2月の3連休は妙心寺の明智風呂が見たくて京都に行ってきました。京都市と京都市観光協会がJRと組んで毎年実施している「京の冬の旅」の非公開文化財特別公開の企画で現在公開されているのですが、期間が3月18日までで、3月の3連休では間に合わないため、気合いで新型コロナウィルスを蹴散らすつもりで二泊三日の旅を決行しました。
今回の「京の冬の旅」のテーマは「明智光秀と戦国の英傑たち」および「京の御大礼 雅の御所文化」。ということで、個人的にものすごくツボにはまっていたので、15ある特別公開施設のうち半分の8か所を見てきました。こんなことは初めてです。「京の冬の旅」や「京の夏の旅」の特別公開にはよく行っていますが、特別公開をしていても興味のないところは見向きもしない性格ゆえ、これまでは行っても一度の旅で3か所ぐらいだったので。
初日はまず一番の目的である明智風呂を見に妙心寺へ――。3連休前の金曜日、仕事を終えたあと東京駅に出て7時半過ぎの新幹線に乗り、夜10時に京都駅に着いて駅前のホテルに前泊していたので、拝観時間が始まる朝9時には最寄り駅である花園駅にいたのですが、電車移動中に確認したところ特別公開は10時始まりだったので、駅から歩いて12、3分で行けそうな場所にある蚕の社こと木嶋坐天照御魂神社へと向かいました。この神社は以前に行ったことがあり、その時の遠征記も祭神についての考察も記事にしてアップ済みなので、今回は本殿と三柱鳥居にお参りだけして花園駅に戻りました。途中で雨も降ってきたので。
木嶋坐天照御魂神社の鳥居と社号標
由緒書き
駅から蚕の社とは反対方面に5分ほど歩くと、妙心寺に到着。9時半過ぎで、やはりまだ明智風呂は開いていなくて、チケット売り場や入口の設営が始まったところだったので、先に通常拝観で見られる法堂と大庫裏を見ることにしました。といっても、自由見学できるわけではなく、9時10分からほぼ20分間隔で行われるガイドツアーによる拝観のみなので、次の開始時間である9時50分まで10分ほど待つことに。御朱印をいただいたあとは、受付近くの待合所に最寄り駅やバス停の時刻表が貼り出されていたので、妙心寺の次の目的地である大徳寺への行き方を検討したりしていました。
浴室(明智風呂)正面。時間になると扉が開いてここから中に入るのですが、行ったときはまだ閉まっていました。
妙心寺を訪れたのは今回が初めてだったのですが、受付で拝観料を払ってチケットとリーフフレットをもらったときに、驚きのあまり目を剥きました。リーフフレットはB4サイズで、一面が狩野探幽の雲龍図……「この天井画って、この寺にあったのか!!!」と声に出したいのを我慢して心中で叫びました。興味が寺から神社にシフトして以降、仏像以外の寺宝については積極的に情報を得ようとしていなかったので所在地に関する記憶はありませんでしたが、探幽のこの絵は、天井に描かれた雲龍図の中で私が一番の傑作だと思っている作品です。天龍寺の加山又造作などを見ても、やっぱり探幽のほうがいいと思いましたし。なので、「こういうパンフレットをもらえることがわかっていたら、丸めて入れられる筒を持ってきたのに~」と悔しく思いながらも、B4サイズの紙をそのまま持ち歩くわけにはいかなかったので、やや断腸の思いで四つ折りにし、旅行の時には必ず持ち歩いているA5 ファイルにしまいました。
雲龍図のB4リーフレット。反対面は妙心寺の説明書きがB5、B6サイズの面付でレイアウトされていて、四つ折りするとB6サイズのパンフレットになります。
集合時間になり、参加者は私と他1名、ガイドを入れて計3人のツアーでした。3連休初日にしては少ない気がしましたが、新型コロナウィルスによる観光客減の影響があり、しかも雨降りの上、10分後には明智風呂の公開が始まるので、まあこんなものかもしれないと思いつつ、まず法堂へと案内されたのですが、いきなり天井画にノックアウトされました。昔仕事で複製画を取り扱っていたこともあり、絵としては見慣れた作品で、構図や筆致の見事さに惚れ込んでいたのですが……実物はもっと凄かった。あんなに天井を眺めたのは若冲の天井画を見に行った信行寺以来だったと思います。システィーナ礼拝堂のミケランジェロ作の天井画と同じぐらい、絵に携わっている人間は見たほうがいい、見るべきだと思った作品でした。ガイドの説明によると、龍がいる円は直径12メートルで、構想3年、執筆5年の計8年をかけて探幽が55歳の時に完成させた作品とのこと。東西南北四方のどこから見ても目が合う「八方睨み」と呼ばれる龍、デコパージュの立体画のように浮き上がって見える鱗……何故そう見えるのか、何故そう見えるように計算して描けるのか不思議でたまりませんでした。さらに驚くことに、この天井画は一度も修復をしていないそうで、描写力、表現力だけでなく、350年以上経っても色褪せない絵を描いたという点でも、やはり探幽は類稀なる天才だと思いました。
法堂には文武2年(698)に鋳造された日本最古の梵鐘も展示されていました。現在鐘楼にあるのはこちらを模して造られた二代目で、初代は昭和48年まで現役で活躍し、毎年「ゆく年くる年」の冒頭で紹介されていましたが、これ以上撞くとヒビが入って割れる危険性があるので引退したとのこと。現在は実物の前で録音した鐘の音を聞かせてくれます。法堂は妙心寺の伽藍で一番大きい建物で、しかもその日は雨だったので常にも増して薄暗く、そんな中で21世紀の2020年に、狩野探幽の八方睨みの龍が見守る江戸初期建造のお堂で、氷高皇女(元正天皇)時代に造られた鐘の音を聞いているという空間はなんとも摩訶不思議な気がしました。1300年の時を一気に越えるような……。精神的タイムトリップという感じ。次に大庫裏に案内されましたが、法堂が凄すぎて、もはやおまけのようなものでした。
大庫裏正面
現地解散でガイドツアーが終了し、10時10分ぐらいだったので、続いて特別公開を見に行きました。仮設のチケット売り場でチケットとガイドブックを購入し、さらに明智風呂と仏殿の書き置きの御朱印もあったので、そちらも両方いただいて、まずは順路に従い、仏殿から拝観。ここには御本尊の釈迦如来像が祀られていて、御本尊の右手奥にある祠堂には「明叟玄智大禅定門」の戒名が記された位牌が祀られていました。「明叟玄智大禅定門」の俗名は明智光秀――つまり光秀の位牌です。この仏殿は「京の冬の旅」では初公開で、ボランティアガイドの話によると、今年の大河ドラマの主人公である明智光秀とゆかりのある寺ということで公開依頼がきたので公開することにした――とのことでした。大河ドラマの影響は大きいですね。ありがとうNHK、と思いました。基本的に興味のあるところしか行かない人間で、そのため訪れる場所については事前に知っていることが多いので、いつもはほとんどメモを取らないのですが、戦国時代に関しては知識の蓄積が少なかったので、今回の旅ではかなり真面目にメモを取りました。スマホの入力ではとても追いつかなかったので。パンフレットの余白に走り書き殴り書きでしたが(笑)。
妙心寺仏殿(手前)と法堂(奥)
仏殿の次はいよいよ「明智風呂」こと浴室へ――。禅宗寺院の正式な建築法である七堂伽藍は山門、仏殿、法堂、庫裏、僧堂、浴室、東司で構成されますが、そのうちの一つである浴室は心身を清浄にするための修行の場であり、また信者が僧侶のために風呂を施し、その見返りとして供養を依頼する「施浴」のための施設とされています。妙心寺の浴室は、光秀の母方の叔父にあたる妙心寺塔頭大嶺院住職の密宗紹檢が光秀の菩提を弔うために建立したといわれ、そのため通称「明智風呂」と呼ばれています。妙心寺史には、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変のあと、光秀は妙心寺に現れて白銀10枚を置いて帰ったという記録があるそうで、密宗和尚はその白銀を用いて光秀の死から5年後に浴室を建てて光秀供養の場とし、以後光秀の月命日である毎月14日には「開浴」の札が掲げられて僧侶が入浴して光秀の供養を行い、それ以外の日は「施浴」の札が掲げられて庶民に解放され、供養をすると風呂に入ることができたみたいです。
明智風呂特別公開の看板
風呂の正面。下段の引き戸が出入り口、中段が温度調節用、上段が明かり取りだそうです。
手前の床に風呂と平行に走っている細長い板の下は排水路で、ここに水が集まるように床が中央に向かって少々斜めに下がっているのがわかります。写真中央部の風呂の右手奥に見える部屋は脱衣所だそうです。
風呂の裏側。井戸の水をここの釜で沸かして、蓋が開いている口から入れます。湯船はなく、サウナのような蒸し風呂形式です。
明智風呂の次は、近くなので妙心寺玉鳳院の特別公開へと向かいました。花園法皇の離宮を禅寺に改めたことを起源とする妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山で46の塔頭がある日本最大の禅寺ですが、その離宮跡が玉鳳院で、したがって山内最古の塔頭寺院である――とのことでしたが、花園天皇にはあまり関心がないため、サクッと見て終了。織田家と武田家の石塔が並んで立っているのはおもしろく思いましたが。
玉鳳院を後にすると、妙心寺北門から出て龍安寺駅まで歩いて嵐電北野線に乗り、終点の北野白梅町まで行ってバスに乗り換え、大徳寺前バス停で下車。ちょうど12時になろうかというところだったので、大徳寺に行く前に腹ごなしをしておこうと思い、雨も降っていて歩きまわるのも億劫だったので、バス停から大徳寺総門に向かう途中にあった蕎麦屋に入って昼御飯を食べることにしました。
食事後、大徳寺本坊の特別公開へ。今回は法堂、方丈、唐門が公開されていて、こちらでも狩野探幽の素晴らしい雲龍図の天井画が見られました。妙心寺の雲龍図から20年前――探幽35歳の時の作品で、妙心寺の雲龍図はまさしく集大成であり、大徳寺の天井画を手がけた経験があったからこそあそこまで見事な完成度の高い雲龍図が生まれたのだろうと思える作品でした。妙心寺の龍は「八方睨みの龍」と呼ばれていますが、大徳寺の龍は下で手を打つとブルルルという共鳴音がして龍が鳴いているように聞こえることから「鳴き龍」と呼ばれています。
大徳寺特別公開の看板
方丈から法堂に行くあいだには、スリッパではなくクロックスサンダルが用意されていて、そんなことは初めてだったので、何故こんなものを履くのかわからなかったのですが、法堂を見たあとそのまま外に出て唐門を正面から見られるようになっていました。大徳寺の唐門は豊臣秀吉の聚楽第の遺構と伝えられ、桃山時代の代表的な建築物であり、国宝にも指定されています。方丈から内側が見えますが、やはり見どころは装飾性豊かな外側。いかにも秀吉好みのきらびやかさで、日光の陽明門を思い出しましたが、これが桃山時代の流行なのだろうと思いました。ともあれ、間近で見られてよかったです。その日は雨が降っていたので、傘の貸し出しもあり、まさに至れり尽くせり。運営の努力に頭が下がる思いでした。
あとで大徳寺でいただいたパンフレットを読むと、興味深いことが書かれていました。この聚楽第の遺構である唐門は、日光東照宮の日暮門の模型となっているとのこと。ならば、陽明門を思い出したのも、あながち的外れではなかったということです。日暮門とは陽明門の別称なので……いつまで見ていても見飽きないことから、そう呼ばれています。また、明治になってから明智門があった今の場所に移建されたとのことで、「明智門」とは明智光秀が本能寺の変後に母の菩提を弔うため大徳寺に寄進した銀100枚だか金1000枚だかを使って(諸説あり)建てられたと伝わる唐門のことですが、こちらは南禅寺塔頭の金地院に移建されました。金地院にあった伏見城の唐門が豊国神社に移されたためだそうです。まさに唐門の玉突き状態です。
本坊を出るときに御朱印をいただこうとしたら書き置きしかなかったので紙でいただき、次に隣の隣にある塔頭の総見院へと向かいました。臨済宗大徳寺派の大本山である大徳寺には22の塔頭寺院があり、そのほとんどが非公開のため、行ったことがあるのは、本坊と総見院のあいだにある聚光院ぐらいで、それも仕事で御縁があって訪ねただけでした。その折に狩野永徳の襖絵は見せてもらいましたが。ということで、本坊も総見院も、妙心寺や玉鳳院と同じく、今回が初めての拝観。こちらも御朱印は書き置きでした。通常非公開の寺院は御朱印受付の体制を整える必要がないので対応しきれず、その場でいちいち書いてはいられないのだと思います。
ところで、織田信長の戒名は「総見院殿贈大相國一品泰厳大居士」ですが、それと同じ名であることからもわかるように、総見院は言わずと知れた織田信長の菩提寺です。豊臣秀吉が信長の一周忌に間に合うように建立、よって御本尊は織田信長ということになります。今回の特別公開では秀吉が一周忌の法要に合わせて作らせた御本尊像――沈香に彫られた衣冠束帯姿の信長坐像(重要文化財) を見ることができました。制作時期が信長の死後からあまり経っていないことから、生前に近い姿ではないかといわれています。その他、境内には信長一族の墓もありました。
総見院特別公開の看板。「明智光秀と戦国の英傑たち」がテーマの京の冬の旅、光秀の次は信長です。
境内にある織田家の墓。これ以上引けなくて、左右が切れていますが、全部で七つの五輪塔がありました。参道正面に位置しているのは信長の五輪塔ですが、その向かって左にある次男信雄の五輪塔のほうが微妙に背が高いのはどこか不自然で、何か意味があるのではないかと、意図的なものを感じました。
墓碑案内図
創建当時のままの袴腰付鐘楼(重要文化財)
総見院を出て大徳寺境内を後にすると、大徳寺前バス停に戻り、市バスに乗って北野天満宮前バス停で降りて、北野天満宮に行きました。梅が見頃だろうと思ったからです。「お牛さまに願いを!」という展示をしていて、菅原氏を称する加賀前田家から奉納された太刀を5振公開しているというので、まずは宝物殿を見学。ここには源頼光が夢の中で天照大御神から受け取り、それを借り受けた家臣の渡辺綱が鬼の腕を切り落としたという逸話から「鬼切丸」と呼ばれる源家相伝の刀が展示されているので久しぶりに拝んできました。また今回は狩野探幽書の御神號「南無天満大自在天神」も見られたので、おもしろかったです。余談ですが、頼光は摂津源氏の祖なので、明智光秀の先祖になります。そして、頼光の鬼切丸は時を経て源家嫡流筋の新田義貞、続いて義貞を討った斯波高経の手に渡り、高経の子孫である最上家に伝わって、のちに売り出されたものが有志によって買い戻されて北野天満宮に奉納されたそうです(ウィキペディア情報)。
宝物殿を見たあとは本殿にお参り。本殿前には太宰府天満宮の梅と種が同じと伝わる「飛梅」があるのですが、思ったとおり、ちょうど見頃でした。「飛梅」は、菅原道真が九州に流罪になって都の自宅の庭の梅との別れを惜しんで歌を詠むと、梅が道真を慕って彼を追い、太宰府まで飛んできて根付いたという伝説の梅です。その時に詠まれたのが「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春なわすれそ」――。私は時平が好きなので道真が好きではなく、左遷についても藤原北家全盛の時流に逆らうように身分をわきまえず天皇の信頼を笠に着て調子に乗りすぎ周囲の反感を買ったせいなので自業自得だと思っているのですが、この歌は好きで、いい歌だと思っています。
飛梅と梅鉢紋入りの提灯
飛梅と本殿
飛梅は八重梅でした。
お参り後は観梅を楽しみつつ境内を散策し、梅苑に行く前に手前の絵馬所で御朱印授与所を覗くと、令和の限定御朱印があったので列に並んだら、朱印帳に書く列と同じだったので、思いのほか時間がかかり、梅苑に入苑するのがギリギリになってしまいました。
雨上がりの梅と南天
本殿裏の紅梅。残念ながら規模が小さい湯島天神ではこういう風景は拝めません。
本殿裏の白梅
梅苑から史跡に指定されている御土居(秀吉が敵襲や川の氾濫から京都を守るために作った土塁)に抜けられるのですが、御土居への入口は16時で閉まっていて、残念ながら行けず。仕方がないので苑内に戻って茶屋に行き、梅もまだろくに観ていませんでしたが、チケットに付いている券で飲めるお茶とお茶菓子をいただくことにしました。店の前では猿芸をやっていたのですが、時間がなかったので見ることもなく、麩焼きせんべいを梅こぶ茶で喉に流し込んで席を立ち、早足で苑内を巡りました。
梅苑の枝垂れ梅
枝垂れ梅と摂末社
梅苑の白梅
梅苑の紅梅
有識菓子御調進所「老松」の麩焼きせんべい「菅公梅」と梅こぶ茶「香梅煎」
4時20分になると、門が閉まるという案内があったので苑を出て、そのまま北野天満宮を後にし、最寄りの北野天満宮前バス停には行列ができていたので、一つ前の北野白梅町バス停まで歩き、そこから市バスに乗って京都駅へ。特別公開施設3か所でスタンプをもらえばいい「京の冬の旅」のスタンプラリーがコンプリートしていたので、駅構内にある京都総合観光案内所「京なび」に寄って記念品と引き換え。記念品は「京の冬の旅」の文字が入ったエコバッグでした。
そのあと駅前のホテルに戻り、シャンパーニュがメニューになかったので悩んだのですが、また雨が降りはじめた上に、ハッピーアワーの設定と宿泊者割引サービスでかなりお得になるので、地下のバーでスパークリングワインとハイボールを飲みながら軽めの夕食。これにて日程終了です。
北野天満宮でお土産に買って帰り、夕食後のデザート代わりにホテルで食べた「長五郎餅」。秀吉主催の北野大茶会で献上され、この餅を気に入った秀吉が、献上した河内屋長五郎の名を取って「長五郎餅」と命名したそうです。