羽生雅の雑多話

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織田信長の誤算による自滅か!?~本能寺の変の黒幕についての一考察

 以前に遠征記の中で、本能寺の変の動機についての考察を書いたことがありましたが、明智探訪を続けてきて、明智光秀の動機とは別に、黒幕について思い至ったことがありました。本能寺の変を仕掛けたのは、織田信長本人ではなかったか――と。

 

 そう思ったのは、NHKの「歴史探偵」という番組で、光秀が築いた周山城の規模を知ったときでした。天正7年(1579)に丹波平定をほぼ終え、信長から丹波一国を領国として与えられると、光秀は亀山城、福知山城に続いて周山城の築城を開始しました。天正9年(1581)8月には茶の湯の師匠である津田宗及を招いて月見をしたことが『宗及茶湯日記』に記録されているので、その頃までには、完成はしていなくても客を呼んでもてなすぐらいの体裁は整っていたことになります。

 

 周山城は480メートルの山の上に作られた南北600メートル、東西1300メートルに及ぶ、とんでもない規模の城です。国衆の力が強くてまとめるのが難しい丹波をついに平定し、さらに彼らや領民たちを従わせて、わずか2年足らずでそのような巨大城郭を作った光秀に、信長は恐れを抱いたと思います。同番組で周山城のCG復元図を見たときに、私はこれほどの建造物をあんな深い山の上にそんな短期間で人々に作らせた光秀の器量と人望に驚きました。人望があったわけではなく、単に人心掌握術に長けていただけかもしれませんが、いずれにしろ信長が私と同じような感想を持ったとしても何ら不思議ではありません。たとえ実際には目にしていなくても、そのような城の存在を知れば、築城主の力を感じて脅威に思うのではないでしょうか。さすれば、いずれ足元をすくわれるという危機感をおぼえたと思います。度重なる裏切りや離反によって、自分から人心が離れていっていることは、感情的には堪えていなかったかもしれませんが、事実は事実として信長自身も感じてはいたでしょうから。

 

 とはいえ、信長の露払いとなって主君が西国に攻め込む道を着々と整備している光秀に表立っての非はないため、よほどのことがないかぎり光秀を失脚させることはできなかったと思います。丹波平定を成し遂げるという他に類を見ない武功を挙げた光秀にそんなことをすれば、けっして一枚岩ではない織田方の武将たちはとたんに信長に背を向け、信長のために戦をしなくなるからです。また、光秀の下でおとなしくなった近江や丹波の国衆や、今や34万石の大名である光秀の配下も黙ってはいません。そうした事情もあって、信長は光秀が自分に叛いて、公明正大に光秀を処分できる機会を作ろうとしたのではないかと思えます。

 

 怨恨説の根拠の一つとなっている安土城徳川家康を饗応したときの叱責、四国説の根拠となっている長宗我部家に対する方針転換など、従来本能寺の変の動機として挙げられている、光秀の不満を煽るような細かいことを意図的に積み上げていき、何かきっかけがあれば光秀が叛きそうだという情報を得たところで、少ない手勢で本能寺に滞在してわざと隙を見せて、堪忍袋の緒を切った光秀が事を起こしたら、信長の内意を受けていた羽柴秀吉が光秀を成敗するという手筈だった――今のところそれが一番しっくりきます。だからこそ秀吉は中国大返しという離れ業が可能だったのでしょう。何故信長が小姓衆だけを連れて上洛したのかも説明がつきます。光秀の謀反を誘い出して彼を嵌めるためで、秀吉の援護があると信じていたからです。

 

 舞台が本能寺になるかどうかはともかく、わずかな供回りの信長が襲われたら、秀吉の命を受けた者が駆けつけて助け、謀反の現行犯である光秀を言い訳無用で失脚させることになっていた――ところが、光秀とは違う理由で、光秀と同じく信長を煩わしく思いはじめていた秀吉は、目の上の瘤を一気に排除する好機と見て、主君信長を見殺しにし、ライバル光秀を、それこそ主君の仇討ちという公明正大な大義のもとに滅ぼしました。信長の遺体は見つからなかったということになっていますが、もしかしたら秀吉勢が当初の手筈どおりに救い出したあとに抹殺したのかもしれません。歴史とは勝者による勝者のための記録で、出口王仁三郎いわく「信ずるに足らぬもの」なので(笑)

 

 信長の数々の焚きつけに耐えていた光秀が一線を越える理由となったことが何なのかはまた別問題で、そちらはやはり時期的に「三職推任」問題がらみで、前日の6月1日に開かれた茶会にかこつけて公家衆に対して示された信長の返答内容が主因ではないかと思いますが、信長が己の策に溺れて自滅したのが本能寺の変の一面かもしれません。