縮できれば正味は一緒だろうと思ったので、グリーン券を買って車内で食事をすることにしました。ということで、大宮駅で駅弁を調達しようとしたのですが、驚くほど品薄だったので駅構内のエキュートに行ってみたら、仕事でよく行く曙橋にある馴染みのベーカリー「小麦と酵母 満」がスポットで出店していたので、そちらの総菜パンを購入しました。

 

 グリーン車に乗って道中食事は済ませたので、沼田駅到着後すぐに駅前のバス停へ。例によって少ない本数でしたが、運よく13時発のバスがあったので乗り、上之町バス停で下車、旧土岐家住宅洋館へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20200801224952j:plain旧土岐家住宅洋館の外観。大正13年に建てられたもので、登録有形文化財だそうです。

f:id:hanyu_ya:20200801215929j:plain旧土岐家住宅洋館についての説明

f:id:hanyu_ya:20200801220014j:plain玄関に飾ってあった額。題材は、竹林の七賢に見立てられた明治の7賢人。

f:id:hanyu_ya:20200801220126j:plain明治の7賢人についての説明

 

 旧土岐家住宅洋館は、維新後に沼田を離れて東京に転居した旧沼田藩主の土岐子爵家が大正時代に渋谷に建てたドイツ風の洋館で、のちに土岐家より沼田市に寄贈され、沼田公園内に移築されていましたが、今年3月に上之町に再移築されたとのことです。特に何があるわけでもありませんが、数少ない土岐家ゆかりの建物なので見に行ってきました。受付で検温があり、連絡先も書かされましたが、中に入ると一人も見あたらず。足元にソーシャルディスタンスのガイドがありましたが、密になりようがありません(笑)。6月いっぱい無料で公開とのことでしたが、再び観光業の厳しさを目のあたりにしたように思いました。すぐ隣にあったので旧沼田貯蓄銀行も見学しましたが、やはり見学者は皆無。こちらは受付の人もいなくて、アルコール消毒液が置かれているだけでした。

f:id:hanyu_ya:20200801220247j:plain旧土岐家住宅洋館の1階洋室

f:id:hanyu_ya:20200801220406j:plain旧土岐家住宅洋館の2階和室

f:id:hanyu_ya:20200801220508j:plain旧沼田貯蓄銀行の外観

f:id:hanyu_ya:20200801220616j:plain旧沼田貯蓄銀行についての説明

 

 思っていたよりも早く見学が終わってしまい、上之町バス停から乗るつもりだったバスの時間まで10分以上あったので、歩いて次の目的地である沼田市歴史資料館へと向かいました。資料館は国道120号沿いをバス停二つほど歩いたところにあるテラス沼田の2階にあります。

 

 到着すると、検温と連絡先の記入を済ませてから220円の観覧料を支払い、見学。展示内容については長くなるので、別記事でアップしたいと思います。

 

 続いて、テラス沼田から徒歩5分ほどのところにある正覚寺へ行き、小松姫の墓にお参り。小松姫は、徳川四天王の一人、本多忠勝の娘で、徳川家康(あるいは秀忠)の養女として真田信之正室となった女性です。関ヶ原の戦いにおいて、夫である信之が東軍、信之の父である昌幸と弟の信繁が西軍について袂を分かったとき、上田城に戻る際に沼田城に立ち寄った舅と義弟に敵であることから門を開けることを拒否し、防備を固めて城を守った女丈夫として知られています。

f:id:hanyu_ya:20200801220719j:plain大蓮院殿こと小松姫の墓

f:id:hanyu_ya:20200801221031j:plain墓のそばにある説明板。小松姫が亡くなった地である鴻巣と、真田家の領地である沼田と上田の3か所に分骨されて墓があるそうです。

 

 真田といえば真田幸村こと信繁ですが、私は小松姫を通してこの家に興味を持ちました。昔読み漁っていた森雅裕さんの著作で『化粧槍とんぼ切り』という作品があるのですが、この本で小松姫の存在を知り、たいそうおもしろかったので、真田家周辺の歴史を調べたことがありました。そんなこんなで、ある程度知識があったので、NHK大河ドラマ真田丸」も楽しく見ていました。それゆえ今回明智光秀探訪のついでに小松姫の墓に遭遇し、詣でられたことは、なんとも感慨深かったです。

 

 余談ですが、真田信繁伊達政宗、そして立花宗茂は同い年で、いずれも1567年生まれで、花の永禄10年組といってよいと思います。なにしろ「日の本一の兵」と「独眼竜」と「西国一の武将」ですから。大坂夏の陣大坂城が落城する前、真田信繁は敵将である伊達政宗に、伊達隊の先鋒として真田軍と対峙した片倉重綱を通じて城内にいる子女の助命を乞い、信繁の希望を聞き入れた政宗は、重綱に城を脱出してきた子女の面倒を見させ、三女の梅は重綱の正室が亡くなると継室に迎えられ、次男の大八は片倉姓を名乗り、伊達家に召し抱えられて仙台藩士となりました。花の永禄10年組の器の大きさが窺えるエピソードです。信繁と政宗は敵同士ではありましたが、互いに相手のことを信頼に足る武将と認めていたのだと思います。ちなみに、宗茂を「西国一の武将」と称えたのは豊臣秀吉ですが、「東国一の武将」は本多忠勝――つまり、小松姫は父親似の娘だったのでしょう。

 

 正覚寺の次は沼田城の跡地である沼田公園へと向かいました。沼田の観光案内所は沼田駅にはなく、この沼田公園の入口近くにあり、ここで沼田城の御城印も売っているのですが、事前に調べたところ、時短営業で4時までだったので、少々急ぎました。

f:id:hanyu_ya:20200719202917j:plain沼田城御城印。驚くほどたくさんの種類がありましたが、きれいだったので、6月限定の紫陽花柄(右)を選択。群馬ディスティネーションキャンペーン期間中だったので、DCオリジナルの御城印(左)もいただけました。

 

 園内ではいまだに発掘調査が続けられていて、いろいろなものが見つかっているようですが、城址としては石垣や石段ぐらいしか残っていない上に、見頃の花もなかったので、早々に公園を後にし、まだ時間的に余裕があったので、榛名神社まで足を延ばしてみることにしました。

f:id:hanyu_ya:20200807170007j:plain観光案内所近くにあった「戦国無双」シリーズの真田信繁のパネル

f:id:hanyu_ya:20200807170104j:plain真田家ゆかりの鐘楼をバックにした「戦国無双」シリーズの真田信之小松姫のパネル

 

 沼田城河岸段丘の先端部に築かれ、その城を中心に発展した城下町が沼田という街の基本になっているので、河岸段丘の下に位置し、段丘と利根川に挟まれた狭い平地に線路が敷かれて建てられた駅の周辺には主だった建物はほとんどなく、昔からの寺社仏閣も現代の施設である市役所やホテルも河岸段丘の上にあります。そんな中にあって、榛名神社は段丘の下にあり、駅から市街地に行くときは勾配がきついため歩きではしんどいのですが、下りは負担が少ないので、歩くことにしました。公共の交通機関もなかったので。

 

 沼田の榛名神社の祭神は、参拝のしおりによれば、埴山姫命、倭健命、菅原道真命、建御名方命鎌倉時代に沼田郷の総鎮守として高崎の榛名神社を勧請し、倭健命はその昔から沼田公園内に祀られていたそうで、城を建てるにあたって、武尊大明神、榛名大権現、天満天神の三柱を現社地に社殿を建立して合わせ祀り、真田信之による改築を経て、今に至っているそうです。

f:id:hanyu_ya:20200801221828j:plain榛名神社の由緒書き

f:id:hanyu_ya:20200801221928j:plain榛名神社本殿。榛名大神を中心に、武尊大神、天神大神が祀られています。

 

 本社である高崎の榛名神社榛名山御神体とし、榛名山は火山なので埴山姫命と共に火の神である火産霊神も一緒に祀られているのですが、沼田には火産霊神が祀られていませんでした。しかも、本殿は南向きなので、本殿を拝んでも榛名山を拝むことにはならず、反対に背を向けることになります。――ということは、沼田の榛名神社は、榛名の神の社というより、時に噴火という形で暴走し、近隣の民たちに祟る榛名の神を監視し封じ込める神々を祀る社だったのだと思います。それゆえ榛名の神である埴山姫命が本殿とは別に「面々美様」という形で祀られているのではないでしょうか。

f:id:hanyu_ya:20200719203756j:plain本殿の奥にある面々美様。直接目の前で拝めますが、本殿を参拝すれば、おのずと拝むことになる位置にあります。

f:id:hanyu_ya:20200719203901j:plain面々美様についての説明

 

 5~6世紀にたびたび噴火して人々に祟った荒ぶる榛名の神を監視するという役目を与えられたのが、倭健命であり建御名方命なのだと思います。どちらも祟り神――すなわち怨霊で、榛名の神と同じく荒ぶる神であり、強き力を持つ武神ですから。のちに強力な雷神となった菅原道真も加えられて、より榛名の神に対する封じ込めが強化され、三柱の祭祀が一緒に行われるようになったのだと思います。

 

 そもそも怨霊とは何かというと、現世に恨みを残して死んだと思われている人々の霊で、現世に祟らないようにと現世の人々が願い、神として祀ることで初めて神となります。道真が讒言によって失脚させられて配流になり流刑地太宰府で死んだことはよく知られるところですが、日本武尊(倭健)は西へ東へ戦に駆り出されて疲れ果てて若死にし、タケミナカタ(建御名方)も国譲りの戦でタケミカヅチに敗れて出雲を追放になったあと諏訪の地に閉じ込められて生涯出られませんでした。彼らをそんな酷い目に遭わせた人々は、良心の呵責に耐えかねて、あるいは政治的な思惑から彼らを神格化し、見て見ぬふりをしていたことで同様に罪悪感を抱く人々に彼らを神として崇め祀るようにさせたのです。怨霊とは残された者たちが作るものです。怨霊とされた当人たちにこの世に害を成すつもりは毛ほどもなかったと思います――みずから「日本国の大魔縁」となることを宣言した崇徳上皇を除いては(笑)。

 

 茅野輪くぐりをしてお参りをしたあと、社務所御朱印をいただき、歩いて沼田駅まで戻りました。駅前の土産物屋を覗くと、生ブルーベリーなど気になる物がいくつかあったので購入。予定より1本早い17時4分発の上越線に乗り、6時10分前に高崎駅に到着すると、帰りは車内で飲むつもりで新幹線の自由席特急券を買ってあったので、タカラ缶チューハイをゲットし、18時発のあさまに乗車。これにて日程終了です。

f:id:hanyu_ya:20200719204556j:plainタカラ缶チューハイと、つまみにいいだろうと思い、沼田駅前の土産物屋で買った群馬限定「上州牛ポテトスティック」。そこそこ高かったですが、旨かったです。

京都・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪4 その3~谷性寺、篠葉神社、稗田野神社、「麒麟がくる」京都大河ドラマ館

 6月の光秀探訪の最終日――14日の日曜は、光秀の命日なので、首塚がある谷性寺と京都大河ドラマ館がある亀岡を訪れました。

 

 9時過ぎにホテルをチェックアウトして京都駅に行き、亀岡駅で帰りの新幹線の特急券が発券できれば改札を出なくて済むように、中央改札口を入った右手にあるコインロッカーに荷物を預けて、嵯峨野線に乗車。10時前に亀岡駅に到着し、まずは駅構内にある観光案内所に行って「光秀公のまち亀岡一日乗車券」を購入しました。谷性寺最寄りの猪倉バス停までは駅から25分ほどかかり、帰りに国道佐伯バス停で途中下車して式内社の稗田野神社にも寄ると、一日乗車券を買ったほうが安上がりだったので。ついでにバスの時刻を確認すると、あてにしていた臨時便の桔梗シャトルはコロナの影響で運行中止になっていて通常の路線バスだけとのことだったので、なんとかバスを使って効率よく2か所をまわる方法がないかと訊くと、国道佐伯バス停から三つめの運動公園ターミナルバス停まで歩いて別の路線バスで駅に戻ってくるという、旅人ではとても考えつかない方法を教えてくれました。若い頃は時間が惜しかったので観光案内所に寄ることなどなかったのですが、神社巡りを始めてからは駅にあれば必ず寄ることにしています。現地情報は侮れないので。

 

 予定どおり10時22分発園部駅行きのバスに乗って猪倉バス停まで行き、そこから5分ほど歩くと谷性寺に到着。ちょうど11時ぐらいでした。

バス停から谷性寺に続く道に咲いていた紫陽花

谷性寺門前。やはり桔梗紋の幟が立っていました。

 

 谷性寺は不動明王を御本尊とする真言宗大覚寺派の寺。丹波を平定し、亀岡に亀山城を築いた光秀は、谷性寺の御本尊を崇敬したそうです。そのため、山崎の合戦後、従者によって墓碑が建立されたとのこと。思えば、廬山寺にあった光秀の御護仏は地蔵菩薩でしたが、その脇侍が不動明王毘沙門天でした。そして大覚寺派といえば、今は慈眼寺にあるくろみつ像(黒く塗りつぶされた明智光秀坐像)がもともと祀られていた、光秀建立と伝わる周山の廃寺――密厳寺も大覚寺派です。大本山大覚寺には亀山城からの移築と伝わる明智門と明智陣屋があるので、大覚寺派と光秀の関係は深いのかもしれません。亀岡の数ある寺の中でも特に谷性寺とのゆかりが深かったのは、この寺が大覚寺派であり不動明王を本尊としていることと無関係ではないような気がします。

谷性寺山門から本堂

本堂前にある石灯籠。茶道具が彫られているのは初めて見ました。

光秀首塚

境内の庭にいた狸の家族

 

 御朱印をいただいたあと、12時31分発のバスの時間までかなりあったので近くを散策することにし、谷性寺の石垣沿いに歩いていくと、篠葉神社という、貞純親王の創建だという神社がありました。

篠葉神社の社号標と谷性寺の石垣

篠葉神社の由緒書き

 

 当社の祭神は彦火々出見命大山祇命、野椎命。祭主である貞純親王は56代清和天皇の第六皇子で、延喜16年(916)に死去しているので、延喜年間に亡くなった彼が建てた神社が延喜式神名帳に掲載されることはなく、よって篠葉神社は式内社ではありませんが、1000年以上前に建てられた古社であることは確かです。そして貞純親王といえば、源頼光の曽祖父で清和源氏の祖――つまり光秀の祖です。この符合はいったい何なのだろうと思いながら、鬱蒼として暗い境内を見てまわりました。

篠葉神社の鳥居から見る舞殿と本殿

篠葉神社本殿。古い形の鳥居と思われる2本の御神木がありました。

 

 無人の神社なので看板に書かれていた由緒書き以上の情報は得られませんでしたが、参道を侵食するように張り出している石垣との位置関係を考えると、谷性寺は篠葉神社の神宮寺的存在だったのではないかと想像され、光秀がこの寺を尊崇したのは、先祖が創建した篠葉神社の存在も理由の一つではなかったかと思いました。

 

 近隣の観光名所である「ききょうの里」はまだ開園期間ではなかったので他に見るところもなく、湿度が高くてむやみに歩きまわるのもつらかったので、12時過ぎにはバス停に戻りました。すると、行きのバスで3人ほど同じバス停で降りた乗客がいたのですが、そのうちの二人が地べたに座り込んでバスを待っていました。ベンチも何もないバス停なので、気持ちは理解できました。

 

 時間どおりにバスが来たので乗り、国道佐伯バス停で下車し、そこから徒歩5分ほどの稗田野神社へと向かいました。

稗田野神社の鳥居

稗田野神社の説明板

 

 当社の祭神は保食命大山祇命、野椎命。大山祇命と野椎命は篠葉神社と同じなので、この二柱が亀岡の守護神――すなわち、この土地の開拓神なのだと思います。残念ながら考察に至っていないので、正体は不明。大山祇命といえば、アマテルの皇后セオリツヒメの父であるオオヤマズミや、オオヤマズミの息子で、ニニキネの妃コノハナサクヤヒメの父であるカグヤマツミであることが多いのですが、オオヤマヅミ=オオヤマズミ=オオヤマスミ=大山住で、その意味は“山に住んでいる神”、つまり山の管理者であり、固有名詞ではないため、オオヤマズミやカグヤマツミとはまた違う人物である可能性もあります。一緒に祀られている妻の野椎神が鍵ですね。

稗田野神社の舞殿、拝殿、本殿

 

 そして当社は『古事記』編纂者の一人である稗田阿礼ゆかりの神社でもあります。阿礼はこの地に住んでいたと伝わり、境内社稗田阿礼社に祀られています。社ができたのは御鎮座1300年記念の時だそうですが。

稗田阿礼

 

 稗田野神社を後にすると、国道佐伯バス停に停まる次のバスは2時間半後なので、観光案内所で教えてもらったとおり運動公園まで歩くことにしました。その前にひと息入れようと思い、神社の近くにあった大石酒造という酒造メーカーに立ち寄り、売店を併設した御休み処があったので、冷酒を1杯飲むことにしました。コーヒーとかもありましたが、せっかく蔵元で飲むので。

大石酒造。資料館とかもあって見学できます。

頼んだ冷酒。甘口か辛口の二択だったので、辛口を選びました。

 

 休んだおかげで足の疲れは取れたのですが、歩きはじめるとあまりに湿度が高くて、アルコールが入っていたせいか、なかば脱水症状のようになり、15分ほど歩いただけなのに、運動公園ターミナルバス停に着いたときには、いつになくヘロヘロでした。運よくそばに自販機があったので、エヴィアンを買って一気に飲み干しました。

 

 それから5分も経たずに来たバスで亀岡駅に戻ると、亀山城はホームページに県外の人は遠慮してくださいと書いてあったので次の機会にし、京都スタジアム内に特設されている「麒麟がくる」京都大河ドラマ館へと向かいました。

 

 スタジアム1階のフードコートで遅い昼食を摂ったあと2階の特設会場へ行き、券売所でチケットを購入。一日乗車券を見せると団体料金で買えました。検温と連絡先を記入して入場すると、会場内は今回の旅で一番密な場所でした。入場制限されたり展示が見えないというほどではなかったのですが、いる人の数が数えられなかったので(笑)。展示は音楽担当のジョン・グラム氏と衣装担当の黒澤和子氏の話が興味深かったです。

京都大河ドラマ館入口横

 

 見学後、出口が物産館に続いていたので土産物を物色しましたが、坂本のほうが品揃えがよかったので、何も買わずに出ました。昼食を食べたフードコートの店で、私が一番好きな京都の漬物屋である太秦の「もり」が出している光秀パッケージの詰め合わせを発見し買っていたので、それでよしとしました。

麒麟がくる」パッケージの漬物4種詰め合わせ。京都に漬物屋はたくさんあるのに、一番好きな「もり」の商品だったので、何か光秀との縁を感じました。

 

 スタジアムを出たときにはまだ4時前だったのですが、高温多湿の中で歩きすぎたことによる軽い熱中症なのか、はたまた二日酔いなのかわかりませんでしたが、少々頭が痛かったので、京都駅に戻り、帰ることにしました。亀岡にしろ坂本にしろ最終日に京都市中にいないことは確実だったので、余裕を持って19時1分発の新幹線を予約していたのですが、嵯峨野線に乗っているあいだにスマホエクスプレス予約の時間を2時間半ほど早めました。本当に便利な時代です

 

 駅に着いたら荷物を引き取って改札を出て、自動券売機で特急券を発券。さすがに飲食する気がなかったので、タカラ缶チューハイ551蓬莱も買わずに、16時39分発の新幹線に乗車。乗ったとたんに爆睡して、気が付くとはや小田原あたりでした。これにて遠征終了です。

 

 熱心なリピーターもいるらしく日曜日だったこともあり京都大河ドラマ館が一番人が多かったのですが、金曜日に訪れた本能寺は境内に人がいても宝物館に見物客は一人もいませんでした。「餅寅」でも梅宮社でも買い物客や観光客に遭遇することはありませんでした。土曜日に訪れた企画展示中の滋賀院門跡にも拝観客はいませんでした。それでも開館したり営業したりしてくれている状況にありがたいと思いつつ胸が痛みました。混んでいるところは極力避けたい人間ですが、一日も早くコロナ禍が収束し、観光地の店や名所が賑わいを取り戻すことを心から祈念します。

京都・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪4 その2~滋賀院門跡、西教寺、神足神社、勝竜寺城

 6月14日の光秀の命日に合わせた今回の探訪は、墓参りも目的の一つだったので、13、14日の二日間で光秀の首塚がある亀岡の谷性寺と、明智家の菩提寺である坂本の西教寺を訪れることにしていました。当日までどちらから行くか悩んでいたのですが、13日の土曜は朝から雨降りで、捻挫している左足のこともあったので、何度か訪れたことがあり、多少なりとも土地勘のある坂本を選びました。

 

 坂本では現在、西教寺を中心に「びわ湖大津・光秀大博覧会」が開催されていて、この博覧会は光秀の居城だった坂本城の城下町一帯が会場となっているのですが、残念ながら今回は傘を差していても濡れずに歩くのは無理そうなくらいの本降りだったので、三つのメインパビリオンに絞り、ピンポイントで行ってきました。

 

 9時前にホテルを出て京都駅からJR線で膳所駅まで行き、京阪電車に乗り換え、終点の坂本比叡山口駅で下車。10時前に到着し、日吉大社へと続く馴染みのある道を歩いて滋賀院門跡へと向かいました。光秀大博覧会のメインパビリオン四つのうちの一つで、「比叡山坂本と光秀展」と題した企画展示が行われているからです。

 

 滋賀院門跡は比叡山の里坊で、開基は南光坊天海。天海は天台宗の大僧正で、織田信長の焼き討ちで荒廃していた延暦寺の再興に努めた人物なので、比叡山里坊の開基であっても何らおかしくはないのですが、気になったのは境内に慈眼堂があることです。

 

 慈眼堂は慈眼大師諡号を持つ天海の廟所で、全部で三つあり、滋賀県の大津滋賀院の他、栃木県の日光輪王寺と埼玉県の川越喜多院に存在します。天海は輪王寺喜多院の住職だったので、日光と川越は納得がいくのですが、比叡山では南光坊に住居し、よって東塔付近にあってよさそうなものなのに何故よりによって光秀の居城があった坂本にあるのか――と思っていました。慈恵大師良源の墓は比叡山中にあるので……。そんな疑問が生じると、同時に、やはり明智光秀天海説は根も葉もない話ではないのかもしれないとも思いました。謎の戦国武将である明智光秀光秀が築いた坂本城坂本にある滋賀院慈眼堂慈眼堂に祀られた慈眼大師天海天海諡号と同じ寺名を持つ慈眼寺慈眼寺に伝わる明智光秀坐像→慈眼寺の裏手にある光秀が築いた周山城……ということで、これだけ関連性のあるキーワードが出揃えば、何か関係はないのかと調べたくなるのが歴史オタクの性です。こうして私の明智光秀探訪は始まりました。

 

 滋賀院に到着したときはどしゃ降りで、見物客は一人もいませんでした。展示はパネル展示の他、天海や天台座主関連の物があり、僧形の鎧や、背当て、肘掛けはもちろん書見台まで付いた至れり尽くせりの駕籠などがあって、おもしろかったです。それと、天海の御遺訓というものがあり、家康の御遺訓は知っていても天海は知らなかったのですが、あまりに言い得て妙で笑ってしまいました。「気はながく 務めはかたく 色うすく 食細うして 心ひろかれ」という五七五七七の短いものなのですが、「人の一生は重き荷を負ふて遠き道を行くがごとし」の家康とどこか通じるものを感じて、似た者同士だったのではないかと思いました。二人とも明るい性格ではないな、と(笑)。

滋賀院門跡前。雨の中、明智光秀の幟がはためいていました。

滋賀院門跡についての説明

小堀遠州作の庭園

おなじみ、芭蕉翁の句碑。句は「叡慮にて賑ふ民や庭かまど」だそうです。

 

 廟所の慈眼堂にも寄りたかったのですが、かなり段数のある階段を上っていかなければならず、雨脚は強い上に左足を捻挫していたので、ここで無理して滑って転んだらエラいことになると思い、断念しました。今回は悪天候のため坂本城址などを訪れるのも諦め、しかもメインパビリオンの一つである大津歴史博物館の企画展は調べたら10月だったので、また秋に再訪しようと早々に決めていたので、未練はありませんでした。

 

 次の目的地である西教寺は、以前徒歩で行ったことがあり、この雨と足の状態で歩いていくのはしんどいことがわかっていたので、バスに乗ることにしました。最寄りの日吉大社前バス停に着くと、博覧会のための臨時便がけっこう設定されていることがわかったのですが、コロナの影響で運行しているのかわからなかったので、坂本に来るたびに食事をしている近くの芙蓉園本館で訊いてみることにしました。11時に開店したばかりの店に入って訊くと、バスの時刻を調べてくれ、次の時間まで20分ほどあったので、コーヒーを頼んで待つことにしました。20分では、いつもこの店で食べている近江牛の柳川御膳は食べられなかったので。

 

 コーヒーを飲み終わると、バス停まで行ってバスに乗り、西教寺バス停で下車。相変わらずどしゃ降りでしたが、総門を入って右手の拝観チケット売り場には5、6人ほどが並んでいたので、総門の下で雨宿りして待ち、購入。西教寺では2か所がパビリオンになっていて、里坊の禅明坊は光秀館という形で公開され、びわ湖大津「麒麟がくる」展と、近江の光秀ものがたり展が開催されています。展示は大河ドラマで使用された衣装や小道具と、出演者のコメントが映像で流され、大河ドラマ館のようなものでしたが、琵琶湖のまわりに存在した城についての解説はなかなかおもしろかったです。坂本城、宇佐山城、大津城、膳所城、瀬田城など西側の城だけではなく、安土城長浜城なども紹介されていました。

西教寺総門。以前来たときには見なかった横断幕が下がっていました。

禅明坊入口。展示会場は原則撮影禁止でしたが、玄関だけ許可をいただけました。衝立の右横の柱に何かいたので近寄って見ると……

戦装束のねずみ(のキャラクター)がいました。大津のねずみだから「おおちゅー」……思いきり駄洒落です(笑)。

唯一の撮影スポット。床几に腰かけて光秀夫妻と写真が撮れます。

 

 禅明坊の会場から外に出ると、隣に土産物などを販売する物産館が設けられていたので立ち寄り、坂本城の御城印と、朱印帳ならぬ御城印帳というものを発見したので購入。御城印帳なるものはそのとき初めて見たのですが、丸岡城でいただいてから、御城印があれば記念にいただくようになっていたので、ちょうどよいものを見つけたと嬉しく思いました。会計中にふとレジ横を見ると、ドリンクを冷やしている保冷庫の中に「麒麟がくる」と書かれたラベルのキリンレモンを発見したので、ついでにそちらも追加購入。ゆかりの地限定品だそうで、キリンもなかなかシャレたことをやると感心しました。

坂本城の御城印と、布貼りに金押し文字の御城印帳。裏表紙は表紙と同じ金押しの桔梗紋です。

ゆかりの地限定ラベルのキリンレモン

 

 続いて、もう一つの会場である西教寺に行き、まずは御朱印授与所へ寄ると、1日10食限定のランチの張り紙があったので、まだ残っているか訊くと、あるというので申し込んで支払いをし、朱印帳を預けて大食堂へと向かいました。西教寺では秋に菊御膳が食べられるのですが、以前来たときには時間が遅くて残っていなかったので、食べそびれてしまいました。

 

 大食堂に行くと、厨房に賄いさんたちがいるだけで客は一人もおらず、広い食堂の一席にすでに一つの膳が用意されていて、厨房に声をかけて席に座ると、温かい御飯と味噌汁が出てきました。この日のメニューは菊御膳とはかけ離れた煮込みハンバーグ……御朱印授与所でそれでもいいかと訊かれたので、わかってはいましたが。特に精進料理風ということもなく、普通の定食屋メニューといった感じでした。

西教寺大食堂でいただいた煮込みハンバーグのランチ

 

 食事を終えて御朱印授与所に戻ったときには、雨がいささか小降りになっていたので、朱印状を受け取ると外に出て、先に墓参りをすることにしました。

明智一族の墓

明智一族の墓につての説明。西教寺塔頭過去帳にあった戒名「秀岳宗光大禅定門」が明智光秀であるとされています。

光秀の妻、妻木熙子の墓

熙子の墓についての説明

 

 墓参りのあと再び屋内に入って、本坊、書院、客殿、本堂を順に拝観。明智光秀公資料室では光秀直筆の寄進状を見ることができました。これは堅田の戦いで犠牲になった家臣を供養するため西教寺に米を奉納したときの書状で、犠牲者の中には家名がない身分の低い中間の名もあり、その中間の分も他の武士と同じ量の米が寄進されていることから、家臣思いで、なおかつ身分の隔てなく扱った光秀の人柄が偲ばれるといわれている史料です。

 

 建物内をひととおり見たあと、物産館で買い物をしたときに「西教寺の唐門には麒麟がいるので探してみてください」と言われたので、最後に唐門を見に行くことに。そんなことは知らなかったので、以前訪れたときにも唐門は見ましたが、麒麟はわかりませんでした。唐門の向こうには、天気が良ければ琵琶湖が見えるのですが、この日はまったく見えず。再び激しさを増した降りしきる雨の中、なんとか門を見上げて麒麟を探しました。麒麟がくる世を望むのは昔も今も変わりませんから(笑)。

西教寺唐門

唐門に彫られた麒麟らしきもの

 

 唐門を後にし、総門前のバス停に向かうべく参道を下る途中、物産館で売り切れていた博覧会オリジナルの「桔梗之華」という和菓子が午後にはまた入荷すると言っていたことを思い出したので、2時前でしたが念のため寄ってみると、ラッキーなことに補充されていたので買いました。

びわ湖大津・光秀大博覧会オリジナルの「桔梗之華」。きれいな桔梗の花の形をしたお菓子です。一つ一つ手で形作っているそうです。

井筒八つ橋本舗の商品なので八つ橋みたいなものだろうと思っていたら、ずばり生八つ橋でした!

 

 帰りは14時2分発のバスで比叡山坂本駅まで行き、JR線に乗車。大津市歴史博物館見学にあてていた時間が余り、3時までに長岡京駅に着けそうだったので、当初予定にはなかったのですが、勝竜寺城公園に行くことにしました。

 

 勝竜寺城細川藤孝(幽斎)の居城で、藤孝の嫡男・忠興の妻となった、光秀の娘・玉(ガラシャ)が輿入れした城であり、さらに山崎の合戦では光秀が本陣を構えた城でもあります。城址は現在公園として整備されていて、櫓を模した資料館で光秀、ガラシャ、藤孝、忠興4人を取り上げた期間限定の企画展示が行われていました。

 

 長岡京駅に着くと、コロナの影響で3時までの時短営業になっている観光案内所へ行き、勝竜寺城の御城印を購入。勝竜寺住職の手蹟である通常版の他、藤孝の書状から「勝竜寺城」の文字を抜き取ったという限定版があったので、限定版を選びました。そして地図をもらい、まずは近くにある式内社の神足神社を目指すことに。ただいまは光秀探訪に夢中ですが、神社巡りはライフワークなので。

勝竜寺城の御城印。「勝竜寺城」の文字を抜き取った細川藤孝の書状についての説明が書かれた栞がもらえます。

神足神社の社号標

 

 神足神社の祭神は天神立命。置いてあった由緒書きには、祭神は舎人親王の子といわれていると書かれていましたが、神立=カンタチで、『ホツマツタヱ』によれば、三代大物主ミホヒコの長男で、事代主ツミハの兄――つまり、ソサノヲ=素佐嗚の玄孫であり、オホナムチ=大己貴の曽孫であり、ヲコヌシ=大国主の孫であり、カンヤマトイハワレヒコ=神日本磐余彦こと神武天皇の伯父という、たいへん由緒正しき神です。

 

 ……なのですが、初代神武天皇の祖父であり、事代主として各地に祀られている弟のツミハに比べると地味な神ではあることは否めません。けれども、あまり主祭神として見ることのないカンタチが祀られているということは、どこかから勧請されたのではなく、はじめからこの地に祀られたのだと思います。『先代旧事本紀』によると、天神立命は山背国久我直の祖なので、山城国に根付いた久我直が祖先を祀ったのかもしれません。よって社名も元々は「コウタリ」ではなく「カンタリ」で、「カンタチ」が訛って「カンタリ」となり、のちに「神足」の漢字で表されたので、いつしか「コウタリ」と読まれるようになったと考えられます。

天神立命舎人親王が祭神とされています。つまり、天神立命舎人親王ではないということです。

神足神社拝殿。参拝客は誰もおらず、社務所も開いていませんでしたが、提灯が点いていてきれいでした。

神足神社本殿

拝殿横にあった説明書き

 

 とはいえ、舎人親王の名が出てくるからには、何か関係があるのだろうとは思います。長岡京は50代桓武天皇平安京の前に建てた都で、舎人親王は47代淳仁天皇の父。舎人親王淳仁天皇など天武天皇系だった皇統が桓武天皇の即位によって天智天皇系に移ったわけですから、桓武は遷都にあたり、夢の話をきっかけにして、この地の守護神である天神立命の聖域に、天智系の自分に恨みを持ち新しい都に害をなしそうな舎人親王親子を祀って封じ込めようとしたのかもしれません。淳仁天皇は帝位を廃されて淡路に流され、そのまま現地で亡くなり、暗殺だったともいわれているので、祟ってもおかしくありませんから。要するに怨霊封じです。これぞ政です。おそらく桓武にとって、長岡京の地主神である天神立命を祀る社に舎人親王を祀ることは新都における政治の一環だったはずです。古くからこの地を治めてきた久我氏を押さえるという意味でも――。なので、夢の話は桓武の意図的なでっちあげだと思います。

 

 神足神社のそばには勝竜寺城の土塁や空堀の跡があるのですが、雨降りの上に足場が悪かったので、残念ながら素通り。神社から程近い勝竜寺城公園に到着し、資料館2階の展示室に入ると、見物客が3、4人ほどいて、あとから地元のボランティアガイドらしき人に率いられた5、6人の団体客も来ました。

勝竜寺城公園の櫓を模した資料館。明智家の桔梗紋と細川家の九曜紋の幟旗がはためいていました。

 

 展示と映像資料は細川家寄りの視点で制作されていて、これはこれでおもしろいと思いました。光秀の思いもあれば、藤孝や忠興にもそれぞれの思いがある――それが絡み合って生じたことが歴史です。たとえ闇に葬られて不明ではあっても「真実は一つ」ですが、解釈の仕方はどちらが正しいわけでも間違っているわけでもない、立場が違えば同じ事実に対しての見方も違い、評価も変わります。それは今も昔も変わりません。

明智玉と細川忠興夫妻の像

 

 資料館を出て公園内を一周すると、4時になろうかという時刻だったので、これにて切り上げ、京都駅に戻るため、徒歩で長岡京駅へと向かいました。京都駅に着くと4時半ぐらいだったので、いったんホテルに戻り、改めて夕飯を食べに出かけようかと思いましたが、足も疲れていて痛かったので面倒くさくなり、この時間なら空いているだろうと思い、西口改札前にあるJR京都伊勢丹の別棟であるスバコに入っている「はしたて」に行ってみることにしました。和久傳がやっている人気の店なので、昼食や夕食の時間帯は混んでいるため行ったことがなかったので。案の定、観光客が激減している上に時間もずれていたせいか誰もいませんでした。食事後、ホテルに戻り、日程終了です。

「はしたて」の金目鯛丼セット。15~17時のあいだに食べられる軽食扱いのメニューでしたが、御飯とにゅう麺でボリュームもそこそこあり、大好きな湯葉ジュンサイまで食べられたので大満足でした。

京都・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪4 その1~本能寺、梅宮社(明智祠)、八坂神社

 昨日のNHK「SONGS」の郷ひろみは凄かったですね~。64歳で12曲ノンストップ歌唱のパフォーマンス、30分間ガン見で魅入ってしまいました。私が一番好きな「若さのカタルシス」は歌ってくれませんでしたが、十分に楽しませてもらいました。105もシングル曲があるのなら、12曲に入らないのは仕方がありません(笑)。バーティ・ヒギンズの名曲をカバーした「哀愁のカサブランカ」ですら入っていなかったし。それにしても、ヒロミ・ゴーとhyde、そして高見沢俊彦は別格ですね。もはや突き抜けています、超越しています、越境者です。ブラボー! NHKといえば、少し前に放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀」の本木雅弘スペシャルもおもしろかったです。4月から2か月ほどゴールデンウィークを含めて土日祝日は家の敷地からまったく出ないステイホーム生活でしたが、見る気になるのはNHKぐらい。なんだかんだ言っても、やはり民放とは違うと思いました。テレビやネットでは再放送や無料視聴などいろいろなプログラムを放送したり配信したりしていましたが、家に籠っていても、あえて時間を割いてまで見るような暇も興味もなかったので、一切視聴することなく、ただ黙々とPCで地味な作業をする日々を送っておりました。

 

 で、ようやく5月21日に関西、続いて25日には首都圏の緊急事態宣言も解除されたので、6月から明智光秀探訪を再開しました。6月14日が光秀の命日だったので、1年以上前からの予定どおり、墓参りがてら、二泊三日でゆかりの地を訪ねてきました。直前まで出かけるか悩みましたが、まだ感染の第2波の兆しは見えず、東京アラートもとりあえずレインボーに戻り、また、緊急事態宣言解除直後の人の動きを見るに、首都圏を含めて県境移動の自粛要請が緩和される19日以降のほうが人出が多いだろうと予想されたので。一週間の差なら感染状況は変わらない可能性が高く、それならば、より人混みを避ける選択をしたほうが賢明だと判断し、決行しました。人の動きを一律で制限できない以上、自衛が大切なので。

 

 12日の午前中で仕事を終え、12時37分品川発の新幹線に乗り、14時44分に京都駅に到着。駅近くのホテルにチェックインし、荷物を部屋に置いて出たのですが、雨が降っていたので傘を開きながら歩き出したら、左足を思いきり挫きました。痛みで一瞬血の気が引き、続いて視界がメニエール病みたいに歪み、呆然。嫌な記憶が一気によみがえり、しばらくその場に立ち尽くしました。

 

 昔、新木場駅で階段を踏み外して同じ左足首を捻挫したことがあり、その時は痛みで動けないばかりか貧血を起こして座り込み、なんとか駅前の交番まで辿り着いてタクシーを呼んでもらい、最寄りの東京臨海病院の救急外来に運んでもらったという苦い経験がありました。打ってもらった痛み止めが効くまで息も絶え絶えで、3時間後ぐらいにようやく起き上がれるようになったので、松葉杖を貸してもらい、歩き方の講習を受けて、神奈川県の自宅までタクシーで帰った次第です。その時の記憶があるので、立っていられるのならまだ大丈夫かと、とりあえずホテルの部屋に戻ろうとして歩いてみたら、痛みはあるものの歩けたので、これならもつだろうと思い、予定どおり駅へ行って地下鉄に乗り、本能寺へと向かいました。その怪我以来、左足が弱く捻挫がクセになっているので、耐性を付けようと毎日の体操で足首を回しているのがよかったのかもしれません。

 

 京都市役所前駅で降りて本能寺へ行き、まずは境内に入ってすぐの宝物館へ。昨年12月にも訪れているのですが、4月から「本能寺寺宝展 信長と光秀」という特別展を開催していて、例によってコロナのせいで緊急事態宣言解除まで休館していましたが再開し、6月2日が本能寺の変織田信長の命日でもあったので、こちらも墓参を兼ねて行ってきました。特別展自体は9月いっぱいまで開催しているのですが、第2波の到来でいつまた休館するかわからないので。

本能寺宝物館正面

今や本能寺の主のようになっている「三足の蛙」がお出迎え。これはレプリカなので撮影可能でした。(注:香炉です!)

 

 ちなみに、この特別展は明智継承会との共催で、だからなのか、個人蔵の品もけっこう展示されていて、「伝光秀公兜」とか「伝光秀公短冊」とかがあり、とても興味深かったです。あくまで“伝”ではありますが、兜は吹き返しに桔梗紋があしらわれたていたので、明智家ゆかりの物ではあるのだと思います。ちなみに、慌ててメモった走り書きによれば、短冊に書かれていたのは「風に吹き寄せる氷の藻を うち出る浪がとどめる春の福である(正しくは、前風にとどめん 氷の藻に うち出る浪や 春の福)」。和歌にしては字余りなので手紙の一部なのか何なのかはわかりませんが、光秀の風流人としての片鱗を見たような気がしました。

 

 なので、それなりに展示品はおもしろかったのですが、一番見に来てよかったと思ったのは、展示解説の中に、「明智入道玄宣、光秀曽祖父」という記述を見つけたときでした。

 

 実は、引きこもり生活の2か月間はPCに向かって何をしていたかというと、光秀の血筋を明らかにしようと思い、土岐頼貞から土岐定政ぐらいまでの明智家系図を作っていました。史料不足で5月半ばには行き詰まりましたが。土岐頼清の次男である頼兼を祖とする明智嫡流の通字は土岐宗家と同じ「頼」なので、「頼」ではなく「光」の通字を名に持つ光秀は嫡流筋ではなく、頼兼の跡を継いだ頼重の弟とされる頼高の子である光高の血筋であろうというところまでは確信しているのですが、残念ながら光高から光秀までの系譜が考察しきれていません。しかし、その系譜の中に現れるのが明智玄宣なのです。歴史事実の証左としては展示解説では弱いですが、その解説を書くに至った史料があるはずなので、参考にはなります。これを基に仮説を立てて検証していくこともできるので、コロナ禍で図書館に行くこともできず頓挫していた作業が多少なりとも進みそうな気がして、小躍りしたい気分になりました。

 

 宝物館を見学したあとは、6月2日が信長忌だったので信長廟にお参りし、引き上げる前に御朱印授与所に寄ってみたのですが、そうしたらなんとその6月2日に発売されたばかりの、光秀コラボの限定朱印帳と限定朱印帳袋があったので、つい衝動買いしてしまいました。12月に来たときに御朱印をいただいた朱印帳をその日も持参してはいたのですが……。朱印帳表紙の片面は木瓜紋と「大本山本能寺」の文字、もちろん「能」は正式の異体字です。反対面には桔梗紋と光秀の歌があしらわれていて、蛇腹式なので好きなほうから使用できるというもの。書かれている歌は「心しらぬ 人は何とも 言はば言へ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」。坂本龍馬の「世の人はわれをなにともゆはばいへ わがなすことはわれのみぞ知る」はこの歌を意識したのではないかとも言われている歌で、さらに和宮の「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」にも通じる歌です。ということで、せっかく本能寺の寺号入りの朱印帳を買ったので、本能寺の御朱印もそちらにいただいてきました。

光秀コラボの限定朱印帳と限定朱印帳袋。朱印帳袋は水色桔梗をイメージしたライトブルーに御歌頭さんの墨絵と反対側には白い桔梗紋がプリントされています。

 

 京都市役所前駅に戻り、再び地下鉄に乗ると、次は東山駅で下車し、明智光秀首塚と伝わる梅宮社へと向かいました。三条通から白川沿いを南に曲がって少し歩くと、塚を長らく祀ってきたという老舗和菓子屋「餅寅」が見え、5時閉店の30分前でしたが、店先のショーケースを覗くと名物の「光秀饅頭」がまだあったので、麩饅頭とペットボトルのお茶と一緒に購入。麩饅頭は大好きなのですが、日持ちがせず、袋で買うとひたすら食べ続けなければならないため、最近はあまり食べていなかったのですが、バラで買えたので、「いったいいくつ饅頭食べる気だよ」と内心で自分に突っ込みを入れながらも、ついつい買ってしまいました。

名物「光秀饅頭」と、この店で初めて見つけた京都ブレンド茶「明智光秀」。「光秀饅頭」は黒糖生地の粒餡と抹茶生地の白味噌餡の2種類で、どちらかといえば白味噌餡が好みでしたが、粒餡も手作り感のあるしっかりとした食感で味わい深かったです。

京都ブレンド茶「明智光秀」は、光秀ゆかりの旧三か国――山城、丹波、丹後産の茶葉をブレンドしたお茶だそうで……芸が細かい!

 

 「餅寅」を出たあと、店の脇の横道を入ると、明智祠こと梅宮社に到着。事前に調べていたので知っていましたが、住宅地の一角にある本当に小さな祠でした。けれども、小さいながらも、ちゃんと管理されていて、きちんと祀られていることがわかる佇まいでした。

祠の前にある立札

祠の中は人感センサーが働いて、近づくと自動で明かりが点きます。

 

 祠の手前にある石碑には「長存寺殿明窓玄智大禅定門」と刻まれていました。慈眼寺に祀られていた位牌の戒名は「主一院殿前日州明叟玄智大居士神儀」。はたして「長存寺殿」とは? 「主一院殿」とは?……大いに気になります。ウィキペディアで調べたところ、戒名は法号の最高位が院殿号、位号の最高位が大居士とのこと。となると「主一“院殿”前日州明叟玄智“大居士”神儀」という戒名は法号位号も最高位ということになります。一方、「長存“寺殿”明窓玄智“大禅定門”」は法号が寺殿号で、位号は大禅定門……明らかに位が違うのです。これは何を意味するのか……。

 

 また、祠の横には祠内に祀られていると思われる「長存寺殿明窓玄智大禅定門」の位牌と彫像の写真が貼られていたのですが、その像は慈眼寺のくろみつ像や本徳寺の肖像とは似ていない気がしました。

位牌と一緒に祠の中に祀られているらしい像

 

 以上を併せ考えると、ここは明智光秀首塚ではなく、光秀として死んだ誰かの首塚ではないかという気がしました。つまり身代わりとか影武者です。その人物が「長存寺殿」なのではないかと思います。長存寺をネットで調べると、蒲郡市の寺がヒットしました。愛知県ですが尾張ではなく三河に属し、今川家、徳川家に仕えた鵜殿家の菩提寺――何やら徳川家康と天海の影がちらついてきたので、余裕ができたらもう少し詳しく調べたいと思います。

 

 塚を後にすると、八坂神社がわりと近いことがわかったので、歩いていくことにしました。何度もお参りしている神社ですが、疫病封じの神である蘇民将来を祀る摂社があることを思い出したので。白川沿いに南下して東山通に出たら知恩院前を通り過ぎ、10分ほどで到着。

白川にかかる一本橋と紫陽花

 

 まずはじめに目的の疫神社に行くと、鳥居に夏越の祓の茅野輪が設置されていたので、案内板にあるとおり「蘇民将来子孫也」と唱えてくぐり参拝。続いて、まだ社務所が開いていたので、疫病退散の御朱印をいただきました。その後、せっかく来たので本殿にも参拝し、本殿脇にも茅野輪が設置されていたので、作法どおりに茅野輪くぐりをしてきました。もちろん神頼みもコロナ対策の一環です。人知の及ばぬ物事に関しては、もはや神仏にすがるしかありませんから――昔も今も変わらず。

八坂神社摂社の疫神社

八坂神社本殿脇の茅野輪

八坂神社末社大国主社の前にある大国主と白兎の石像。「蘇民将来子孫也」と書かれたマスクをしてコロナ対策をアピール。

疫病退散の御朱印

 

 境内を出たところで、しばらく止んでいた雨がまた降ってきたので、祇園バス停から市バスで京都駅に戻り、JR京都伊勢丹の「松山閣」へ。思ったとおり予約なしでも入れて窓際の四人席に案内されたので、いつもの湯葉桶膳と、今回は「京の嵯峨野」という冷酒を注文。食事後、上機嫌でホテルに帰ろうとしたところ、アルコールを飲んで忘れていた左足の痛みが席を立ったとたんによみがえったので、駅構内にあるマツモトキヨシに寄り、サロンパスを買ってから戻りました。ともあれ、これにて日程終了です

 

※2021年3月8日追記

 本能寺で見た短冊に書かれていた伝光秀の歌について、コメントにて正しいものを教えていただいたので本文中に追加しました。ついでに読み直したら明智頼兼の父の名も間違っていたので、「頼貞」を「頼清」に修正しました。