羽生雅の雑多話

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京都寺社遠征&明智光秀探訪6 その3~福知山城、福知山光秀ミュージアム、御霊神社

 第6回明智探訪の続きです。

 

 4連休の二日目、2時過ぎに舞鶴から福知山に戻ってくると、今回の旅の目的の一つである福知山市立図書館へと向かいました。福知山で割引などの特典が受けられる「いがいと!福知山ファンクラブ」に登録したときに送られてきたガイドブックに紹介されていて、明智光秀に関する文献500点以上を一般に公開する「明智光秀コレクション」コーナーが開設されていると書かれていたからです。駅前にある市民交流プラザの中にあるのですが、見るからに新しい、デザイン性の高い前面ガラス張りの建物で、中の様子が見えるようになっていて、よそ者でも入りやすかったので、助かりました。

 

 図書館に入り、インフォメーションでコレクションの場所を訊ねると案内してくれ、ガラス棚に収められている閉架図書の使い方を教えてくれました。開架図書はほとんど現代に書かれた歴史書や解説本や小説で、買おうと思えば買えるし、図書館から借りることもできると思ったので、ターゲットを閉架図書に絞り、『群書類従』などをチェック。史学科出身で、摂関時代史研究をしていたときには『尊卑分脈』『公卿補任』『群書類従』『大日本史料』などの古文書史料にはたいへんお世話になったので、特に苦も無く必要な部分を見つけ出し、ずっと見たかった明智氏土岐氏、若狭武田氏系図の漢文原文と、光秀が本能寺の変の直前に丹波国山城国の境にある愛宕神社連歌会を催して奉納した歌――愛宕百韻で詠まれた全100首の原文と解説を複写申込みをして、30枚ほどコピーさせてもらいました。

 

 4時にはコピー作業が終わり、雨が激しければ、このまま図書館で閉館時間まで文献を読み漁り、福知山城へ行くのは翌日にしようかとも思いましたが、ガラス張りの外を見ると、傘を差していない人もいるぐらいだったので、図書館を出ることにしました。そして目の前の駅前ロータリーにあるバス停で福知山城行きバスの時間を確認すると、16時に行ったばかりで、次は最終の17時だったので、コピー資料を置きにホテルに戻りました。雨の日に持ち歩いていると、濡れたり湿気を含んだりで、紙がヨレヨレになってしまうので。

 

 それでもまだ時間があったので、ホテル近くの交差点を渡ったところにある「明智茶屋」に行ってみることにしました。福知山市から送られてきたガイドブックの他、『まっぷる明智光秀』でも紹介されていた福知山名所の一つで、明智光秀スキーの店主が光秀愛が高じて5年前に開店したカフェ兼ケーキ屋です。残念ながら名物の「桔梗ロール」は売り切れでしたが、「光秀の愛したプリン」が5周年記念で3種類あったので、その抹茶味とコーヒーを店内でいただき、お土産にほうじ茶味と焼き菓子セットを買いました。

「光秀の愛したプリン」抹茶味。戦国時代にプリンはないので、正しくは「光秀の愛した(丹波産の食材を使って作った)プリン」です。

同様の理由でネーミングされたと思われる「光秀の愛した焼き菓子」セット。「いがいと!福知山ファンクラブ」の会員証を見せると、1,000円以上の購入で焼き菓子は10%引になります。

 

 店を出ると、駅に向かう途中にホテルがあるので、お土産を部屋に置いてから、駅前のバス停へと向かいました。

 

 光秀ゆかりの主要スポットを巡る光秀ルートの最終バスに乗り(乗客は一人)、福知山城公園前バス停で下車。小雨だったので、先に高台の上まで歩いて登らなければならない福知山城から見学することにしました。

福知山城。国と県の補助金および、市民による「瓦一枚運動」などの寄付金によって再建され、昭和61年(1986)に大天守が完成。福知山市から送られてきたパンフレットによると、「明智光秀が築いた城で、唯一天守閣がある」がキャッチフレーズのようです。

石垣は光秀時代の物が残っていて、転用石が使われた代表的な例として知られます(ネットで得た情報によると、天守台の張り出し部分の下にある斜めの線を境に、右が安土桃山期、左が江戸期のものだそうです)。転用石の石垣とは、墓石や宝塔、石仏などを転用した石垣のことで、福知山城では500個ほどの転用石が確認できるとのこと。前領主や寺院からは既成勢力を削ぐために強制徴収したと思われますが、領民からは、領主と一体になって城を作るということを意識させるために、自主的に提供させることも多かったようです。残念ながら雨だったので、外観はあまりゆっくりと見られませんでしたが。

 

 入口に観光客は誰もいなかったので、まったくの杞憂でしたが、混んでいることを予想して、あらかじめ駅の観光案内所で買っておいたミュージアムとの共通チケットを見せると、例によって検温&連絡先の記入があり、その後チケット売り場で御城印を購入してから登城。松江城丸岡城のような現存天守と違い、外観復元天守なので、中は現代的な、完全な資料館です。

福知山城の御城印

福知山城にもいた福知山市公式キャラクターの光秀。市から送られてきたパンフレットによると、陣羽織の桔梗紋が市章とのこと(笑)。市中の自動販売機のみならず、JR西日本の特急列車にもラッピングされているそうで、ここまでやられたら、もう脱帽するしかありません。

福知山城の歴史の前半。「彦坐王が玖賀耳の御笠を討った場所は、なんと福知山でしたか!」と新たな発見がありました。『古事記』には単に彦坐王は「旦波国」に遣わされたとしか書かれていないので。古代史的にもかなり重要な地であることがわかりました。

福知山城の歴史の後半。室町時代以降、光秀が城主となるまでの推移。一般的には、あくまで創作物で史料としてはあてにならないと酷評されている『明智軍記』にある辞世を根拠とした享禄元年(1528)生まれの享年55歳とされることが多い光秀ですが、この年表では没年が57歳になっていたので、大いに気になりました。他でもない福知山城の情報です。根拠が知りたいです。

善政を行ったといわれる光秀の治政について

歴代城主についての説明があったのですが、その中に羽柴秀長の名があったので驚きました。世に「大和大納言」と称された彼の領地は、その呼び名のとおり大和国周辺であり、居城は郡山城で、福知山城に入ったとか福知山を治めたとかいう話は聞いたことも読んだこともなかったので。しかしながら、ここは明智光秀が築いた城で、しかも圧政から解放してくれた光秀を領民は慕っていたので、秀吉が光秀色を一掃しようとして、優秀な弟に福知山を任せたということは十分にあり得ます。秀長が長生きしていたら暴走する秀吉を諫めることができ晩年の狂気の沙汰はなかったかもしれないといわれるほど人物的にも評価の高い武将ですから。

歌川国芳描く明智光秀。画の上の略伝は戯作者の柳下亭種員によるものですが、江戸時代後期の人間が持っていた光秀観が判ります。

太平記英勇傳 登喜氏」についての作品解説

 

 6月に行った沼田市歴史資料館の特別展で、光秀がイトコかハトコにあたる土岐定政佐々木高綱の轡を譲り、それが「土岐家代々嫡長伝来の品」であることを知りましたが、福知山城でも佐々木高綱の名に遭遇したので、たいそう驚きました。

 

 福知山城の江戸時代の城主は初期にはころころと変わりましたが、寛文9年(1669)に土浦藩主だった朽木種昌が加増移封して城主となってからは朽木氏が代々世襲し、明治維新を迎えました。福知山藩主となった種昌は父種綱を藩祖として城中に祀り、11代綱條の時に社殿を建てて城中から遷座し、朝暉神社と号しました。その神社に御神刀として祀られていた刀が展示されていたのですが、それが「綱切丸」と呼ばれる佐々木高綱の刀でした。一緒に展示されていた由来書に、佐々木氏は朽木氏の先祖と書かれていたので、それゆえに高綱の刀が朽木家に伝わったということなのでしょう。「綱切丸」は源頼朝木曽義仲が戦った宇治川の戦いで先陣を切ったときに高綱が帯びていた刀で、その時に乗っていた馬の名は「池月」というのですが、この馬の轡が土岐家に伝来したものです。土岐家文書では「生喰」と書いて「いけづき」と読ませていましたが。ということで、もしかしたら馬具も馬と同時に頼朝から頂戴したもので、この轡も初代鎌倉将軍ゆかりの品なのかもしれません。

朝暉神社の御神刀である佐々木高綱所用の「綱切丸」

「綱切丸」の由来書

御城印の「福知山城」の文字は、朽木種昌が転封にあたって幕府勘定方から受け取った福知山藩の領地目録の中から採られたものだそうです。

天守最上階からの眺め。鬼瓦にある隅立て四つ目結文は朽木家の家紋。

眺めについての説明

明治時代に破却され、平成21年(2009年)に再建された釣鐘門。門のあいだから見える左の緑の山は、天守からも見えた愛宕山。幟の左側に朝暉神社があります。

 

 福知山城を出ると、城下にある光秀ミュージアムへ。すると、またまたカッコいい光秀のイラストが迎えてくれました。

福知山光秀ミュージアムの入口。福知山城公園内にある佐藤太清記念美術館の2階になります。

美術館の外壁にあった明智光秀のイラスト。館内の光秀シアターの番組内では「明と智に秀でること光の如し」とか言っていましたし……。美化もここまでくると大したものだと思いました。

 

 こちらは特別公開の資料が多いためか、館内は撮影禁止でした。本徳寺の肖像画は福知山では8年ぶりの公開とのことですが、複製が福知山城に展示されていたので、比較ができておもしろかったです。

 

 特別公開の「織田信長朱印状」は、天正4年(1576)4月に丹後国の堂奥城城主である矢野弥三郎に宛てたもので、信長に歯向かう丹波の有力国衆である赤井五郎(忠家)と荻野悪右衛門尉(直正)を赦免するという内容。第一次丹波攻略戦で、八上城城主である波多野秀冶の離反により織田軍総大将の光秀は敗走し、結果として和議が結ばれることになりましたが、その和議を信長は「赦免」と主張しているという、信長のプライドの高さがうかがわれる書状です。同じく特別公開の「明智光秀書状」は、信長のこの朱印状を受けて、光秀が添状として同じく矢野弥三郎に宛ててしたためたもので、本来は同時に伝達されたものでしたが、いつしか離れ離れとなり、現在「織田信長朱印状」は兵庫県立歴史博物館に、「明智光秀書状」は美濃加茂市民ミュ ージアムに所蔵されています。それが今回初めてセットで公開されたそうです。

 

 福知山市にある光秀を祀る御霊神社が所蔵する「明智光秀書状」は、近江国衆の奥村源内に宛てて、信長に叛いた荒木村重の籠る有岡城攻めや八上城の波多野氏攻略など第二次丹波攻略戦や畿内の状勢を書き記したものとのこと。貴重な史料の実物が見られるのは貴重な機会で、とてもありがたいのですが、専門の学者ではない素人が活用できる実用的な資料としては田辺城のパネル展示のほうが勝っていました。写真であっても現代語訳などの詳細な解説があるほうが助かります。その点、古文書の現物と釈文、現代語訳を併せて展示していた沼田歴史資料館は素晴らしかったと思います。まあ、学芸員がいる地域を代表する歴史資料館と期間限定の大河ドラマ館の差といえば、それまでですが。そうはいっても、福知山光秀ミュージアム大河ドラマ館にしては見事な展示品で、気合が入っていることが十分に伝わってきて、ずいぶん頑張っているなと思いました。従来はドラマで使用された衣装や小道具の展示、出演者やスタッフのコメントなどのパネル展示や動画メッセージ、メイキングビデオといったものが大半なので。

 

 6時45分にミュージアムを出ると、外はやや暗くなりはじめ、福知山城公園の街灯が点灯していました。念のためバス停に行ってバスの時間を確認しましたが、やはり終わっていました。駅前から最終バスで城に行ったら帰りはどうしたらいいのか気になり事前に調べていたので 、光秀ルートはもちろんのこと路線バスの運行も終了し、近くにタクシー乗り場もないことは来る前からわかっていましたが……。なので、予定どおり歩くことにしました。

福知山城公園から見る福知山城

 

 雨の中15分ほど歩くと駅前に出て、このままホテルに戻っても何もないので、駅構内にある「らいおん丸」という居酒屋に寄って、福知山の玉子焼きというご当地メニューをつまみながらレモンサワーを1杯飲み、締めに寿司を食べてから戻りました。これにて、この日は終了です。

 

 翌朝は、雨が降っていなかったので9時20分にホテルを出発し、まずは御霊神社へと向かいました。光秀が祭神として祀られている神社です。歩いて10分ぐらいでした。

御霊神社の鳥居と社号標

由緒書き

大河ドラマ決定アピール看板

拝殿と本殿と境内社事代主神社(向かって右)

御霊神社についての説明板。下には桔梗が咲いていました。

 

 お参り後に社務所へ行って御朱印をお願いすると、書き置きのみだと言うので、そちらに日付を入れてもらうことにしました。待っているあいだに御守り授与所を物色すると、光秀関連の本が2冊あったので購入。出版社が出している本はネットでも買えますが、神社の崇敬会などが発行しているような冊子は入手困難なので。しかも、境内に立てられていた説明板にも書かれているように、御霊神社には三つの光秀直筆の古文書が残っているため(そのうちの一つが、今回期間限定で福知山光秀ミュージアムに展示されていたもの)、それらに関する情報や解説、それらを根拠とした考察や研究結果などが得られるのではないかと期待して買いました。

御霊神社で購入した「京街道 明智光秀物語」と「明智光秀今昔観」

 

 御霊神社を後にすると、2冊の本を持ち歩いて移動するのは鬱陶しかったので、いったんホテルに戻り、清掃中の部屋に置いてから福知山駅へ。このあとも旅は続き、天橋立、宝塚へと行きましたが、光秀とは関係ないので、今回の明智光秀探訪はここで終わりです。

 

 26日に家に帰ったら、福知山市から郵便物が届いていて、ふるさと納税特典の「本能寺の変お知らせハガキ」と福知山城&光秀ミュージアムの無料入場券が入っていました……ちょっと遅い! でもそんなところが、どこか不運さが付きまとう光秀っぽいと思いました。本能寺の変で信長を滅ぼすことに成功しながら数日後の山崎の合戦で秀吉に敗れて天下を取れなかったり、念願の主人公となった大河ドラマの年に未知のウィルスが世界的に流行したり……トホホホ。ミュージアムは来年1月11日まで開館し、会期中10回に分けて光秀ゆかりの一級資料を展示するそうなので、寺社巡りのついでにでももう1回ぐらい行こうと思っています。

本能寺の変お知らせハガキ」の表面。差出人は亀山城城主の光秀で、宛て先は福知山城城代の秀満になっています。自治体がこんな冗談を本気でやるところが洒落ていて心憎いです。「いがいと!福知山ファンクラブ」といい、福知山市役所の心意気に惚れて今回福知山を訪問したと言っても過言ではありません。

本能寺の変お知らせハガキ」の裏面

本能寺の変お知らせハガキ」の中面その1。集合場所、集合時間、終了予定、持ち物、免責事項などについて。

本能寺の変お知らせハガキ」の中面その2.明智光秀福知山市の案内