羽生雅の雑多話

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「麒麟がくる」総評~戦国時代を舞台に、戦国時代の人間ではなく、いつの時代にも通じる普遍的な人間の姿を描いたドラマ

 年をまたいだNHK大河ドラマ麒麟がくる」 は、今月7日に最終回を迎え、23日の天皇誕生日の休日には総集編が放送されました。一気に全4話、4時間半にわたるオンエアでしたが、こちらもおもしろかったですね。2話と3話のあいだに挟まれたニュース以外は、根が生えたようにテレビの前に座り、食い入るように見ていました。本編を欠かさず見て、本放送を見ているのに再放送まで見るほどハマった大河ドラマなんて初めてだったので。

 

 群雄が割拠し、下剋上があたりまえとなった戦国時代は、昨日の味方が明日は敵となる時代で、家臣が離反して寝返ることなど日常茶飯事であり、主君を売ったり討ったりも頻繁にあることで別に珍しくもなく、それゆえ本能寺の変を起こした明智光秀に対しても、もともと悪印象はありませんでした。それどころか、彼も後世の執政者の都合で世間的なイメージを操作されて、さも悪逆非道の謀反人であるかのように伝えられてきたのだろうと思っていました――菅原道真大石内蔵助を正当化してよく見せるために悪人に仕立てられた藤原時平吉良上野介のように。歴史は政争で生き残った勝者のものなので……。具体的には豊臣秀吉徳川幕府によって貶められたのだろうと思っています。主君の敵討ちを名目に光秀を討った秀吉は光秀を悪者にして自分の行為を正当化しなければならなかったし、徳川幕府は徳川政権下の幕藩体制を盤石にするために、謀反の芽は徹底して摘み取らねばならず、家臣が主君に叛いて自害に追い込んだ本能寺の変および、この事変を起こした明智光秀という武将を肯定することはできませんでした。徳川家康ではなく、徳川幕府というシステムを作った者たちが、システムを守るために、既存のシステムを破壊した光秀を擁護するわけにはいかず、悪人にせざるを得なかったのだと思います。

 

 ということで、特に好きでも嫌いでもなかった明智光秀ですが、光秀が主役ということで、学校で教わり一般的に知られている歴史とは違う目線で描かれる歴史に興味があったので、初回から視聴。すると、光秀が思っていた以上にイイヒトだったので、本当にそうだったのか調べてみたくなりました。で、いまだに現在進行形というわけです(笑)。1回2回と見れば、役者さんたちの芝居が素晴らしく、映像的にも美しいシーンが多かったので、あっという間に引き込まれて、あとは飽きることなく見続けられました。けっこうな頻度で登場する歴史上の人物ではないオリジナルキャラクターについては賛否両論がありましたが、緊迫した場面が続くと疲れるので、あれはあれでよかったと思います。彼らの場面を箸休めと取るか間延びと取るかは個人の差であり、ドラマを見ているのは歴史オタクだけでなく、歴史に詳しくない視聴者も意識しなければならないので。大河ドラマならターゲットは老若男女となり、幅広い層に受け入れられるものであることが求められますから。

 

 登場人物の造形は、織田信長に関しては多少違和感がありましたが、豊臣秀吉細川藤孝に関しては、えらく腑に落ち、程度の差はあれ、実際もあんなものだっただろうと思いました。

 

 秀吉は、身分にとらわれずに能力で人を引き立てる信長のことは自分が出世するために必要な道具と思っていて、主君にも将軍にも天皇にも心の内では敬意を払っていなかったと思います。取り立ててくれた主君である信長には、感謝はしていたと思いますが。

 

 一方の藤孝は、戦乱の世に家名を絶えさせないことが名門細川家に養子に入った彼の至上命題だったのだと思います。そして、そのために盟友である光秀を見捨て、その結果明智家は滅びて家名が絶えてしまったことに対し罪悪感があったからこそ、せめて光秀の血を存続させるために、光秀の三女で息子忠興の嫁となっていた玉を幽閉という形で俗世から隔離して謀反人の娘として見る世間の冷たい目から守り、さらに玉が生んだ子――忠利に細川家の家督を継がせたのでしょう。関ヶ原の戦い大坂の陣を生き抜いて細川家を太平の世まで守り抜いた藤孝と忠興。忠利は忠興の三男で、家督を継ぐときにはすでに生母である玉は亡く、本来後ろ盾になるはずの外祖父光秀は故人であるばかりか天下の謀反人で、しかも父忠興は正室の玉亡きあと妻を何人か娶り、腹違いの弟も生まれていました。それでも、その妻たちを正室が失われたあとの正室である継室とはせずに、玉を唯一の正室と位置付けたまま、彼女の所生である忠利に家督が譲られたことに、藤孝・忠興父子の執念のようなものが感じられます。光秀の血を細川家当主の血筋に残すことが多少なりとも光秀に対する罪滅ぼし――という気持ちがあったのではないでしょうか。そうして結果的に今の天皇家に至るまで自分たちの血が続いているのだから、死者の霊魂に生前と同じ心があるのなら、光秀も玉も喜んで、細川家に感謝しているのではないかと思います。

 

 信長は少々承認欲求が強すぎましたね。染谷さんはよい演技をしていましたし、ドラマとしてはおもしろい性格設定でしたが。とはいえ、私が思い描く歴史上の信長と比べると承認欲求が強すぎて違和感がある――というだけで、ドラマの登場人物としては魅力的だし、もしかしたら実際の信長もこのような人物だったかもしれません。いま生きていて彼に会ったことがあり本物の織田信長を知る人間はいないのですから、それについては違うと否定もできず、永遠にわからないことです。

 

 しかしながら、てっぺんに一人で立つ人間の、誰とも感覚を共有できない孤独感というものは、実際になってみなければ本当の気持ちはわからずとも想像はできるし、誰かに止めてもらわなければ止まらない――したがって終わりが来ないという辛さや恐怖はよくわかります。それを染谷信長は本当に巧く表現していました。「どうしてこうなる」だったか「なんでこうなる」だったか忘れましたが、そのセリフに自分の思いと現状が乖離してままならなず、苦しんでいる信長の心が凝縮されていました――言葉のみならず、その口調にも。本能寺の変で自分を襲っているのが光秀の軍勢だと知ったとき、染谷信長は本当に嬉しそうでした。「大きな国を作らなければ」と言い続けて、死んではならないといつも自分をかばい、自分に止まることを許さず、自分を走らせてきた長谷川十兵衛光秀が「もう走らなくてよい」「止まっていいのだ」と言っているのです。これでようやく解放される気がした――ということなのでしょう。しかも、けっして見放されたわけではなく、光秀は一生主殺しの謀反人という不名誉な汚名を着る覚悟の上で――信長のために自らも大きな代償を払うことを選び、その上で止めてくれるのです。それは嬉しかったと思います。

 

 “麒麟がくる世をつくる”という使命感に囚われて、その理想に向かって一途に進み、それが正義であり戦続きの世に疲れた皆にとってもよいことだと思い込み、やや周りが見えていない感じの十兵衛光秀は、そんな信長の心情も見えていなくて気づけずに理解していませんでしたが、大きな決断をして、それに向けて走り出し、多くの他人を巻き込んで世の中を動かしてしまったら、自分ではおいそれとは止められないものです。それに、現代のコロナ禍にあっても、苦しんでいる人もいれば、私のようにこの状況下で制限がある中でも可能な範囲でそれなりに楽しんでいる人もいて、この機に次のステップに向かったり、世界が変わった今こそチャンスと捉えてステップアップしたりする人もいます。戦国の世を舞台に展開した「麒麟がくる」でいえば、好機と捉えているのが羽柴秀吉であり、それなりに楽しんでいるのが今井宗久でしょう。最近よく多様性とか多様化という言葉を耳にしますが、もともと人間は千差万別で、立場が変われば思いも変わり、同じものに対する見方や考え方も変わります――ドラマの中でも宗久が光秀に似たようなことを言っていましたが。つまり人それぞれにそれぞれの価値観があり、人によって違うわけです。それゆえ苦難として括られるものの万事が万事、万民にとって悪いというわけではありません。誰かのよいことが誰かにとっては悪いことになるように、誰かの悪いことは誰かのよいことだったりするのはあたりまえで。そもそも利害というものは完全には一致しないのが普通です。価値観の違い以外にも要因は様々に存在するので。しかし完全に一致はしませんが、丹念に探せば部分的に一致することはあるため、それを見い出し、互いが納得する妥協点を探ることが肝要だと思っています。

 

 実は「麒麟がくる」で一番ツボにはまったのは、坂玉サマこと坂東玉三郎さんが演じた正親町天皇でした。坂玉サマの芸や芸に対する姿勢が昔から好きで、坂玉サマが監修しているというだけで、お披露目でもサヨナラ公演でもないのに宝塚まで観に行くほどですから。ということで、今回大河ドラマでその芸の一端を見られるだけでも嬉しかったのですが、さらに演じるのが正親町天皇だったので、出演が決まったときから楽しみにしていました。というのも、正親町天皇とか後陽成天皇とか後水尾天皇は、武士が天下取りの争いを繰り広げる世で、天子としての誇りと存在意義を失わないように苦労したに違いない天皇なので。そのあたりをどう表現するのか興味津々だったのですが、さすがは人間国宝、まったく問題なし。信長には蘭奢待の切り取りを許し、信長から贈られてきた蘭奢待の一部は信長と敵対する毛利に下賜するなど、対立する勢力のどちらにも手を差し伸べつつ、最終的にはどちらの味方もせず成り行きを見守るだけで特に逡巡もしないというスタンスは本当に天皇らしく、他を寄せ付けない坂玉サマの別格の端正さとあいまって、信長とはまた違った意味での孤高の存在が見事に表現されていて、たいそうしびれました。

 

 そうなのです。武家が主流の時代にあって天皇は、ただ見守るだけの存在なのです。公家が口を出し首を突っ込んでも、天皇は見守るだけ。誰が勝ってもいいように、誰の世になっても天皇でいられるように……。そうして常に中立を保つことで皇統を守り、繋いでいったのです。細川家以上に天皇家には家や血筋を絶やしてはならないという呪縛がありましたから。なので、たとえ窮地に陥った十兵衛を救えても救わないし、天皇自身が救いたくても救わない。けっして心が冷たいわけではないのです。誰にも肩入れしない、誰の味方にもならない――それがまさしく千年以上続いてきた王家を背負っている者の処世術で、帝としてあるべき姿なのです。

 

 「麒麟がくる」がおもしろかったのは、人間の本質が描かれていたからだと思います。脚本家の池端さんがどこまで意図していたかはわかりませんが。現代人にも共感できる感情や心の動きを描くと同時に、戦国時代という背景を借りて、時代や立場、育った環境で変わる、現代人の多くは共感をおぼえにくい部分も描き出しました。理想と現実のギャップに心身をすり減らして病んでいく光秀、幼い頃に母親に愛されなかったというトラウマを抱えて、褒められたい、認められたいという激しい承認欲求を持ち、嫉妬や孤独で病んでいく信長、そして心が病んでいく者同士で相手を思いやる余裕がなくなってすれ違っていき修復できなくなる悲しい人間関係――彼らが見せたのは今も昔も変わらぬもので、われわれ現代人にも通じるものです。

 

 その一方で、滅私といってもよい強靭な精神による冷静な判断で自分の心より家の存続を優先する選択をし実行する藤孝や正親町天皇は、現代人にはあまり共感できないかもしれませんが、けれども戦国時代であれば至極真っ当な思考と行動です。武士の世に農民に生まれて虐げられてきたために人一倍出世欲が強く、出世のためには手段を選ばない秀吉の生き方も、あの時代と育った環境ならではのもの――といえるかもしれません。

 

 つまり「麒麟がくる」は単純に戦国時代の人々を描いた群像劇ではなく、戦国時代を舞台にして、時代の影響を色濃く受けた、現代人には共感できない部分と対比させつつ、いつの世も共感できる普遍的な人間性を描き出すドラマだったのだと思います。よって純粋な歴史物語を求めていた視聴者には物足りなく期待外れだったかもしれません。しかし歴史を綴ったり迫力のある合戦を再現して見せたりすることは、このドラマにはさして重要ではなかったのではないでしょうか。状況が許せば従来の時代劇のように派手な合戦シーンを入れたかった作り手側のスタッフも中にはいたかもしれませんが。それゆえコロナ禍でロケができなくても大筋には関係なく、それほど問題ではなかったのだと思います。

 

 いずれにしろ、そんな思いが十分に伝わってきて、上記のようなことを考えさせられた出演者の熱演に、本当に感謝したいです。一年余楽しませてくれてありがとう。世界的なパンデミックという苦しい中、本当にお疲れ様でした。続く今作「青天に衝け」の初回20%越えの視聴率は、個人的には前作「麒麟がくる」の影響だと思っています。「麒麟がくる」を見て大河ドラマのおもしろさを再認識し、見直した視聴者が次の作品にも期待したからではないでしょうか。なので、2回目が3%落ちたのは妥当だと思います。もともと明智光秀に比べてもネームバリューが低い渋沢栄一という主人公と、現代に近すぎて江戸時代以前に比べるとごまかしがきかない近代という時代設定が難しいので。よって「麒麟がくる」の出来に匹敵するのはかなりハードルが高いような気がしますが、最後まで見続けられるドラマになるとよいと思っています。