羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

京都・奈良寺社遠征 その3~醍醐寺、勧修寺、隋心院

  11月3連休の三日目――4日の振替休日は醍醐寺に行きました。上醍醐准胝堂が西国三十三所の第11番札所なのですが、3日と4日の二日間、月巡り巡礼の法要が行われるというので。

 

 月巡り巡礼というのは、西国三十三所草創1300年記念行事の一環で、第1番札所の青岸渡寺から始まって、毎月寺替わりで順々に行われる特別法要のことです。2019年11月は第11番札所の醍醐寺、12月は第12番札所の岩間寺というように、札所の順に持ち回りで行われ、法要がある日は観音菩薩像をイメージした特別な御朱印が授与されます。

 

 ――ということで、法要が始まる1時間前の9時半前に到着し、下醍醐から上醍醐まで1時間かけて歩く覚悟だったのですが、行ってみると、法要は下醍醐観音堂で行われるとのこと。しばらく来なかったので、すっかり失念していましたが、上醍醐准胝堂が数年前に火事に見舞われたことを思い出し、結局全焼して、その後再建されていないことを、そのとき初めて知りました。

 

 醍醐寺は私にとって特別な寺なので、三十三所巡りとは関係なく過去に何度か訪れ、上醍醐にも行ったことがあるのですが、仁和寺と同じく、行けば軽く3、4時間は費やす寺なので、時間に余裕がないと行く気がせず、10年以上足を運んでいませんでした。とはいえ、西国三十三所の札所なので、1300年記念の御朱印をいただきに近々行くつもりではいたのですが、上醍醐まで行かないといただけないと思っていたので、億劫で、なかなか足が向かず。伽藍は以前に下醍醐上醍醐も全部巡って見ていて、何度でも見たいものといえば五重塔ぐらいでしたし……。なのですが、今回は特別法要&特別御朱印授与の他、国の特別史跡であり特別名勝でもある三宝院の特別公開があって、霊宝館でも特別展開催中という“特別”の大盤振る舞いだったので、またまた行くなら「今でしょ」と思い、出向きました。

 

 観音堂へ行くと、早くも長蛇の列が見え、先頭が見えないので何の列かわからなかったのですが、おそらく御朱印の列だろうとあたりをつけて並ぶことに。次から次へと人が来るので、前のほうに確認に行っていると、そのあいだに人が増えて、さらに順番が遅くなるので。堂内では着々と法要の準備が進み、10時半になって時間どおり始まりましたが、御朱印授与所まで辿り着けず。けれど、あと3、4人というところだったので、順番待ちをしながら読経を聴いていました。

醍醐寺観音堂。行列は御朱印の順番を待つ人たち。

 

 結局1時間ほど並び、法要の最中に人前を通って席には着けないので、邪魔にならない所に立って10分ほど観音経を聴き、混雑を避けて、法要が終わる前に観音堂を出ました。前日に続く立ちっぱなしの御朱印待ちで、朝から疲れたので、弁天堂の近くにある御休み処「阿闍梨寮 寿庵」でひと息入れようと思いましたが、残念ながら開いていなかったので、霊宝館エリアにあるカフェレストランへ行くことに。

醍醐寺弁天堂。右に見えるのが「阿闍梨寮 寿庵」。かつては高僧の宿舎だったそうです。

弁天堂前の橋から見る観音堂

 

 霊宝館の受付を入り、霊宝館の玄関の向かい側にあるお土産屋の隣にあるフレンチカフェ「ル・クロ スゥ ル スリジェ」は、2年ぐらい前にできた店で、大いに気になっていたので、まだ11時過ぎでしたが、ランチメニューができるというので食事をすることにしました。前日の三輪そうめんもそうですが、ホテルが朝食なしの場合、朝はコーヒーぐらいで済ませ、朝昼兼用の食事をがっつり食べることにしています。いわゆるブランチです。日頃の生活も、夜に飲み会でもなければ、昼食の比重が一番大きいし、人と時間がずれていると店も空いていて、入りやすいので。なので、昼は11時、夜は5時ぐらいに食事をすることが多いです。気に入れば、アルコールを飲みつつ、1時間以上は飲み食いしますし。もちろんこの日もグラスワインとランチコースを頼み、食後にコーヒーを追加し、1時間半ほどダラダラと食事をしました。居心地が良かったので。

「ル・クロ スゥ ル スリジェ」の薬膳カレーのランチコース。さりげなく小鉢の色でトリコロールが表現されているのが心憎いです。

 

 お腹がいっぱいになり、休憩も十分に取り、しばらく立ちっぱなし歩きっぱなしでも休まなくていいだろうというぐらいに体力も回復したので、霊宝館に行きました。ここには私の一番好きな不動明王像である快慶作の不動明王坐像があるので、久しぶりに会えると思うと自然に気合が入りました。前回見られると思って来たのですが、見られず、いつでも見たいときに見られるものではないものなのだと思い知らされて帰りましたから……。

秋期特別展の主な展示品

 

 昔、仏教美術関連の仕事をしていたときに、仏像も見まくり、薬師如来なら神護寺仁和寺、四天王なら東寺、十二神将なら室生寺と、数ある仏像の中から自分のお気に入りを見つけました。そうした中で、不動明王については、醍醐寺の快慶作がベストだと思っています。その他の五大明王は東寺の像がベストだと思っているのですが……。

 

 不動明王は怖ろしい憤怒の顔をしていると仏典に書かれているので、牙をむき、片目を見開いている、美醜でいえば、どちらかといえば醜悪な形相で表されることが多いのですが、快慶の不動明王はその特徴を無視したもので、しかも表情だけでなく容貌自体にも快慶特有の端整さがあるので、本当にカッコいいです。柔和な表情であることが多い如来像や菩薩像とは違う、力強さをともなう美しさがあり、その点は興福寺の阿修羅像に通じます。阿修羅もそうですが、戦いや争いの中に身を投じなければならないゆえに備わる強さと、その荒々しさとは相反する美しさを併せ持つ存在は切なさを漂わせるので、そこにもある種の美を感じます。

 

 霊宝館を堪能したあとは、特別公開中の三宝院へ。私の主目的は観音堂と霊宝館だったので、もはや気が抜けたようになっていましたが、圧倒されるような仏像群を見たあとに眺める、陽光に輝く秋晴れの日の庭園は、爽やかで美しく、解放感があり、心が洗われるようでした。その様はまさしく疑似極楽浄土。昔の人々が庭園というものに何を求めたのか、わかるような気がしました。だから寺には名庭と呼ばれる庭園が数多く造られてきたのでしょう――仏像と同じく、心の安らぎ、安寧をもたらすものとして。

醍醐寺三宝院表書院(国宝)から見る庭園

醍醐寺三宝院本堂(重要文化財)から見る純浄観(重要文化財)と庭園

醍醐寺三宝院玄関(重要文化財)に飾られた生け花

醍醐寺三宝院唐門(国宝)。金が目に痛いくらい眩しかったです。

 

 先にも書きましたが、私にとって醍醐寺は特別で、京都で好きな寺と言われれば、1番2番に挙げる寺です。醍醐寺泉涌寺金戒光明寺仁和寺神護寺がトップ5といったところでしょうか。次点で延暦寺、東寺、廬山寺、鞍馬寺清水寺といった感じです。つまり、鎌倉時代以降に創建された寺には興味がないということです。それは京都に限らずですが……。総本山や徳川やら何やらに関係する寺はそれなりに興味があるので、基本的に――ではありますが。西国三十三所を巡っているのも、私が興味を持っている時代からあった古い寺だからです。

 

 中でも醍醐寺は、醍醐天皇ゆかりの寺で、五重塔は私が大学時代に研究対象としていた醍醐天皇第三皇子――代明親王の発願で建てられたもの。親王を偲ぶ唯一の歴史的遺物なので、見るたびに感慨をおぼえます。

醍醐寺五重塔(国宝)。京都でもっとも古い五重塔です。

 

 時平の妹である穏子を母に持ち、時平の娘を妻とした第二皇子保明親王や、時平の弟である忠平の娘を妻とした第四皇子重明親王の消息は摂関家の資料からもうかがえますが、摂関家ではない藤原定方の娘を妻とした代明親王のことはほとんど辿れず、わずかながらも親王の為人が想像できる資料が、鎌倉時代に編纂された『醍醐寺雑事記』でした。醍醐寺の歴史を綴った書です。

 

 何故代明親王に興味を持ったかというと、親王には3人の息子と3人の娘がいるのですが、これがみなよくできた子女で……長男は正三位権大納言、次男は従二位中納言、三男は従三位権大納言、長女は摂政正室、次女は女御、三女は関白正室という、一点の曇りもないきらびやかな一家で、こんな華やかな家族は摂関家にも例がなかったからです。しかも、代明親王は実家も婚家も摂関家と縁がないばかりか、本人も34歳の若さで亡くなっていて……ということで、父に早くに死なれた子供たちが、血縁者の有力な後見がないのに落ちぶれることなく、ここまで栄達しているのが不思議でたまらず、調べまくりました。ちなみに、長女は行成の祖母、三女は公任の母、次女は具平親王の母――当時才人として一目置かれていた人物はみな代明親王の血筋です。摂関家がらみのこの血縁関係を見ると、醍醐天皇の皇后で、朱雀・村上両天皇時代に母后として絶大な権力を有していた穏子の意向があったのだろうと結論付けましたが、何故穏子がもっと自分と縁の深い摂関家ゆかりの藤原北家嫡流筋の子供たちを差し置いて代明親王家の子女を取り立てたのか……までは分析しきれていません。隠居して自由な時間が増えたら、もう一度一から洗い直して考察してみたいですね。

 

 三宝院を見終わったあと、醍醐寺で今回の遠征のミッションは完了だったので、新幹線の時間を早めて帰ろうと思い、エクスプレス予約で検索したのですが、指定席の空きがなくて、予約の変更ができず。仕方がないので、当初の予定どおり6時過ぎの新幹線で帰ることにしましたが、人の多い洛中に戻る気にはなれず、周辺案内図を見ると、山科川を越えたところに明智光秀の胴塚があるみたいなので、そこに寄りつつ、歩いて勧修寺へ行くことにしました。珍しく時間に余裕があったので。

 

 山科川のほとりを歩き、渡れるところで橋を渡り、スマホの地図を頼りに歩いたのですが、塚らしきものは一向に発見できず。そうこうするうちに神社が現れて、GPSの位置情報で調べると八幡宮で、参道の鳥居の向こう側にある道を越えれば勧修寺という場所でした。ここまで来て同じ道を引き返すのも面倒だったので、光秀の胴塚はあきらめ、道を渡って勧修寺に向かうことにしました。

 

 勧修寺は醍醐天皇の生母胤子の外祖父である宮道弥益の邸を寺としたのが起源で、胤子の父藤原高藤と母宮道列子のなれそめの話は『今昔物語集』にも載っていて有名なので、かなり昔に一度訪れ、しかし庭園しか見られないので、その後再訪することはなく、今回が二度目の訪問でした。庭園の入口で入園料を払って庭園だけ見るのは前と変わりありませんでしたが、昨今の御朱印ブームのおかげか、塔頭の佛光院で勧修寺の御朱印もいただけるようになっていて、金字で書かれた天皇陛下御即位記念の特別御朱印を頂戴してきました。

勧修寺庭園にあるさざれ石付近の紅葉

さざれ石

勧修寺庭園についての説明文

勧修寺の現在のシンボル、観音堂。昭和初期に建てられたものです。

台風21号の被害を受けてブルーシートがかけられたままの本堂

勧修寺の近くにある宮道神社ヤマトタケルと、その子ワカタケルが祭神とのこと。

宮道神社由緒碑。宮道氏の祖がヤマトタケルとは知りませんでした。

 

 まだ時間があったので、次に隋心院へと向かいました――もちろん徒歩で。高光の多武峰に続く、三十六歌仙ゆかりの地巡りです。

 

 隋心院は一条天皇の時代に小野氏の邸宅横に建立された寺とのこと。小野小町の没年は不明なので、その時に彼女が生きていたかどうかはわかりませんが、仕えた仁明天皇の死後、宮中を退いた小町が暮らし、深草少将が九十九夜通ったのは、この寺の隣にあった邸宅だそうです。

 

 前にも書いたような気がするのですが、百人一首で一番好きな歌が小町の歌で、学生の頃には何とも思わなかった「花の色は~」の歌が、ある日ストンと心に落ちてきて、「うわぁ~、まさにそのとウり!(榎木津風)」と驚き、思わず身震いをおぼえたほどです。共感できる心情をあまりに的確に表現していて、それでいて花になぞらえることで、美しい言葉を使うことで、辛気くささを感じさせないようにしている流暢で巧妙な歌であることがわかり、その凄さにどこか打ちのめされたような気分になりました。改めて小町の偉大さを実感し、女性でただひとり六歌仙に選ばれている理由がわかったような気もしました。なんせ「花の色は 移りにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに」ですから……。怨霊になるにふさわしい激情家である崇徳院のストレートすぎる「瀬をはやみ~」や、三舟の才を誇る公任ならではの技巧を駆使した「滝の音は~」も好きですが、小町のこの歌には到底かないません。

 

 隋心院でも新天皇陛下御即位記念の特別御朱印があったので、いただいてきました。勧修寺も隋心院も門跡寺院だからかもしれません。それと、隋心院発行の「小野小町と隋心院」という冊子も購入。冬嗣やら良房やら藤原摂関家のことも書かれていたので。

小野小町歌碑。後ろ姿は佐竹本の絵を思い出させます。

隋心院本堂の手前にある能之間に奉納されている襖絵「極彩色梅匂小町絵図」

「極彩色梅匂小町絵図」の解説

 

 隋心院を出ると、寺社仏閣はそろそろ閉門という時間になったので、閉門時間がない醍醐天皇陵と朱雀天皇陵が歩いて行ける距離にあったので立ち寄り、醍醐寺まで戻って、醍醐寺バス停からバスに乗ることに。次に来たのが山科駅行きだったので、山科から電車で京都駅に戻ることにしました。

醍醐天皇後山科陵

朱雀天皇醍醐陵

 

 京都駅に戻ると、八条口前のホテルに預けてあった荷物を引き取り、タカラ缶チューハイ湯葉きのこを調達して、新幹線に乗車。今回も無事に遠征終了です。