羽生雅の雑多話

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明智光秀探訪7 その3~天龍寺、明智城址、「麒麟がくる」ぎふ可児大河ドラマ館

 三日目の土曜は可児に行ってきました。可児には明智城址があり、それゆえ明智光秀の生誕地の有力候補とされ、市内の花フェスタ記念公園内に大河ドラマ館がオープンしているからです。岐阜県には可児市の他に岐阜市恵那市、全部で三つの大河ドラマ館があるのですが、岐阜市プレミアムフライデーに合わせて行きたいので来月末に遠征する予定で、恵那市も、そこまで行くのなら式内社の恵那神社にも行きたいと思ったので、台風の襲来で天候が安定しない今回は回避し、どちらも来月末に訪れることにしました。

 

 その日も夕方から天気が崩れるという天気予報でしたが、9時にチェックアウトをしてホテルを出たときには晴れていたので、大河ドラマ館に行く前に、雨が降っていなければ行こうと思っていた明智城址を訪れることにしました。

 

 名鉄名古屋駅9時11分発の準急で新可児駅まで行き、10時14分発の広見線に乗り換えて、10時18分に明智駅に到着。明智駅前10時23分発のKバスで明智城跡口バス停まで行くつもりでしたが、時間になってもバスが現れず、停留所に要予約と書いてあったので、まさか予約が必要なのかと思い、書いてある電話番号にかけてみると、「予約が必要なのは路線バスで、Kバスは不要なはずです」とのこと。そんなやりとりをスマホでしていたら、駐車スペースに停まっていた1台の車が動き出して、後ろ姿から商用のワゴン車だと思っていたらミニバスで、走り出したことで向きが変わって見えた側面にKバスと書かれていました(涙)。

 

 明智城址までは徒歩だと25分ぐらいかかかるのですが、次のバスは1時間半後で、駅周辺には店も含めて時間をつぶせるようなところはなかったので、仕方なく歩くことに。駅でもらってきた「明智光秀生誕の地 明智荘散策マップ」というのがあったので、それを頼りに、まずは明智城址の手前にある天龍寺を目指しました。

 

 途中にある瀬田川を渡る前に右折して少し行くと、光秀産湯の井戸跡というものがあり、現在は耕地整理されて痕跡は残っていないと地図に書かれていたので、寄るつもりはなかったのですが、橋詰まで来て右方向を見ると、幟がはためいているのが見えて、そう遠くないような気がしたので、寄り道してみることにしました。

田んぼの傍らにある光秀産湯の井戸跡に関する解説板と幟

解説板の内容。実際の跡地は田んぼのド真ん中のようです。

 

 戻って橋を渡り、しばらく南へ進むと天龍寺に到着。残念ながら社務所は休みで御朱印はいただけませんでしたが、本堂は開いていたので、日本一大きい明智光秀の位牌は見ることができました。賽銭箱のすぐ後ろに安置してくれていたので。

天龍寺入口

天龍寺についての説明板

天龍寺山門

6尺1寸3分(約184㎝)あるという日本一大きい明智光秀の位牌。戒名は「長存寺殿明窓玄智禅定門」……京都の明智祠とほぼ同じです。位牌の隣に見えるのは、光秀の木彫像。

境内にある明智氏墓所。説明板にも書かれているように、天龍寺の開基は江戸初期の寛永2年(1625)なので、何故本能寺の変で滅びた明智氏墓所と伝わるものが当寺にあるのか不明ですが、明智城が落城する前は天龍寺の境内周辺も明智城の一部で、ここも城内だったのかもしれません。

 

 天龍寺から西に向かうと、明智城址の大手口に着き、そこから山道を登っていくと、大手門に突き当たります。

城址入口にある説明板

大手門

桔梗坂を登ったところにある明智城址散策路マップ

 

 城址は長山一帯に及んでいるので、けっこう広い範囲が散策できるのですが、前日の雨で日陰部分の地面はまだ湿っている上に、天気が崩れる前に名古屋に戻って神奈川に帰ろうと思っていたので、今回は本丸と二の丸周辺だけを見てきました。ちなみに、今回訪れた地域と土岐明智氏の城の関係は次のようになります

 

 瑞浪市――神篦城 築城主:土岐光衡(美濃土岐氏祖)

 可児市――明智城 築城主:明智頼兼(光衡五代孫、土岐明智氏祖)

 土岐市――妻木城 築城主:明智頼重(光衡五代孫、頼兼養子)

 

 本丸跡地には一見して新しいとわかるさまざまなモニュメントがあり、明智光秀ゆかりの地を盛り上げようという地元の気合いがひしひしと感じられました。

本丸跡にある「明智城址」の石碑。これは昔からあるものみたいで、元々はこれしかなかったのだろうと思います。

明らかに新造の「明智城」の石碑

昨年8月に作られた説明板

昨年12月に整備されたらしい展望台からの展望。解説地図と正面に見える風景が微妙に違い、正面で解説地図を撮ると美濃金山城跡が写りませんでした。

もっと右を見ると金山城跡が見えます。本能寺の変で討死した森蘭丸の居城です。

 

 その中でも最たるものが、今年6月に建立されたという明智光秀のブロンズ像で、台座の裏書を見ると、作者は神戸峰男氏、題字は有馬頼底老師とのこと。神戸氏は可児市在住の地元の彫刻家ですが、芸術院会員で、日展副理事長という日本彫刻界の大御所、一方の有馬老師は久留米藩主有馬家の血筋で、金閣寺銀閣寺の住職も兼ねる相国寺132世という日本仏教界の大御所です。仕事で有馬老師の揮毫作品や芸術院の前身である帝国美術院初代会員の高村光雲の復刻ブロンズ像などを取り扱ってきた身からすれば、無人の山中に雨ざらしにするなどとんでもない贅沢な作品で、それゆえ、他所に遅れて今から光秀の像を建てるのなら、現代美術の代表作のような作品で後世に恥ずかしくない物をという、制作依頼者の強いこだわりが感じられ、熱い思いが伝わってくるようでした。

鎧に陣羽織をまとい、鉄砲を携える明智光秀ブロンズ像。陽を受けて輝く青銅が青い空と緑の木々に映え、颯爽としています。下からのアングルで肉眼で遠目に見たときには、さして驚きのない普通の人物彫刻で、それほど魅力的には思えなかったのですが、ズームして撮ったこの写真を見たら、顔の彫りの深さと、表面の仕上げに荒々しさを残した力強い表現が判明し、それなりにカッコいいと思いました。

明智光秀ブロンズ像の全体。まだ地面になじんでいません。

台座の裏書

 

 帰りは大手口には戻らず、反対側の馬場口から出て、城址を後にしました。

二ノ丸曲輪にある七つ塚。明智城落城の際に戦死した明智軍の7武将を祀っているそうです。

馬場口に向かうときに七つ塚についての説明があり、7武将の名が判明。

 

 住宅街を抜けて県道381号線に出て北に向かって歩くと、城址から約15分ほどで花フェスタ記念公園に到着。事前にホームページをチェックしたときに、他の大河ドラマ館のチケットの半券を持っていくと入場料が割引になるという情報を得ていたので、京都大河ドラマ館の半券を持っていって提示し、通常大人一枚500円のチケットを400円で購入。

西教寺大河ドラマ館を中心に四つのパビリオンを展開している大津市の「びわ湖大津・光秀大博覧会」と同じく、可児市大河ドラマ館を中心に複合的な「明智光秀博覧会」を開催しています。

 

 予定どおり正午前の到着で、しかも炎天下の中を歩きっぱなしでいい加減疲れていたので、昼食がてら少し休もうと思い、大河ドラマ館を見学する前に、まずは入口前の屋外に設営されていた「戦マルシェゾーン」という屋台スペースに寄りました。ところが、ほとんどの店が開店休業で、やっているのかやっていないのかわからないという状態。なので、食事はあきらめて大河ドラマ館に入ろうかと思いましたが、よくよく見ると、かろうじて一つ、確実に営業していると思われる店があったので、そこで「十兵衛餅」なる物を注文。一人しかいない店員に「焼き立てを出すので少々お時間がかかる」と言われ、単に客がいないので作り置きがないだけだろうと思いましたが、別に急ぐわけではなかったので、あまおうソフトクリームも追加で頼み、それを食べながら待っているから餅は急がなくていいと言って、仮設テント下にテーブルと椅子が設置されている飲食スペースでひと休みすることにしました。

 

 ソフトクリームを食べ終わり、コーンに巻かれていた紙をゴミ箱に捨てて席に戻ると、ちょうど店員が餅を持ってきたので、続いてそちらを食べることに。「十兵衛餅」の正体は何の変哲もない五平餅でしたが、確かに焼き立てなので柔らかく、熱かった体もソフトクリームを食べて落ち着いていたので、美味しく食べられました。

光秀御幣餅店の十兵衛餅

「十兵衛餅」という名称について、屋台に説明が貼ってありました。

 

 とりあえず小腹が満たされたので、大河ドラマ館に入場。こう言ってはなんですが、意外にも西教寺の禅明坊光秀館や京都スタジアムの京都大河ドラマ館より立派な展示会場で、「明智光秀博覧会」と銘打っているだけありました。有料ゾーンの大河ドラマ関連の展示は他と似たようなものでしたが、光秀ゾーンという無料で見られるスペースに展示されていた光秀の生涯を紹介するパネルが充実していて、その他に、もう一人の地元出身の戦国武将である可児才蔵になって光秀と戦えるというバーチャルリアリティのチャンバラアトラクションがあったり、9月末までの期間限定でしたが、歴代大河ドラマ明智光秀」甲冑展というミニ展示もやっていました。

有料ゾーンの入口でもらった御城印風の来館記念証。日付は自分で入れます。明智家の桔梗紋の朱印は共通ですが、右下の絵は毎月デザインが変わるそうです。9月は稲穂でした。

大河ドラマ館の入口横にあった可児市明智光秀のパネル。これを目にしたときには、笑いだすのを堪えるのが大変でした。内心、ここまでくると、もう笑うしかないという気分だったので……。ちなみに、クレジットによると、こちらのイラストを手がけたのは、宮下英樹さん。

大河ドラマ明智光秀が着用する甲冑の複製

明智荘の光秀の館の模型。縁側に座っているのは光秀で、他の部屋には母親の牧もいました。

出演者や制作者などドラマ関係の展示は権利の都合上撮影NGでしたが、撮影コーナーのこのパネルだけOKでした。

 

 パネル展示を順に見ていくと2階に到るのですが、そこには1階の土産物売り場とは別に売店とカフェがあり、食事もできるようだったので、ひととおり全部見終わって時間があったら戻ってきて何か食べることにしました。土産物売り場を物色したあと、1時間半~2時間に1本の可児駅行きのバスの次の出発時間まで40分ほどあったのでカフェに戻り、「飛騨牛入り」という煽り文句に魅かれて「華麗なる裏切りカレー」なるメニューと、ホットコーヒーを注文。

土産物屋でゲットした物その1……可児市明智光秀関連企画展示図録「明智光秀物語」――64ページオールカラーの立派な本です。

土産物屋でゲットした物その2……明智光秀年譜A4クリアファイル――本や冊子を見たり検索するより手っ取り早い資料として購入。

土産物屋でゲットした物その3……武将お薬手帳カバー明智光秀――医者だったのでは?という説もある光秀なので、「これは買うでしょ」と思い買ったのですが、出せばすぐに売り切れる人気商品だと店員さんが言っていました。商品はカバーだけで、中身のお薬手帳は私物です。さっそく使っています。

土産物屋でゲットした物その4……「拙者、明智光秀は、信長様に謀反致します」プリントクッキー――配布用ですが、ちゃんと可児市で作られた菓子でした。

飛騨牛入りの「華麗なる裏切りカレー」。皿とカップの絵柄はいずれも染付で描かれた麒麟で、売店で販売されていました。まあ、美濃焼の産地ですから。

 

 毎度のことですが、ランチには遅い2時過ぎという時間だったからか、店内には他に客はおらず、そのためか注文した品が出てくるのも早かったので、ゆっくりのんびりと食事をさせていただきました。

 

 2時半に店を出て、土産物屋を経由し、見落とした物がないかもう一度確認してから大河ドラマ館がある建物を出て、花フェスタ記念公園の出入り口近くにあるバス停へ。ちょうど少々遅れていたらしい33分発の明智駅行きKバスが来ましたが、明智駅から広見線に乗っても新可児駅で乗り換えなければならないので、40分発の可児駅行きを待つことにしました(10月から可児駅からのシャトルバスはなくなるみたいです)。

 

 時間どおりに来たバスに乗って、3時前に可児駅に到着し、新可児駅発15時14分の広見線に乗車。名古屋まで1時間かかり、到着は4時過ぎ、青空にも雲が多くなってきたので、切り上げる頃合いかと思い、乗車中にエクスプレス予約で5時前の新幹線を予約。

 

 4時15分に名鉄名古屋駅に着くと、ホテルに預けていた荷物を引き取り、ホテルからJR名古屋駅に向かう途中にある名鉄百貨店の食品売り場に寄って、前日とは違うシューマイをつまみに購入。その後切符を発券し、いつものタカラ缶チューハイをJR駅構内のコンビニで調達してから、16時59分発ののぞみに乗車。これにて遠征終了です。

 

 ……この日、名古屋や岐阜では天候に恵まれましたが、帰りの新幹線では静岡あたりから東京は雨でした。最近増えている場所も時間もピンポイントの豪雨なので、幸い地元に着いたときには止んでいましたが、家に帰ってから30分もしないうちに雨音がうるさいほどの豪雨になりました。所詮自然には勝てないので、天気が怪しい時には旅程に余裕を持って変更がきくようにし、判断も早くしてフレキシブルに動くようにしていますが、今回も早めに切り上げて大正解でした。昔は「せっかく来たのだから、ここにも行きたい、あれも見たい」と時間と体力の許すかぎりギリギリまで粘ったものですが、ここまで多く旅をしてくると、これが最後ではなく、縁があればまた来る機会があるとわかっているので、もはやそんな気にはならず、若い時と違って体の無理がきかないことも承知しているので、嫌な予感がする時はさっさと帰ることにしています。おかげで予定の日に帰れなかったような災難に遭ったこともなく、いい思い出だけを持ち帰れているので、また次の旅に繋げることができています。