羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

織田信長の誤算による自滅か!?~本能寺の変の黒幕についての一考察

 以前に遠征記の中で、本能寺の変の動機についての考察を書いたことがありましたが、明智探訪を続けてきて、明智光秀の動機とは別に、黒幕について思い至ったことがありました。本能寺の変を仕掛けたのは、織田信長本人ではなかったか――と。

 

 そう思ったのは、NHKの「歴史探偵」という番組で、光秀が築いた周山城の規模を知ったときでした。天正7年(1579)に丹波平定をほぼ終え、信長から丹波一国を領国として与えられると、光秀は亀山城、福知山城に続いて周山城の築城を開始しました。天正9年(1581)8月には茶の湯の師匠である津田宗及を招いて月見をしたことが『宗及茶湯日記』に記録されているので、その頃までには、完成はしていなくても客を呼んでもてなすぐらいの体裁は整っていたことになります。

 

 周山城は480メートルの山の上に作られた南北600メートル、東西1300メートルに及ぶ、とんでもない規模の城です。国衆の力が強くてまとめるのが難しい丹波をついに平定し、さらに彼らや領民たちを従わせて、わずか2年足らずでそのような巨大城郭を作った光秀に、信長は恐れを抱いたと思います。同番組で周山城のCG復元図を見たときに、私はこれほどの建造物をあんな深い山の上にそんな短期間で人々に作らせた光秀の器量と人望に驚きました。人望があったわけではなく、単に人心掌握術に長けていただけかもしれませんが、いずれにしろ信長が私と同じような感想を持ったとしても何ら不思議ではありません。たとえ実際には目にしていなくても、そのような城の存在を知れば、築城主の力を感じて脅威に思うのではないでしょうか。さすれば、いずれ足元をすくわれるという危機感をおぼえたと思います。度重なる裏切りや離反によって、自分から人心が離れていっていることは、感情的には堪えていなかったかもしれませんが、事実は事実として信長自身も感じてはいたでしょうから。

 

 とはいえ、信長の露払いとなって主君が西国に攻め込む道を着々と整備している光秀に表立っての非はないため、よほどのことがないかぎり光秀を失脚させることはできなかったと思います。丹波平定を成し遂げるという他に類を見ない武功を挙げた光秀にそんなことをすれば、けっして一枚岩ではない織田方の武将たちはとたんに信長に背を向け、信長のために戦をしなくなるからです。また、光秀の下でおとなしくなった近江や丹波の国衆や、今や34万石の大名である光秀の配下も黙ってはいません。そうした事情もあって、信長は光秀が自分に叛いて、公明正大に光秀を処分できる機会を作ろうとしたのではないかと思えます。

 

 怨恨説の根拠の一つとなっている安土城徳川家康を饗応したときの叱責、四国説の根拠となっている長宗我部家に対する方針転換など、従来本能寺の変の動機として挙げられている、光秀の不満を煽るような細かいことを意図的に積み上げていき、何かきっかけがあれば光秀が叛きそうだという情報を得たところで、少ない手勢で本能寺に滞在してわざと隙を見せて、堪忍袋の緒を切った光秀が事を起こしたら、信長の内意を受けていた羽柴秀吉が光秀を成敗するという手筈だった――今のところそれが一番しっくりきます。だからこそ秀吉は中国大返しという離れ業が可能だったのでしょう。何故信長が小姓衆だけを連れて上洛したのかも説明がつきます。光秀の謀反を誘い出して彼を嵌めるためで、秀吉の援護があると信じていたからです。

 

 舞台が本能寺になるかどうかはともかく、わずかな供回りの信長が襲われたら、秀吉の命を受けた者が駆けつけて助け、謀反の現行犯である光秀を言い訳無用で失脚させることになっていた――ところが、光秀とは違う理由で、光秀と同じく信長を煩わしく思いはじめていた秀吉は、目の上の瘤を一気に排除する好機と見て、主君信長を見殺しにし、ライバル光秀を、それこそ主君の仇討ちという公明正大な大義のもとに滅ぼしました。信長の遺体は見つからなかったということになっていますが、もしかしたら秀吉勢が当初の手筈どおりに救い出したあとに抹殺したのかもしれません。歴史とは勝者による勝者のための記録で、出口王仁三郎いわく「信ずるに足らぬもの」なので(笑)

 

 信長の数々の焚きつけに耐えていた光秀が一線を越える理由となったことが何なのかはまた別問題で、そちらはやはり時期的に「三職推任」問題がらみで、前日の6月1日に開かれた茶会にかこつけて公家衆に対して示された信長の返答内容が主因ではないかと思いますが、信長が己の策に溺れて自滅したのが本能寺の変の一面かもしれません。

特別展「国立ベルリン・エジプト博物館所蔵 古代エジプト展 天地創造の神話」in江戸東京博物館

 宝塚の平日のソワレは本来であれば6時半開演なので5時ぐらいまで仕事をしてから行くのですが、緊急事態宣言を受けて、当面のあいだ開演時間が3時半に繰り上げ変更されているので、宙組公演を観劇した日は昼で仕事を切り上げ、両国の江戸東京博物館に寄ってから日比谷に行きました。江戸博には企画展「和宮 江戸へ―ふれた品物 みた世界」を見に行ったのですが、特別展「国立ベルリン・エジプト博物館所蔵 古代エジプト展 天地創造の神話」も開催中だったので、ついでに見てきました。

 

 今回公開されているエジプトコレクションは、世界遺産となっているベルリンの博物館島にある新博物館が所蔵するもので、博物館島には5年ほど前にフリードリヒの絵を見に行き、その時にナショナルギャラリーの他、新博物館を含む五つの博物館を見てきたので、特別展は見ても見なくてもよかったのですが、時間があったので軽い気持ちで寄ってみたら、想像以上に気合いの入った展示で驚きました。日本初上陸という展示品もかなりあって、しかもその多くが撮影を許可されていたことにもビックリしました。

f:id:hanyu_ya:20210123195242j:plainハトシェプスト女王のスフィンクス像(紀元前1479~1458頃)。3500年前の物ですが、奇跡的な保存状態です。

f:id:hanyu_ya:20210123195336j:plainセクメト女神座像(紀元前1388~1351頃)。彫像として完成度が高いです。

f:id:hanyu_ya:20210123195413j:plainツタンカーメン王の前で腰をかがめる廷臣たちのレリーフ(紀元前1333~1323頃)。こういうレリーフにしては珍しく、よくある記号みたいな人間描写ではなく、現代でも見られるような生きている人間の日常的な様子が描かれていて、3000年前が一気に身近になりました。

f:id:hanyu_ya:20210123195443j:plainタイレトカプという名の女性の人型棺(紀元前746~525頃)。棺という箱にしては、かなり写実的です。

f:id:hanyu_ya:20210123195522j:plainハヤブサ頭のワニの小像(紀元前664~332頃)。こういう生き物を想像できる発想力が見事です。

f:id:hanyu_ya:20210123195613j:plain有翼のイシス女神に保護された、ミイラ姿のオシリス神の小像(紀元前664~332頃)。2000年以上前に、すでに青銅でここまで精巧なものを作るほどのデザイン力と造形力があったことに驚嘆します。

f:id:hanyu_ya:20210123195755j:plainバレメチュシグのミイラ・マスク(紀元50~100頃)。金による加飾も彩色も圧巻です。

 

 ベルリンの新博物館は王妃ネフェルティティの胸像があることでも知られますが、他にもシュリーマンが母国に持ち帰った発掘品(略奪品)などがあり、そのコレクションはロンドンの大英博物館にも劣らぬものだと思います。今回来日しているのはそのうちのほんの一部で、博物館内には似たようなものがゴロゴロあり、取り立てて有名でもなく特にフィーチャーされるような品々ではないのですが、それでも一つ一つ丁寧に見せられると、それぞれの作品が目に飛び込んできて、その凄さを強く訴え、古代エジプト美術のデザイン力や制作技術等々、改めてレベルの高さを感じることができました。ベルリンで見たときには、あまりに展示品が多く情報量が過多で、かつ無造作に展示されているので、見ているうちにありがたみも薄れて、しまいには食傷気味になり、途中から流して見ていましたから。それに、エジプトの偉大さよりもドイツ帝国の偉大さを見せつけられた印象のほうが強かったですし。なので、多くのものに圧倒される展示もそれはそれで魅力的ですが、その中からセレクトされたものを少しずつ見る展覧会も、個々を深く鑑賞できて、これはこれで悪くないと思いました。そして、本展では、現代人を凌ぐ古代人の豊かな想像力と表現力に触れられ、東博で開催された大英博物館帰国記念の「土偶展」に匹敵する芸術的刺激がもらえるので、コロナ禍ではありますが、できるだけ多くの人に見てほしいと思いました

宝塚メモ~物語がおもしろくない作品を無難にまとめた宙組の進化

 10日ほど前に宝塚宙組公演「アナスタシア」を観てきました。ブロードウェイミュージカルで、ロマノフ家がらみのストーリーとくれば、見逃すわけにはいかず、先行予約に申し込んで当たったチケットなので、休演しないかぎり行く予定でした。

 

 元ネタはディズニーの同名映画で、宝塚バージョンは稲葉太地さんが潤色・演出。結論から言えば、可でもなく不可でもないという微妙な作品でした。アニメをミュージカル化した作品としては完成度が高く、宙組のパフォーマンスもよかったのですが、いちミュージカルとしては物語が全然おもしろくない駄作で、宝塚作品としても魅力がないという、ちぐはぐな印象。ロマノフ家を題材にした宝塚作品ならば「ロマノフの宝石」のほうが断然おもしろいし、ゆりか(真風涼帆さん)がトップスターになってからの宙組作品としても「白鷺の城」とか「El Japón(エル ハポン)―イスパニアのサムライ―」のほうがよかったと思います

 

 ストーリーは流れるように展開し、中だるみもなく全体の構成はよいのですが、とにかく肝心の筋がおもしろくない。「だからどうした」という感じ。映画の「アナスタシア」は見ていないので実際のところはどうかわかりませんが、よくこんなつまらない話のミュージカルを作ったなというか、ミュージカル化したなと思いました。音楽や演出などミュージカルとしての完成度が高かっただけに、この音楽や演出で見せるほどの話ではないことが惜しまれました。猫に小判とか豚に真珠といった感じです。音楽も難曲が多く、それでもゆりかをはじめ宙組生はがんばって歌っていましたが、いくらくり返し歌われても歌うのが難しそうだなと思うばかりで耳に残らないのが残念でした。メロディが入ってこなくておぼえられないので、途中から「白鷺の城」のゆりかの歌が頭の中でリフレインしていました。

 

 宝塚のオリジナル作品ではないので主要な役が少ないのは仕方がなく、それでもまだ物語がおもしろければいいのですが、登場人物が少ない上に話がおもしろくないので見どころがなく救われない感じでした。中でも割を食ったのは、主演コンビと敵対する立場の役柄だった二番手のキキ(芹香斗亜さん)で、比較的おいしい役だったのは主演コンビの仲間役だった三番手のずん(桜木みなとさん)。ずんは95期生の中でも後れを取っていましたが、トップや二番手の同期がコロナ禍で足踏みしているあいだに、ステップアップできる役をもらって、一気に差が縮まった気がします。で、主人公ディミトリ役のゆりか、ヒロインであるアーニャ役の娘役トップスター星風まどかさん、グレブ役のキキ、ヴラド役のずん、以上――という感じで、ホントに見甲斐がありませんでした。ヴラド以外はキャラクターとしても魅力がなく、ディミトリは悪人ではありませんが小物で、ゆりかの持ち味を発揮するのが難しく、彼女の良さがほとんど出ていないように思えました。ゆりかの良さはなんといってもビジュアルで、カッコよさであり、美しさなのですが……衣装も振る舞いも地味な役だったので。キキもソロなどを聴いていると「ずいぶん上手くなったよなぁ」と思い、以前キキの下にいた現花組トップスターのカレー(柚香光さん)がトップスターで通用するのなら、キキがトップスターになってもいいのではないかと思いました。しかし今回の役はつまらなく、ソロ以外に見せ場なし。カレーと違いすぎる扱い、開いた差が気の毒になりました。宝塚ではよくあることですが。

 

 宝塚オリジナルではなくても、「エリザベート」や「ロミオとジュリエット」のようにトップコンビと二番手以外にもおいしい役があるミュージカルはたくさんあるので、実に物足りない感じでしたが、あのストーリーをあれ以上のミュージカルにすることはできないと思うので、宙組生はよくやっていたと思います。野球でいえば、日本のプロ野球の上にはメジャーリーグがあり、プロ野球の下には高校野球があり、でも高校野球でもプロ野球やメジャーの試合以上におもしろく十分に感動できる試合があるのと同じで、今回の作品は稀に見る熱戦でいい試合だった高校野球という感じです。選手個人個人にプロ野球で通じる技量があったとしても、戦っているのが高校野球の試合である以上、プロ野球ではないのと同様に、個々のジェンヌのパフォーマンスの出来がどんなによくても元々の作品がエンタテイメントとしては高校野球レベルなので、あれ以上の出来は望めず、したがって可もなく不可もなく、です。ゆりかもキキもブロードウェイミュージカルの役を思った以上にきっちりこなしていましたが、彼女たちは宝塚の男役を演じてこそ光る魅力の持ち主であり、いかにも宝塚の男役という役を演じてこそ輝く役者さんだと改めて思いました

 

 東京宝塚劇場は今年リニューアル20周年で、ロビーの柱に20年間に上演された宙組公演のパネルが展示されていました。その中で一番好きなのが「カサブランカ」です。アニメと実写の差はあれども、こちらも映画が元ネタの作品で、けれどもボギーを思い出しもしないほど、ゆーひ(大空祐飛さん)が完璧にリックでした。ああいう男役の演技とそれがピタリとはまった作品をまた観たいなぁと、幕間のあいだ柱の前で佇みながら、しみじみ思っていました。

f:id:hanyu_ya:20210123180105j:plainゆーひ(大空祐飛さん)がトップの時の作品はクラシコ・イタリアーノ」とか「誰がために鐘が鳴る」とか、印象に残るよい作品ばかりでした

 

 ということで、終演後はかなり消化不良気味だったので、星組ロミジュリはなんとしても観たいと思い、ムラに行こうと決意して劇場を出ました。とにかく舞台も気兼ねなく観に行けるように、早くコロナの感染拡大が落ち着いてほしいです。

岐阜・京都神社遠征&明智光秀探訪12 その3~亀山城址、特別展「丹波決戦と本能寺の変」in亀岡市文化資料館、鍬山神社

 最終日の6日は、ホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらうと、京都発9時32分の嵯峨野線の各停電車に乗車。10時に亀岡駅に到着し、駅構内にある観光案内所で亀山城が見学できるかどうかの確認と、文化資料館と鍬山神社の行き方を訊いて地図とバスの時刻表をもらうと、まずは現在宗教法人大本の管轄となっている亀山城址を目指しました。

f:id:hanyu_ya:20210117213653j:plain亀山城の外堀だった南郷池のある南郷公園の明智光秀

 

 歩いて10分ほどで大本の正門に到着すると、敷地内に入り、案内に従ってみろく会館1階にある総合受付に行き、城址を見学するために必要なギャラリーおほもとの入場券を購入。その時に御城印も売っていたので購入し、もう受付に戻ってくる必要はないので、見学を始める前にフロアをうろつくと売店を発見したので寄ってみたら「丹波亀山城明智光秀公―出口王仁三郎の文章・詠歌など―」という冊子が販売されていたので、そちらも購入。

f:id:hanyu_ya:20210117213814j:plain亀山城の御城印と冊子。冊子の表紙にある城の絵は、江戸時代の亀山城で、徳川家康による天下普請で五重の層塔型天守を持つ城に修築されました。

 

 それから、ギャラリーで亀山城に関するVTRが見られるというので2階へ行き、VTR視聴後、ギャラリーで開催されていた特別展示「耀盌」を鑑賞。陶芸家でもあった大本教の教祖、出口王仁三郎が制作した茶碗が展示公開されていたのですが、見たことのない楽茶碗で、ちょっと驚きました。楽焼のイメージを覆す、茶陶の概念を越えた明るく鮮やかな色絵付で、とにかく華やか。亀山城址にある大本教の本部は天恩郷というのですが、まさしく天界を感じさせるというか、パライソを想像させる色合いだと思いました。「パラダイス」ではなく「パライソ」です。命をかけて海を渡り布教に努めたポルトガルの宣教師たちが説いた天国、彼らの熱心な布教活動によって教化されたキリシタンたちが死後に行けると信じて殉教した天国です。そういうものがあると信じる一途な心、どんなに迫害されても持ち続ける篤い信仰心が、天国を茶碗で表現したらこうなると示されたように思いました。楽茶碗としては亜流かもしれませんが、作り手の心がきちんと表現されていて、また見る者にきちんと伝わってくるという時点で、この茶碗たちには紛れもなく存在価値があり、この世に存在する役目を立派に果たしているように思いました。なので、もはや他者が別の価値観をもとに判断を下す茶碗としての良し悪しなどどうでもいいような気がしました。

 

 ギャラリーを後にすると、みろく会館から外に出て、受付でもらったパンフレットの順路に沿って見学。明智光秀丹波統治の拠点として築いた亀山城は、江戸時代になると、天下普請によって五重の層塔型天守を持つ城に修築されました。天下普請とは江戸幕府が全国の大名に命令して行わせた土木事業で、城郭建造は13しか例がなく、江戸城名古屋城大坂城駿府城、二条城など徳川家のための城と、あとは幕府が諸大名に睨みをきかせる上で重要な拠点となる城が天下普請によって築かれました。つまり亀山城はそのうちの一つだったということです。しかし維新後に廃城となり、そのまま管理されずに荒れ果てていたのを、大正8年(1919)に出口王仁三郎が購入し、整備。地面を掘り起し石垣を積み直して大規模な神苑造営を行い、大本教発祥の地である綾部の梅松苑とともに二大聖地とし、現代に至るとのこと。出口王仁三郎は亀岡の出身で、亀山城に格別の思い入れがあったらしく、築城主である明智光秀のことも「名将」と断言しています。購入した冊子には出口王仁三郎の文章がいくつか掲載されているのですが、その中に下記のような文があります。

 

明智光秀は稀に見る名将であったのである。太閤秀吉にあの偉業を遂げさした裏面には光秀の功績を無視することはできない。しかし表面伝わっている歴史では、主殺し親殺しの大罪人の汚名を着ているが決してそんな大悪人ではない。天下の将来を達観して大所高所から身を殺して仁をなした大勇者である。」

 

 この文の最後は「人為の歴史というものは信ずるに足らぬものである。」で締めくくられているのですが、まさにそのとおりだと思います。出口王仁三郎のすごいところは、この文章を言論統制下にある大日本帝国の時代に書いて発表していることです。これでは危険人物として目を付けられても仕方がないと思います。実際に、敬神尊皇報国の大義を唱導する教団でありながら、逆賊無道主殺しの不倫不徳の明智光秀城址を教団の聖地に選ぶとはいかがなものかという批判があったとも書かれていました。また、以下のような分析もしていて、少々長いですが、言い得て妙だと思ったので、引用しておきます。

 

「群雄割拠して権謀術数至らざるなく、陶晴賢はその主なる大内氏を亡ぼし、上杉景勝はその骨肉を殺し、斎藤龍興は父の義龍を討ち、その他これに類する非行逆行数うるにいとまなき時代に際し、独り光秀のこの挙あるを難ずるの大にしてかつ喧ましきは、五十四万石の大名が、右大臣三公の職を有する主人を弑したりということと、戦場が王城の地にしてその軍容花々しく、もって人口に膾炙することの速やかなると、加うるに世は徳川の天下に移り、世襲制度に変ぜしめたる上は、光秀をそのままに付しておくことは、政策上もっとも不利益であったことと、第二第三の光秀出現せんには、徳川の天下は根底より転覆する次第であるから、偏狭なる儒者が光秀を攻撃したのが、今日光秀に対して非難の声が特に甚しいのではないかとも思わるるのであります。」

 

 いろいろな史料が発見されて明智光秀に関する情報が増えて見方が変わってきた昨今ならともかく、大正という時代において明らかだった、限られた事実から見てもこのように思っていた人間がいる――それほどに光秀に対する評価は不当だったのだと思います。けれども、思っていてもそれを口にすることはできなかった――みながみな一宗教の教祖にまでなった出口王仁三郎のようにはなれなかったし、一宗教の教祖である出口王仁三郎に迎合することもできなかったのだと思います。

 

 城址で見学できるのは光秀の手植えと伝わるイチョウの木あたりまでで、そこから先は見学者は立入禁止なので引き返し、花明山植物園へと向かいました。大本の敷地内にあるこの植物園は、昭和26年(1951)に開園。亀山城の外堀だった南郷池に隣接し、その範囲は橋が架けられた中の島まで及び、日本の野生植物を中心に約1000種類が植えられているそうですが、なんとメタセコイアの木までありました。

 

 亀山城址の次は歩いて5分ほどのところにある文化資料館へ行き、特別展「丹波決戦と本能寺の変」を見学。光秀の書状が多く展示されていて、朝倉氏遺跡資料館の講座でも触れられた、光秀が怪我を気づかう小畠永明宛ての文や、福知山市の御霊神社が所蔵するものとはまた別の明智家家中法度などがありました。こちらは山口市歴史民俗資料館の所蔵品で、内容は御霊神社の所蔵品と同じですが、若干語句の異動が見られるそうです。何故山口市歴史民俗資料館に明智家の家中軍法があるのか、山口市周辺から発見されたものなのか大いに気になりました。その他、大津歴史博物館の時と同様に、個人蔵の書状など、丹波国の地元ならではの史料も豊富でした。展示も工夫されていて、主な展示品には解説にQRコードがあって、それを読み込むと亀岡PR特別大使の戦国VTuber明智光秀が出てきて解説してくれたりするのですが、VTuberによる説明があってもその場で理解するのは至難なので、図録を買って確認することに。本展は当館の第35回特別展で、第34回特別展の「明智光秀と戦国丹波丹波進行前夜」の図録もあったので、両方購入しました。

f:id:hanyu_ya:20210119004939j:plain特別展の案内人であるVTuber明智光秀。動物戦国武将占いなどもあり、なかなか手の込んだ展示内容でした。ちなみに、武将占いをやってみたら結果は狼で、竹中半兵衛タイプでした。

 

 資料館を出ると亀岡駅に戻り、12時55分発のバスに乗って、式内社の鍬山神社へと向かいました。13時5分に鍬山神社バス停に到着し、そこから徒歩5分ほどで到着。社務所無人だったので呼鈴を鳴らすと、しばらくして神職の方が現れたので御朱印をお願いし、待っているあいだに御守り授与所を見渡すと、50円で略記を売っていたので購入。

f:id:hanyu_ya:20210117220025j:plain鍬山神社の鳥居

f:id:hanyu_ya:20210117222404j:plain鍬山神社鍬山宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210117221443j:plain鍬山神社八幡宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210117221132j:plain本殿

 

 その略記によると、当社の創建は和銅2年(709)で、祭神は大己貴神応神天皇。神社創建前から祭祀は行われていたようで、大己貴が国土経営に励んでいた往古、丹波国は泥湖でしたが、八柱の神が相談して山を切り拓いて山城方面に水を流して抜くことに成功し、広大な平野が開拓されたとのこと。それによってできたのが保津峡であり保津川で、その徳を尊んで鍬山神を祀り、「鍬山」という祭神名は開削に使われた鍬が山積みになっていたことから名付けられたそうです。――ということはつまり、現在の祭神は大己貴神と、平安時代末期に祀られた応神天皇ではありますが、元々は亀岡盆地の開拓神である八柱の神を鍬山神として祀ったのが起源ということなのだと思います。境内には金山・樫船・高樹神社、日吉神社熊野神社、稲荷疱瘡神社、愛宕神社天満宮厳島社、百太夫神社という八つの境内社があるので、大己貴以外は本社から分けられて、境内社で祀られるようになったのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20210117221914j:plain境内の奥にある鳥居。鍬山神社は当初背後にある面降山の西にある医王渓に鎮座していましたが、慶長15年(1610)に亀山城の城主となった岡部長盛が現在地に遷座したとのこと。行かなかったので鳥居の先はわかりませんが、想像するに面降山で、神社創建以前の古代祭祀においては面降山を御神体として祭祀が行われていたのかもしれません。

 

 金山姫命を祭神とする金山神社カナヤマヒコ猿田彦命を祭神とする樫船神社はサルタヒコ、高樹神社の祭神は「山雷大神」と書いてありましたが、おそらく『日本書紀』に“高木”神として登場するタカキネを祀ったのだと思います。大山咋神を祭神とする日吉神社はヤマクイ、熊野神社は本来熊野神といえばイサナミのことですが、こちらは大己貴=オホナムチの父であるソサノヲを祀ったのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117221817j:plain境内社の高樹・樫船・金山神社日吉神社熊野神社

 

 天満宮の祭神は菅原道真ですが、道真がこの地の開拓神ということはないので、元々はこちらが山雷大神を祀った社だったのだと思います。山雷大神→雷神→天神→菅原道真と変化したのでしょう。愛宕神社の祭神は「火産霊神(稚産日命)雷神」と書かれていましたが、稚産日=ワクムスビは火産霊こと迦具土カグツチの子で、父子といえども両者は別神なので、元々はわざわざカッコ書きで記されているワクムスビを祀った社だったのではないかと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117222727j:plain境内社天満宮愛宕神社

 

 百太夫神社の祭神は豊磐間戸神と櫛磐間戸神。丹波篠山には、この二柱を祭神とする櫛岩窓神社があり、丹波国の四つの名神大社の一つとされているので、丹波国とゆかりの深い神なのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117223443j:plain境内社の百太夫神社

 

 ということで、おそらく国土開発の神である大己貴神を筆頭に、丹波国に坐す神である豊磐間戸神と櫛磐間戸神、山城国の開拓神である大山咋神丹波と山城のあいだにある愛宕山に坐す愛宕神、道案内の神である猿田彦神中山道を拓いた金山彦神、それと天君の政治を支える国府の神である高木神か、水神の厳島神あたりが亀岡盆地の開拓に関わったとされる八柱の神の正体で、当初鍬山神として祀られた面々ではないでしょうか。

 

 そして現在、鍬山神として祀られているのは大己貴神ですが、元々は大物主神が祀られていて、その正体は初代大物主の大己貴=オホナムチではなく、オホナムチの孫で三代大物主の子守=コモリではないかと思います。何故ならば、亀岡にある丹波一宮の出雲大神宮の祭神は大国主命三穂津姫命ですが、こちらの正体も二代大物主の大国主=ヲコヌシではなく三代大物主のコモリと思われるからです。その理由は、下鴨神社の摂社、三井神社の祭神である伊賀古夜日売命が丹波の神だからです。

 

 伊賀古夜日売命は『ホツマツタヱ』にはイソヨリという名で登場し、子守神ことコモリの娘ということになっています。イソヨリは、父コモリの母で祖母にあたるミホツの推薦で宮中に出仕し、十一代天君の皇后トヨタマの弟であるタケツミに下賜されました。そしてイソヨリとタケツミのあいだに生まれたのが、のちに神武天皇を生むタマヨリです。つまり、丹波神武天皇の外祖母イソヨリの出身地で、それゆえにイソヨリの父コモリと、孫娘イソヨリの出世の道を拓いた祖母のミホツが出雲大神宮に祀られていると考えるのが自然です。とはいえ、これも祭神と祭主の関係で、コモリが父ヲコヌシと母ミホツを祀って祭主として祭事を行っていたけれども、神上がるとコモリ自身が祀られて祭神とされたのかもしれませんが。そう考えると、高樹神社の祭神は、元々は丹波とゆかりの深いミホツだったのではないか――という気もします。ミホツは高木神ことタカキネの娘なので。

 

 さらに略記を読むと、当社は、楽田、油田、八日田、相撲田、馬場田、雑用田、奉射田、華田という8種の社領田を持っていたので、当地名を「八田」といい、のちに当地を賜った源頼政が「八田」を「矢田」に改めたので「矢田宮」とも呼ばれましたが、8種の社領田は明智光秀によって没収されたとのこと。そのため一時衰退しましたが、江戸時代になって亀山城主の岡部長盛が社殿を造営し社田を寄進し、以後は歴代藩主に崇敬されて明治維新を迎え、今に至るそうです。比叡山焼き討ちにおける「なでぎり」もそうですが、この事実からも明智光秀が怪我や病気を気づかう情け深い人物である一方で、容赦のない一面を持っていたことがわかります。

 

 乗ってきた13時4分発の次のバスは14時33分発だったのですが、神社の周辺には何もなかったので、来るときにバスの中から見かけた400メートルほど離れた店に行ってドリンクを買ってきたり、エクスプレス予約で帰りの新幹線を予約したり、文化資料館で買った図録などを読みながら、どうにか時間をつぶし、定刻どおりに来たバスに乗車。一方通行のバスなので行きより時間がかかり、3時前に亀岡駅に到着。新幹線は4時半過ぎののぞみを選び、少々時間的に余裕があったので、サンガスタジアムの1階にある物産館に寄って、クーポンで丹波黒豆の豆菓子を購入。そして亀岡駅に戻り、15時21分発の嵯峨野線の各停電車に乗車。49分に京都駅に到着し、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイと平宗の柿の葉寿司を買い、ホテルに行ってキャリーバッグを引き取ると、手持ちの図録や豆をしまうべくロビーで荷物整理をしてから駅に戻り、16時36分発のぞみに乗車。これにて2020年最後の遠征終了です。

 

 二度目の緊急事態宣言が出されたあと、先週の3連休も今週の土日も終日家に籠っていたので、残っていた昨年の遠征記を書き終えることができました。家にいたらいたで、やることはたくさんあるのですが、正月休みと3連休にブログを書きすぎて肩こりが激しく、吐き気や頭痛に見舞われたので、家にいてもなるべく座りっぱなしは避けて、体操などをして極力動くようにしました。気をつけなければならないのは、コロナだけではありません。

 

 亀山城址については、大本の神域ということでインターネットへの写真掲載が禁止されていたので、説明文や案内図なども載せられないため、記事を書くにあたって改めて調べていたら、緊急事態宣言により来月7日まで再び見学不可となったことを知りました。最初の緊急事態宣言を受けて見学受付休止となったあと再開されたのが10月だったので、見学ができたのは10~12月の三月のみ。本当に行っておいてよかったです。「いつか」なんてないものだと、つくづく思います。

岐阜・京都神社遠征&明智光秀探訪12 その2~「麒麟がくる」ぎふ可児大河ドラマ館、岐阜関ケ原古戦場記念館、二条城

  翌日は、「十八楼」の大浴場のオープンが5時半だったので、混む前に入りたいと思い、珍しく5時に起床。温泉に入って部屋に戻ると、荷造りやら何やら出発準備をし、7時に朝食会場へ。食事後、8時半にチェックアウトして、長良橋バス停からバスに乗り、JR岐阜駅に向かいました。イベントスポットになっている可児の大河ドラマ館に行ったらまた岐阜まで戻ってきて関ケ原に行くので、キャリーバッグをロッカーに入れて改札口に行ったのですが、9時9分発はギリギリで間に合うか微妙だったので、観光案内所などで時間をつぶし、38分発の高山本線の各停電車に乗車。

岐阜駅前の織田信長像。今では見慣れた感がありますが、初めて見たときは鮮やかな金一色で驚きました。この日は雲一つない青空に燦然と輝く堂々とした立ち姿が、よく見るとマスク着用だったので、久しぶりにシュールだと思いました。

観光案内所にもいた織田信長サンと明智光秀サン。本当に気合いが入っているイベントです。

 

 10時20分に美濃太田駅に到着し、この駅止まりだったので、35分発の太多線の多治見行き各停電車に乗り換え、42分に可児駅に着くと、10時52分発の花フェスタ記念公園行きのバスに乗り、11時9分に到着。近ツーの宿泊プランに付いていた大河ドラマ館の入場引換券は岐阜か可児で使えるものだったのですが、岐阜のほうが先だったので、こちらでは岐阜の大河ドラマ館の入場券の半券を見せて、相互割引の料金でチケットを購入。可児を訪れるのは三度目でしたが、前回10月のプレミアムフライデーに来たときには、時間がなくて花フェスタ記念公園はパスしたので、大河ドラマ館は2回目。こちらも展示替えが見られて、リピートでも楽しめました。

大河ドラマ館がある花のミュージアムの入口にあった出演者のパネル。前回来たときにはなかったような気が……。

大河ドラマ館入口横の壁の光秀の写真。これも前回来たときにはなかったと思います。

大河ドラマ館に展示されていた明智光秀の衣装。前回はここに光秀の甲冑が展示されていましたが、今回の衣装は入口横の壁の写真で光秀が着ているもので、なるほどと思いました。しかもこの写真は若かりし頃の光秀――つまり明智荘で暮らしているときの場面なので、明智荘があった可児の展示にふさわしく、よく考えられているなぁと思いました。

イベントスポットなので、森蘭丸サンがおりました。可児にある兼山城の城主です。全然戦国武将っぽくないビジュアルですが(笑)。ここでは可児ゆかりの武将である光秀と蘭丸のゲーム内で使えるアバターがもらえました。

大河ドラマ館に入るときにもらった来館記念証。前回もいただきましたが、今回はなんとドアラバージョンでした!

 

 可児駅行きのバスは乗ってきたバスが折り返す11時16分発の次は13時11分までないので、帰りは12時33分発の明智駅行きKバスを利用することにしました。1時前に明智駅に到着し、13時6分発の名鉄広見線に乗り、一つ隣の新可児駅で14分発の中部国際空港行きに乗り換え、犬山駅名鉄岐阜行きの犬山線に乗り換え、14時9分に名鉄岐阜駅に到着。関ケ原方面に行く東海道線の岐阜駅の発車時刻が19分で、これを逃すと次は49分となり、3時までに関ケ原駅に着けないので、急いでJR岐阜駅へ向かい、ロッカーから荷物を取り出して乗車。

 

 予定どおり14時54分に関ケ原駅に到着し、イベントスポットになっている関ケ原駅前交流館に立ち寄り、買い物袋を持っている政宗サンと秀吉サンのアバターをゲット。それから関ケ原古戦場記念館まで歩くのに邪魔だったので、5時には閉まると店のスタッフに言われましたが、記念館も5時までなのでキャリーバッグをロッカーに預けることにしました。ロッカーの扉にはそれぞれ異なる戦国武将の名が書かれていたので、井伊直政のロッカーを選びました。

関ケ原駅前交流館にいた石田三成サン。まあ、関ケ原ですから……。

 

 関ケ原古戦場記念館の有料スペースは現在事前予約制で、旅行前にホームページから予約サイトに飛んだら、9時30分から15時30分まで1日30分ごとの全13回に区分され、1回の定員が9名とのことで、旅行中の日程はまったく空きがありませんでした。けれどもホームページをよく読むと、グラウンドヴィジョンとかシアター映像が見られないだけみたいなので行くことにし、運がよければキャンセルがあるのではないかと思い、最終回の15時30分のキャンセルを期待して20分には着くようにしました。予約していても10分前までに受付しないとキャンセルになるとのことだったので。その旨を入館と同時に声をかけてきたスタッフに話したところ、残念ながらキャンセルはないとのことでしたが、2階の展示室や5階の展望室は当日券を買えば見られると言うので、チケットを買って入りました。

 

 展示は関ヶ原の戦いについての説明なので、展示品はいろいろあるのですが、ほとんどが複製でした。戦の流れや、どういったものだったのかを解説するために必要とはいえ、実物は各所蔵元の貴重な財産なので集められず、こういった形になったのでしょう。そんな中でおもしろかったのが、関ケ原はベルギーのワーテルローアメリカのゲティスバーグと古戦場協定を結んでいるという情報で、そんな繋がりもあるのだと思いました。まだまだ知らないことがたくさんあります。

岐阜関ケ原古戦場記念館

明智光秀が参戦していない関ケ原の古戦場跡にもあった「麒麟がくる」出演者のパネル

大河ドラマ斎藤義龍が着用した甲冑

 

 展示室に続いて展望室を見たあと1階に下りて有料スペースを出ると、イベントスポットなので、スマホアバターをゲット。当然のことながら、家康サンと三成サンのアバターでした。それから記念館を出て、裏手にある徳川家康最後陣地を見学。その後、記念館の隣にある別館のショップに行くと、御城印みたいな古戦場印があったので、一番基本的で唯一買える「関ケ原」を購入。その他の個別の古戦場印は実際の跡地に行って撮ってきた写真を見せないと購入できないシステムになっていました。

関ケ原古戦場を示す石碑。下には「徳川家康最後陣地」と刻まれています。

紅葉と三つ葉葵紋の幟旗

陣地跡に立っている石碑。刻まれている文字は「床几場 徳川家康進旗験馘處」。つまり、ここで首検めを行ったということです。

別館のショップにいた徳川家康サン。まあ、関ケ原ですから……。

関ケ原」の古戦場印

 

 古戦場印の他に栗きんとんきんつばという菓子を見つけたので、そちらを買ってショップを出ると、記念館を後にして関ケ原駅へ。途中、井伊直政松平忠吉陣所跡と東首塚があったので立ち寄りましたが、4時半には駅前交流館に戻ってきました。乗る予定の電車の時間までまだ15分ほどあったので店内を見てまわりましたが、記念館のショップと同じような品揃えだったので何も買わず。買わないのに店の中をウロウロしているのもいかがなものかと思ったので、ロッカーからキャリーバッグを取り出し、駅へと向かいました。

駅に向かう途中にあった井伊直政松平忠吉陣所跡の碑。

首塚。床几場で検め終わった首はここと西首塚に葬られたそうです。

首塚の境内の紅葉

 

 16時48分発の米原行き快速電車に乗り、米原駅播州赤穂行きの新快速に乗り換え、18時12分に京都駅に到着。551蓬莱で豚まんとシューマイを買い、さらに、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイを買ってから、八条口から歩いて3、4分のホテルにチェックインし、部屋で飲み食いしながら見ていたNHKニュース7が終わると、ホテルを出て二条城へと向かいました。二条城はよくイベントで夜間公開をしているので、何かやっていないかと思い調べたら、12月7日まで「アートアクアリウム城~京都・金魚の舞~」という催しをやっていたので。時間は17時から22時で、受付終了が9時半なので、7時半から出かけても十分間に合いました。

 

 京都駅から地下鉄で二条城前駅まで行き、地上に出ると、思っていたより入口の列に並んでいる人がいましたが、入場人数を制限しているだけで、実際はそれほど混んでいませんでした。二条城に行ける時間があるかわからなかったので前売券は買えなかったため当日券をあてにしていましたが、当日券はなくはないがコロナ対策で発行枚数を絞っているとのことだったので、待たされるか、あるいは入れないこともあるかもしれないと思っていました。が、問題なくチケットは買え、待ち時間もなく、すぐに入場することができました。

 

 この催しはアートアクアリウム美術館の巡回展で、美術館は東京の日本橋にあるので、金魚自体は見ようと思えばいつでも見られるのですが、あまり興味がなかったので行ったことはありませんでした。けれども今回は、二条城を背景にしたアクアリウムなら独特の雰囲気があって見ごたえがあるのではないかと思い、足を運びました。ハコモノ世界遺産では舞台が違います。館内で見るより断然よかったと思います。

アートアクアリウムその1

アートアクアリウムその2

アートアクアリウムその2の青バージョン

アートアクアリウムその2の緑バージョン

アートアクアリウムその3

アートアクアリウムその3の緑&青バージョン

アートアクアリウムの屏風。生きている金魚が絵を作っているので、屏風絵は一期一会で、刻々と表情が変わっていきます。

二条城ならではのアートアクアリウムその1

二条城ならではのアートアクアリウムその2

個性あふれる金魚の顔その1

個性あふれる金魚の顔その2

個性あふれる金魚の顔その3

 

 9時過ぎに会場を出て、二条城の東大手門に向かうと、途中にいくつかの出店があるのですが、その中に錦市場の「魚力」があり、ハモかつを売っていたので、がっつり夕飯を食べたあとでしたが、誘惑に負けて1本買って食べてしまいました。そして、この時間でもまだ二条城の大休憩所が開いていたので売店に行き、今まさにレジをしめようとしていたスタッフに、御城印が欲しいのだがもうダメかと訊いたら、大丈夫だと言うので購入。通常版と10000枚限定で無くなり次第終了の限定版があったので、もちろん限定版を買いました。二条城には何度も行っているので、御城印があることはもちろん知っていて、御朱印とは違うので今まで買わなかったのですが、2月に行った丸岡城から御城印を集めはじめたので、次に訪れたときには買おうと思っていました。そうしたら、ちょうど限定版が出ているときだったので、ラッキーでした。

二条城の御城印。通常版は三つ葉葵紋の朱印だけですが、限定版は菊紋の朱印が一緒に押されています。城内に現存する飾り金具に刻まれた家紋だそうです。まあ、維新後は元離宮ですから。

 

 二条城を出ると、地下鉄で京都駅に戻り、10時前にホテルに到着。これにて長い一日が終了です。

岐阜・京都神社遠征&明智光秀探訪12 その1~金神社、「麒麟がくる」岐阜大河ドラマ館、岐阜城

 2020年最後の旅となった12月の明智探訪は、岐阜→可児→関ケ原→京都→亀岡に行ってきました。JR西日本主催の「ちょこっと関西 歴史たび「明智光秀」特別企画」の一つで、亀岡市文化資料館で10月24日から12月13日まで特別展「丹波決戦と本能寺の変」を開催していたので。亀山城にもまだ行けていませんでしたし。で、亀岡の他にどこへ行こうか考えていたときに、ちょうど時期が重なる観光イベントと、それに関連した近畿日本ツーリストの宿泊プランがあったので、そちらに参加することにしました。

 

 移動時間や待ち時間の手持無沙汰を解消するために始めて今も続けているスマホゲームがいくつかあるのですが、そのうちの一つである「イケメン戦国」が、今度は岐阜市可児市関ケ原町とコラボする「イケメン戦国武将と巡る岐阜の旅」というのがそのイベントで、岐阜城に行くとゲームキャラクターの織田信長岐阜城を訪れるストーリーが、現在大河ドラマ館がある歴史博物館を訪れると同じくキャラクターの明智光秀と博物館を訪れるストーリーが読めるなど、武将ゆかりの地を訪れると、GPS機能を使って、そのスポットと連動したオリジナルストーリーを読めたりアバターがもらえたりします。たかが乙女ゲーのイベントと侮ってはいけません。主催は長良川温泉泊覧会実行委員会で、協力は岐阜観光コンベンション協会、関ケ原観光協会可児市大河ドラマ麒麟がくる」活用実行委員会、岐阜長良川温泉旅館協同組合等々――観光団体と旅行会社が仕掛ける本格的なイベントです。

 

 2019~2020年の冬にも本能寺や建勲神社太秦映画村を巻き込んだ京都コラボの観光イベントが開催され、その時に初めて本能寺に行く機会を得ました。今回は岐阜城も歴史博物館も10月に行ったばかりの場所ではありますが、イベントスポットの中に、昨年10月に開館した関ケ原古戦場記念館も入っていて、いずれ行くつもりだったので、ちょうどいい機会だと思いました。そしてさらに、京都の時はイベントの宿泊プランを設定している宿泊施設が一つしかなく選べなかったのでホテルは駅近くの定宿にしましたが、今回はいくつか選択肢があり、その中に万延元年(1860)創業の長良川温泉の老舗旅館で、私の行く先々に歌碑があるゆえ旅の師匠と仰いでいる俳聖・松尾芭蕉ゆかりの「十八楼」があったので、ぜひ泊まってみたいと思い、関ケ原町だけでなく、岐阜市も再訪することにしました。イベントの期間は12月1日から3月31日までですが、亀岡の特別展が主目的なので13日までに行く必要があり、なおかつコロナ感染が収束していない以上、何が起こるかわからないと思ったので、イベントが始まった最初の週末に予定を組んで行ってきました。実際、今もイベントは継続中ですが、危惧していたとおりGo Toトラベルは中止となり、緊急事態宣言も発出されたので、さっさと行っておいてよかったです。

 

 3日木曜の11時半まで仕事をし、品川発12時29分ののぞみに乗車。14時31分に名古屋駅に着いて、45分発の大垣行き新快速に乗り換え、15時4分に岐阜駅に到着。そして10月末に岐阜を訪れたときと同じ名鉄岐阜駅近くのホテルにチェックインして荷物を部屋に置くと、歩いて5分ほどのところにあるイベントスポットの一つ、金神社へと向かいました。

 

 金神社は13代成務天皇の時代に創建されたと伝わる古社で、主祭神は渟熨斗姫命。12代景行天皇の皇女であり、10月のプレミアムフライデーに訪れた伊奈波神社の祭神である五十瓊敷入彦命の妃でもあります。五十瓊敷入彦命が美濃で亡くなると、渟熨斗姫命は都を発ってこの国に移り住み、夫の霊を慰めつつ生涯を過ごしたとのこと。その間、地域の開拓に力を注ぎ、私財を投じて産業・農業の発展に寄与し、財をもたらしたことから、死後金大神として信仰されたそうです。そして成務天皇5年(135)に、国造である物部臣賀夫良命がこの地を国府に定めると、民が信仰する金大神を祀りました。それが当社の起源だそうです。他に渟熨斗姫命を主祭神として祀っているところを知らないので、当社が皇女の鎮座地ということになります。ということで、元々は国造が国府を置いた場所に祀った産土神の社なので、実際に皇女の宮があった場所なのか、神上がった場所なのか、葬られた場所なのかはわかりません。

 

 神社に到着し、インパクトのある金の鳥居をくぐると、まずはゲームのアプリを開いて、伊達政宗と訪れる金神社のストーリーをゲット。信長の岐阜城や光秀の歴史博物館と違って金神社が政宗のゆかりの地であるという話は知らないので、こちらの組み合わせは単に人気スポットに人気キャラクターを当て込んだだけだと思います(笑)。いくつか操作をしてストーリーが保存されて読めることを確認すると、お参りし、社務所に行って持参した朱印帳御朱印をいただきました。金神社でもプレミアムフライデー限定の金の御朱印がいただけるのですが、10月に来たときは余裕がなくて寄れませんでした。それから末社を見て境内を一周すると、神社を後にし、最寄りの徹明町バス停まで行ってバスに乗り、岐阜公園へと向かいました。

金神社の鳥居。昭和62年(1987)に建てられた特殊鋼製の鳥居ですが、錆が目立ちはじめたので、平成27年(2015)に塗り替えられたそうです。“金”神社とはいえ、何故この色にしたのか疑問。古くなったらどうなることやら……。また塗り替えることができればいいのですが、お金がかかることなので、そうたびたびはできないと思います。

本殿

賀夫良城。「賀夫良城神社」となっていますが、明らかに古墳なので、物部臣賀夫良命の葬地と思われます。奥津城という言葉があるように、そもそも「城」とは墓のこと。よって、賀夫良の城の上に建てられた神社だから、賀夫良城神社なのだと思います。

社務所の出入り口の横にいた伊達政宗サン

 

 岐阜公園・歴史博物館前バス停で下りると、4時半過ぎだったので、開店早々の早い時間なら入れるかと思い、公園内にある料亭の萬松館を覗いたのですが、残念ながら事前予約制だったので断念。あてが外れたので、歴史博物館の前にある光秀横丁で何か買ってホテルに戻ろうかと思ったのですが、持ち帰りができないみたいで、博物館が閉まる5時には光秀横丁も閉店するため食べる時間もなかったので、こちらもあてが外れて、もはや食事に適した店を探して歩きまわるのも億劫だったので、確実な線をねらって、バスでJR岐阜駅まで行き、前回見つけたアクティブgにある「くらうど」で夕食を摂ることにしました。食事後、電子クーポンとSuicaで支払って店を出ると、ホテルに戻り、その日は終了です。

中津川産更紗サーモンの刺身とレモンサワー。中津川で養殖されているトラウトサーモンです。

高山ラーメ

 

 翌朝は9時過ぎにホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらうと、JR岐阜駅前にある岐阜バスの案内所に行って、宿泊プランに付いていた引換券を渡し、一日乗車券を受け取りました。そのあと12、13番乗り場に行ってバスに乗り、またまた岐阜公園へ。岐阜公園・歴史博物館前バス停で下りて歴史博物館に行き、こちらの入場券の引換券も宿泊プランに付いていたので、チケット売り場の団体窓口で引き換えてから入場。この日12月4日金曜は先着150名がもらえる入館記念証が明智光秀と熙子のバージョンだったので、博物館見学はこの日の朝イチと決めていました。

 

 連絡先記入、検温のあと、入館記念証をもらい、博物館2階にある大河ドラマ館に入ると、前回来たときにはなかった石仏などの小道具が新たに展示されていました。室町将軍足利義昭の御所である二条城造営のシーンで石材として徴収され工事現場に転がされていて、染谷信長にペチペチとたたかれていたものです。他にも物語の進み具合に合わせて展示替えされていたので、リピートでも楽しめました。

入館記念証。他に、徳川家康斎藤道三織田信長羽柴秀吉バージョンがあり、日によってもらえるものが違います。

歴史博物館1階の壁には大きな陶板の美濃国絵図があるのですが、その一部。土岐氏の家名の由来となった地名がたくさん見受けられ、それぞれが本拠とした場所の位置関係がよくわかります。

美濃国絵図の隣にいた明智光秀サン。福知山城でも会いました。2020は明智イヤーですから。

帰蝶サンもいました。まあ、この方も美濃の出身ですから。帰蝶サンはゲーム内では男で、まだ事情は明らかにされていませんが、どうやら濃姫の双子の弟という設定のようで、双子は忌み嫌われて、弟のほうは存在を歴史から抹殺されたという筋書きではないかと推測しています。

 

 10時半に博物館を出ると、金華山ロープウェイ乗り場に行き、宿泊プランに付いていた引換券と乗車券を交換し、11時発に乗車。近ツーの宿泊プランには一日乗車券、大河ドラマ館と岐阜城の入場券、ロープウェイ乗車券などの特典が付いていてありがたかったのですが、「十八楼」に泊まるのは4日なので、使えるのは4日か5日だけ。それゆえ特典が使える場所にはその二日間のうちに行かねばならず、5日は可児市関ケ原町を訪れる予定だったので、岐阜市を観光できるのは二日のうち4日だけ。「十八楼」には2時にはチェックインできるので、夕方まで観光し滞在時間が短くなるのはもったいない気がしたので、昼までには大河ドラマ館と岐阜城の見学を終わらせたいと思い、3日に岐阜入りして前泊した次第です。

ロープウェイも「イケ戦」仕様。

右から織田信長サン、帰蝶サン、明智光秀サン、そして何故か三河出身の徳川家康サン。家康サンの隣にいて切れているのは石田三成サン。

 山頂駅に到着すると、まずは展望レストラン「ポンシェル」に行って、前回食べそびれた飛騨牛ハンバーグを食べました。

展望レストラン前にいた織田信長サンと徳川家康サン。前回飛騨牛ハンバーグライスの食券を払い戻して代わりにきしめんを注文した売店は工事中でした。

「ポンシェル」の飛騨牛ハンバーグライスと、カウンターテーブルから見る長良川

 食事後、岐阜城に行き、岐阜城の入場券も宿泊プランに付いていたので、そちらを受付で見せて入城。

岐阜城に向かう途中に見た岐阜市街。国道と並行して走る道路が、碁盤の目といわれる京都や大阪に通じ、改めて古い街であることを認識。地図を見ると、国道は金華山の脇を通っていますが、その他の道は金華山から発しているので、信長や道三がこの町を整備したときに作られた道ではないかと思いました。

岐阜城と紅葉その1

岐阜城と紅葉その2

岐阜城に向かう途中で見た紅葉

城内にいた織田信長サン

展示されていた地球儀の日本周辺部分。絵は稚拙ですが、わりと正確です。

天守最上階からの眺め(東)。冬は空気が澄んでいるので、秋に来たときよりもはっきりと見え、山がよくわかりました。ちなみに右から恵那山、笠置山御嶽山乗鞍岳御嶽山乗鞍岳は雪をかぶっていました。

天守最上階からの眺め(西)。中央は伊吹山

 

 天守から下りてくると、出入口の受付で、年齢を証明するものを忘れたらしく無料で入れると思っていたけど入れなくて文句を言っている高齢者がいました。岐阜城の入場料は200円なのですが。また、ロープウェイ乗り場に戻るときにも、「なんでエレベーターがないの。市に文句を言ってやる」と怒っている高齢者に会いました。レストランなどの店舗以外の場所にもトイレが設置されていて、おまけに喫煙所まであり、違和感を感じるほど至れり尽くせりで、十分に整備されていると個人的には思いましたが……。大阪城とかにはエレベーターがあるから、そう思うのでしょうか。本来城という建造物には存在しないものなのに。

 

 資料館に寄ったあと、山頂駅発12時30分のロープウェイで山麓駅に下り、前回は時間がなくて寄らなかった三重塔や信長の居館跡を見てから、バス停に戻ってバスに乗車。名鉄岐阜バス停で下りて、ホテルに預けた荷物を引き取ると、再び岐阜公園方面のバスに乗り、長良橋バス停で下車。そして長良橋通から階段を下りると、鵜飼観覧船乗り場の近くにあるイベントスポット、緑水庵川原町店に入って、コーヒーを飲みました。イベントに関連した特別メニューも提供されていたのですが、ここで食べ過ぎてしまうと夕食に響くので。

三重塔

岐阜公園の紅葉その1

岐阜公園の紅葉その2

岐阜城址についての説明板その1

岐阜城址についての説明板その2

織田信長居館跡

緑水庵川原町店にいた豊臣秀吉サン

 

 この宿泊プランは通常より1時間早い2時にチェックインできたので、2時過ぎには店を出て、ほぼ斜向かいに位置する「十八楼」へ。チェックイン後ロビーで待つように言われ、ウェルカムドリンクがあったので、オレンジジュースを飲んでいると、スタッフが来て部屋に案内してくれようとしましたが、まだドリンクが残っているのを見て「飲み終わってからご案内しますので、ゆっくり飲んでください」と言ってくれたので、飲み終わってから案内してもらいました。

「十八楼」の玄関

「十八楼」のロビーから見える長良川

案内された部屋。イベントのパネルがイーゼルのようなものに立てかけられていて、座卓の籠の中に宿泊プランの特典であるグッズが入っていました(笑)。

パネルはこんなカンジ。帰蝶サンは岐阜銘菓の鮎菓子を握っています。

 

 館内の説明を聞いたあと、淹れてもらった梅抹茶を飲みつつ、座卓に置かれていた鮎菓子を食べて一服すると、1階にある売店へ。今回の宿泊プランで付与されたクーポンが6,000円分あったので、宿泊施設限定のイベントオリジナルグッズや長良川温泉若女将会のオリジナル商品、お土産などを購入。そしてフロントに寄り、ルームサービスでフレシネのハーフボトルを頼んでから部屋に戻りました。館内の説明を受けたときにロビーのバーカウンターでシャンパーニュが飲めるか訊いたら、ルームサービスでスパークリングワインなら用意できるとのことだったので。何度も言いますが、昼間からアルコールを飲めるのが休暇の醍醐味です。

 

 ボトルが来ると、軽くグラス半分ほど飲んだところで、先に温泉に入ってきたほうがいいと思ったので、残りは冷蔵庫に入れて、大浴場に行きました。温泉は熱めの湯が好きで、できるかぎり源泉に近づきたい人間なのですが、ハーフボトルを空けたあとでは、さすがに厳しかったので。長良川温泉の泉質は単純鉄冷鉱泉だそうですが、湯が茶色かったので、驚きました。

 

 40分ほどで戻ってきて、暮れゆく長良川を眺めつつ残りをちびちびと飲んでいましたが、そうこうするうちに日が落ちてフレシネもなくなると、ロビーに行って、本棚に明智光秀関連の雑誌や書籍があり閲覧できたので、夕食の時間まで乱読して過ごしました。

夕暮れの長良川とフレシネ

日没後のロビー

ロビーにある松尾芭蕉「十八楼記」の碑文。「十八楼」は芭蕉翁の命名だそうです。左右にいる鳥は、役目を終えた鵜の剥製。「十八楼」は館内から直接鵜飼観覧船乗船場へ行けます。鵜飼は10月15日までなので、今回訪れたときにはシーズンオフでやっていませんでしたが。

 

 夕食は三つの時間から選べましたが、温泉に入ってハーフボトルを空ければ、それぐらいになるだろうと思い、一番遅い7時でお願いしました。5分前にはロビーを出て、夕食の場所であるレストラン「橘」へ。献立は下記のとおり。

 

 ・お通し 黒豆豆腐

 ・前菜  牛蒡甘辛煮 焼き栗

      茸法蓮草おひたし

      子持鮎甘露煮

      赤ピーマン手毬寿司

      揚げ銀杏串打ち

 ・口代り あん肝と焼き茄子のゼリー寄

 ・吸物  もずく真薯の

        かぶら摺り流し仕立て

 ・向付  本日のお造り盛り合わせ

 ・焼物  鰤の西京焼き 柿湯葉白和え

 ・強肴  飛騨牛ローストビーフ

 ・蓋物  南京とさつまいもの鬼まんじゅう

 ・焜炉  【十八楼名物】飛騨牛の牛鍋

 ・食事  鮎雑炊

      ※岐阜県特産米美濃ハツシモ使用

 ・香の物 飛騨・美濃伝統野菜

        飛騨紅かぶの赤かぶ漬け

      わさび昆布 セロリ浅漬け

 ・デザート グラスデザート

前菜

焼物

強肴

 

 コース料理を酒なしで食べるのは楽しみが半減するので、必ずアルコール類を頼むのですが、日本酒メニューは好きな純米吟醸や銘柄がなく、かといって、ワインも、すでにカヴァを飲んでいたので飲む気にならなかったため、燗酒を注文。飲みながらダラダラと食べていたので、食べ終わったときには入店時にはいた他の客が誰もいませんでした。

 

 9時前に部屋に戻り、この日は終了です。

明智光秀探訪 番外編~「麒麟がくる」展inKITTE

 昨日は仕事始めでしたが、4時半で終えて、丸の内のKITTEで開催されている「麒麟がくる」展に行ってきました。この催しについては知らなかったのですが、1月3日の大河ドラマの放送終了後にツイートを見ていたら、そんな情報を見つけたので。さっそくKITTEのホームページで確認すると12月30日~1月11までの日程で墨絵師の御歌頭さんが本展のために描き下ろした光秀絵も展示されるとのことだったので、緊急事態宣言のせいで見そびれて悔しい思いをすることがないように――とまたもや思って、早めに足を運びました。

 

 1階アクアリウムでの展示なので、数は多くありませんでしたが、大河ドラマ館でも見なかった足利義昭正親町天皇の衣装展示と、さらに、先月の放送で登場した小道具の蘭奢待まであったので、なかなか見ごたえがありました。

f:id:hanyu_ya:20210106224503j:plain展示会場の入口にあったNHKのキャラクター、どーもくん光秀バージョンのパネル

f:id:hanyu_ya:20210106224617j:plainKITTE描き下ろしの御歌頭作、明智光秀。本能寺、安土城郭資料館とも違う光秀です。

f:id:hanyu_ya:20210108113444j:plain御歌頭作、織田信長

f:id:hanyu_ya:20210107132653j:plain御歌頭作、帰蝶

f:id:hanyu_ya:20210107132746j:plain御歌頭作、細川ガラシャ

f:id:hanyu_ya:20210107133400j:plain御歌頭作、斎藤道三。展示物があって、正面から撮れませんでした。

f:id:hanyu_ya:20210106224852j:plain大河ドラマ内で使用された正親町天皇の衣装

f:id:hanyu_ya:20210106225003j:plain大河ドラマ内で使用された足利義昭の衣装

f:id:hanyu_ya:20210106225046j:plain大河ドラマ内で使用された蘭奢待と甲冑。向かって左は明智秀満、右は羽柴秀吉が着用。モニター画面は光秀の妻である妻木熙子役の木村文乃さん。1月3日に放送された熙子が亡くなる場面の映像が流れていました

 

 加えて、ビル内の飲食店では、光秀ゆかりの土地の食材を使用した特別メニューを出しているところが何軒かあったので、丹波牛のピッツァを提供している「ピッツェリアエトラットリアダ・ボッチャーノ」に行ってみました。しかし売り切れとのことだったので、ハッピーアワー料金のスプマンテと水牛のモッツアレラを使ったマルゲリータを食べて帰ってきました

f:id:hanyu_ya:20210106230509j:plain東京駅と直通で繋がる地下1階にある総合観光情報センター「東京シティアイ」にも御歌頭さんの絵がありました。光秀と熙子と思われます。

 

 ついに、明日二度目の緊急事態宣言が1都3県に発せられることになりました。毎年1月の3連休には年1のスキーに行っているのですが、今冬は年末に行くことにしたので、伊東にあるクラシックホテル――川奈ホテルに行く予定だったのですが、年明けに知事たちが政府に要請した段階で宣言も時間の問題だろうと思ったので、年末の富良野スキーに続いてキャンセルしました。

 

 ……ということで、数か月前から入っていた休日の遠出の予定は先月第一週に行った遠征を最後にことごとく御破算になり、高齢の親元には近寄らず、仕事がある日は電車の時差利用を心がけ、遅く行って早く帰り、週に1~2日は商談やミーティングのない日を作って、できるかぎり在宅ワークもし、自分がやれる範囲の必要と思われる感染予防対策はしているので、「これ以上どうしろと言うんじゃい」というのが正直な気持ちです。

 

 けれども、昨日のピッツェリアにも新年会と思しき危機感のない女子会6人組がいたので、こういう輩に医療崩壊が間近に迫っている(所によっては始まっている)現状に即した行動を伴わせるためには、もう宣言を出すしかないと思います。この時の店内の客は一人客の私とその6人組、他にはカップルの計3組。客が減って売上が厳しい店側としては断れず受け入れざるを得ないと思うので、客側が思慮分別のある行動をしなければならず、それができれば緊急事態宣言など出す必要はないと思うのですが、できない人がけっこういるみたいなので。はっきり言って政治家も愚かですが、国民も愚かです。禁止や許可を誰かに明確に決めてもらわないといい悪いを判断できない、いい悪いを自分で決めて自分の意志で主体性を持って行動できない人が多いように思えます。自分で決断できない政治家と国民――残念ですが、それが今の日本の実情です。単に、行動に責任を持ちたくなくて狡猾に身を処しているのかもしれませんが。

 

 川奈ホテルに一緒に行く予定だった友人は、先月横浜で食事をしたときにこう言っていました――「日本は先進国じゃないから」と。近ごろ私もそう思います。そんな国の的外れな政治に振り回されず、コロナ禍の状況下にあっても、今後も悔いのない有意義な一日一日を送るべく努めたいと思います。