羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

明智光秀紀行7 その2~特別展「美濃源氏土岐一族の時代」in瑞浪市陶磁資料館&特別展「土岐明智氏と妻木氏」in土岐市美濃陶磁歴史館

 月初の名古屋&岐阜遠征で明智光秀関連の資料をいくつか手に入れ、それらのおかげで作成している明智系図の修正および作成がかなり捗ったため、遠征記の続きを書く時間が取れず。そうこうするうちにシルバーウィークとなり、4連休の上にGo To トラベルキャンペーンもあったので、神社遠征と光秀探訪を兼ねて熊本遠征をしてきたのですが、前回の遠征記がまだ途中なので、こちらを仕上げてから熊本については書きたいと思います。

 

 さて、名古屋入りした次の日ですが、朝から天気が悪かったので、雨が降っても問題のないコースということで、特別展が開催されているミュージアム巡りをすることにしました。

 

 まずは瑞浪市陶磁資料館へ向かうことに。名古屋駅9時24分発の中央線快速に乗り、10時12分に瑞浪駅に到着。市民公園内にある資料館はアクセスが悪く、歩いたら30分かかるのにバスもないというところなので、駅からはタクシーを利用。車なら5分ほどで、料金は1,140円。市民公園には陶磁資料館以外に化石博物館などの施設があり、おもしろそうなら寄るつもりだったのですが、タクシーに乗っているあいだに雨が降り出して、下車するときは傘を差して外を歩きまわるのも億劫な強い雨脚。なので、他の施設はおろか、陶磁資料館の一部である登り窯の跡も屋外だったので見るのをあきらめて特別展の見学だけに絞り、運転手に頼んで40分後の11時に来てもらうことにしました。足がないのは帰りも同じなので。

 

 瑞浪市陶磁資料館では9月6日まで「美濃源氏 土岐一族の時代」という特別展が開催されていたのですが、平日の上に、台風が近づいていて、いつ大雨になってもおかしくない天候だからか、見学者は皆無。受付を含めて3人ほどいたスタッフが気の毒になりました

f:id:hanyu_ya:20200926233034j:plain特別展のポスター

f:id:hanyu_ya:20200926233131j:plain受付で図録を買ったら、うちわをいただきました。イラストは、瑞浪市ゆるキャラであるデスモくん。瑞浪市で頭骨化石が発見されたデスモスチルスのキャラクターで、市民公園内にある化石博物館や地球回廊で働いているそうです。

f:id:hanyu_ya:20200926233239j:plain陶磁資料館入口にあった明智光秀のパネル。クレジットによると、イラストを手がけたのは長野剛さんみたいですが、福知山市に負けず劣らず、こちらもやたらイケメンです。

 

 この資料館は、陶磁資料館という名称からわかるように、美濃焼の資料館で、よって登り窯跡の他、古今の美濃焼が見られ、瑞浪市出身の陶芸家で人間国宝の加藤孝造氏の作品などが展示されているのですが、普段は加藤氏の作品を展示している加藤孝造展示室が特別展示室になっていて、位牌を中心とした土岐家関連史料が展示されていました。

f:id:hanyu_ya:20200926232840j:plain善躰寺蔵の土岐頼貞位牌(正面)。戒名は「前伯州大守定林寺殿雲石孝公大居士」。

f:id:hanyu_ya:20200926232919j:plain善躰寺蔵の土岐頼貞位牌(背面)

f:id:hanyu_ya:20200926233457j:plain善躰寺蔵の土岐頼貞位牌についての解説

f:id:hanyu_ya:20200926233604j:plain開元院蔵の土岐頼貞位牌(正面)。戒名は「定林寺殿前伯州大守雲石存公大禅定門」。

f:id:hanyu_ya:20200926233650j:plain開元院蔵の土岐頼貞位牌(背面)

f:id:hanyu_ya:20200926233800j:plain開元院蔵の土岐頼貞位牌についての解説

f:id:hanyu_ya:20200926233846j:plain開元院蔵の土岐頼元位牌(正面)。戒名は「開元院殿前土岐城主執金吾一蜂道箭大居士」。

f:id:hanyu_ya:20200926233929j:plain開元院蔵の土岐頼元位牌(背面)

f:id:hanyu_ya:20200926234055j:plain開元院蔵の土岐頼元位牌についての解説

 

 今回展示されていた土岐頼貞と土岐頼元の位牌を所蔵する開元院は頼元によって創建されたそうですが、解説にあるとおり、「頼元」という名は土岐家諸系図には登場しません。……なのですが、図録の解説によると、曹洞宗の僧伝である寛保2年(1742)に出版された『日本洞上聯灯録』には「州守金吾源頼元 土岐氏」という記述があるそうで、今回一緒に展示されていた「月泉性印頂相図」の賛にも「土岐城主頼元」という文言があります。そして、その賛によれば、この図が描かれたのは文明8年(1476)とのこと。

 

 ところで、「州守金吾」の「州守」とは国守のことで、頼貞の戒名にある「伯州」のように具体的な国名がない以上美濃の国守のことだと思いますが(頼貞は伯耆守だったので「伯州大守」)、当時美濃守だったのは土岐宗家の当主である土岐成頼です。また「金吾」とは衛門府唐名ですが、成頼の官職である左京大夫唐名は京兆尹なので、したがって成頼が「金吾」と呼ばれることはありません。ということは、つまり、州守の土岐頼元と美濃守の土岐成頼は別人ということになります。しかしそれならば、美濃守と衛門尉(あるいは衛門佐)の官職名を名乗り、土岐城主だという土岐頼元とはいったい何者なのか……、明智系図にどう係わってくるのか……興味は尽きませんが、情報も考察時間も足りず、結論を出すにはしばしかかりそうなので、残念でなりません。

 

 それはともかくとして、正体が明らかになれば、明智光秀の出自の謎に迫る大きなヒントになりそうな新たな人物の情報を得て、少ない展示ながらも来た甲斐があったと機嫌をよくして資料館を出ると、すでにタクシーが待っていたので乗車。美濃土岐氏発祥の地といわれる瑞浪市には、氏祖の土岐光衡が構えた館の跡と伝わる一日市場館跡や土岐明智氏の祖といわれる土岐頼貞の墓があるので、タクシーで近くの八幡神社まで行ってもらって寄るつもりでしたが、短い移動時間のあいだにもますます雨がひどくなってきたので、寄り道はあきらめて、瑞浪駅に戻ってもらいました。

 

 次の目的地は土岐市美濃陶磁歴史館なので、電車でひと駅だったのですが、瑞浪駅に着くと、大雨の影響で中央線が止まっていました。名古屋~高蔵寺間で1時間に60ミリの雨量が計測され、規定値を超えたため運転を見合わせているとのことだったので、ならば区間外の隣駅には行けるのではないかと思い、また、ホームにはすでに当駅始発の次発電車も入線していたので、改札を入ったのですが、下り電車は来るのに上り電車は一向に来なくて、運行再開予定もアナウンスされず。なんで下りは来て上りは来ないのか駅員に訊ねると、名古屋駅に行けない電車が名古屋方面の各駅に止まっているため、雨がそれほどでもない区間も上りは動けないとのこと。多治見駅明智駅に行くバスはあっても土岐市駅行きはなく、かといって首都圏とは違い、隣駅といえども土岐市駅までは電車で6分とやや距離があるので、タクシーを使うという選択にも踏み切れず。仕方がないので、待機している始発電車の車両内や中津川方面から来る一番早い快速電車が入線するはずのホームを行ったり来たりしながら、待つこと約1時間40分。12時45分過ぎに快速電車が来て、1時前にようやく土岐市駅に到着。その時には雨はほとんど止んでいました。

 

 昼をだいぶ過ぎていたので、昼食に地元の名物でも食べたいと思ったのですが、駅周辺には目ぼしいところがなかったので、とりあえず陶磁歴史館へと向かいました。駅から歩いて10分ほどなのですが、行ってみると、そこからさらに5、6分歩いたところに織部の里公園というのがあるようなので、公園ならば何かあるのではないかと思い、歴史館前を通り過ぎて足を延ばしてみましたが、食事ができるようなところは見あたらず。足元が悪い中を歩き回るのもいい加減疲れたので、戻って特別展を見ることにしました。

 

 今回の遠征の一番の目的はこの特別展――「光秀の源流 土岐明智氏と妻木氏」で、沼田に行っても見られなかった土岐家文書が見られるということで、6月末に沼田に行って帰ってきてから、ずっと訪れたいと思っていました。けれども、7月に入ってから岐阜や名古屋では新型コロナウィルス感染者が増えて独自の緊急事態宣言が発せられて県外者は行きにくくなってしまったので、会期中に宣言が解除されて行けるかヒヤヒヤしていましたが、間に合って本当によかったと思いました。瑞浪市の陶磁資料館と同じく、こちらにも見学者は他にいませんでしたが、とてもよい展示でした。見たいけれども簡単には見られない物が見られることの喜びを実感しました。人がいなくてゆっくり見られるのはとても嬉しいのですが、こんなに関係者の気合いが伝わってくるよい展示を見る人がいないというのは、何とももったいなく、とても残念な気がしました。誰もいなかったのは、その日たまたまかもしれませんが。

f:id:hanyu_ya:20200926234828j:plain玄関前にあった特別展の看板

f:id:hanyu_ya:20200926234907j:plain麒麟が描かれた美濃焼の破片

f:id:hanyu_ya:20200926235002j:plain美濃焼に描かれた麒麟についての解説。美濃焼関連の資料は撮影可能でした。

 

 40分ほど展示を見たあと、図録を購入して歴史館を後にし、土岐市駅に戻って、ダイヤ乱れで遅れていた14時23分発の快速電車に乗車。まだ時間も早く、隣の多治見駅で降りてバスに乗れば、今回の特別展の展示品の所蔵元である祟禅寺や妻木城跡にも行けることがわかっていたので、電車内でこれから行って帰ってこられるかバスの時刻表とにらめっこして検討していたのですが、細かい字を見ていたらなんだか頭が痛くなってきて、こんな体調で歩き回るのが前提の、しかも雨上がりで確実に足場が悪いと思われる未舗装の城址に行っても仕方がないだろうと思ったので、予定を変更し、この日は切り上げることにしました。瑞浪駅で中央線の運転再開を待っているあいだに、当然のことながら快速電車が入線する名古屋方面行きホームは混んできてベンチが埋まっていたので、違うホームに停まっていた始発電車の車両内にいたのですが、人口密度が低く冷房が効きすぎていて寒かったので(それで行ったり来たりしていた)、風邪を引いた可能性があり、次の日に備え、ホテルに戻って休んだほうがいいような気がしたので。

 

 わりと頭痛持ちなので、頭痛薬とアレルギーの薬はいつも持ち歩いているため、とりあえずそれを飲み、多治見駅で降りるのはやめて名古屋駅まで戻ることにしたのですが、薬の影響か知らぬうちに眠ってしまい、気が付くと千草駅で、ホームに「住よし」があるのが目に入ったので、慌てて下車。「住よし」は新幹線ホームの店に時間があれば寄るお気に入りの立ち食いきしめん屋で、いつもけっこう混んでいる人気店なのですが、3時過ぎという中途半端な時間だからか、客も一人しかいなくて空いていたので、食べ損ねていた昼食を摂ることにしました。

 

 山菜きしめんを食べて店を出たあとに来た上り電車に乗って名古屋駅に戻ってくると4時前で、薬と睡眠と食事のおかげで頭痛もすっかり治っていましたが、この時間からどこかの施設に行っても閉館時間ギリギリで見学時間がなく、また神社に行っても社務所が閉まる時間に間に合うかどうかという微妙なところだったので、ホテルの部屋でアルコールを飲みながら手に入れた2冊の図録を読むことにしました。ということで、コンビニでいつものタカラ缶チューハイをゲットし、きしめんを食べたばかりだったので、名鉄百貨店の地下食品売り場で、つまみ兼軽い夕食代わりを吟味し、シューマイセットを購入。4時半過ぎにホテルに戻り、日程終了です。

明智光秀紀行7 その1~特集展示「明智光秀と羽柴秀吉」in名古屋市秀吉清正記念館

 明智光秀探訪もいよいよ美濃編に突入です。

 

 沼田市の土岐家文書が500年ぶりに里帰りして展示されている土岐市美濃陶磁歴史館の特別展――「光秀の源流 土岐明智氏と妻木氏」が会期延長されて9月13日まで開催されているので、名古屋市の緊急事態宣言、岐阜県の非常事態宣言が解除されるのを待って出かけることにしました、で、せっかく岐阜まで行くのだから、他に何か見るべきものはないかと調べたら、瑞浪市陶磁資料館で「美濃源氏土岐一族の時代」という特別展を開催していて、そちらの会期は9月6日までだったので、台風10号の接近中ではありましたが、先週末に遠征してきました。

 

 ――ということで、先週木曜は午前中で仕事を切り上げて品川発13時17分の新幹線で名古屋に向かうつもりでしたが、見込みが甘くて予定どおりに終わらず乗れそうになかったため、品川に向かう途中でエクスプレス予約を変更し、なんとか14時28分発ののぞみに乗車。この日の目的地である名古屋市秀吉清正記念館の閉館時間である5時にギリギリ間に合うかという感じだったので、4時前に名古屋駅に到着すると、急いで駅直結のホテルにチェックインし、荷物を置いて駅に戻り、地下鉄東山線中村公園駅まで行き、そこから歩いて10分ほどの中村公園内にある中村公園文化プラザへと向かいました。その2階にある秀吉清正記念館に着いたのは4時40分でしたが、入館は閉館30分前迄とかではなかったので助かりました。

 

 秀吉清正記念館のことは今まで知らず、よって今回が初めての訪問だったのですが、ネットでその存在を知ったときには、まず名称に驚きました。名前のとおり、豊臣秀吉加藤清正に焦点をあてた資料館で、わかりやすいといえば、これ以上わかりやすい名前もないかもしれません。二人が尾張国愛智郡中村(現・名古屋市中村区)で生まれたことから、50年以上前に「豊清二公顕彰館」として誕生し、30年ほど前に中村公園文化プラザが完成したので、その2階に移転、それと同時に現名称に変更されたそうです。同じ中村公園内にある豊国神社の付属資料館とか、武将ファンの資産家が創った私設ミュージアムとかではなく、名古屋市博物館の分館というのがまた驚きで、名古屋人の秀吉と清正に対する強い思い入れを見せつけられたように感じました。個人的には、秀吉といえば大阪、清正といえば熊本というイメージが強いのですが。

 

 そんな秀吉清正記念館で、今月22日まで開催されているのが「明智光秀羽柴秀吉」という特集展示です。今まで見てきた明智光秀に関する展示は、光秀の功績の見直し、人物再評価、それによる謀反人からの名誉回復的な要素が無きにしも非ずなのですが、豊臣秀吉の功績を讃えて顕彰する秀吉サイドの資料館の展示なら、光秀を滅ぼした側からの視点――今までとは違った観点からの明智光秀像が見られるのではないかと思い、足を運びました。

f:id:hanyu_ya:20200908200302j:plain特集展示「明智光秀羽柴秀吉」のポスター。なんと入場無料です。

f:id:hanyu_ya:20200908224539j:plain特集展示の主旨

f:id:hanyu_ya:20200908211845j:plain最初に展示されていた本徳寺蔵の明智光秀肖像の複製。福知山城でも見たので、いったいいくつの複製が作られているのかと思いました。

f:id:hanyu_ya:20200908224646j:plainパネル解説1「足利義昭と光秀」

f:id:hanyu_ya:20200908224749j:plainパネル解説2「義昭から信長の家臣へ」

f:id:hanyu_ya:20200908212352j:plainパネル解説3「信長家臣としての秀吉」

f:id:hanyu_ya:20200908212518j:plainパネル解説4「本能寺の変から山崎の戦いへ」

f:id:hanyu_ya:20200908212558j:plainパネル解説5「秀吉の天下へ」

f:id:hanyu_ya:20200908212712j:plainパネル解説6「謀反の原因をさぐる」

 

 展示品でまずおもしろかったのが、織田信長の朱印状。足利義昭の行動を制限したもので、本来武家に号令する立場である征夷大将軍の身でありながら、自分より下の身分の者にここまで雁字搦めに縛られたら、反旗を翻したくもなると、義昭に共感したくなるような文面でした。と同時に、どちらかといえば豪放磊落なイメージがある信長ですが、この文面から浮かび上がってくるのは、周到なまでに用心深く、しかも細かい性格で、実のところは一般的なイメージとは正反対の人間だったのではないかと思いました。ここまで細かく取り決め、さらに、その内容を文書で残し、光秀らの証人を立てた上で義昭に認印を押させるなど、念には念をとはいいますが……入れすぎです(笑)。

f:id:hanyu_ya:20200908212754j:plain織田信長朱印状。複製ですが、読み下し文と大意があったのでわかりやすく、とてもよい展示でした。

f:id:hanyu_ya:20200908212833j:plain織田信長朱印状の読み下し文と大意。こんな屈辱的な内容を受け入れざるを得ないほど義昭の立場は弱いものであり、また、それゆえに信長に対する恨みは深かっただろうことが想像できる史料です。

f:id:hanyu_ya:20200908212910j:plain織田信長朱印状についての解説

 

 次に、惟任光秀書状。天正3年7月14日付なので、光秀が日向守に任じられ、惟任姓を賜った直後の書状ということになります。光秀が公家の知行地を安堵する立場であったこと、信長の対公家政策における光秀の立ち位置が知れる史料です。

f:id:hanyu_ya:20200908213050j:plain惟任光秀書状

f:id:hanyu_ya:20200908213155j:plain惟任光秀書状の大意と解説

 

 秀吉の記念館らしく、1階にある中村図書館が所蔵する『絵本太閤記』の展示もおもしろかったです。

f:id:hanyu_ya:20200908213331j:plain『絵本太閤記』より「細川刑部太輔光秀に与せざる図」。「光秀の誤算」というパネル解説とともに展示されていたのが皮肉めいていて笑えました。

f:id:hanyu_ya:20200908214103j:plainパネル解説「光秀の誤算」

f:id:hanyu_ya:20200908213430j:plain『絵本太閤記』より「光秀将軍宣下の図」。豊臣秀吉の生涯を描いた太閤記で、何故この場面が描かれたのか、大いに気になりました。この本が発刊されたのは江戸後期ですが、当時において、明智光秀は将軍宣下を受けたと認識されていたのかもしれないと考えさせられる史料です。

f:id:hanyu_ya:20200908213509j:plain『絵本太閤記』より「唐崎より坂本の城に入る図」

 

 他にも、秀吉記念館ならではと思う展示もありました。

f:id:hanyu_ya:20200908213603j:plain月岡芳年画「真柴久吉武智主従首実検之図」のパネル展示。光秀の首級検めを行う秀吉の絵。

f:id:hanyu_ya:20200908213652j:plain「真柴久吉武智主従首実検之図」についての解説

f:id:hanyu_ya:20200908213741j:plain上記の解説に出てくる『惟任退治記』について。秀吉の記念館ではありますが、わりと秀吉に対してシビアです。

 

 数年前に林原美術館が所蔵する石谷家文書から新史料が発見されて、本能寺の変の動機に長宗我部家がからむ四国説が浮上してきましたが、それを意識したような展示も見られました

f:id:hanyu_ya:20200908214143j:plain信長記』巻十五之上についての解説

 

 従来の怨恨説に関する展示も。

f:id:hanyu_ya:20200908214227j:plain明治14年(1881)に刊行された『史籍集覧』収録の『太閤素生記・祖父物語』

f:id:hanyu_ya:20200908214306j:plain『太閤素生記・祖父物語』の展示部分の読み下し文と大意と解説

 

 正味20分も見学できませんでしたが、ざっと見て必要な内容かどうかを確認して写真を撮るには十分だったので、行ってよかったです。頑張って仕事を片付けた甲斐がありました。

 

 5時になり、閉館準備が始まったので展示室から出ると、看板を片付けていたスタッフに「ありがとうございました。またゆっくり来てください」と声をかけられ、やや申し訳ない気分になりました。というのも、常設展のほうはまったく見られなかったので……自分としては、戦国の三英傑の中で一番どうでもいいのが秀吉なので、未練はなかったのですが。

 

 中村公園文化プラザを後にすると、祭神が豊臣秀吉である上に、明治18年(1885)に創建された新しい神社なので、さして興味はなかったのですが、すぐ近くなので豊国神社に寄ってみることにしました。――が、すでに社務所も閉まっていたので、とりあえず参拝だけして、中村公園駅へ。

 

 東山線名古屋駅に戻ると、5時半を過ぎていたので夕食を摂ろうと思い、新幹線地下街のエスカに向かいました。ド定番ですが、名古屋で食事をするときは、ひつまぶしかきしめんを食べることにしています。どちらも名古屋以外でも好んで食べる好物なので。

 

 以前来たときには混んでいて、待っている時間がなくてあきらめた「ひつまぶし名古屋備長」に行ってみると、コロナ禍の影響か空いていたので入り、念願のひつまぶしと男梅サワーを注文。値段もそれなりでしたが、うなぎの身が厚く、ふっくらと焼き上がっていて、皮はパリッとし、食べた瞬間に新宿界隈で食べているものとは違うという食感で、大満足でした(あとで調べたら、銀座や丸の内、そして池袋にも支店がありましたが……)。食事後ホテルに戻り、この日は終了です。

f:id:hanyu_ya:20200908214709j:plain「ひつまぶし名古屋備長」のひつまぶし

宝塚メモ~三拍子そろった実力派新星組トップスター、礼真琴の課題

 毎年ふるさと納税をしていて、今年は「本能寺の変お知らせハガキ」が届く福知山市の他、甲賀市に申し込みをし、先日返礼品が届いたのですが、開ける暇がなくて、本日ようやく開封しました。

f:id:hanyu_ya:20200830181821j:plain信楽焼のトトロ(by『となりのトトロ』)と、カオナシ(by『千と千尋の神隠し』)です。

 

 2月に京都に行ったときに高台寺の土産物屋で信楽焼のトトロを見つけて、あまりに可愛かったので欲しかったのですが、大中小の3点セットで衝動買いをする価格ではなかったことと、割れ物を持ち歩いて寺社巡りをするのが面倒だったので、その時はあきらめ、帰ってから通販で買えないか調べたら、ふるさと納税の返礼品になっているのを見つけて、京都で見た物以外の種類もあったので、迷わず申し込みました。トトロは炎型のミニLEDライトに被せるようになっていて、ほんのりと光り、信楽焼らしい土色の陶器を通したあたたかみのある灯りに、なんとも癒されます。


 さて、昨日は久しぶりに日比谷で宝塚を観てきました。演目は、幻想歌舞録「眩耀の谷~舞い降りた新星~」と「Rayー星の光線ー」。新星星組の新星、新トップスターとなった、こっちゃんこと礼真琴さんの東京お披露目公演です。本来なら3月に観る予定でしたが、コロナ禍で5か月遅れの観劇となりました。でも観られたのでよかったです。今月の東京公演も途中で休演がありましたから。

 有望株ぞろいの95期生の首席で、入団以来星組一筋のこっちゃん。研5で『ロミジュリ』のベンヴォーリオを、前星組トップスターのベニー(紅ゆずるさん)と役替わりで演じるという抜擢時から注目してきましたが、以降トップ路線をまったくブレずに走ってきました。「眩耀の谷~舞い降りた新星~」は、宝塚で長らく振付師として、また演出家として活躍してきた謝珠栄さんが初めて脚本から手掛けた作品。ということで、お披露目用のオリジナルなので、ほとんどの役が当て書きでしたが、さすがに宝塚をよく解っている、礼真琴をよく解っていると感じた秀作でした。ストーリーも筋がしっかりしていて破綻がなく、無駄な場面も間延びするようなところもない。やや詰め込みすぎている感と主人公以外は語り切れていないという物足りなさはありましたが、限られた時間内では仕方がないこと。珍しく芝居、歌、ダンスのすべてが及第点以上という、三拍子そろった実力派新トップスター礼真琴の魅力はバッチリ見せきってお披露目公演としての役割は十分に果たしていたので、あれはあれでよいと思います。現星組随一の歌ウマであるこっちゃんが歌いまくるのはいつものことですが、今回は芝居でも踊りまくっていましたからね。ダンサーで振付師としての実績が長い謝さんの作品だけに、踊りで感情表現をしてストーリーを進める場面も多く、なので先月観たダンスの花組の「はいからさんが通る」より数倍踊らされていました(笑)。もちろん、こっちゃんが同期の新花組トップスター、カレー(柚香光さん)より何倍も歌って踊っていたことは言うまでもありません。

 しいて難を挙げれば、主役のこっちゃんも作品自体も力が入りすぎていて、気負いというか、力みが伝わってきてしまったことでしょうか。作品のテーマも、現代にも通じる民族問題という社会性の強いものなので、作品も真面目、主人公も真面目で、観る人によっては疲れるかもしれません。前回、前々回の星組作品は笑いあり涙ありのコメディで、コメディとしての全体的な完成度も高かったので、その要素を期待していた人がおもしろく思うかは微妙です。あと、こっちゃんが演じる丹礼真が好青年すぎて人物的に面白味がないので、そのへんがつまらないかもしれません。一人の人間としては、理想と現実の間で揺れ動いて屈折し、生き方を変えていく管武将軍のほうが共感できるので、彼をもう少し掘り下げてほしかったですね。二番手の役どころでしたし。真っすぐで曇りのない礼真との対比をもっと強調させれば、ストーリー的にはさらにおもしろかったと思います。

 その管武将軍を演じた愛月ひかるさんは、かつて宙組の路線スターで、けれども同期で花組二番手だったキキ(芹香斗亜さん)が同じ宙組に二番手として異動してきて、どうなるのかと思っていたら専科に異動となり、そのままかと思いきや今度は星組に異動となり、今回二番手に昇格。ただし、トップスターより上級生の二番手であるため、同じ立場だったみやるり(美弥るりかさん)と同じく二番手で退団だと思いますが、本人的にはよかったのではないでしょうか。結果的に同期であるキキやさき(彩風咲奈さん)と同じ番手になりましたし。花組の新二番手である瀬戸かずやさんも同じですね。90期生で、95期生のカレーを支える立場なので、二番手で退団だと思います。有望な95期生とはいえ、トップになれない二番手を置いてまで早々にトップにするのはいかがなものかと思いますが、星組花組も確かにトップスターにないものが補完されていてバランスを取ることには成功していると思います。愛月さんでいえば、彼女が持っている大人の男の色気みたいなものは、残念ながらこっちゃんにはないもので、今回の芝居でもショーでも本当に対極的ないい味を出していましたし。そういう意味では、新三番手である星組のせおっち(瀬央ゆりあさん)や花組のマイティー(水美舞斗さん)も、将来のトップスター候補というよりも、現トップスターに足りない部分を補う役回りのような気がします。二人ともトップスターと同期ゆえにトップスターの向こうを張ることができ、かつ二枚目からアクの強い個性的な役もできる振り幅が大きい男役なので。95期生トップスターの時代を盤石とするために、スター性のある生徒が都合よく使われているのは、ちょっと気がかりなことですけどね。

 三番手となったせおっちも、とてもいい仕事をしていました。役柄は礼真が属する周王朝と戦って死んだ少数民族の王で、霊魂というか亡霊の役でしたが、正体が明らかになるまで、謎の男を謎の男らしく演じていました。礼真を演じるこっちゃんと同期なのに、こっちゃんより年上の、立場も上にある役柄で、物語のキーマン的存在という立ち位置がとてもうまくハマっていて、初めは上級生が演じているのだろうと思っていましたが、周の王がみつる(華形ひかるさん)だったので、「あれ? じゃあ、せおっちはどれ? 何役?」みたいな感じになって、ようやく気付いたぐらいです。「ドクトル・ジバゴ」でのパーシャ役の熱演を思い出し、「まあ、せおっちなら、これぐらいやるか」と妙に納得。せおっちはこっちゃんとの歌のハモリもよく、この二人で「エリザベート」の「闇が広がる」を聴いてみたいと思いましたし(ただし、トートがせおっちで、ルドルフがこっちゃんですが)。ショーでは愛月さんとの並びもよく、黒燕尾姿はこっちゃんよりも、愛月&瀬央ペアのほうが断然美しいと思いました。センターであるトップスターのすぐ後ろにいて、嫌でも三人が一緒に目に入ってくるので、どうしても比較してしまいます。これも足りない部分の補完の一部なのだろうとは思いましたが。

 新娘役トップスターの舞空瞳さんは、前娘役トップスターの綺咲愛里さんほど壊滅的ではないですが、コンビを組む歌ウマのこっちゃんをはじめ、男役がそこそこ歌える中だと歌の下手さが目立ってしまうので、今後は歌を頑張ってほしいと思いました。ダンスは言うことないので。

 そして、これが退団公演となる専科のみつる……お疲れ様でした。強国である周の王たる宣王は腹黒さ、欲深さとともに、山間の少数民族を蛮族と卑下する中央国家の王としての洗練された雰囲気も出さなければなりませんが、みつるならではの端整さと存在感の両方を見せてくれました。とはいえ、やはり圧巻はショーで、二番手愛月ひかるを凌ぐ活躍でした。今回もあんなに踊ったあとにソロを歌わせないでほしいと思いましたが、ダンスの脚の上がり方とか妥協がなく、相変わらず見事でした。彼女のダンスは、本当に古き良き花組のダンスなんですよね。

 ダンスを含めて、こっちゃんのパフォーマンスには隙がなく、その反面、どこか力みのようなものが感じられます。私は元SMAPの中井クンのダンスが上手いとはとても思えないのですが、でも、こなれていて、あれはあれでいいダンスであり、よって彼はいいダンサーだと思っています。あとは好みの問題というか……。こっちゃんのパフォーマンスは完璧さや理想を追求して精進しているという努力が透けて見えるというか、きっちりやろうという意識が手足の隅々にまで現れ、一所懸命であることが伝わってきてしまうところがまだまだのような気もします。サラっとやっていたけど、あとからよく考えるとスゴい、相当努力したんだろうなと思える職人技や職人芸を見せてくれた芸達者が宝塚にはたくさんいたので、ぜひそうなってほしいですね。それと、演技についても、今回の丹礼真役は等身大で、こっちゃんの力なら上手く演じられて当然という役だったので、さきが「ファントム」で演じたキャリエール役のような「え、なんでこの役?」というような意外性のある役を早めに経験して、もっともっと芸の幅を広げてほしいと思います。それが望める力量の持ち主だと思うので。今のままでは、哀愁が漂う渋みのある男は、礼真琴よりも愛月ひかる――という感じで、観られる演目が限られてしまいそうなので。

宝塚メモ~類稀な華の持ち主である新花組トップスター、柚香光

 超久しぶりの宝塚メモです。なんと2月に書いた1月の宙組公演以来。仕方がありません、公演がなかったのですから。宙組の次は星組を3月に観劇の予定でしたが、コロナ禍で休演となってしまい、行けませんでした。その3月公演は新生星組のお披露目、次は新生花組のお披露目と、お披露目公演が続くので、いつ再開するのかと心待ちにし、ようやく再開しましたが、ついに公演関係者に感染者が出て、宝塚、東京ともに再び休演となってしまいました。

 

 そんな残念な事態ではありますが、個人的には幸いなことに、先月宝塚で花組公演を観ることができました。演目は「はいからさんが通る」。大和和紀さんの同名マンガを原作とした作品です。前に記事でも書きましたが、私は大和和紀さんの大ファンで、しかも、みりおこと明日海りおさんの後継者である新トップスター、カレーこと柚香光さんのお披露目公演なので、公演が決まったときから絶対に見逃せないと思っていました。で、コロナ対策により販売される席数も少なくなるため、ただでさえいつも激戦の東京公演のチケットを確保するのは至難だろうと思ったので、宝塚まで観に行くことにしました。平日でもB席でもいいと思っていたら、4連休最終日のS席が手配できたので、迷うことなく行ってきました。

f:id:hanyu_ya:20200815162509j:plainバウホール前の看板

f:id:hanyu_ya:20200815162611j:plain開演前に宝塚ホテルがやっている劇場レストラン「フェリエ」で昼食を摂ったのですが、レビューランチを頼んだら、感染対策のため、弁当箱での提供でした。

f:id:hanyu_ya:20200815162644j:plainメニューは、オードブルが「鯛マリネのルーレ オレンジ風味」、メインは「牛ほほ肉のパイ包み焼き ポルトソース」だったのですが、弁当箱のためいっぺんに出てきて、かつ器の縁が立ち上がっているためナイフが使いづらく、色も白い皿と違って朱塗りのため、あまり美味しく思えず、とても残念でした。

 

 さて「はいからさんが通る」ですが、カレーの美貌だけがやたら際立った公演でした。舞台化される前は、ビジュアル的に、緋村剣心ルパン三世を再現することは可能でも、伊集院忍を三次元化することは、いくら宝塚の男役といえども難しいと思っていましたが、まったく違和感がなく、むしろ立ち姿も含めてカンペキでした。そもそも、「るろうに剣心」や「ルパン三世」より作品自体に対する思い入れが強いので、観てガッカリするぐらいなら観ないという選択をしたのですが、「カレーなら幻滅することはないだろう」と信じて行きましたし。なにしろ、あのみりおと一緒に舞台に立って負けることがない華と美貌の持ち主ですから。今までも、たとえ歌が壊滅的であろうがオーラが足りなかろうが、ビジュアルの美しさですべてが帳消しでした。

 

 ――なのに、今回オペラグラスを忘れてしまい、いつもはレンタルがあるのですが、感染対策で中止していたので、劇場内の売店で買う羽目になりました。カレーをオペラで覗けないのは観劇の楽しみを半分以上失うようなものなので……。タカラヅカオリジナルで5組のロゴマークが入ったものだったので、観劇記念のお土産だと思おうと、他にも使えるから割高のお菓子を買うよりいいだろうと、懸命に自分を納得させましたが、お土産にしては高く、痛い出費でした。トホホホ。

f:id:hanyu_ya:20200815163525j:plain大劇場壁に飾られたカレーとマイティー(水美舞斗さん)のポートレート

f:id:hanyu_ya:20200815163554j:plain開演前のタイトルまわりには「はいからさんが通る」のマンガの場面がたくさんあしらわれていてました。何回も読みましたから、全部記憶にあります。

 

 作品そのものは「はいからさんが通る」の内容紹介といった感じ。脚本・演出は小柳奈穂子さんでしたが、「へえ、あの場面をこんなふうにしたんだ」というようなおもしろさはあっても、残念ながら舞台作品として純粋におもしろいものではなかったと思います。冗談社編集長こと青江冬星の口から魂魄(のようなもの)が抜け出るシーンとか、「あー、あのコマのあのギャグか」というのを思い出したりして、「マンガの絵を思い出させるなんて、うまく料理しているな」と原作を懐かしみながら私はそれなりに楽しめましたが、展開が早すぎて、マンガを読んでいなければわけがわからず、ところどころのコメディ要素も何が可笑しいのかわからないと思います。コミック7巻分を2時間半に詰め込んだのだから仕方がないですが……。

 

 ストーリー展開を追いかけるのが精一杯でエピソードを消化しきれず物語に深みがない――マンガ原作作品にはありがちな問題点ですが、今回の作品もそんな印象でした。しいて言えば、細部はすっ飛ばされていましたが、初めから最後までの流れは維持していたので、「天は赤い河のほとり」よりはまとまっていて、まだマシだったと思います。まあ、「天河」は本編が27巻ありましたから。でも、生まれながらの許婚である少尉(伊集院忍)に初めて会ってからしばらくは反発していたマンガの主人公である女学生――「はいからさん」こと花村紅緒がいつのまにか彼を好きになっているし……、上官の陰謀で少尉が小倉に飛ばされたと思いきや次の場面ではもうシベリアに出兵していて軍曹の鬼島と仲良くなっているし……、マンガを知らない観客で、少尉をあきらめようとした紅緒と冬星の結婚式の時に起こった地震関東大震災だと気付いた人が、果たしてどれだけいたでしょうか。

 

 おそらく、原作ファンとそうでない観客とでは目線が違いすぎて、評価が分かれる作品ではないかと思いました。今回は原作が好きな人ほど評価が高いと思います――ここまでよくガンバったって。ロケット(ラインダンス)でロック調にアレンジされたアニメの主題歌が使われていたのもファンとしては嬉しかったですし。ですが、歌劇作品としての全体的な完成度は「るろうに剣心」や「ルパン三世」「ポーの一族」には遠く及ばず。もっとも、るろ剣とポーの演出はイケコで、外部でも引っぱりだこの宝塚随一の人気演出家である小池修一郎氏の作品と比較するのは気の毒というものかもしれません。

 

 みりお時代から引き続き娘役トップスターである華優希さんは、紅緒役をジャジャ馬としてはよく表現していましたが、なんで周りのみんなが紅緒に振り回されつつも、彼女に惹かれていき、その行動を認めて許すのか、その魅力は出し切れていませんでした。描き切れていないといったほうが正しいのかもしれませんが。冬星役の瀬戸かずやさんは、ビジュアルも含めて適役でした。さすが研17。マイティーも適役でしたが、欲を言えば、マイティーの青江冬星が見たかったですね。冬星は常に三つ揃いのスーツを着こなしているロングウェーブ耽美派美青年なので。頬に傷ありのアウトロー青年である鬼島森吾をマイティーならソツなくこなすことは予想の範囲内だったので。

 

 それにしても花組はコマが少ない! 藤枝蘭丸、北小路環、如月など脇役だけど物語全体を通して欠かせない役は、正直もっと存在感が出せる、スター性のある生徒にやってほしかったです。まあ、いないのだから仕方がありませんが……。今回演じた生徒さんにはたいへん申し訳ないのですが、たいそう物足りなく思いました。「はいからさんが通る」はいわばシリアスコメディなので、コメディ担当で、その役割を担いつつ、時にシリアス部分も見せる彼ら脇役が主役級と同じぐらい重要なので……いうなれば物語を味付けしているスパイスのようなものです。如月の役を、月組の光月るうさんやまゆぽん(輝月ゆうまさん)で観たいと思ってしまいました。ビジュアル的にはレイコ(月城かなとさん)なら少尉役もできそうだし。冬星は以前フェルゼン役をやったあり(暁千星さん)ができるし、環はくらげちゃん(海乃美月さん)、蘭丸は風間柚乃さんで。あ~月組で観たくなりました。雪組でもいいです。ナギショー(彩凪翔さん)の冬星とか見てみたいです。

 

 好き勝手いいましたが、ジェンヌのみなさん、劇場関係者のみなさん、気長に再開を待っていますので、心を安くして、それぞれの健康の維持に努めてください。3月に続き、こと(礼真琴さん)の東京お披露目公演のチケットを今月末に取ってありますが、けっして焦って無理はせずに。誰もが不安のない中で、また素敵な作品に出合えるよう、心から願っています。

京都寺社遠征&明智光秀紀行6 その4~智恩寺、成相寺、籠神社

 4連休の三日目は、天橋立に行ってきました。前日に続いて一日雨の予報で、そういう天候が怪しい日はメジャーな観光地にいたほうが無難なので。歩いての移動が大変な大雨になっても、開いている土産物屋や飲食店があれば、買い物や飲食をしつつ雨宿りができます。もし近くに店の一つもない人里離れた寺や神社にいたり山道を歩いていたりしたら、間違いなく途方に暮れて、訪れた場所の印象も悪くなり、せっかくの旅が台無しになってしまいますから。

 

 天橋立は3回目で、一度目は本格的に寺社巡りをしていなかった大昔に、松島、宮島とともに日本三景の一つに数えられる特別名勝ということで訪れ、定番の股のぞきとかをしてきました。二度目は式内社巡りの一環で、丹後一宮である籠神社に参拝。縄文時代史において伊勢の神宮と同じぐらい重要な聖地の跡である奥宮の真名井神社をはじめ、摂末社を見てまわりました。三度目の今回は、西国三十三所第28番札所である成相寺が目的です。この寺は鼓ヶ岳の中腹にあり、山に登る必要があるので(登山バスがありますが)、京都駅から日帰りだった過去2回はそこまで足を延ばすことができませんでした。なので、福知山駅から行き、福知山駅に戻ればいい今回はチャンスと思いました。

f:id:hanyu_ya:20200812212925j:plain初めて天橋立に行ったときに買った,股のぞきをする弥次喜多の木彫り人形。人形部分は一刀彫っぽく、お土産にしてはよくできていて、いまだにお気に入りです。

 

 朝イチで明智光秀を祀る福知山の御霊神社を参拝したあと(といっても、時間的には9時半ごろでしたが……)、神社で買った光秀関連の本を置きに一度ホテルに寄ってから福知山駅に行き、京都丹後鉄道の改札の窓口で天橋立・伊根フリーパス1Dayを購入。自由席ならこのパスで乗れるので特急に乗るつもりでしたが、車内販売がないようなので、駅構内にあるセブンイレブンでホットコーヒーを調達してから、10時49分発の特急はしだて1号に乗りました。

 

 11時30分に天橋立駅に到着すると、丹後半島に渡るため、駅構内にある観光案内所で観光船の出航時間を訊いて地図をもらい、船乗り場へ。前回の摂末社巡りの時に、天橋立の途中にも神社があるため歩いて渡っているので(芭蕉翁の句碑もあります)、今回ショートカットをすることに抵抗はありませんでした。船の時間は11時45分と次が12時発で、観光船乗り場の目の前には日本三文殊の一つといわれる智恩寺があるので、そちらに参拝してから12時発の船に乗ることにしました。最終の観光船で丹後半島から戻ってくると社務所が閉まっている可能性があったからです。お参り後、御朱印を書いてもらっているあいだに、いつものように御守り授与所を確認すると、コレクションをしている覗き瓢箪を見つけたので買いました。

f:id:hanyu_ya:20200812213235j:plain智恩寺金閣(山門)

f:id:hanyu_ya:20200812213332j:plain智恩寺文殊堂から見る暁雲閣(鐘楼門)

 

 雨のため、ざっと境内を見たあと、観光船乗り場の待合室が狭かったので、密の中で待たずにすむように、改札が始まる時間を見計らって戻ると、12時発の船に乗車。天橋立経由で歩くと1時間以上かかりますが、約12分で対岸の一の宮桟橋に着き、国道178号を渡って籠神社へ。成相寺行きの登山バスが出る傘松公園に行くケーブルカーとリフトの乗り場は神社の境内を経由していくのが近道なので。

f:id:hanyu_ya:20200812213431j:plain籠神社鳥居

f:id:hanyu_ya:20200812213537j:plain由緒書き

f:id:hanyu_ya:20200812213628j:plain籠神社神門

 

 神社には改めて後で寄るつもりでしたが、境内を横切らせてもらいながら素通りするのも気が引けたので、お参りだけをして乗り場に行き、登山バスの時間が迫っていて、発車が15分おきのケーブルカーだと間に合わないので、小雨が降っていましたがリフトで登りました。

f:id:hanyu_ya:20200812213730j:plainケーブル・リフトの傘松駅から見る天橋立

 

 事前に調べたところ、登山バスは30分に1本の間隔だったので、12時半発に乗ろうと思っていたのですが、バス乗り場の横にある乗車券売り場に行くと、12~14時は1時間に1本で、次は13時発とのこと。仕方がないので、1dayパスを見せて割引料金で乗車券を買い、ついでに入山料も払ったあと、30分ほど傘松公園で時間をつぶすことにしました。

f:id:hanyu_ya:20200812213852j:plain傘松公園から見る天橋立。看板の左右にいるのは……

f:id:hanyu_ya:20200812213934j:plain傘松公園のマスコットキャラクター「かさぼう」です。キャラクター紹介によると、股のぞきがうまくできず、毎日練習している努力家だそうで……(笑)。前に傘松公園に来たときにはまだいなくて、出合ったのは弥次さん喜多さんの木彫り人形ぐらいでしたが、時代は変わりました。

 

 土産物を見たり売店で買ったものを食べたりしていると1時5分前になったので、乗車券売り場の隣にある乗り場へ行き、バスに乗車。1時に出発し、7分ほどで成相寺に到着しました。

 

 成相寺は、慶雲元年(704)に文武天皇勅願寺とされた、聖観世音菩薩を御本尊とする古刹。いただいた栞によると、開山は真応上人、または聖徳太子とも伝わり、梵天国王の姫が姿を変えたという御本尊は美人観音として有名で、小野小町も信仰したとのことです。残念ながら今回は御開帳期間ではないため、御姿を見ることはできませんでしたが。

 

 お参り後、御朱印授与所で1300年記念特別印入りの御朱印をいただくと、こちらにも覗き瓢箪が売っていたので購入。その時に、バスでも一緒だった4人ほどの外国人参拝客が御守りを見ていたのですが、何故この時期にいて何故この寺にいるのか、少々不思議でした。出入国は制限されているし、国内に長期滞在中だとしても、成相寺に来るという選択はマニアックすぎるように思えたので。天橋立に来たついでだとしても、智恩寺のように簡単に立ち寄れる寺ではありません。有料の登山バスに乗るか、歩きなら30分ほど山道を登らなければならないので、この寺に行こうという目的意識がなければ辿り着けない場所です。

 

 それはともかくとして、御本尊や内陣を拝観できるときは1時間ぐらいかかりますが、本堂にお参りをして、待ち時間なしで御朱印をいただくだけなら、30分もあれば終わります。ということで、次の傘松公園行きのバスの出発時間である14時10分まで30分以上あったので、境内を散策しながら、二つ目のバス停がある山門まで歩くことにしました。

f:id:hanyu_ya:20200812214410j:plain成相寺山門。バスはこの先まで行くので、行きは通り過ぎて、帰りに山門まで下りてきて、山門前のバス停から乗りました。

f:id:hanyu_ya:20200812214506j:plain山門の扁額下の虎

f:id:hanyu_ya:20200812214553j:plain山門前にあった成相寺についての説明板

f:id:hanyu_ya:20200812214633j:plain成相寺五重塔。平成10年(1998)に完成した新しい建物ですが、鎌倉時代の建築様式を再現した木造の塔だそうです。

f:id:hanyu_ya:20200812214725j:plain弁天山展望台から見る天橋立

f:id:hanyu_ya:20200812214806j:plain天橋立と「弁天山展望台よりの展望図」

f:id:hanyu_ya:20200813224206j:plain弁天山から下るときに見える五重塔

f:id:hanyu_ya:20200812215024j:plain本堂から少し下に降りたところにある建物に咲いていた花。漆喰塀と塀瓦、紫の花の組み合わせの美しさに思わず足を止めました。

 

 時間どおりに来たバスに乗って傘松公園に戻り、雨も上がっていたので帰りもリフトで山を下りました。下りはリフトに乗りながら眼下に天橋立が眺められるので、最高に気持ちがよかったです。

f:id:hanyu_ya:20200812215208j:plainケーブル・リフトから見下ろす天橋立

 

 麓の府中駅に到着すると、まずは奥宮の真名井神社へと向かいました。縄文時代史的に重要なのは、ここにある磐座なので。『ホツマツタヱ』によると、八代天君であるアマテル=天照は、遺言で自分の死後の鎮座地を祖父トヨケ=豊受(アマテルの母イサナミの父で「トヨウケ」とも呼ばれる)が鎮座するアサヒミヤ=朝日宮としましたが、のちに生前の宮があり縁の深い伊勢にトヨケ共々遷座させられました。それが現在の伊勢の内宮と外宮であり、内宮祭神の天照大御神がアマテルで、下宮祭神の豊受大御神がトヨケです。それゆえ元伊勢と呼ばれるのです。トヨケは、記紀でいえば、『古事記』に「“豊由宇気”神」という名で登場する神のことで、神産巣日命の父であり、高木神の祖父になります。

 

 そのトヨケが神上がるために入った洞の上に建てられたアサヒミヤを起源とするのがここ真名井神社で、籠神社のほうは、トヨケが死ぬ前まで政務を執っていたミヤツノミヤ=宮津の宮を起源とする神社と思われます。二神が伊勢に遷座したあとは、トヨケより四代ほどのちのニニキネの時代に兄であるホノススミと共に宮津を統治していた彦火火出見命ことホオデミを主祭神とし、「吉佐宮」という呼称が「籠宮」に改められました。そして養老3年(719)に、丹後国造の時代から祭主を務めてきた海部氏の海部直愛志が、始祖である彦火明命を祭神に迎えて主祭神とし、豊受大神天照大神相殿神として祀り、彦火火出見命は別宮に祀りました。それゆえ現在の主祭神は彦火明命なのです。

 

 以上のように、磐座の中でも祭神の正体と詳しい起源がわかっている数少ない磐座なので、久しぶりに見るのを楽しみにしていたのですが、なんと拝殿脇に柵が設けられていて近寄れず。前回訪れたときには、こんな無粋なものはなかったのですが……。しかも神域は一切撮影禁止になっていて、念のため新たにできていた授与所の巫女サンに確認しましたが、柵の前にある説明板すらダメだと言われました。「いろいろな人が居りますので……」と言っていましたが、本当にガッカリでした。授与所も立派すぎて、古代から変わらぬ静かな深い森の中という奥宮の神域では浮いていて、異質な感じが否めませんでしたし。神護寺薬師如来立像、泉涌寺楊貴妃観音像もいつのまにか遠くなりました。世の中にいろいろな人がいるのはそのとおりで、訪れる人を選ぶことはできないので仕方がないことかもしれませんが、このように悲しいことが避けられずに今後も増えるようなら、やはり気になるところにはさっさと行っておくべきだと改めて思いました。

 

 参拝後、真名井神社の授与所で御朱印はいただけないので、籠神社に行って本宮と奥宮の御朱印をいただき、やはり前回来たときにはなかった茶房「かむながら」という店があったので寄ってみると、古代米を売っていたので、お土産に購入。会計のあいだに店内を見渡すと、客が一人もいなかったので、ついでに一服することにしました。

 

 カフェラテを飲んだあと一の宮桟橋へ行き、観光船で天橋立桟橋に戻ると4時前で、あとはもう福知山に戻るだけなので、一杯飲みながら食事をすることにしました。しかし時間が中途半端だったせいか、来たときには開いていた店がほとんど閉まっていたので、智恩寺門前で天橋立名物「智恵の餅」を売る四軒茶屋の一つ、元禄3年(1690)創業の「ちとせ茶屋」で蕎麦を食べることにしました。場所柄、福知山では味わえない海の幸が食べたかったのですが。

f:id:hanyu_ya:20200812215805j:plain蕎麦を食べる前に頼んだ「ちょい飲みせっと」

f:id:hanyu_ya:20200812215853j:plain「はも天ざるセット」。大好きな鱧が食べられたので、結果オーライです。

 

 食事後、天橋立駅16時59分発の特急たんごリレー6号に乗り、17時43分に福知山駅に到着。これにて、この日は終了です。

 

 翌日の最終日は、9時20分にチェックアウトをしてホテルを出ると、この連休で初めての晴れでした。気温も、この中で歩きまわるのはキツいなという暑さだったので、昨日一昨日ではなく、帰る日に雨が降っていないのはラッキーと思いました。大きな荷物を持って移動しながら傘を差さずにすむので。

 

 福知山駅に行き、おそらく今度も車内販売がないだろうと思ったので、前日と同じく駅構内のセブンイレブンでホットコーヒーを買ってから、9時50分発の特急こうのとり10号に乗車。11時に宝塚駅に到着し、キャリーバッグを改札最寄りのコインロッカーに入れると、宝塚大劇場へと向かいました。

 

 昼食後に観劇を終えて4時過ぎに劇場を出ると、来たときにはパラつく程度だった雨が本降りに。劇場内にもロッカーはあるのですが、駅に荷物を預けてきてよかったと思いました。予約より1本早い新幹線に間に合いそうでしたが、早めても1、2本というところだったので、新大阪駅より空いている宝塚駅の窓口に寄って、エクスプレス予約で取った17時57分発のぞみの特急券を発券してもらい、荷物をロッカーから取り出して、16時38分発の宝塚線に乗車。

 

 乗り換えなしで17時20分に新大阪駅に到着し、30分以上待ち時間があったので、蓬莱551の列に並び、豚まんとシューマイを買ってから新幹線改札に向かったのですが、行ってもみると、何故かたいそうな人だかりでした。どうやら静岡県内の大雨で運行を中止していたようで、2時間ほどで再開したようですが、ダイヤは大幅に乱れ、何本かは運休になっていました。

 

 私が乗る予定だったのぞみ244号は運休ではなかったのですが、電光掲示板を見ると1時間10分遅れの表示。ならば次に出るのぞみの自由席で帰るかと思い、発車ホームへ行ったのですが、すでに順番待ちの列がすごくて、とても座れそうになかったので、即あきらめました。さすがに大阪から東京まで立って帰る気はなかったので。

 

 仕方がないので、アルコールでも飲みながら指定席を取った電車を待つかと思い直し、タカラ缶チューハイを買って、244号が発車するホームへ移動。ベンチに座ってプルタブを開けたところで、ふと自由席車両の3号車のほうに目をやると、遠目ながらまだ列が短い気がしたので、これなら座れるかもしれないと思い、開けたばかりのタカラ缶チューハイを蓬莱551の紙袋にしまって急いで席を立ち、列に並びました。今回ラッキーだったのは、乗車駅が京都駅ではなく新大阪駅で、始発駅だったことです。運よく3列シートの窓際をゲットし、定刻17時15分より1時間遅れで出発したのぞみ242号で東京へ。当然のことながら、コロナ禍で最近は空いている新幹線も、この日は京都駅で満席となり、立っている人もいて、この旅で一番密な状態でした。

 

 で、順調に走行していたのですが、突然車内に警報が鳴り響きました。自分が操作していた分も含めて、スマホの警報が一斉に鳴ったようで、あれは家で聞いても突然でビビるのに、乗客が持つスマホが一斉に鳴ったのですから、音も大きくてビックリしました。時刻は19時21分、場所は浜松駅を過ぎたあたり。いったい何だったんだと思っていたら、20分ぐらいして静岡駅の手前で止まり、その後ちょっと移動して静岡駅で停車。それから激しい雷雨のため1時間ほどまったく動かず、ようやく運転再開して品川駅に着いたのは10時でした。密状態で、飲食するときしかマスクを外せない車内に4時間近く閉じ込められて、ハンパない疲労感でしたが、まだ電車で自宅の最寄り駅まで帰ることができ、家までの道は雨が降っていなかったのが、せめてもの救いでした。まあ、大抵のことは、終わりよければすべてよし、です。

京都寺社遠征&明智光秀紀行6 その3~福知山城、福知山光秀ミュージアム、御霊神社

 第6回明智探訪の続きです。

 

 4連休の二日目、2時過ぎに舞鶴から福知山に戻ってくると、今回の旅の目的の一つである福知山市立図書館へと向かいました。福知山で割引などの特典が受けられる「いがいと!福知山ファンクラブ」に登録したときに送られてきたガイドブックに紹介されていて、明智光秀に関する文献500点以上を一般に公開する「明智光秀コレクション」コーナーが開設されていると書かれていたからです。駅前にある市民交流プラザの中にあるのですが、見るからに新しい、デザイン性の高い前面ガラス張りの建物で、中の様子が見えるようになっていて、よそ者でも入りやすかったので、助かりました。

 

 図書館に入り、インフォメーションでコレクションの場所を訊ねると案内してくれ、ガラス棚に収められている閉架図書の使い方を教えてくれました。開架図書はほとんど現代に書かれた歴史書や解説本や小説で、買おうと思えば買えるし、図書館から借りることもできると思ったので、ターゲットを閉架図書に絞り、『群書類従』などをチェック。史学科出身で、摂関時代史研究をしていたときには『尊卑分脈』『公卿補任』『群書類従』『大日本史料』などの古文書史料にはたいへんお世話になったので、特に苦も無く必要な部分を見つけ出し、ずっと見たかった明智氏土岐氏、若狭武田氏系図の漢文原文と、光秀が本能寺の変の直前に丹波国山城国の境にある愛宕神社連歌会を催して奉納した歌――愛宕百韻で詠まれた全100首の原文と解説を複写申込みをして、30枚ほどコピーさせてもらいました。

 

 4時にはコピー作業が終わり、雨が激しければ、このまま図書館で閉館時間まで文献を読み漁り、福知山城へ行くのは翌日にしようかとも思いましたが、ガラス張りの外を見ると、傘を差していない人もいるぐらいだったので、図書館を出ることにしました。そして目の前の駅前ロータリーにあるバス停で福知山城行きバスの時間を確認すると、16時に行ったばかりで、次は最終の17時だったので、コピー資料を置きにホテルに戻りました。雨の日に持ち歩いていると、濡れたり湿気を含んだりで、紙がヨレヨレになってしまうので。

 

 それでもまだ時間があったので、ホテル近くの交差点を渡ったところにある「明智茶屋」に行ってみることにしました。福知山市から送られてきたガイドブックの他、『まっぷる明智光秀』でも紹介されていた福知山名所の一つで、明智光秀スキーの店主が光秀愛が高じて5年前に開店したカフェ兼ケーキ屋です。残念ながら名物の「桔梗ロール」は売り切れでしたが、「光秀の愛したプリン」が5周年記念で3種類あったので、その抹茶味とコーヒーを店内でいただき、お土産にほうじ茶味と焼き菓子セットを買いました。

f:id:hanyu_ya:20200809212048j:plain「光秀の愛したプリン」抹茶味。戦国時代にプリンはないので、正しくは「光秀の愛した(丹波産の食材を使って作った)プリン」です。

f:id:hanyu_ya:20200809212137j:plain同様の理由でネーミングされたと思われる「光秀の愛した焼き菓子」セット。「いがいと!福知山ファンクラブ」の会員証を見せると、1,000円以上の購入で焼き菓子は10%引になります。

 

 店を出ると、駅に向かう途中にホテルがあるので、お土産を部屋に置いてから、駅前のバス停へと向かいました。

 

 光秀ゆかりの主要スポットを巡る光秀ルートの最終バスに乗り(乗客は一人)、福知山城公園前バス停で下車。小雨だったので、先に高台の上まで歩いて登らなければならない福知山城から見学することにしました。

f:id:hanyu_ya:20200810012318j:plain福知山城。国と県の補助金及び、市民による「瓦一枚運動」などの寄付金によって再建され、昭和61年(1986)に大天守が完成。福知山市から送られてきたパンフレットによると、「明智光秀が築いた城で、唯一天守閣がある」がキャッチフレーズのようです。

f:id:hanyu_ya:20200809212324j:plain石垣は光秀時代の物が残っていて、転用石が使われた代表的な例として知られます(ネットで得た情報によると、天守台の張り出し部分の下にある斜めの線を境に、右が安土桃山期、左が江戸期のものだそうです)。転用石の石垣とは、墓石や宝塔、石仏などを転用した石垣のことで、福知山城では500個ほどの転用石が確認できるとのこと。前領主や寺院からは既成勢力を削ぐために強制徴収したと思われますが、領民からは、領主と一体になって城を作るということを意識させるために、自主的に提供させることも多かったようです。残念ながら雨だったので、外観はあまりゆっくりと見られませんでしたが。

 

 入口に観光客は誰もいなかったので、まったくの杞憂でしたが、混んでいることを予想して、あらかじめ駅の観光案内所で買っておいたミュージアムとの共通チケットを見せると、例によって検温&連絡先の記入があり、その後チケット売り場で御城印を購入してから登城。松江城丸岡城のような現存天守と違い、外観復元天守なので、中は現代的な、完全な資料館です。

f:id:hanyu_ya:20200810001433j:plain福知山城の御城印

f:id:hanyu_ya:20200810001514j:plain福知山城にもいた福知山市公式キャラクターの光秀。市から送られてきたパンフレットによると、陣羽織の桔梗紋が市章とのこと(笑)。市中の自動販売機のみならず、JR西日本の特急列車にもラッピングされているそうで、ここまでやられたら、もう脱帽するしかありません。

f:id:hanyu_ya:20200809212538j:plain福知山城の歴史の前半。「彦坐王が玖賀耳の御笠を討った場所は、なんと福知山でしたか!」と新たな発見がありました。『古事記』には単に彦坐王は「旦波国」に遣わされたとしか書かれていないので。古代史的にもかなり重要な地であることがわかりました。

f:id:hanyu_ya:20200809212708j:plain福知山城の歴史の後半。室町時代以降、光秀が城主となるまでの推移。一般的には、あくまで創作物で史料としてはあてにならないと酷評されている『明智軍記』にある辞世を根拠とした享禄元年(1528)生まれの享年55歳とされることが多い光秀ですが、この年表では没年が57歳になっていたので、大いに気になりました。他でもない福知山城の情報です。根拠が知りたいです。

f:id:hanyu_ya:20200809212808j:plain善政を行ったといわれる光秀の治政について

f:id:hanyu_ya:20200809212854j:plain歴代城主についての説明があったのですが、その中に羽柴秀長の名があったので驚きました。世に「大和大納言」と称された彼の領地は、その呼び名のとおり大和国周辺であり、居城は郡山城で、福知山城に入ったとか福知山を治めたとかいう話は聞いたことも読んだこともなかったので。しかしながら、ここは明智光秀が築いた城で、しかも圧政から解放してくれた光秀を領民は慕っていたので、秀吉が光秀色を一掃しようとして、優秀な弟に福知山を任せたということは十分にありえます。秀長が長生きしていたら暴走する秀吉を諫めることができ晩年の狂気の沙汰はなかったかもしれないといわれるほど人物的にも評価の高い武将ですから。

f:id:hanyu_ya:20200809213048j:plain歌川国芳描く明智光秀。画の上の略伝は戯作者の柳下亭種員によるものですが、江戸時代後期の人間が持っていた光秀観が判ります。

f:id:hanyu_ya:20200809213123j:plain太平記英勇傳 登喜氏」についての作品解説

 

 6月に行った沼田市歴史資料館の特別展で、光秀がイトコかハトコにあたる土岐定政佐々木高綱の轡を譲り、それが「土岐家代々嫡長伝来の品」であることを知りましたが、福知山城でも佐々木高綱の名に遭遇したので、たいそう驚きました。

 

 福知山城の江戸時代の城主は初期にはころころと変わりましたが、寛文9年(1669)に土浦藩主だった朽木種昌が加増移封して城主となってからは朽木氏が代々世襲し、明治維新を迎えました。福知山藩主となった種昌は父種綱を藩祖として城中に祀り、11代綱條の時に社殿を建てて城中から遷座し、朝暉神社と号しました。その神社に御神刀として祀られていた刀が展示されていたのですが、それが「綱切丸」と呼ばれる佐々木高綱の刀でした。一緒に展示されていた由来書に、佐々木氏は朽木氏の先祖と書かれていたので、それゆえに高綱の刀が朽木家に伝わったということなのでしょう。「綱切丸」は源頼朝木曽義仲が戦った宇治川の戦いで先陣を切ったときに高綱が帯びていた刀で、その時に乗っていた馬の名は「池月」というのですが、この馬の轡が土岐家に伝来したものです。土岐家文書では「生喰」と書いて「いけづき」と読ませていましたが。ということで、もしかしたら馬具も馬と同時に頼朝から頂戴したもので、この轡も初代鎌倉将軍ゆかりの品なのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20200809213617j:plain朝暉神社の御神刀である佐々木高綱所用の「綱切丸」

f:id:hanyu_ya:20200809213721j:plain「綱切丸」の由来書

f:id:hanyu_ya:20200809213816j:plain御城印の「福知山城」の文字は、朽木種昌が転封にあたって幕府勘定方から受け取った福知山藩の領地目録の中から採られたものだそうです。

f:id:hanyu_ya:20200809214243j:plain天守最上階からの眺め。鬼瓦にある隅立て四つ目結文は朽木家の家紋。

f:id:hanyu_ya:20200809214156j:plain眺めについての説明

f:id:hanyu_ya:20200810020937j:plain明治時代に破却され、平成21年(2009年)に再建された釣鐘門。門のあいだから見える左の緑の山は、天守からも見えた愛宕山。幟の左側に朝暉神社があります。

 

 福知山城を出ると、城下にある光秀ミュージアムへ。すると、またまたカッコいい光秀のイラストが迎えてくれました。

f:id:hanyu_ya:20200809214520j:plain福知山光秀ミュージアムの入口。福知山城公園内にある佐藤太清記念美術館の2階になります。

f:id:hanyu_ya:20200809214559j:plain美術館の外壁にあった明智光秀のイラスト。館内の光秀シアターの番組内では「明と智に秀でること光の如し」とか言っていましたし……。美化もここまでくると大したものだと思いました。

 

 こちらは特別公開の資料が多いためか、館内は撮影禁止でした。本徳寺の肖像画は福知山では8年ぶりの公開とのことですが、複製が福知山城に展示されていたので、比較ができておもしろかったです。

 

 特別公開の「織田信長朱印状」は、天正4年(1576)4月に丹後国の堂奥城城主である矢野弥三郎に宛てたもので、信長に歯向かう丹波の有力国衆である赤井五郎(忠家)と荻野悪右衛門尉(直正)を赦免するという内容。第一次丹波攻略戦で、八上城城主である波多野秀冶の離反により織田軍総大将の光秀は敗走し、結果として和議が結ばれることになりましたが、その和議を信長は「赦免」と主張しているという、信長のプライドの高さがうかがわれる書状です。同じく特別公開の「明智光秀書状」は、信長のこの朱印状を受けて、光秀が添状として同じく矢野弥三郎に宛ててしたためたもので、本来は同時に伝達されたものでしたが、いつしか離れ離れとなり、現在「織田信長朱印状」は兵庫県立歴史博物館に、「明智光秀書状」は美濃加茂市民ミュ ージアムに所蔵されています。それが今回初めてセットで公開されたそうです。

 

 福知山市にある光秀を祀る御霊神社が所蔵する「明智光秀書状」は、近江国衆の奥村源内に宛てて、信長に叛いた荒木村重の籠る有岡城攻めや八上城の波多野氏攻略など第二次丹波攻略戦や畿内の状勢を書き記したものとのこと。貴重な史料の実物が見られるのは貴重な機会で、とてもありがたいのですが、専門の学者ではない素人が活用できる実用的な資料としては田辺城のパネル展示のほうが勝っていました。写真であっても現代語訳などの詳細な解説があるほうが助かります。その点、古文書の現物と釈文、現代語訳を併せて展示していた沼田歴史資料館は素晴らしかったと思います。まあ、学芸員がいる地域を代表する歴史資料館と期間限定の大河ドラマ館の差といえば、それまでですが。そうはいっても、福知山光秀ミュージアム大河ドラマ館にしては見事な展示品で、気合が入っていることが十分に伝わってきて、ずいぶん頑張っているなと思いました。従来はドラマで使用された衣装や小道具の展示、出演者やスタッフのコメントなどのパネル展示や動画メッセージ、メイキングビデオといったものが大半なので。

 

 6時45分にミュージアムを出ると、外はやや暗くなりはじめ、福知山城公園の街灯が点灯していました。念のためバス停に行ってバスの時間を確認しましたが、やはり終わっていました。駅前から最終バスで城に行ったら帰りはどうしたらいいのか気になり事前に調べていたので 、光秀ルートはもちろんのこと路線バスの運行も終了し、近くにタクシー乗り場もないことは来る前からわかっていましたが……。なので、予定どおり歩くことにしました。

f:id:hanyu_ya:20200810161123j:plain福知山城公園から見る福知山城

 

 雨の中15分ほど歩くと駅前に出て、このままホテルに戻っても何もないので、駅構内にある「らいおん丸」という居酒屋に寄って、福知山の玉子焼きというご当地メニューをつまみながらレモンサワーを一杯飲み、締めに寿司を食べてから戻りました。これにて、この日は終了です。

 

 翌朝は、雨が降っていなかったので9時20分にホテルを出発し、まずは御霊神社へと向かいました。光秀が祭神として祀られている神社です。歩いて10分ぐらいでした。

f:id:hanyu_ya:20200810003421j:plain御霊神社の鳥居と社号標

f:id:hanyu_ya:20200810002430j:plain由緒書き

f:id:hanyu_ya:20200810002510j:plain大河ドラマ決定アピール看板

f:id:hanyu_ya:20200810002555j:plain拝殿と本殿と境内社事代主神社(向かって右)

f:id:hanyu_ya:20200810002715j:plain御霊神社についての説明板。下には桔梗が咲いていました。

 

 お参り後に社務所へ行って御朱印をお願いすると、書き置きのみだと言うので、そちらに日付を入れてもらうことにしました。待っているあいだに御守り授与所を物色すると、光秀関連の本が2冊あったので購入。出版社が出している本はネットでも買えますが、神社の崇敬会などが発行しているような冊子は入手困難なので。しかも、境内に立てられていた説明版にも書かれているように、御霊神社には三つの光秀直筆の古文書が残っているため(そのうちの一つが、今回期間限定で福知山光秀ミュージアムに展示されていたもの)、それらに関する情報や解説、それらを根拠とした考察や研究結果などが得られるのではないかと期待して買いました。

f:id:hanyu_ya:20200810003602j:plain御霊神社で購入した「京街道 明智光秀物語」と「明智光秀今昔観」

 

 御霊神社を後にすると、2冊の本を持ち歩いて移動するのは鬱陶しかったので、いったんホテルに戻り、清掃中の部屋に置いてから福知山駅へ。このあとも旅は続き、天橋立、宝塚へと行きましたが、光秀とは関係ないので、今回の明智光秀探訪はここで終わりです。

 

 26日に家に帰ったら、福知山市から郵便物が届いていて、ふるさと納税特典の「本能寺の変お知らせハガキ」と福知山城&光秀ミュージアムの無料入場券が入っていました……ちょっと遅い! でもそんなところが、どこか不運さが付きまとう光秀っぽいと思いました。本能寺の変で信長を滅ぼすことに成功しながら数日後の山崎の合戦で秀吉に敗れて天下を取れなかったり、念願の主人公となった大河ドラマの年に未知のウィルスが世界的に流行したり……トホホホ。ミュージアムは来年1月11日まで開館し、会期中10回に分けて光秀ゆかりの一級資料を展示するそうなので、寺社巡りのついでにでももう1回ぐらい行こうと思っています。

f:id:hanyu_ya:20200810003810j:plain本能寺の変お知らせハガキ」の表面。差出人は亀山城城主の光秀で、宛て先は福知山城城代の秀満になっています。自治体がこんな冗談を本気でやるところが洒落ていて心憎いです。「いがいと!福知山ファンクラブ」といい、福知山市役所の心意気に惚れて今回福知山を訪問したと言っても過言ではありません。

f:id:hanyu_ya:20200810003914j:plain本能寺の変お知らせハガキ」の裏面

f:id:hanyu_ya:20200810004044j:plain本能寺の変お知らせハガキ」の中面その1。集合場所、集合時間、終了予定、持ち物、免責事項などについて。

f:id:hanyu_ya:20200810004145j:plain本能寺の変お知らせハガキ」の中面その2.明智光秀福知山市の案内

京都寺社遠征&明智光秀紀行6 その2~田辺城、笶原神社、朝代神社、円隆寺

 4連休の二日目三日目は明智光秀探訪です。福知山の大河ドラマ館である光秀ミュージアムで、6月20日から7月27日まで、同じ人物に宛てた信長の朱印状と光秀の書状が初めてセットで展示され、また18日から27日の10日間は光秀を祀る御霊神社に残されている光秀の書状も展示され、さらに21日から27日の7日間だけ、現存する光秀の唯一の肖像画といわれる岸和田の本徳寺蔵の掛軸も展示されるということで、「これは行くしかない!」と思い、福知山まで足を運ぶことと相成りました。これだけの物を一度に見られる機会は次にいつあるかわからないので、明智光秀の謎解きに挑んでいる者としては至極当然の成り行きです。

f:id:hanyu_ya:20200808021621j:plain福知山駅構内で出迎えてくれた明智光秀麒麟らしきもの。この光秀は福知山市オリジナルの公式キャラクターで、市内のあちこちにいました。自動販売機とか(笑)。イラストを手がけたのは諏訪原寛幸さんだそうですが、やたらイケメンです。この他、福知山市には観光協会のイメージキャラクターである「光秀くんとひろこさん」というゆるキャラも存在し、こちらのデザインを手がけたのは『忍たま乱太郎』の作者である尼子騒兵衛さんとのこと。なんとも力の入ったシティプロモーションです。

 

 ということで、上記のごとく特別公開が目白押しの23日から26日は、ミュージアムも福知山城も8時まで開館時間が延長され、入館は7時半までだったので、この二つは夕方から訪れることにし、日中は光秀の首塚がある宮津の盛林寺か天橋立に行こうと思っていたのですが、土曜の天気予報は大雨だったので、悩んだ末に、舞鶴の田辺城址へ行くことにしました。福知山から電車で行けて、駅からそれほど遠くなく、あまり歩かずにすみそうなところを調べていたら、こちらに突き当たったので。ちなみに田辺城は、明智光秀と縁が深かった細川幽斎が築いた城です。

 

 10時17分福知山発の舞鶴線に乗り、55分に西舞鶴駅に到着。もともと舞鶴を訪れるつもりはなかったため、急きょスマホから得た情報しかなかったので、駅構内の観光案内所で地図をもらい、田辺城址の他に見どころがないか確認。城下町だからか市街地の西にある山の麓にいくつかの寺社仏閣があり、スマホで調べると、そのうちの一つである笶原神社式内社だったので、時間があれば寄ることにして歩き出しました。7分ほどで田辺城本丸の跡地に作られた舞鶴公園に到着。福知山のホテルから西舞鶴駅までは雨がまだ降っていなかったのですが、歩いているうちについに降ってきてしまいました。

f:id:hanyu_ya:20200808022229j:plain再建された田辺城大手門

 

 大手門では、田辺城城主だった細川幽斎こと細川藤孝をモデルにした舞鶴市ゆるキャラである「ゆうさいくん」が出迎えてくれました。なんと細川家公認だそうです(笑)。幕臣から織田信長の家臣となった藤孝は長岡京勝竜寺城を居城としていましたが、光秀が信長に丹波の制圧を命じられると、藤孝は丹後制圧を命じられ、平定後、丹後に領地を賜ったので宮津城に移り、のちに舞鶴に田辺城を築いて領国経営の中心としました。

f:id:hanyu_ya:20200808022323j:plain大手門にあった「ゆうさいくん」のパネル

 

 大手門の2階は田辺城資料館になっていて、入館料を支払う受付で田辺城の御城印を購入することができます。展示室は小さなものでしたが、いくつか気になった資料があったので、写真を撮らせていただきました。

f:id:hanyu_ya:20200808023621j:plain田辺城の御城印

f:id:hanyu_ya:20200808023712j:plain細川家の系図

f:id:hanyu_ya:20200808023757j:plain細川家が九州に移封となったあと田辺城の城主となった京極家の系図。なかなか興味深い縁戚関係です。

 

 田辺城は関ヶ原の戦いの前哨戦で激しい籠城戦の舞台となった城としても知られます。主君の菩提を弔うという理由で本能寺の変後に剃髪し、信長を討った光秀に味方せず袂を分かった藤孝は、田辺城を嫡男の忠興に譲り、丹後における最初の居城である宮津城に隠居していましたが、田辺城の城主である忠興が東軍に与して出陣したため、再び田辺城に入りました。そして、西軍の攻撃を受けて敵の手にかかる前に自害した忠興の妻・珠(光秀の娘)と同じく、敵の手にかかる前に城主不在の宮津城を焼き払い、田辺城に籠城。15000人の敵軍をわずか500人ほどの軍勢で迎え撃ちました。籠城戦が長引く中で、『古今和歌集』の秘事口伝の伝承者(古今伝授者)であった幽斎は、戦に敗れたあと自身が持つ「古今伝授の書」が戦火で喪失するのを恐れて、後陽成天皇に献上。そんな幽斎を惜しんだ後陽成天皇は両軍を仲介し、公家の勅使が田辺城に遣わされて、勅命による講和が結ばれ、幽斎はおよそ2か月に及ぶ籠城をやめて開城しました。関ヶ原で決着がつく二日前のことです。幽斎は田辺城を明け渡し、かつて光秀が築いた丹波亀山城に身柄を移されることになったので、この籠城戦は西軍勝利のようにも見えましたが、幽斎によって田辺城に釘付けにされていた15000人の兵は天下分け目の関ヶ原の決戦に間に合わなかったとのことなので、どちらが真の勝者であったかは明白です。

 

 結果的に幽斎の命を救うことになった「古今伝授」についてはまったく知らなかったのですが、時代に合ったユニークなシステムがあったのだと、たいそうおもしろく思いました。印刷技術がなかった中世以前は、本を読むためには筆写をすることが必要で、わからないことを教わるためには、その道の師匠に入門して講釈を受けなければなりませんでした。よく考えれば、もっともな話ですが……。よって、文学の肝は師から弟子への口伝で継承されるのが普通で、「古今伝授」は、歌道の最高峰である『古今和歌集』の講釈を師匠に入門して教わることで、師匠は正しく教え伝えるために、重要なことはそれを理解できる優れた弟子にのみ秘伝として伝えました。そして秘伝を授けることを「相伝」といい、受けることを「伝授」といったのです。つまり、幽斎が戦死するということは、歌道の奥義も失われるということでした。それゆえ天皇はみずから動いてまで戦を止めさせたのです。天皇家や公家における文学の重要性が察せられる、なんとも奥深い話です。世の中にはまだまだ知らないことがたくさんあります。

f:id:hanyu_ya:20200808025125j:plain西舞鶴駅でパネル展示されていた「古今伝授」についての解説

f:id:hanyu_ya:20200808025217j:plain田辺城資料館に貼ってあった「古今伝授」の方法

 

 資料館を出たあと、隣の彰古館へ行ってみると、スタッフも見物客も無人の館内に、細川幽斎に関するパネルが展示されていました。今まで見た光秀関連のパネル展示の中でも一番充実しているのではないかと思ったほど、かなり密度の濃い内容でした。

f:id:hanyu_ya:20200808025414j:plain光秀は理系の才人で幽斎は文系の才人という記述があるのですが、その評価は言い得て妙な気がしました。ただし連歌茶の湯の心得がある光秀のことを芸術的素養がなかったというのは少々言い過ぎで、いささか幽斎びいきが過ぎるのではないかと思いましたが。まあ確かに、光秀の字は上手いとは言えませんが。

f:id:hanyu_ya:20200808025604j:plainアナザー本能寺の変。教科書や歴史書に書いてあることだけが真実ではなく、すべてでもないということの典型です。だから歴史はおもしろいのです。光秀には光秀の、信長には信長の、そして藤孝には藤孝の本能寺の変がありました。

f:id:hanyu_ya:20200808025656j:plain本能寺の変後に光秀から藤孝に送られた手紙。言い訳がましいとか女々しいとか評されているため、実際の内容が知りたかったので、原文と現代語訳の両方がわかり、本当に嬉しかったです。

f:id:hanyu_ya:20200808025812j:plain幽斎と足利義昭のエピソードは知りませんでした。14年ぶりに再会した二人のあいだで何が語られたのか、大いに気になります。小説になりそうな場面ですね。

f:id:hanyu_ya:20200808025908j:plainアナザー関ヶ原の合戦。田辺城だけでなく、こんなエピソードが各地にあったのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20200808030006j:plain田辺城資料館にあった「古今伝授の方法」に書いてあった⑦証明状の実物が見られました。幽斎の師は公家の三条西実枝で、「古今伝授」は三條西家の一子相伝の秘事だったのですが、いつ戦乱に巻き込まれるかわからない戦国の世に、実枝の子である公国は幼くて伝授者の資格を得るまでに相当の時間がかかるので、いずれ三條西家に相伝することを約して弟子の藤孝に相伝したそうです。三條西家以外、しかも藤孝は公家ですらなく、それにもかかわらず選ばれたということは、数いる弟子の中でも「優れた弟子」だったのでしょう。

f:id:hanyu_ya:20200808030053j:plain参考文献一覧。学術論文並みの数で、舞鶴市の気合いが感じられます。ぜひ多くの人に見てほしいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20200808030250j:plain大手門を入って左手にある「彰古館」。田辺城の隅櫓を模して昭和15年(1940)に建てられた文化財陳列館だそうです。オレンジ色の幟は大河ドラマの幟でしたが、書かれている文言は「細川幽斎ゆかりの地」でした。まあ、光秀ゆかりの地ではありませんから、正直でいいと思います。

 

 彰古館を出ると、雨が強くなっていたのですが、時間があったので、舞鶴公園内にある心種園に寄ってから笶原神社へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20200808232011j:plain幽斎が後陽成天皇に献上する「古今伝授」の秘伝書を託した場所と伝わる田辺城の庭園「心種園」。庭園名は、秘伝書に添えられていた「いにしへも今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」という幽斎の歌から命名されたそうです。

f:id:hanyu_ya:20200808232052j:plain百合のようなピンク色の花がたいへんきれいでした。

 

 次に訪れた笶原神社は、鳥居前にあった説明によれば、天平勝宝元年(749)頃の創建で、祭神は天照大神豊受大神月夜見神。合殿には清和天皇宇多天皇が祀られているそうで、かつては魚居社(まないのやしろ)とも呼ばれ、古代海部や凡海連と関わりがあるとのことでした。

f:id:hanyu_ya:20200808232307j:plain笶原神社の鳥居と本殿

f:id:hanyu_ya:20200808232348j:plain鳥居前にあった説明

f:id:hanyu_ya:20200808232426j:plain由緒書き。「笑」ではなく「笶」で、「やはらじんじゃ」と読みます。

 

 奈良時代の創建で、天照大神豊受大神を祀り、「“まない”のやしろ」と呼ばれ、古代海部――つまり丹後国造であった海部直と関わりがあるというのなら、当社は確実に今なお海部氏が宮司を務めている丹後一宮――籠神社の奥宮である“真名井”神社を勧請したのだと思います。籠神社の現祭神は彦火明命で、この神は海部の祖神でもあるので。あるいは、笶原神社の地理を考えると、皇祖神のニ神が宮津から伊勢に遷座する際に立ち寄った場所の一つとも考えられます。つまり元伊勢です。もしそうならば、この神社で一番重要なのは、真名井神社とは関係がないにもかかわらず祀られている月夜見神かもしれません。奈良時代に皇祖神のニ神が祭神とされる前はこの神がこの地に祀られていたのではないかと思います。というのも、式内社であることからも、笶原神社の起源はもっと古いように思えるからです。

 

 もう一つ、元々の祭神は火産霊神だったのではないかという可能性も挙げられます。

 

 笶原神社の南北には、本殿の背後にある山の裾に沿うようにして寺社仏閣が点在しますが、いずれも笶原神社より後の時代に創建されたものだと思うので、背後の山は他でもない笶原神社御神体なのだと思います。実際に本殿の右脇から山上へと続く道が存在し、境内社もありましたし。

f:id:hanyu_ya:20200808233123j:plain本殿背後の山に続く道と境内社の鳥居と社

 

 雨だったので登るのはやめましたが、家に帰ってから調べたところ、山の名前は愛宕山で、境内社愛宕社のようなので、山を御神体とする古代祭祀の形態で祀られた元々の祭神は、皇祖神に追いやられて現在は境内社の祭神となっている火産霊神とも考えられます。境内社の祭神は確認していませんが、愛宕社なら火産霊神か、その同一神である迦具土命のはずなので。清和天皇宇多天皇が合祀されている理由は不明。清和源氏宇多源氏の祖なので、源氏一族と関係があるのかもしれません。

 

 笶原神社の鳥居前の道を南へ進むと、近世に田辺藩町方の産土神とされた朝代神社に着きます。由緒書きによると、創建は天武天皇の時代で、こちらははっきりと「淡路国日の少宮をお遷しした」と書かれていました。つまり、淡路一宮である伊弉諾神宮を勧請したということです。したがって祭神名は朝代大神ですが、その正体は伊弉諾尊のこととされています。

 

 ……なのですが、由緒書きによると、境内社の筆頭は塩釜社になっていて、他の境内社は本殿の周囲にあるのですが、塩釜社だけは石鳥居の外にあって、完全に別格扱い。しかも本殿は南を向いていて愛宕山を拝むようになっていないのですが(このことからも、愛宕山御神体としているのは舞鶴産土神である朝代神社ではなく、延喜式に記載されている式内社で、朝代神社より古くから存在したであろう笶原神社であることがわかります)、塩釜社は山を拝むようになっているので、伊弉諾尊が勧請される前は塩釜神――すなわち鹽土老翁神が主祭神だったのではないかと思います。

 

 鹽土老翁神ことシホツツは、山幸彦ことヒコホオデミが兄の釣り針を失くして途方に暮れているときに力を貸した人物。シホツツの案内で九州に導かれたヒコホオデミは、その地を治めるハデツミの協力を得て釣り針を取り戻し、ハデツミの娘であるトヨタマを娶ってハデツミの後継者となりますが、近江の都にいる父――十代天君ニニキネに呼び戻されて、父の跡を継いで十一代天君となりました。伊弉諾尊ことイサナギの玄孫で、初代神武天皇の祖父です。

 

 以上のように、天皇家にとってかなり重要な神なので、元々の朝代大神とは鹽土老翁神ではないかと思います。ハデツミをはじめとする海神一族とも縁が深いので。兄の海幸彦ことホノススミと共に敦賀にいたヒコホオデミを九州に案内するときに立ち寄った場所なのかもしれません。しかし時を経て、天皇家の直接の祖神である皇祖神のほうが重要視され、その結果、七代天君であるイサナギ主祭神の地位を取って代わられてしまったのではないでしょうか。おそらく現在の塩釜社の位置に祀られていたのがイサナギで、笶原神社に祀られた息子の天照大神と同じく愛宕山に向かって祀られていたのだと思います。ということで、元々の祭神が塩釜神ならば、本殿が南向きであるのも合点がゆきます。山ではなく海を拝むようになっているのでしょう。神となったシオツツは潮流を司る神、すなわち航海の神なので。

f:id:hanyu_ya:20200808234402j:plain朝代神社の鳥居

f:id:hanyu_ya:20200808234455j:plain鳥居の外にある鹽竈神社(塩釜社)。現在の境内地でいうと、境内社ではなく境外社ですが、古くはここも境内だったのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20200808234549j:plain傾いた由緒書き

f:id:hanyu_ya:20200808234701j:plain本殿。左側が愛宕山になります。

 

 境内から南に抜けると、そのまま円隆寺の境内となります。行基が開創したとも伝わる寺ですが、それよりも真言宗御室派であることが気になりました。御室派の総本山は仁和寺です。この寺に伝わる『慈恵山記』で開創とされる皇慶は、橘広相の孫とも曽孫ともいわれ、広相は仁和寺開祖の宇多天皇が即位する前から妻としていた二人の女御のうちの一人――橘義子の父親なので、その縁かと思われます(ちなみに、もう一人の古株女御は醍醐天皇の母となった藤原胤子)。笶原神社に合祀されるくらい宇多天皇舞鶴と関係が深いのは、このあたりにヒントがありそうです。

f:id:hanyu_ya:20200808234913j:plain天明6年(1786)建立の円隆寺本堂

f:id:hanyu_ya:20200808235017j:plain本堂の左奥にあった階段。雨が降っていた上に時間もなく、それゆえ上には行かなかったので何があるのかはわかりませんが、階段脇の花といい、杉の木といい、門から見える山の緑といい、門の上のグレーの空といい、完璧な構図だったのでパシャリ。

 

 最後に御朱印をいただくため、塩釜社のそばにある朝代神社の社務所に寄ってみましたが、何回か声をかけても誰も出てこなかったので、西舞鶴駅に向かいました。朝代神社は8世紀の創建という比較的新しい神社で、式内社ではないため、あきらめもつきました。

 

 駅に戻ると10分ほど余裕があったので、改めて細川幽斎のパネル展示を見たあと、13時31分発の舞鶴線に乗り、福知山に戻りました。(続きます)