明智光秀探訪もいよいよ美濃編に突入です。
沼田市の土岐家文書が500年ぶりに里帰りして展示されている土岐市美濃陶磁歴史館の特別展――「光秀の源流 土岐明智氏と妻木氏」が会期延長されて9月13日まで開催されているので、名古屋市の緊急事態宣言、岐阜県の非常事態宣言が解除されるのを待って出かけることにしました、で、せっかく岐阜まで行くのだから、他に何か見るべきものはないかと調べたら、瑞浪市陶磁資料館で「美濃源氏土岐一族の時代」という特別展を開催していて、そちらの会期は9月6日までだったので、台風10号の接近中ではありましたが、先週末に遠征してきました。
――ということで、先週木曜は午前中で仕事を切り上げて品川発13時17分の新幹線で名古屋に向かうつもりでしたが、見込みが甘くて予定どおりに終わらず乗れそうになかったため、品川に向かう途中でエクスプレス予約を変更し、なんとか14時28分発ののぞみに乗車。この日の目的地である名古屋市秀吉清正記念館の閉館時間である5時にギリギリ間に合うかという感じだったので、4時前に名古屋駅に到着すると、急いで駅直結のホテルにチェックインし、荷物を置いて駅に戻り、地下鉄東山線で中村公園駅まで行き、そこから歩いて10分ほどの中村公園内にある中村公園文化プラザへと向かいました。その2階にある秀吉清正記念館に着いたのは4時40分でしたが、入館は閉館30分前迄とかではなかったので助かりました。
秀吉清正記念館のことは今まで知らず、よって今回が初めての訪問だったのですが、ネットでその存在を知ったときには、まず名称に驚きました。名前のとおり、豊臣秀吉と加藤清正に焦点をあてた資料館で、わかりやすいといえば、これ以上わかりやすい名前もないかもしれません。二人が尾張国愛智郡中村(現・名古屋市中村区)で生まれたことから、50年以上前に「豊清二公顕彰館」として誕生し、30年ほど前に中村公園文化プラザが完成したので、その2階に移転、それと同時に現名称に変更されたそうです。同じ中村公園内にある豊国神社の付属資料館とか、武将ファンの資産家が創った私設ミュージアムとかではなく、名古屋市博物館の分館というのがまた驚きで、名古屋人の秀吉と清正に対する強い思い入れを見せつけられたように感じました。個人的には、秀吉といえば大阪、清正といえば熊本というイメージが強いのですが。
そんな秀吉清正記念館で、今月22日まで開催されているのが「明智光秀と羽柴秀吉」という特集展示です。今まで見てきた明智光秀に関する展示は、光秀の功績の見直し、人物再評価、それによる謀反人からの名誉回復的な要素が無きにしも非ずなのですが、豊臣秀吉の功績を讃えて顕彰する秀吉サイドの資料館の展示なら、光秀を滅ぼした側からの視点――今までとは違った観点からの明智光秀像が見られるのではないかと思い、足を運びました。
特集展示「明智光秀と羽柴秀吉」のポスター。なんと入場無料です。
特集展示の主旨
最初に展示されていた本徳寺蔵の明智光秀肖像の複製。福知山城でも見たので、いったいいくつの複製が作られているのかと思いました。
パネル解説1「足利義昭と光秀」
パネル解説2「義昭から信長の家臣へ」
パネル解説3「信長家臣としての秀吉」
パネル解説5「秀吉の天下へ」
パネル解説6「謀反の原因をさぐる」
展示品でまずおもしろかったのが、織田信長の朱印状。足利義昭の行動を制限したもので、本来武家に号令する立場である征夷大将軍の身でありながら、自分より下の身分の者にここまで雁字搦めに縛られたら、反旗を翻したくもなると、義昭に共感したくなるような文面でした。と同時に、どちらかといえば豪放磊落なイメージがある信長ですが、この文面から浮かび上がってくるのは、周到なまでに用心深く、しかも細かい性格で、実のところは一般的なイメージとは正反対の人間だったのではないかと思いました。ここまで細かく取り決め、さらに、その内容を文書で残し、光秀らの証人を立てた上で義昭に認印を押させるなど、念には念をとはいいますが……入れすぎです(笑)。
織田信長朱印状。複製ですが、読み下し文と大意があったのでわかりやすく、とてもよい展示でした。
織田信長朱印状の読み下し文と大意。こんな屈辱的な内容を受け入れざるを得ないほど義昭の立場は弱いものであり、また、それゆえに信長に対する恨みは深かっただろうことが想像できる史料です。
織田信長朱印状についての解説
次に、惟任光秀書状。天正3年7月14日付なので、光秀が日向守に任じられ、惟任姓を賜った直後の書状ということになります。光秀が公家の知行地を安堵する立場であったこと、信長の対公家政策における光秀の立ち位置が知れる史料です。
惟任光秀書状
惟任光秀書状の大意と解説
秀吉の記念館らしく、1階にある中村図書館が所蔵する『絵本太閤記』の展示もおもしろかったです。
『絵本太閤記』より「細川刑部太輔光秀に与せざる図」。「光秀の誤算」というパネル解説とともに展示されていたのが皮肉めいていて笑えました。
パネル解説「光秀の誤算」
『絵本太閤記』より「光秀将軍宣下の図」。豊臣秀吉の生涯を描いた太閤記で、何故この場面が描かれたのか、大いに気になりました。この本が発刊されたのは江戸後期ですが、当時において、明智光秀は将軍宣下を受けたと認識されていたのかもしれないと考えさせられる史料です。
『絵本太閤記』より「唐崎より坂本の城に入る図」
他にも、秀吉記念館ならではと思う展示もありました。
月岡芳年画「真柴久吉武智主従首実検之図」のパネル展示。光秀の首級検めを行う秀吉の絵。
「真柴久吉武智主従首実検之図」についての解説
上記の解説に出てくる『惟任退治記』について。秀吉の記念館ではありますが、わりと秀吉に対してシビアです。
数年前に林原美術館が所蔵する石谷家文書から新史料が発見されて、本能寺の変の動機に長宗我部家がからむ四国説が浮上してきましたが、それを意識したような展示も見られました。
『信長記』巻十五之上についての解説
従来の怨恨説に関する展示も。
明治14年(1881)に刊行された『史籍集覧』収録の『太閤素生記・祖父物語』
『太閤素生記・祖父物語』の展示部分の読み下し文と大意と解説
正味20分も見学できませんでしたが、ざっと見て必要な内容かどうかを確認して写真を撮るには十分だったので、行ってよかったです。頑張って仕事を片付けた甲斐がありました。
5時になり、閉館準備が始まったので展示室から出ると、看板を片付けていたスタッフに「ありがとうございました。またゆっくり来てください」と声をかけられ、やや申し訳ない気分になりました。というのも、常設展のほうはまったく見られなかったので……自分としては、戦国の三英傑の中で一番どうでもいいのが秀吉なので、未練はなかったのですが。
中村公園文化プラザを後にすると、祭神が豊臣秀吉である上に、明治18年(1885)に創建された新しい神社なので、さして興味はなかったのですが、すぐ近くなので豊国神社に寄ってみることにしました。――が、すでに社務所も閉まっていたので、とりあえず参拝だけして、中村公園駅へ。
東山線で名古屋駅に戻ると、5時半を過ぎていたので夕食を摂ろうと思い、新幹線地下街のエスカに向かいました。ド定番ですが、名古屋で食事をするときは、ひつまぶしかきしめんを食べることにしています。どちらも名古屋以外でも好んで食べる好物なので。
以前来たときには混んでいて、待っている時間がなくてあきらめた「ひつまぶし名古屋備長」に行ってみると、コロナ禍の影響か空いていたので入り、念願のひつまぶしと男梅サワーを注文。値段もそれなりでしたが、うなぎの身が厚く、ふっくらと焼き上がっていて、皮はパリッとし、食べた瞬間に新宿界隈で食べているものとは違うという食感で、大満足でした(あとで調べたら、銀座や丸の内、そして池袋にも支店がありましたが……)。食事後ホテルに戻り、この日は終了です。
「ひつまぶし名古屋備長」のひつまぶし