羽生雅の雑多話

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明智光秀探訪13 その2~特別展「明智光秀と越前」in福井市郷土歴史博物館、金崎宮、金ヶ崎城址

 「麒麟がくる」が終わってから、大河ドラマ館も閉館し、イベントやトピックスなどの明智光秀関連ニュースもめっきり少なくなったので、それらをネットでチェックする時間がだいぶ減りました。これもある種の“麒麟ロス”というものかもしれません。なので、その分多少余裕ができたため、ゆかりの地で買ってきた書籍類をぼちぼちと読み込みはじめたら、行き詰っていた明智家の謎に迫れそうだったので、光秀と土岐明智家の年表&系図作りを再開。そうしたら見事にハマってしまい、遠征記の続きに手が付けられず(笑)。けれども、金ヶ崎城の記事はなんとか23日に放送される「麒麟がくる」の総集編までにはアップしたいと思ったので、考察は一時中断です。

 

 さて、福知山に行った次の日の31日は、7時50分にホテルをチェックアウトすると、8時10分発の特急サンダーバードに乗車。9時36分に福井駅に到着し、福井市郷土歴史博物館へと向かいました。北陸は29日から30日にかけて雪の予報だったので、北陸新幹線を避けて東海道新幹線を選び、さらに福井を後回しにして先に福知山から行ったのですが、これが大正解でした。当日は晴れていましたが、福井はまだ雪がかなり残っていたので。一方の福知山は、こちらも29日は雪だったみたいですが、30日は晴れて、午後に行ったときにはもう市中に雪は残っていませんでした。

f:id:hanyu_ya:20210221175152j:plain郷土歴史博物館に行く途中に通った福井城の石垣と内堀。白山が見えます。

f:id:hanyu_ya:20210221175238j:plain福井城の石垣と枯れ木と雪(韻を踏んでいます)。福井城址には現在福井県庁があります。

 

 徒歩15分ほどで到着し、11月に図録だけ買った受付で観覧券を買うと、企画展「明智光秀と越前」は2階だというので、そちらはゆっくり見たいと思い、まずは1階の松平家史料展示室と常設展示室を見学。松平家史料展示室では「史料から見る福井の災害」という企画展をやっていました。続いて常設展を見学し、その後企画展へ。2階の展示室には最初は二人ぐらいしか見学者がいなかったのですが、40分ほど見ているあいだに続々と増えて、展示室を出るときには10人以上いました。

f:id:hanyu_ya:20210221175820j:plain常設展に展示されていた石棺。企画展は撮影禁止でしたが、常設展はいくつか撮影できました。

 

 企画展では、明智光秀が住んでいたと伝わり、現在明智神社がある東大味と一乗谷の関係を示す記録などが展示されていて、一乗谷朝倉氏遺跡資料館で見た石川学芸員の新聞連載記事のパネル展示もありました。越前には東大味の他、称念寺門前に光秀が住んでいたという伝承があるのですが、朝倉氏が統治していた時代の一乗谷は北ではなく南が表門だったと知ってから、どちらも信憑性が高いと思っています。おそらく美濃の明智城が落城して越前に落ちてきた当初は称念寺を頼って門前で寺子屋を開いて暮らし、のちに取り立てられて朝倉家ないしは朝倉家家臣のもとで働くようになると、一乗谷大手門筋の東大味に土地屋敷を拝領して移ったのだろうと考えています。この推測の裏付けとなるようなものがないかと思い、地元で開催される企画展に期待して見に行ったのですが、今回の展示を見てますますその思いを強くしました。

 

 江戸時代中期――1700年前後に書かれたとされる『明智軍記』は本能寺の変から約120年後の書物なので内容の信頼性が問われていますが、そこには朝倉義景が光秀の腕を見るために鉄砲を撃たせたところ百発百中だったと書かれ、その記事の他、近江の田中城籠城の際に沼田勘解由左衛門尉が光秀から口伝された医術を米田貞能が相伝されて記した『針薬方』や、光秀が朝倉家家臣に刀傷の対処法を伝授したと記されている『金瘡秘伝集』の存在から想像するに、光秀が教えていたのは近所の子供相手の読み書きといったものではなく、武家の子弟を相手にした医術や砲術ではなかったかと思われます。したがって光秀が営んでいたのは、いわゆる寺子屋というよりも指南所であり、そこで指導しているところを朝倉家中の誰かに見い出されて、客分扱いの軍医か軍師のような待遇で用いられるようになったのではないでしょうか。

 

 せっかく福井まで足を延ばすのなら、かにを食べたかったので、11時過ぎには博物館を出て、駅前のパピリンにある「福福茶屋」に行ったのですが、まだ11時20分ぐらいでしたが、すでに満席だったので驚きました。11時から14時までのランチタイムメニューで福井の郷土料理約20種が食べられるバイキングが人気のようで、1組の家族連れが待っていましたが、一人ならカウンター席でもよいので、すぐに空くだろうと思い、待つことにしました。予想どおり5分ほどでカウンター席が空き、11時半にはテーブル席待ちの家族連れより先に通されたので、前に来たときと同じせいこがに丼を注文。混んではいましたが、大多数がバイキング客のため、料理が出てくるのが遅くて待たされているような様子はなく、12時半過ぎの特急には乗れそうだったので、待っているあいだにe5489で敦賀までの特急券を予約しました。

f:id:hanyu_ya:20210221182518j:plainこの日のせいこがに丼。越前ガニである証の黄色いタグには、よく見ると、このカニを獲ったらしき漁船の名前が書かれていました。

 

 食事後、物産館や駅構内の土産物屋を覗いたあと、特急券を券売機で発券して、12時36分発の特急しらさぎに乗車。13時9分に敦賀駅に到着し、駅構内にある観光案内所で金崎宮行きのバスの時刻表と街歩きマップをもらうと、駅前のバス乗り場へ。13時30分発のぐるっと敦賀周遊バスに乗り、13時38分に金崎宮バス停に到着。すると、バス停がある駐車場の隣にある金前寺で、さっそく松尾芭蕉の句碑に出合いました。福井県内で最も古く、日本海側で最も古い芭蕉翁の句碑だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210221181055j:plain金前寺鐘塚の芭蕉句碑。句は「月いづこ 鐘は沈るうみのそこ」。新田義貞の長男、新田義顕金ヶ崎の戦いで海に沈めた陣鐘を詠んだ句だそうです。

f:id:hanyu_ya:20210221181233j:plain金前寺についての説明板

 

 金前寺の脇道が金崎宮の参道で、道なりに進んで石段を登っていくと金崎宮に到着。

f:id:hanyu_ya:20210221181322j:plain参道の石段。金ヶ崎の退き口をアピールする幟旗がはためいていました。金ヶ崎城明智光秀キャラクターは「あけち君」です。

f:id:hanyu_ya:20210221181404j:plain石段の下にある金ヶ崎城址についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210221181443j:plain説明板の横に立てられていた金ヶ崎の退き口の立て看板

f:id:hanyu_ya:20210221181522j:plain金崎宮縁起についての説明板

 

 金崎宮は、後醍醐天皇の第一皇子で、南北朝時代金ヶ崎の戦いにおいて足利軍に敗れて自害した尊良親王と、その異母弟で、第五皇子でありながら寵妃の阿野廉子が生んだ皇子であるため皇太子となっていた恒良親王を祭神とする神社。第三皇子の護良天皇を祀る鎌倉宮と同じく明治期に建てられました。後醍醐天皇自身は吉野で病没しましたが、彼の息子たちは日本のあちこちで苦労し、自刃のほか毒殺や暗殺など、かなりの割合で悲惨な末路を辿っています。恒良親王も落城する金ヶ崎城からは脱出させられましたが、結局捕らわれて京都で幽閉され、毒を盛られて亡くなりました。まだ15歳だったそうです。

 

 戦国時代になると、越前を掌握した朝倉氏が金ヶ崎城敦賀郡司を置いて支配しましたが、そこに織田軍が攻めてきました。しかし織田信長の妹、市の婚家である浅井家が裏切ったことによって背後を突かれて挟撃される可能性が出てきたため撤退。その時に殿を務めたのが明智光秀羽柴秀吉だったといわれています。退いたから「金ヶ崎の退き口」なのです。

f:id:hanyu_ya:20210221181743j:plain鳥居と舞殿

f:id:hanyu_ya:20210221181821j:plain拝殿

f:id:hanyu_ya:20210221181856j:plain拝殿と本殿

f:id:hanyu_ya:20210221181929j:plain摂社の絹掛神社。新田義顕など金ヶ崎城落城の際に尊良親王と共に自刃した武士たちを祀る。

 

 参拝を終えると社務所に行き、金崎宮の御朱印金ヶ崎城の御城印をいただきました。金崎宮の御朱印は以前に訪れたときにもいただいたのですが、今回は「あけち君」のハンコが押された特別バージョンだったので、改めて購入。御城印は戦国時代バージョンと南北朝時代バージョンがあったので、両方いただきました。

f:id:hanyu_ya:20210221183042j:plain御朱印と御城印。2枚以上の購入でチケットケースがもらえました。

f:id:hanyu_ya:20210221183119j:plainすっかり見慣れた感のあるブルーの看板ですが、「明智光秀 雌伏の地」ではなく「明智光秀 飛躍の地」となっていました。

 

 摂社の絹掛神社の脇から花換の小道に出ることができ、そこから金ヶ崎城の本丸跡へ行くことができます。

f:id:hanyu_ya:20210221183231j:plain金ヶ崎案内図

f:id:hanyu_ya:20210221183324j:plain花換の小道の看板と金ヶ崎城址の石碑

f:id:hanyu_ya:20210221183407j:plain本丸跡に向かう途中にある明治期に建てられた「尊良親王御陵墓見込地」と刻まれた石碑。社務所でいただいた案内記によれば、親王の墓に指定される地は京都にあるため、自刃した場所ではないかとのことでした。

f:id:hanyu_ya:20210221183506j:plain尊良親王御陵見込地ついての説明板

f:id:hanyu_ya:20210221183542j:plain尊良親王御陵墓見込地(写真右上)の下にある本殿跡地。本殿は明治36年(1903)の火事で焼失し、3年後に再建されたときに現在地に遷されたそうです。

 

 金ヶ崎山の頂上近くの平地が本丸の跡地なのですが、そこには円墳が残っていました。つまり、金ヶ崎城が築城される以前からこの地は重要な場所で、古代には墳墓が作られた聖地だったことがわかります。

f:id:hanyu_ya:20210221183706j:plain「金碕古戦場」の石碑と古墳(右奥)

f:id:hanyu_ya:20210221183811j:plain古墳と最高地点の月見御殿跡に続く階段

f:id:hanyu_ya:20210221183843j:plain月見御殿跡から眺める敦賀湾と敦賀半島。下に見えるのは絹掛ノ崎。金ヶ崎城を脱出する際に、恒良親王が人目を避けるため、ここの巌上の松に衣を掛けたと伝わっているそうですが、もう松は枯れているとのこと。

 

 例によって、来た道を戻るのはつまらないので、本丸跡から金ヶ崎城の支城である天筒山城があった天筒山を経由するハイキングコースを通って山を下りようとしたのですが、途中から山道が雪のためにグチャグチャになり、コンフォートブーツではどうにも進めなくなくなったので、あきらめて二の城戸まで引き返し、金崎宮の社務所の脇に出る道を通って山を下りました。

 

 3時過ぎに金崎宮を後にすると、敦賀駅方面に行く次のバスが来るまで30分以上あったので、観光案内所で徒歩5分ぐらいだと説明された次のバス停がある赤レンガ倉庫に行くことにしました。金崎宮の周辺には時間をつぶせるような店はないのですが、そこまで行けば喫茶店があるようだったので、コーヒーでも飲もうと思いました。国の登録有形文化財である赤レンガ倉庫は明治38年(1905)に石油貯蔵用の倉庫として建設されましたが、平成27年(2015)にレストラン館に生まれ変わったそうで、中に土産物屋を併設した「赤れんがカフェ」という店がありました。奥には狭いながらも飲食スペースがあったので、コーヒーと一緒にタルトも頼み、ひと息入れました。

f:id:hanyu_ya:20210221184200j:plain赤レンガ倉庫の外観

f:id:hanyu_ya:20210221184257j:plain「赤れんがカフェ」のコーヒーと濃厚クリームチーズタルト

 

 バスが来る5分前になると店を出て、建物の前にある赤レンガ倉庫バス停に行き、15時41分発のバスに乗車。敦賀から京都に戻る特急は17時15分発のサンダーバードを予約していて、まだ1時間以上あったので、敦賀駅の一つ手前の大鳥居バス停で降りて、時間があれば寄るつもりだった気比神宮を訪れました。(続きます)