羽生雅の雑多話

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明智光秀探訪1~丸岡城、国神神社、称念寺(付・本能寺の変の動機についての一考)

 2020年のNHK大河ドラマは「麒麟がくる」ですが、これが決まったときから、明智光秀関連の史跡とその周辺にある、まだ行っていない式内社はこの年にまとめて訪れることにしたので、今年は1年かけてまわるつもりでいます。「まっぷる明智光秀」も買いましたし。

 

 さて、兼六園金沢城のライトアップを見た翌日は、せっかく北陸まで来たのだから一乗谷永平寺でも行こうかと思い、9時半にホテルをチェックアウトし、54分発の特急サンダーバードに乗車。どちらもいつかは行こうと思っていて、いまだに行っていなかったので。公共の交通機関を使うのであれば、福井駅からバスを使うのがいいみたいだったので、とりあえず金沢〜福井の切符を往復で購入して乗りましたが、一乗谷で時間を取られて永平寺の滞在時間が短くなるようなら、またの機会にして違うところに行こうと思ったので、車中で金沢駅の観光案内所でもらってきた福井市周辺のパンフレットを検討。そうしたら、この時間から動くのでは両方は行けないだろうと思って今回はあきらめた称念寺丸岡城がまわれそうだったので、急きょ行き先を変更し、芦原温泉駅で下車して、約10分後に駅前から出発するバスに乗りました。事前にネットで調べたところ、丸岡城へ行くのにバスを使うなら福井駅丸岡駅発で、しかも丸岡駅は特急が停まらない上に、バスの本数も極端に少なく日中に3本ぐらいでアクセスが悪いため、福井駅から40分かけて行くしかないと思っていたので、タイムリー&ナイスな情報で助かりました。やはり地元で得る情報は違います。

 

 芦原温泉駅から20分ほどで丸岡城バス停に到着。ちょうど11時で、天守に行って戻ってくると12時を過ぎると思ったので、まずは腹ごしらえをすることに。 土産物屋を兼ねた「一筆啓上」という店がバス停前にあったので、そこで越前なので名物のぶっかけそばを食べることにしました。私が入ったときは、土産物屋の客だけで、そば処には誰もいませんでしたが、出るときには5組ぐらいいました。

越前おろしそば。石臼で挽いた地元産のそば粉を手打ちしているとのこと。そば粉の割合はわかりませんが、並そばと田舎そば風の2種類が味わえ、シンプルなので、2種の違いとそば本来の味が楽しめました。

 

 食事を済ませると、店の隣に見えている丸岡城天守へ。復元ではない現存天守は全国に12あり、丸岡城はその一つなので、城好きとしてはいつか行こうとは思っていました。――が、柴田勝家の甥が初代城主という地味な城ゆえ、姫路城、彦根城松江城弘前城やらに比べると思い入れが足りなかったため、このタイミングになってしまいました。光秀ゆかりの称念寺が近くになければ、訪れるのはもっと遅くなったかもしれません。何回か行っている彦根城松江城と違って、今度はいつ来られるかわからなかったので、初めて御城印をいただきました。寺社の御朱印と異なり、意味はなく、単なる訪問記念だとは思いましたが。

丸岡城。北陸で現存する唯一の天守。別名「霞ヶ城」。

丸岡城天守正面

 

 次の目的地である称念寺へは丸岡城から公共交通機関では行けないのでタクシーを使おうと思っていたのですが、城内の展示で丸岡城の近くに式内社の国神神社があることを知り、しかも丸岡の地名は当社の祭神から来ているとわかり、到底無視することはできなかったので、城の麓にある丸岡歴史民俗資料館を見学したあと歩いて向かうことにしました。徒歩10分もかからない場所だったので。丸岡城の入場券で入れる場所は民俗資料館の他、「一筆啓上 日本一短い手紙の館」という施設もあったのですが、予定になかった国神神社に寄ることになったので、そちらはスルーしました

丸岡歴史民俗資料館の入口にあった本多成重(六代城主、丸岡藩本多家初代)のかかし

 

 国神神社の祭神は椀子皇子。26代継体天皇が男大迹王と呼ばれて越前国を治めていたころに、倭姫を母として生まれた皇子です。男大迹王は25代武烈天皇が後嗣を残さずに崩御したため、武烈天皇の姉である手白香皇女を皇后として即位し、二人のあいだに生まれたのが29代欽明天皇――33代推古天皇の父親です。

国神神社の鳥居と社号標

 

 社務所でいただいた由緒書きによると、椀子皇子は父が即位する前年に「磨留古乎加(まるこのおか)」で生まれ、その胞衣を埋めて神明社としたのが当社の起源とのこと。磨留古乎加に降誕した皇子なので「椀子」と名付けられ、長じて湿地帯であった坂中井平野の治水開拓を進めたので、国土開発の神――すなわち「国神」として崇められました。

由緒についての説明板

 

 のちに「磨留古乎加」は「丸岡」と表されるようになり、丸岡の地にあった国神神社を遷座して建てられたのが丸岡城です。“岡”という地名が示すように、丸岡は平野の中で独立した小高い丘陵なので、城を建てるにあたって最適な場所だったのだと思われます。そして、椀子皇子の生誕地ということは、そこに男大迹王の宮があったということに他なりません。つまり、城が建てられるずっと前――1500年前の昔からこの地を治めるのに一番適した場所とされてきた、ということです。

 

 福井大地震で倒壊焼失したため、現在の社殿は昭和30年代に完成したものとのことで比較的新しく、建造物としての見どころはないため、本殿に参拝し、社務所御朱印と由緒書きをいただくと、国神神社を後にして称念寺に向かって歩きはじめました。30分あれば着くだろうという、けっこうな距離でしたが、丸岡城まで戻ってタクシーを呼ぶのも億劫だったので。丸岡城にタクシーは常時いないため、どうしたらいいか一筆啓上茶屋のレジのおねーサンに訊いたのですが、店の入口にある直通電話で呼ぶとのこと。なので、10分歩いて店まで戻り、それからタクシーを呼んで来るまで待って乗っていくのなら、30分歩くのも同じような気がしました。単に体力が要るというだけで。その点、あえて日頃鍛えているわけではありませんが、寺社巡りをしているときには休憩を挟みつつも数時間歩き続けることなどざらなので、大して苦ではなく、また、国神神社は丸岡の肝ともいえる場所だったので、現地情報のおかげで寄ることができて気分もよかったので、わりと上機嫌で歩いていました。古い土地柄ゆえ、途中で他にも興味深い神社に出合えるかもしれないという期待もありましたし。

 

 結局出合えたのは八幡神社ぐらいでしたが、県道10号を歩いていると斜め前方の田んぼの中に神社の鎮守の杜のようなものが見えてきて、方向を考えると称念寺であることは間違いないので、ずいぶん早く目的地が確認できて励まされました。何故寺なのに神社のような鎮守の杜があるのか、新田義貞墓所があるからなのか等々考えながら、坂井警察署を越えたところの交差点で県道を左に曲がり、鎮守の杜の真ん前に建設されている北陸新幹線の工事中の高架橋を左に見ながら数百メートル歩くと、ようやく称念寺に到着。見積もったとおり、国神神社から25分ぐらいでした。

 

 いい機会なので、今年は明智光秀関連の史跡を訪ねながら神社巡りをしようと思い、改めて光秀について調べている中で知ったのですが、称念寺織田信長に仕える前の光秀が家族と共に暮らしていた場所だそうです。ゆかりの地であることをアピールする幟旗やら看板やらが本堂の前にたくさんありました。

称念寺本堂前。何種類もの幟旗が立っていました。気合いが入っています。

こんな看板もありました。

 

 称念寺養老5年(711)に44代元正天皇の勅願によって白山信仰の開山である泰澄が建立した阿弥陀堂が起源で、鎌倉時代一遍上人時宗を開くと、その教えを広めるため北陸の地で遊行(布教)をしていた真教上人(一遍の弟子、時宗2代目)によって念仏道場とされ、今に至るとのこと。ということで、現住職はなんと41代目だそうです。このご住職が称念寺叢書というミニ冊子のシリーズを発行していて、事前にホームページでタイトルを見たのですが、何冊か興味深いものがあったので、今回下記の4冊を購入してきました。

 

『改訂 明智光秀公と時衆・称念寺

松尾芭蕉翁と時衆・称念寺ー黒髪伝説を通してー』

白山信仰と泰澄大師』

明智光秀公夫人熙子さんと時衆・称念寺

 

 「時衆」とは時宗の誤植ではなく、時宗のお坊さんのことだそうです。以下これらの冊子から得た情報によると、称念寺には浪人時代の明智光秀が当寺の住職の世話で寺子屋を開きながら生活していたという言い伝えがあったそうで、長らく証明するものがなく作り話といわれてきましたが、『遊行三十一祖京畿御修行記』という、時宗の総本山である遊行寺の31代住職である同念上人が書き残した業務日誌が残っていて、それによって単なる言い伝えではないことがはっきりしたとのことです。

 

 斎藤道山・義龍父子が争った長良川の戦いで、道山に仕える家臣であり彼の正室を出している明智一族として道山側についた光秀は、義龍に主君と居城の明智城を滅ぼされて浪人の身となり、一族は離散しました。叔父光安から明智家再興を託されて落ちる城から逃がされた光秀一家は、称念寺の薗阿上人を頼って美濃から越前に落ち延びました。というのも、その昔、光秀の父である明智光綱亡きあと、母の小牧は姑に嫌われて明智家を出されたため、腰元の竹川の縁を頼って、彼女の伯母が庵主を務める若狭小浜の西福庵に身を寄せていたことがあり、まだ幼かった光秀も母に連れられ一緒に小浜に移って西福庵で過ごし、その西福庵の本寺が称念寺で、そのため竹川が亡くなると称念寺の上人が回向するなど、少なからぬ縁があったからです。そして称念寺に落ち着くと、上人の勧めで門前で寺子屋を開いて日々の糧を得る浪人生活を始めたそうです。そうして10年ほど過ごしたようで、有名な黒髪伝説はその間のエピソードとのことでした。

 

 黒髪伝説とは、とある日、光秀が宴席を設けて接待をすることになったが、その資金がなくて困っていたところ、妻の熙子が黒髪を売って金子を調達し、無事に宴を催し面目を施したという話です。のちに光秀が築城した近江の坂本城跡の近くにある明智一族の菩提寺――西教寺には「月さびよ 明智が妻の咄しせむ」という松尾芭蕉の句碑があるのですが、同じ句碑が称念寺にもありました。光秀は側室を持たなかったので、「明智が妻」といえば熙子のことです。糟糠の妻たる熙子の黒髪伝説を知った芭蕉は、『奥の細道』の旅のあと訪れた伊勢で、弟子である島崎又玄とその妻から貧しいながらも心のこもった接待を受けると、甲斐甲斐しく働く妻を熙子に例えて讃え、二人にこの句を贈り、不遇な生活を送る夫妻を励ましたとのことです。

松尾芭蕉の句碑。「さすが芭蕉翁、ここにも来ていましたか」と改めて敬服しましたが、これだけ度重なれば、もう驚きません。もはや、さすらいの俳人というより、江戸のスーパーマンだと思っているので……。芭蕉に匹敵、あるいは彼を凌ぐのは、伊能忠敬ぐらいだと思います。

句碑近くにあった説明書き

 

 冊子によると、黒髪伝説の詳細は、落ちぶれてしまった明智家を再興するため、斎藤家に代わる仕官先を探していた光秀が、薗阿上人の口添えで、当時越前を治めていた守護大名朝倉家の家臣たちを招いて連歌の会を開くことになり、自身を売り込む絶好の機会を得たのはよかったのですが、寺子屋の収入だけで何分逼迫していたため、客を十分にもてなすだけの蓄えがなく、妻の熙子が黒髪を売って宴の費用を工面し、朝倉家ないしは朝倉家家臣である黒坂家に仕官が叶った――ということみたいです。

 

 また、称念寺で過ごした10年のあいだには、三女の玉も生まれたとのこと。のちの細川ガラシャ細川忠興室)です。よって、称念寺細川ガラシャゆかりの寺でもあり、それゆえにか、ここには光秀とお玉のかかしがいました。ちなみに、長女(荒木村安、のち明智秀満室)は美濃で生まれ、次女(明智光忠室)は美濃から越前に逃れるときに熙子のお腹にいたそうです。

本堂にいた光秀・お玉(細川ガラシャ)父子のかかし

 

 ということで、称念寺元正天皇勅願寺であり、新田義貞の菩提所であり、室町将軍家の祈祷所であるため、武力権力の及ばない安全地帯で、それゆえ新田家の家来が逃げ込むなど、駆け込み寺的なところがあったと冊子には書かれています。称念寺の御本尊は阿弥陀如来なのですが、内陣の厨子の中には新田義貞の像が納められていて、阿弥陀如来像は脇壇に置かれていたので、この寺における新田義貞の重要性と、彼の菩提所であることの誇りがひしひしと感じられました。御朱印を書いてもらうあいだに聞いた話では、この像は義貞の生前だか死して間もなくだかに作られたそうで(うろ覚え)、したがって義貞の姿を忠実に写している像とのことでした。称念寺は神社ではなく、あくまで寺なので、ご神像というわけではないようでしたが。

新田義貞墓所

 

 明智氏は、清和源氏3代目の源頼光を祖とする摂津源氏美濃源氏嫡流である土岐氏の支流で、美濃源氏とは摂津源氏の中でも頼光の孫で美濃に土着した国房の血筋をいい、彼の子孫がのちに土岐氏を名乗り、この土岐氏から分かれたのが明智氏です。新田氏は、河内源氏嫡流で、河内源氏の祖は頼光の弟である頼信ですが、頼信の孫である八幡太郎義家が鎌倉将軍家の祖となったので、兄頼光ではなく弟頼信の血筋が源氏の主流となりました。つまり、光秀も清和源氏の血筋だったから称念寺を頼ることにしたのかもしれません。敗れたとはいえ足利氏と並ぶ清和源氏嫡流筋である新田義貞の菩提所であるがゆえに、足利将軍家も手が出せない場所であり、なおかつ清和源氏に対する庇護が期待できるということで……。そうはいっても、相応の伝手がなければ門前払いされかねないので、もちろん個人的な縁があったことが一番の理由だとは思いますが。

 

 以上のようなことを改めて知ると、本能寺の変という歴史的大事件が今までとは違って見えてきました。平安時代、江戸時代、古代に比べると勉強不足の時代で、資料および研究書など関連文献をほとんど読んでいないので、そうではないかと想像されるとしか言いようがないのですが……。

 

 本能寺の変が起こったの天正10年(1582)、4年前の天正6年4月に右大臣の任を辞して以降朝廷の官職に就かず散位のままだった信長に、征夷大将軍太政大臣、関白のいずれかの任に就くことが提案されました。いわゆる「三職推任問題」です。朝廷と信長どちらの側から持ちかけられた話なのかは不明ですが、朝廷側の代表である武家伝奏の勧修寺晴豊と信長側の代表である京都所司代村井貞勝のあいだで、4月25日と5月4日の両日話し合いが持たれたことが晴豊の日記『晴豊公記』から判明しています。それから1か月もたたないうちに本能寺の変が起こったので、信長の回答や彼の真意がどこにあったかはわからないままですが、この会談から間もない6月2日に光秀が信長を討ったことを考えると、その理由はこの問題とは無関係ではないと思われます。天下人になるという野心や些末な私怨が理由ではないでしょう。おそらく危機感です。自分個人に対するものではなく、世の中や源氏一族に対しての……。ということで、考えられるのは次のとおり。

 

信長の征夷大将軍就任――真偽のほどはともかく、信長は自らの出自を平氏としています。源頼朝以降、清和源氏が担ってきた征夷大将軍の職を平氏出身の信長に奪われ、源氏(主に清和源氏)の立場が悪くなり、信長が樹立する武家政権(幕府)の蚊帳の外に追いやられ、清和源氏が弱体化することを恐れた。

信長の太政大臣就任――平氏を自称する信長が太政大臣となり、平氏出身太政大臣の悪しき先例である平清盛のように同族ばかりを重用する悪政を行い、今以上に世が乱れることを恐れた。

信長の関白就任――武家出身の関白は先例がないため(豊臣秀吉が初例)、それは旧来の政治秩序の瓦解のように思え、また、信長の行為が将軍を追放したり天皇に譲位を迫るだけでは済まなくなり、いずれ自らが天皇に代わる地位に就こうとするのを恐れた。

 

 足利将軍家が弱体化し武家を統率する力がなくなったため、武士のあいだでは下剋上がさかんになり戦乱の世となりました。そんな乱世を平定させるため、清和源氏の出である光秀は清和源氏嫡流である将軍家の再興をはかり、13代室町将軍義輝が三好三人衆に殺されると義輝の弟である義昭の将軍擁立に力を貸し、将軍家を存続させようとしました。けれども、当の義昭が器量不足で、もはや将軍家には乱れた天下を仕切り直し平穏な世に戻す力はないと見切りをつけると、天下統一に一番近いところにいる信長に仕えて、彼のもとで鬼神のように八面六臂の働きをし、数々の武功を立てました。

 

 ところが、信長の三職推任問題が起こったことによって、征夷大将軍にしろ太政大臣にしろ関白にしろ、極官を得た信長が将来的にやろうとしていることは、自分が目指しているものとは違うということがわかったのではないでしょうか。

 

 おそらく信長は、これまでの既得権力を撤廃することを考えていたと思います――さながら明治維新のように。正親町天皇に対する態度などから想像するに、無条件に天皇を絶対的存在として尊崇していたとは言いがたく、日本が諸外国に追いつき、彼らと対等に付き合う先進国家となるためには天皇制は旧い体制で弊害と考え、廃止することも視野に入れていたかもしれません。一方の光秀は、将軍家が栄華を誇った足利義満政権下のような、清和源氏の棟梁がすべての武士を統べ、天皇を頂点とする朝廷を支える平和な世への回帰を望んでいたように思えます。正親町天皇の要請を受けて盧山寺焼き討ちをやめるよう信長に進言し実際に止めさせたのも、光秀が天皇の申し出を重く受け止めたからで、つまり天皇を蔑ろにしていなかったからだと思います。よって、将軍が民間人になり武士が特権階級ではなくなる180度世界が変わった明治の世のような変革は考えていなかったでしょう――武家の名門に連なる血筋ゆえに。

 

 光秀は自分が清和源氏の血筋であることに誇りを持っていたのだと思います。朝倉家は、光秀にとって苦しい浪人の身分から取り立ててくれた恩のある家でしたが、清和源氏嫡流で武士の棟梁である足利将軍家断絶の危機にあたって腰が重く動こうとしなかったので見限りました。信長の家臣となる以前から細川藤孝(幽斎)と懇意にしていたのも清和源氏の家同士だったからかもしれません。つまるところ、武士の世というか、清和源氏が武士の棟梁である世を守るために起こしたのが本能寺の変だったのかもしれない――と思います。例えれば、新しい時代の波を起こした薩長に対して今までどおりを守ろうとして幕府方の武士たちが抗った戊辰戦争みたいなものです。こういったことは旧体制が破綻しているからこそ生じる、起こるべくして起こる、いわば必然なので、古きが新しきに勝てることは、まずありません。時はけっしてとどまることなく、時代は確実に動いているのですから……。流れと同じ方向を向いているものは勢いが違います。流れに逆らうのは気力体力が要り、逆らっても結局は流され、遅ればせながらも流れに乗れればいいですが、力尽き飲み込まれて終わるかもしれしません。それが感覚的にわかっていたというか感じるところがあったから、藤孝らは光秀の誘いに応じなかったのでしょう。

 

 落ちぶれたとはいえ腐っても清和源氏の血筋である光秀と違い、武家出身ですらない秀吉は、信長が天下統一の先に見ていたと思われる実力主義の世の象徴的な存在で、まさに下剋上が正当化され群雄が割拠するという新しい時代の寵児でした。その流れを止めたり引き戻そうとしても、上から下に流れはじめたものは戻ることはないのが自然の摂理です。ストッパーがなければ止まることもありません。光秀は天運というよりも時代に見放されたのだと思います。

 

 義貞の墓所にお参りしたあと、1日6本しかないバスの時間が近づいていたので称念寺を後にし、歩いて10分ほどのところにある最寄りの舟寄バス停からバスに乗り、丸岡駅へ。2時半前に駅に到着しましたが、これから福井に出ても時間的に何も見られそうになかったので、金沢に戻ることにしました。6時前に金沢駅を出発する新幹線の切符を取っていたので、1本早いかがやきに変更できればしようと思っていましたが、乗変できず中途半端な時間ができてしまったときのために、短時間で行けるような神社がないか電車移動中にスマホで調べると、小松駅から徒歩7分という式内社を見つけたので、小松駅で下車。莵橋神社へと向かいました。

莵橋神社の鳥居と社号標

 

 当社の祭神は、莵橋大神と諏訪大神。莵橋大神は、神社の所在地である加賀国能美郡莵橋郷の産土神とのことなので、名は不明ですが、この地の国神であり、諏訪大神は建御名方命とその妃神である八坂刀賣命。社伝によれば、建御名方命ことタケミナカタは父の大国主命(オホナムチ)と共に加賀の地に到り、まず洪水を治めて暴風を防ぎ、国土を開拓し、農耕、機械、殖産の道を教えて民衆の生業を助けた後、諏訪の地に赴いたとのこと。『旧事本紀』によれば、タケミナカタの母は越国のヌナカワヒメなので、父のオホナムチは出雲出身ですが、父の北陸経営を手伝って小松一帯の開拓に携わり、それから諏訪に行ったというのは十分にありえる話で、おそらく神話ではなく史実なのだと思います。

 

 当社にも松尾芭蕉の句碑があったらしいのですが、あとから知ったことで、訪れたときには知らなかったので、残念ながら気づかず。境内社などをひととおり見たあと御朱印をいただき、小松駅へと戻りました。

 

 駅に着くと電車のタイミングが悪く、金沢行きの発車時刻まで30分ほどあったので、駅構内にある加賀白山そばの店に入り、かけそばを食べて時間をつぶすことにしました。次の電車で金沢に戻っても1本前のかがやきには間に合わないので、金沢駅に着くと、ホテルに預けた荷物を引き取り、駅ビル内の土産物屋へ。駅弁と、タカラ缶チューハイが見つけられなかったので角ハイボール缶を買い、予定どおり17時55分発の新幹線に乗車。これにて遠征終了です。