羽生雅の雑多話

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熊本神社遠征&明智光秀探訪8 その1~熊本城、加藤神社、熊本県立美術館、水前寺成趣園、出水神社

 はや1か月以上前になりますが、シルバーウィークの4連休は、三つほど目的があったので、Go Toトラベルキャンペーンとマイレージを使って熊本に行ってきました。

 

 連休の初日、ANAの熊本空港行きでその日一番安い便を選んだため、羽田発17時50分、熊本着19時40分という飛行機だったのですが、到着が予定より15分ほど遅れて、熊本市内行きのリムジンバスの最終が20時発だったので、慌ててバス停に行き、なんとか間に合って乗車。桜町バスターミナルで下車し、そこから徒歩5分ほどのホテルにチェックインして、一日目は終了。

ホテルのくまモンもマスク姿でした。

 

 次の日は、目的その1である熊本城の特別公開を見るために、9時前にホテルを出て熊本城へと向かいました。熊本を訪れるのは4回目ですが、熊本城に行ったのは最初の時だけなので、20何年ぶりです。

熊本城の内堀の役目を果たしていた坪井川にかかる行幸橋の手前にある、熊本城の築城主、加藤清正の像。やはり清正といえば名古屋ではなく熊本だと思いました。熊本では「せいしょこさん」の愛称で親しまれているヒーローですから。

 

 国の特別史跡である熊本城は、2016年4月の熊本地震天守閣をはじめとする13棟の国の重要文化財建造物すべてが被災し現在復旧中ですが、6月から特別公開が行われていて、地上から約6メートルの高さに造られた特別見学通路を通りながら被害状況や復旧工事の様子が見られるようになっています。この特別公開は第2弾なのですが、有料区域の一部が公開された第1弾と違って、特別見学通路という、復旧工事がなければ造られることのない場所から――つまり通常の公開時には見られない視点から熊本城を見ることができる、この先あるかわからない、望むらくは二度とあってほしくない貴重な機会なので、絶対に行こうと決めていました。

 

 行幸橋を渡ると、案内に従って「桜の馬場 城彩苑」へと向かい、そこでまず連絡先を書かされ、その後検温を受けてから、熊本城ミュージアム「わくわく座」の建物内にある券売機で入場チケットが購入できる仕組み。チケットは何種類かありましたが、特別公開見学とミュージアムの共通チケットを購入。再び案内に従って特別見学通路の南口まで行くと、仮設にしてはとても立派な通路が目に入ってきました。

南口の階段から見える特別見学通路の裏側。地上から6メートルの高さなので、入口からは階段かエレベーターで上って通路に出ます。左手にあるのは、数寄屋丸二階御広間。

特別見学通路から見た数寄屋丸二階御広間。石垣が部分的に崩落したため、支えを失った上の建物が歪んでいるのがよくわかります。重さを考えると、崩れずにもっているのが不思議でした。

通路の壁に貼られていた、被災前の数寄屋丸二階御広間の写真

数寄屋丸二階御広間の下の石垣。見事に崩れています。

熊本城天守閣。大々的に復旧工事中でしたが、ここからはクレーンなどを外して写真を撮ることができました。

天守閣と数寄屋丸二階御広間(左)と特別見学通路

本丸御殿大広間の床下にある「闇り通路」。とんでもない太さの丸太が二つの石垣に渡されて作られている地下通路です。

「闇り通路」についての説明

 

 特別公開は、平日の場合は天守閣前広場でUターンして特別見学通路を往復し、入ったときと同じ南口から出るようですが、日曜と祝日は北口と、そこから続く北ルートが開いているので、広場の売店で御城印と熊本城のミニファイルを購入すると、天守閣と本丸御殿の間を通る北ルート経由で北口から出て、天守閣の北西にある加藤神社へと向かいました。清正を主祭神として祀る神社です。

天守閣前広場まで来るとこんな感じ。思いきり工事中です。

天守閣前広場の売店で買った熊本城の御城印とミニファイル

北ルートの右手に見える宇土

加藤神社の御由緒

 

 本殿では神前挙式の最中だったので、控えめに拍手を打って参拝し、境内を見てまわったあと社務所御朱印をいただくと、熊本県立美術館へと向かいました。加藤神社は新しい神社なので、フィールドワークが目的というわけではなく、単に熊本城に来たのなら清正に挨拶をして旅の安全を祈ろうと思い、寄っただけだったので。

加藤神社の境内にある清正手植えと伝わる銀杏

加藤神社から見る熊本城天守

加藤神社から見る宇土櫓。石垣がすごいです。堀があろうとなかろうと、これはとても侵入できないと思います。難攻不落といわれる理由がわかったような気がしました。

 

 県立美術館では7月5日まで「細川忠利と三宅藤兵衛 肥後にやってきた、光秀の孫たち」という展覧会をやっていたので、図録なりとも買えないかと思い行ったのですが、残念ながらなかったので、開催中の展覧会を見ることにしました。本館の企画展「歴史をこえて 細川家の名宝」の見どころは「細川ミラー」と呼ばれる紀元前の鏡で、とても2000年以上前の物とは思えない洗練された繊細な意匠と、金彩などの装飾の残り方が奇跡的で素晴らしかったのですが、それ以上に嬉しかったのは、遠い熊本の地で大好きな白隠の作品に出合えたことでした。

目玉展示品の「細川ミラー」こと国宝「金銀錯狩猟文鏡」。こちらは撮影可能でしたが、白隠の絵は撮影禁止でした。

「金銀錯狩猟文鏡」についての解説

 

 本館で企画展に続いて常設展を見たあと、別棟の企画展を見に行く前に、出入り口や展示室がある階からすぐ下の階に降りてみると、行きたかった装飾古墳のレプリカ展示室――装飾古墳室というのがあったので、嬉々として見てきました。群馬県もそうですが、熊本県も古墳が多い地域で、しかも熊本には内壁や石棺に彫りや彩色などの装飾が施されている装飾古墳が多く存在するため、時間があれば代表的な山鹿市の岩原古墳群とその近くにある熊本県立装飾古墳館に行きたかったのですが、事前に公共の交通機関でのアクセス方法を調べたところ、熊本市からは一日がかりでないと往復できそうもなく、実質三日の滞在で三つの目的がある今回の遠征では一日を割くことができなかったので、断念しました。そんな時にこちらの展示室に巡り合ったので、たいそう嬉しかったのですが、やはりたいへん興味深い物で、レプリカでは物足りず。余計に実物が見たくなったので、結局のところ改めて来ないとだめだと再認識しただけでした。

鍋田横穴古墳の壁面の浮彫レリーフの復元品

鍋田横穴古墳についての解説

 

 別棟の細川コレクション永青文庫展示室で開催していた企画展「二の丸動植物園」を見て美術館を出ると11時前だったので、二の丸広場まで歩いて、そこからシャトルバスで「桜の馬場 城彩苑」に戻り、「わくわく座」を見学。ミュージアムといっても子供向けで、おもしろいのは熊本城のVR映像ぐらいでしたが、熊本城の復興城主のデジタル芳名板というのがあったので、行ってよかったです。VR視聴コーナーがある2階の端にひっそりと、気にして見ないとわからないような一角に検索機とモニターがあるのですが、地震があった年に寄付をして復興城主になっていたので、数年前の城主でも名前が出てくるかと試しに検索してみたら、ちゃんとヒットして、壁の大画面モニターに桜の季節の熊本城天守閣とともに名前が映し出されました。

「熊本城 城主」という文字の左に名前が出ます。

 

 「わくわく座」を出ると、目の前のお食事処とお土産屋が集まった「桜の小路」でくまモンの人形焼を売っているのを見つけ、可愛さのあまりつい欲しくなったので、食事の前でしたが一つ買って食べ、その後昼食の予約を入れている郷土料理屋「青柳」へと向かいました。

くまモンの人形焼。いも味を食べました。

 

 熊本城では、平成19年に築城400年を記念して本丸御殿が復元されたときに、本丸御殿で振る舞うために、武家の食文化を掘り起こした「本丸御膳」が再現されて御殿で食べられるようになっていたのですが、地震後はそれもできなくなったので、料理を作っていた「青柳」の店舗で提供されることになりました。で、ランチならディナーよりも安く食べられるので、予約の電話を入れたのは前日熊本に着いてホテルに落ち着いたあとでしたが、1時なら空いているのではないかと思い訊ねたら、カウンターでよければと受けてもらえたので、行くことにしました。

 

 店に着いて、カウンターの一番端の席に案内されると、料理は決まっているので、飲み物のメニューをもらい、「八海山」をグラスで注文。京都で湯葉料理を食べるときもそうですが、手の込んだ和食を食べるときには必ず日本酒が欲しくなるので……それに、昼間から酒が飲めるのが休暇の醍醐味でもあります。メニューには「美少年」などの熊本の地酒もたくさんありましたが、外したくなかったので、自分が好きな銘柄にしました。アルコールに関しては美味しく飲めることが最重要で、口に合わない物は飲みたくないというか悪酔いするだけなので、どこに行っても地元産ということにはこだわりません。

 

 ちびちびと「八海山」を飲みつつ、スマホをいじりながら待ち、しばらくして出てきた本丸御膳は、まず見た目に驚かされました。最初に出されるお茶の茶碗もそうでしたが、細川家の家紋である九曜紋入りの器で出されます。料理については、「青柳」のホームページによると、「約200年前の武家の献立を再現するため参考にしたのは、江戸時代 肥後藩主細川家の御料理頭であった村中乙右衛門が書き記した貴重な料理の秘伝書「料理方秘(りょうりかたひ)」(1803年)。他に近世熊本の食品・料理集「歳時記」(1817年)をもとに往時の献立を再現した「熊本藩士のレシピ帖」を編集し、当時の料理を今に復刻する事ができました。肥後の「地の素材」の持ち味をあわせて調理しています」とのことでしたが、内容は以下のとおり。

 

 ①御肴………精進うなぎかば焼、ひともじぐるぐる、辛子蓮根、玉子カステラ、干しこる豆の豆腐味噌漬け

 ➁御鱠………鯛昆布〆、烏賊

 ③煎酒

 ④御汁………くしいと、そそろ麩

 ⑤御香物……野菜漬けいろいろ

 ⑥御猪口……白身鯨至りて和らかに煮様

 ⑦御飯………蛸めし

 ➇御平椀……香魚もどき――たで蒸し鮎

 ⑨御菓子……玲瓏豆腐

席に置かれていた献立

最初のお茶から九曜紋入りの蓋付き茶碗で出てきます。

蓋を開けたら、こんな感じ。

御飯と汁物

 

 料理は食感やら何やら食べたことがないものも多く、けれども現代人が食べても十分に美味しいと感じられる味だったので、もし本当に今より食材に恵まれていない江戸時代にこんなものを食べていたのだとしたら、細川の殿様はとんでもない美食家ということになります。

 

 1時間ほど食事を楽しんで店を出ると、次に細川家ゆかりの大名庭園である水前寺成趣園を訪れるつもりでしたが、料理を待っているあいだにスマホでアクセス方法を検討していたら、「青柳」からくまモンスクエアがわりと近いことが判明。くまモンスクエアは熊本営業部長であるくまモンの部長室がある本拠地で、今年はくまモンが誕生して10周年という記念の年なので、くまモンはいない時間帯のようでしたが、10周年記念のご当地限定レアグッズとかがあるのではないかと思い、寄ってみることにしました。限定品に弱いので。

 

 ……なのですが、くまモンスクエア限定のグッズは売っていましたが、10周年記念関連の商品は、「青柳」に行く前に寄った熊本県物産館の品ぞろえと変わらなかったので、何も買わずに水道町駅へと向かいました。

 

 健軍町行きの市電に乗って水前寺公園駅で降り、3分ほど歩くと、土産物屋などが並ぶ参道があり、その突き当りが水前寺成趣園の入口で、入場券売り場があったので、400円を払って入園。

参道にいたくまモン。熊本は至る所にくまモンがいる、くまモンの街です。

 

 水前寺成趣園は、明智光秀の娘である玉(細川ガラシャ)を母に持つ細川家初代熊本藩主の細川忠利が建立した寺院――水前寺の地に茶屋を建てたのが起源で、二代藩主、三代藩主の時に作庭が行われて、寛文11年(1671)に現在とほぼ同じ規模の庭園が完成し、陶淵明の有名な詩「帰去来辞」にある「園日ニ渉以成ス趣」という一文から採って「成趣園」と名付けられたそうです。阿蘇の伏流水を湛える回遊式庭園で、国の名勝・史跡に指定されています。

正面広場からの眺め

正面広場からの眺め(松ありバージョン)

 

 この庭園は今回の旅の三つの目的には入っていないのですが、7月に舞鶴の田辺城を訪れたときに、田辺城に籠城して石田三成方の西軍と戦った細川幽斎の命を救った古今伝授の逸話を知り、その折に、幽斎が八条宮智仁親王に古今伝授を行った古今伝授の間が、幽斎を祖とする熊本藩主細川家ゆかりの水前寺成趣園に移築復元されて現存することも知ったので、熊本に行ったら見てみたいと思っていました。

 

 まずは園内にある出水神社へ行き、参拝。加藤神社と同じく式内社でも官国幣社でもない新しい神社ではありますが、明智玉が祭神として祀られている神社を他に知らないので、お参りをしてきました――主祭神ではなく配祀神ではありますが。社務所御朱印をいただいたときにもらった略記によると、明治10年(1877)の西南の役で焼け野原となった熊本の街を復興するべく、翌年に旧熊本藩士たちが、敬い慕っていた旧藩主の御霊を祀ることで、その恩徳によって、戦いで荒んだ人心を安定させようとの願望から、細川家初代である幽斎こと藤孝を筆頭に、二代忠興、三代忠利、八代重賢を祭神とし、旧藩主細川家ゆかりの水前寺成趣園に社殿を建てたのが当社の縁起とのこと。のちに十四代までの残りの藩主10人と、忠興の妻で初代藩主忠利の母である細川ガラシャこと明智玉が合祀されたそうです。

出水神社についての説明板

 

 鳥居をくぐると左手に手水舎があり、それ自体は神社においては普通のことなので何の驚きもないのですが、出水神社の手水舎の柱には板が掛けられていて、そこには幽斎の歌が書かれていました。籠城する幽斎が後陽成天皇に献上する古今伝授の秘伝書を託した場所といわれる田辺城の庭園――「心種園」の名の由来となった「いにしへも今もかはらぬ世の中に 心のたねを残す言の葉」という歌です。それを見た瞬間、舞鶴から熊本へと歴史が繋がっていることを実感し、感無量でした。舞鶴での幽斎が存在しなければ熊本藩主細川家は存在せず――すなわち、幽斎が光秀を裏切って戦国の世を生き延びなければ、いま自分がいる熊本という街はなく、違う形で存在したかもしれませんが、目に映るものは変わっていただろうと思うと、幽斎の選択は間違いではなかったのだと認めざるを得ないと思いました。幽斎の子孫が、かつてこの町を任され治めていたけれども改易された加藤家を反面教師とし、江戸時代260年のあいだ自領を守って発展させた街は、今や九州を代表する街となったのですから。

出水神社の手水舎

手水舎の近くにある御神水「長寿の水」

出水神社本殿

境内にある五葉松。細川忠利が育てた盆栽がここまで大きくなったみたいです。

 

 出水神社のあとは、いよいよ古今伝授の間へ。行ってみると建物の隣に売店があり、なんとそこで申し込めば建物の中でお茶が飲めるようなので、園内をひとまわりしてから、戻ってきてゆっくりしようと思い、まずは庭園を散策することにしました。

古今伝授の間の建物

古今伝授の間についての説明板

湖畔通りから池の向こうに見る古今伝授の間

湖畔通りから見た富士築山

東通りから見た富士築山

古今伝授の間の近くの土産物屋で見つけた、くまモンのコマ。彦一こまという八代地方の郷土玩具で、五つのコマになります。

 

 庭園を一周すると古今伝授の間の建物に戻り、一服することに。メニューは抹茶と和菓子のセットが基本ですが、抹茶をコーヒーにすることもできたので(多少高くなりますが)、コーヒーセットを注文。お茶席は書院の座敷を3人ぐらいが座れる毛氈でスペースを区切って作られていたのですが、一つしか空いていない席が運よく庭に近い場所で端っこだったので、視界を邪魔するものがない絶好のシチュエーションで落ち着いて庭を眺めることができました。運ばれてきたコーヒーはなんとプレス式で、ゆうに2杯分はあったので、のんびりと飲んでいると、後ろの席の客も含めて誰もいなくなったので、席を立って奥の間の古今伝授の間を撮影しました。

古今伝授の間の建物から見える庭園とコーヒーセット。和菓子は2種類のうち「十六夜」を選択。泡みたいに溶ける食感が予想外で驚きました。口に含むと勝手に溶けて自然と口の中に甘みが広がります。黄身餡を淡雪羹でくるんだものだそうです。

古今伝授の間。手前に写っている毛氈は、私が座っていた席の後ろのお茶席で、客が帰ったあと、まだ飲み終わった茶碗が片付けられていない状態です。

古今伝授の間がある書院の座敷

 

 入口の木戸にあった持ち帰り自由の栞によると、古今伝授の間は、元々は京都御所内にあった八条宮智仁親王の学問所とのこと。そこで幽斎から宮に古今伝授が行われていましたが、西軍の攻勢が激しくなってきたので、幽斎は領地を守るために居城がある田辺に戻らなければならなくなりました。京から丹後に帰国すると戦況はますます悪化して、ついには籠城することになり、自分が討死することで古今伝授が途切れることを恐れた幽斎は、古今伝授に関する秘伝書と、まだ途中ではありましたが、伝授修了の証明書を、「いにしへ」の歌を添えて宮に送りました。それらを受け取った智仁親王は、兄である後陽成天皇に事の次第を報告し、幽斎を惜しんだ天皇が勅使を遣わして東西両軍を仲裁したことは先の記事で述べたとおりです。ということで、細川幽斎から智仁親王への古今伝授が行われたのは関が原の戦いより前のことなので、江戸時代以前であり、つまりこの建物は桃山時代の建造物ということになります。

 

 智仁親王は桂に別業を建て、それが八条通沿いの延長線上にあることから「八条宮」や「桂宮」と号されました。この別業が桂離宮で、よって古今伝授の間には桂離宮との共通点が多く見られるとのことです。以後、桂宮宮号世襲され、智仁親王を祖とする桂宮家は、伏見宮家、有栖川宮家、閑院宮家とともに世襲親王家として江戸時代を通して存続していましたが、明治14年(1881)に十二代桂宮が亡くなり嗣子がなかったため断絶しました。最後の桂宮は淑子内親王――仁孝天皇の皇女で、腹違いではありますが、和宮が生きているあいだに生存していた唯一の姉です。明智光秀から始まって、光秀の盟友である細川幽斎、幽斎の弟子である智仁親王智仁親王が創始した桂宮家、その最後の当主である淑子内親王、淑子内親王の妹である和宮親子内親王……縦だけでなく横にも繋がり、時には斜めや、あらぬ方向に紡いでいかれるのが歴史です。本当におもしろいですね。実は、正真正銘血筋の上でも和宮や淑子内親王明智光秀と繋がっていて、彼女たちは光秀の十代孫になります。つまり二人の父親である仁孝天皇が光秀の九代孫なので、仁孝天皇の六代孫である今上天皇も光秀の子孫ということになります。もっとも、ネット情報によると、今上天皇には、明智光秀だけでなく、織田信長徳川家康斎藤道三細川幽斎の血も入っているとのことですが。

 

 新しい客が入ってきて混んできたので、お茶席を後にして水前寺成趣園を出ると、水前寺公園駅から市電に乗って熊本駅前駅で降り、JR熊本駅へ。翌日は阿蘇に行くので、特急券を買いにみどりの窓口へ行ったのですが、乗ろうと思っていた熊本発9時9分の特急あそぼーい!は行きも帰りも満席で、全席指定なので自由席券はなく、したがって乗れないとのこと。各停電車を乗り継いでいくと熊本から阿蘇までは2時間以上かかり、次の特急は熊本発11時45分のあそ3号だというので、いったん保留にし、みどりの窓口を出て向かい側にある駅ビル内に観光案内所があったので、バスで行く方法を訊いたのですが、バスを使っても2時間以上かかり、しかも前日の夜7時までに予約しないとダメな路線もあるとのこと。その上、火口に行くためのロープウェーは現在運休中なので、アクセス手段はシャトルバスしかなく、40人定員なので、こちらも事前予約が必要――という絶望的な説明でした。

 

 阿蘇神社と火口見学に行くつもりだったのですが、予定していた特急電車に乗れず、似たような時間に到着するバスもなく、それで本当に熊本市から日帰りで行って帰ってこられるのか微妙なところだったので、どこかの店に入って座ってじっくり検討しようと思い、駅ビル内を探したら、新宿でおなじみの「桂花ラーメン」があり、5時も過ぎていたので、少し早めの夕食を摂ることにし、入店。

桂花ラーメン。昔、新宿で飲んだあと、締めの一杯でよく食べました。

 

 ラーメンを食べ終わっても旅程が決まらなかったのですが、ホテルに戻り、バスの予約受付時間である7時を過ぎたところで、火口見学は断念することに決めました。あそぼーい!より2時間ほど早い各停電車に乗れば阿蘇駅到着時間は特急よりも早く、乗るつもりだった阿蘇山西駅行きのバスにも間に合うのですが、接続を特急に合わせているので、阿蘇駅で1時間近く待つことになり、また熊本発7時台の電車に乗るのも現実的ではなく、無理だろうと思いました。熊本遠征の三つの目的の一つは阿蘇神社で、火口見学は阿蘇まで行くからついでに――という感じでしたし。ついでの目的のために早起きはできないし、阿蘇神社での滞在時間が短くなるのも本末転倒で、本意ではありませんでした。

 

 ということで、改めてスマホでe5489から熊本発11時45分発のあそ3号の指定席特急券を予約し、その日は終了です。