羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

明智光秀探訪14~旧竹林院、西教寺、慈眼堂、滋賀院門跡、坂本城址、明智塚、萬福寺ランタン

 7月12日から8月22日まで、東京都には四度目となる緊急事態宣言が発出されることになりました。神奈川県では引き続きまん延防止等重点措置が取られます。今日はたまたま日比谷で宝塚観劇の日だったのですが、明日からまた当分のあいだ都内の店ではお酒が飲めないので、終演後、幕が下りきる前に席を立ち、劇場を出て隣の帝国ホテルへ。オーダーストップの7時10分前にロビーラウンジに駆け込み入店して、シャンパーニュを飲んできました。やることに事欠かない家では基本的に飲まないので、3か月ぶりぐらいでしょうか。カヴァとかスプマンテなどのスパークリングワインなら巷の飲み屋でもわりと置いているので、外で度々飲みましたが、シャンパーニュとなるとそうはいかず、飲む機会がありませんでした。

f:id:hanyu_ya:20210711235544j:plain本日の夕食のミックスサンドとアンリオ。シャンパーニュを頼むと、おつまみとして帝国ホテルのチョコレートと、何故か柿の種が付いてきます。

 

 さて、京都で花見をした翌日は、3月31日までの会期だった「びわ湖大津・光秀大博覧会」が20日から最終日まで大感謝キャンペーンをやっていて、明智光秀が寄進した陣鐘を西教寺で特別公開していたので、坂本に行ってきました。まずは延暦寺の里坊だった旧竹林院へ。

f:id:hanyu_ya:20210710204453j:plain旧竹林院についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210710204751j:plain旧竹林院の入口。雛人形の段飾りが飾ってありました。

f:id:hanyu_ya:20210710204848j:plain旧竹林院の1階。ここの名物となっている座卓を使ったリフレクション撮影にチャレンジしてみました。

f:id:hanyu_ya:20210710204932j:plain旧竹林院の2階その1。1階と同じ角度から、こちらもリフレクション撮影。

f:id:hanyu_ya:20210710205014j:plain旧竹林院の2階その2。明らかに額縁効果を狙った造り。

f:id:hanyu_ya:20210710205057j:plain旧竹林院の2階その3。庭園の反対側にある床の間飾り。こちらにも雛人形が飾ってありました。

f:id:hanyu_ya:20210710205135j:plain旧竹林院の2階の全景

f:id:hanyu_ya:20210710205230j:plain建物の中から見る旧竹林院の庭園。国の名勝です。

f:id:hanyu_ya:20210710205338j:plain庭園を散策すると、日吉大社の奥宮がある八王子山を借景としていることがわかります。

f:id:hanyu_ya:20210710205444j:plainご丁寧にこんな立札までありました。

 

 比叡山系の八王子山は、古代祭祀の跡である巨石が残る日吉大社御神体山で、『ホツマツタヱ』で「ヒヱの神」と呼ばれる大山咋神が鎮座する神奈備山であり、本書には比叡山はこの神が作ったと書かれています。それゆえ“ヒヱ”の神なのです。比叡=ヒヱで、ヒヱ=日枝=日吉ですから。つまり、日吉大社に祀られている大山咋神はこの地域の開拓神ということになります。

 

 ところで、私が坂本でよく食事をする芙蓉園本館は旧白毫院という元里坊の跡で、こちらの庭園も国の名勝なのですが、ここからも八王子山がよく見えます。……ということは、延暦寺の里坊の庭園は大山咋神ゆかりの神奈備山が拝めるように造られていたのかもしれません。であるのなら、天台宗の里坊というよりも、天台宗神道山岳信仰が融合した山王神道の里宮といったほうがふさわしいように思えます。

 

 旧竹林院の庭園をひと巡りしたあと、有料区域の母屋とは別の、無料開放されていた建物に立ち寄ると、日吉神社山王祭について説明するパネルが数枚展示されていました。そしてその一つに、山王祭大山咋神と鴨玉依姫神による出産と御子誕生の儀式――と書かれていたので、我が意を得たりと思い、小躍りしたい気分になりました。

f:id:hanyu_ya:20210710205922j:plain山王祭についての説明パネル

 

 日吉神社の祭神である「鴨玉依姫」は「カモのタマヨリ姫」の意味なので、下鴨神社として知られる“賀茂”御祖神社の祭神である“玉依媛”命と同一神です。彼女は、十二代天君ウガヤフキアワセズの后で、初代天皇である神武の母ですが、『ホツマ』によると、玉依=タマヨリは、当初ウガヤフキアワセズの最初の妃であるヤセヒメ=八瀬姫が子を生んで亡くなったため、遺された子――イツセ=五瀬の乳母としてウガヤフキアワセズの宮に呼ばれました。のちにウガヤフキアワセズのお手付きとなってイナイイ=稲飯を生み、その後皇后に立てられてカンヤマトイハワレヒコ=神日本磐余彦――神武を生みました。

 

 ……ということは、宮に上がるときには乳母としての資格を有していたわけで、つまり母乳が出る状態――子供を生んでいたということです。その子供がミケイリで、ミケイリは『日本書記』では「三毛入野命」、『古事記』では「御毛沼命」の名で登場します。記紀や『ホツマ』では単に神武の兄として紹介され、異父兄であるとは言及されていませんが、イリ=入を名に持ち、この「入」が入り婿の「入り」と同じ意味ならば、ウガヤフキアワセズとは血が繋がらない、義理の父子であると考えてよいと思います。史書では確認できませんが、山王祭大山咋神と鴨玉依姫神による出産と御子誕生の儀式であり、さらに、ミケイリの母親がタマヨリであるのなら、ミケイリの父親はヤマクイということになります。つまり山王祭は、ウガヤフキアワセズの宮に入る前に、タマヨリがヤマクイの子であるミケイリを生んだ慶事を神事化した祭なのでしょう。ちなみに、山城の国土開拓神であるオオヤマクイですが、彼はウガヤフキアワセズの祖父であるニニキネの命を受けて、この地を拓きました。したがってニニキネと近い世代であり、タマヨリはその孫世代となります。なので、ミケイリの父親である「ヤマクイ」とは、オオヤマクイの甥であるワカヤマクイのことだと思います。

 

 旧竹林院を後にすると、日吉大社前バス停からバスに乗り、西教寺へ。受付で「びわ湖大津 光秀大博覧会」の入場チケットを買うと、大感謝キャンペーンの特典でクリアファイルと坂本城のお城カードがもらえました。まずは禅明坊光秀館を見学。3回目の訪問でしたが、やや展示品が変わっていました。大河ドラマの小道具が比較的新しい物になっていました。

f:id:hanyu_ya:20210710211030j:plain大河ドラマ麒麟がくる」で使われた小道具の温石と小箱。温石は若い頃に光秀の妻の熙子が光秀に渡した二人の思い出の品で、小箱は、熙子の死後、光秀が彼女の爪を切って入れていた入れ物です。

 

 光秀館を出ると隣の土産物売り場に寄り、買い納めとなる博覧会オリジナルの八つ橋「桔梗之華」を購入。それから特別公開をしていた明智光秀寄進の陣鐘を見学し、西教寺を拝観。おみくじの創始者である元三大師ゆかりの寺なので、例によっておみくじを引くと、今回は吉でした。

f:id:hanyu_ya:20210710211316j:plain西教寺で引いたおみくじ

 

 西教寺を出ると、再びバスに乗り、日吉大社前バス停で下車。途中、車窓から芙蓉園別館の門前にランチの案内が見えたので、本館より気軽に入れない佇まいで今まで行けなかった芙蓉園別館で昼食を摂ることに。玄関で、メニューは門前に張り出してあった湯葉重オンリーで支払いは現金のみだがいいかと訊かれましたが、手持ちもあって特に問題はなかったので入店。

f:id:hanyu_ya:20210711020930j:plain芙蓉園別館で食べた湯葉

 

 食事後、部屋から庭園に出られるようになっていたので、履き物を借りて軽く散策させてもらい、屋内に戻って支払いを済ませ店を出ると、慈眼堂経由で滋賀院門跡へ。

f:id:hanyu_ya:20210711021158j:plain慈眼堂の供養塔。向かって右から紫式部之塔、和泉式部之塔、清少納言之塔。

 

 3月末で終了する光秀博覧会の会場である西教寺と滋賀院門跡を見終わると、あとは日を改めて訪ねてもいい場所だったので、2020年度明智光秀探訪の最後を締めくくるべく、権現馬場、松馬場を下って坂本城址へ。続いて明智塚に寄り、JR比叡山坂本駅に戻りました。

f:id:hanyu_ya:20210711022059j:plain北国海道沿いの坂本城址の石碑

f:id:hanyu_ya:20210711192557j:plain坂本城址公園の石碑

f:id:hanyu_ya:20210711192722j:plain坂本城址公園の明智光秀像。よく知られている像ですが、今まで見てきた可児、亀岡に比べて、一番ビミョーなカンジ。

f:id:hanyu_ya:20210711192902j:plain坂本城址公園から見る琵琶湖

f:id:hanyu_ya:20210711192946j:plain明智

f:id:hanyu_ya:20210711193025j:plain明智塚についての説明板

 

 湖西線で京都駅に戻ってくると、利用できる公共交通機関がなかったため芙蓉園別館から比叡山坂本駅までずっと徒歩移動で足の疲れがハンパなかったので、いったんホテルに戻って30分ほど休み、5時過ぎに再び出かけて、宇治の萬福寺へと向かいました。19~21日は萬福寺ランタンが開催され、夜間参拝ができたので。6時前に黄檗駅に着き、徒歩5分ほどで萬福寺に到着。臨済宗曹洞宗と並ぶ日本三禅宗の一つである黄檗宗大本山なので、一度訪れたことがありますが、もう何年前かわからないほど大昔で、開梆ぐらいしか記憶にありませんでした。

f:id:hanyu_ya:20210711193231j:plain萬福寺全景図

f:id:hanyu_ya:20210711193309j:plain三門とライトアップ された桜

f:id:hanyu_ya:20210711193419j:plain本堂にあたる大雄寶殿

f:id:hanyu_ya:20210711193503j:plain大雄寶殿はステージになります。

f:id:hanyu_ya:20210711193759j:plain有名な開梆

f:id:hanyu_ya:20210711193923j:plain開梆についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210711194007j:plain大雄寶殿内。見えませんが、御本尊はお釈迦様です。

f:id:hanyu_ya:20210711194143j:plain大雄寶殿内に祀られている羅怙羅尊者。釈迦十大弟子の一人で十六羅漢の一人、お釈迦様の実子だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210711194241j:plain大雄寶殿の外に出るとすっかり暗くなっていました。

f:id:hanyu_ya:20210711194342j:plain天王殿内の韋駄天

f:id:hanyu_ya:20210711233029j:plain天王殿内の毘沙門

f:id:hanyu_ya:20210711233231j:plain天王殿内の弥勒菩薩

f:id:hanyu_ya:20210711233318j:plain天王殿前のライトアップされた参道

f:id:hanyu_ya:20210711235816j:plain売店御朱印授与所も開いていたので、金の限定朱印をいただいてきました。

 

 駅から歩いているときにパラパラと降りはじめた雨が強くなってきたので、7時15分過ぎには萬福寺を後にし、夕飯はどうしようかと思っていたら、近くに「京薬膳 萬」という店があったので、入店。「営業中」の札が掛かっていましたが、店内には客はおろか店員も見あたらず。ただし人がいる気配はするので、厨房らしき奥の部屋に向かって声をかけると店員が出てきて、まだ食事も用意できるというので、お薦めらしき「金成そば」というメニューを注文。食べているあいだに萬福寺から流れて来たらしい客が入ってきました。

f:id:hanyu_ya:20210711233416j:plain金成そば。具は、胡麻豆腐、大根おろし、山菜、豚肉、銀杏、柚子胡椒……温泉卵付きです。

 

 食事後、黄檗駅から奈良線で京都駅に戻り、8時半過ぎにホテルに着いて、日程終了です。

京都遠征~容保桜(+京都府庁旧本館)、出水の枝垂れ桜、近衛邸跡の糸桜

 1都2府などを対象とした三度目の緊急事態宣言がゴールデンウィーク前に発出されて以降、2か月以上遠出はまったくしていないのですが、なかなか記事を書く時間が取れず。月日が経ちすぎて旅先での行動もうろ覚えとなり、季節的にも今さらという感じになってしまったので、3月4月に行った遠征については、アルバム風に写真と軽い説明をアップしてすませたいと思います。

 

 3月下旬の春分の日の週末は、宝塚の大劇場公演のチケットが取れたので、ついでに京都へ行き、京都府庁旧本館を見学してきました。旧本館の中庭には「容保桜」という名の桜があり、今年は桜の開花が早かったため、もしかしたら咲いているかもしれないと思ったので。「容保桜」は京都府庁の敷地が京都守護職上屋敷跡――ということから、京都守護職だった松平容保にちなんで命名されました。ちゃんと松平家の了承を得ているそうです。残念ながら容保桜はぽつぽつとしか咲いていませんでしたが、円山公園の枝垂れ桜の孫にあたる桜がきれいに咲いていました。

f:id:hanyu_ya:20210626154957j:plain京都府庁旧本館正面

f:id:hanyu_ya:20210626155057j:plain中庭と旧本館の南棟

f:id:hanyu_ya:20210626155223j:plain中庭と旧本館の北棟

f:id:hanyu_ya:20210626155315j:plain中庭と旧本館の東棟

f:id:hanyu_ya:20210626155441j:plain円山公園の枝垂れ桜の孫桜の花

f:id:hanyu_ya:20210626160035j:plain旧本館を背景にした孫桜の花

f:id:hanyu_ya:20210626160140j:plain容保桜。満開には遠かったですが、よく見るとちらほら咲いていました。

f:id:hanyu_ya:20210626160246j:plain容保桜の説明板

f:id:hanyu_ya:20210626160331j:plain容保桜の花

f:id:hanyu_ya:20210626160409j:plain旧本館を背景にした容保桜の花

 

 明治37年に竣工した京都府庁旧本館は、創建時の姿をとどめる現役の官公庁建物としては日本最古のもので、重要文化財に指定されています。本館として機能したのは昭和46年までですが、現在も執務室や会議室として使われ、旧知事室や旧議場は一般公開されて、見学できるようになっています。

f:id:hanyu_ya:20210626160613j:plain旧知事室

f:id:hanyu_ya:20210626160809j:plain見学案内所から旧知事室に行く途中にある資料展示室にいた京都府広報監のまゆまろ。「広報監」……つまり京都府のPRキャラクターです。

f:id:hanyu_ya:20210626160906j:plain正庁

 

 旧議場は平成25年まで府政情報センターとして使われていましたが、竣工110周年を迎えるにあたり、明治当初の状態に修復され、平成28年に整備が終わりました。室内に在りし日の姿――情報センター時代の写真が展示されていたのですが、ほんの数年前まで図書館みたいだった部屋の様子を見ると、歴史的建造物の議場を元の姿形など見る影もない書庫に変えた人間と、苦労して限りなく元の姿形に戻した人間がいたという厳然たる事実を突きつけられ、奇妙な感覚をおぼえました。昔の物を残すことに価値を認める人もいれば、前時代の遺物など壊してしまって新しくすることに躊躇しない人もいる――そんな人間の多様性や、また時代によって変わる価値観を見せつけられ、けっして絶対的ではない人間の価値観、それどころか移ろいやすい人間の価値観というものを改めて思い知らされ、少々やるせなくなりました。人間の価値観がこれほど多様で変わりやすいものならば、これからも人は無駄な破壊と創造をくり返していくことでしょう。であるのなら、人とはなんと愚かな生き物なのか――とも思いました。

f:id:hanyu_ya:20210626161001j:plain旧議場その1。ガイドの方がいて、その説明によると、現在は講演会などで利用されているとのことでした。

f:id:hanyu_ya:20210626161223j:plain旧議場その2。窓の金具や換気システムなど、明治期の建築の工夫についても教えてくれました。

 

 役所なので5時には閉門するため、10分前には京都府庁を出ると、正門前の下立売通を東に向かって10分ほど歩けば京都御苑なので、行ってみることにしました。

f:id:hanyu_ya:20210626161438j:plain京都府庁を出るときに気が付いた、正門の近くにある京都守護職上屋敷跡の碑

 

 一番近い下立売御門から入ると、まずは満開の雪柳が出迎えてくれ、そのうち左手に人が集まる一本桜が見えてきました。出水の枝垂れ桜です。ラッキーなことに、ちょうど見頃でした。しかも青空の下、夕陽を受けた花はやや赤みがかった独特な色合いで、あまりに美しく、この出合いに心底感謝しました。花が満開で、晴れていて、夕刻で、しかも写真から外せるほど周囲に人がいないなんて好条件が揃うことは、この先あるかわからない――いや、ないだろうと思ったので。コロナ禍という非常時がもたらした偶然ですから……。まさしく、これこそ一期一会だと思いました。

f:id:hanyu_ya:20210626173344j:plain下立売御門近くの雪柳

f:id:hanyu_ya:20210626173433j:plain出水の枝垂れ桜その1

f:id:hanyu_ya:20210626173533j:plain出水の枝垂れ桜その2

f:id:hanyu_ya:20210626173634j:plain出水の枝垂れ桜その3

f:id:hanyu_ya:20210626173732j:plain出水の枝垂れ桜の花その1

f:id:hanyu_ya:20210626173807j:plain出水の枝垂れ桜の花その2

 

 出水の枝垂れ桜がとても素晴らしかったので、日が暮れて視界がきかなくなるまで時間が許すかぎり御苑内を散策することにし、糸桜を目指して、近衛邸跡へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20210626173959j:plain御所付近の桜の花その1。築地塀をバックにした桜の写真は、なかなか他では撮れません。

f:id:hanyu_ya:20210626174056j:plain御所付近の桜の花その2

f:id:hanyu_ya:20210626174206j:plain近衛邸跡近くの桜

f:id:hanyu_ya:20210626174246j:plain近衛邸跡の桜その1

f:id:hanyu_ya:20210626174327j:plain近衛邸跡の桜その2

f:id:hanyu_ya:20210626174420j:plain近衛邸跡の説明板

 

 近衛邸跡に続いて今出川御門、桂宮邸跡を見ると、行きは御所の西側を歩いたのですが、帰りは東側を通り、黒木の梅を経由して、丸太町通に出ました。

f:id:hanyu_ya:20210626174654j:plain御所の東側。橋本家跡付近から南を見る。御所沿いに人が一人もいない光景なんて、この先何度訪れてもないと思います。

f:id:hanyu_ya:20210626174812j:plain橋本家跡の説明板。橋本家は和宮の母親である橋本経子(勧行院)の実家で、和宮はここで生まれて育ちました。

f:id:hanyu_ya:20210626174946j:plain黒木の梅の花。ほとんど終わっていましたが、まだいくつか咲いていました。九条家にあった八重の梅です。

f:id:hanyu_ya:20210626175041j:plain黒木の梅の説明板

 

 6時半過ぎに御苑を出ると、だいぶ暗くなっていたので、切り上げてホテルに戻ることに。最寄りの丸太町駅から地下鉄に乗って京都駅に着くと、7時になるかという時刻だったので、夕飯を食べようと思い、JR京都伊勢丹の「松山閣」へ。時間が時間なのでダメもとで行きましたが、運よく店に入れたので、湯葉づくし膳を食べてホテルに戻り、日程終了です。

京都寺院遠征~仁和寺、壬生寺、方広寺

  2か月ほど明智家系図&年表作りにどっぷりハマっていたため記事を書けずにいたら、あっという間に春が終わり、もう梅雨かという季節になってしまいました(笑)。本当に季節が変わるのは早いです。

 

 今年の春は、3月中旬に仕事で京都、その翌週にはプライベートで宝塚観劇のついでに京都&坂本へ行き、4月は上旬に句会仲間と群馬へ花見、その翌々週には仕事で北陸、ついでに京都をまわって、いくつかの特別展を見てきたので、緊急事態宣言が出る直前までは2週おきぐらいに遠征をしていました。住まいがある神奈川県には今のところ宣言は出ていませんが、仕事場が東京で、関西の2府も宣言対象地域では行くところがないので、ゴールデンウィークは5月1日から9日まで仕事を休み、外出も控えて完全ステイホーム。9日間のあいだに家を出たのは、最寄りのコンビニに買い出しに行った1度きりでした。さすがに食料が尽きたので。

 

 ということで、連休中は引きこもっていたのですが、長い休みのおかげでようやく明智探訪の遠征先で買い漁りたまっていた資料を読み込むことができ、新たな情報が得られたので、明智研究は進展。ただし、それによって今までの考察の結果立てた推論は否定されて、その推論に基づいて作成してきた系図はほとんどオジャンになってしまったので、また一から書き換えることに……トホホホ。半端な状態で進めても行き詰まり結局二度手間になると思い知らされました。そんなこんなで連休後も引き続き休日は家にこもり、系図作りに没頭。とりあえず以前作成していたレベルにまで新情報を反映して書き換えたので、少しずつ遠征記を書いていきたいと思います。多分に今さら感がありますが、旅行記であり備忘録でもあるので。

 

  3月中旬に行った京都は、木曜の夜には同行の仕事仲間と、金曜の夜には取引業者と食事をすることになっていたため土曜に帰る予定にしていたので、帰る前にせっかくだからどこかに寄ろうと思い、夕方の新幹線を予約。……なのですが、前日に続いて朝からけっこうな雨降りだったので、チェックアウトタイムの30分前まで悩んだ末、仁和寺に行くことにしました。去年の夏に訪れましたが、京都市京都市観光協会がJRと組んで毎年実施している「京の冬の旅」の企画で、金堂と五重塔を特別公開していたので。「京の冬の旅」のホームページを見ると、密を避けるためか事前予約とのことだったので、スマホからネット予約で11時20分の回に申し込み、9時45分過ぎにホテルをチェックアウトし、荷物を預かってもらい出かけました。

 

 京都駅から仁和寺最寄りのバス停である御室仁和寺バス停までの所要時間は通常40分ぐらいなので1時間半あれば余裕だろうと思い、バスの時間は特に調べずに、駅構内の観光案内所に寄ったり、一日乗車券を買ったりしてから9時過ぎにバス乗り場に行ったのですが、タイミング悪く58分に出発したばかりでした。直通は1路線しかなく、しかも20分に1本なので、次は18分発。それでも1時間あれば大丈夫かと思っていましたが、二度目の緊急事態宣言解除後、明らかに人出が多くなっている京都市中は思いのほか混んでいて、コロナ禍以前の観光シーズン並みにバスが大幅に遅れたため、着いたのは10分前でした。

 

 やれやれと思いながらも、なんとか間に合いそうだったので安堵して二王門をくぐったのですが、左手にある拝観受付所は閉まっていて、受付がどこかわからず。にわかに焦り、慌てて御殿に入って訊いたところ、金堂の横とのことだったので、時間に間に合わせるのはあきらめて、できるかぎり早足で向かいました。金堂は中門を越えた先の、境内の最奥に位置するため、走ったところで到底間に合わず、それに、予約時間を過ぎると入場まで待たされることはあるみたいですが、入れないということはないと申込み時の注意書きにも書かれていたので。結局3分ほどの遅刻で仮設の入場券売り場に到着しましたが、問題なく入れ、待たされることもなく、そもそも予約なしでいきなり来ても入れるようでした。

f:id:hanyu_ya:20210522174221j:plain仁和寺の中門前から見る二王門。天気の悪さがよくわかる空模様。このとき雨は止んでいましたが。

 

 仁和寺の金堂は国宝で、御本尊の阿弥陀三尊も国宝ですが、そちらは現在霊宝館に安置されているので、今の金堂には江戸期に作られた阿弥陀三尊像が祀られています。それゆえ三尊像よりも、向かって右の脇壇に祀られていた光孝天皇像に心惹かれました――本堂に光孝天皇が祀られている寺は初めてだったので。まさしく仁和寺ならではの本堂で、改めて光孝天皇の発願によって建立された寺なのだと実感し、感慨深く思いました。光孝天皇は志半ばで崩御し、その遺志を継いで息子である宇多天皇が当寺を完成させたので、仁和寺の開基は宇多天皇ということになっていますが。

 

  58代光孝天皇は57代陽成天皇藤原基経によって若くして退位させられたことによって突然皇位が転がり込み、55歳で即位しました。母が藤原北家出身ではなかったため、それまで皇位とは縁遠かったのですが、その母の妹が基経の母で、つまり基経とは従兄弟同士の間柄であり、かつ基経の妻は光孝の同母弟の娘――すなわち姪で、血縁関係にあったからです。私が大好きな藤原時平は基経の長男ですが、彼の元服時に加冠役を務めて後見となったのが光孝で、よって時平の“時”は光孝の諱である時康からもらったのだろうと思っています。なので、光孝天皇の周辺についてもかなり調べたので、在位はわずか3年余りでしたが、私にとっては平安時代の中でもとりわけ馴染みの深い天皇です。そんなこともあって、仁和寺は思い入れのある寺なのです。

 

 とはいえ、昨年7月にも国宝の薬師如来像を見るために訪れているので、金堂に続いて五重塔の拝観を終えると、今回は霊宝館などはパスし、12時10分前だったので、昼食を摂るため、仁和寺を後にして二王門の前にある「佐近」という店に入りました。京料理×フレンチという感じの京料理屋のようで、興味が湧いたので。ランチタイムのサービスメニューがあり、それにしようと思っていたのですが、店内で改めてお品書きを見ると、フランソワ・モンタンのハーフボトルを発見。

 

 実は、当初は明智門がある金地院に行こうと思っていたのですが、アクセスを調べていたら、茶室の拝観は事前に往復ハガキでの申込みが必要であることがわかったため、今回はパスすることに。けれども「京の冬の旅」の特別公開も昨年のように絶対に見たいというところもなかったので、このあとどうするか食事をしながら検討するつもりでした。その上、木曜金曜と二日間日本酒dayが続き、そろそろ泡が飲みたいと思っていたところ、しかも店内には他に客はおらず貸切状態ったので、これはゆっくり食事をしろという神の思し召しだと思い、ハーフボトルを頼んで、料理は「桜」のコースに変更。本日のお任せ料理のコースでしたが、その日の献立は次のとおり。

 

 近江牛ローストビーフ 花山葵

 ・菜の花お浸し雲子かけ

  鰆西京焼き

  サーモンとクリームチーズ市松

 ・地鶏のスープ

 ・天然平目 本鮪 造り合わせ

 ・鯛ワイン蒸し デュクレレ風

 ・穴子と筍豆腐 木の芽餡かけ

 ・天然鯛昆布〆寿司 赤出し

 ・ピスタチオムース 抹茶わらび餅

f:id:hanyu_ya:20210522175230j:plain前菜3品

f:id:hanyu_ya:20210522175143j:plainスープ

f:id:hanyu_ya:20210522175059j:plain鯛のワイン蒸し

f:id:hanyu_ya:20210522175313j:plain〆寿司

f:id:hanyu_ya:20210522175355j:plainデセール

 

 仁和寺の門前でランチタイムにしたのは、ここからなら竜安寺北野天満宮や嵐山に行くのもアクセスがよいからでしたが、食事が終わっても行く所が決まらず、1時を過ぎると予約客らしき三人組がやってきたので、とりあえず店を出て、歩いて行ける妙心寺へと向かいました。妙心寺も今年から拝観方法が変わり、以前はガイドによる説明付きのみでしたが、個人で自由に拝観できるようになったので。ということで、府道101号線を歩いていたのですが、嵐電妙心寺駅前バス停あたりで、20分に1本の京都駅行きバスがちょうど来たので、やはりめったに見られない特別公開をしている寺院が多い東山に行こうと思い、懸命に走って、どうにか乗車。

 

 バスの中でも引き続き東山のどこへ行こうか考えていましたが、アルコールを飲んだあとに走ったせいか、いつのまにかウトウトとしてしまい、気が付いたら壬生寺道バス停の手前でした。壬生寺は「壬生狼」と呼ばれた新選組ゆかりの寺ですが、今まで行ったことがなかったので、急きょバスを降りて行ってみることに。14代江戸将軍徳川家茂と懇意だった会津藩松平容保会津藩には深い思い入れがあり、それゆえ会津藩お預かりだった新選組にも興味があって、以前から気になるところではあったので。気にはなっていたのですが、京都滞在中に壬生寺へ行く時間があるのなら黒谷の金戒光明寺へ行く人間なので、この日のように決まった予定のない時間があるときに偶然通りがかりでもしなければ、この先も行くことはないだろうと思い、この機に訪れることにしました。

f:id:hanyu_ya:20210522175750j:plain壬生寺案内図

 

 特別公開とかをやっているわけではなかったので、お参りをして御朱印をいただくと、有料区域である壬生寺歴史資料室と壬生塚を見学。壬生寺といえば重要無形民俗文化財に指定されている壬生狂言も有名なので、資料室には仏像や天皇家からの拝領品の他、狂言で使われる面などが展示されていました。壬生塚は新選組関連の遺跡で、局長だった近藤勇の胸像が一番目立っていましたが、近藤は板橋で処刑され、したがってその墓所は関東にあるので、横目に見ただけでスルー。近藤の前の局長だった芹沢鴨の墓に手を合わせてきました。新選組内の粛清により屯所で暗殺された芹沢はこの地に眠っているのだろうと思ったので。近藤も遺髪塔というのがあったので、髪は本人のものが納められているようですが。

 

 壬生塚を一巡すると、資料館入口前にある売店を物色。京都の前田珈琲とコラボした壬生寺オリジナルドリップコーヒー「誠珈琲」と、慶応幕末維新番付のビニール製ブックカバーがあったので購入し、寺を後にして壬生寺道バス停へ。途中に屯所旧跡の八木邸跡などがあり、こちらも大いに気になったのですが、前半のんびり行動しすぎたせいで時間に余裕がなくなっていたので、期間が限定されている特別公開を優先し、今回はあきらめました。

f:id:hanyu_ya:20210522184248j:plain壬生寺で買った「誠珈琲」とブックカバー。同じ東の横綱ではありますが、家茂より慶喜が上の番付なのが個人的には不満(笑)。左上は、新選組を預かっていた京都守護職の本陣があった金戒光明寺でいただいた記念札。大方丈の瓦を寄進するといただけるもので、岡崎での仕事のあと、近いので足を運びました。修復に使われる瓦の裏に願いと名前も書けます。

 

 再び市バスに乗ると、東山七条方面に1路線では行けなかったので、四条大宮バス停で乗り換えて、馬町バス停で下車。時刻は3時半になろうかというところで、特別公開の受付時間は4時までなので、二つは行けず、智積院方広寺のどちらに行くか悩みましたが、方広寺に行くことにしました。方広寺で見たいのは鐘だけだったので、非公開の建物を何か所か見られるのなら智積院かと思っていたのですが、改めて確認すると、コロナ禍の影響で智積院の特別公開は予定より縮小されて宸殿のみとなり、そうなると見所は堂本印象の襖絵ぐらいなので、ならば鐘だけが目的でも方広寺に行ったほうがよいと判断。なんといっても豊臣家滅亡の引き金となったもので、歴史を動かした存在ですから。それゆえ非常に歴史的価値が高い貴重なものなのですが、普段は鐘楼の外からしか見られないため興味が持てなくて、今まで訪れたことがありませんでした。しかし今回の特別公開では鐘楼の中から鐘を見られるとのことだったので、見に行くことにしました。

 

 バス停から10分ほど歩くと、方広寺の境内に到着。問題なく入れましたが、どうやら裏口のようでした。今回は本堂、大黒堂、鐘楼が公開され、まずは本堂と大黒堂を見学。方広寺豊臣秀吉が奈良の東大寺にならって京都に大仏を祀るために創建した寺で、東大寺の3倍の規模という大仏殿があったそうです。しかし創建翌年の文禄5年(1596)の慶長伏見大地震で大仏は倒壊。その後何回か再建と焼失がくり返されましたが、現在では遺物が残るのみとなり、大仏殿の欄間に施されていた左甚五郎作の龍の彫刻などが展示されていました。

 

 建物を出ると、続いて一番の目的である鐘楼へ。何人かの見物客がいましたが、少し待ってその団体をやり過ごせば、その後は一人二人の個人客とゆったり見ることができました。時間をかけて見ていると人が捌けて一人になるときもあったので、ガイドの方も丁寧に説明してくれ、鐘の内側に見える淀殿の幽霊も懐中電灯で照らして見せてくれました。言われればそう見えないこともないという、月に住むウサギのような感じでしたが。

f:id:hanyu_ya:20210522184944j:plain方広寺梵鐘その1。高さ4.2、外径2.8メートルの巨大な釣鐘で、東大寺知恩院と並んで「日本三大名鐘」の一つに数えられています。重さが82トン強あるというので、それを支えている鐘楼のほうに驚き、その仕組みをガイドの方に訊いたのですが、「組み方が特殊な工法」との答えで……つまり不明ということでしょう。

f:id:hanyu_ya:20210522185152j:plain方広寺梵鐘その2。厚みは27センチあるそうです。

f:id:hanyu_ya:20210522185300j:plain方広寺梵鐘その3。大坂の陣のきっかけとなった「国家安康」「君臣豊楽」の銘文。現在はわかりやすいように印が付けられているのでそこだけ目立っていますが、実物を見れば、梵鐘全体に刻まれた長い銘文の中のほんの一部であることがわかります。つまり、当時の徳川方がいかに目を皿のようにして豊臣家に戦を仕掛ける口実を探していたか、実によくわかります。

 

 鐘楼の建築方法も梵鐘の鋳造方法も、ちょっと想像できない、現代では考えられない高度な技術で、この鐘を作らせたのは秀吉の息子の秀頼ですが、豊臣家というか、太閤秀吉の威光――豊臣秀吉という人間の凄さを改めて見せつけられたような気がしました。こんなに高い技術を持つ職人たちを集められるのですから。はっきり言って、秀吉は好きではないのですが、傑物だとは思っています。客観的に考えれば、三英傑の中で一番凄いのは秀吉のようにも思えます。何しろ一兵も持たない身一つの農民だか足軽だかから天下人まで成り上がったのですから。けれども、古来「出る杭は打たれる」という考え方が一般的な民族社会であり、村八分や五人組制度が広く根付き、アメリカのようにサクセスストーリー的な思想や文化が浸透しなかった日本では、秩序を乱す急激な出世は世間の反感を買い、納得できない、受け入れられない、祝福できない人が多いため、残念ながらめでたい末路を辿れず、否応なしに巻き添えとなる周囲の人間も不幸にしているように思えます。秀吉しかり、道真しかり。だから彼らの人生に――そんな人生を選んで歩んだ彼らの人柄にあまりいい印象を持てないのかもしれません。

 

 鐘楼を出ると、仮設の授与所でミニファイル付きの限定御朱印を購入し、帰りは表門から出て、博物館三十三間堂前バス停からバスに乗り、京都駅に戻りました。時間が経ちすぎていて、メモも残っていないので、その後の行動はおぼえていませんが、例によってタカラ缶チューハイを買って新幹線に乗り帰ったのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20210522190033j:plain限定御朱印とミニファイル

f:id:hanyu_ya:20210522190132j:plain表門にあった特別公開の看板

宝塚メモ~礼真琴と星組の「ロミオとジュリエット」に足りなかったもの

 日曜に宝塚星組公演「ロミオとジュリエット」を観てきました。私の好きな三大ミュージカルの一つで、宝塚での再演は2013年以来8年ぶり、しかも歌ウマトップスターのこっちゃん(礼真琴さん)主演とあっては絶対に見逃せなかったので、先月の雪組に続き再び宝塚まで遠征してきました。

f:id:hanyu_ya:20210324232407j:plain大劇場内の壁に飾られた、こっちゃんのポートレート(中央)

 

 やはり何度観ても名作だと思う完成度の高い作品です。原作はシェイクスピアなので、ストーリーに破綻がなく、起承転結は完璧。ミュージカルになっても間延びするような箇所は一切なく、場面場面がオーバーラップするような演出もあって、たたみかけるように展開していきます。けれども、スピード感があるからといって話がすっ飛んで訳が分からないということもありません。始まりから終わりまでの流れがカンペキです。そして何より、すべての楽曲が文句なしに素晴らしい。単にメロディが美しいだけでなく、耳馴染みがよく、どの曲もおぼえやすいのです。こんなミュージカルは他に「エリザベート」と「オペラ座の怪人」しかなく、その中でもロック調なのは「ロミジュリ」だけ。なので、本当に唯一無二のミュージカルだと思っています。あくまで個人の感想ですが。

 

 ということで、とにかく大好きな作品なのですが、私は月組公演を観てハマり、まさお(龍真咲さん)主演バージョンを2回、みりお(明日海りおさん)主演バージョンを1回観て、さらにDVDとCDを買い、CDを聴きまくって、ここ数年も変わらずにお気に入りとして聴いているので、まさお主演バージョンが基準。そのせいで、今回の公演も時折ついつい比較してしまい、多少物足りなく感じるところがあったので、観劇後すぐに月組のCDを聴きたくなり、帰ってきて聴き直しました。とはいえ、前回の星組再演よりはよかったと思います。星組の再演はまったく印象に残っていないので……「夢咲ねねのジュリエットは苦しいな」と思ったことぐらいしかおぼえていません。ロミオとジュリエットはもちろん、ティボルト、マーキューシオ、ベンヴォーリオ、ロレンス神父、乳母、キャピュレット夫妻、モンタギュー夫妻、ヴェローナ大公、パリス伯爵という、ソロやデュエットがある主要キャストのすべてがそれなりに歌えなければいい舞台にならない、実にハードルの高い演目で、その反面、だからこそトップスターや二番手以外にも見せ場があり活躍できる素晴らしい演目でもあるのですが、記憶にないということは、前回公演はその高いハードルをクリアするものではなかったのでしょう――何分おぼえていないので断言はできませんが。

 

 今回の星組は及第点だと思いますが、足りなかったものを端的に言えばドラマ性で、月組のほうが圧倒的にドラマティックでした。「芝居の月組」なので芝居も表現豊かですが、歌もドラマティック。そもそもトップスターのまさおが「まさお節」と言われたクセのある芝居がかった歌い方ですし。「僕は怖い」なんて、まさにまさお節炸裂で、「そう、友よ聞いてくれ~♪ 僕は見えるんだ~♪ 無頼と放蕩に明け暮れたその先に~♪ 待ち受ける何かは~♪」の「待ち受ける」とか、「君が爪弾くギターの音色~♪」の「君が爪弾く」とかのフレーズがやたら印象的です。一方、こっちゃんが歌うこの歌は、上手いのですが、まさおに比べるとあっさりしているなと思いました。月組の場合、他の組子もみんながみんな特別に上手いというわけではないのですが、かつての月組トップスターのウタコさん(剣幸さん)のように、芝居の歌としての表現に長けているのです。歌いながら芝居をしているというか、歌である前にまずメロディにのせたセリフであることを意識しているというか……。だから歌としてはやや粗雑な発声になったとしても、それも味のように思えて気になりません。ちゃぴ(愛希れいかさん)ジュリエットとかマギー(星条海斗さん)ベンヴォーリオとか、歌う前の芝居が熱いので、歌も勢い余ってという印象で、あくまで芝居の延長という感じ。それに比べて今回の星組は、こっちゃんをはじめ大事に丁寧に歌いすぎていて、歌を歌いこなすこと、上手く歌うことがまず重要という感じが強く、芝居っ気が薄いように思えました。まあ、一人でも歌が下手だなと思うところがあると、観る者はそこで不必要な引っかかりをおぼえてしまい、舞台全体が台無しになる作品なので、慎重にならざるを得ないとは思いますが。

 

 それと、月組バージョンはハーモニーがいいのが特徴。声質や歌い方がバラエティに富んでいるので、合唱したときの声の違いが明らかで、おもしろいようにハモります。じゅんこさん(英真なおきさん)のロレンス神父と美穂圭子さんの乳母は歌ウマの男役と娘役のデュエットなので言うまでもありませんが、このとき就任したばかりの新トップコンビだったまさおロミオとちゃぴジュリエットのハモリもいい。上手いとか下手とか以前に、まさおの歌もちゃぴの歌も大げさなくらい抑揚のある、存在感がある歌なので。

 

 高低差がある男役と娘役のハモリだけでなく、娘役同士、男役同士のハモリもよいのが、月組バージョンの特筆すべきところでもあります。今は宝塚ホテルの支配人である元月組組長のすーちゃんこと憧花ゆりのさんのキャピュレット夫人と、花瀬みずかさんのモンタギュー夫人の娘役同士のデュエットも素晴らしく、花瀬さんの正統派アルトの声にすーちゃんの個性的で独特な声がスパイスのようにきいている、本当に素敵なデュエット。特に花瀬さんはデュエット曲「憎しみ」の出だしである「あなた~たちの~♪」と、エンディング前の「罪びと」の出だしである「息子は帰ら~ない♪ どんなに嘆いても~♪」がすごくよくて、後者はイントロのリズムが始まると、続く歌がわかっていても泣けてきます。この月組の二人に比べると、今回同じ役を演じた娘役さんは歌にも声にも特徴がなく、二人の差もなくて、裏声に変わる高音の出し方もそっくりだったので、歌い手が変わっても変化に乏しく、デュエットの妙味がまったく感じられませんでした。一人一人はそこそこ歌えていましたが。

 

 男役同士は、月組の場合、まさおロミオとマギーベンヴォーリオ、みやるり(美弥るりかさん)マーキューシオのモンタギュー三人組も三者三様の声質なので、一緒に歌っても声が重ならず聴いていて心地よいです。深くて潤いのあるまさおの声、よく通る少々ビブラート気味のマギーの声、男役の中でも低めで一番男らしい(麗しい容姿に反して)みやるりの声……「世界の王」も「街に噂が」も大好きです。特に「街に噂が」はバックコーラス風のハーモーニーが聴きごたえ十分。まさおロミオとじゅんこロレンスの「愛の為に」もいいし。みやるりマーキューシオは、みりおティボルトと歌う「決闘」から「マーキューシオの死」も出色。みやるりの低音はいかにも喧嘩っ早いやんちゃ者らしく、みりおは歌声も役柄と同じく御曹司らしい上から目線のタカビーな貴公子然としていて、この同期デュエットも最高。マーキューシオの「奴は俺を昔から~♪」からの盛り上がりは特にスゴイです。つまり、それぞれの役の性格というか人柄が歌を聴いているだけで伝わってくるのです。その点が今回の星組には足りませんでした。歌そのものはほとんどがソツなく歌えていました。ベニー(紅ゆずるさん)がトップの頃を思えば、組全体の歌が進化していると思います。けれども、ディナーショーやガラコンサートならこれでいいかもしれないが……というレベルで、芝居を伴う歌“劇”としては物足りなかったです。ミュージカル化されて歌がプラスされているとはいえ、古今東西の人間の普遍的なテーマを描いて突きつけるシェイクスピア劇であることに変わりはなく、ロミジュリも単純明快ですが奥が深い物語なので。

 

 歌でも演技でもソツのないパフォーマンスというものは、プロとしてまず手始めに目指すべき目標で、初歩の初歩というか、ほんの第一段階にすぎません。ソツなくこなしているだけでは、観ているほうもおもしろくないものです。こっちゃんはダンス、歌、芝居と三拍子そろった実力者ですが、このあたりを今後の伸びしろと捉えて、組子と共にこれからも精進していってもらいたいですね。どこか昔のだいもん(望海風斗さん)と重なります。だいもんも三拍子そろった優等生でしたが、チギ(早霧せいなさん)やさき(彩風咲奈さん)に比べると個性が乏しく、こっちゃんと違って貫禄や安定感といったものはトップになる前からあったので舞台上で存在感がないということはなかったのですが、観劇後はあまり印象に残らない感じでした。けれども、トップになってからも成長し続けてその殻を破り、今では誰もが認める現宝塚随一のパフォーマーになりました。こっちゃんも現状で満足しなければ、十分その域に至れると思います。

 

 そんなこんなで全体的に物足りなくはあったのですが、今回の公演が一番よかったという役もありました。愛月ひかるさんが演じた「死」です。セリフがない役ですが、メリハリのあるしなやかな体の動きがもたらす見た目のインパクトや目力がすごくて、存在感がハンパなかった。ロミオより見ていたような気がします。自然と目に入ってくるので(笑)。こっちゃんロミオがいささか幼すぎて、「女たちは僕のことを追いかけてくる何もしなくても~♪」というほどモテモテの青年には見えなかったので、余計に「死」のほうに目が行っていたかもしれません。

 

 愛月さんの他には、乳母役の有沙瞳さんも頑張っていたと思います。伸びやかな声質で声量もありド迫力の美穂さんの歌には及びませんが、「やっぱり乳母役は美穂さんでなければ」とは思わなかったので。娘役トップスター候補だと思っていましたが……いつのまにか貫禄がついちゃいましたね。

 

 今回は演出としてイケコ(小池修一郎さん)と共に稲葉太地さんの名があったので、所々よりわかりやすく変化しているのは稲葉演出のせいかと思いましたが、明らかに説明的で、流れの勢いを殺している感じがして、演者に観る者を作品世界に引き込む力があれば不要なものというか、東宝版「エリザベート」でちゃぴ主演に至るまでに行われた改変と同じく蛇足のように思えました。

 

 以上、「ロミジュリ」愛が深すぎていろいろと書きましたが、印象が薄くてまったく記憶にない2013年星組公演に比べれば、本公演のほうが断然好みです。役作りが幼くはありましたが、2013年に主演したチエ(柚希礼音さん)よりもこっちゃんのほうがはるかにロミオは適役だと思いますし。ただ、優等生のこっちゃんが率いる現星組のカラーが出た、優等生的なロミジュリでしたね。それゆえ、その枠を超えた愛月さんのパフォーマンスが光って見えたのでしょう。この公演も役替わりがあり、今回観なかったAパターンでは愛月さんがティボルトを演じているので、もう一度東京で、今度はAパターンを観たいですね――愛月ティボルトは絶対にハマリ役だと思うので。残念ながらチケットが取れる気はしませんが。雪組の東京公演は平日のマチネがなんとか手配できました。来月、最後のだいきほを堪能してきます。

f:id:hanyu_ya:20210324005456j:plain大劇場で買ってきたお土産。荷物になるので開演前から終演まで買うかどうか悩みましたが購入しました。

f:id:hanyu_ya:20210324005533j:plainなんと大劇場限定販売のロミジュリ特別パッケージの「萩の月」6個入りです(笑)。東北に行ったら必ず買ってくる大好物なので、見つけた以上買わずに帰ることはできませんでした。こっちゃんがCMキャラクターをつとめています。

宝塚メモ~上田久美子と望海風斗による化学反応というか相乗効果がもたらした驚きのシンフォニー

 現在日比谷の東京宝塚劇場ではミュージカル「fff-フォルティッシッシモ-〜歓喜に歌え!〜」とレビュー「シルクロード~盗賊と宝石~」を上演中ですが、本公演は雪組トップスターのだいもんこと望海風斗さんのサヨナラ公演で、絶対に見逃したくなかったので、先月1日に宝塚まで遠征して観てきました。東京公演のチケットは激戦で、まったく取れる気がしなかったので……。だいもん率いる雪組は「ファントム」以後チケットが以前にも増して取りにくくなり、前作の「ONCE UPON A TIME IN AMERICA(ワンス アポン ア タイム イン アメリカ)」はチケットが手に入らなくて観られず、前々作の「壬生義士伝」は劇場まで行ったけどチケットを入れておいた財布を忘れて観られずという信じられないヘマをやらかして観劇できなかったので、久しぶりの雪組公演でした。

 

 で、感想ですが、いやもう、すごかったです、「fff」。何がすごいって、熱量がハンパなかった。開演10分で「何じゃこりゃ、宝塚まで来た甲斐があった!」と思い、観終わったときには、それなりによかったと思ったブロードウェイミュージカルをもとにした宙組公演が同じ宝塚の舞台とは思えないほど衝撃を受けていました。「宝塚もここまでできるんだ」という嬉しいショックです。ウエクミこと上田久美子さんの斬新な演出も、だいもんの強烈なパフォーマンスも、やってやろう、挑んでやろう、今までを越えてやろう、見たことがないものを見せてやろうという気概にあふれていました。

 

 ストーリーは取り立てて事件的なエピソードのない、ほぼ歴史どおりにベートーヴェンの一生を綴ったもので、彼がその生涯の中で出会った人間や出来事によって味わうことになった数々の苦悩や葛藤の果てに見い出した歓喜は、運命のすべてを受け入れるということだった――というような内容でした。多分に精神的抽象的観念的なテーマでしたが、終始徹底してそのテーマに沿って進むので、筋は通っていて破綻はありません。けれども、本当にとても難しい作品だと思いました。ある意味ものすごく哲学的なので、最後の歓喜の部分に観ている人が納得する説得力を持たせるためには、そこに至るまでベートーヴェンが辿ってきた具体的な過程とその折々の内面的な心情とその移り変わりをいかにわかりやすく描き出し表現するかが重要。例えればシェイクスピア劇に近い感じで、それに宝塚歌劇に求められる歌って踊るレビュー的な要素と華やかさを取り入れて見せなければならないのですから。そんな冒険的な作品を創ったウエクミさんも天晴れですが、その作品の主人公を演じきっただいもんも見事でした。ウエクミさんもだいもんが主役だから書いた、書けた作品だと思います。彼女の大劇場デビュー作である「星逢一夜」は雪組公演で、だいもんの技量は十分にわかっていたと思いますし。トップスターとして真ん中に立てるビジュアルと華、5組のトップスターで随一の歌唱力、花組で培ったダンス力、そしてシェイクスピアが演じられる演技力と存在感……これらを兼ね備えただいもんがいたからこそ生まれた作品だったと思います。しばらく再演は望めないでしょう。

f:id:hanyu_ya:20210314214826j:plain大劇場内の壁に飾られた、だいもんのポートレート(中央)

 

 「オーシャンズ11」のベネディクト役から注目しはじめただいもん。この公演でトップスターの蘭とむ(蘭寿とむさん)に次ぐ二番手になったかと思いきや、当時すでに月組の準トップだった同期のみりお(明日海りおさん)が同じ花組に異動してきて、一時期番手が下がり不遇な時もありましたが、その後雪組に異動してからは、よい二番手&トップスター時代だったのではないかと思います。みりおよりトップになるのは遅かったですが、確実にみりおより作品にも相手役にも恵まれましたから。みりおは相手役である花組娘役トップスターが3度替わり、コンビとしてがっぷり四つ組むということができなかったように思いますが、だいもんとコンビを組んだ雪組娘役トップスターの真彩希帆さんは、だいもんと同時にトップに就任し、今回添い遂げ退団で一緒に卒業。だいもんの歌唱力を活かすために選ばれた歌ウマさんで、「ファントム」など、この二人だからこそ興行的にも大成功した演目もありました。今回の「fff」もその一つだと思います。本公演で真彩さんが演じたのは人間ではなく、擬人化された“運命”でしたが、澄んだきれいな歌声が人ならぬ存在の雰囲気を醸し出し、“運命”として常にベートーヴェンに寄り添いつつ時に言い争い、次第に馴染んでいく様子には、コンビとしての熟成度を感じました。サヨナラ公演はコロナ禍に見舞われましたが、それでも作品に恵まれ、最後まで相手役に恵まれ、二人ともよいタカラジェンヌ人生だったのではないでしょうか。

 

 さあ、次のトップはいよいよさき(彩風咲奈さん)です。93期生の首席で、研3で新人公演主役を務めた逸材。下級生の頃から抜擢されて、一度の組替えもなく、一度も路線を外れず、雪組のトップになることを約束されて雪組で育てられた雪組の御曹司。あまりに早く抜擢され、黙っていても役が付くので、恵まれすぎているせいか、一時は成長が見られない時期もありました。しかし壮一帆早霧せいな、望海風斗という、その時々の5組の中にあって一番芸達者なトップスターたちを見て育ち、さらに彩凪翔という強力なライバルを与えられて切磋琢磨した結果、ひと皮もふた皮も剥けて、飛躍的な成長を遂げました。最初に驚いたのがチギ(早霧せいなさん)のサヨナラ公演の徳三郎役で、次は「ファントム」のキャリエール役。私が知らないだけで、もっとあったかもしれません。今回演じたナポレオン役も、現実のナポレオンとベートーヴェンが思い描くナポレオンのどちらも演じるという、実像と想像の産物を行き来する難しい役柄でしたが、まったく問題なくこなしていました。実像の時はナポレオンが持っていただろうカリスマ性や存在感をいかんなく発揮し、想像の産物の時はだいもんベートーヴェンと真っ向から対峙する役で、熱量豊富なだいもん相手にまったく引けを取りませんでしたから。元来さきの演技にはインパクトがあり、「ひかりふる路」のダントン役の時にも、だいもんロベスピエールを食ってしまいそうな勢いでしたが、最近はキャリエールのような抑えた役も巧くなり違和感がなく板についてきたので、メリハリがあってとてもよいと思います。だいもんがここまで吹っ切れた芝居ができるようになったのは、さきのおかげだと思います。以前は無難すぎて、安定感はあるけれど少々面白味に欠けるという面が無きにしも非ず――という感じだったので。

 

 最後に、トップコンビと共にこの公演で退団するナギショー(彩凪翔さん)について触れておきたいと思います。雪組における彼女の功績は本当に大きいと思っています。彼女の存在は彩風咲奈を成長させ、その結果、望海風斗をも成長させました。

 

 絶対的なトップスター候補である彩風咲奈が1学年下にいて、彼女を奮起させ花開かせるために、彼女の闘争心を刺激する存在としてナギショーは爆上げされているように見えたので、本人はそれをどう感じているのだろうと思っていたことがありました――逆にこの機を利用してトップ候補に躍り出てやると思っているのだろうか等々……。余計なお世話ですし、杞憂だったかもしれませんが。そんなことが感じられてから、さきと共に注目して見るようになりました。以降、眼福という、男装の麗人を目で愉しむのが男役をメインとする宝塚の大きな楽しみの一つですが、私にとって雪組でその役割を担っていたのがナギショーでした。昔から雪組はどちらかというとビジュアル重視というよりは安定感のある実力派気質の組で、それゆえ一方では地味だとか華がないといわれることもありました。その華の部分を長らく背負っていたのがナギショーだったと思います。和洋問わず何のコスチュームを着ても美しく、しかも品のある美しさで、実に見甲斐がありました。みりおもカレー(柚香光さん)も綺麗ですが、ナギショーの美しさからは理知的なものを感じます。それゆえ今回演じたゲーテも、ナギショーだったから詩人という芸術家の身分がストンときました。しかも芸術家であると同時に政治家でもあるという、クリエイティブで情熱的な面と怜悧で理性的な面を併せ持つ二面性のある人間としてベートーヴェンを諭す言葉にも説得力を感じました。ショーでは、端整な黒燕尾姿もこれで見納めかと思うとうるっときて、チャイニーズマフィアの彩彩コンビのダンスでは二人のこれまでが思い出され泣けてしまいました。ショーで泣けたのは、まさお(龍真咲さん)とみりおのデュエダン以来ですね。

 

 ちなみに、ショーの音楽は菅野よう子さんが担当。菅野さんといえば、私の好きなSMAPの「gift」の作曲者なので、公演前から大いに気になっていたのですが、いい音楽すぎて、最初のうちは音楽ばかりに気を取られて、だいもん他雪組生のパフォーマンスに集中できなかったので、BGMとしてはいかがなものかと思いました。けれども、次第に溶け合っていき、途中からは音楽が特徴的で適度に主張しているおかげで、ダンスなどのジェンヌたちの動きがその音に合わせて振り付けられていること――ちゃんと合っていることがよくわかっておもしろく、音楽と身体の動きのハーモニーのようなものが感じられたので、よかったです。

 

 次は星組。「エリザベート」の次に好きな「ロミオとジュリエット」なので、こちらも絶対に見逃したくないと思い、再び宝塚まで行くことにしました。今月下旬の遠征なので、31日までの会期で、20日から大感謝キャンペーンが始まるびわ湖大津光秀大博覧会にでも寄ってこようかと思っています。

「麒麟がくる」総評~戦国時代を舞台に、戦国時代の人間ではなく、いつの時代にも通じる普遍的な人間の姿を描いたドラマ

 年をまたいだNHK大河ドラマ麒麟がくる」 は、今月7日に最終回を迎え、23日の天皇誕生日の休日には総集編が放送されました。一気に全4話、4時間半にわたるオンエアでしたが、こちらもおもしろかったですね。2話と3話のあいだに挟まれたニュース以外は、根が生えたようにテレビの前に座り、食い入るように見ていました。本編を欠かさず見て、本放送を見ているのに再放送まで見るほどハマった大河ドラマなんて初めてだったので。

 

 群雄が割拠し、下剋上があたりまえとなった戦国時代は、昨日の味方が明日は敵となる時代で、家臣が離反して寝返ることなど日常茶飯事であり、主君を売ったり討ったりも頻繁にあることで別に珍しくもなく、それゆえ本能寺の変を起こした明智光秀に対しても、もともと悪印象はありませんでした。それどころか、彼も後世の執政者の都合で世間的なイメージを操作されて、さも悪逆非道の謀反人であるかのように伝えられてきたのだろうと思っていました――菅原道真大石内蔵助を正当化してよく見せるために悪人に仕立てられた藤原時平吉良上野介のように。歴史は政争で生き残った勝者のものなので……。具体的には豊臣秀吉徳川幕府によって貶められたのだろうと思っています。主君の敵討ちを名目に光秀を討った秀吉は光秀を悪者にして自分の行為を正当化しなければならなかったし、徳川幕府は徳川政権下の幕藩体制を盤石にするために、謀反の芽は徹底して摘み取らねばならず、家臣が主君に叛いて自害に追い込んだ本能寺の変および、この事変を起こした明智光秀という武将を肯定することはできませんでした。徳川家康ではなく、徳川幕府というシステムを作った者たちが、システムを守るために、既存のシステムを破壊した光秀を擁護するわけにはいかず、悪人にせざるを得なかったのだと思います。

 

 ということで、特に好きでも嫌いでもなかった明智光秀ですが、光秀が主役ということで、学校で教わり一般的に知られている歴史とは違う目線で描かれる歴史に興味があったので、初回から視聴。すると、光秀が思っていた以上にイイヒトだったので、本当にそうだったのか調べてみたくなりました。で、いまだに現在進行形というわけです(笑)。1回2回と見れば、役者さんたちの芝居が素晴らしく、映像的にも美しいシーンが多かったので、あっという間に引き込まれて、あとは飽きることなく見続けられました。けっこうな頻度で登場する歴史上の人物ではないオリジナルキャラクターについては賛否両論がありましたが、緊迫した場面が続くと疲れるので、あれはあれでよかったと思います。彼らの場面を箸休めと取るか間延びと取るかは個人の差であり、ドラマを見ているのは歴史オタクだけでなく、歴史に詳しくない視聴者も意識しなければならないので。大河ドラマならターゲットは老若男女となり、幅広い層に受け入れられるものであることが求められますから。

 

 登場人物の造形は、織田信長に関しては多少違和感がありましたが、豊臣秀吉細川藤孝に関しては、えらく腑に落ち、程度の差はあれ、実際もあんなものだっただろうと思いました。

 

 秀吉は、身分にとらわれずに能力で人を引き立てる信長のことは自分が出世するために必要な道具と思っていて、主君にも将軍にも天皇にも心の内では敬意を払っていなかったと思います。取り立ててくれた主君である信長には、感謝はしていたと思いますが。

 

 一方の藤孝は、戦乱の世に家名を絶えさせないことが名門細川家に養子に入った彼の至上命題だったのだと思います。そして、そのために盟友である光秀を見捨て、その結果明智家は滅びて家名が絶えてしまったことに対し罪悪感があったからこそ、せめて光秀の血を存続させるために、光秀の三女で息子忠興の嫁となっていた玉を幽閉という形で俗世から隔離して謀反人の娘として見る世間の冷たい目から守り、さらに玉が生んだ子――忠利に細川家の家督を継がせたのでしょう。関ヶ原の戦い大坂の陣を生き抜いて細川家を太平の世まで守り抜いた藤孝と忠興。忠利は忠興の三男で、家督を継ぐときにはすでに生母である玉は亡く、本来後ろ盾になるはずの外祖父光秀は故人であるばかりか天下の謀反人で、しかも父忠興は正室の玉亡きあと妻を何人か娶り、腹違いの弟も生まれていました。それでも、その妻たちを正室が失われたあとの正室である継室とはせずに、玉を唯一の正室と位置付けたまま、彼女の所生である忠利に家督が譲られたことに、藤孝・忠興父子の執念のようなものが感じられます。光秀の血を細川家当主の血筋に残すことが多少なりとも光秀に対する罪滅ぼし――という気持ちがあったのではないでしょうか。そうして結果的に今の天皇家に至るまで自分たちの血が続いているのだから、死者の霊魂に生前と同じ心があるのなら、光秀も玉も喜んで、細川家に感謝しているのではないかと思います。

 

 信長は少々承認欲求が強すぎましたね。染谷さんはよい演技をしていましたし、ドラマとしてはおもしろい性格設定でしたが。とはいえ、私が思い描く歴史上の信長と比べると承認欲求が強すぎて違和感がある――というだけで、ドラマの登場人物としては魅力的だし、もしかしたら実際の信長もこのような人物だったかもしれません。いま生きていて彼に会ったことがあり本物の織田信長を知る人間はいないのですから、それについては違うと否定もできず、永遠にわからないことです。

 

 しかしながら、てっぺんに一人で立つ人間の、誰とも感覚を共有できない孤独感というものは、実際になってみなければ本当の気持ちはわからずとも想像はできるし、誰かに止めてもらわなければ止まらない――したがって終わりが来ないという辛さや恐怖はよくわかります。それを染谷信長は本当に巧く表現していました。「どうしてこうなる」だったか「なんでこうなる」だったか忘れましたが、そのセリフに自分の思いと現状が乖離してままならなず、苦しんでいる信長の心が凝縮されていました――言葉のみならず、その口調にも。本能寺の変で自分を襲っているのが光秀の軍勢だと知ったとき、染谷信長は本当に嬉しそうでした。「大きな国を作らなければ」と言い続けて、死んではならないといつも自分をかばい、自分に止まることを許さず、自分を走らせてきた長谷川十兵衛光秀が「もう走らなくてよい」「止まっていいのだ」と言っているのです。これでようやく解放される気がした――ということなのでしょう。しかも、けっして見放されたわけではなく、光秀は一生主殺しの謀反人という不名誉な汚名を着る覚悟の上で――信長のために自らも大きな代償を払うことを選び、その上で止めてくれるのです。それは嬉しかったと思います。

 

 “麒麟がくる世をつくる”という使命感に囚われて、その理想に向かって一途に進み、それが正義であり戦続きの世に疲れた皆にとってもよいことだと思い込み、やや周りが見えていない感じの十兵衛光秀は、そんな信長の心情も見えていなくて気づけずに理解していませんでしたが、大きな決断をして、それに向けて走り出し、多くの他人を巻き込んで世の中を動かしてしまったら、自分ではおいそれとは止められないものです。それに、現代のコロナ禍にあっても、苦しんでいる人もいれば、私のようにこの状況下で制限がある中でも可能な範囲でそれなりに楽しんでいる人もいて、この機に次のステップに向かったり、世界が変わった今こそチャンスと捉えてステップアップしたりする人もいます。戦国の世を舞台に展開した「麒麟がくる」でいえば、好機と捉えているのが羽柴秀吉であり、それなりに楽しんでいるのが今井宗久でしょう。最近よく多様性とか多様化という言葉を耳にしますが、もともと人間は千差万別で、立場が変われば思いも変わり、同じものに対する見方や考え方も変わります――ドラマの中でも宗久が光秀に似たようなことを言っていましたが。つまり人それぞれにそれぞれの価値観があり、人によって違うわけです。それゆえ苦難として括られるものの万事が万事、万民にとって悪いというわけではありません。誰かのよいことが誰かにとっては悪いことになるように、誰かの悪いことは誰かのよいことだったりするのはあたりまえで。そもそも利害というものは完全には一致しないのが普通です。価値観の違い以外にも要因は様々に存在するので。しかし完全に一致はしませんが、丹念に探せば部分的に一致することはあるため、それを見い出し、互いが納得する妥協点を探ることが肝要だと思っています。

 

 実は「麒麟がくる」で一番ツボにはまったのは、坂玉サマこと坂東玉三郎さんが演じた正親町天皇でした。坂玉サマの芸や芸に対する姿勢が昔から好きで、坂玉サマが監修しているというだけで、お披露目でもサヨナラ公演でもないのに宝塚まで観に行くほどですから。ということで、今回大河ドラマでその芸の一端を見られるだけでも嬉しかったのですが、さらに演じるのが正親町天皇だったので、出演が決まったときから楽しみにしていました。というのも、正親町天皇とか後陽成天皇とか後水尾天皇は、武士が天下取りの争いを繰り広げる世で、天子としての誇りと存在意義を失わないように苦労したに違いない天皇なので。そのあたりをどう表現するのか興味津々だったのですが、さすがは人間国宝、まったく問題なし。信長には蘭奢待の切り取りを許し、信長から贈られてきた蘭奢待の一部は信長と敵対する毛利に下賜するなど、対立する勢力のどちらにも手を差し伸べつつ、最終的にはどちらの味方もせず成り行きを見守るだけで特に逡巡もしないというスタンスは本当に天皇らしく、他を寄せ付けない坂玉サマの別格の端正さとあいまって、信長とはまた違った意味での孤高の存在が見事に表現されていて、たいそうしびれました。

 

 そうなのです。武家が主流の時代にあって天皇は、ただ見守るだけの存在なのです。公家が口を出し首を突っ込んでも、天皇は見守るだけ。誰が勝ってもいいように、誰の世になっても天皇でいられるように……。そうして常に中立を保つことで皇統を守り、繋いでいったのです。細川家以上に天皇家には家や血筋を絶やしてはならないという呪縛がありましたから。なので、たとえ窮地に陥った十兵衛を救えても救わないし、天皇自身が救いたくても救わない。けっして心が冷たいわけではないのです。誰にも肩入れしない、誰の味方にもならない――それがまさしく千年以上続いてきた王家を背負っている者の処世術で、帝としてあるべき姿なのです。

 

 「麒麟がくる」がおもしろかったのは、人間の本質が描かれていたからだと思います。脚本家の池端さんがどこまで意図していたかはわかりませんが。現代人にも共感できる感情や心の動きを描くと同時に、戦国時代という背景を借りて、時代や立場、育った環境で変わる、現代人の多くは共感をおぼえにくい部分も描き出しました。理想と現実のギャップに心身をすり減らして病んでいく光秀、幼い頃に母親に愛されなかったというトラウマを抱えて、褒められたい、認められたいという激しい承認欲求を持ち、嫉妬や孤独で病んでいく信長、そして心が病んでいく者同士で相手を思いやる余裕がなくなってすれ違っていき修復できなくなる悲しい人間関係――彼らが見せたのは今も昔も変わらぬもので、われわれ現代人にも通じるものです。

 

 その一方で、滅私といってもよい強靭な精神による冷静な判断で自分の心より家の存続を優先する選択をし実行する藤孝や正親町天皇は、現代人にはあまり共感できないかもしれませんが、けれども戦国時代であれば至極真っ当な思考と行動です。武士の世に農民に生まれて虐げられてきたために人一倍出世欲が強く、出世のためには手段を選ばない秀吉の生き方も、あの時代と育った環境ならではのもの――といえるかもしれません。

 

 つまり「麒麟がくる」は単純に戦国時代の人々を描いた群像劇ではなく、戦国時代を舞台にして、時代の影響を色濃く受けた、現代人には共感できない部分と対比させつつ、いつの世も共感できる普遍的な人間性を描き出すドラマだったのだと思います。よって純粋な歴史物語を求めていた視聴者には物足りなく期待外れだったかもしれません。しかし歴史を綴ったり迫力のある合戦を再現して見せたりすることは、このドラマにはさして重要ではなかったのではないでしょうか。状況が許せば従来の時代劇のように派手な合戦シーンを入れたかった作り手側のスタッフも中にはいたかもしれませんが。それゆえコロナ禍でロケができなくても大筋には関係なく、それほど問題ではなかったのだと思います。

 

 いずれにしろ、そんな思いが十分に伝わってきて、上記のようなことを考えさせられた出演者の熱演に、本当に感謝したいです。一年余楽しませてくれてありがとう。世界的なパンデミックという苦しい中、本当にお疲れ様でした。続く今作「青天に衝け」の初回20%越えの視聴率は、個人的には前作「麒麟がくる」の影響だと思っています。「麒麟がくる」を見て大河ドラマのおもしろさを再認識し、見直した視聴者が次の作品にも期待したからではないでしょうか。なので、2回目が3%落ちたのは妥当だと思います。もともと明智光秀に比べてもネームバリューが低い渋沢栄一という主人公と、現代に近すぎて江戸時代以前に比べるとごまかしがきかない近代という時代設定が難しいので。よって「麒麟がくる」の出来に匹敵するのはかなりハードルが高いような気がしますが、最後まで見続けられるドラマになるとよいと思っています。

福井神社遠征~気比神宮(付・御上神社、白髭神社、天孫神社、甲斐一宮浅間神社、酒折宮の起源について)

 神社遠征であり、かつ明智光秀探訪13でもある遠征記の続きですが、赤レンガ倉庫の次に行った気比神宮に関する記事は、光秀とは関係がない上に、長くなること間違いなしだったので、分けることにしました。

 

 越前一宮である気比神宮は、名神大社であり旧官幣大社、北陸でも随一といってよい神社です――規模においても歴史においても。現祭神は伊奢沙別命仲哀天皇神功皇后日本武尊応神天皇、玉姫命、武内宿禰命の七柱ですが、元々は伊奢沙別命だけで、大宝2年(702)に仲哀天皇神功皇后を本殿に合祀し、その周囲に日本武尊応神天皇、玉姫命、武内宿禰命が配祀されました。

f:id:hanyu_ya:20210225114630j:plain気比神宮の大鳥居

f:id:hanyu_ya:20210225114724j:plain大鳥居についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210225130147j:plain気比神宮の沿革についての説明板

 

 主祭神伊奢沙別命は「筍飯大神」とも呼ばれるので、その正体は『ホツマツタヱ』に「ケヰノカミ」の神名で登場するヒコホオデミ――ということになります。ケヰノカミ=筍飯の神=気比の神なので。つまり当宮は、初代神武天皇の祖父である十一代天君を祀った聖地なのです。

 

 『ホツマ』によると、ヒコホオデミの父である十代天君ニニキネが九州巡幸のためにアワウミのミズホノミヤを留守にすることになると、代わりにハラアサマノミヤにいた長兄のムメヒト(ホノアカリ)がミズホノミヤに入り、ウカワノミヤにいた次兄のサクラギ(ホノススミ)と、オオツシノミヤにいたウツキネ(ヒコホオデミ)はキタノツで政務を執るように命じられました。「アワウミ」は漢字で表すと「淡海」――つまり湖のことで、すなわち琵琶湖のことです。古代に知られていた淡海は二つあり、「遠つ淡海」である浜名湖に対して琵琶湖は「近つ淡海」と呼ばれたので、琵琶湖周辺を「近江」の国といい、浜名湖周辺は「遠江」の国と呼ばれるようになりました。

 

 ミズホノミヤとハラアサマミヤについては説明が長くなるので後に回しますが、ウカワノミヤとオオツシノミヤはいずれも近江の国の琵琶湖沿岸にあった宮で、「ウカワノミヤ」は漢字で表せば「鵜川宮」なので高島市“鵜川”にある白髭神社、「オオツシノミヤ」は漢字で表せば「大津四宮」なので、かつて大津市“四の宮”町にあり、そこから遷座したあとも四宮神社と呼ばれる天孫神社の起源です。天孫神社の祭神は彦火々出見命なので、その正体は紛れもなく彦火々出見=ヒコホオデミですが、白髭神社の祭神である白髭大明神は、現在は猿田彦命のこととされています。しかし『ホツマ』で「シラヒゲカミ」と呼ばれているのはホノススミであり、シラヒゲカミ=白髭神で、当然のことながら白髭神社は白髭神の社なので、元々はホノススミだったと思われます。とはいうものの、アマテルが天君の時に、孫のニニキネは全国行脚をし、その時にタカシマでサルタヒコと出会い、サルタヒコはニニキネをウカワカリヤに招いて饗応しているので、白髭神とはホノススミのことですが、サルタヒコが白髭神社に祀られていても何らおかしくはありません。「タカシマ」を漢字で表せば高島市の「高島」で、「ウカワカリヤ」は「鵜川仮屋」――つまり、のちの鵜川宮なので。

 

 さて、父から「キタノツニイキテオサメヨ イササワケアレバムツメヨ(北の津に行きて治めよ イササワケあれば睦めよ)」と言われたホノススミとヒコホオデミでしたが、海幸彦とも呼ばれたホノススミの釣り針を山幸彦とも呼ばれたヒコホオデミが失くしたことから、ニニキネが懸念していた「イササワケ」が起こってしまいました。兄弟は睦めず、山幸彦ことヒコホオデミは途方に暮れて、失くした釣り針を探しに海を越えて九州まで行く羽目になりました。「イササワケ」の「ワケ」を漢字で表せば「別」なので、「イササワケ」とは“些細な決別”といった意味で、「イササ」が転じて「いささか」という言葉になったのかもしれません。そして共同統治者であるホノススミとヒコホオデミのあいだで些細な決別が生じた宮だから、キタノツの宮は「イササワケミヤ」と呼ばれるようになったのでしょう。よって「イササワケミヤ」を漢字で表せば「些別宮」がふさわしいような気もしますが、わかりにくいので、祭神である伊奢沙別命と同じ漢字を使い、「伊奢沙別宮」としておきます。「イササワケミヤ」の呼称が先で、「イササワケミヤ」に葬られて祀られたから“イササワケミヤの祭神”という意味でヒコホオデミが「イササワケノミコト」と呼ばれるようになったのだと思いますが。ちなみに「キタノツ」は、漢字で表せば「北の津」で、“北の船着き場”という意味なので、当時都があった近江から見て北に位置し、日本海の玄関口となっていた、現在の敦賀のことになります。

 

 ところが、この諍いが転機となって、ヒコホオデミの運命が変わりました。九州に渡るとトヨタマヒメと出会い、二人は結ばれ、ヒコホオデミはトヨタマヒメの父――九州の国君であるハデツミ(住吉神カナサキの孫)の婿となって執政に携わり、筑紫を治めるツクシヲキミ=筑紫大君に任じられました。そして為政者としての実績を認められて、のちには二人の兄を差し置いて父の跡を継ぎ、十一代天君となりました。その後は近江に戻ってミズホノミヤで政務を執り、譲位後にかつての宮である大津四ノ宮に移って崩御しましたが、遺言で伊奢沙別宮に葬られました。海幸彦である兄の大事な釣り針を失くして困り果てていたときにシホツチに出会って九州に導かれ、釣り針を見つけることができ、以後トントン拍子に運が開けたからです。すなわち気比神宮は、十一代天君の葬地が起源という、神代史上きわめて重要な聖地ということになります。ちなみに、七代天君イザナギから十二代天君ウガヤフキアワセズまでの鎮座地は次のとおり。

 

 イサナギ      =伊弉諾神宮(葬地)

 アマテル      =籠神社(葬地)

            ➡伊勢神宮

 オシホミミ     =箱根神社(葬地)

            ➡英彦山神宮

 ニニキネ      =霧島神宮(葬地)

            ➡賀茂別雷神社

 ヒコホオデミ    =気比神宮(葬地)

 ウガヤフキアワセズ =宮崎神宮(葬地)

            ➡賀茂御祖神社

 

 基本的に遷座は、都から遠いと祭祀を行うのが不便なので行われたのだと思いますが、オシホミミを祀った英彦山神社は、ニニキネが九州巡幸中に父神の祭祀を行うために英彦山に分霊したのが起源かもしれません。

 

 気比神宮から話は逸れますが、せっかくなので、ここで「ミズホノミヤ」と「ハラアサマミヤ」についても触れておきたいと思います。

 

 まずニニキネがいた「ミズホノミヤ」については、『古事記』によると、九代開化天皇の第三皇子である彦坐王が近つ淡海の御上祝が信奉する天御影神の娘――息長水依比売を娶って生んだ子に“水穂”之真若王という人物がいて、彼は「近淡海の安直(やすのあたい)の祖」とのことなので、同じく「近淡海」こと近江の国に存在した「ミズホノミヤ」を漢字で表せば、ミズホ=水穂で「水穂宮」ということになります。よって、天之御影命を祭神とする御上神社の起源と考えるのが妥当です。アマテルの姉であり妹であるヒルコがアマテルの日嗣の御子で甥にあたるオシホミミを育てた「アメヤスカワ」の宮もおそらくここで、ヒルコが亡くなり、その夫であるオモイカネが信州の阿智に隠居すると、オシホミミの子であるニニキネが天君にふさわしい宮として改築したのだと思います。「アメヤスカワ」を漢字で表せば「天安河」で、水穂之真若王の子孫は天“安”河の近辺を本拠地とした豪族だったため“安”直を名乗り、のちに「安河」は「野洲川」に変化したのでしょう。それゆえ御上神社は、本殿の祭神である天之御影命の他に、ニニキネを「瓊瓊杵命」の祭神名で摂社の三宮神社に祀り、ヒルコを「天照大神」の祭神名で大神宮社に祀っているのだと思います。三宮神社は「三宮」という社名なので、元々の祭神はニニキネではなく、父ニニキネと同様に水穂宮で天君として世を治めた、ニニキネの三男であるヒコホオデミだったのかもしれません。なお、御上神社近江富士と呼ばれる三上山を御神体として祀る神社なので、水穂宮に関してはヤスカワ=野洲川の川沿いではなく、三上山にあった可能性もあります。

 

 次に「ハラアサマノミヤ」ですが、『ホツマ』によれば、ワカヒトの諱を持つアマテルが生まれた宮は「ハラミノミヤ」といい、母イサナミが孕んだ宮だからその名が付いたとのことなので、ならば漢字で表せば「孕みの宮」ということになります。また「イミナワカヒト ウブミヤハ ハラミサカオリ」という記述があるので、ウブミヤ=産宮である孕みの宮は「ハラミサカオリ」であることがわかります。サカオリの孕みの宮は、アマテルの孫であるニニキネの時代には単純に「サカオリノミヤ」と呼ばれていたようで、さらに「キミ サカオリノ ツクルナモ ハラアサマミヤ」という記述もあるため、ニニキネがサカオリにハラアサマミヤを建てたことがわかります。サカオリノミヤをハラアサマミヤに建て替えたのか、サカオリノミヤがあるサカオリという地域に新たにハラアサマミヤを建てたのかはわかりませんが、前者であれば「サカオリノミヤ」を漢字で表すと「酒折宮」なので甲府市酒折”にある酒折宮、後者であれば「ハラアサマミヤ」を漢字で表すと「孕浅間宮」なので、笛吹市一宮町にある甲斐一宮の浅間神社ということになります。浅間神社は水穂宮の跡と想定される近江の御上神社と同じく名神大社(ただし論社)であり旧官幣中社という高い社格なので、こちらが天君の宮跡である可能性が高いと思います。

 

 浅間神社の現祭神は木花開耶姫命木花開耶姫コノハナサクヤヒメで、ニニキネとのあいだにホノアカリ、ホノススミ、ヒコホオデミの三つ子の兄弟を生み、ニニキネが天君となって近江の水穂宮に移ったあとは長男のホノアカリが甲斐の孕浅間宮を任され、ハラヲキミ=孕大君として酒折を支配したので、息子と共にこの地に残り、おそらく孕浅間宮で亡くなって、浅間山に葬られました。よって「アサマノカミ」と呼ばれ、孕浅間宮で乳母任せではなく自分で乳をやって三人の子を育てたので「コヤスカミ」とも呼ばれました。漢字で表せば、アサマノカミ=浅間神、コヤスカミ=子安神で、浅間神の社だから浅間神社という社名になり、子安神の社であれば子安神社となります。

 

 『ホツマ』によると、コノハナサクヤヒメはたった一夜の契りで天孫ニニキネの子を孕んだので、妹を妬んだ姉の讒言もあり、ニニキネに本当に自分の子かと疑われ、天孫の子であることを証明するために、月満ちて出産の時を迎えると、「お腹の子が天孫の種でないのなら、ともに滅びよう」と言って、産屋の柴垣に火を点けました。姫は助け出されて、子供も無事に生まれましたが、だんだん勢いを増していく火の中で生まれたので、ホノアカリ=火の明り、ホノススミ=火の進み、ホオデミ=火火出見と名付けられました。火中という過酷な状況であっても無事に生まれたことによって、コノハナサクヤヒメの思惑どおり、子供たちはただ人の子ではなく神の子と証明され、ニニキネは己の子であることを認めましたが、姫は自分を疑った彼を恨み、実家に帰ってしまいました。ニニキネが迎えにきたので従いましたが、その時の遺恨が残っていたのか、夫が水穂宮に遷都するときには息子に譲られた孕浅間宮に残りました。

 

 時代が下ると、火を制し、火の中で無事に新しい命を生み出したコノハナサクヤヒメは火山の神に擬せられ、神の怒りである噴火を鎮めるために、各地に浅間神を祀る浅間神社が建てられました。今は休火山である富士山も例外ではなく、7代孝霊天皇の時代に起こった大噴火を機に11代垂仁天皇が富士山の山霊を鎮めるために建てたのが、コノハナサクヤヒメこと「木花之佐久夜毘売命」を祭神とする社――駿河一宮で旧官幣大社の富士山本宮浅間神社です。

 

 酒折宮についても述べておくと、現祭神は日本武尊で、記紀によれば、12代景行天皇の皇子である日本武尊が東征の帰りにこの宮に立ち寄ったときに「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と片歌で家臣に問いかけたところ答える者がなかったのですが、その様子を見て身分の低い火焚きの者が「日々(かか)なべて夜には九夜日には十日を」と応じたので、日本武尊はその者の機知を称えて、宮を発つときに「吾、行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言って、甲斐国造の塩海足尼に、かつて自分の命を救った火打ち袋を授けました。それを塩海足尼が御神体として祀ったのが酒折宮の神社としての起源で、それゆえ当宮の祭神は、酒折で生まれたアマテルでも酒折で政務を執ったニニキネでもホノアカリでもなく、日本武尊なのです。

 

 ちなみに、御神体となった火打ち袋は、東征に赴く前に日本武尊が叔母である伊勢斎宮の倭姫から剣と一緒に授かったもので、東国に向かう途中、駿河国で襲われて、敵の放った野火に囲まれ絶体絶命の時に、剣で草を薙ぎ払い、火打ち石で向い火を起こして敵を食い止め、窮地を脱することができました。ゆえに剣は、かつてソサノヲがヤマタノオロチ退治の時に得たものでアマテルに献上されて「天叢雲剣」と呼ばれていましたが、以後「草薙剣」と呼ばれるようになり、焼かれた土地は「焼津」、日本武尊が草を薙ぎ払った土地は「草薙」と呼ばれるようになりました。敦賀もそうですが、古い地名には土地の歴史に通じる語源があるので、憶えにくい読みにくいなどの理由でむやみやたらと変えずに、残してほしいと思います。

 

 いろいろ脱線して話が長くなりましたが、上記の考察は前回気比神宮を訪れる前には終えていたので、今回は時間が許す範囲内での滞在。気になる摂末社も多い神社なので40分ぐらいはいましたが、2時間以上いた初回に比べれば短いものです。

 

 ということで、バスを降りると、まず拝殿に行き、お参りのあと社務所に寄って、御朱印と由緒略記をいただきました。御朱印は初めて来たときにもいただいたのですが、ずいぶん前のことなので。

f:id:hanyu_ya:20210225220505j:plain最初にいただいた御朱印(向かって左)と今回いただいた御朱印。神紋が追加されて、「越前国一宮」の印が変わっています。

 

 続いて、拝殿の西に位置する九社之宮と神明両宮を参拝。神明両宮は天照大神豊受大神を祭神とし、九社之宮は伊佐々別神社、擬領神社、天伊弉奈彦神社、天伊弉奈姫神社、天利劔神社、鏡神社、林神社、金神社、劔神社という九つの摂末社で、各祭神は次のとおり。

 

 伊佐々別神社(摂社)……御食津大神荒魂神

 擬領神社(末社)…………武功狭日命

 天伊弉奈彦神社(摂社)…天伊弉奈彦大神

 天伊弉奈姫神社(摂社)…天比女若御子大神

 天利劔神社(摂社)………天利劔大神

 鏡神社(末社)……………国常立尊

 林神社末社)……………林山姫神

 金神社(末社)……………素戔嗚尊

 劔神社末社)……………姫大神

 

 説明板によれば、天伊弉奈彦神社、天伊弉奈姫神社、天利劔神社式内社で、林神社は比叡山に祀らている気比明神の本社、金神社は高野山に祀られている気比明神の本社とのことです。

f:id:hanyu_ya:20210225220657j:plain九社之宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210225220810j:plain伊佐々別神社(向かって左)と擬領神社。後ろに見える建物は御守り授与所。

f:id:hanyu_ya:20210225220857j:plain天伊弉奈彦神社から劔神社までの七つの摂末社と拝殿(向かって右の切れている建物)

 

 九社のうち七つは正面が拝殿に向かっている東向きですが、御食津大神こと気比大神の荒魂を祭神とする伊佐々別神社と、この地域を治めていた角鹿国造の祖である武功狭日命を祭神とする擬領神社だけは北向きで、本殿の西側に本殿と並ぶように建っている南向きの神明両宮と向かい合う形で鎮座しています。実に意味深です。おそらく、この二社と神明両宮で三つの摂社と四つの末社を監視する役目を担っているのだと思います。つまり他の七つの社には監視が必要な神――気比大神の関係者が祀られているということです。そして、監視が必要な神とは祟る(と思われている)神に他なりません。気比神宮の場合もあてはまるかはわかりませんが。

 

 その後まだ時間があったので、伊奢沙別命の降臨地と伝わる土公、角鹿神社、兒宮、大神下前神社を順に参拝。角鹿神社と大神下前神社も式内社です。

 

 土公は磐境――つまり巨石の磐座と同じで、神社建築文化が始まる前の古代祭祀の跡だそうなので、社殿が建てられる以前はここで祭祀を行っていたのでしょう。――であるならば、この位置から司祭が拝み奉ったのは、どう考えても目の前に見える天筒山なので、伊奢沙別命ことヒコホオデミが葬られたのは天筒山で、伊奢沙別宮が存在したのも天筒山だったと思われます。その頃は縄文海進で現代より海が最大で5メートルぐらい高く、したがって現在海抜5メートル以下の低い場所は海の底で、宮を建てることはできませんから。というわけで、こんなに古くから聖地だったのですから、天筒山とは稜線続きの金ヶ崎山に円墳があっても何ら不思議ではありません。古墳文化は神代よりも後の時代なので。

f:id:hanyu_ya:20210225214627j:plain土公(向かって左)と天筒山。ここから見ると実に端正で、明らかに神奈備山です。

f:id:hanyu_ya:20210225214545j:plain土公についての石碑

 

 摂社である角鹿神社の祭神は都怒我阿羅斯等命。説明板によれば、朝鮮半島にあった任那の皇子で、10代崇神天皇の時代に気比の浦に上陸したとのこと。そして天皇に貢物を賜ったので、崇神天皇は彼を気比宮の司祭に任じて、この地域の政治を任せました。その政所の跡に彼を祀ったのが当社の起源だそうです。社名の「角鹿」は「つぬが」と読み、「つぬが」が転じて「つるが」となり、この地の地名となりました。すなわち敦賀の語源です。

f:id:hanyu_ya:20210225214300j:plain角鹿神社、兒宮、大神下前神社についての説明板

 

 末社の兒宮の祭神は、説明板によれば伊弉冉尊ですが、社名から判断すると、どうも違うような気がします。角鹿神社の隣に“兒”宮の名で祀っているからには、都怒我阿羅斯等命の子か子孫が祭神のように思えますが、情報が少なすぎて推理できず。他に確固たるアテがあるわけでもないので、今のところはそんな気がするとしかいえません。

 

 兒宮の隣にある、同じく末社の大神下前神社の祭神は大己貴命とのことですが、こちらも疑わしく、しかし情報不足で不明。明治44年(1911)に当社に合祀されたという金刀比羅神社の祭神である金刀比羅大神は、大己貴命ことオホナムチの孫であるミホヒコのことで、ミホヒコは祖父クシキネ(オホナムチ)、父クシヒコ(ヲコヌシ)と続いてきた三代目の大物主であり、気比の神ことヒコホオデミの右の臣だったので、気比神宮に祀られているのは大いに納得がいくのですが、大神下前大神のことはわかりません。

 

f:id:hanyu_ya:20210225213809j:plain大神下前神社の社号標。大神下前大神の左右に、後から合祀された金刀比羅大神と稲荷大神の名があります。

 

 最後に松尾芭蕉の句碑を見て気比神宮を後にすると、敦賀港開港100年を記念して設置された「宇宙戦艦ヤマト」と「銀河鉄道999」のモニュメントが並ぶシンボルロードを通って敦賀駅へ。15分ほど歩いて5時前に到着し、券売機で予約していた特急券を発券してから駅構内の観光案内所の隣にある土産物売り場を覗き、特に欲しい物もなかったのでコンビニでコーヒーを調達して改札を入ると、17時15分発の特急サンダーバードに乗車。18時9分に京都駅に到着し、その日は日曜日で、飲みながら「麒麟がくる」を見たかったので、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイを買ってホテルに戻り、日程終了です。

f:id:hanyu_ya:20210225213653j:plain松尾芭蕉の句碑。刻まれている句は「涙しくや 遊行の持てる 砂の露」。『奥の細道』にある「月清し 遊行のもてる 砂の上」の原案のようです。

 

 翌日は宝塚大劇場雪組公演を観て帰るだけでしたが、開演は13時で、どこかに行くには時間がありませんでしたが、途中下車ぐらいはできそうだったので、宝塚駅の一つ手前の中山寺駅で降りて、中山寺に寄り、蓮ごはんを食べてから劇場に行くことにしました。

 

 9時半にホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらうと、45分発の姫路行き新快速に乗車。大阪駅宝塚線に乗り換え、10時40分に中山寺駅に到着。中山寺の最寄り駅は阪急宝塚線中山観音駅で、そこからなら徒歩1分ですが、JR線駅の中山寺駅からでも徒歩10分ぐらいで行けます。

 

 参拝後、時間があったので梅林公園まで足を延ばすと、紅梅がちらほらと咲いていました。

f:id:hanyu_ya:20210225213521j:plain中山寺梅林公園の梅その1

f:id:hanyu_ya:20210225213440j:plain中山寺梅林公園の梅その2。こちらは八重です。

 

 梅林を散策したあと、古墳を経由して、11時半過ぎにお休み処「梵天」に入ると、蓮ごはんだけでは物足りなかったので、前回と同じくたこ焼&うどんセットも注文。今回は食事の前にちくわも食べていないしチューハイも飲んでいないので大丈夫かと思いましたが、やはり量が多すぎました。

 

 なんとか完食して12時15分過ぎに店を出ると、中山寺駅には戻らず、中山観音駅から27分発の阪急宝塚線に乗り、33分に宝塚駅に到着。宝塚大劇場へ向かい、開演10分前には席に着けました。

 

 終演後は、はるばる来てよかったと思えるほど、だいもんこと望海風斗さんのサヨナラ公演を堪能しましたが、余韻に浸る間もなく劇場を出て宝塚駅へ。16時26分発の電車に乗り、大阪駅で長浜行き新快速に乗り換え、17時29分に京都駅に到着。551蓬莱で豚まんと甘酢団子を買ったあと、「ハーベス」でタカラ缶チューハイを買い、ホテルに行って荷物を引き取り、18時1分発ののぞみに乗車。これにて明智光秀探訪13&福井神社遠征&宝塚観劇の遠征終了です。