羽生雅の雑多話

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兵庫寺社遠征 その3~廣田神社、神呪寺

 西宮神社を後にすると、西宮駅に戻って阪神バスに乗り、広田神社前バス停で下車し、廣田神社へと向かいました。

廣田神社拝殿

 

 廣田神社名神大社であり旧官幣大社という古社で、生田神社や長田神社と同じく『日本書紀』に神社としての縁起が書かれていて、神功皇后三韓征伐に協力した天照大御神が、戦からの帰途、船が思うように進まなかったときに現れて、「わが荒魂を皇后の側に置くのはよくないので、広田国に置くように」と言われたので、山背根子の娘である葉山媛に祀らせた――とあります。事代主を長田に祀った長媛は、彼女の妹になります。

 

 ただし、長田や生田とは異なり、広田は神功皇后が神を祀らせたときよりも遥か昔から重要な聖地でした。それゆえ、同じような神社縁起でありながら、広田、生田、長田の内、広田だけが官幣大社だったのでしょう。

 

 当社の主祭神天照大御神荒魂。単に天照大御神ではなく、「荒魂」が付いているところがミソです。これは天照大御神とは別の神だからで、祭神名を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命といいます。現在、天照大御神は女神とされているので、天照大御神荒魂の神がヒメの名であっても不思議に思わないかもしれませんが、元来の天照大御神はアマテルという男神であり、女神ではないので、「媛」が付いている名前はおかしく、このことからも天照大御神荒魂が天照大御神とは別の神であることがわかります。

 

 では誰なのかというと、『ホツマツタヱ』には「アマサカルヒニムカツヒメ」という神が登場するのですが、これを漢字で表せば「天下がる日に向かつ姫」であり、「天下がる日」ことアマヒカミ=天日神と向かい合う姫――という意味になります。天日神=天神=天君であるアマテルと対等の位置に立ち、向かい合えるのは、12人の妃の中でも正妃である皇后のみ。ということで、「天下がる日に向かつ姫」とはセオリツヒメホノコのことです。廣田神社の祭神名にある「天疎向津媛」の読みは「あまさかるむかつひめ」なので、アマサカルヒニムカツヒメ=天下がる日に向かつ姫が転じたものと考えて問題ありません。略して、単にムカツヒメ=向かつ媛とも呼ばれました。

 

 『日本書紀』によると、神功皇后三韓征伐を勧めた神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という名で、伊勢国度会県の五十鈴宮にいるとのこと。伊勢神宮内宮の別宮である荒祭宮の祭神は廣田神社と同じ天照大御神荒魂であり、神道五部書の『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』や『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』には、祭神のまたの名は「瀬織津比咩神」であると書かれています。つまり、五十鈴宮とは荒祭宮のことで、瀬織津姫撞賢木厳之御魂天疎向津媛命天照大御神荒魂を祀るから荒祭宮なのでしょう――“荒魂を祭る宮”という意味で。

 

 では何故、夫アマテルを祀る伊勢神宮の別宮である荒祭宮の祭神であるセオリツヒメが廣田神社の祭神になったというか、広田に鎮座することになったのかというと、アマテルの遺言があったからです。『ホツマ』によれば、「キサキ ヒロタニイキテ ワカヒメトトモニ ヰココロマモルベシ ワレハトヨケト ヲセオモル イセノミチナリ」とあり、これを漢字で表せば「后 広田に行きて 和歌姫と共に ヰココロ護るべし 我は豊受とヲセを守る イセの道なり」となります。

 

 昔は夫婦のことを妹背といい、“背”というのは「背の君」といわれるように夫のことで、“妹”が妻を表しました。また妹背=イモセはイモヲセともいい、よって背=セ=ヲセで、アマテルがトヨケ=豊受と共に守ると言っているのは夫の道になります。そして、妹=イモ=ヰなので「ヰココロ」というのは妹心――つまり妻の心です。すなわち、自分たち夫婦で妻の道と夫の道を守り、夫婦道を守護しようというのがアマテルの遺言の真意です。夫婦のあるべき姿――夫婦道が妹背=イモヲセの道であり、略して「イセノミチ(伊勢の道)」というわけです。

 

 ということで、アマテルは遺言で自分の死後の鎮座地を祖父トヨケ(イサナミの父。「トヨウケ」とも)が鎮座するアサヒミヤ=朝日宮としましたが、のちに本宮があった伊勢にトヨケ共々遷座させられました。それが現在の伊勢の内宮と外宮であり、内宮祭神の天照大御神がアマテルで、下宮祭神の豊受大御神がトヨケです。そして、トヨケが神上がるために入った洞の上に建てられた朝日宮を起源とするのが丹後一宮の籠神社の奥宮である真名井神社で、それゆえ籠神社は「元伊勢」と呼ばれるのです。ちなみに、籠神社はトヨケが死ぬ前まで政務を執っていたミヤツノミヤ=宮津の宮を起源とする神社です。

 

 一方、アマテルが示したセオリツヒメの鎮座地が広田だったのは、遺言の中に「和歌姫と共に」という言葉があるように、この地にアマテルの姉であり妹であるワカヒメ=和歌姫ゆかりの広田の宮があったからだと思われます。この宮は『ミカサフミ』に「ヒラウヒロタノ ミヤツクリ ソタテアクマテ カナサキノ ツネノヲシヱハ ミコトノリ(拾う広田の宮造り 育て上ぐまで カナサキの常の教えは詔)」という一文があるので、カナサキが捨て子とされたヒルコ(のちの和歌姫)を拾って育てるために建てた宮であることがわかります。カナサキの本宮(住吉大社の起源)から見て西にあったため、ニシトノ=西殿とかニシノミヤ=西宮と呼ばれましたが、拾った子のための宮だったのでヒロタノミヤ=拾たの宮とも呼ばれ、ヒロタノミヤがあることから、この地はヒロタ=拾た=広田と呼ばれるようになりました。廣田神社の脇殿には住吉大神八幡大神、諏訪大神、高皇産霊神の四座が祀られていますが、住吉大神は筒之男三神ではなく、この地に最初に西宮こと広田の宮を建てて、西宮や広田という地名の起源となったカナサキを元々は祀っていたのだと思います。

 

 以上のように考えてくると、セオリツヒメは夫の遺言にしたがって、カナサキが建てた西宮こと広田の宮に行き、そこで神上がって広田神となったのだと思います。おそらくこの宮は甲山にあったのではないでしょうか。今の甲山には平安時代に創建された甲山大師こと神呪寺がありますが、実際に祭祀用の銅戈が出土しているので、古代祭祀が行われていた聖地であることは間違いありません。岩木山神社祭神であるクシキネの岩木山しかり、大神神社祭神であるクシヒコの三輪山しかり、箱根神社祭神であるオシホミミの箱根山しかり、神上がった人たちの葬地は地図がない時代でもわかりやすいランドマーク的な山や島であることが多く、なおかつ縄文海進で現在より海が5メートルほど高かった時代、西宮周辺は入り海だったので、その可能性は高いと思われます。死後に葬られたのか、あるいはトヨケやクシヒコのように、その地の鎮守となるため、みずから洞に入って亡くなったかはわかりませんが……。そうして広田の地に鎮座した神ゆえに、広田国に祀れという神託を神功皇后にもたらしたという逸話が生まれたのでしょう。

広田神社前バス停から見える甲山。バスから降りたとたん、あまりの神奈備山ぶりにびっくりしました。

甲山と六甲山系(向かって左)

 

 セオリツヒメが共に妹心を守るように言われたヒルコも、この地に祀られたのだと思います。その後時代が下って神功皇后の時代に至り、西宮の跡地で古代祭祀が行われていた広田神ことセオリツヒメを祀る神社として廣田神社が建てられ、蛭子神ことヒルコを祀る神社として戎社が建てられ、廣田神社の脇殿神として前身である広田の宮を建てた住吉神ことカナサキが祀られたのではないでしょうか。

本殿と、向かって右隣にある第一・第二脇殿

 

 第二脇殿の祭神である八幡大神は、応神天皇神功皇后・仲姫命とされていますが、葉山媛に天照大御神荒魂を祀らせた神功皇后のことでしょう。第三脇殿の祭神である諏訪大神、第四脇殿の高皇産霊神は、高皇産霊=タカミムスヒで、イツヨノ“ミムスヒ”=五代“皇産霊”であるトヨケを祀っているのだと思います。天照大御神荒魂をセオリツヒメではなくアマテルとしたときに、神宮外宮の祭神ということで主祭神の関係者として祀られたのでしょう。

 

 第三脇殿の祭神である諏訪大神――健御名方大神は、生田神社の本殿左隣に諏訪神社が祀られていたことも謎でしたが、その正体は健御名方=タケミナカタではなく、事代主ことクシヒコなのかもしれません。

 

 というのも、松江にある旧国幣中社美保神社の現祭神は事代主神と美穂津姫命ですが、『出雲国風土記』には、当社がある美保郷には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)のあいだに生まれた「御穂須須美命」が坐す――という記述があります。よって当社の元々の祭神は御穂須須美命であり、なおかつ大国主神と奴奈川姫命のあいだに生まれた子といえば、わかっているのはタケミナカタしかいないので、御穂須須美命というのはタケミナカタのことなのですが、にもかかわらず美保神社の祭神は事代主神となっているので、タケミナカタ=御穂須須美命=事代主神=クシヒコという転化が起こっていることになります。つまり、タケミナカタ事代主神という祭神名で祀られている事例が存在するのです。これは諏訪神であるタケミナカタ事代主神であるクシヒコの同一化が起こっているということなので、ならばその逆――健御名方神の祭神名で事代主が祀られていることもありえるのではないかと思います。ちなみに『ホツマ』では、二人がクシキネの子であることが確認できるだけで母親については不明ですが、記紀にはそれぞれの母親の名が載っていて、タケミナカタとクシヒコは異母兄弟になります。

 

 もし廣田神社や生田神社に祀られている諏訪大神が当初は事代主を祀った名残なのであれば、同じ時期に同じ神功皇后の命で祀られた長田神を祀ったのだと思います。

 

 以上をまとめると、摂末社を含めた廣田神社、生田神社、長田神社の祭神たちは、当初は次のような面々だったと考えられます。

 

廣田神社 

本殿(現祭神:天照大御神荒魂)……………祭神:セオリツヒメ(広田神)

第一脇殿(現祭神:住江三前大神)…………祭神:カナサキ(住吉神)

第二脇殿(現祭神:八幡三所大神)…………祭神:神功皇后

第三脇殿(現祭神:諏訪健御名方富大神)…祭神:クシヒコ(長田神)

第四脇殿(現祭神:高皇産霊大神)…………祭神:トヨケ

戎社=西宮神社(現祭神:蛭子大神)………祭神:ヒルコ(生田神)

 

生田神社

本殿(現祭神:稚日女尊)……………………祭神:ヒルコ(生田神)

八幡神社(現祭神:応神天皇)………………祭神:神功皇后

住吉神社(現祭神:表・中・底筒男命)…祭神:カナサキ(住吉神)

諏訪神社(現祭神:武御名方命)……………祭神:クシヒコ(長田神)

兵庫宮御旅所(現祭神:天照大御神)………祭神:セオリツヒメ(広田神)

 

長田神社

本殿(現祭神:事代主神)……………………祭神:クシヒコ(長田神)

八幡社(現祭神:応神天皇)…………………祭神:神功皇后

蛭子社(現祭神:蛭子神)……………………祭神:ヒルコ(生田神)

天照皇大御神社(現祭神:天照大御神)…祭神:セオリツヒメ(広田神)

 

 つまり、神代における西宮こと広田の宮の関係者と紀元200年前後に神功皇后の命を受けて祀られた神々で、三韓帰りに神戸付近の海で船が動かなくなって困った皇后はこの近くにセオリツヒメやヒルコが鎮座することを知っていたからこそ、社殿を建てて彼らを祀るように命じたのでしょう。となると、事代主の正体はクシヒコではなく、四国に鎮座するツミハのような気がしますが。それについての考察は長くなるので、機会があればまた、こんぴらさん大三島神社を再訪したときにでも述べたいと思います。船旅の難を救った神ならば、カギは瀬戸内海にあり、この海の安全を守護する神が無関係とは思えないので……いつになるかわかりませんが

 

 さて、廣田神社の本殿と脇殿、向かって左隣にある摂社の伊和志豆神社を参拝したあと、御朱印をいただくために社務所へ行きました。摂社の御朱印もこちらで授与されますが、当然のことながら、お参りした人にだけ――ということになっていたので、とりあえず廣田神社、南宮神社、伊和志豆神社の御朱印だけいただき、境外摂社である名次神社と岡田神社は参拝してから改めていただきに来ることにしました。自己申告制なので、言えば頂戴できると思いますが、参拝していない神社の御朱印を受けてもどうかと思ったので。

 

 ということで、続いて名次神社と岡田神社に行けないか地図とバスの時刻表とにらめっこしていたのですが、廣田神社を挟んで別々の方向にあるため2か所をまわるのは時間的に厳しそうだったので、どちらかといえば駅やバス停からアクセスがよさそうな名次神社に目的を絞ってバスに乗りました。

 

 ……なのですが、行き先が同じだから問題ないだろうと思って乗ったバスが、予想以上に大回りで、想定していなかった山道を登りはじめた時点で、これでは名次神社に行ったあと御朱印をもらいに廣田神社に戻っても社務所が開いている時間には間に合いそうにないという感じだったので、改めて岡田神社とともに来ればいいと名次神社をあきらめ、目的を変更して、甲山大師バス停で下車。神呪寺に行くことにしました。

 

 甲山の中腹にある神呪寺は、第53代淳和天皇の妃、眞井戸御前が弘法大師を導師に迎えて開いた寺なので「甲山大師」と呼ばれているようです。所在地の山の名前が「甲山」だからというよりも、山号自体が「甲山」だからだと思いますが。寺としての歴史は平安時代からですが、甲山という名は神功皇后が平和を祈願して金の兜を埋めたという伝承に基づくともいわれ、つまりそれ以前から重要な地でした。前述したように、おそらくセオリツヒメの葬地であり、元々は廣田神社御神体なのだと思います。

神呪寺の後ろにある甲山

神呪寺本堂

甲山の名の由来について語る石碑

 

 甲山は西宮の至る所からよく見えますが、甲山からは西宮の市街地が一望でき、さらには海の向こうに山並みも見え、方向的に考えれば、おそらく生駒山地金剛山地かと思われます。ということは、それより西に位置する住吉大社の所在地である住之江はここから見えたのかもしれません。動画を撮って拡大して見たらあべのハルカスが写っていましたし。それはつまり、カナサキの本宮が見えたということです。それゆえ「西宮」は甲山に建てられたのでしょう。

 

 如意閣という展望台からの風景を確認したあと、裏手に登山口があったので行ってみたのですが、そこにあった地形図板を見たところ、頂上まで行って帰ってくるのは時間的に無理そうだったので、隣にある神社が白髭神社であることだけを確認して引き返しました。

登山口にある甲山地形図

白髭大明神。祭神はホノススミか、はたまたサルタヒコか……。

 

 その後、御朱印をいただくために御守り授与所に寄ると、財宝万倍の神力があるという融通小判があったので記念に購入し、寺を後にしました。

 

 バスで5時過ぎに西宮駅に戻ってくると、駅ビルのフードコートにたこ焼屋が入っていたので、食べていくことにしました。梅田で何か食べるか、駅弁でも買って新幹線で食べようと思っていたのですが、メニューを見たら大好きな明石焼があったので……。あとはもう帰るだけなので、レモンサワーも注文。時間が惜しくて昼食も摂らず、西宮神社でわらび餅を食べたきりだったので、生き返るようでした。

会津屋」の明石焼。明石焼は神戸界隈に来たら必ず食べるのですが、三ノ宮では食事をする余裕がなかったので、せめて帰りに大阪でたこ焼でもいいから食べたいと思っていたところ、ありつけたので、感激でした。以前、本場の明石で寺社巡りをしたときは、一日二食、明石焼というぐらいの大好物です。店によって味も違うので、飽きることはありません。

 

 あっという間に平らげて、帰りの新幹線で飲む酒のつまみにお土産用のたこ焼まで購入し、ロッカーから荷物を取り出して阪神線に乗車。梅田に戻ると、切符を買ってある時間より30分ほど早い新幹線に乗れそうだったので、特急券の乗り変ができないかと思い、大阪駅みどりの窓口を探して行ってみました。すると、運よく窓口に並ぶ列も短く、窓際の空席もあったので、間に合いそうな列車に変更してもらってから、JR線で新大阪駅へ。いつものようにタカラ缶チューハイをゲットしてから新幹線に乗り、これにて遠征終了です。