二日目は、9時にホテルを出たあと、ちょっと用があったので、9時から開いているはずの駅構内の観光案内所に行き、ついでに毎正時に駅前から出発する光秀ルートのバス以外に福知山城近くまで行くバスがないかを確認。しかし、あっさり「ない」と言われたので、前日に続き、歩いて福知山城へと向かいました。
7月に福知山から帰ってくると、福知山市からふるさと納税の返礼品として送られてきた福知山城天守閣と光秀ミュージアムの無料チケットが届いていたので、年内に再訪することは決めていました。福知山には光秀関連の見どころの他にも、皇大神社、豊受大神社、天岩戸神社という元伊勢の三社や、小式部内侍の歌や鬼伝説で知られる大江山、また、電車で1時間ほど行けば光秀の首塚がある盛林寺もあるのですが、7月には行けなかったので。
しかし残念ながら、前回に続いて今回も天気が悪いため、足場の悪いところを歩きまわる寺社巡りはあきらめ、とりあえず午前中に福知山城と光秀ミュージアムの会場である佐藤太清記念美術館に行き、午後は、いまだに行けていない亀山城を訪れることにしていました。宗教法人大本の管轄である亀山城は、コロナ禍で公開が長らく中止されていたのですが、10月からようやく再開され、亀岡までは福知山から特急で1時間ほどなので。
9時半過ぎに福知山城に到着すると、ドリンクは持っていましたが一気飲みできそうだったので、本丸広場にあった「明智光秀が話す自動販売機」にチャレンジしてみることに。前回いくつか見かけたのですが、すでにドリンクを持っていて荷物を増やしたくないなどの理由で、試せなかったので。商品ラインナップを見ると、いま大ブレイク中の「鬼滅の刃」缶コーヒーがあったので、そちらを選択。歩いてきて喉が渇いていたので飲み干すと、特にファンというわけではないので、缶を近くのゴミ箱に捨てて天守閣に入りました。
二度目の福知山城
本丸広場にある「明智光秀が話す自動販売機」。ひと言ふた言かと思ったら、けっこうしゃべってくれました。
展示内容は7月に来たときとほぼ変わっていませんでしたが、2018年の竜王戦が開催された特設対局場が公開されていて、その奥でシアターが見られました。それと、「いがいと!福知山」のPR武将に就任した「イケメン戦国」のキャラクター、明智光秀のパネル展示と、ゲーム内でCV(キャラクターヴォイス)を担当している声優、武内駿輔さんによる音声ガイドが前回はなかった点。ガイドでは武内さんがゲームの光秀に扮して案内してくれます。なので、
「ようこそ、福知山城へ。俺は明智光秀。この城を築いた戦国武将だ。今日は俺がこの城の案内をしてやろう。……まあ、そう気負うな。肩の力を抜いて、ゆっくりしていくといい。」
から始まり、
「俺が丹波を平定したあとの話をしようか。」
と切り出して、ひととおり説明してくれたあと、
「江戸時代には御霊神社に俺が神として祀られたらしいな。後の世で、広く大衆に己の功績を讃えられるとは……人間、一度死んでみるものだな。」
などと言って、ガイドを締めくくります。いやはや、こんなガイドは聞いたことがなかったので、なかなかおもしろかったです。「本当に手を変え品を変え、よくやるよ、福知山city!」と、そのアイデアと実行力に改めて感心しました。
竜王戦の特設会場
座敷の窓からは釣鐘門が見えます。
福知山・光秀シアター「天涯の刃 我、乱世を翔けり」の冒頭。光秀が定めた「明智家家中軍法」の末尾にある言葉の意訳で、これが書かれたのは本能寺の変の1年前のこと。1年前にこれほどの想いを抱いていた相手を滅ぼすほどの翻心とはいったい……だから本能寺の変は謎なのです。
PR武将のパネル展示の様子その1。福知山城内にゲーム内の光秀の部屋が再現されていました……といってもイラストですが。けれどもゲーム内の部屋自体がそもそもイラストなので、再現といってよいと思います。
PR武将のパネル展示の様子その2。向かって右は「いがいと!福知山」のオリジナルイラストで、福知山ドッコイセまつりの浴衣バージョン。福知山踊りは「福知山城築城の際、多くの領民が石垣の石や木材を運んだときに、「ドッコイセ、ドッコイセ」というかけ声にあわせ、手ぶり足ぶり楽しげに踊り出したのが、福知山踊りと、一緒に唄われる福知山音頭の始まりと言われている」と、PR武将がみずから音声ガイドで説明してくれました。
PR武将のパネル展示の様子その3。現代的なスーツバージョンも含めて、好きなコスチュームを選ぶ人気投票コーナーも設置されていました。
天守の最上階まで見学すると、城外の見どころも案内してくれるようなので、外に出て、音声ガイドに従って転用石の石垣や、銅門番所、豊磐井などを見学。番所や井戸などは江戸時代以降の遺構だと思い、前回は雨のためスルーしたので、改めて説明が聞けてよかったです。しかも光秀から(笑)。
転用石の石垣。見るからに墓石の土台と思われる石が随所にあります。
音声ガイドで案内してくれるところをすべて見終わると、登坂道を降りたところにある光秀ミュージアムへ。ここでは開館期間を10期に分けて展示替えをしているのですが、本徳寺の肖像画をはじめ光秀関連の史料が多かった前回に比べると、今回は信長関連の資料が多かったので、さらっと見て、隣のゆらのガーデンにある福知山城おみやげ処へと向かいました。というのも、福知山でしか買えないPR武将グッズというものがあるのですが、その販売場所がここと駅の観光案内所の2か所で、それゆえ福知山城に来る前に観光案内所に寄ったのですが、目当てのA4クリアファイルは残念ながらどちらも売り切れでした。
佐藤太清美術館2階の光秀ミュージアムの入口の前にあるパネル。ここから中は撮影禁止です。
ゆらのガーデン入口の飾り。ハロウィン仕様でした。
せっかく来たのに何も買わないのもさびしいので、どこに飾るんだと自問しつつも、記念に福知山オリジナルイラストのアクリルアートを購入。ついでに栗菓子を買って店を出ると、11時半を過ぎていたので昼食を摂ろうと思い、ゆらのガーデン内にある「焼肉ゆらの」に入店。スマホで調べたいことがあったので、自分で焼かなくていいメニューを訊いて、その中からビビンバ重を選びました。
「焼肉ゆらの」のビビンバ重
午後は、京都方面行きの特急電車は1時間に1本なので、12時44分発か13時46分発で亀岡に行こうと思っていたのですが、料理を待っているあいだに亀岡の天気を調べると、1時間に5ミリの雨とのこと。台風14号は変な進路で、北上して日本列島に突き当たると列島の南岸を沿うようにして東に進むという予報だったため、太平洋側のほうが被害が大きく、南から天気が崩れてきて、和歌山県はすでに防風雨、京都府も京都市や亀岡市を含む京都南部は今後大雨の予報でした。なので、なんとか曇りで天気がもっていて現時点で雨が降っていない福知山から、すでに雨が降っていてこれから強まることが予想される亀岡にわざわざ出向くのもいかがなものかと思い、交通機関が乱れることも予想されたので、亀山城は断念し、いつ天候が崩れてもいいように、嵐になってもすぐにホテルに避難できるように、福知山市内で過ごすことにしました。
電車での移動がなくなったので、のんびりと食事をしてから店を出ると、PR武将も動画で紹介していた仏蘭西焼菓子調進所「足立音衛門」に足を運んでみることにしました。城から歩いて5分程度のところですが、光秀が由良川の水害対策のために築いたという明智藪が近かったので、そちらに寄ってから行くことにしました。
「明智藪」こと蛇ヶ端御藪と説明板。福知山光秀プロジェクト推進協議会発行のガイドブックによると、それまで西に蛇行していた由良川の流れを北に変えて流路の安定化を図り、かつての川底に16町からなる城下町を築いたといわれているそうです。
「足立音衛門」は京都府指定文化財にもなっている大正元年(1912)築の旧松村家住宅を店舗にしているのですが、藪の向かい側がその敷地の裏門で、門が開いていたので入ってみると「光秀が話す自動販売機」を発見。何故ここにあるのか疑問だったので立ち止まって凝視していると、敷地内を歩いていた人に「その自動販売機、話すよ」と声をかけられたので、「ああ、知っています。福知山城で買ってみました」というようなことを答えたら、「場所によって話す内容が違うらしいよ」と言われたので、「え、そうなんですか?」と真面目に驚き、「じゃあ、もう1回買ってみようかな」と言って、またまた「鬼滅の刃」缶コーヒーを購入。今度もいろいろ光秀がしゃべってくれましたが、福知山城の時と内容が違うかはわかりませんでした――おぼえられる量ではなかったので。帰宅後に「いがいと!福知山」のホームページから入手した情報によると、基本フレーズは硬貨投入時に「ときは今! 明智光秀、ここに見参!」、商品選択時に「敵は本能寺にあり!」、商品落下時に「ドッコイセ~ドッコイセ♪ いがいと!福知山 よいところであろう?」だそうで、その他に時間限定フレーズとか場所によって違う隠しフレーズとかがあるみたいです。本当に芸が細かい。
「130円使わせちゃって悪かったね」と言われたので「いえいえ」と答えましたが、その時は缶コーヒーを1本飲みきる自信がなかったので、声をかけてくれた人が建物の中に消えるのを待ってバッグの中にしまいました。
敷地内を通って表通りに抜けると、右隣が「足立音衛門」の店舗でした。店に入ると、食べてみたいものは日持ちしない要冷蔵の物が多かったので、まずは栗のジェラートを食べることに。店内では食べられなかったので、外のベンチに座って食べながら、その日の行動予定と併せて考えた末、栗菓子をバラで5点ほど購入。それから広小路通りに出て北から南まで歩くと、光秀を祀る御霊神社に突き当たりました。
御霊神社は、前回来たときに境内は見ていて、社務所で資料も購入しているので、参拝をしたあと、叶石だけじっくり見てきました。というのも、境内社でもなかったので前回はよく見なかったのですが、NHK大河ドラマの放送後にやる紀行で福知山が取り上げられたときに紹介され、思兼神と手力男命を祀っていることを知ったからです。
御霊神社の叶石
叶石についての説明板
御霊神社の主祭神は宇賀御魂大神で、またの神名を保食神――すなわちウケモチのことですが、これは稲荷神のことです。稲荷神を祀る神社は全国にそれこそ腐るほどあるため気にしませんでしたが、思兼神と手力男命が一緒に祀られている聖跡があるとなると話は変わってきて、当社の起源が俄然興味深いものになります。
手力男命は配祀神や合祀神として見かけることも多く、戸隠神の神名で境内社の祭神であることも多々ありますが、阿智神である思兼神を祀る神社はそれほど多くありません。しかし『ホツマツタヱ』によれば、思兼=オモイカネは、天照=アマテルの姉であり妹である昼子=ヒルコの夫で、手力男=タチカラヲはこの二人の息子です。つまり思兼神と手力男命は父子であるため、本来一緒に祀られるのは極めて自然なことなのです。それゆえ戸隠神社では、本社である奥社にタチカラヲを、中社にオモイカネを祀っているのです。けれども、この親子関係を知らなければ、有名な手力男命と共に思兼神という地味な神を祀ることはないような気がするので、叶石こそが二人が親子であるという認識が普通だった頃に祀られた古くからのものではないでしょうか。イナリ=稲成ということで、稲作の神である宇賀御魂大神は田を拓いた場所であればほとんどの地に勧請されて祀られてきました。よって、元々は思兼神と手力男命の父子が祀られていたところに、あとから祀られたのではないかと思います。親子共々信州に鎮座する神が丹州のこの地に祀られた理由はわかりませんが。
御霊神社を後にすると、「足立音衛門」で1時間ぐらいの保冷剤を入れてもらってからちょうどそのぐらい経ったので、一度ホテルに戻って栗菓子を冷蔵庫に入れ、それから近くの「明智茶屋」へと向かいました。遅ればせながら昼食後のコーヒーを飲むためと、前回食べ損ねた桔梗ロールを食べるためです。がっつりビビンバ重を食べたので空腹ではありませんでしたが、前に夕方に行ったら売り切れだったので。
「明智茶屋」の光秀プレートセット。食後のデザートにしてはボリュームがありすぎました。これを食べるために広小路通りや御霊神社などを歩きまわったのですが。栗のジェラートも食べていましたし。
これで歩いて行ける範囲内で気になる場所には全部行ったのですが、まだ2時半過ぎだったので、残りの時間は福知山市立図書館で過ごすことにしました。
図書館は二度目で場所はわかっていたので「明智光秀コレクション」コーナーに直行し、近くの閲覧席を確保して、まずは開架図書を物色。『慶長三年醍醐寺の夜(太閤夜話 明智光秀の巻)』という本が目に留まり、醍醐寺、太閤、明智光秀という文言に魅かれて読みはじめました。ネタバレしてしまうと、明智光秀が本能寺の変後も生きていて、自分がもう長くないことを察している豊臣秀吉に呼び出されて語らう話です。ありがちな設定だけに描写力が問われますが、おもしろかったので、ほぼその場で読んでしまいましたが、あとで買おうと思いました。手元に置いて読み直したいと思ったので。
それから『明智一族 三宅家の史料』という分厚い本を見つけ、もしかして熊本の三宅家の史料ではないかと思ったので内容を確認すると、思ったとおりで、三宅家に残されていた史料をまとめたものでした。熊本県立美術館で「細川忠利と三宅藤兵衛 肥後にやってきた、光秀の孫たち」という特別展が開催されたように、熊本の三宅家は光秀の孫にあたる三宅藤兵衛の子孫で、藤兵衛は光秀の娘と、明智秀満と同一人物とされる明智光春の子といわれています。
ということで、光秀やガラシャこと玉、忠興らの書状の他、三宅家の系図や家譜、つまり明智家の系図や家譜も載っていたので、これはラッキーと思い、席に戻って、コピーを取るために必要なところをピックアップしたのですが、なにしろ830ページもある上に、活字に直されている翻刻文とはいえ古文書なので、吟味に時間がかかりました。「これはまともに読んでいると、いつまで経っても終わらない」と思い、系図と家譜に絞って、拾い読みに変更。途中で後半は同じ内容の読み下し文であることに気づいたのですが、結局60枚ほどコピーを取ることになりました。歴史研究においては史料を参照するときにはより原書に近い翻刻文をあたるのが基本ですが、解読の自信がなく、読み下し文を捨てて翻刻文だけに絞ることができなかったので。そのため、資料複写申込をしてコピーが終わったときには4時半になろうかという時間でした。ピックアップしている途中で、もはやこれは買ったほうが早いのではとも思ったのですが、スマホで調べたら定価24,000円(税別)の本だったので、買うという決心はできませんでした。コピーはもちろん有料ですが、それでも600円ぐらいで済むので、買うよりはずっと安上がりです。
コピー終了後、感染対策のため長時間の利用は控えてくださいというようなことも書かれていたので、サービスカウンターで枚数が複写許可の規定以内であることを確認してもらってから本を書棚に戻すと、図書館を出てホテルに戻り、その日は終了です。
熊本に行っても出合えなかった、熊本に残されていた史料に福知山で出合えるというのも、また不思議なもので、これこそ旅の醍醐味であり、まさしく明智光秀が繋いだ縁というもの。三宅藤兵衛の父と伝わる秀満は生前は福知山城の城代でしたが、福知山ではなく熊本に伝わったからこそ光秀関連の文書も大事に受け継がれて、現代まで残されてきたように思えます。熊本は藩祖が光秀の孫であり、しかも54万石の大藩、つまり深い血縁関係と経済的余裕があったことで、長岡忠恒・忠春兄弟(細川忠隆の子)や三宅藤右衛門(三宅藤兵衛の子)など光秀の子孫を招聘し高待遇で召し抱えました。その確たる事実が、三宅家史料が失われたり散逸したりすることなく現代に残った大きな理由だと思います。
今回出合った、光秀の孫の家に伝わってきた貴重な一次資料を読み込めたら中途半端になっている明智家の系図研究も飛躍的に進みそうなのですが、遠征記が後手後手になっているので、現在そちらは放置しています。手をつけてしまえば、ハマることは必然なので。大河ドラマが終われば、特別展などの明智光秀関連のイベントも落ち着いて、それほど多くなくなるはずなので、予定している遠征をすべて終えて、今入手できる材料が出揃ったら、しばらく引きこもって、どっぷり浸かって考察に励みたいと思います。