羽生雅の雑多話

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明智光秀探訪13 その2~特別展「明智光秀と越前」in福井市郷土歴史博物館、金崎宮、金ヶ崎城址

 「麒麟がくる」が終わってから、大河ドラマ館も閉館し、イベントやトピックスなどの明智光秀関連ニュースもめっきり少なくなったので、それらをネットでチェックする時間がだいぶ減りました。これもある種の“麒麟ロス”というものかもしれません。なので、その分多少余裕ができたため、ゆかりの地で買ってきた書籍類をぼちぼちと読み込みはじめたら、行き詰っていた明智家の謎に迫れそうだったので、光秀と土岐明智家の年表&系図作りを再開。そうしたら見事にハマってしまい、遠征記の続きに手が付けられず(笑)。けれども、金ヶ崎城の記事はなんとか23日に放送される「麒麟がくる」の総集編までにはアップしたいと思ったので、考察は一時中断です。

 

 さて、福知山に行った次の日の31日は、7時50分にホテルをチェックアウトすると、8時10分発の特急サンダーバードに乗車。9時36分に福井駅に到着し、福井市郷土歴史博物館へと向かいました。北陸は29日から30日にかけて雪の予報だったので、北陸新幹線を避けて東海道新幹線を選び、さらに福井を後回しにして先に福知山から行ったのですが、これが大正解でした。当日は晴れていましたが、福井はまだ雪がかなり残っていたので。一方の福知山は、こちらも29日は雪だったみたいですが、30日は晴れて、午後に行ったときにはもう市中に雪は残っていませんでした。

f:id:hanyu_ya:20210221175152j:plain郷土歴史博物館に行く途中に通った福井城の石垣と内堀。白山が見えます。

f:id:hanyu_ya:20210221175238j:plain福井城の石垣と枯れ木と雪(韻を踏んでいます)。福井城址には現在福井県庁があります。

 

 徒歩15分ほどで到着し、11月に図録だけ買った受付で観覧券を買うと、企画展「明智光秀と越前」は2階だというので、そちらはゆっくり見たいと思い、まずは1階の松平家史料展示室と常設展示室を見学。松平家史料展示室では「史料から見る福井の災害」という企画展をやっていました。続いて常設展を見学し、その後企画展へ。2階の展示室には最初は二人ぐらいしか見学者がいなかったのですが、40分ほど見ているあいだに続々と増えて、展示室を出るときには10人以上いました。

f:id:hanyu_ya:20210221175820j:plain常設展に展示されていた石棺。企画展は撮影禁止でしたが、常設展はいくつか撮影できました。

 

 企画展では、明智光秀が住んでいたと伝わり、現在明智神社がある東大味と一乗谷の関係を示す記録などが展示されていて、一乗谷朝倉氏遺跡資料館で見た石川学芸員の新聞連載記事のパネル展示もありました。越前には東大味の他、称念寺門前に光秀が住んでいたという伝承があるのですが、朝倉氏が統治していた時代の一乗谷は北ではなく南が表門だったと知ってから、どちらも信憑性が高いと思っています。おそらく美濃の明智城が落城して越前に落ちてきた当初は称念寺を頼って門前で寺子屋を開いて暮らし、のちに取り立てられて朝倉家ないしは朝倉家家臣のもとで働くようになると、一乗谷大手門筋の東大味に土地屋敷を拝領して移ったのだろうと考えています。この推測の裏付けとなるようなものがないかと思い、地元で開催される企画展に期待して見に行ったのですが、今回の展示を見てますますその思いを強くしました。

 

 江戸時代中期――1700年前後に書かれたとされる『明智軍記』は本能寺の変から約120年後の書物なので内容の信頼性が問われていますが、そこには朝倉義景が光秀の腕を見るために鉄砲を撃たせたところ百発百中だったと書かれ、その記事の他、近江の田中城籠城の際に沼田勘解由左衛門尉が光秀から口伝された医術を米田貞能が相伝されて記した『針薬方』や、光秀が朝倉家家臣に刀傷の対処法を伝授したと記されている『金瘡秘伝集』の存在から想像するに、光秀が教えていたのは近所の子供相手の読み書きといったものではなく、武家の子弟を相手にした医術や砲術ではなかったかと思われます。したがって光秀が営んでいたのは、いわゆる寺子屋というよりも指南所であり、そこで指導しているところを朝倉家中の誰かに見い出されて、客分扱いの軍医か軍師のような待遇で用いられるようになったのではないでしょうか。

 

 せっかく福井まで足を延ばすのなら、かにを食べたかったので、11時過ぎには博物館を出て、駅前のパピリンにある「福福茶屋」に行ったのですが、まだ11時20分ぐらいでしたが、すでに満席だったので驚きました。11時から14時までのランチタイムメニューで福井の郷土料理約20種が食べられるバイキングが人気のようで、1組の家族連れが待っていましたが、一人ならカウンター席でもよいので、すぐに空くだろうと思い、待つことにしました。予想どおり5分ほどでカウンター席が空き、11時半にはテーブル席待ちの家族連れより先に通されたので、前に来たときと同じせいこがに丼を注文。混んではいましたが、大多数がバイキング客のため、料理が出てくるのが遅くて待たされているような様子はなく、12時半過ぎの特急には乗れそうだったので、待っているあいだにe5489で敦賀までの特急券を予約しました。

f:id:hanyu_ya:20210221182518j:plainこの日のせいこがに丼。越前ガニである証の黄色いタグには、よく見ると、このカニを獲ったらしき漁船の名前が書かれていました。

 

 食事後、物産館や駅構内の土産物屋を覗いたあと、特急券を券売機で発券して、12時36分発の特急しらさぎに乗車。13時9分に敦賀駅に到着し、駅構内にある観光案内所で金崎宮行きのバスの時刻表と街歩きマップをもらうと、駅前のバス乗り場へ。13時30分発のぐるっと敦賀周遊バスに乗り、13時38分に金崎宮バス停に到着。すると、バス停がある駐車場の隣にある金前寺で、さっそく松尾芭蕉の句碑に出合いました。福井県内で最も古く、日本海側で最も古い芭蕉翁の句碑だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210221181055j:plain金前寺鐘塚の芭蕉句碑。句は「月いづこ 鐘は沈るうみのそこ」。新田義貞の長男、新田義顕金ヶ崎の戦いで海に沈めた陣鐘を詠んだ句だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210221181233j:plain金前寺についての説明板

 

 金前寺の脇道が金崎宮の参道で、道なりに進んで石段を登っていくと金崎宮に到着。

f:id:hanyu_ya:20210221181322j:plain参道の石段。金ヶ崎の退き口をアピールする幟旗がはためいていました。金ヶ崎城明智光秀キャラクターは「あけち君」です。

f:id:hanyu_ya:20210221181404j:plain石段の下にある金ヶ崎城址についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210221181443j:plain説明板の横に立てられていた金ヶ崎の退き口の立て看板

f:id:hanyu_ya:20210221181522j:plain金崎宮縁起についての説明板

 

 金崎宮は、後醍醐天皇の第一皇子で、南北朝時代金ヶ崎の戦いにおいて足利軍に敗れて自害した尊良親王と、その異母弟で、第五皇子でありながら寵妃の阿野廉子が生んだ皇子であるため皇太子となっていた恒良親王を祭神とする神社。第三皇子の護良天皇を祀る鎌倉宮と同じく明治期に建てられました。後醍醐天皇自身は吉野で病没しましたが、彼の息子たちは日本のあちこちで苦労し、自刃のほか毒殺や暗殺など、かなりの割合で悲惨な末路を辿っています。恒良親王も落城する金ヶ崎城からは脱出させられましたが、結局捕らわれて京都で幽閉され、毒を盛られて亡くなりました。まだ15歳だったそうです。

 

 戦国時代になると、越前を掌握した朝倉氏が金ヶ崎城敦賀郡司を置いて支配しましたが、そこに織田軍が攻めてきました。しかし織田信長の妹、市の婚家である浅井家が裏切ったことによって背後を突かれて挟撃される可能性が出てきたため撤退。その時に殿を務めたのが明智光秀羽柴秀吉だったといわれています。退いたから「金ヶ崎の退き口」なのです。

f:id:hanyu_ya:20210221181743j:plain鳥居と舞殿

f:id:hanyu_ya:20210221181821j:plain拝殿

f:id:hanyu_ya:20210221181856j:plain拝殿と本殿

f:id:hanyu_ya:20210221181929j:plain摂社の絹掛神社。新田義顕など金ヶ崎城落城の際に尊良親王と共に自刃した武士たちを祀る。

 

 参拝を終えると社務所に行き、金崎宮の御朱印金ヶ崎城の御城印をいただきました。金崎宮の御朱印は以前に訪れたときにもいただいたのですが、今回は「あけち君」のハンコが押された特別バージョンだったので、改めて購入。御城印は戦国時代バージョンと南北朝時代バージョンがあったので、両方いただきました。

f:id:hanyu_ya:20210221183042j:plain御朱印と御城印。2枚以上の購入でチケットケースがもらえました。

f:id:hanyu_ya:20210221183119j:plainすっかり見慣れた感のあるブルーの看板ですが、「明智光秀 雌伏の地」ではなく「明智光秀 飛躍の地」となっていました。

 

 摂社の絹掛神社の脇から花換の小道に出ることができ、そこから金ヶ崎城の本丸跡へ行くことができます。

f:id:hanyu_ya:20210221183231j:plain金ヶ崎案内図

f:id:hanyu_ya:20210221183324j:plain花換の小道の看板と金ヶ崎城址の石碑

f:id:hanyu_ya:20210221183407j:plain本丸跡に向かう途中にある明治期に建てられた「尊良親王御陵墓見込地」と刻まれた石碑。社務所でいただいた案内記によれば、親王の墓に指定される地は京都にあるため、自刃した場所ではないかとのことでした。

f:id:hanyu_ya:20210221183506j:plain尊良親王御陵見込地ついての説明板

f:id:hanyu_ya:20210221183542j:plain尊良親王御陵墓見込地(写真右上)の下にある本殿跡地。本殿は明治36年(1903)の火事で焼失し、3年後に再建されたときに現在地に遷されたそうです。

 

 金ヶ崎山の頂上近くの平地が本丸の跡地なのですが、そこには円墳が残っていました。つまり、金ヶ崎城が築城される以前からこの地は重要な場所で、古代には墳墓が作られた聖地だったことがわかります。

f:id:hanyu_ya:20210221183706j:plain「金碕古戦場」の石碑と古墳(右奥)

f:id:hanyu_ya:20210221183811j:plain古墳と最高地点の月見御殿跡に続く階段

f:id:hanyu_ya:20210221183843j:plain月見御殿跡から眺める敦賀湾と敦賀半島。下に見えるのは絹掛ノ崎。金ヶ崎城を脱出する際に、恒良親王が人目を避けるため、ここの巌上の松に衣を掛けたと伝わっているそうですが、もう松は枯れているとのこと。

 

 例によって、来た道を戻るのはつまらないので、本丸跡から金ヶ崎城の支城である天筒山城があった天筒山を経由するハイキングコースを通って山を下りようとしたのですが、途中から山道が雪のためにグチャグチャになり、コンフォートブーツではどうにも進めなくなくなったので、あきらめて二の城戸まで引き返し、金崎宮の社務所の脇に出る道を通って山を下りました。

 

 3時過ぎに金崎宮を後にすると、敦賀駅方面に行く次のバスが来るまで30分以上あったので、観光案内所で徒歩5分ぐらいだと説明された次のバス停がある赤レンガ倉庫に行くことにしました。金崎宮の周辺には時間をつぶせるような店はないのですが、そこまで行けば喫茶店があるようだったので、コーヒーでも飲もうと思いました。国の登録有形文化財である赤レンガ倉庫は明治38年(1905)に石油貯蔵用の倉庫として建設されましたが、平成27年(2015)にレストラン館に生まれ変わったそうで、中に土産物屋を併設した「赤れんがカフェ」という店がありました。奥には狭いながらも飲食スペースがあったので、コーヒーと一緒にタルトも頼み、ひと息入れました。

f:id:hanyu_ya:20210221184200j:plain赤レンガ倉庫の外観

f:id:hanyu_ya:20210221184257j:plain「赤れんがカフェ」のコーヒーと濃厚クリームチーズタルト

 

 バスが来る5分前になると店を出て、建物の前にある赤レンガ倉庫バス停に行き、15時41分発のバスに乗車。敦賀から京都に戻る特急は17時15分発のサンダーバードを予約していて、まだ1時間以上あったので、敦賀駅の一つ手前の大鳥居バス停で降りて、時間があれば寄るつもりだった気比神宮を訪れました。(続きます)

明智光秀探訪13 その1~福知山城光秀ミュージアム、福知山城、京都二条城イルミナージュ

 明智光秀を主人公にしたNHK大河ドラマ麒麟がくる」もついに本日で最終回です。この大河ドラマが始まる前から2020年は光秀関連の史跡を訪れるつもりでいましたが、予想以上に深くハマりました。訪れる先々で新たに知ることが興味深く、かつ奥深かったからだと思います。

 

 話は明智光秀から少々飛びますが、明日本拠地宝塚での千秋楽を迎える雪組公演は、トップスターのだいもんこと望海風斗さんのサヨナラ公演なので、絶対に見逃したくないと思い、とはいえ前回の雪組公演は東京公演を申し込んだのですが、ことごとくチケットの抽選に外れて観られなかったので、東京よりはまだ競争率が低いような気がする宝塚公演のチケット抽選に申し込みました。春の緊急事態宣言により会期途中で中止となってしまった福井市立郷土歴史博物館の「明智光秀と越前ー雌伏の時ー」が12月19日から2月14日までの会期で改めて開催され、そちらにも行きたかったので。念には念を入れて、一番当選確率が高そうな平日のマチネを選んだら、なんとか当たったので、遠征を計画。昨年のことです。現在、人気・実力ともに宝塚一の組のトップスターの退団公演という非常に入手が難しい貴重なチケットなので、緊急事態宣言が発せられても、休演にならないかぎり行くつもりでした。サヨナラ公演も特別展も、この機会を逃すと、次はないと思われることなので。

 

 そんなわけで、北陸新幹線で金沢まで行き、特急サンダーバードで福井を経由して関西に出て宝塚まで行くかと考えていたところ、福知山光秀ミュージアム明智光秀の武将印を2月7日の閉館日まで来館者に配布するというニュースを知り、また、福知山市が「明智光秀からの手紙ー丹波攻略戦を語る史料ー」という図録を年明けに刊行し、福知山城で売っているという情報を得たので、福知山も再訪することにしました。……であればついでに、まだ行けていない盛林寺にある光秀の首塚に詣でようと思っていたのですが、京都府に緊急事態宣言が発せられてしまったので、残念ながら今回の福知山訪問は宣言が発せられたあとも休館はしないという光秀ミュージアムと福知山城に絞ることに。寺院関係は人が来ないという理由で閉まっていそうだったので。

 

 その代わりに、ちょうど福井からの通り道なので敦賀に寄り、福井県が光秀の飛躍の地ポイントとしてアピールしている金ヶ崎城址に行くことにしました。明智光秀羽柴秀吉が殿を務めた金ヶ崎の戦いの舞台です。敦賀にある名神大社で越前一宮の気比神宮は神代史上重要な史跡なので、式内社巡りを始めて早々に訪れ、その際に金崎宮にも行き、レンタサイクルを借りて気比神宮の奥元宮といわれる常宮神社まで足を延ばしましたが、以来縁がなかったので、久しぶりに訪れるのもいいかと思いました。

 

 ということで、先月30日に約2か月ぶりとなる新幹線に乗車。品川発10時17分ののぞみに乗り、12時21分に京都駅に到着。駅前のホテルに荷物を預けると、駅に戻ってe5489で予約してある特急券を発券してから、西口改札前のイートパラダイスにある料亭和久傳のカジュアル店「はしたて」に行き、昼食を摂ることに。数量限定メニューの「金目鯛ちらし寿司セット」がまだあるというので、そちらを選びました。

f:id:hanyu_ya:20210207165312j:plain「はしたて」の金目鯛ちらし寿司セット

 

 食事後、13時25分発の特急きのさきに乗り、14時44分に福知山駅に到着。福知山城の近くまで行く駅前発のバスは毎正時しかないことは2回の訪問でわかっているので、迷うことなく歩きで福知山城へ。15分ほどで到着し、今回はチケットを持っていなかったので、チケット売り場でミュージアムと福知山城の共通券を購入すると、そこで明智光秀の武将印がもらえました。

 

 入館者は40名までに絞っているとのことで、渡された整理券の時間に従って先にミュージアムから見学。予定どおりなら会期を終えて閉館しているはずで、貸出期間を過ぎているためか、展示史料はすべて複製のようでした。

 

 続いて福知山城に行き、検温&連絡先記入のあと、窓口で図録を購入。目当ての「明智光秀からの手紙ー丹波攻略戦を語る史料ー」の他、「明智光秀の生涯と丹波福知山」という福知山城天守閣再建30周年を記念して刊行された本もあったので、そちらも購入しました。ついでに、前回の訪問時はカード入れ紛失中で手元になかったため提示できなかった「いがいと! 福知山ファンクラブ」の会員証を見せると、PR武将明智光秀のポストカードがもらえました。最初に来たときにもらった特典は福知山城のイラストが描かれた缶バッジでしたが。

f:id:hanyu_ya:20210207180823j:plain冬の福知山城。初めて晴れていました。

f:id:hanyu_ya:20210207165534j:plain光秀ミュージアムでもらった明智光秀の武将印と、福知山城でもらった「いがいと! 福知山ファンクラブ」会員特典のPR武将のポストカード

f:id:hanyu_ya:20210207165618j:plain福知山城で購入した福知山市発行の図録と本。細川珠生さんの本は、子孫が書いたということで興味があり買ってあったのですが、読む時間がなくて放置していて、今回の移動時間でようやく完読しました。本屋で買える明智光秀関連本はこの本と「まっぷる明智光秀」ぐらいしか買っていませんが、ゆかりの地で購入した書籍や特別展の図録を読み込むのに、数年はかかりそうな気がします(笑)。

 

 ミュージアムと同じく、城内の展示も前回からほぼ変化はなかったので、最上階までサクッと見ると城を後にし、ゆらのガーデン内の土産物屋へ。前回訪れたときに品切れだったPR武将のA4クリアファイルをゲットすると、福知山駅に戻り、4時過ぎに城を出る前にe5489で予約した特急券を発券。それから駅構内のコンビニでタカラ缶チューハイとつまみに豊岡産のちくわを調達し、16時44分発の特急きのさきに乗車。

f:id:hanyu_ya:20210207165859j:plain福知山城の展示は10月に来たときとほとんど同じでしたが、歴史家の磯田道史さんが寄贈したという、この『慶長中外伝』はなかったような気がします。光秀の孫である熊本藩初代藩主細川忠利に召し抱えられた、光秀の娘婿である明智秀満の子孫のことが書かれています。

f:id:hanyu_ya:20210207182828j:plain特急きのさきの車窓から見えた福知山城

 

 18時8分に京都駅に到着すると、ホテルに行ってチェックインを済ませ、再び駅に戻って地下鉄に乗り、二条城へと向かいました。二条城では2月21日まで「京都二条城イルミナージュ」を開催していて、今回は「日本の四季」をテーマに、京都の春夏秋冬と二条城の歴史をイルミネーションで表現するとのことだったので、12月に訪れたばかりでしたが、見てみたいと思い、またまた足を運びました。通常であれば開場時間は5時半から10時までなのですが、緊急事態宣言中は8時までとなり、受付は7時半まで。そのため、福知山での滞在時間が当初の予定より1時間ほど短くなりました。10時までなら、明智茶屋にも寄ったのですが。

 

 7時前に二条城前駅に到着し、地上に出ると城の周囲は閑散としていて、券売所も開いていないみたいだったので、東大手門の前に立っていたスタッフと思われる人に「イルミナージュを見に来たのですが、当日券は売ってないのですか?」と訊くと、「城内で販売しております」と言うので、東大手門から入城。築地塀の前で右に曲がって休憩所があるほうに進んだのですが、まったく人けがなく夜闇が深まるばかりだったので、引き返してスタッフに訊いたほうがよいと思い、来た道を戻ると、前方に明るい場所を発見。門から入って左手のほうにチケットを販売するテント小屋があり、検温&連絡先記入後に買うことができました。

f:id:hanyu_ya:20210207170559j:plainライトアップされた東南隅櫓

f:id:hanyu_ya:20210207170649j:plain姫と公達のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207170726j:plain舞妓のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171042j:plain二条城の築城主、徳川家康のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171122j:plain二条城に行幸した、家康の孫娘の夫、後水尾天皇のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171211j:plain桜の園をバックにした人力車のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171330j:plain二の丸庭園の漆喰塀をバックにした竹林のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171406j:plainライトアップされた松と桃山門

f:id:hanyu_ya:20210207171459j:plain二の丸の障壁画「松鷹図」と制作者である狩野探幽のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171555j:plain桜の園の石垣をバックにした尾長鶏のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171631j:plainライトアップされた南中仕切門

f:id:hanyu_ya:20210207171712j:plain明治天皇のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171754j:plain大正天皇のイルミネーション

 

 振り返ると、ちょうど月がいい具合に出ていて、折り返し地点からの帰り道は、月とイルミネーションの競演を堪能しました。後で調べたら、前日が今年最初の満月でした。ちなみに1月の満月は「ウルフムーン」というそうです。

f:id:hanyu_ya:20210207174157j:plainライトアップされた松と十六夜の月

f:id:hanyu_ya:20210207174236j:plain漆喰塀をバックにしたイルミネーションの花と十六夜の月

 

 少し待てば容易にフレームから人を外せるほど少ない入場者だったので、普段の人出ならば絶対に撮れないだろう写真も撮れました。嬉しいやら悲しいやら……。

f:id:hanyu_ya:20210207174356j:plain東大手門正面。とてもイベント開催中とは思えない静謐な趣でした。

f:id:hanyu_ya:20210207184909j:plain唐門と築地塀。どちらも国の重要文化財です。これだけ引いた状態で人を入れずに夜の写真が撮れることは、この先ないと思います。

f:id:hanyu_ya:20210207185040j:plain唐門正面。今まで何枚も唐門の写真を撮ってきましたが、金の飾り金具をはじめ、これほどきれいに写っているものはないと思います。

f:id:hanyu_ya:20210207174633j:plain南門付近から見る唐門と築地塀十六夜の月

 

 終了時間の8時10分前に会場を出て城を後にし、二条城前駅から地下鉄に乗って京都駅まで戻り、8時半にはホテルに戻って、この日は終了です。

織田信長の誤算による自滅か!?~本能寺の変の黒幕についての一考察

 以前に遠征記の中で、本能寺の変の動機についての考察を書いたことがありましたが、明智探訪を続けてきて、明智光秀の動機とは別に、黒幕について思い至ったことがありました。本能寺の変を仕掛けたのは、織田信長本人ではなかったか――と。

 

 そう思ったのは、NHKの「歴史探偵」という番組で、光秀が築いた周山城の規模を知ったときでした。天正7年(1579)に丹波平定をほぼ終え、信長から丹波一国を領国として与えられると、光秀は亀山城、福知山城に続いて周山城の築城を開始しました。天正9年(1581)8月には茶の湯の師匠である津田宗及を招いて月見をしたことが『宗及茶湯日記』に記録されているので、その頃までには、完成はしていなくても客を呼んでもてなすぐらいの体裁は整っていたことになります。

 

 周山城は480メートルの山の上に作られた南北600メートル、東西1300メートルに及ぶ、とんでもない規模の城です。国衆の力が強くてまとめるのが難しい丹波をついに平定し、さらに彼らや領民たちを従わせて、わずか2年足らずでそのような巨大城郭を作った光秀に、信長は恐れを抱いたと思います。同番組で周山城のCG復元図を見たときに、私はこれほどの建造物をあんな深い山の上にそんな短期間で人々に作らせた光秀の器量と人望に驚きました。人望があったわけではなく、単に人心掌握術に長けていただけかもしれませんが、いずれにしろ信長が私と同じような感想を持ったとしても何ら不思議ではありません。たとえ実際には目にしていなくても、そのような城の存在を知れば、築城主の力を感じて脅威に思うのではないでしょうか。さすれば、いずれ足元をすくわれるという危機感をおぼえたと思います。度重なる裏切りや離反によって、自分から人心が離れていっていることは、感情的には堪えていなかったかもしれませんが、事実は事実として信長自身も感じてはいたでしょうから。

 

 とはいえ、信長の露払いとなって主君が西国に攻め込む道を着々と整備している光秀に表立っての非はないため、よほどのことがないかぎり光秀を失脚させることはできなかったと思います。丹波平定を成し遂げるという他に類を見ない武功を挙げた光秀にそんなことをすれば、けっして一枚岩ではない織田方の武将たちはとたんに信長に背を向け、信長のために戦をしなくなるからです。また、光秀の下でおとなしくなった近江や丹波の国衆や、今や34万石の大名である光秀の配下も黙ってはいません。そうした事情もあって、信長は光秀が自分に叛いて、公明正大に光秀を処分できる機会を作ろうとしたのではないかと思えます。

 

 怨恨説の根拠の一つとなっている安土城徳川家康を饗応したときの叱責、四国説の根拠となっている長宗我部家に対する方針転換など、従来本能寺の変の動機として挙げられている、光秀の不満を煽るような細かいことを意図的に積み上げていき、何かきっかけがあれば光秀が叛きそうだという情報を得たところで、少ない手勢で本能寺に滞在してわざと隙を見せて、堪忍袋の緒を切った光秀が事を起こしたら、信長の内意を受けていた羽柴秀吉が光秀を成敗するという手筈だった――今のところそれが一番しっくりきます。だからこそ秀吉は中国大返しという離れ業が可能だったのでしょう。何故信長が小姓衆だけを連れて上洛したのかも説明がつきます。光秀の謀反を誘い出して彼を嵌めるためで、秀吉の援護があると信じていたからです。

 

 舞台が本能寺になるかどうかはともかく、わずかな供回りの信長が襲われたら、秀吉の命を受けた者が駆けつけて助け、謀反の現行犯である光秀を言い訳無用で失脚させることになっていた――ところが、光秀とは違う理由で、光秀と同じく信長を煩わしく思いはじめていた秀吉は、目の上の瘤を一気に排除する好機と見て、主君信長を見殺しにし、ライバル光秀を、それこそ主君の仇討ちという公明正大な大義のもとに滅ぼしました。信長の遺体は見つからなかったということになっていますが、もしかしたら秀吉勢が当初の手筈どおりに救い出したあとに抹殺したのかもしれません。歴史とは勝者による勝者のための記録で、出口王仁三郎いわく「信ずるに足らぬもの」なので(笑)

 

 信長の数々の焚きつけに耐えていた光秀が一線を越える理由となったことが何なのかはまた別問題で、そちらはやはり時期的に「三職推任」問題がらみで、前日の6月1日に開かれた茶会にかこつけて公家衆に対して示された信長の返答内容が主因ではないかと思いますが、信長が己の策に溺れて自滅したのが本能寺の変の一面かもしれません。

特別展「国立ベルリン・エジプト博物館所蔵 古代エジプト展 天地創造の神話」in江戸東京博物館

 宝塚の平日のソワレは本来であれば6時半開演なので5時ぐらいまで仕事をしてから行くのですが、緊急事態宣言を受けて、当面のあいだ開演時間が3時半に繰り上げ変更されているので、宙組公演を観劇した日は昼で仕事を切り上げ、両国の江戸東京博物館に寄ってから日比谷に行きました。江戸博には企画展「和宮 江戸へ―ふれた品物 みた世界」を見に行ったのですが、特別展「国立ベルリン・エジプト博物館所蔵 古代エジプト展 天地創造の神話」も開催中だったので、ついでに見てきました。

 

 今回公開されているエジプトコレクションは、世界遺産となっているベルリンの博物館島にある新博物館が所蔵するもので、博物館島には5年ほど前にフリードリヒの絵を見に行き、その時にナショナルギャラリーの他、新博物館を含む五つの博物館を見てきたので、特別展は見ても見なくてもよかったのですが、時間があったので軽い気持ちで寄ってみたら、想像以上に気合いの入った展示で驚きました。日本初上陸という展示品もかなりあって、しかもその多くが撮影を許可されていたことにもビックリしました。

f:id:hanyu_ya:20210123195242j:plainハトシェプスト女王のスフィンクス像(紀元前1479~1458頃)。3500年前の物ですが、奇跡的な保存状態です。

f:id:hanyu_ya:20210123195336j:plainセクメト女神座像(紀元前1388~1351頃)。彫像として完成度が高いです。

f:id:hanyu_ya:20210123195413j:plainツタンカーメン王の前で腰をかがめる廷臣たちのレリーフ(紀元前1333~1323頃)。こういうレリーフにしては珍しく、よくある記号みたいな人間描写ではなく、現代でも見られるような生きている人間の日常的な様子が描かれていて、3000年前が一気に身近になりました。

f:id:hanyu_ya:20210123195443j:plainタイレトカプという名の女性の人型棺(紀元前746~525頃)。棺という箱にしては、かなり写実的です。

f:id:hanyu_ya:20210123195522j:plainハヤブサ頭のワニの小像(紀元前664~332頃)。こういう生き物を想像できる発想力が見事です。

f:id:hanyu_ya:20210123195613j:plain有翼のイシス女神に保護された、ミイラ姿のオシリス神の小像(紀元前664~332頃)。2000年以上前に、すでに青銅でここまで精巧なものを作るほどのデザイン力と造形力があったことに驚嘆します。

f:id:hanyu_ya:20210123195755j:plainバレメチュシグのミイラ・マスク(紀元50~100頃)。金による加飾も彩色も圧巻です。

 

 ベルリンの新博物館は王妃ネフェルティティの胸像があることでも知られますが、他にもシュリーマンが母国に持ち帰った発掘品(略奪品)などがあり、そのコレクションはロンドンの大英博物館にも劣らぬものだと思います。今回来日しているのはそのうちのほんの一部で、博物館内には似たようなものがゴロゴロあり、取り立てて有名でもなく特にフィーチャーされるような品々ではないのですが、それでも一つ一つ丁寧に見せられると、それぞれの作品が目に飛び込んできて、その凄さを強く訴え、古代エジプト美術のデザイン力や制作技術等々、改めてレベルの高さを感じることができました。ベルリンで見たときには、あまりに展示品が多く情報量が過多で、かつ無造作に展示されているので、見ているうちにありがたみも薄れて、しまいには食傷気味になり、途中から流して見ていましたから。それに、エジプトの偉大さよりもドイツ帝国の偉大さを見せつけられた印象のほうが強かったですし。なので、多くのものに圧倒される展示もそれはそれで魅力的ですが、その中からセレクトされたものを少しずつ見る展覧会も、個々を深く鑑賞できて、これはこれで悪くないと思いました。そして、本展では、現代人を凌ぐ古代人の豊かな想像力と表現力に触れられ、東博で開催された大英博物館帰国記念の「土偶展」に匹敵する芸術的刺激がもらえるので、コロナ禍ではありますが、できるだけ多くの人に見てほしいと思いました

宝塚メモ~物語がおもしろくない作品を無難にまとめた宙組の進化

 10日ほど前に宝塚宙組公演「アナスタシア」を観てきました。ブロードウェイミュージカルで、ロマノフ家がらみのストーリーとくれば、見逃すわけにはいかず、先行予約に申し込んで当たったチケットなので、休演しないかぎり行く予定でした。

 

 元ネタはディズニーの同名映画で、宝塚バージョンは稲葉太地さんが潤色・演出。結論から言えば、可でもなく不可でもないという微妙な作品でした。アニメをミュージカル化した作品としては完成度が高く、宙組のパフォーマンスもよかったのですが、いちミュージカルとしては物語が全然おもしろくない駄作で、宝塚作品としても魅力がないという、ちぐはぐな印象。ロマノフ家を題材にした宝塚作品ならば「ロマノフの宝石」のほうが断然おもしろいし、ゆりか(真風涼帆さん)がトップスターになってからの宙組作品としても「白鷺の城」とか「El Japón(エル ハポン)―イスパニアのサムライ―」のほうがよかったと思います

 

 ストーリーは流れるように展開し、中だるみもなく全体の構成はよいのですが、とにかく肝心の筋がおもしろくない。「だからどうした」という感じ。映画の「アナスタシア」は見ていないので実際のところはどうかわかりませんが、よくこんなつまらない話のミュージカルを作ったなというか、ミュージカル化したなと思いました。音楽や演出などミュージカルとしての完成度が高かっただけに、この音楽や演出で見せるほどの話ではないことが惜しまれました。猫に小判とか豚に真珠といった感じです。音楽も難曲が多く、それでもゆりかをはじめ宙組生はがんばって歌っていましたが、いくらくり返し歌われても歌うのが難しそうだなと思うばかりで耳に残らないのが残念でした。メロディが入ってこなくておぼえられないので、途中から「白鷺の城」のゆりかの歌が頭の中でリフレインしていました。

 

 宝塚のオリジナル作品ではないので主要な役が少ないのは仕方がなく、それでもまだ物語がおもしろければいいのですが、登場人物が少ない上に話がおもしろくないので見どころがなく救われない感じでした。中でも割を食ったのは、主演コンビと敵対する立場の役柄だった二番手のキキ(芹香斗亜さん)で、比較的おいしい役だったのは主演コンビの仲間役だった三番手のずん(桜木みなとさん)。ずんは95期生の中でも後れを取っていましたが、トップや二番手の同期がコロナ禍で足踏みしているあいだに、ステップアップできる役をもらって、一気に差が縮まった気がします。で、主人公ディミトリ役のゆりか、ヒロインであるアーニャ役の娘役トップスター星風まどかさん、グレブ役のキキ、ヴラド役のずん、以上――という感じで、ホントに見甲斐がありませんでした。ヴラド以外はキャラクターとしても魅力がなく、ディミトリは悪人ではありませんが小物で、ゆりかの持ち味を発揮するのが難しく、彼女の良さがほとんど出ていないように思えました。ゆりかの良さはなんといってもビジュアルで、カッコよさであり、美しさなのですが……衣装も振る舞いも地味な役だったので。キキもソロなどを聴いていると「ずいぶん上手くなったよなぁ」と思い、以前キキの下にいた現花組トップスターのカレー(柚香光さん)がトップスターで通用するのなら、キキがトップスターになってもいいのではないかと思いました。しかし今回の役はつまらなく、ソロ以外に見せ場なし。カレーと違いすぎる扱い、開いた差が気の毒になりました。宝塚ではよくあることですが。

 

 宝塚オリジナルではなくても、「エリザベート」や「ロミオとジュリエット」のようにトップコンビと二番手以外にもおいしい役があるミュージカルはたくさんあるので、実に物足りない感じでしたが、あのストーリーをあれ以上のミュージカルにすることはできないと思うので、宙組生はよくやっていたと思います。野球でいえば、日本のプロ野球の上にはメジャーリーグがあり、プロ野球の下には高校野球があり、でも高校野球でもプロ野球やメジャーの試合以上におもしろく十分に感動できる試合があるのと同じで、今回の作品は稀に見る熱戦でいい試合だった高校野球という感じです。選手個人個人にプロ野球で通じる技量があったとしても、戦っているのが高校野球の試合である以上、プロ野球ではないのと同様に、個々のジェンヌのパフォーマンスの出来がどんなによくても元々の作品がエンタテイメントとしては高校野球レベルなので、あれ以上の出来は望めず、したがって可もなく不可もなく、です。ゆりかもキキもブロードウェイミュージカルの役を思った以上にきっちりこなしていましたが、彼女たちは宝塚の男役を演じてこそ光る魅力の持ち主であり、いかにも宝塚の男役という役を演じてこそ輝く役者さんだと改めて思いました

 

 東京宝塚劇場は今年リニューアル20周年で、ロビーの柱に20年間に上演された宙組公演のパネルが展示されていました。その中で一番好きなのが「カサブランカ」です。アニメと実写の差はあれども、こちらも映画が元ネタの作品で、けれどもボギーを思い出しもしないほど、ゆーひ(大空祐飛さん)が完璧にリックでした。ああいう男役の演技とそれがピタリとはまった作品をまた観たいなぁと、幕間のあいだ柱の前で佇みながら、しみじみ思っていました。

f:id:hanyu_ya:20210123180105j:plainゆーひ(大空祐飛さん)がトップの時の作品はクラシコ・イタリアーノ」とか「誰がために鐘が鳴る」とか、印象に残るよい作品ばかりでした

 

 ということで、終演後はかなり消化不良気味だったので、星組ロミジュリはなんとしても観たいと思い、ムラに行こうと決意して劇場を出ました。とにかく舞台も気兼ねなく観に行けるように、早くコロナの感染拡大が落ち着いてほしいです。

岐阜・京都神社遠征&明智光秀探訪12 その3~亀山城址、特別展「丹波決戦と本能寺の変」in亀岡市文化資料館、鍬山神社

 最終日の6日は、ホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらうと、京都発9時32分の嵯峨野線の各停電車に乗車。10時に亀岡駅に到着し、駅構内にある観光案内所で亀山城が見学できるかどうかの確認と、文化資料館と鍬山神社の行き方を訊いて地図とバスの時刻表をもらうと、まずは現在宗教法人大本の管轄となっている亀山城址を目指しました。

f:id:hanyu_ya:20210117213653j:plain亀山城の外堀だった南郷池のある南郷公園の明智光秀

 

 歩いて10分ほどで大本の正門に到着すると、敷地内に入り、案内に従ってみろく会館1階にある総合受付に行き、城址を見学するために必要なギャラリーおほもとの入場券を購入。その時に御城印も売っていたので購入し、もう受付に戻ってくる必要はないので、見学を始める前にフロアをうろつくと売店を発見したので寄ってみたら「丹波亀山城明智光秀公―出口王仁三郎の文章・詠歌など―」という冊子が販売されていたので、そちらも購入。

f:id:hanyu_ya:20210117213814j:plain亀山城の御城印と冊子。冊子の表紙にある城の絵は、江戸時代の亀山城で、徳川家康による天下普請で五重の層塔型天守を持つ城に修築されました。

 

 それから、ギャラリーで亀山城に関するVTRが見られるというので2階へ行き、VTR視聴後、ギャラリーで開催されていた特別展示「耀盌」を鑑賞。陶芸家でもあった大本教の教祖、出口王仁三郎が制作した茶碗が展示公開されていたのですが、見たことのない楽茶碗で、ちょっと驚きました。楽焼のイメージを覆す、茶陶の概念を越えた明るく鮮やかな色絵付で、とにかく華やか。亀山城址にある大本教の本部は天恩郷というのですが、まさしく天界を感じさせるというか、パライソを想像させる色合いだと思いました。「パラダイス」ではなく「パライソ」です。命をかけて海を渡り布教に努めたポルトガルの宣教師たちが説いた天国、彼らの熱心な布教活動によって教化されたキリシタンたちが死後に行けると信じて殉教した天国です。そういうものがあると信じる一途な心、どんなに迫害されても持ち続ける篤い信仰心が、天国を茶碗で表現したらこうなると示されたように思いました。楽茶碗としては亜流かもしれませんが、作り手の心がきちんと表現されていて、また見る者にきちんと伝わってくるという時点で、この茶碗たちには紛れもなく存在価値があり、この世に存在する役目を立派に果たしているように思いました。なので、もはや他者が別の価値観をもとに判断を下す茶碗としての良し悪しなどどうでもいいような気がしました。

 

 ギャラリーを後にすると、みろく会館から外に出て、受付でもらったパンフレットの順路に沿って見学。明智光秀丹波統治の拠点として築いた亀山城は、江戸時代になると、天下普請によって五重の層塔型天守を持つ城に修築されました。天下普請とは江戸幕府が全国の大名に命令して行わせた土木事業で、城郭建造は13しか例がなく、江戸城名古屋城大坂城駿府城、二条城など徳川家のための城と、あとは幕府が諸大名に睨みをきかせる上で重要な拠点となる城が天下普請によって築かれました。つまり亀山城はそのうちの一つだったということです。しかし維新後に廃城となり、そのまま管理されずに荒れ果てていたのを、大正8年(1919)に出口王仁三郎が購入し、整備。地面を掘り起し石垣を積み直して大規模な神苑造営を行い、大本教発祥の地である綾部の梅松苑とともに二大聖地とし、現代に至るとのこと。出口王仁三郎は亀岡の出身で、亀山城に格別の思い入れがあったらしく、築城主である明智光秀のことも「名将」と断言しています。購入した冊子には出口王仁三郎の文章がいくつか掲載されているのですが、その中に下記のような文があります。

 

明智光秀は稀に見る名将であったのである。太閤秀吉にあの偉業を遂げさした裏面には光秀の功績を無視することはできない。しかし表面伝わっている歴史では、主殺し親殺しの大罪人の汚名を着ているが決してそんな大悪人ではない。天下の将来を達観して大所高所から身を殺して仁をなした大勇者である。」

 

 この文の最後は「人為の歴史というものは信ずるに足らぬものである。」で締めくくられているのですが、まさにそのとおりだと思います。出口王仁三郎のすごいところは、この文章を言論統制下にある大日本帝国の時代に書いて発表していることです。これでは危険人物として目を付けられても仕方がないと思います。実際に、敬神尊皇報国の大義を唱導する教団でありながら、逆賊無道主殺しの不倫不徳の明智光秀城址を教団の聖地に選ぶとはいかがなものかという批判があったとも書かれていました。また、以下のような分析もしていて、少々長いですが、言い得て妙だと思ったので、引用しておきます。

 

「群雄割拠して権謀術数至らざるなく、陶晴賢はその主なる大内氏を亡ぼし、上杉景勝はその骨肉を殺し、斎藤龍興は父の義龍を討ち、その他これに類する非行逆行数うるにいとまなき時代に際し、独り光秀のこの挙あるを難ずるの大にしてかつ喧ましきは、五十四万石の大名が、右大臣三公の職を有する主人を弑したりということと、戦場が王城の地にしてその軍容花々しく、もって人口に膾炙することの速やかなると、加うるに世は徳川の天下に移り、世襲制度に変ぜしめたる上は、光秀をそのままに付しておくことは、政策上もっとも不利益であったことと、第二第三の光秀出現せんには、徳川の天下は根底より転覆する次第であるから、偏狭なる儒者が光秀を攻撃したのが、今日光秀に対して非難の声が特に甚しいのではないかとも思わるるのであります。」

 

 いろいろな史料が発見されて明智光秀に関する情報が増えて見方が変わってきた昨今ならともかく、大正という時代において明らかだった、限られた事実から見てもこのように思っていた人間がいる――それほどに光秀に対する評価は不当だったのだと思います。けれども、思っていてもそれを口にすることはできなかった――みながみな一宗教の教祖にまでなった出口王仁三郎のようにはなれなかったし、一宗教の教祖である出口王仁三郎に迎合することもできなかったのだと思います。

 

 城址で見学できるのは光秀の手植えと伝わるイチョウの木あたりまでで、そこから先は見学者は立入禁止なので引き返し、花明山植物園へと向かいました。大本の敷地内にあるこの植物園は、昭和26年(1951)に開園。亀山城の外堀だった南郷池に隣接し、その範囲は橋が架けられた中の島まで及び、日本の野生植物を中心に約1000種類が植えられているそうですが、なんとメタセコイアの木までありました。

 

 亀山城址の次は歩いて5分ほどのところにある文化資料館へ行き、特別展「丹波決戦と本能寺の変」を見学。光秀の書状が多く展示されていて、朝倉氏遺跡資料館の講座でも触れられた、光秀が怪我を気づかう小畠永明宛ての文や、福知山市の御霊神社が所蔵するものとはまた別の明智家家中法度などがありました。こちらは山口市歴史民俗資料館の所蔵品で、内容は御霊神社の所蔵品と同じですが、若干語句の異動が見られるそうです。何故山口市歴史民俗資料館に明智家の家中軍法があるのか、山口市周辺から発見されたものなのか大いに気になりました。その他、大津歴史博物館の時と同様に、個人蔵の書状など、丹波国の地元ならではの史料も豊富でした。展示も工夫されていて、主な展示品には解説にQRコードがあって、それを読み込むと亀岡PR特別大使の戦国VTuber明智光秀が出てきて解説してくれたりするのですが、VTuberによる説明があってもその場で理解するのは至難なので、図録を買って確認することに。本展は当館の第35回特別展で、第34回特別展の「明智光秀と戦国丹波丹波進行前夜」の図録もあったので、両方購入しました。

f:id:hanyu_ya:20210119004939j:plain特別展の案内人であるVTuber明智光秀。動物戦国武将占いなどもあり、なかなか手の込んだ展示内容でした。ちなみに、武将占いをやってみたら結果は狼で、竹中半兵衛タイプでした。

 

 資料館を出ると亀岡駅に戻り、12時55分発のバスに乗って、式内社の鍬山神社へと向かいました。13時5分に鍬山神社バス停に到着し、そこから徒歩5分ほどで到着。社務所無人だったので呼鈴を鳴らすと、しばらくして神職の方が現れたので御朱印をお願いし、待っているあいだに御守り授与所を見渡すと、50円で略記を売っていたので購入。

f:id:hanyu_ya:20210117220025j:plain鍬山神社の鳥居

f:id:hanyu_ya:20210117222404j:plain鍬山神社鍬山宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210117221443j:plain鍬山神社八幡宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210117221132j:plain本殿

 

 その略記によると、当社の創建は和銅2年(709)で、祭神は大己貴神応神天皇。神社創建前から祭祀は行われていたようで、大己貴が国土経営に励んでいた往古、丹波国は泥湖でしたが、八柱の神が相談して山を切り拓いて山城方面に水を流して抜くことに成功し、広大な平野が開拓されたとのこと。それによってできたのが保津峡であり保津川で、その徳を尊んで鍬山神を祀り、「鍬山」という祭神名は開削に使われた鍬が山積みになっていたことから名付けられたそうです。――ということはつまり、現在の祭神は大己貴神と、平安時代末期に祀られた応神天皇ではありますが、元々は亀岡盆地の開拓神である八柱の神を鍬山神として祀ったのが起源ということなのだと思います。境内には金山・樫船・高樹神社、日吉神社熊野神社、稲荷疱瘡神社、愛宕神社天満宮厳島社、百太夫神社という八つの境内社があるので、大己貴以外は本社から分けられて、境内社で祀られるようになったのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20210117221914j:plain境内の奥にある鳥居。鍬山神社は当初背後にある面降山の西にある医王渓に鎮座していましたが、慶長15年(1610)に亀山城の城主となった岡部長盛が現在地に遷座したとのこと。行かなかったので鳥居の先はわかりませんが、想像するに面降山で、神社創建以前の古代祭祀においては面降山を御神体として祭祀が行われていたのかもしれません。

 

 金山姫命を祭神とする金山神社カナヤマヒコ猿田彦命を祭神とする樫船神社はサルタヒコ、高樹神社の祭神は「山雷大神」と書いてありましたが、おそらく『日本書紀』に“高木”神として登場するタカキネを祀ったのだと思います。大山咋神を祭神とする日吉神社はヤマクイ、熊野神社は本来熊野神といえばイサナミのことですが、こちらは大己貴=オホナムチの父であるソサノヲを祀ったのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117221817j:plain境内社の高樹・樫船・金山神社日吉神社熊野神社

 

 天満宮の祭神は菅原道真ですが、道真がこの地の開拓神ということはないので、元々はこちらが山雷大神を祀った社だったのだと思います。山雷大神→雷神→天神→菅原道真と変化したのでしょう。愛宕神社の祭神は「火産霊神(稚産日命)雷神」と書かれていましたが、稚産日=ワクムスビは火産霊こと迦具土カグツチの子で、父子といえども両者は別神なので、元々はわざわざカッコ書きで記されているワクムスビを祀った社だったのではないかと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117222727j:plain境内社天満宮愛宕神社

 

 百太夫神社の祭神は豊磐間戸神と櫛磐間戸神。丹波篠山には、この二柱を祭神とする櫛岩窓神社があり、丹波国の四つの名神大社の一つとされているので、丹波国とゆかりの深い神なのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117223443j:plain境内社の百太夫神社

 

 ということで、おそらく国土開発の神である大己貴神を筆頭に、丹波国に坐す神である豊磐間戸神と櫛磐間戸神、山城国の開拓神である大山咋神丹波と山城のあいだにある愛宕山に坐す愛宕神、道案内の神である猿田彦神中山道を拓いた金山彦神、それと天君の政治を支える国府の神である高木神か、水神の厳島神あたりが亀岡盆地の開拓に関わったとされる八柱の神の正体で、当初鍬山神として祀られた面々ではないでしょうか。

 

 そして現在、鍬山神として祀られているのは大己貴神ですが、元々は大物主神が祀られていて、その正体は初代大物主の大己貴=オホナムチではなく、オホナムチの孫で三代大物主の子守=コモリではないかと思います。何故ならば、亀岡にある丹波一宮の出雲大神宮の祭神は大国主命三穂津姫命ですが、こちらの正体も二代大物主の大国主=ヲコヌシではなく三代大物主のコモリと思われるからです。その理由は、下鴨神社の摂社、三井神社の祭神である伊賀古夜日売命が丹波の神だからです。

 

 伊賀古夜日売命は『ホツマツタヱ』にはイソヨリという名で登場し、子守神ことコモリの娘ということになっています。イソヨリは、父コモリの母で祖母にあたるミホツの推薦で宮中に出仕し、十一代天君の皇后トヨタマの弟であるタケツミに下賜されました。そしてイソヨリとタケツミのあいだに生まれたのが、のちに神武天皇を生むタマヨリです。つまり、丹波神武天皇の外祖母イソヨリの出身地で、それゆえにイソヨリの父コモリと、孫娘イソヨリの出世の道を拓いた祖母のミホツが出雲大神宮に祀られていると考えるのが自然です。とはいえ、これも祭神と祭主の関係で、コモリが父ヲコヌシと母ミホツを祀って祭主として祭事を行っていたけれども、神上がるとコモリ自身が祀られて祭神とされたのかもしれませんが。そう考えると、高樹神社の祭神は、元々は丹波とゆかりの深いミホツだったのではないか――という気もします。ミホツは高木神ことタカキネの娘なので。

 

 さらに略記を読むと、当社は、楽田、油田、八日田、相撲田、馬場田、雑用田、奉射田、華田という8種の社領田を持っていたので、当地名を「八田」といい、のちに当地を賜った源頼政が「八田」を「矢田」に改めたので「矢田宮」とも呼ばれましたが、8種の社領田は明智光秀によって没収されたとのこと。そのため一時衰退しましたが、江戸時代になって亀山城主の岡部長盛が社殿を造営し社田を寄進し、以後は歴代藩主に崇敬されて明治維新を迎え、今に至るそうです。比叡山焼き討ちにおける「なでぎり」もそうですが、この事実からも明智光秀が怪我や病気を気づかう情け深い人物である一方で、容赦のない一面を持っていたことがわかります。

 

 乗ってきた13時4分発の次のバスは14時33分発だったのですが、神社の周辺には何もなかったので、来るときにバスの中から見かけた400メートルほど離れた店に行ってドリンクを買ってきたり、エクスプレス予約で帰りの新幹線を予約したり、文化資料館で買った図録などを読みながら、どうにか時間をつぶし、定刻どおりに来たバスに乗車。一方通行のバスなので行きより時間がかかり、3時前に亀岡駅に到着。新幹線は4時半過ぎののぞみを選び、少々時間的に余裕があったので、サンガスタジアムの1階にある物産館に寄って、クーポンで丹波黒豆の豆菓子を購入。そして亀岡駅に戻り、15時21分発の嵯峨野線の各停電車に乗車。49分に京都駅に到着し、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイと平宗の柿の葉寿司を買い、ホテルに行ってキャリーバッグを引き取ると、手持ちの図録や豆をしまうべくロビーで荷物整理をしてから駅に戻り、16時36分発のぞみに乗車。これにて2020年最後の遠征終了です。

 

 二度目の緊急事態宣言が出されたあと、先週の3連休も今週の土日も終日家に籠っていたので、残っていた昨年の遠征記を書き終えることができました。家にいたらいたで、やることはたくさんあるのですが、正月休みと3連休にブログを書きすぎて肩こりが激しく、吐き気や頭痛に見舞われたので、家にいてもなるべく座りっぱなしは避けて、体操などをして極力動くようにしました。気をつけなければならないのは、コロナだけではありません。

 

 亀山城址については、大本の神域ということでインターネットへの写真掲載が禁止されていたので、説明文や案内図なども載せられないため、記事を書くにあたって改めて調べていたら、緊急事態宣言により来月7日まで再び見学不可となったことを知りました。最初の緊急事態宣言を受けて見学受付休止となったあと再開されたのが10月だったので、見学ができたのは10~12月の三月のみ。本当に行っておいてよかったです。「いつか」なんてないものだと、つくづく思います。

岐阜・京都神社遠征&明智光秀探訪12 その2~「麒麟がくる」ぎふ可児大河ドラマ館、岐阜関ケ原古戦場記念館、二条城

  翌日は、「十八楼」の大浴場のオープンが5時半だったので、混む前に入りたいと思い、珍しく5時に起床。温泉に入って部屋に戻ると、荷造りやら何やら出発準備をし、7時に朝食会場へ。食事後、8時半にチェックアウトして、長良橋バス停からバスに乗り、JR岐阜駅に向かいました。イベントスポットになっている可児の大河ドラマ館に行ったらまた岐阜まで戻ってきて関ケ原に行くので、キャリーバッグをロッカーに入れて改札口に行ったのですが、9時9分発はギリギリで間に合うか微妙だったので、観光案内所などで時間をつぶし、38分発の高山本線の各停電車に乗車。

岐阜駅前の織田信長像。今では見慣れた感がありますが、初めて見たときは鮮やかな金一色で驚きました。この日は雲一つない青空に燦然と輝く堂々とした立ち姿が、よく見るとマスク着用だったので、久しぶりにシュールだと思いました。

観光案内所にもいた織田信長サンと明智光秀サン。本当に気合いが入っているイベントです。

 

 10時20分に美濃太田駅に到着し、この駅止まりだったので、35分発の太多線の多治見行き各停電車に乗り換え、42分に可児駅に着くと、10時52分発の花フェスタ記念公園行きのバスに乗り、11時9分に到着。近ツーの宿泊プランに付いていた大河ドラマ館の入場引換券は岐阜か可児で使えるものだったのですが、岐阜のほうが先だったので、こちらでは岐阜の大河ドラマ館の入場券の半券を見せて、相互割引の料金でチケットを購入。可児を訪れるのは三度目でしたが、前回10月のプレミアムフライデーに来たときには、時間がなくて花フェスタ記念公園はパスしたので、大河ドラマ館は2回目。こちらも展示替えが見られて、リピートでも楽しめました。

大河ドラマ館がある花のミュージアムの入口にあった出演者のパネル。前回来たときにはなかったような気が……。

大河ドラマ館入口横の壁の光秀の写真。これも前回来たときにはなかったと思います。

大河ドラマ館に展示されていた明智光秀の衣装。前回はここに光秀の甲冑が展示されていましたが、今回の衣装は入口横の壁の写真で光秀が着ているもので、なるほどと思いました。しかもこの写真は若かりし頃の光秀――つまり明智荘で暮らしているときの場面なので、明智荘があった可児の展示にふさわしく、よく考えられているなぁと思いました。

イベントスポットなので、森蘭丸サンがおりました。可児にある兼山城の城主です。全然戦国武将っぽくないビジュアルですが(笑)。ここでは可児ゆかりの武将である光秀と蘭丸のゲーム内で使えるアバターがもらえました。

大河ドラマ館に入るときにもらった来館記念証。前回もいただきましたが、今回はなんとドアラバージョンでした!

 

 可児駅行きのバスは乗ってきたバスが折り返す11時16分発の次は13時11分までないので、帰りは12時33分発の明智駅行きKバスを利用することにしました。1時前に明智駅に到着し、13時6分発の名鉄広見線に乗り、一つ隣の新可児駅で14分発の中部国際空港行きに乗り換え、犬山駅名鉄岐阜行きの犬山線に乗り換え、14時9分に名鉄岐阜駅に到着。関ケ原方面に行く東海道線の岐阜駅の発車時刻が19分で、これを逃すと次は49分となり、3時までに関ケ原駅に着けないので、急いでJR岐阜駅へ向かい、ロッカーから荷物を取り出して乗車。

 

 予定どおり14時54分に関ケ原駅に到着し、イベントスポットになっている関ケ原駅前交流館に立ち寄り、買い物袋を持っている政宗サンと秀吉サンのアバターをゲット。それから関ケ原古戦場記念館まで歩くのに邪魔だったので、5時には閉まると店のスタッフに言われましたが、記念館も5時までなのでキャリーバッグをロッカーに預けることにしました。ロッカーの扉にはそれぞれ異なる戦国武将の名が書かれていたので、井伊直政のロッカーを選びました。

関ケ原駅前交流館にいた石田三成サン。まあ、関ケ原ですから……。

 

 関ケ原古戦場記念館の有料スペースは現在事前予約制で、旅行前にホームページから予約サイトに飛んだら、9時30分から15時30分まで1日30分ごとの全13回に区分され、1回の定員が9名とのことで、旅行中の日程はまったく空きがありませんでした。けれどもホームページをよく読むと、グラウンドヴィジョンとかシアター映像が見られないだけみたいなので行くことにし、運がよければキャンセルがあるのではないかと思い、最終回の15時30分のキャンセルを期待して20分には着くようにしました。予約していても10分前までに受付しないとキャンセルになるとのことだったので。その旨を入館と同時に声をかけてきたスタッフに話したところ、残念ながらキャンセルはないとのことでしたが、2階の展示室や5階の展望室は当日券を買えば見られると言うので、チケットを買って入りました。

 

 展示は関ヶ原の戦いについての説明なので、展示品はいろいろあるのですが、ほとんどが複製でした。戦の流れや、どういったものだったのかを解説するために必要とはいえ、実物は各所蔵元の貴重な財産なので集められず、こういった形になったのでしょう。そんな中でおもしろかったのが、関ケ原はベルギーのワーテルローアメリカのゲティスバーグと古戦場協定を結んでいるという情報で、そんな繋がりもあるのだと思いました。まだまだ知らないことがたくさんあります。

岐阜関ケ原古戦場記念館

明智光秀が参戦していない関ケ原の古戦場跡にもあった「麒麟がくる」出演者のパネル

大河ドラマ斎藤義龍が着用した甲冑

 

 展示室に続いて展望室を見たあと1階に下りて有料スペースを出ると、イベントスポットなので、スマホアバターをゲット。当然のことながら、家康サンと三成サンのアバターでした。それから記念館を出て、裏手にある徳川家康最後陣地を見学。その後、記念館の隣にある別館のショップに行くと、御城印みたいな古戦場印があったので、一番基本的で唯一買える「関ケ原」を購入。その他の個別の古戦場印は実際の跡地に行って撮ってきた写真を見せないと購入できないシステムになっていました。

関ケ原古戦場を示す石碑。下には「徳川家康最後陣地」と刻まれています。

紅葉と三つ葉葵紋の幟旗

陣地跡に立っている石碑。刻まれている文字は「床几場 徳川家康進旗験馘處」。つまり、ここで首検めを行ったということです。

別館のショップにいた徳川家康サン。まあ、関ケ原ですから……。

関ケ原」の古戦場印

 

 古戦場印の他に栗きんとんきんつばという菓子を見つけたので、そちらを買ってショップを出ると、記念館を後にして関ケ原駅へ。途中、井伊直政松平忠吉陣所跡と東首塚があったので立ち寄りましたが、4時半には駅前交流館に戻ってきました。乗る予定の電車の時間までまだ15分ほどあったので店内を見てまわりましたが、記念館のショップと同じような品揃えだったので何も買わず。買わないのに店の中をウロウロしているのもいかがなものかと思ったので、ロッカーからキャリーバッグを取り出し、駅へと向かいました。

駅に向かう途中にあった井伊直政松平忠吉陣所跡の碑。

首塚。床几場で検め終わった首はここと西首塚に葬られたそうです。

首塚の境内の紅葉

 

 16時48分発の米原行き快速電車に乗り、米原駅播州赤穂行きの新快速に乗り換え、18時12分に京都駅に到着。551蓬莱で豚まんとシューマイを買い、さらに、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイを買ってから、八条口から歩いて3、4分のホテルにチェックインし、部屋で飲み食いしながら見ていたNHKニュース7が終わると、ホテルを出て二条城へと向かいました。二条城はよくイベントで夜間公開をしているので、何かやっていないかと思い調べたら、12月7日まで「アートアクアリウム城~京都・金魚の舞~」という催しをやっていたので。時間は17時から22時で、受付終了が9時半なので、7時半から出かけても十分間に合いました。

 

 京都駅から地下鉄で二条城前駅まで行き、地上に出ると、思っていたより入口の列に並んでいる人がいましたが、入場人数を制限しているだけで、実際はそれほど混んでいませんでした。二条城に行ける時間があるかわからなかったので前売券は買えなかったため当日券をあてにしていましたが、当日券はなくはないがコロナ対策で発行枚数を絞っているとのことだったので、待たされるか、あるいは入れないこともあるかもしれないと思っていました。が、問題なくチケットは買え、待ち時間もなく、すぐに入場することができました。

 

 この催しはアートアクアリウム美術館の巡回展で、美術館は東京の日本橋にあるので、金魚自体は見ようと思えばいつでも見られるのですが、あまり興味がなかったので行ったことはありませんでした。けれども今回は、二条城を背景にしたアクアリウムなら独特の雰囲気があって見ごたえがあるのではないかと思い、足を運びました。ハコモノ世界遺産では舞台が違います。館内で見るより断然よかったと思います。

アートアクアリウムその1

アートアクアリウムその2

アートアクアリウムその2の青バージョン

アートアクアリウムその2の緑バージョン

アートアクアリウムその3

アートアクアリウムその3の緑&青バージョン

アートアクアリウムの屏風。生きている金魚が絵を作っているので、屏風絵は一期一会で、刻々と表情が変わっていきます。

二条城ならではのアートアクアリウムその1

二条城ならではのアートアクアリウムその2

個性あふれる金魚の顔その1

個性あふれる金魚の顔その2

個性あふれる金魚の顔その3

 

 9時過ぎに会場を出て、二条城の東大手門に向かうと、途中にいくつかの出店があるのですが、その中に錦市場の「魚力」があり、ハモかつを売っていたので、がっつり夕飯を食べたあとでしたが、誘惑に負けて1本買って食べてしまいました。そして、この時間でもまだ二条城の大休憩所が開いていたので売店に行き、今まさにレジをしめようとしていたスタッフに、御城印が欲しいのだがもうダメかと訊いたら、大丈夫だと言うので購入。通常版と10000枚限定で無くなり次第終了の限定版があったので、もちろん限定版を買いました。二条城には何度も行っているので、御城印があることはもちろん知っていて、御朱印とは違うので今まで買わなかったのですが、2月に行った丸岡城から御城印を集めはじめたので、次に訪れたときには買おうと思っていました。そうしたら、ちょうど限定版が出ているときだったので、ラッキーでした。

二条城の御城印。通常版は三つ葉葵紋の朱印だけですが、限定版は菊紋の朱印が一緒に押されています。城内に現存する飾り金具に刻まれた家紋だそうです。まあ、維新後は元離宮ですから。

 

 二条城を出ると、地下鉄で京都駅に戻り、10時前にホテルに到着。これにて長い一日が終了です。