羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

宝塚メモ~上田久美子と望海風斗による化学反応というか相乗効果がもたらした驚きのシンフォニー

 現在日比谷の東京宝塚劇場ではミュージカル「fff-フォルティッシッシモ-〜歓喜に歌え!〜」とレビュー「シルクロード~盗賊と宝石~」を上演中ですが、本公演は雪組トップスターのだいもんこと望海風斗さんのサヨナラ公演で、絶対に見逃したくなかったので、先月1日に宝塚まで遠征して観てきました。東京公演のチケットは激戦で、まったく取れる気がしなかったので……。だいもん率いる雪組は「ファントム」以後チケットが以前にも増して取りにくくなり、前作の「ONCE UPON A TIME IN AMERICA(ワンス アポン ア タイム イン アメリカ)」はチケットが手に入らなくて観られず、前々作の「壬生義士伝」は劇場まで行ったけどチケットを入れておいた財布を忘れて観られずという信じられないヘマをやらかして観劇できなかったので、久しぶりの雪組公演でした。

 

 で、感想ですが、いやもう、すごかったです、「fff」。何がすごいって、熱量がハンパなかった。開演10分で「何じゃこりゃ、宝塚まで来た甲斐があった!」と思い、観終わったときには、それなりによかったと思ったブロードウェイミュージカルをもとにした宙組公演が同じ宝塚の舞台とは思えないほど衝撃を受けていました。「宝塚もここまでできるんだ」という嬉しいショックです。ウエクミこと上田久美子さんの斬新な演出も、だいもんの強烈なパフォーマンスも、やってやろう、挑んでやろう、今までを越えてやろう、見たことがないものを見せてやろうという気概にあふれていました。

 

 ストーリーは取り立てて事件的なエピソードのない、ほぼ歴史どおりにベートーヴェンの一生を綴ったもので、彼がその生涯の中で出会った人間や出来事によって味わうことになった数々の苦悩や葛藤の果てに見い出した歓喜は、運命のすべてを受け入れるということだった――というような内容でした。多分に精神的抽象的観念的なテーマでしたが、終始徹底してそのテーマに沿って進むので、筋は通っていて破綻はありません。けれども、本当にとても難しい作品だと思いました。ある意味ものすごく哲学的なので、最後の歓喜の部分に観ている人が納得する説得力を持たせるためには、そこに至るまでベートーヴェンが辿ってきた具体的な過程とその折々の内面的な心情とその移り変わりをいかにわかりやすく描き出し表現するかが重要。例えればシェイクスピア劇に近い感じで、それに宝塚歌劇に求められる歌って踊るレビュー的な要素と華やかさを取り入れて見せなければならないのですから。そんな冒険的な作品を創ったウエクミさんも天晴れですが、その作品の主人公を演じきっただいもんも見事でした。ウエクミさんもだいもんが主役だから書いた、書けた作品だと思います。彼女の大劇場デビュー作である「星逢一夜」は雪組公演で、だいもんの技量は十分にわかっていたと思いますし。トップスターとして真ん中に立てるビジュアルと華、5組のトップスターで随一の歌唱力、花組で培ったダンス力、そしてシェイクスピアが演じられる演技力と存在感……これらを兼ね備えただいもんがいたからこそ生まれた作品だったと思います。しばらく再演は望めないでしょう。

f:id:hanyu_ya:20210314214826j:plain大劇場内の壁に飾られた、だいもんのポートレート(中央)

 

 「オーシャンズ11」のベネディクト役から注目しはじめただいもん。この公演でトップスターの蘭とむ(蘭寿とむさん)に次ぐ二番手になったかと思いきや、当時すでに月組の準トップだった同期のみりお(明日海りおさん)が同じ花組に異動してきて、一時期番手が下がり不遇な時もありましたが、その後雪組に異動してからは、よい二番手&トップスター時代だったのではないかと思います。みりおよりトップになるのは遅かったですが、確実にみりおより作品にも相手役にも恵まれましたから。みりおは相手役である花組娘役トップスターが3度替わり、コンビとしてがっぷり四つ組むということができなかったように思いますが、だいもんとコンビを組んだ雪組娘役トップスターの真彩希帆さんは、だいもんと同時にトップに就任し、今回添い遂げ退団で一緒に卒業。だいもんの歌唱力を活かすために選ばれた歌ウマさんで、「ファントム」など、この二人だからこそ興行的にも大成功した演目もありました。今回の「fff」もその一つだと思います。本公演で真彩さんが演じたのは人間ではなく、擬人化された“運命”でしたが、澄んだきれいな歌声が人ならぬ存在の雰囲気を醸し出し、“運命”として常にベートーヴェンに寄り添いつつ時に言い争い、次第に馴染んでいく様子には、コンビとしての熟成度を感じました。サヨナラ公演はコロナ禍に見舞われましたが、それでも作品に恵まれ、最後まで相手役に恵まれ、二人ともよいタカラジェンヌ人生だったのではないでしょうか。

 

 さあ、次のトップはいよいよさき(彩風咲奈さん)です。93期生の首席で、研3で新人公演主役を務めた逸材。下級生の頃から抜擢されて、一度の組替えもなく、一度も路線を外れず、雪組のトップになることを約束されて雪組で育てられた雪組の御曹司。あまりに早く抜擢され、黙っていても役が付くので、恵まれすぎているせいか、一時は成長が見られない時期もありました。しかし壮一帆早霧せいな、望海風斗という、その時々の5組の中にあって一番芸達者なトップスターたちを見て育ち、さらに彩凪翔という強力なライバルを与えられて切磋琢磨した結果、ひと皮もふた皮も剥けて、飛躍的な成長を遂げました。最初に驚いたのがチギ(早霧せいなさん)のサヨナラ公演の徳三郎役で、次は「ファントム」のキャリエール役。私が知らないだけで、もっとあったかもしれません。今回演じたナポレオン役も、現実のナポレオンとベートーヴェンが思い描くナポレオンのどちらも演じるという、実像と想像の産物を行き来する難しい役柄でしたが、まったく問題なくこなしていました。実像の時はナポレオンが持っていただろうカリスマ性や存在感をいかんなく発揮し、想像の産物の時はだいもんベートーヴェンと真っ向から対峙する役で、熱量豊富なだいもん相手にまったく引けを取りませんでしたから。元来さきの演技にはインパクトがあり、「ひかりふる路」のダントン役の時にも、だいもんロベスピエールを食ってしまいそうな勢いでしたが、最近はキャリエールのような抑えた役も巧くなり違和感がなく板についてきたので、メリハリがあってとてもよいと思います。だいもんがここまで吹っ切れた芝居ができるようになったのは、さきのおかげだと思います。以前は無難すぎて、安定感はあるけれど少々面白味に欠けるという面が無きにしも非ず――という感じだったので。

 

 最後に、トップコンビと共にこの公演で退団するナギショー(彩凪翔さん)について触れておきたいと思います。雪組における彼女の功績は本当に大きいと思っています。彼女の存在は彩風咲奈を成長させ、その結果、望海風斗をも成長させました。

 

 絶対的なトップスター候補である彩風咲奈が1学年下にいて、彼女を奮起させ花開かせるために、彼女の闘争心を刺激する存在としてナギショーは爆上げされているように見えたので、本人はそれをどう感じているのだろうと思っていたことがありました――逆にこの機を利用してトップ候補に躍り出てやると思っているのだろうか等々……。余計なお世話ですし、杞憂だったかもしれませんが。そんなことが感じられてから、さきと共に注目して見るようになりました。以降、眼福という、男装の麗人を目で愉しむのが男役をメインとする宝塚の大きな楽しみの一つですが、私にとって雪組でその役割を担っていたのがナギショーでした。昔から雪組はどちらかというとビジュアル重視というよりは安定感のある実力派気質の組で、それゆえ一方では地味だとか華がないといわれることもありました。その華の部分を長らく背負っていたのがナギショーだったと思います。和洋問わず何のコスチュームを着ても美しく、しかも品のある美しさで、実に見甲斐がありました。みりおもカレー(柚香光さん)も綺麗ですが、ナギショーの美しさからは理知的なものを感じます。それゆえ今回演じたゲーテも、ナギショーだったから詩人という芸術家の身分がストンときました。しかも芸術家であると同時に政治家でもあるという、クリエイティブで情熱的な面と怜悧で理性的な面を併せ持つ二面性のある人間としてベートーヴェンを諭す言葉にも説得力を感じました。ショーでは、端整な黒燕尾姿もこれで見納めかと思うとうるっときて、チャイニーズマフィアの彩彩コンビのダンスでは二人のこれまでが思い出され泣けてしまいました。ショーで泣けたのは、まさお(龍真咲さん)とみりおのデュエダン以来ですね。

 

 ちなみに、ショーの音楽は菅野よう子さんが担当。菅野さんといえば、私の好きなSMAPの「gift」の作曲者なので、公演前から大いに気になっていたのですが、いい音楽すぎて、最初のうちは音楽ばかりに気を取られて、だいもん他雪組生のパフォーマンスに集中できなかったので、BGMとしてはいかがなものかと思いました。けれども、次第に溶け合っていき、途中からは音楽が特徴的で適度に主張しているおかげで、ダンスなどのジェンヌたちの動きがその音に合わせて振り付けられていること――ちゃんと合っていることがよくわかっておもしろく、音楽と身体の動きのハーモニーのようなものが感じられたので、よかったです。

 

 次は星組。「エリザベート」の次に好きな「ロミオとジュリエット」なので、こちらも絶対に見逃したくないと思い、再び宝塚まで行くことにしました。今月下旬の遠征なので、31日までの会期で、20日から大感謝キャンペーンが始まるびわ湖大津光秀大博覧会にでも寄ってこようかと思っています。

「麒麟がくる」総評~戦国時代を舞台に、戦国時代の人間ではなく、いつの時代にも通じる普遍的な人間の姿を描いたドラマ

 年をまたいだNHK大河ドラマ麒麟がくる」 は、今月7日に最終回を迎え、23日の天皇誕生日の休日には総集編が放送されました。一気に全4話、4時間半にわたるオンエアでしたが、こちらもおもしろかったですね。2話と3話のあいだに挟まれたニュース以外は、根が生えたようにテレビの前に座り、食い入るように見ていました。本編を欠かさず見て、本放送を見ているのに再放送まで見るほどハマった大河ドラマなんて初めてだったので。

 

 群雄が割拠し、下剋上があたりまえとなった戦国時代は、昨日の味方が明日は敵となる時代で、家臣が離反して寝返ることなど日常茶飯事であり、主君を売ったり討ったりも頻繁にあることで別に珍しくもなく、それゆえ本能寺の変を起こした明智光秀に対しても、もともと悪印象はありませんでした。それどころか、彼も後世の執政者の都合で世間的なイメージを操作されて、さも悪逆非道の謀反人であるかのように伝えられてきたのだろうと思っていました――菅原道真大石内蔵助を正当化してよく見せるために悪人に仕立てられた藤原時平吉良上野介のように。歴史は政争で生き残った勝者のものなので……。具体的には豊臣秀吉徳川幕府によって貶められたのだろうと思っています。主君の敵討ちを名目に光秀を討った秀吉は光秀を悪者にして自分の行為を正当化しなければならなかったし、徳川幕府は徳川政権下の幕藩体制を盤石にするために、謀反の芽は徹底して摘み取らねばならず、家臣が主君に叛いて自害に追い込んだ本能寺の変および、この事変を起こした明智光秀という武将を肯定することはできませんでした。徳川家康ではなく、徳川幕府というシステムを作った者たちが、システムを守るために、既存のシステムを破壊した光秀を擁護するわけにはいかず、悪人にせざるを得なかったのだと思います。

 

 ということで、特に好きでも嫌いでもなかった明智光秀ですが、光秀が主役ということで、学校で教わり一般的に知られている歴史とは違う目線で描かれる歴史に興味があったので、初回から視聴。すると、光秀が思っていた以上にイイヒトだったので、本当にそうだったのか調べてみたくなりました。で、いまだに現在進行形というわけです(笑)。1回2回と見れば、役者さんたちの芝居が素晴らしく、映像的にも美しいシーンが多かったので、あっという間に引き込まれて、あとは飽きることなく見続けられました。けっこうな頻度で登場する歴史上の人物ではないオリジナルキャラクターについては賛否両論がありましたが、緊迫した場面が続くと疲れるので、あれはあれでよかったと思います。彼らの場面を箸休めと取るか間延びと取るかは個人の差であり、ドラマを見ているのは歴史オタクだけでなく、歴史に詳しくない視聴者も意識しなければならないので。大河ドラマならターゲットは老若男女となり、幅広い層に受け入れられるものであることが求められますから。

 

 登場人物の造形は、織田信長に関しては多少違和感がありましたが、豊臣秀吉細川藤孝に関しては、えらく腑に落ち、程度の差はあれ、実際もあんなものだっただろうと思いました。

 

 秀吉は、身分にとらわれずに能力で人を引き立てる信長のことは自分が出世するために必要な道具と思っていて、主君にも将軍にも天皇にも心の内では敬意を払っていなかったと思います。取り立ててくれた主君である信長には、感謝はしていたと思いますが。

 

 一方の藤孝は、戦乱の世に家名を絶えさせないことが名門細川家に養子に入った彼の至上命題だったのだと思います。そして、そのために盟友である光秀を見捨て、その結果明智家は滅びて家名が絶えてしまったことに対し罪悪感があったからこそ、せめて光秀の血を存続させるために、光秀の三女で息子忠興の嫁となっていた玉を幽閉という形で俗世から隔離して謀反人の娘として見る世間の冷たい目から守り、さらに玉が生んだ子――忠利に細川家の家督を継がせたのでしょう。関ヶ原の戦い大坂の陣を生き抜いて細川家を太平の世まで守り抜いた藤孝と忠興。忠利は忠興の三男で、家督を継ぐときにはすでに生母である玉は亡く、本来後ろ盾になるはずの外祖父光秀は故人であるばかりか天下の謀反人で、しかも父忠興は正室の玉亡きあと妻を何人か娶り、腹違いの弟も生まれていました。それでも、その妻たちを正室が失われたあとの正室である継室とはせずに、玉を唯一の正室と位置付けたまま、彼女の所生である忠利に家督が譲られたことに、藤孝・忠興父子の執念のようなものが感じられます。光秀の血を細川家当主の血筋に残すことが多少なりとも光秀に対する罪滅ぼし――という気持ちがあったのではないでしょうか。そうして結果的に今の天皇家に至るまで自分たちの血が続いているのだから、死者の霊魂に生前と同じ心があるのなら、光秀も玉も喜んで、細川家に感謝しているのではないかと思います。

 

 信長は少々承認欲求が強すぎましたね。染谷さんはよい演技をしていましたし、ドラマとしてはおもしろい性格設定でしたが。とはいえ、私が思い描く歴史上の信長と比べると承認欲求が強すぎて違和感がある――というだけで、ドラマの登場人物としては魅力的だし、もしかしたら実際の信長もこのような人物だったかもしれません。いま生きていて彼に会ったことがあり本物の織田信長を知る人間はいないのですから、それについては違うと否定もできず、永遠にわからないことです。

 

 しかしながら、てっぺんに一人で立つ人間の、誰とも感覚を共有できない孤独感というものは、実際になってみなければ本当の気持ちはわからずとも想像はできるし、誰かに止めてもらわなければ止まらない――したがって終わりが来ないという辛さや恐怖はよくわかります。それを染谷信長は本当に巧く表現していました。「どうしてこうなる」だったか「なんでこうなる」だったか忘れましたが、そのセリフに自分の思いと現状が乖離してままならなず、苦しんでいる信長の心が凝縮されていました――言葉のみならず、その口調にも。本能寺の変で自分を襲っているのが光秀の軍勢だと知ったとき、染谷信長は本当に嬉しそうでした。「大きな国を作らなければ」と言い続けて、死んではならないといつも自分をかばい、自分に止まることを許さず、自分を走らせてきた長谷川十兵衛光秀が「もう走らなくてよい」「止まっていいのだ」と言っているのです。これでようやく解放される気がした――ということなのでしょう。しかも、けっして見放されたわけではなく、光秀は一生主殺しの謀反人という不名誉な汚名を着る覚悟の上で――信長のために自らも大きな代償を払うことを選び、その上で止めてくれるのです。それは嬉しかったと思います。

 

 “麒麟がくる世をつくる”という使命感に囚われて、その理想に向かって一途に進み、それが正義であり戦続きの世に疲れた皆にとってもよいことだと思い込み、やや周りが見えていない感じの十兵衛光秀は、そんな信長の心情も見えていなくて気づけずに理解していませんでしたが、大きな決断をして、それに向けて走り出し、多くの他人を巻き込んで世の中を動かしてしまったら、自分ではおいそれとは止められないものです。それに、現代のコロナ禍にあっても、苦しんでいる人もいれば、私のようにこの状況下で制限がある中でも可能な範囲でそれなりに楽しんでいる人もいて、この機に次のステップに向かったり、世界が変わった今こそチャンスと捉えてステップアップしたりする人もいます。戦国の世を舞台に展開した「麒麟がくる」でいえば、好機と捉えているのが羽柴秀吉であり、それなりに楽しんでいるのが今井宗久でしょう。最近よく多様性とか多様化という言葉を耳にしますが、もともと人間は千差万別で、立場が変われば思いも変わり、同じものに対する見方や考え方も変わります――ドラマの中でも宗久が光秀に似たようなことを言っていましたが。つまり人それぞれにそれぞれの価値観があり、人によって違うわけです。それゆえ苦難として括られるものの万事が万事、万民にとって悪いというわけではありません。誰かのよいことが誰かにとっては悪いことになるように、誰かの悪いことは誰かのよいことだったりするのはあたりまえで。そもそも利害というものは完全には一致しないのが普通です。価値観の違い以外にも要因は様々に存在するので。しかし完全に一致はしませんが、丹念に探せば部分的に一致することはあるため、それを見い出し、互いが納得する妥協点を探ることが肝要だと思っています。

 

 実は「麒麟がくる」で一番ツボにはまったのは、坂玉サマこと坂東玉三郎さんが演じた正親町天皇でした。坂玉サマの芸や芸に対する姿勢が昔から好きで、坂玉サマが監修しているというだけで、お披露目でもサヨナラ公演でもないのに宝塚まで観に行くほどですから。ということで、今回大河ドラマでその芸の一端を見られるだけでも嬉しかったのですが、さらに演じるのが正親町天皇だったので、出演が決まったときから楽しみにしていました。というのも、正親町天皇とか後陽成天皇とか後水尾天皇は、武士が天下取りの争いを繰り広げる世で、天子としての誇りと存在意義を失わないように苦労したに違いない天皇なので。そのあたりをどう表現するのか興味津々だったのですが、さすがは人間国宝、まったく問題なし。信長には蘭奢待の切り取りを許し、信長から贈られてきた蘭奢待の一部は信長と敵対する毛利に下賜するなど、対立する勢力のどちらにも手を差し伸べつつ、最終的にはどちらの味方もせず成り行きを見守るだけで特に逡巡もしないというスタンスは本当に天皇らしく、他を寄せ付けない坂玉サマの別格の端正さとあいまって、信長とはまた違った意味での孤高の存在が見事に表現されていて、たいそうしびれました。

 

 そうなのです。武家が主流の時代にあって天皇は、ただ見守るだけの存在なのです。公家が口を出し首を突っ込んでも、天皇は見守るだけ。誰が勝ってもいいように、誰の世になっても天皇でいられるように……。そうして常に中立を保つことで皇統を守り、繋いでいったのです。細川家以上に天皇家には家や血筋を絶やしてはならないという呪縛がありましたから。なので、たとえ窮地に陥った十兵衛を救えても救わないし、天皇自身が救いたくても救わない。けっして心が冷たいわけではないのです。誰にも肩入れしない、誰の味方にもならない――それがまさしく千年以上続いてきた王家を背負っている者の処世術で、帝としてあるべき姿なのです。

 

 「麒麟がくる」がおもしろかったのは、人間の本質が描かれていたからだと思います。脚本家の池端さんがどこまで意図していたかはわかりませんが。現代人にも共感できる感情や心の動きを描くと同時に、戦国時代という背景を借りて、時代や立場、育った環境で変わる、現代人の多くは共感をおぼえにくい部分も描き出しました。理想と現実のギャップに心身をすり減らして病んでいく光秀、幼い頃に母親に愛されなかったというトラウマを抱えて、褒められたい、認められたいという激しい承認欲求を持ち、嫉妬や孤独で病んでいく信長、そして心が病んでいく者同士で相手を思いやる余裕がなくなってすれ違っていき修復できなくなる悲しい人間関係――彼らが見せたのは今も昔も変わらぬもので、われわれ現代人にも通じるものです。

 

 その一方で、滅私といってもよい強靭な精神による冷静な判断で自分の心より家の存続を優先する選択をし実行する藤孝や正親町天皇は、現代人にはあまり共感できないかもしれませんが、けれども戦国時代であれば至極真っ当な思考と行動です。武士の世に農民に生まれて虐げられてきたために人一倍出世欲が強く、出世のためには手段を選ばない秀吉の生き方も、あの時代と育った環境ならではのもの――といえるかもしれません。

 

 つまり「麒麟がくる」は単純に戦国時代の人々を描いた群像劇ではなく、戦国時代を舞台にして、時代の影響を色濃く受けた、現代人には共感できない部分と対比させつつ、いつの世も共感できる普遍的な人間性を描き出すドラマだったのだと思います。よって純粋な歴史物語を求めていた視聴者には物足りなく期待外れだったかもしれません。しかし歴史を綴ったり迫力のある合戦を再現して見せたりすることは、このドラマにはさして重要ではなかったのではないでしょうか。状況が許せば従来の時代劇のように派手な合戦シーンを入れたかった作り手側のスタッフも中にはいたかもしれませんが。それゆえコロナ禍でロケができなくても大筋には関係なく、それほど問題ではなかったのだと思います。

 

 いずれにしろ、そんな思いが十分に伝わってきて、上記のようなことを考えさせられた出演者の熱演に、本当に感謝したいです。一年余楽しませてくれてありがとう。世界的なパンデミックという苦しい中、本当にお疲れ様でした。続く今作「青天に衝け」の初回20%越えの視聴率は、個人的には前作「麒麟がくる」の影響だと思っています。「麒麟がくる」を見て大河ドラマのおもしろさを再認識し、見直した視聴者が次の作品にも期待したからではないでしょうか。なので、2回目が3%落ちたのは妥当だと思います。もともと明智光秀に比べてもネームバリューが低い渋沢栄一という主人公と、現代に近すぎて江戸時代以前に比べるとごまかしがきかない近代という時代設定が難しいので。よって「麒麟がくる」の出来に匹敵するのはかなりハードルが高いような気がしますが、最後まで見続けられるドラマになるとよいと思っています。

福井神社遠征~気比神宮(付・御上神社、白髭神社、天孫神社、甲斐一宮浅間神社、酒折宮の起源について)

 神社遠征であり、かつ明智光秀探訪13でもある遠征記の続きですが、赤レンガ倉庫の次に行った気比神宮に関する記事は、光秀とは関係がない上に、長くなること間違いなしだったので、分けることにしました。

 

 越前一宮である気比神宮は、名神大社であり旧官幣大社、北陸でも随一といってよい神社です――規模においても歴史においても。現祭神は伊奢沙別命仲哀天皇神功皇后日本武尊応神天皇、玉姫命、武内宿禰命の七柱ですが、元々は伊奢沙別命だけで、大宝2年(702)に仲哀天皇神功皇后を本殿に合祀し、その周囲に日本武尊応神天皇、玉姫命、武内宿禰命が配祀されました。

f:id:hanyu_ya:20210225114630j:plain気比神宮の大鳥居

f:id:hanyu_ya:20210225114724j:plain大鳥居についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210225130147j:plain気比神宮の沿革についての説明板

 

 主祭神伊奢沙別命は「筍飯大神」とも呼ばれるので、その正体は『ホツマツタヱ』に「ケヰノカミ」の神名で登場するヒコホオデミ――ということになります。ケヰノカミ=筍飯の神=気比の神なので。つまり当宮は、初代神武天皇の祖父である十一代天君を祀った聖地なのです。

 

 『ホツマ』によると、ヒコホオデミの父である十代天君ニニキネが九州巡幸のためにアワウミのミズホノミヤを留守にすることになると、代わりにハラアサマノミヤにいた長兄のムメヒト(ホノアカリ)がミズホノミヤに入り、ウカワノミヤにいた次兄のサクラギ(ホノススミ)と、オオツシノミヤにいたウツキネ(ヒコホオデミ)はキタノツで政務を執るように命じられました。「アワウミ」は漢字で表すと「淡海」――つまり湖のことで、すなわち琵琶湖のことです。古代に知られていた淡海は二つあり、「遠つ淡海」である浜名湖に対して琵琶湖は「近つ淡海」と呼ばれたので、琵琶湖周辺を「近江」の国といい、浜名湖周辺は「遠江」の国と呼ばれるようになりました。

 

 ミズホノミヤとハラアサマミヤについては説明が長くなるので後に回しますが、ウカワノミヤとオオツシノミヤはいずれも近江の国の琵琶湖沿岸にあった宮で、「ウカワノミヤ」は漢字で表せば「鵜川宮」なので高島市“鵜川”にある白髭神社、「オオツシノミヤ」は漢字で表せば「大津四宮」なので、かつて大津市“四の宮”町にあり、そこから遷座したあとも四宮神社と呼ばれる天孫神社の起源です。天孫神社の祭神は彦火々出見命なので、その正体は紛れもなく彦火々出見=ヒコホオデミですが、白髭神社の祭神である白髭大明神は、現在は猿田彦命のこととされています。しかし『ホツマ』で「シラヒゲカミ」と呼ばれているのはホノススミであり、シラヒゲカミ=白髭神で、当然のことながら白髭神社は白髭神の社なので、元々はホノススミだったと思われます。とはいうものの、アマテルが天君の時に、孫のニニキネは全国行脚をし、その時にタカシマでサルタヒコと出会い、サルタヒコはニニキネをウカワカリヤに招いて饗応しているので、白髭神とはホノススミのことですが、サルタヒコが白髭神社に祀られていても何らおかしくはありません。「タカシマ」を漢字で表せば高島市の「高島」で、「ウカワカリヤ」は「鵜川仮屋」――つまり、のちの鵜川宮なので。

 

 さて、父から「キタノツニイキテオサメヨ イササワケアレバムツメヨ(北の津に行きて治めよ イササワケあれば睦めよ)」と言われたホノススミとヒコホオデミでしたが、海幸彦とも呼ばれたホノススミの釣り針を山幸彦とも呼ばれたヒコホオデミが失くしたことから、ニニキネが懸念していた「イササワケ」が起こってしまいました。兄弟は睦めず、山幸彦ことヒコホオデミは途方に暮れて、失くした釣り針を探しに海を越えて九州まで行く羽目になりました。「イササワケ」の「ワケ」を漢字で表せば「別」なので、「イササワケ」とは“些細な決別”といった意味で、「イササ」が転じて「いささか」という言葉になったのかもしれません。そして共同統治者であるホノススミとヒコホオデミのあいだで些細な決別が生じた宮だから、キタノツの宮は「イササワケミヤ」と呼ばれるようになったのでしょう。よって「イササワケミヤ」を漢字で表せば「些別宮」がふさわしいような気もしますが、わかりにくいので、祭神である伊奢沙別命と同じ漢字を使い、「伊奢沙別宮」としておきます。「イササワケミヤ」の呼称が先で、「イササワケミヤ」に葬られて祀られたから“イササワケミヤの祭神”という意味でヒコホオデミが「イササワケノミコト」と呼ばれるようになったのだと思いますが。ちなみに「キタノツ」は、漢字で表せば「北の津」で、“北の船着き場”という意味なので、当時都があった近江から見て北に位置し、日本海の玄関口となっていた、現在の敦賀のことになります。

 

 ところが、この諍いが転機となって、ヒコホオデミの運命が変わりました。九州に渡るとトヨタマヒメと出会い、二人は結ばれ、ヒコホオデミはトヨタマヒメの父――九州の国君であるハデツミ(住吉神カナサキの孫)の婿となって執政に携わり、筑紫を治めるツクシヲキミ=筑紫大君に任じられました。そして為政者としての実績を認められて、のちには二人の兄を差し置いて父の跡を継ぎ、十一代天君となりました。その後は近江に戻ってミズホノミヤで政務を執り、譲位後にかつての宮である大津四ノ宮に移って崩御しましたが、遺言で伊奢沙別宮に葬られました。海幸彦である兄の大事な釣り針を失くして困り果てていたときにシホツチに出会って九州に導かれ、釣り針を見つけることができ、以後トントン拍子に運が開けたからです。すなわち気比神宮は、十一代天君の葬地が起源という、神代史上きわめて重要な聖地ということになります。ちなみに、七代天君イザナギから十二代天君ウガヤフキアワセズまでの鎮座地は次のとおり。

 

 イサナギ      =伊弉諾神宮(葬地)

 アマテル      =籠神社(葬地)

            ➡伊勢神宮

 オシホミミ     =箱根神社(葬地)

            ➡英彦山神宮

 ニニキネ      =霧島神宮(葬地)

            ➡賀茂別雷神社

 ヒコホオデミ    =気比神宮(葬地)

 ウガヤフキアワセズ =宮崎神宮(葬地)

            ➡賀茂御祖神社

 

 基本的に遷座は、都から遠いと祭祀を行うのが不便なので行われたのだと思いますが、オシホミミを祀った英彦山神社は、ニニキネが九州巡幸中に父神の祭祀を行うために英彦山に分霊したのが起源かもしれません。

 

 気比神宮から話は逸れますが、せっかくなので、ここで「ミズホノミヤ」と「ハラアサマミヤ」についても触れておきたいと思います。

 

 まずニニキネがいた「ミズホノミヤ」については、『古事記』によると、九代開化天皇の第三皇子である彦坐王が近つ淡海の御上祝が信奉する天御影神の娘――息長水依比売を娶って生んだ子に“水穂”之真若王という人物がいて、彼は「近淡海の安直(やすのあたい)の祖」とのことなので、同じく「近淡海」こと近江の国に存在した「ミズホノミヤ」を漢字で表せば、ミズホ=水穂で「水穂宮」ということになります。よって、天之御影命を祭神とする御上神社の起源と考えるのが妥当です。アマテルの姉であり妹であるヒルコがアマテルの日嗣の御子で甥にあたるオシホミミを育てた「アメヤスカワ」の宮もおそらくここで、ヒルコが亡くなり、その夫であるオモイカネが信州の阿智に隠居すると、オシホミミの子であるニニキネが天君にふさわしい宮として改築したのだと思います。「アメヤスカワ」を漢字で表せば「天安河」で、水穂之真若王の子孫は天“安”河の近辺を本拠地とした豪族だったため“安”直を名乗り、のちに「安河」は「野洲川」に変化したのでしょう。それゆえ御上神社は、本殿の祭神である天之御影命の他に、ニニキネを「瓊瓊杵命」の祭神名で摂社の三宮神社に祀り、ヒルコを「天照大神」の祭神名で大神宮社に祀っているのだと思います。三宮神社は「三宮」という社名なので、元々の祭神はニニキネではなく、父ニニキネと同様に水穂宮で天君として世を治めた、ニニキネの三男であるヒコホオデミだったのかもしれません。なお、御上神社近江富士と呼ばれる三上山を御神体として祀る神社なので、水穂宮に関してはヤスカワ=野洲川の川沿いではなく、三上山にあった可能性もあります。

 

 次に「ハラアサマノミヤ」ですが、『ホツマ』によれば、ワカヒトの諱を持つアマテルが生まれた宮は「ハラミノミヤ」といい、母イサナミが孕んだ宮だからその名が付いたとのことなので、ならば漢字で表せば「孕みの宮」ということになります。また「イミナワカヒト ウブミヤハ ハラミサカオリ」という記述があるので、ウブミヤ=産宮である孕みの宮は「ハラミサカオリ」であることがわかります。サカオリの孕みの宮は、アマテルの孫であるニニキネの時代には単純に「サカオリノミヤ」と呼ばれていたようで、さらに「キミ サカオリノ ツクルナモ ハラアサマミヤ」という記述もあるため、ニニキネがサカオリにハラアサマミヤを建てたことがわかります。サカオリノミヤをハラアサマミヤに建て替えたのか、サカオリノミヤがあるサカオリという地域に新たにハラアサマミヤを建てたのかはわかりませんが、前者であれば「サカオリノミヤ」を漢字で表すと「酒折宮」なので甲府市酒折”にある酒折宮、後者であれば「ハラアサマミヤ」を漢字で表すと「孕浅間宮」なので、笛吹市一宮町にある甲斐一宮の浅間神社ということになります。浅間神社は水穂宮の跡と想定される近江の御上神社と同じく名神大社(ただし論社)であり旧官幣中社という高い社格なので、こちらが天君の宮跡である可能性が高いと思います。

 

 浅間神社の現祭神は木花開耶姫命木花開耶姫コノハナサクヤヒメで、ニニキネとのあいだにホノアカリ、ホノススミ、ヒコホオデミの三つ子の兄弟を生み、ニニキネが天君となって近江の水穂宮に移ったあとは長男のホノアカリが甲斐の孕浅間宮を任され、ハラヲキミ=孕大君として酒折を支配したので、息子と共にこの地に残り、おそらく孕浅間宮で亡くなって、浅間山に葬られました。よって「アサマノカミ」と呼ばれ、孕浅間宮で乳母任せではなく自分で乳をやって三人の子を育てたので「コヤスカミ」とも呼ばれました。漢字で表せば、アサマノカミ=浅間神、コヤスカミ=子安神で、浅間神の社だから浅間神社という社名になり、子安神の社であれば子安神社となります。

 

 『ホツマ』によると、コノハナサクヤヒメはたった一夜の契りで天孫ニニキネの子を孕んだので、妹を妬んだ姉の讒言もあり、ニニキネに本当に自分の子かと疑われ、天孫の子であることを証明するために、月満ちて出産の時を迎えると、「お腹の子が天孫の種でないのなら、ともに滅びよう」と言って、産屋の柴垣に火を点けました。姫は助け出されて、子供も無事に生まれましたが、だんだん勢いを増していく火の中で生まれたので、ホノアカリ=火の明り、ホノススミ=火の進み、ホオデミ=火火出見と名付けられました。火中という過酷な状況であっても無事に生まれたことによって、コノハナサクヤヒメの思惑どおり、子供たちはただ人の子ではなく神の子と証明され、ニニキネは己の子であることを認めましたが、姫は自分を疑った彼を恨み、実家に帰ってしまいました。ニニキネが迎えにきたので従いましたが、その時の遺恨が残っていたのか、夫が水穂宮に遷都するときには息子に譲られた孕浅間宮に残りました。

 

 時代が下ると、火を制し、火の中で無事に新しい命を生み出したコノハナサクヤヒメは火山の神に擬せられ、神の怒りである噴火を鎮めるために、各地に浅間神を祀る浅間神社が建てられました。今は休火山である富士山も例外ではなく、7代孝霊天皇の時代に起こった大噴火を機に11代垂仁天皇が富士山の山霊を鎮めるために建てたのが、コノハナサクヤヒメこと「木花之佐久夜毘売命」を祭神とする社――駿河一宮で旧官幣大社の富士山本宮浅間神社です。

 

 酒折宮についても述べておくと、現祭神は日本武尊で、記紀によれば、12代景行天皇の皇子である日本武尊が東征の帰りにこの宮に立ち寄ったときに「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と片歌で家臣に問いかけたところ答える者がなかったのですが、その様子を見て身分の低い火焚きの者が「日々(かか)なべて夜には九夜日には十日を」と応じたので、日本武尊はその者の機知を称えて、宮を発つときに「吾、行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言って、甲斐国造の塩海足尼に、かつて自分の命を救った火打ち袋を授けました。それを塩海足尼が御神体として祀ったのが酒折宮の神社としての起源で、それゆえ当宮の祭神は、酒折で生まれたアマテルでも酒折で政務を執ったニニキネでもホノアカリでもなく、日本武尊なのです。

 

 ちなみに、御神体となった火打ち袋は、東征に赴く前に日本武尊が叔母である伊勢斎宮の倭姫から剣と一緒に授かったもので、東国に向かう途中、駿河国で襲われて、敵の放った野火に囲まれ絶体絶命の時に、剣で草を薙ぎ払い、火打ち石で向い火を起こして敵を食い止め、窮地を脱することができました。ゆえに剣は、かつてソサノヲがヤマタノオロチ退治の時に得たものでアマテルに献上されて「天叢雲剣」と呼ばれていましたが、以後「草薙剣」と呼ばれるようになり、焼かれた土地は「焼津」、日本武尊が草を薙ぎ払った土地は「草薙」と呼ばれるようになりました。敦賀もそうですが、古い地名には土地の歴史に通じる語源があるので、憶えにくい読みにくいなどの理由でむやみやたらと変えずに、残してほしいと思います。

 

 いろいろ脱線して話が長くなりましたが、上記の考察は前回気比神宮を訪れる前には終えていたので、今回は時間が許す範囲内での滞在。気になる摂末社も多い神社なので40分ぐらいはいましたが、2時間以上いた初回に比べれば短いものです。

 

 ということで、バスを降りると、まず拝殿に行き、お参りのあと社務所に寄って、御朱印と由緒略記をいただきました。御朱印は初めて来たときにもいただいたのですが、ずいぶん前のことなので。

f:id:hanyu_ya:20210225220505j:plain最初にいただいた御朱印(向かって左)と今回いただいた御朱印。神紋が追加されて、「越前国一宮」の印が変わっています。

 

 続いて、拝殿の西に位置する九社之宮と神明両宮を参拝。神明両宮は天照大神豊受大神を祭神とし、九社之宮は伊佐々別神社、擬領神社、天伊弉奈彦神社、天伊弉奈姫神社、天利劔神社、鏡神社、林神社、金神社、劔神社という九つの摂末社で、各祭神は次のとおり。

 

 伊佐々別神社(摂社)……御食津大神荒魂神

 擬領神社(末社)…………武功狭日命

 天伊弉奈彦神社(摂社)…天伊弉奈彦大神

 天伊弉奈姫神社(摂社)…天比女若御子大神

 天利劔神社(摂社)………天利劔大神

 鏡神社(末社)……………国常立尊

 林神社末社)……………林山姫神

 金神社(末社)……………素戔嗚尊

 劔神社末社)……………姫大神

 

 説明板によれば、天伊弉奈彦神社、天伊弉奈姫神社、天利劔神社式内社で、林神社は比叡山に祀らている気比明神の本社、金神社は高野山に祀られている気比明神の本社とのことです。

f:id:hanyu_ya:20210225220657j:plain九社之宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210225220810j:plain伊佐々別神社(向かって左)と擬領神社。後ろに見える建物は御守り授与所。

f:id:hanyu_ya:20210225220857j:plain天伊弉奈彦神社から劔神社までの七つの摂末社と拝殿(向かって右の切れている建物)

 

 九社のうち七つは正面が拝殿に向かっている東向きですが、御食津大神こと気比大神の荒魂を祭神とする伊佐々別神社と、この地域を治めていた角鹿国造の祖である武功狭日命を祭神とする擬領神社だけは北向きで、本殿の西側に本殿と並ぶように建っている南向きの神明両宮と向かい合う形で鎮座しています。実に意味深です。おそらく、この二社と神明両宮で三つの摂社と四つの末社を監視する役目を担っているのだと思います。つまり他の七つの社には監視が必要な神――気比大神の関係者が祀られているということです。そして、監視が必要な神とは祟る(と思われている)神に他なりません。気比神宮の場合もあてはまるかはわかりませんが。

 

 その後まだ時間があったので、伊奢沙別命の降臨地と伝わる土公、角鹿神社、兒宮、大神下前神社を順に参拝。角鹿神社と大神下前神社も式内社です。

 

 土公は磐境――つまり巨石の磐座と同じで、神社建築文化が始まる前の古代祭祀の跡だそうなので、社殿が建てられる以前はここで祭祀を行っていたのでしょう。――であるならば、この位置から司祭が拝み奉ったのは、どう考えても目の前に見える天筒山なので、伊奢沙別命ことヒコホオデミが葬られたのは天筒山で、伊奢沙別宮が存在したのも天筒山だったと思われます。その頃は縄文海進で現代より海が最大で5メートルぐらい高く、したがって現在海抜5メートル以下の低い場所は海の底で、宮を建てることはできませんから。というわけで、こんなに古くから聖地だったのですから、天筒山とは稜線続きの金ヶ崎山に円墳があっても何ら不思議ではありません。古墳文化は神代よりも後の時代なので。

f:id:hanyu_ya:20210225214627j:plain土公(向かって左)と天筒山。ここから見ると実に端正で、明らかに神奈備山です。

f:id:hanyu_ya:20210225214545j:plain土公についての石碑

 

 摂社である角鹿神社の祭神は都怒我阿羅斯等命。説明板によれば、朝鮮半島にあった任那の皇子で、10代崇神天皇の時代に気比の浦に上陸したとのこと。そして天皇に貢物を賜ったので、崇神天皇は彼を気比宮の司祭に任じて、この地域の政治を任せました。その政所の跡に彼を祀ったのが当社の起源だそうです。社名の「角鹿」は「つぬが」と読み、「つぬが」が転じて「つるが」となり、この地の地名となりました。すなわち敦賀の語源です。

f:id:hanyu_ya:20210225214300j:plain角鹿神社、兒宮、大神下前神社についての説明板

 

 末社の兒宮の祭神は、説明板によれば伊弉冉尊ですが、社名から判断すると、どうも違うような気がします。角鹿神社の隣に“兒”宮の名で祀っているからには、都怒我阿羅斯等命の子か子孫が祭神のように思えますが、情報が少なすぎて推理できず。他に確固たるアテがあるわけでもないので、今のところはそんな気がするとしかいえません。

 

 兒宮の隣にある、同じく末社の大神下前神社の祭神は大己貴命とのことですが、こちらも疑わしく、しかし情報不足で不明。明治44年(1911)に当社に合祀されたという金刀比羅神社の祭神である金刀比羅大神は、大己貴命ことオホナムチの孫であるミホヒコのことで、ミホヒコは祖父クシキネ(オホナムチ)、父クシヒコ(ヲコヌシ)と続いてきた三代目の大物主であり、気比の神ことヒコホオデミの右の臣だったので、気比神宮に祀られているのは大いに納得がいくのですが、大神下前大神のことはわかりません。

 

f:id:hanyu_ya:20210225213809j:plain大神下前神社の社号標。大神下前大神の左右に、後から合祀された金刀比羅大神と稲荷大神の名があります。

 

 最後に松尾芭蕉の句碑を見て気比神宮を後にすると、敦賀港開港100年を記念して設置された「宇宙戦艦ヤマト」と「銀河鉄道999」のモニュメントが並ぶシンボルロードを通って敦賀駅へ。15分ほど歩いて5時前に到着し、券売機で予約していた特急券を発券してから駅構内の観光案内所の隣にある土産物売り場を覗き、特に欲しい物もなかったのでコンビニでコーヒーを調達して改札を入ると、17時15分発の特急サンダーバードに乗車。18時9分に京都駅に到着し、その日は日曜日で、飲みながら「麒麟がくる」を見たかったので、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイを買ってホテルに戻り、日程終了です。

f:id:hanyu_ya:20210225213653j:plain松尾芭蕉の句碑。刻まれている句は「涙しくや 遊行の持てる 砂の露」。『奥の細道』にある「月清し 遊行のもてる 砂の上」の原案のようです。

 

 翌日は宝塚大劇場雪組公演を観て帰るだけでしたが、開演は13時で、どこかに行くには時間がありませんでしたが、途中下車ぐらいはできそうだったので、宝塚駅の一つ手前の中山寺駅で降りて、中山寺に寄り、蓮ごはんを食べてから劇場に行くことにしました。

 

 9時半にホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらうと、45分発の姫路行き新快速に乗車。大阪駅宝塚線に乗り換え、10時40分に中山寺駅に到着。中山寺の最寄り駅は阪急宝塚線中山観音駅で、そこからなら徒歩1分ですが、JR線駅の中山寺駅からでも徒歩10分ぐらいで行けます。

 

 参拝後、時間があったので梅林公園まで足を延ばすと、紅梅がちらほらと咲いていました。

f:id:hanyu_ya:20210225213521j:plain中山寺梅林公園の梅その1

f:id:hanyu_ya:20210225213440j:plain中山寺梅林公園の梅その2。こちらは八重です。

 

 梅林を散策したあと、古墳を経由して、11時半過ぎにお休み処「梵天」に入ると、蓮ごはんだけでは物足りなかったので、前回と同じくたこ焼&うどんセットも注文。今回は食事の前にちくわも食べていないしチューハイも飲んでいないので大丈夫かと思いましたが、やはり量が多すぎました。

 

 なんとか完食して12時15分過ぎに店を出ると、中山寺駅には戻らず、中山観音駅から27分発の阪急宝塚線に乗り、33分に宝塚駅に到着。宝塚大劇場へ向かい、開演10分前には席に着けました。

 

 終演後は、はるばる来てよかったと思えるほど、だいもんこと望海風斗さんのサヨナラ公演を堪能しましたが、余韻に浸る間もなく劇場を出て宝塚駅へ。16時26分発の電車に乗り、大阪駅で長浜行き新快速に乗り換え、17時29分に京都駅に到着。551蓬莱で豚まんと甘酢団子を買ったあと、「ハーベス」でタカラ缶チューハイを買い、ホテルに行って荷物を引き取り、18時1分発ののぞみに乗車。これにて明智光秀探訪13&福井神社遠征&宝塚観劇の遠征終了です。

明智光秀探訪13 その2~特別展「明智光秀と越前」in福井市郷土歴史博物館、金崎宮、金ヶ崎城址

 「麒麟がくる」が終わってから、大河ドラマ館も閉館し、イベントやトピックスなどの明智光秀関連ニュースもめっきり少なくなったので、それらをネットでチェックする時間がだいぶ減りました。これもある種の“麒麟ロス”というものかもしれません。なので、その分多少余裕ができたため、ゆかりの地で買ってきた書籍類をぼちぼちと読み込みはじめたら、行き詰っていた明智家の謎に迫れそうだったので、光秀と土岐明智家の年表&系図作りを再開。そうしたら見事にハマってしまい、遠征記の続きに手が付けられず(笑)。けれども、金ヶ崎城の記事はなんとか23日に放送される「麒麟がくる」の総集編までにはアップしたいと思ったので、考察は一時中断です。

 

 さて、福知山に行った次の日の31日は、7時50分にホテルをチェックアウトすると、8時10分発の特急サンダーバードに乗車。9時36分に福井駅に到着し、福井市郷土歴史博物館へと向かいました。北陸は29日から30日にかけて雪の予報だったので、北陸新幹線を避けて東海道新幹線を選び、さらに福井を後回しにして先に福知山から行ったのですが、これが大正解でした。当日は晴れていましたが、福井はまだ雪がかなり残っていたので。一方の福知山は、こちらも29日は雪だったみたいですが、30日は晴れて、午後に行ったときにはもう市中に雪は残っていませんでした。

f:id:hanyu_ya:20210221175152j:plain郷土歴史博物館に行く途中に通った福井城の石垣と内堀。白山が見えます。

f:id:hanyu_ya:20210221175238j:plain福井城の石垣と枯れ木と雪(韻を踏んでいます)。福井城址には現在福井県庁があります。

 

 徒歩15分ほどで到着し、11月に図録だけ買った受付で観覧券を買うと、企画展「明智光秀と越前」は2階だというので、そちらはゆっくり見たいと思い、まずは1階の松平家史料展示室と常設展示室を見学。松平家史料展示室では「史料から見る福井の災害」という企画展をやっていました。続いて常設展を見学し、その後企画展へ。2階の展示室には最初は二人ぐらいしか見学者がいなかったのですが、40分ほど見ているあいだに続々と増えて、展示室を出るときには10人以上いました。

f:id:hanyu_ya:20210221175820j:plain常設展に展示されていた石棺。企画展は撮影禁止でしたが、常設展はいくつか撮影できました。

 

 企画展では、明智光秀が住んでいたと伝わり、現在明智神社がある東大味と一乗谷の関係を示す記録などが展示されていて、一乗谷朝倉氏遺跡資料館で見た石川学芸員の新聞連載記事のパネル展示もありました。越前には東大味の他、称念寺門前に光秀が住んでいたという伝承があるのですが、朝倉氏が統治していた時代の一乗谷は北ではなく南が表門だったと知ってから、どちらも信憑性が高いと思っています。おそらく美濃の明智城が落城して越前に落ちてきた当初は称念寺を頼って門前で寺子屋を開いて暮らし、のちに取り立てられて朝倉家ないしは朝倉家家臣のもとで働くようになると、一乗谷大手門筋の東大味に土地屋敷を拝領して移ったのだろうと考えています。この推測の裏付けとなるようなものがないかと思い、地元で開催される企画展に期待して見に行ったのですが、今回の展示を見てますますその思いを強くしました。

 

 江戸時代中期――1700年前後に書かれたとされる『明智軍記』は本能寺の変から約120年後の書物なので内容の信頼性が問われていますが、そこには朝倉義景が光秀の腕を見るために鉄砲を撃たせたところ百発百中だったと書かれ、その記事の他、近江の田中城籠城の際に沼田勘解由左衛門尉が光秀から口伝された医術を米田貞能が相伝されて記した『針薬方』や、光秀が朝倉家家臣に刀傷の対処法を伝授したと記されている『金瘡秘伝集』の存在から想像するに、光秀が教えていたのは近所の子供相手の読み書きといったものではなく、武家の子弟を相手にした医術や砲術ではなかったかと思われます。したがって光秀が営んでいたのは、いわゆる寺子屋というよりも指南所であり、そこで指導しているところを朝倉家中の誰かに見い出されて、客分扱いの軍医か軍師のような待遇で用いられるようになったのではないでしょうか。

 

 せっかく福井まで足を延ばすのなら、かにを食べたかったので、11時過ぎには博物館を出て、駅前のパピリンにある「福福茶屋」に行ったのですが、まだ11時20分ぐらいでしたが、すでに満席だったので驚きました。11時から14時までのランチタイムメニューで福井の郷土料理約20種が食べられるバイキングが人気のようで、1組の家族連れが待っていましたが、一人ならカウンター席でもよいので、すぐに空くだろうと思い、待つことにしました。予想どおり5分ほどでカウンター席が空き、11時半にはテーブル席待ちの家族連れより先に通されたので、前に来たときと同じせいこがに丼を注文。混んではいましたが、大多数がバイキング客のため、料理が出てくるのが遅くて待たされているような様子はなく、12時半過ぎの特急には乗れそうだったので、待っているあいだにe5489で敦賀までの特急券を予約しました。

f:id:hanyu_ya:20210221182518j:plainこの日のせいこがに丼。越前ガニである証の黄色いタグには、よく見ると、このカニを獲ったらしき漁船の名前が書かれていました。

 

 食事後、物産館や駅構内の土産物屋を覗いたあと、特急券を券売機で発券して、12時36分発の特急しらさぎに乗車。13時9分に敦賀駅に到着し、駅構内にある観光案内所で金崎宮行きのバスの時刻表と街歩きマップをもらうと、駅前のバス乗り場へ。13時30分発のぐるっと敦賀周遊バスに乗り、13時38分に金崎宮バス停に到着。すると、バス停がある駐車場の隣にある金前寺で、さっそく松尾芭蕉の句碑に出合いました。福井県内で最も古く、日本海側で最も古い芭蕉翁の句碑だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210221181055j:plain金前寺鐘塚の芭蕉句碑。句は「月いづこ 鐘は沈るうみのそこ」。新田義貞の長男、新田義顕金ヶ崎の戦いで海に沈めた陣鐘を詠んだ句だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210221181233j:plain金前寺についての説明板

 

 金前寺の脇道が金崎宮の参道で、道なりに進んで石段を登っていくと金崎宮に到着。

f:id:hanyu_ya:20210221181322j:plain参道の石段。金ヶ崎の退き口をアピールする幟旗がはためいていました。金ヶ崎城明智光秀キャラクターは「あけち君」です。

f:id:hanyu_ya:20210221181404j:plain石段の下にある金ヶ崎城址についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210221181443j:plain説明板の横に立てられていた金ヶ崎の退き口の立て看板

f:id:hanyu_ya:20210221181522j:plain金崎宮縁起についての説明板

 

 金崎宮は、後醍醐天皇の第一皇子で、南北朝時代金ヶ崎の戦いにおいて足利軍に敗れて自害した尊良親王と、その異母弟で、第五皇子でありながら寵妃の阿野廉子が生んだ皇子であるため皇太子となっていた恒良親王を祭神とする神社。第三皇子の護良天皇を祀る鎌倉宮と同じく明治期に建てられました。後醍醐天皇自身は吉野で病没しましたが、彼の息子たちは日本のあちこちで苦労し、自刃のほか毒殺や暗殺など、かなりの割合で悲惨な末路を辿っています。恒良親王も落城する金ヶ崎城からは脱出させられましたが、結局捕らわれて京都で幽閉され、毒を盛られて亡くなりました。まだ15歳だったそうです。

 

 戦国時代になると、越前を掌握した朝倉氏が金ヶ崎城敦賀郡司を置いて支配しましたが、そこに織田軍が攻めてきました。しかし織田信長の妹、市の婚家である浅井家が裏切ったことによって背後を突かれて挟撃される可能性が出てきたため撤退。その時に殿を務めたのが明智光秀羽柴秀吉だったといわれています。退いたから「金ヶ崎の退き口」なのです。

f:id:hanyu_ya:20210221181743j:plain鳥居と舞殿

f:id:hanyu_ya:20210221181821j:plain拝殿

f:id:hanyu_ya:20210221181856j:plain拝殿と本殿

f:id:hanyu_ya:20210221181929j:plain摂社の絹掛神社。新田義顕など金ヶ崎城落城の際に尊良親王と共に自刃した武士たちを祀る。

 

 参拝を終えると社務所に行き、金崎宮の御朱印金ヶ崎城の御城印をいただきました。金崎宮の御朱印は以前に訪れたときにもいただいたのですが、今回は「あけち君」のハンコが押された特別バージョンだったので、改めて購入。御城印は戦国時代バージョンと南北朝時代バージョンがあったので、両方いただきました。

f:id:hanyu_ya:20210221183042j:plain御朱印と御城印。2枚以上の購入でチケットケースがもらえました。

f:id:hanyu_ya:20210221183119j:plainすっかり見慣れた感のあるブルーの看板ですが、「明智光秀 雌伏の地」ではなく「明智光秀 飛躍の地」となっていました。

 

 摂社の絹掛神社の脇から花換の小道に出ることができ、そこから金ヶ崎城の本丸跡へ行くことができます。

f:id:hanyu_ya:20210221183231j:plain金ヶ崎案内図

f:id:hanyu_ya:20210221183324j:plain花換の小道の看板と金ヶ崎城址の石碑

f:id:hanyu_ya:20210221183407j:plain本丸跡に向かう途中にある明治期に建てられた「尊良親王御陵墓見込地」と刻まれた石碑。社務所でいただいた案内記によれば、親王の墓に指定される地は京都にあるため、自刃した場所ではないかとのことでした。

f:id:hanyu_ya:20210221183506j:plain尊良親王御陵見込地ついての説明板

f:id:hanyu_ya:20210221183542j:plain尊良親王御陵墓見込地(写真右上)の下にある本殿跡地。本殿は明治36年(1903)の火事で焼失し、3年後に再建されたときに現在地に遷されたそうです。

 

 金ヶ崎山の頂上近くの平地が本丸の跡地なのですが、そこには円墳が残っていました。つまり、金ヶ崎城が築城される以前からこの地は重要な場所で、古代には墳墓が作られた聖地だったことがわかります。

f:id:hanyu_ya:20210221183706j:plain「金碕古戦場」の石碑と古墳(右奥)

f:id:hanyu_ya:20210221183811j:plain古墳と最高地点の月見御殿跡に続く階段

f:id:hanyu_ya:20210221183843j:plain月見御殿跡から眺める敦賀湾と敦賀半島。下に見えるのは絹掛ノ崎。金ヶ崎城を脱出する際に、恒良親王が人目を避けるため、ここの巌上の松に衣を掛けたと伝わっているそうですが、もう松は枯れているとのこと。

 

 例によって、来た道を戻るのはつまらないので、本丸跡から金ヶ崎城の支城である天筒山城があった天筒山を経由するハイキングコースを通って山を下りようとしたのですが、途中から山道が雪のためにグチャグチャになり、コンフォートブーツではどうにも進めなくなくなったので、あきらめて二の城戸まで引き返し、金崎宮の社務所の脇に出る道を通って山を下りました。

 

 3時過ぎに金崎宮を後にすると、敦賀駅方面に行く次のバスが来るまで30分以上あったので、観光案内所で徒歩5分ぐらいだと説明された次のバス停がある赤レンガ倉庫に行くことにしました。金崎宮の周辺には時間をつぶせるような店はないのですが、そこまで行けば喫茶店があるようだったので、コーヒーでも飲もうと思いました。国の登録有形文化財である赤レンガ倉庫は明治38年(1905)に石油貯蔵用の倉庫として建設されましたが、平成27年(2015)にレストラン館に生まれ変わったそうで、中に土産物屋を併設した「赤れんがカフェ」という店がありました。奥には狭いながらも飲食スペースがあったので、コーヒーと一緒にタルトも頼み、ひと息入れました。

f:id:hanyu_ya:20210221184200j:plain赤レンガ倉庫の外観

f:id:hanyu_ya:20210221184257j:plain「赤れんがカフェ」のコーヒーと濃厚クリームチーズタルト

 

 バスが来る5分前になると店を出て、建物の前にある赤レンガ倉庫バス停に行き、15時41分発のバスに乗車。敦賀から京都に戻る特急は17時15分発のサンダーバードを予約していて、まだ1時間以上あったので、敦賀駅の一つ手前の大鳥居バス停で降りて、時間があれば寄るつもりだった気比神宮を訪れました。(続きます)

明智光秀探訪13 その1~福知山城光秀ミュージアム、福知山城、京都二条城イルミナージュ

 明智光秀を主人公にしたNHK大河ドラマ麒麟がくる」もついに本日で最終回です。この大河ドラマが始まる前から2020年は光秀関連の史跡を訪れるつもりでいましたが、予想以上に深くハマりました。訪れる先々で新たに知ることが興味深く、かつ奥深かったからだと思います。

 

 話は明智光秀から少々飛びますが、明日本拠地宝塚での千秋楽を迎える雪組公演は、トップスターのだいもんこと望海風斗さんのサヨナラ公演なので、絶対に見逃したくないと思い、とはいえ前回の雪組公演は東京公演を申し込んだのですが、ことごとくチケットの抽選に外れて観られなかったので、東京よりはまだ競争率が低いような気がする宝塚公演のチケット抽選に申し込みました。春の緊急事態宣言により会期途中で中止となってしまった福井市立郷土歴史博物館の「明智光秀と越前ー雌伏の時ー」が12月19日から2月14日までの会期で改めて開催され、そちらにも行きたかったので。念には念を入れて、一番当選確率が高そうな平日のマチネを選んだら、なんとか当たったので、遠征を計画。昨年のことです。現在、人気・実力ともに宝塚一の組のトップスターの退団公演という非常に入手が難しい貴重なチケットなので、緊急事態宣言が発せられても、休演にならないかぎり行くつもりでした。サヨナラ公演も特別展も、この機会を逃すと、次はないと思われることなので。

 

 そんなわけで、北陸新幹線で金沢まで行き、特急サンダーバードで福井を経由して関西に出て宝塚まで行くかと考えていたところ、福知山光秀ミュージアム明智光秀の武将印を2月7日の閉館日まで来館者に配布するというニュースを知り、また、福知山市が「明智光秀からの手紙ー丹波攻略戦を語る史料ー」という図録を年明けに刊行し、福知山城で売っているという情報を得たので、福知山も再訪することにしました。……であればついでに、まだ行けていない盛林寺にある光秀の首塚に詣でようと思っていたのですが、京都府に緊急事態宣言が発せられてしまったので、残念ながら今回の福知山訪問は宣言が発せられたあとも休館はしないという光秀ミュージアムと福知山城に絞ることに。寺院関係は人が来ないという理由で閉まっていそうだったので。

 

 その代わりに、ちょうど福井からの通り道なので敦賀に寄り、福井県が光秀の飛躍の地ポイントとしてアピールしている金ヶ崎城址に行くことにしました。明智光秀羽柴秀吉が殿を務めた金ヶ崎の戦いの舞台です。敦賀にある名神大社で越前一宮の気比神宮は神代史上重要な史跡なので、式内社巡りを始めて早々に訪れ、その際に金崎宮にも行き、レンタサイクルを借りて気比神宮の奥元宮といわれる常宮神社まで足を延ばしましたが、以来縁がなかったので、久しぶりに訪れるのもいいかと思いました。

 

 ということで、先月30日に約2か月ぶりとなる新幹線に乗車。品川発10時17分ののぞみに乗り、12時21分に京都駅に到着。駅前のホテルに荷物を預けると、駅に戻ってe5489で予約してある特急券を発券してから、西口改札前のイートパラダイスにある料亭和久傳のカジュアル店「はしたて」に行き、昼食を摂ることに。数量限定メニューの「金目鯛ちらし寿司セット」がまだあるというので、そちらを選びました。

f:id:hanyu_ya:20210207165312j:plain「はしたて」の金目鯛ちらし寿司セット

 

 食事後、13時25分発の特急きのさきに乗り、14時44分に福知山駅に到着。福知山城の近くまで行く駅前発のバスは毎正時しかないことは2回の訪問でわかっているので、迷うことなく歩きで福知山城へ。15分ほどで到着し、今回はチケットを持っていなかったので、チケット売り場でミュージアムと福知山城の共通券を購入すると、そこで明智光秀の武将印がもらえました。

 

 入館者は40名までに絞っているとのことで、渡された整理券の時間に従って先にミュージアムから見学。予定どおりなら会期を終えて閉館しているはずで、貸出期間を過ぎているためか、展示史料はすべて複製のようでした。

 

 続いて福知山城に行き、検温&連絡先記入のあと、窓口で図録を購入。目当ての「明智光秀からの手紙ー丹波攻略戦を語る史料ー」の他、「明智光秀の生涯と丹波福知山」という福知山城天守閣再建30周年を記念して刊行された本もあったので、そちらも購入しました。ついでに、前回の訪問時はカード入れ紛失中で手元になかったため提示できなかった「いがいと! 福知山ファンクラブ」の会員証を見せると、PR武将明智光秀のポストカードがもらえました。最初に来たときにもらった特典は福知山城のイラストが描かれた缶バッジでしたが。

f:id:hanyu_ya:20210207180823j:plain冬の福知山城。初めて晴れていました。

f:id:hanyu_ya:20210207165534j:plain光秀ミュージアムでもらった明智光秀の武将印と、福知山城でもらった「いがいと! 福知山ファンクラブ」会員特典のPR武将のポストカード

f:id:hanyu_ya:20210207165618j:plain福知山城で購入した福知山市発行の図録と本。細川珠生さんの本は、子孫が書いたということで興味があり買ってあったのですが、読む時間がなくて放置していて、今回の移動時間でようやく完読しました。本屋で買える明智光秀関連本はこの本と「まっぷる明智光秀」ぐらいしか買っていませんが、ゆかりの地で購入した書籍や特別展の図録を読み込むのに、数年はかかりそうな気がします(笑)。

 

 ミュージアムと同じく、城内の展示も前回からほぼ変化はなかったので、最上階までサクッと見ると城を後にし、ゆらのガーデン内の土産物屋へ。前回訪れたときに品切れだったPR武将のA4クリアファイルをゲットすると、福知山駅に戻り、4時過ぎに城を出る前にe5489で予約した特急券を発券。それから駅構内のコンビニでタカラ缶チューハイとつまみに豊岡産のちくわを調達し、16時44分発の特急きのさきに乗車。

f:id:hanyu_ya:20210207165859j:plain福知山城の展示は10月に来たときとほとんど同じでしたが、歴史家の磯田道史さんが寄贈したという、この『慶長中外伝』はなかったような気がします。光秀の孫である熊本藩初代藩主細川忠利に召し抱えられた、光秀の娘婿である明智秀満の子孫のことが書かれています。

f:id:hanyu_ya:20210207182828j:plain特急きのさきの車窓から見えた福知山城

 

 18時8分に京都駅に到着すると、ホテルに行ってチェックインを済ませ、再び駅に戻って地下鉄に乗り、二条城へと向かいました。二条城では2月21日まで「京都二条城イルミナージュ」を開催していて、今回は「日本の四季」をテーマに、京都の春夏秋冬と二条城の歴史をイルミネーションで表現するとのことだったので、12月に訪れたばかりでしたが、見てみたいと思い、またまた足を運びました。通常であれば開場時間は5時半から10時までなのですが、緊急事態宣言中は8時までとなり、受付は7時半まで。そのため、福知山での滞在時間が当初の予定より1時間ほど短くなりました。10時までなら、明智茶屋にも寄ったのですが。

 

 7時前に二条城前駅に到着し、地上に出ると城の周囲は閑散としていて、券売所も開いていないみたいだったので、東大手門の前に立っていたスタッフと思われる人に「イルミナージュを見に来たのですが、当日券は売ってないのですか?」と訊くと、「城内で販売しております」と言うので、東大手門から入城。築地塀の前で右に曲がって休憩所があるほうに進んだのですが、まったく人けがなく夜闇が深まるばかりだったので、引き返してスタッフに訊いたほうがよいと思い、来た道を戻ると、前方に明るい場所を発見。門から入って左手のほうにチケットを販売するテント小屋があり、検温&連絡先記入後に買うことができました。

f:id:hanyu_ya:20210207170559j:plainライトアップされた東南隅櫓

f:id:hanyu_ya:20210207170649j:plain姫と公達のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207170726j:plain舞妓のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171042j:plain二条城の築城主、徳川家康のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171122j:plain二条城に行幸した、家康の孫娘の夫、後水尾天皇のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171211j:plain桜の園をバックにした人力車のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171330j:plain二の丸庭園の漆喰塀をバックにした竹林のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171406j:plainライトアップされた松と桃山門

f:id:hanyu_ya:20210207171459j:plain二の丸の障壁画「松鷹図」と制作者である狩野探幽のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171555j:plain桜の園の石垣をバックにした尾長鶏のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171631j:plainライトアップされた南中仕切門

f:id:hanyu_ya:20210207171712j:plain明治天皇のイルミネーション

f:id:hanyu_ya:20210207171754j:plain大正天皇のイルミネーション

 

 振り返ると、ちょうど月がいい具合に出ていて、折り返し地点からの帰り道は、月とイルミネーションの競演を堪能しました。後で調べたら、前日が今年最初の満月でした。ちなみに1月の満月は「ウルフムーン」というそうです。

f:id:hanyu_ya:20210207174157j:plainライトアップされた松と十六夜の月

f:id:hanyu_ya:20210207174236j:plain漆喰塀をバックにしたイルミネーションの花と十六夜の月

 

 少し待てば容易にフレームから人を外せるほど少ない入場者だったので、普段の人出ならば絶対に撮れないだろう写真も撮れました。嬉しいやら悲しいやら……。

f:id:hanyu_ya:20210207174356j:plain東大手門正面。とてもイベント開催中とは思えない静謐な趣でした。

f:id:hanyu_ya:20210207184909j:plain唐門と築地塀。どちらも国の重要文化財です。これだけ引いた状態で人を入れずに夜の写真が撮れることは、この先ないと思います。

f:id:hanyu_ya:20210207185040j:plain唐門正面。今まで何枚も唐門の写真を撮ってきましたが、金の飾り金具をはじめ、これほどきれいに写っているものはないと思います。

f:id:hanyu_ya:20210207174633j:plain南門付近から見る唐門と築地塀十六夜の月

 

 終了時間の8時10分前に会場を出て城を後にし、二条城前駅から地下鉄に乗って京都駅まで戻り、8時半にはホテルに戻って、この日は終了です。

織田信長の誤算による自滅か!?~本能寺の変の黒幕についての一考察

 以前に遠征記の中で、本能寺の変の動機についての考察を書いたことがありましたが、明智探訪を続けてきて、明智光秀の動機とは別に、黒幕について思い至ったことがありました。本能寺の変を仕掛けたのは、織田信長本人ではなかったか――と。

 

 そう思ったのは、NHKの「歴史探偵」という番組で、光秀が築いた周山城の規模を知ったときでした。天正7年(1579)に丹波平定をほぼ終え、信長から丹波一国を領国として与えられると、光秀は亀山城、福知山城に続いて周山城の築城を開始しました。天正9年(1581)8月には茶の湯の師匠である津田宗及を招いて月見をしたことが『宗及茶湯日記』に記録されているので、その頃までには、完成はしていなくても客を呼んでもてなすぐらいの体裁は整っていたことになります。

 

 周山城は480メートルの山の上に作られた南北600メートル、東西1300メートルに及ぶ、とんでもない規模の城です。国衆の力が強くてまとめるのが難しい丹波をついに平定し、さらに彼らや領民たちを従わせて、わずか2年足らずでそのような巨大城郭を作った光秀に、信長は恐れを抱いたと思います。同番組で周山城のCG復元図を見たときに、私はこれほどの建造物をあんな深い山の上にそんな短期間で人々に作らせた光秀の器量と人望に驚きました。人望があったわけではなく、単に人心掌握術に長けていただけかもしれませんが、いずれにしろ信長が私と同じような感想を持ったとしても何ら不思議ではありません。たとえ実際には目にしていなくても、そのような城の存在を知れば、築城主の力を感じて脅威に思うのではないでしょうか。さすれば、いずれ足元をすくわれるという危機感をおぼえたと思います。度重なる裏切りや離反によって、自分から人心が離れていっていることは、感情的には堪えていなかったかもしれませんが、事実は事実として信長自身も感じてはいたでしょうから。

 

 とはいえ、信長の露払いとなって主君が西国に攻め込む道を着々と整備している光秀に表立っての非はないため、よほどのことがないかぎり光秀を失脚させることはできなかったと思います。丹波平定を成し遂げるという他に類を見ない武功を挙げた光秀にそんなことをすれば、けっして一枚岩ではない織田方の武将たちはとたんに信長に背を向け、信長のために戦をしなくなるからです。また、光秀の下でおとなしくなった近江や丹波の国衆や、今や34万石の大名である光秀の配下も黙ってはいません。そうした事情もあって、信長は光秀が自分に叛いて、公明正大に光秀を処分できる機会を作ろうとしたのではないかと思えます。

 

 怨恨説の根拠の一つとなっている安土城徳川家康を饗応したときの叱責、四国説の根拠となっている長宗我部家に対する方針転換など、従来本能寺の変の動機として挙げられている、光秀の不満を煽るような細かいことを意図的に積み上げていき、何かきっかけがあれば光秀が叛きそうだという情報を得たところで、少ない手勢で本能寺に滞在してわざと隙を見せて、堪忍袋の緒を切った光秀が事を起こしたら、信長の内意を受けていた羽柴秀吉が光秀を成敗するという手筈だった――今のところそれが一番しっくりきます。だからこそ秀吉は中国大返しという離れ業が可能だったのでしょう。何故信長が小姓衆だけを連れて上洛したのかも説明がつきます。光秀の謀反を誘い出して彼を嵌めるためで、秀吉の援護があると信じていたからです。

 

 舞台が本能寺になるかどうかはともかく、わずかな供回りの信長が襲われたら、秀吉の命を受けた者が駆けつけて助け、謀反の現行犯である光秀を言い訳無用で失脚させることになっていた――ところが、光秀とは違う理由で、光秀と同じく信長を煩わしく思いはじめていた秀吉は、目の上の瘤を一気に排除する好機と見て、主君信長を見殺しにし、ライバル光秀を、それこそ主君の仇討ちという公明正大な大義のもとに滅ぼしました。信長の遺体は見つからなかったということになっていますが、もしかしたら秀吉勢が当初の手筈どおりに救い出したあとに抹殺したのかもしれません。歴史とは勝者による勝者のための記録で、出口王仁三郎いわく「信ずるに足らぬもの」なので(笑)

 

 信長の数々の焚きつけに耐えていた光秀が一線を越える理由となったことが何なのかはまた別問題で、そちらはやはり時期的に「三職推任」問題がらみで、前日の6月1日に開かれた茶会にかこつけて公家衆に対して示された信長の返答内容が主因ではないかと思いますが、信長が己の策に溺れて自滅したのが本能寺の変の一面かもしれません。

特別展「国立ベルリン・エジプト博物館所蔵 古代エジプト展 天地創造の神話」in江戸東京博物館

 宝塚の平日のソワレは本来であれば6時半開演なので5時ぐらいまで仕事をしてから行くのですが、緊急事態宣言を受けて、当面のあいだ開演時間が3時半に繰り上げ変更されているので、宙組公演を観劇した日は昼で仕事を切り上げ、両国の江戸東京博物館に寄ってから日比谷に行きました。江戸博には企画展「和宮 江戸へ―ふれた品物 みた世界」を見に行ったのですが、特別展「国立ベルリン・エジプト博物館所蔵 古代エジプト展 天地創造の神話」も開催中だったので、ついでに見てきました。

 

 今回公開されているエジプトコレクションは、世界遺産となっているベルリンの博物館島にある新博物館が所蔵するもので、博物館島には5年ほど前にフリードリヒの絵を見に行き、その時にナショナルギャラリーの他、新博物館を含む五つの博物館を見てきたので、特別展は見ても見なくてもよかったのですが、時間があったので軽い気持ちで寄ってみたら、想像以上に気合いの入った展示で驚きました。日本初上陸という展示品もかなりあって、しかもその多くが撮影を許可されていたことにもビックリしました。

f:id:hanyu_ya:20210123195242j:plainハトシェプスト女王のスフィンクス像(紀元前1479~1458頃)。3500年前の物ですが、奇跡的な保存状態です。

f:id:hanyu_ya:20210123195336j:plainセクメト女神座像(紀元前1388~1351頃)。彫像として完成度が高いです。

f:id:hanyu_ya:20210123195413j:plainツタンカーメン王の前で腰をかがめる廷臣たちのレリーフ(紀元前1333~1323頃)。こういうレリーフにしては珍しく、よくある記号みたいな人間描写ではなく、現代でも見られるような生きている人間の日常的な様子が描かれていて、3000年前が一気に身近になりました。

f:id:hanyu_ya:20210123195443j:plainタイレトカプという名の女性の人型棺(紀元前746~525頃)。棺という箱にしては、かなり写実的です。

f:id:hanyu_ya:20210123195522j:plainハヤブサ頭のワニの小像(紀元前664~332頃)。こういう生き物を想像できる発想力が見事です。

f:id:hanyu_ya:20210123195613j:plain有翼のイシス女神に保護された、ミイラ姿のオシリス神の小像(紀元前664~332頃)。2000年以上前に、すでに青銅でここまで精巧なものを作るほどのデザイン力と造形力があったことに驚嘆します。

f:id:hanyu_ya:20210123195755j:plainバレメチュシグのミイラ・マスク(紀元50~100頃)。金による加飾も彩色も圧巻です。

 

 ベルリンの新博物館は王妃ネフェルティティの胸像があることでも知られますが、他にもシュリーマンが母国に持ち帰った発掘品(略奪品)などがあり、そのコレクションはロンドンの大英博物館にも劣らぬものだと思います。今回来日しているのはそのうちのほんの一部で、博物館内には似たようなものがゴロゴロあり、取り立てて有名でもなく特にフィーチャーされるような品々ではないのですが、それでも一つ一つ丁寧に見せられると、それぞれの作品が目に飛び込んできて、その凄さを強く訴え、古代エジプト美術のデザイン力や制作技術等々、改めてレベルの高さを感じることができました。ベルリンで見たときには、あまりに展示品が多く情報量が過多で、かつ無造作に展示されているので、見ているうちにありがたみも薄れて、しまいには食傷気味になり、途中から流して見ていましたから。それに、エジプトの偉大さよりもドイツ帝国の偉大さを見せつけられた印象のほうが強かったですし。なので、多くのものに圧倒される展示もそれはそれで魅力的ですが、その中からセレクトされたものを少しずつ見る展覧会も、個々を深く鑑賞できて、これはこれで悪くないと思いました。そして、本展では、現代人を凌ぐ古代人の豊かな想像力と表現力に触れられ、東博で開催された大英博物館帰国記念の「土偶展」に匹敵する芸術的刺激がもらえるので、コロナ禍ではありますが、できるだけ多くの人に見てほしいと思いました