羽生雅の雑多話

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関西寺社遠征&明智光秀紀行9 その3~売布神社、中山寺

 翌日は、宝塚大劇場で3時半開演の月組公演を観る予定だったので、3時までに宝塚に行けばいい感じでした。関西における大雨のピークはこの日の午前中で、午後には台風が東海から関東に移動して回復してくるという予報だったので、e5489で福知山発9時50分の特急電車を予約していましたが、天気が悪ければ変更し、チェックアウトの時間ギリギリまでホテルにいて、昼過ぎに宝塚に入り、歩くのが億劫なほど雨が降っていたら、ワインでも飲みながらランチをのんびり食べるつもりでいました。

 

 しかし朝起きると、予報に反して陽が出ていて、スマホで調べたら宝塚の天気も雨ではなかったので、9時半にはホテルをチェックアウトし、駅の券売機で特急券を発券して、当初の予定どおり特急こうのとり10号に乗車。朝食を摂っている余裕がなかったので、車内で前日「光秀が話す自動販売機」で買った「鬼滅の刃」缶コーヒーを飲みながら「足立音衛門」の栗菓子を食べることに。「栗一粒」という栗がまるごとひと粒入ったパウンドケーキで、食べ比べてみたかったので和栗とマローネを買ったのですが、和栗のほうが断然美味しかったです。そうこうしているうちに11時になり、宝塚駅に到着。

 

 JRの改札口を出たところにあるコインロッカーに大きな荷物を預けると、阪急宝塚線に乗り換えて、売布神社駅で下車。駅から5分ほど歩くと売布神社に到着し、お参りをして境内をひととおり見たのち、御守り授与所に行ったら無人だったので、呼鈴を押すと、程なくして神社の方が来てくれたので、御朱印と由緒書きをいただきました。

f:id:hanyu_ya:20201123155312j:plain売布神社参道。古い形の鳥居です。

f:id:hanyu_ya:20201123155410j:plain売布神社の由来についての説明板

 

 売布神社式内社で、祭神は下照姫命と天稚彦神。いただいた由緒書きには、下照姫神の別名は高姫神で、大国主神の第二皇女であり、天稚彦は天津国魂神の皇子と書かれていました。記紀を基にした一般的な認識では、下照姫は、またの名を高照姫といい、大国主の娘とされているので、ほぼ由緒書きに近いのですが、『ホツマツタヱ』によれば、下照姫と高照姫は別人で、はっきり言って、『ホツマ』のほうが格段に説得力がある血縁・婚姻関係になっています。

 

 記紀において大国主神大己貴命と同一神とされていますが、『ホツマ』によると、大己貴=オホナムチ、大国主=ヲコヌシで、オホナムチはアマテルの弟ソサノヲの子であるクシキネ、ヲコヌシはクシキネの子であるクシヒコのことになります。そもそもヲコヌシ=大国主とは、漢字表記のとおり“大きな国の主”の意味であり、個人名ではありません。アマテルの孫であるニニキネがクシヒコに賜った尊称です。

 

 オホナムチにはクシヒコの他にタカヒコネとタカコという子がいて、タカコはタカヒメとも呼ばれます。漢字で表せば、タカヒメ=高姫、タカヒコネ=高彦根であり、よってタカヒコネとは奥州一宮の都々古別神社や下野一宮の日光二荒山神社の祭神である味耜“彦根”命のことです。タカヒコネは馬術を能くし、そのためタカマガハラの馬を司る馬事長官のヲバシリの生まれ変わりと言われ、ヲバシリの跡を継いで馬事長官となり、「フタアレカミ」という神名を賜りました。「フタアレ」を漢字で表せば「ニ生れ」で、二度生まれたという意味であり、つまりヲバシリの生まれ変わりであることを意味したものです。けれども、後世に至って「フタアレ」には「ニ荒」の漢字があてられるようになり、二荒神を祀った山は二荒山(男体山)と呼ばれ、二荒山の神を祀った社は二荒山神社となりました。

 

 一方、カナヤマヒコの子であるアマクニタマには、アメワカヒコとオクラヒメという子がいました。漢字で表せば、カナヤマヒコ=金山彦、アマクニタマ=天国魂、アメワカヒコ=天稚彦、オクラヒメ=大倉姫で、すなわちカナヤマヒコとは美濃一宮の南宮大社の祭神、“金山彦”命のことです。

 

 タカヒメとオクラヒメは、アマテルの姉であり妹であるヒルコに仕えていて、またの名をワカヒメともシタテルヒメとも呼ばれていたヒルコは、オクラヒメシタテルヒメの名を継がせ、タカヒメには新たにタカテルヒメの名を与えました。そして、タカテルヒメはアメワカヒコの妻になり、シタテルヒメはタカヒコネの妻になりました。出仕と結婚、どちらが先かはわかりませんが。

 

 ということで、シタテルヒメ=下照姫といえばヒルコのことで、したがって下照姫を祀っている場合、その正体は初代下照姫のヒルコと二代下照姫のオクラヒメ、そしてオクラヒメとほとんど同一化されているタカヒメの三者が考えられます。

 

 ところで、由緒書きにある売布神社由来記によると、往古諸人がいまだ木の葉をまとい、草樹の実を食物として飢餓をしのいでいたころ、当地に来た下照姫が麻布を織り、稲を植えることを教え、衣食を整えた里人らが、その後豊かな生活を送ることができたので、神徳を慕って祀ったとあります。そして『ホツマ』には、ヒルコは祓いの歌によって害虫を払い、キシヰクニの枯れた稲をよみがえらせ、和歌の力で稲をよみがえらせたことからワカヒメ=和歌姫と称えられ、キシヰクニの民から感謝されてタマツミヤを贈られたという記述があります。

 

 「キシヰクニ」は、漢字で表せば「紀志伊国」――つまり紀伊国志摩国のことで、「タマツミヤ」は「玉津宮」――すなわち玉津島神社がその跡ということになります。それゆえ玉津島神社の筆頭祭神は稚日女尊なのです――稚日女=ワカヒルメ=ワカヒメ=ヒルコですから。キシヰクニのタマツミヤの跡が実際に残っている以上、ヒルコが枯れた稲をよみがえらせたというエピソードは、それに近いことが史実としてあったと考えてよいと思います。であるならば、ヒルコは稲作技術に精通していて人々に農業指導を行う立場だったと想定できるので、売布神社周辺の里人に稲を植えることを教えたのもヒルコで、この恩人を祀ったのが当社の元々の起源ではないかと思います。

 

 ところが、式内社売布神社は松江にもあって、そちらの主祭神は下照姫ではなく、速秋津比売神となっています。速秋津比売=ハヤアキツヒメで、よってその正体は、アマテルの12人の妃の一人であるハヤアキツヒメアキコのことになります。ハヤアキツヒメは住吉神ことカナサキの娘であり、住吉神の鎮座地は摂津一宮の住吉大社筑前一宮の住吉神社なので、何故出雲国に祀られているのかわからず、場所が宍道湖と大橋川の接点なので、海の神の娘で潮流を司る水戸の神が水害防止を祈念して祀られたのだろうぐらいに思っていました。しかし今回、宝塚の売布神社を訪れたことで別の一つの可能性に思い至りました。

 

 由緒書きによると、宝塚の売布神社はいつごろからか貴船大明神として崇められていたそうで、八代江戸将軍徳川吉宗の時代に行われた調査で、売布神社であるというのが正しいと判明したそうです。境内社の一つに豊玉神社があり、祭神は豊玉彦神と豊玉姫神とされていましたが、この境内社はおそらく本社が貴船神ではなく売布神の社になったときに建てられ、本社の祭神ではなくなった貴船神をこちらに祀ることになったのだと思います――貴船神といえばトヨタマヒメのことなので。トヨタマヒメ豊玉姫で、つまり豊玉神社の祭神、豊玉姫神のことです。

f:id:hanyu_ya:20201123160453j:plain売布神社の社号標についての説明板

 

 他方、松江の売布神社には摂社の和田津見神社があり、櫛八玉神と豊玉彦神、豊玉比売神を祭神としています。こちらも海が近いから海神を祀っているのだろう程度に思っていましたが、二つの売布神社における共通の祭神が豊玉彦豊玉姫であり、宝塚の売布神社貴船大明神とされていたことを併せ考えると、売布神とは本来トヨタマヒメのことではなかったかと思います。

 

 トヨタマヒメはカナサキの子孫であるハデツミ(鹿児島神宮祭神)の娘で、十代天君ニニキネの息子で山幸彦として知られるヒコホオデミが兄から借りて失くした釣り針を探し求めて九州に至ったときに彼と出会い、その妻となりました。二人の宮跡が青島神社です。やがてヒコホオデミが父の跡を継いで十一代天君になることが決まり、急いで近江の国へ帰ることになり、トヨタマヒメは後から行くことになりました。そのとき彼女は身籠っていて、早船の旅は危険だったからです。臨月も近く、すでに産屋に移っている状態でした。その産屋の跡が鵜戸神宮で、生まれてくる子――のちにウガヤフキアワセズと名付けられる子のために建てられた産屋の跡なので、当宮の祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊なのです。日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊=ヒコナギサタケ“ウガヤフキアエズ”ノミコト――すなわちウガヤフキアワセズのことです

 

 出産に備えて産屋に移っていたトヨタマヒメでしたが、子供が生まれる前に近江へ向かうことになりました。夫が天君となり、お腹の子は無事に生まれれば天君の第一子なので、子の将来のためにも、田舎で生むわけにはいかなかったのかもしれません。あるいは皇后となって正妻の地位を維持するためにも離れているわけにはいかなかったのかもしれません。理由はともかく、身重で旅立ったトヨタマヒメは近江に着く前に産気づいてしまい、途中の小浜で子を生むことになりました。その時の産屋の跡が若狭一宮の若狭姫神社です。急造の産屋で生まれた子に、母親のトヨタマヒメはウガヤフキアワセズと名付けました。茅葺きが間に合わなかった――という意味で、史上稀に見るヘンテコリンな名前です。いったいどんな思いだったのでしょうね。

 

 ということで、トヨタマヒメは宮崎から小浜経由で近江に入っているので、出雲国に寄った可能性が大いにあります。なので、松江の売布神社はその時にトヨタマヒメが立ち寄って滞在した宮か何かの跡ではないかと思います。宝塚の売布神社は、ヒルコはカナサキによってヒロタノミヤ=広田の宮(現在の広田神社)で育てられていたので、その頃に周辺地域で機織りや稲作の指導をしたとも考えられます。そのヒルコを称えて祀っていた場所にトヨタマヒメが縁を持つことになり、神上がったのちにヒルコと一緒に祀られたのではないでしょうか。ヒルコとトヨタマヒメには三世代の開きがあるので。

 

 売布神社を後にすると、まだ時間的に余裕があったので、駅に戻って再び宝塚線に乗り、隣の中山観音駅で下車。西国三十三所の第24番札所の中山寺へと向かいました。

 

 山門前に到着すると、けっこうな人出で、久しぶりに人が多いと思う混み具合でした。山門をくぐり、露店なども出ている塔頭が並ぶ参道を歩くと階段に突き当たるのですが、その隣にエスカレーターが設置されていたことにまず驚きました。お参りをするのにエスカレーターを使ったおぼえがあるのは、江戸城の鎮守である日枝神社ぐらいで、日枝神社は首都東京のド真ん中の赤坂にあるので、なんとなく納得していましたが、宝塚という地方都市にある中山寺が何故そこまでするのかわからず、「???」という感じでした。お参りという一種の行においてエスカレーターを使うのも気が引けたので、歩いて階段を上ると、境内は予想外に広く、本堂に行くにはもう一つ階段を登る必要がありました――こちらにもエスカレーターがありましたが。

f:id:hanyu_ya:20201123162500j:plain中山寺山門

f:id:hanyu_ya:20201123162607j:plain本堂に続く階段の隣にあるエスカレーターと五重塔

 

 本堂の奥には五重塔もあり、わりと境内を見るのに時間がかかりそうだったので、先に腹ごしらえをしようと思い、まずは観音茶屋の案内が出ている大国堂のほうへ向かうことにしました。ちょうど時刻も12時を回ったところだったので。すると、右手に予期せぬものを発見し、思わず瞠目。なんと古墳があり、しかも柵もなく自由に石室内に入れて、中に石棺まであったのです。

f:id:hanyu_ya:20201123162749j:plain古墳の入口

f:id:hanyu_ya:20201123162845j:plain古墳内の石棺

 

 入口脇にあった説明板によると、この中山寺古墳は、寺伝によれば14代仲哀天皇の后である大仲姫の墳墓とされ、「石の櫃」と称されるとのこと。仲哀天皇日本武尊の子で、神功皇后とのあいだに応神天皇をもうけたことで知られます。つまり熱田神の子であり八幡神の父です。仲哀天皇には神功皇后の他に妃が二人いて、そのうちの一人が大仲姫命です。大仲姫命は日本武尊の異母弟である彦人大兄命の娘なので、仲哀天皇とは従兄妹の間柄であり、彼女が生んだ子が仲哀天皇の長男と次男なので、仲哀天皇が即位以前に娶った最初の妻は大仲姫命だったと考えられます。神功皇后仲哀天皇の即位後に立后し、応神天皇は父天皇崩御して10か月後に生まれた遺腹の子なので、明らかに大仲姫命より後に迎えられた妻です。

f:id:hanyu_ya:20201123163149j:plain石の櫃に着いての説明板

f:id:hanyu_ya:20201123163247j:plain中山寺古墳ついての説明板

 

 被葬者が大仲姫かどうか真実は定かではありませんが、死後に神として祀られた貴人の葬地だったからこそ、この地は聖地として崇められ、古来の聖地だったからこそ、この地が選ばれて中山寺が建立されたのは明白です。同じく聖徳太子の開基と伝わる第31番札所の長命寺も第32番札所の観音正寺も、磐座と思われる巨石が残る古代祭祀の聖地に建立された寺でした。比叡山高野山も、元々はヤマクイとイブキドヌシの聖地です。よって、神社ではなく寺であっても、平安時代前期ぐらいまでに建立された古刹は、古来の聖地を選んで建てられているのかもしれません。

 

 観音茶屋に到着すると、選べるアルコールとちくわの磯辺揚げがセットになったちょい呑みセット500円というメニューがあったので、そちらを注文し、飲み物はチューハイを選択。ジョッキか何かで出てくるのかと思いましたが缶チューハイで、神戸居留地のストロングチューハイでした。

 

 ひと休みして本堂へ行くと、こちらもたいそうな賑わいで、コロナ禍中とは思えないほど混雑していました。行くまで知らなかったのですが、中山寺は現在は安産祈願の寺として有名らしく、本堂の前には仮設テントの祈祷申込所まで設置されている有り様で、あまりの人気ぶりに驚いたのですが、どうやらこの日は戌の日だったので、余計に人が多かったみたいです。たくさんの妊婦さんや小さなお子様連れを見て、エスカレーターがあることも合点がいきました。私は西国三十三所の札所で、聖徳太子の建立と伝わる古刹だから行ったのですが、御守り授与所を覗いても安産守しか見あたらなかったので何も買わず。売布神社のあと中山寺に行く余裕があると思っていなかったので、朱印帳もロッカーに入れてきたため、御朱印をいただくこともできませんでした。紙でいただくこともできるはずですが、西国三十三所御朱印朱印帳にいただいているので……。なので、お参り後、平成29年に再建されたという見るからに新しい青い五重塔を見て引き上げました。

f:id:hanyu_ya:20201123165203j:plain本堂の裏。青空があっという間に雲で見えなくなりました。

f:id:hanyu_ya:20201123165300j:plain本堂屋根の鬼瓦

 

 せっかくなので、帰りはエスカレーターを使ってみると、降りたところに「梵天」というお休み処があったので、昼食を摂ることにしました。店に入ると、最初に目についた、たこ焼とうどんのセットを注文したのですが、席で待っているあいだに、中山寺名物の「蓮ごはん」というメニューがあることを知り、どうしても気になったので追加。結果、とんでもないボリュームになり、少し前にちくわを食べて缶チューハイ1本を空けていたこともあって、動くのが億劫なくらい腹いっぱいになりました。

f:id:hanyu_ya:20201123191357j:plain店内に貼られていた中山寺名物「蓮ごはん」についてのポスター。蓮の葉で包まれた炊き込みご飯です。

f:id:hanyu_ya:20201123165548j:plainたこ焼と「蓮ごはん」

f:id:hanyu_ya:20201123165640j:plainうどんと「蓮ごはん」。蓮の葉を開くと、こんなカンジ。

 

 2時過ぎに宝塚駅に戻って、2時半には宝塚大劇場に入り、開演まで1時間ほどありましたが、コーヒーすら飲む気がしないほどの満腹状態だったので、武庫川が見えるテラスの席に座って時間をつぶすことにしました。その時にスマホをいじっていたら、GoToトラベルを利用した宿泊予約でクーポンが付与されていることに気づき、大劇場のショップでもクーポンが使えることがわかったので、急いで使い方を調べました。そして、どうにか理解したのでショップに行ったのですが、その店では紙クーポンのみ利用でき、電子クーポンは使えないとのこと。クーポンには紙と電子があり、電子は使えないところがあるという認識はまったくなく、そのとき初めて知りました。このときレジに持っていったのはクーポンが使えるなら買おうと思った土産物ばかりだったのですが、レジスタッフにクーポンが使えないのなら買わないとも言えなかったので、仕方なく現金払いで購入しました。

 

 松本悠里前理事のサヨナラ公演で、坂玉サマこと坂東玉三郎氏監修の和風レビューと、男役トップスターの男女二役という微妙な感じのミュージカルを観終わると、宝塚駅に行き、ロッカーから荷物を引き上げて、JR線に乗車。途中尼崎駅で乗り換えて、8時前に京都駅に到着し、ホテルにチェックインすると、夕食を摂るために再び駅構内へ。大劇場で使えなかった電子クーポンの有効期限がその日で切れるため、電子クーポンが使える店に入りたかったのですが、「はしたて」は紙クーポンのみの取り扱いだったり、グランヴィアの「ル・タン」は営業時間短縮でラストオーダーが終わっていたりで、しばらくさまようことになりました。ポルタの「田ごと」に至って、ようやく9時まで開いていて電子クーポンも使えたので、いつもの京ゆば御膳セットと玉乃光を注文。食事後ホテルに戻り、日程終了です。

f:id:hanyu_ya:20201123170200j:plain安定の味、京ゆば御膳と玉乃光の組み合わせ。昼に食べ過ぎたので 夜は軽く済ませるつもりだったのですが……。