羽生雅の雑多話

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京都寺社遠征&明智光秀紀行6 その2~田辺城、笶原神社、朝代神社、円隆寺

 4連休の二日目三日目は明智光秀探訪です。福知山の大河ドラマ館である光秀ミュージアムで、6月20日から7月27日まで、同じ人物に宛てた信長の朱印状と光秀の書状が初めてセットで展示され、また18日から27日の10日間は光秀を祀る御霊神社に残されている光秀の書状も展示され、さらに21日から27日の7日間だけ、現存する光秀の唯一の肖像画といわれる岸和田の本徳寺蔵の掛軸も展示されるということで、「これは行くしかない!」と思い、福知山まで足を運ぶことと相成りました。これだけの物を一度に見られる機会は次にいつあるかわからないので、明智光秀の謎解きに挑んでいる者としては至極当然の成り行きです。

f:id:hanyu_ya:20200808021621j:plain福知山駅構内で出迎えてくれた明智光秀麒麟らしきもの。この光秀は福知山市オリジナルの公式キャラクターで、市内のあちこちにいました。自動販売機とか(笑)。イラストを手がけたのは諏訪原寛幸さんだそうですが、やたらイケメンです。この他、福知山市には観光協会のイメージキャラクターである「光秀くんとひろこさん」というゆるキャラも存在し、こちらのデザインを手がけたのは『忍たま乱太郎』の作者である尼子騒兵衛さんとのこと。なんとも力の入ったシティプロモーションです。

 

 ということで、上記のごとく特別公開が目白押しの23日から26日は、ミュージアムも福知山城も8時まで開館時間が延長され、入館は7時半までだったので、この二つは夕方から訪れることにし、日中は光秀の首塚がある宮津の盛林寺か天橋立に行こうと思っていたのですが、土曜の天気予報は大雨だったので、悩んだ末に、舞鶴の田辺城址へ行くことにしました。福知山から電車で行けて、駅からそれほど遠くなく、あまり歩かずにすみそうなところを調べていたら、こちらに突き当たったので。ちなみに田辺城は、明智光秀と縁が深かった細川幽斎が築いた城です。

 

 10時17分福知山発の舞鶴線に乗り、55分に西舞鶴駅に到着。もともと舞鶴を訪れるつもりはなかったため、急きょスマホから得た情報しかなかったので、駅構内の観光案内所で地図をもらい、田辺城址の他に見どころがないか確認。城下町だからか市街地の西にある山の麓にいくつかの寺社仏閣があり、スマホで調べると、そのうちの一つである笶原神社式内社だったので、時間があれば寄ることにして歩き出しました。7分ほどで田辺城本丸の跡地に作られた舞鶴公園に到着。福知山のホテルから西舞鶴駅までは雨がまだ降っていなかったのですが、歩いているうちについに降ってきてしまいました。

f:id:hanyu_ya:20200808022229j:plain再建された田辺城大手門

 

 大手門では、田辺城城主だった細川幽斎こと細川藤孝をモデルにした舞鶴市ゆるキャラである「ゆうさいくん」が出迎えてくれました。なんと細川家公認だそうです(笑)。幕臣から織田信長の家臣となった藤孝は長岡京勝竜寺城を居城としていましたが、光秀が信長に丹波の制圧を命じられると、藤孝は丹後制圧を命じられ、平定後、丹後に領地を賜ったので宮津城に移り、のちに舞鶴に田辺城を築いて領国経営の中心としました。

f:id:hanyu_ya:20200808022323j:plain大手門にあった「ゆうさいくん」のパネル

 

 大手門の2階は田辺城資料館になっていて、入館料を支払う受付で田辺城の御城印を購入することができます。展示室は小さなものでしたが、いくつか気になった資料があったので、写真を撮らせていただきました。

f:id:hanyu_ya:20200808023621j:plain田辺城の御城印

f:id:hanyu_ya:20200808023712j:plain細川家の系図

f:id:hanyu_ya:20200808023757j:plain細川家が九州に移封となったあと田辺城の城主となった京極家の系図。なかなか興味深い縁戚関係です。

 

 田辺城は関ヶ原の戦いの前哨戦で激しい籠城戦の舞台となった城としても知られます。主君の菩提を弔うという理由で本能寺の変後に剃髪し、信長を討った光秀に味方せず袂を分かった藤孝は、田辺城を嫡男の忠興に譲り、丹後における最初の居城である宮津城に隠居していましたが、田辺城の城主である忠興が東軍に与して出陣したため、再び田辺城に入りました。そして、西軍の攻撃を受けて敵の手にかかる前に自害した忠興の妻・珠(光秀の娘)と同じく、敵の手にかかる前に城主不在の宮津城を焼き払い、田辺城に籠城。15000人の敵軍をわずか500人ほどの軍勢で迎え撃ちました。籠城戦が長引く中で、『古今和歌集』の秘事口伝の伝承者(古今伝授者)であった幽斎は、戦に敗れたあと自身が持つ「古今伝授の書」が戦火で喪失するのを恐れて、後陽成天皇に献上。そんな幽斎を惜しんだ後陽成天皇は両軍を仲介し、公家の勅使が田辺城に遣わされて、勅命による講和が結ばれ、幽斎はおよそ2か月に及ぶ籠城をやめて開城しました。関ヶ原で決着がつく二日前のことです。幽斎は田辺城を明け渡し、かつて光秀が築いた丹波亀山城に身柄を移されることになったので、この籠城戦は西軍勝利のようにも見えましたが、幽斎によって田辺城に釘付けにされていた15000人の兵は天下分け目の関ヶ原の決戦に間に合わなかったとのことなので、どちらが真の勝者であったかは明白です。

 

 結果的に幽斎の命を救うことになった「古今伝授」についてはまったく知らなかったのですが、時代に合ったユニークなシステムがあったのだと、たいそうおもしろく思いました。印刷技術がなかった中世以前は、本を読むためには筆写をすることが必要で、わからないことを教わるためには、その道の師匠に入門して講釈を受けなければなりませんでした。よく考えれば、もっともな話ですが……。よって、文学の肝は師から弟子への口伝で継承されるのが普通で、「古今伝授」は、歌道の最高峰である『古今和歌集』の講釈を師匠に入門して教わることで、師匠は正しく教え伝えるために、重要なことはそれを理解できる優れた弟子にのみ秘伝として伝えました。そして秘伝を授けることを「相伝」といい、受けることを「伝授」といったのです。つまり、幽斎が戦死するということは、歌道の奥義も失われるということでした。それゆえ天皇はみずから動いてまで戦を止めさせたのです。天皇家や公家における文学の重要性が察せられる、なんとも奥深い話です。世の中にはまだまだ知らないことがたくさんあります。

f:id:hanyu_ya:20200808025125j:plain西舞鶴駅でパネル展示されていた「古今伝授」についての解説

f:id:hanyu_ya:20200808025217j:plain田辺城資料館に貼ってあった「古今伝授」の方法

 

 資料館を出たあと、隣の彰古館へ行ってみると、スタッフも見物客も無人の館内に、細川幽斎に関するパネルが展示されていました。今まで見た光秀関連のパネル展示の中でも一番充実しているのではないかと思ったほど、かなり密度の濃い内容でした。

f:id:hanyu_ya:20200808025414j:plain光秀は理系の才人で幽斎は文系の才人という記述があるのですが、その評価は言い得て妙な気がしました。ただし連歌茶の湯の心得がある光秀のことを芸術的素養がなかったというのは少々言い過ぎで、いささか幽斎びいきが過ぎるのではないかと思いましたが。まあ確かに、光秀の字は上手いとは言えませんが。

f:id:hanyu_ya:20200808025604j:plainアナザー本能寺の変。教科書や歴史書に書いてあることだけが真実ではなく、すべてでもないということの典型です。だから歴史はおもしろいのです。光秀には光秀の、信長には信長の、そして藤孝には藤孝の本能寺の変がありました。

f:id:hanyu_ya:20200808025656j:plain本能寺の変後に光秀から藤孝に送られた手紙。言い訳がましいとか女々しいとか評されているため、実際の内容が知りたかったので、原文と現代語訳の両方がわかり、本当に嬉しかったです。

f:id:hanyu_ya:20200808025812j:plain幽斎と足利義昭のエピソードは知りませんでした。14年ぶりに再会した二人のあいだで何が語られたのか、大いに気になります。小説になりそうな場面ですね。

f:id:hanyu_ya:20200808025908j:plainアナザー関ヶ原の合戦。田辺城だけでなく、こんなエピソードが各地にあったのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20200808030006j:plain田辺城資料館にあった「古今伝授の方法」に書いてあった⑦証明状の実物が見られました。幽斎の師は公家の三条西実枝で、「古今伝授」は三條西家の一子相伝の秘事だったのですが、いつ戦乱に巻き込まれるかわからない戦国の世に、実枝の子である公国は幼くて伝授者の資格を得るまでに相当の時間がかかるので、いずれ三條西家に相伝することを約して弟子の藤孝に相伝したそうです。三條西家以外、しかも藤孝は公家ですらなく、それにもかかわらず選ばれたということは、数いる弟子の中でも「優れた弟子」だったのでしょう。

f:id:hanyu_ya:20200808030053j:plain参考文献一覧。学術論文並みの数で、舞鶴市の気合いが感じられます。ぜひ多くの人に見てほしいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20200808030250j:plain大手門を入って左手にある「彰古館」。田辺城の隅櫓を模して昭和15年(1940)に建てられた文化財陳列館だそうです。オレンジ色の幟は大河ドラマの幟でしたが、書かれている文言は「細川幽斎ゆかりの地」でした。まあ、光秀ゆかりの地ではありませんから、正直でいいと思います。

 

 彰古館を出ると、雨が強くなっていたのですが、時間があったので、舞鶴公園内にある心種園に寄ってから笶原神社へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20200808232011j:plain幽斎が後陽成天皇に献上する「古今伝授」の秘伝書を託した場所と伝わる田辺城の庭園「心種園」。庭園名は、秘伝書に添えられていた「いにしへも今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」という幽斎の歌から命名されたそうです。

f:id:hanyu_ya:20200808232052j:plain百合のようなピンク色の花がたいへんきれいでした。

 

 次に訪れた笶原神社は、鳥居前にあった説明によれば、天平勝宝元年(749)頃の創建で、祭神は天照大神豊受大神月夜見神。合殿には清和天皇宇多天皇が祀られているそうで、かつては魚居社(まないのやしろ)とも呼ばれ、古代海部や凡海連と関わりがあるとのことでした。

f:id:hanyu_ya:20200808232307j:plain笶原神社の鳥居と本殿

f:id:hanyu_ya:20200808232348j:plain鳥居前にあった説明

f:id:hanyu_ya:20200808232426j:plain由緒書き。「笑」ではなく「笶」で、「やはらじんじゃ」と読みます。

 

 奈良時代の創建で、天照大神豊受大神を祀り、「“まない”のやしろ」と呼ばれ、古代海部――つまり丹後国造であった海部直と関わりがあるというのなら、当社は確実に今なお海部氏が宮司を務めている丹後一宮――籠神社の奥宮である“真名井”神社を勧請したのだと思います。籠神社の現祭神は彦火明命で、この神は海部の祖神でもあるので。あるいは、笶原神社の地理を考えると、皇祖神のニ神が宮津から伊勢に遷座する際に立ち寄った場所の一つとも考えられます。つまり元伊勢です。もしそうならば、この神社で一番重要なのは、真名井神社とは関係がないにもかかわらず祀られている月夜見神かもしれません。奈良時代に皇祖神のニ神が祭神とされる前はこの神がこの地に祀られていたのではないかと思います。というのも、式内社であることからも、笶原神社の起源はもっと古いように思えるからです。

 

 もう一つ、元々の祭神は火産霊神だったのではないかという可能性も挙げられます。

 

 笶原神社の南北には、本殿の背後にある山の裾に沿うようにして寺社仏閣が点在しますが、いずれも笶原神社より後の時代に創建されたものだと思うので、背後の山は他でもない笶原神社御神体なのだと思います。実際に本殿の右脇から山上へと続く道が存在し、境内社もありましたし。

f:id:hanyu_ya:20200808233123j:plain本殿背後の山に続く道と境内社の鳥居と社

 

 雨だったので登るのはやめましたが、家に帰ってから調べたところ、山の名前は愛宕山で、境内社愛宕社のようなので、山を御神体とする古代祭祀の形態で祀られた元々の祭神は、皇祖神に追いやられて現在は境内社の祭神となっている火産霊神とも考えられます。境内社の祭神は確認していませんが、愛宕社なら火産霊神か、その同一神である迦具土命のはずなので。清和天皇宇多天皇が合祀されている理由は不明。清和源氏宇多源氏の祖なので、源氏一族と関係があるのかもしれません。

 

 笶原神社の鳥居前の道を南へ進むと、近世に田辺藩町方の産土神とされた朝代神社に着きます。由緒書きによると、創建は天武天皇の時代で、こちらははっきりと「淡路国日の少宮をお遷しした」と書かれていました。つまり、淡路一宮である伊弉諾神宮を勧請したということです。したがって祭神名は朝代大神ですが、その正体は伊弉諾尊のこととされています。

 

 ……なのですが、由緒書きによると、境内社の筆頭は塩釜社になっていて、他の境内社は本殿の周囲にあるのですが、塩釜社だけは石鳥居の外にあって、完全に別格扱い。しかも本殿は南を向いていて愛宕山を拝むようになっていないのですが(このことからも、愛宕山御神体としているのは舞鶴産土神である朝代神社ではなく、延喜式に記載されている式内社で、朝代神社より古くから存在したであろう笶原神社であることがわかります)、塩釜社は山を拝むようになっているので、伊弉諾尊が勧請される前は塩釜神――すなわち鹽土老翁神が主祭神だったのではないかと思います。

 

 鹽土老翁神ことシホツツは、山幸彦ことヒコホオデミが兄の釣り針を失くして途方に暮れているときに力を貸した人物。シホツツの案内で九州に導かれたヒコホオデミは、その地を治めるハデツミの協力を得て釣り針を取り戻し、ハデツミの娘であるトヨタマを娶ってハデツミの後継者となりますが、近江の都にいる父――十代天君ニニキネに呼び戻されて、父の跡を継いで十一代天君となりました。伊弉諾尊ことイサナギの玄孫で、初代神武天皇の祖父です。

 

 以上のように、天皇家にとってかなり重要な神なので、元々の朝代大神とは鹽土老翁神ではないかと思います。ハデツミをはじめとする海神一族とも縁が深いので。兄の海幸彦ことホノススミと共に敦賀にいたヒコホオデミを九州に案内するときに立ち寄った場所なのかもしれません。しかし時を経て、天皇家の直接の祖神である皇祖神のほうが重要視され、その結果、七代天君であるイサナギ主祭神の地位を取って代わられてしまったのではないでしょうか。おそらく現在の塩釜社の位置に祀られていたのがイサナギで、笶原神社に祀られた息子の天照大神と同じく愛宕山に向かって祀られていたのだと思います。ということで、元々の祭神が塩釜神ならば、本殿が南向きであるのも合点がゆきます。山ではなく海を拝むようになっているのでしょう。神となったシオツツは潮流を司る神、すなわち航海の神なので。

f:id:hanyu_ya:20200808234402j:plain朝代神社の鳥居

f:id:hanyu_ya:20200808234455j:plain鳥居の外にある鹽竈神社(塩釜社)。現在の境内地でいうと、境内社ではなく境外社ですが、古くはここも境内だったのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20200808234549j:plain傾いた由緒書き

f:id:hanyu_ya:20200808234701j:plain本殿。左側が愛宕山になります。

 

 境内から南に抜けると、そのまま円隆寺の境内となります。行基が開創したとも伝わる寺ですが、それよりも真言宗御室派であることが気になりました。御室派の総本山は仁和寺です。この寺に伝わる『慈恵山記』で開創とされる皇慶は、橘広相の孫とも曽孫ともいわれ、広相は仁和寺開祖の宇多天皇が即位する前から妻としていた二人の女御のうちの一人――橘義子の父親なので、その縁かと思われます(ちなみに、もう一人の古株女御は醍醐天皇の母となった藤原胤子)。笶原神社に合祀されるくらい宇多天皇舞鶴と関係が深いのは、このあたりにヒントがありそうです。

f:id:hanyu_ya:20200808234913j:plain天明6年(1786)建立の円隆寺本堂

f:id:hanyu_ya:20200808235017j:plain本堂の左奥にあった階段。雨が降っていた上に時間もなく、それゆえ上には行かなかったので何があるのかはわかりませんが、階段脇の花といい、杉の木といい、門から見える山の緑といい、門の上のグレーの空といい、完璧な構図だったのでパシャリ。

 

 最後に御朱印をいただくため、塩釜社のそばにある朝代神社の社務所に寄ってみましたが、何回か声をかけても誰も出てこなかったので、西舞鶴駅に向かいました。朝代神社は8世紀の創建という比較的新しい神社で、式内社ではないため、あきらめもつきました。

 

 駅に戻ると10分ほど余裕があったので、改めて細川幽斎のパネル展示を見たあと、13時31分発の舞鶴線に乗り、福知山に戻りました。(続きます)