7月12日から8月22日まで、東京都には四度目となる緊急事態宣言が発出されることになりました。神奈川県では引き続きまん延防止等重点措置が取られます。今日はたまたま日比谷で宝塚観劇の日だったのですが、明日からまた当分のあいだ都内の店ではアルコールが飲めないので、終演後、幕が下りきる前に席を立ち、劇場を出て隣の帝国ホテルへ。オーダーストップの7時10分前にロビーラウンジに駆け込み入店して、シャンパーニュを飲んできました。やることに事欠かない家では基本的に飲まないので、3か月ぶりぐらいでしょうか。カヴァとかスプマンテなどのスパークリングワインなら巷の飲み屋でもわりと置いているので、外で度々飲みましたが、シャンパーニュとなるとそうはいかず、飲む機会がありませんでした。
本日の夕食のミックスサンドとアンリオ。シャンパーニュを頼むと、おつまみとして帝国ホテルのチョコレートと、何故か柿の種が付いてきます。
さて、京都で花見をした翌日は、3月31日までの会期だった「びわ湖大津・光秀大博覧会」が20日から最終日まで大感謝キャンペーンをやっていて、明智光秀が寄進した陣鐘を西教寺で特別公開していたので、坂本に行ってきました。まずは延暦寺の里坊だった旧竹林院へ。
旧竹林院についての説明板
旧竹林院の入口。雛人形の段飾りが飾ってありました。
旧竹林院の1階。ここの名物となっている座卓を使ったリフレクション撮影にチャレンジしてみました。
旧竹林院の2階その1。1階と同じ角度から、こちらもリフレクション撮影。
旧竹林院の2階その2。明らかに額縁効果を狙った造り。
旧竹林院の2階その3。庭園の反対側にある床の間飾り。こちらにも雛人形が飾ってありました。
旧竹林院の2階の全景
建物の中から見る旧竹林院の庭園。国の名勝です。
庭園を散策すると、日吉大社の奥宮がある八王子山を借景としていることがわかります。
ご丁寧にこんな立札までありました。
比叡山系の八王子山は、古代祭祀の跡である巨石が残る日吉大社の御神体山で、『ホツマツタヱ』で「ヒヱの神」と呼ばれる大山咋神が鎮座する神奈備山であり、本書には比叡山はこの神が作ったと書かれています。それゆえ“ヒヱ”の神なのです。比叡=ヒヱで、ヒヱ=日枝=日吉ですから。つまり、日吉大社に祀られている大山咋神はこの地域の開拓神ということになります。
ところで、私が坂本でよく食事をする芙蓉園本館は旧白毫院という元里坊の跡で、こちらの庭園も国の名勝なのですが、ここからも八王子山がよく見えます。……ということは、延暦寺の里坊の庭園は大山咋神ゆかりの神奈備山が拝めるように造られていたのかもしれません。であるのなら、天台宗の里坊というよりも、天台宗と神道、山岳信仰が融合した山王神道の里宮といったほうがふさわしいように思えます。
旧竹林院の庭園をひと巡りしたあと、有料区域の母屋とは別の、無料開放されていた建物に立ち寄ると、日吉神社の山王祭について説明するパネルが数枚展示されていました。そしてその一つに、山王祭は大山咋神と鴨玉依姫神による出産と御子誕生の儀式――と書かれていたので、我が意を得たりと思い、小躍りしたい気分になりました。
山王祭についての説明パネル
日吉神社の祭神である「鴨玉依姫」は「カモのタマヨリ姫」の意味なので、下鴨神社として知られる“賀茂”御祖神社の祭神である“玉依媛”命と同一神です。彼女は、十二代天君ウガヤフキアワセズの后で、初代天皇である神武の母ですが、『ホツマ』によると、玉依=タマヨリは、当初ウガヤフキアワセズの最初の妃であるヤセヒメ=八瀬姫が子を生んで亡くなったため、遺された子――イツセ=五瀬の乳母としてウガヤフキアワセズの宮に呼ばれました。のちにウガヤフキアワセズのお手付きとなってイナイイ=稲飯を生み、その後皇后に立てられて、カンヤマトイハワレヒコ=神日本磐余彦――神武を生みました。
……ということは、宮に上がるときには乳母としての資格を有していたわけで、つまり母乳が出る状態――子供を生んでいたということです。その子供がミケイリで、ミケイリは『日本書記』では「三毛入野命」、『古事記』では「御毛沼命」の名で登場します。記紀や『ホツマ』では単に神武の兄として紹介され、異父兄であるとは言及されていませんが、イリ=入を名に持ち、この「入」が入り婿の「入り」と同じ意味ならば、ウガヤフキアワセズとは血が繋がらない、義理の父子であると考えてよいと思います。史書では確認できませんが、山王祭が大山咋神と鴨玉依姫神による出産と御子誕生の儀式であり、さらに、ミケイリの母親がタマヨリであるのなら、ミケイリの父親はヤマクイということになります。つまり山王祭は、ウガヤフキアワセズの宮に入る前に、タマヨリがヤマクイの子であるミケイリを生んだ慶事を神事化した祭なのでしょう。ちなみに、山城の国土開拓神であるオオヤマクイですが、彼はウガヤフキアワセズの祖父であるニニキネの命を受けて、この地を拓きました。したがってニニキネと近い世代であり、タマヨリはその孫世代となります。なので、ミケイリの父親である「ヤマクイ」とは、オオヤマクイの甥であるワカヤマクイのことだと思います。
旧竹林院を後にすると、日吉大社前バス停からバスに乗り、西教寺へ。受付で「びわ湖大津 光秀大博覧会」の入場チケットを買うと、大感謝キャンペーンの特典でクリアファイルと坂本城のお城カードがもらえました。まずは禅明坊光秀館を見学。3回目の訪問でしたが、やや展示品が変わっていました。大河ドラマの小道具が比較的新しい物になっていました。
大河ドラマ「麒麟がくる」で使われた小道具の温石と小箱。温石は若い頃に光秀の妻の熙子が光秀に渡した二人の思い出の品で、小箱は、熙子の死後、光秀が彼女の爪を切って入れていた入れ物です。
光秀館を出ると隣の土産物売り場に寄り、買い納めとなる博覧会オリジナルの八つ橋「桔梗之華」を購入。それから特別公開をしていた明智光秀寄進の陣鐘を見学し、西教寺を拝観。おみくじの創始者である元三大師ゆかりの寺なので、例によっておみくじを引くと、今回は吉でした。
西教寺で引いたおみくじ
西教寺を出ると、再びバスに乗り、日吉大社前バス停で下車。途中、車窓から芙蓉園別館の門前にランチの案内が見えたので、本館より気軽に入れない佇まいで今まで行けなかった芙蓉園別館で昼食を摂ることに。玄関で、メニューは門前に張り出してあった湯葉重オンリーで支払いは現金のみだがいいかと訊かれましたが、手持ちもあって特に問題はなかったので入店。
芙蓉園別館で食べた湯葉重
食事後、部屋から庭園に出られるようになっていたので、履き物を借りて軽く散策させてもらい、屋内に戻って支払いを済ませ店を出ると、慈眼堂経由で滋賀院門跡へ。
慈眼堂の供養塔。向かって右から紫式部之塔、和泉式部之塔、清少納言之塔。
3月末で終了する光秀博覧会の会場である西教寺と滋賀院門跡を見終わると、あとは日を改めて訪ねてもいい場所だったので、2020年度明智光秀探訪の最後を締めくくるべく、権現馬場、松馬場を下って坂本城址へ。続いて明智塚に寄り、JR比叡山坂本駅に戻りました。
北国海道沿いの坂本城址の石碑
坂本城址公園の石碑
坂本城址公園の明智光秀像。よく知られている像ですが、今まで見てきた可児、亀岡に比べて、一番ビミョーなカンジ。
坂本城址公園から見る琵琶湖
明智塚
明智塚についての説明板
湖西線で京都駅に戻ってくると、利用できる公共交通機関がなかったため芙蓉園別館から比叡山坂本駅までずっと徒歩移動で足の疲れがハンパなかったので、いったんホテルに戻って30分ほど休み、5時過ぎに再び出かけて、宇治の萬福寺へと向かいました。19~21日は萬福寺ランタンが開催され、夜間参拝ができたので。6時前に黄檗駅に着き、徒歩5分ほどで萬福寺に到着。臨済宗、曹洞宗と並ぶ日本三禅宗の一つである黄檗宗の大本山なので、一度訪れたことがありますが、もう何年前かわからないほど大昔で、開梆ぐらいしか記憶にありませんでした。
萬福寺全景図
三門とライトアップ された桜
本堂にあたる大雄寶殿
大雄寶殿はステージになります。
有名な開梆
開梆についての説明板
大雄寶殿内。見えませんが、御本尊はお釈迦様です。
大雄寶殿内に祀られている羅怙羅尊者。釈迦十大弟子の一人で十六羅漢の一人、お釈迦様の実子だそうです。
大雄寶殿の外に出るとすっかり暗くなっていました。
天王殿内の韋駄天
天王殿内の毘沙門天
天王殿内の弥勒菩薩
天王殿前のライトアップされた参道
売店も御朱印授与所も開いていたので、金の限定朱印をいただいてきました。
駅から歩いているときにパラパラと降りはじめた雨が強くなってきたので、7時15分過ぎには萬福寺を後にし、夕飯はどうしようかと思っていたら、近くに「京薬膳 萬」という店があったので、入店。「営業中」の札が掛かっていましたが、店内には客はおろか店員も見あたらず。ただし人がいる気配はするので、厨房らしき奥の部屋に向かって声をかけると店員が出てきて、まだ食事も用意できるというので、お薦めらしき「金成そば」というメニューを注文。食べているあいだに萬福寺から流れて来たらしい客が入ってきました。
金成そば。具は、胡麻豆腐、大根おろし、山菜、豚肉、銀杏、柚子胡椒……温泉卵付きです。