羽生雅の雑多話

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京都寺院遠征~仁和寺、壬生寺、方広寺

  2か月ほど明智家系図&年表作りにどっぷりハマっていたため記事を書けずにいたら、あっという間に春が終わり、もう梅雨かという季節になってしまいました(笑)。本当に季節が変わるのは早いです。

 

 今年の春は、3月中旬に仕事で京都、その翌週にはプライベートで宝塚観劇のついでに京都&坂本へ行き、4月は上旬に句会仲間と群馬へ花見、その翌々週には仕事で北陸、ついでに京都をまわって、いくつかの特別展を見てきたので、緊急事態宣言が出る直前までは2週おきぐらいに遠征をしていました。住まいがある神奈川県には今のところ宣言は出ていませんが、仕事場が東京で、関西の2府も宣言対象地域では行くところがないので、ゴールデンウィークは5月1日から9日まで仕事を休み、外出も控えて完全ステイホーム。9日間のあいだに家を出たのは、最寄りのコンビニに買い出しに行った1度きりでした。さすがに食料が尽きたので。

 

 ということで、連休中は引きこもっていたのですが、長い休みのおかげでようやく明智探訪の遠征先で買い漁りたまっていた資料を読み込むことができ、新たな情報が得られたので、明智研究は進展。ただし、それによって今までの考察の結果立てた推論は否定されて、その推論に基づいて作成してきた系図はほとんどオジャンになってしまったので、また一から書き換えることに……トホホホ。半端な状態で進めても行き詰まり結局二度手間になると思い知らされました。そんなこんなで連休後も引き続き休日は家にこもり、系図作りに没頭。とりあえず以前作成していたレベルにまで新情報を反映して書き換えたので、少しずつ遠征記を書いていきたいと思います。多分に今さら感がありますが、旅行記であり備忘録でもあるので。

 

  3月中旬に行った京都は、木曜の夜には同行の仕事仲間と、金曜の夜には取引業者と食事をすることになっていたため土曜に帰る予定にしていたので、帰る前にせっかくだからどこかに寄ろうと思い、夕方の新幹線を予約。……なのですが、前日に続いて朝からけっこうな雨降りだったので、チェックアウトタイムの30分前まで悩んだ末、仁和寺に行くことにしました。去年の夏に訪れましたが、京都市京都市観光協会がJRと組んで毎年実施している「京の冬の旅」の企画で、金堂と五重塔を特別公開していたので。「京の冬の旅」のホームページを見ると、密を避けるためか事前予約とのことだったので、スマホからネット予約で11時20分の回に申し込み、9時45分過ぎにホテルをチェックアウトし、荷物を預かってもらい出かけました。

 

 京都駅から仁和寺最寄りのバス停である御室仁和寺バス停までの所要時間は通常40分ぐらいなので1時間半あれば余裕だろうと思い、バスの時間は特に調べずに、駅構内の観光案内所に寄ったり、一日乗車券を買ったりしてから9時過ぎにバス乗り場に行ったのですが、タイミング悪く58分に出発したばかりでした。直通は1路線しかなく、しかも20分に1本なので、次は18分発。それでも1時間あれば大丈夫かと思っていましたが、二度目の緊急事態宣言解除後、明らかに人出が多くなっている京都市中は思いのほか混んでいて、コロナ禍以前の観光シーズン並みにバスが大幅に遅れたため、着いたのは10分前でした。

 

 やれやれと思いながらも、なんとか間に合いそうだったので安堵して二王門をくぐったのですが、左手にある拝観受付所は閉まっていて、受付がどこかわからず。にわかに焦り、慌てて御殿に入って訊いたところ、金堂の横とのことだったので、時間に間に合わせるのはあきらめて、できるかぎり早足で向かいました。金堂は中門を越えた先の、境内の最奥に位置するため、走ったところで到底間に合わず、それに、予約時間を過ぎると入場まで待たされることはあるみたいですが、入れないということはないと申込み時の注意書きにも書かれていたので。結局3分ほどの遅刻で仮設の入場券売り場に到着しましたが、問題なく入れ、待たされることもなく、そもそも予約なしでいきなり来ても入れるようでした。

f:id:hanyu_ya:20210522174221j:plain仁和寺の中門前から見る二王門。天気の悪さがよくわかる空模様。このとき雨は止んでいましたが。

 

 仁和寺の金堂は国宝で、御本尊の阿弥陀三尊も国宝ですが、そちらは現在霊宝館に安置されているので、今の金堂には江戸期に作られた阿弥陀三尊像が祀られています。それゆえ三尊像よりも、向かって右の脇壇に祀られていた光孝天皇像に心惹かれました――本堂に光孝天皇が祀られている寺は初めてだったので。まさしく仁和寺ならではの本堂で、改めて光孝天皇の発願によって建立された寺なのだと実感し、感慨深く思いました。光孝天皇は志半ばで崩御し、その遺志を継いで息子である宇多天皇が当寺を完成させたので、仁和寺の開基は宇多天皇ということになっていますが。

 

  58代光孝天皇は57代陽成天皇藤原基経によって若くして退位させられたことによって突然皇位が転がり込み、55歳で即位しました。母が藤原北家出身ではなかったため、それまで皇位とは縁遠かったのですが、その母の妹が基経の母で、つまり基経とは従兄弟同士の間柄であり、かつ基経の妻は光孝の同母弟の娘――すなわち姪で、血縁関係にあったからです。私が大好きな藤原時平は基経の長男ですが、彼の元服時に加冠役を務めて後見となったのが光孝で、よって時平の“時”は光孝の諱である時康からもらったのだろうと思っています。なので、光孝天皇の周辺についてもかなり調べたので、在位はわずか3年余りでしたが、私にとっては平安時代の中でもとりわけ馴染みの深い天皇です。そんなこともあって、仁和寺は思い入れのある寺なのです。

 

 とはいえ、昨年7月にも国宝の薬師如来像を見るために訪れているので、金堂に続いて五重塔の拝観を終えると、今回は霊宝館などはパスし、12時10分前だったので、昼食を摂るため、仁和寺を後にして二王門の前にある「佐近」という店に入りました。京料理×フレンチという感じの京料理屋のようで、興味が湧いたので。ランチタイムのサービスメニューがあり、それにしようと思っていたのですが、店内で改めてお品書きを見ると、フランソワ・モンタンのハーフボトルを発見。

 

 実は、当初は明智門がある金地院に行こうと思っていたのですが、アクセスを調べていたら、茶室の拝観は事前に往復ハガキでの申込みが必要であることがわかったため、今回はパスすることに。けれども「京の冬の旅」の特別公開も昨年のように絶対に見たいというところもなかったので、このあとどうするか食事をしながら検討するつもりでした。その上、木曜金曜と二日間日本酒dayが続き、そろそろ泡が飲みたいと思っていたところ、しかも店内には他に客はおらず貸切状態ったので、これはゆっくり食事をしろという神の思し召しだと思い、ハーフボトルを頼んで、料理は「桜」のコースに変更。本日のお任せ料理のコースでしたが、その日の献立は次のとおり。

 

 近江牛ローストビーフ 花山葵

 ・菜の花お浸し雲子かけ

  鰆西京焼き

  サーモンとクリームチーズ市松

 ・地鶏のスープ

 ・天然平目 本鮪 造り合わせ

 ・鯛ワイン蒸し デュクレレ風

 ・穴子と筍豆腐 木の芽餡かけ

 ・天然鯛昆布〆寿司 赤出し

 ・ピスタチオムース 抹茶わらび餅

f:id:hanyu_ya:20210522175230j:plain前菜3品

f:id:hanyu_ya:20210522175143j:plainスープ

f:id:hanyu_ya:20210522175059j:plain鯛のワイン蒸し

f:id:hanyu_ya:20210522175313j:plain〆寿司

f:id:hanyu_ya:20210522175355j:plainデセール

 

 仁和寺の門前でランチタイムにしたのは、ここからなら竜安寺北野天満宮や嵐山に行くのもアクセスがよいからでしたが、食事が終わっても行く所が決まらず、1時を過ぎると予約客らしき三人組がやってきたので、とりあえず店を出て、歩いて行ける妙心寺へと向かいました。妙心寺も今年から拝観方法が変わり、以前はガイドによる説明付きのみでしたが、個人で自由に拝観できるようになったので。ということで、府道101号線を歩いていたのですが、嵐電妙心寺駅前バス停あたりで、20分に1本の京都駅行きバスがちょうど来たので、やはりめったに見られない特別公開をしている寺院が多い東山に行こうと思い、懸命に走って、どうにか乗車。

 

 バスの中でも引き続き東山のどこへ行こうか考えていましたが、アルコールを飲んだあとに走ったせいか、いつのまにかウトウトとしてしまい、気が付いたら壬生寺道バス停の手前でした。壬生寺は「壬生狼」と呼ばれた新選組ゆかりの寺ですが、今まで行ったことがなかったので、急きょバスを降りて行ってみることに。14代江戸将軍徳川家茂と懇意だった会津藩松平容保会津藩には深い思い入れがあり、それゆえ会津藩お預かりだった新選組にも興味があって、以前から気になるところではあったので。気にはなっていたのですが、京都滞在中に壬生寺へ行く時間があるのなら黒谷の金戒光明寺へ行く人間なので、この日のように決まった予定のない時間があるときに偶然通りがかりでもしなければ、この先も行くことはないだろうと思い、この機に訪れることにしました。

f:id:hanyu_ya:20210522175750j:plain壬生寺案内図

 

 特別公開とかをやっているわけではなかったので、お参りをして御朱印をいただくと、有料区域である壬生寺歴史資料室と壬生塚を見学。壬生寺といえば重要無形民俗文化財に指定されている壬生狂言も有名なので、資料室には仏像や天皇家からの拝領品の他、狂言で使われる面などが展示されていました。壬生塚は新選組関連の遺跡で、局長だった近藤勇の胸像が一番目立っていましたが、近藤は板橋で処刑され、したがってその墓所は関東にあるので、横目に見ただけでスルー。近藤の前の局長だった芹沢鴨の墓に手を合わせてきました。新選組内の粛清により屯所で暗殺された芹沢はこの地に眠っているのだろうと思ったので。近藤も遺髪塔というのがあったので、髪は本人のものが納められているようですが。

 

 壬生塚を一巡すると、資料館入口前にある売店を物色。京都の前田珈琲とコラボした壬生寺オリジナルドリップコーヒー「誠珈琲」と、慶応幕末維新番付のビニール製ブックカバーがあったので購入し、寺を後にして壬生寺道バス停へ。途中に屯所旧跡の八木邸跡などがあり、こちらも大いに気になったのですが、前半のんびり行動しすぎたせいで時間に余裕がなくなっていたので、期間が限定されている特別公開を優先し、今回はあきらめました。

f:id:hanyu_ya:20210522184248j:plain壬生寺で買った「誠珈琲」とブックカバー。同じ東の横綱ではありますが、家茂より慶喜が上の番付なのが個人的には不満(笑)。左上は、新選組を預かっていた京都守護職の本陣があった金戒光明寺でいただいた記念札。大方丈の瓦を寄進するといただけるもので、岡崎での仕事のあと、近いので足を運びました。修復に使われる瓦の裏に願いと名前も書けます。

 

 再び市バスに乗ると、東山七条方面に1路線では行けなかったので、四条大宮バス停で乗り換えて、馬町バス停で下車。時刻は3時半になろうかというところで、特別公開の受付時間は4時までなので、二つは行けず、智積院方広寺のどちらに行くか悩みましたが、方広寺に行くことにしました。方広寺で見たいのは鐘だけだったので、非公開の建物を何か所か見られるのなら智積院かと思っていたのですが、改めて確認すると、コロナ禍の影響で智積院の特別公開は予定より縮小されて宸殿のみとなり、そうなると見所は堂本印象の襖絵ぐらいなので、ならば鐘だけが目的でも方広寺に行ったほうがよいと判断。なんといっても豊臣家滅亡の引き金となったもので、歴史を動かした存在ですから。それゆえ非常に歴史的価値が高い貴重なものなのですが、普段は鐘楼の外からしか見られないため興味が持てなくて、今まで訪れたことがありませんでした。しかし今回の特別公開では鐘楼の中から鐘を見られるとのことだったので、見に行くことにしました。

 

 バス停から10分ほど歩くと、方広寺の境内に到着。問題なく入れましたが、どうやら裏口のようでした。今回は本堂、大黒堂、鐘楼が公開され、まずは本堂と大黒堂を見学。方広寺豊臣秀吉が奈良の東大寺にならって京都に大仏を祀るために創建した寺で、東大寺の3倍の規模という大仏殿があったそうです。しかし創建翌年の文禄5年(1596)の慶長伏見大地震で大仏は倒壊。その後何回か再建と焼失がくり返されましたが、現在では遺物が残るのみとなり、大仏殿の欄間に施されていた左甚五郎作の龍の彫刻などが展示されていました。

 

 建物を出ると、続いて一番の目的である鐘楼へ。何人かの見物客がいましたが、少し待ってその団体をやり過ごせば、その後は一人二人の個人客とゆったり見ることができました。時間をかけて見ていると人が捌けて一人になるときもあったので、ガイドの方も丁寧に説明してくれ、鐘の内側に見える淀殿の幽霊も懐中電灯で照らして見せてくれました。言われればそう見えないこともないという、月に住むウサギのような感じでしたが。

f:id:hanyu_ya:20210522184944j:plain方広寺梵鐘その1。高さ4.2、外径2.8メートルの巨大な釣鐘で、東大寺知恩院と並んで「日本三大名鐘」の一つに数えられています。重さが82トン強あるというので、それを支えている鐘楼のほうに驚き、その仕組みをガイドの方に訊いたのですが、「組み方が特殊な工法」との答えで……つまり不明ということでしょう。

f:id:hanyu_ya:20210522185152j:plain方広寺梵鐘その2。厚みは27センチあるそうです。

f:id:hanyu_ya:20210522185300j:plain方広寺梵鐘その3。大坂の陣のきっかけとなった「国家安康」「君臣豊楽」の銘文。現在はわかりやすいように印が付けられているのでそこだけ目立っていますが、実物を見れば、梵鐘全体に刻まれた長い銘文の中のほんの一部であることがわかります。つまり、当時の徳川方がいかに目を皿のようにして豊臣家に戦を仕掛ける口実を探していたか、実によくわかります。

 

 鐘楼の建築方法も梵鐘の鋳造方法も、ちょっと想像できない、現代では考えられない高度な技術で、この鐘を作らせたのは秀吉の息子の秀頼ですが、豊臣家というか、太閤秀吉の威光――豊臣秀吉という人間の凄さを改めて見せつけられたような気がしました。こんなに高い技術を持つ職人たちを集められるのですから。はっきり言って、秀吉は好きではないのですが、傑物だとは思っています。客観的に考えれば、三英傑の中で一番凄いのは秀吉のようにも思えます。何しろ一兵も持たない身一つの農民だか足軽だかから天下人まで成り上がったのですから。けれども、古来「出る杭は打たれる」という考え方が一般的な民族社会であり、村八分や五人組制度が広く根付き、アメリカのようにサクセスストーリー的な思想や文化が浸透しなかった日本では、秩序を乱す急激な出世は世間の反感を買い、納得できない、受け入れられない、祝福できない人が多いため、残念ながらめでたい末路を辿れず、否応なしに巻き添えとなる周囲の人間も不幸にしているように思えます。秀吉しかり、道真しかり。だから彼らの人生に――そんな人生を選んで歩んだ彼らの人柄にあまりいい印象を持てないのかもしれません。

 

 鐘楼を出ると、仮設の授与所でミニファイル付きの限定御朱印を購入し、帰りは表門から出て、博物館三十三間堂前バス停からバスに乗り、京都駅に戻りました。時間が経ちすぎていて、メモも残っていないので、その後の行動はおぼえていませんが、例によってタカラ缶チューハイを買って新幹線に乗り帰ったのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20210522190033j:plain限定御朱印とミニファイル

f:id:hanyu_ya:20210522190132j:plain表門にあった特別公開の看板