記録的な大型台風19号が通過し、本日は晴れていますが、風が強いので、当初の予定どおり外出は控えて終日家に籠ることに。昨日は一時的に停電になったぐらいで、家の周囲を見ても被害はなく(屋根の上とかは確認できていませんが……)、幸運なことに日常を取り戻せたので、9月15日の兵庫寺社遠征の続きを書きつつ、記事アップが遅くなった原因である神社考察を書きたいと思います。
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生田神社を後にして阪神線に乗り、西宮駅に着くと、改札を出たところでようやく空きロッカーを見つけたので、トートバッグを預けて、近くにあった案内所で周辺地図をもらい、西宮神社を目指しました。
案内所のおねーサンに訊いたところ、歩いて5分ほどとのことだったのですが、迷ってえびすの森の外を一周し、国道43号線沿いの南門から入ることに。境内の駐車場の手前に廣田神社の摂社である南宮神社があったので、まずはそちらから参拝しました。実は南宮神社こそがこの神域における要だと思っているので……建物自体は阪神大震災で全壊し、その後復興されたものなので、見どころはありませんでしたが。
西宮神社境内図
それから駐車場を抜けて、えびすの森に沿って並んでいる境内社――松尾神社、神明神社、大国主西神社、六甲山神社、百太夫神社、火産霊神社を経て、本殿にお参りし、社務所で御朱印をいただいて、えびす土鈴と御神影札、そして社務所発行の『西宮神社史話』という本を購入。こんなに散財したのは、当社および、当社と切っても切れない関係にある廣田神社が、神代史研究において、きわめて重要な神社だからです。
えびす土鈴
『西宮神社史話』によると、現在の西宮神社の社地は、南宮神社の前身である浜南宮の神域で、鎌倉時代に著された『諸社禁忌』には、その末社として次の五社が挙げられているそうです。
児御前、衣毘須、三郎殿、一童、松原
また、平安末期から鎌倉初期に成立した『伊呂波字類抄』には、廣田神社の摂末社として次の十社が挙げられているそうです。
矢州大明神、南宮、戎、児宮、三郎殿、一童、内王子、松原、百大夫、竃殿
『伊呂波字類抄』の「戎」は『諸社禁忌』の「衣毘須」、『伊呂波字類抄』の「児宮」は『諸社禁忌』の「児御前」なので、この二社と「三郎殿」「一童」「松原」の三社を合わせた五社は、浜南宮の末社であることがわかります。
ところが、『伊呂波字類抄』で廣田神社の摂末社に挙げられている「百大夫」と「竃殿」は、どう考えても今の西宮神社の境内社である百太夫神社と庭津火神社のことなので、「南宮」の下に続く「戎」以下の八社は、廣田神社の摂末社といっても、実質的には廣田神社(北宮)ではなく、浜南宮(南宮)の末社だったのかもしれません。現在の社名に置き換えると、「南宮」は南宮神社、「児宮」は児社、「百大夫」は百太夫神社、「竃殿」は庭津火神社、「松原」は松原神社で、「三郎殿」は奥宮、または奥戎とも呼ばれたようなので、奥戎=オクエビス=オキエビス=沖恵美酒で、沖恵美酒神社ということになります。「一童」と「内王子」については不明ですが、『西宮神社史話』によると、六甲山神社、松尾神社、梅宮神社は江戸期に勧請ないしは創建された神社で、神明神社は明治期に遷座されたそうなので、この四社ではないことははっきりしています。
南宮神社
児社
庭津火神社
沖恵美酒神社
そして、「戎」と呼ばれた末社が、現在の西宮神社です。末社でありながら、えびす信仰が全国に広まったことで隆盛し、本社である浜南宮を凌ぐ神社となり、その結果立場が逆転して、本社を飲み込む形で社地を引き継ぎ、末社ではない、本社から独立した別の神社となり、今に至っているのだと思います。戎社を中心としたえびす信仰がこれほど全国に広まった理由について思うところはあるのですが、説明が長くなるので、ここで触れるのはやめておきます。
西宮神社拝殿
さて、廣田神社の別宮である浜南宮の末社であった戎社を起源とする西宮神社ですが、前述したように大発展し、現在は全国に約3500社あるえびす神社の総本社とされています。……なのですが、えびす神というのは難しい神なので、総本社といわれてもピンとこなくて、正直ビミョー。というのも、えびす神と呼ばれる神は複数いるからです。
まず一人目は、前の生田神社の記事でも触れましたが、第一子ヒルコを生んだあと再び身籠ったイサナミが流産したヒヨルコ=蛭子です。権力者の都合でイサナミの長男であるアマテルが性別を変えられて女神とされたときに、長女ヒルコは弟のアマテルに置き換えられて、ヒルコの事績はアマテルのものとなり、彼女は闇に葬られ、存在が許されたのはワカヒルメ=稚日女という神名だけでした。それもアマテルの機織女であるとカモフラージュされて、ようやく残されてきました。表立ってヒルコを祀ることができなくなった信奉者たちは、ヒヨルコを祀るふりをして、ヒルコの祭祀を続けたのだと思います。そんなわけで、ヒヨルコをえびす神として祀っている場合でも、その正体はヒルコであることが多いので、一筋縄ではいきません。
二人目は事代主で、大国主の息子とされている神です。今の世に大国主として知られているのは、ソサノヲ(出雲大社祭神、熊野大社および熊野本宮大社祭主で現祭神)の息子であり、オホナムチとも呼ばれるクシキネ(岩木山神社祭神、出雲大社祭主で現祭神)ですが、その息子であるクシヒコ(大神神社祭神)はコトシロヌシ=事代主であり、『ホツマツタヱ』でエミスガオ=笑みす顔と称えられた人物。よって「笑みす」が転じたと思われる「えびす」の神とはクシヒコとみなすのが妥当なのですが、単に事代主というと個人名ではなく役職名なので、実は何人も該当者がいます。クシヒコの孫であるツミハ(三島大社祭神)もその一人で、彼は初代天皇神武の舅で、二代天皇綏靖の外祖父なので、事代主を祭神としている場合、彼を祀っていることも少なくありません。また、実際にヲコヌシ=大国主という神名を賜ったのはクシキネではなく、彼の息子のクシヒコなので、大国主と事代主が一緒に祀られている場合、大国主=クシヒコ、事代主=ツミハである可能性も高く、こちらも一筋縄ではいきません。
三人目はスクナヒコナ=少彦名で、現在大国主とされているオホナムチに協力して国土開発に励んだことぐらいしか目立った事績がないことから、二人セットで語られることが多いため、大国=ダイコク=大黒で、大国主と同一化されている大黒天と一対にされるえびすにあてられることがままあります。さらに、えびす神とされるヒヨルコは『古事記』で「淡島」と呼ばれているのですが、『ホツマツタヱ』によると、淡島神=アワシマカミの名を賜ったのはスクナヒコナなので、ヒヨルコとスクナヒコナが混同されていることも多くあります。
ということで、えびす=笑みす=クシヒコ=事代主=ツミハと、えびす=蛭子=ヒルコ=ヒヨルコ=淡島=スクナヒコナという関係性が成り立つので、一概にえびすといっても誰を祀っているのかわからず、つまり3500社あっても、奉祀されている神々の正体は違うと思うので、何をもって総本社といっているのかわからない――というのが実のところ本音。ですが、細かいことはさておき、西宮神社の現祭神は次のとおり。
西宮神社由緒
第一殿の祭神は西宮大神こと蛭児大神、第二殿の祭神は天照大御神と大国主大神、第三殿の祭神は須佐之男大神――なかなか興味深いメンツです。前述を踏まえて穿った見方をすれば、蛭児大神はヒヨルコ、天照大御神はヒルコ、大国主大神はクシヒコとも考えられ、いずれもえびす神として祀られてきた神です。もしかしたら、えびす神と呼ばれる主だった神をすべて祀っているから総本社なのかもしれません。となると、何故彼らと共に須佐之男大神が祀られているのかが大いに気になります。
三殿に四座を祀る三連春日造の本殿
西宮神社の現祭神は四座ですが、元々は廣田神社の別宮である浜南宮の末社の一つなので、元来の祭神は一座であり、蛭子大神を祀っていたのだと思います。とはいえ、他の三座も本殿に祀られるからには、まったく無関係な神というわけではなく、元からこの地に祀られていた神々と考えられます。現在の西宮神社である「戎」の他、現在の児社、百太夫神社、庭津火神社、松原神社である「児宮」「百大夫」「竃殿」「松原」は祭神が判明しているのでとりあえず省くと、残る「三郎殿」「一童」「内王子」の祭神かと思われます。
第三殿の須佐之男大神は、須佐之男=スサノオ=ソサノヲで、イサナミの三男ソサノヲのことなので、「三郎殿」――現在の沖恵美酒神社の祭神の正体は彼でしょう。
第二殿の天照大御神は、本地仏が大日如来か十一面観音なので、仮に『伊呂波字類抄』で本地仏が観音とされている「内王子」の祭神であるとすると、消去法で考えれば、残る大国主大神が「一童」の祭神ということになります。しかし、他所の一童社の祭神をみると、石清水八幡宮の一童社の祭神は磯良神、吉備津神社の一童社の祭神は菅原道真と天鈿女神なので、一童社の祭神が大国主というのは、あまりしっくりきません。
ならば、吉備津神社の例に従って、現在の松原神社の祭神とされている菅原道真を「一童」の祭神と考えると、『伊呂波字類抄』で本地仏が大日とされている「松原」の祭神が本来は天照大御神ということになり、「内王子」の祭神は観音を本地仏とする天照大御神とは別の神――となります。現在西宮神社の境内に祀られている天照大御神以外の神のうち、一般的な本地垂迹説で本地仏がわかり、それが観音である神といえば、六甲山神社の祭神である菊理姫命と、火産霊神社の祭神である火産霊神ですが、六甲山神社は先述したとおり江戸時代に六甲山から白山権現――菊理姫命を勧請した社なので、平安後期にはすでに存在していた「内王子」の祭神には、千手観音が本地仏である迦具土――すなわち火産霊神がふさわしいように思えます。つまり、浜南宮の末社は、次のような関係にあるのではないでしょうか。
三郎殿……祭神:須佐之男大神 → 現・西宮神社(第三殿)の祭神
一童………祭神:菅原道真 → 現・松原神社の祭神
内王子……祭神:火産霊命 → 現・火産霊神社の祭神
松原………祭神:天照大御神 → 現・西宮神社(第二殿)の祭神
竃殿………祭神:奥津彦神・奥津比女神 → 現・庭津火神社の祭神
ということで、この中にはもう一人の西宮神社第二殿の祭神である大国主大神がいないのですが、彼は式内社の大国主西神社の祭神なのだと思います。
式内社とは平安時代に成立した『延喜式』に記載されている古社のことで、よって社格は違えども、大国主西神社は廣田神社と同等の神社です。つまり摂末社の祭神ではないため、上記には入ってきませんが、大国主大神は、大国主=ヲコヌシ=クシヒコ=エミス=えびす神ということで、どこかの段階で戎社に合祀されたのだと思います。それゆえ、戎社を起源とする西宮神社は式内社の大国主西神社と縁が深いとされ、戎社境内の阿弥陀堂が明治期には県社に指定されて、大国主西神社を名乗ることが許されたのでしょう。すなわち、大国主西神社の所在地は『延喜式』にあるとおり元々は摂津国兎原郡でしたが、戎社に合祀後は武庫郡に移ったということです。――であるならば、西宮神社が大国主西神社であるというのも、あながち間違ってはいないと思います。
元は阿弥陀堂だったという現在の大国主西神社(左)と六甲山神社(中央)と百太夫神社(右)
かつて「戎」「児宮」「三郎殿」「一童」「内王子」「松原」「百大夫」「竃殿」の末社があった浜南宮の本殿には、神功皇后が豊浦津の海で手に入れて以来連戦連勝だったことから、皇后に勝運をもたらした神通の如意宝珠と崇められ、クラックが剣の形に見られることから「剱珠」と呼ばれた水晶玉が祀られていました。というよりも、この霊宝を奉祀するために、廣田神社の本殿とは別の宮が建てられ、本社の南にあり海に近いことから、「浜南宮」と呼ばれたのだと思います。よって、浜南宮の後継社である南宮神社の現祭神は豊玉姫神、大山咋神、厳嶋姫神、斎殿の四座ですが、元々の祭神は名に「玉」が入っていることから剱珠になぞらえられた豊“玉”姫神であり、大山咋神と厳嶋姫神は松尾神社と市杵島神社の祭神が合祀されたのではないでしょうか。どちらも江戸時代には境内社として復活したようですが。
行けば、帰ってきてこれぐらいの考察はするだろうと思ったので、余裕がないと訪れる決心がつかず、そのため今まで足を踏み入れなかったのが西宮です。社務所のえびす信仰資料展示室なども見学し、結局西宮神社に1時間以上もいて、疲れたので境内の「おかめ茶屋」で一服してから、今回の寺社遠征の主目的である廣田神社へと向かいました。寺社遠征記も考察が入るため必然的に長くなり、一つの記事では一つの神社について書くのが精一杯。なので、まだまだ続きますが、興味のない方は適当に読み飛ばしてください。
おかめ茶屋の冷やし甘酒とわらび餅