羽生雅の雑多話

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京都・滋賀寺院遠征&明智光秀探訪15~延暦寺、金地院

 今年もあと2か月を切りました。コロナ禍で人間が停滞を余儀なくされていても、月日は否応なしに矢のように疾く過ぎていきます。そのスピードにはとてもついていけませんが、時が流れているのに何の変化もなく流れる前と変わらない――いい悪いはともかく、何の経験値も積まれていないというのは精神的にすわりが悪くイライラする人間なので、2回目のワクチン接種が終わって2週間以上経過したシルバーウィーク後半から遠征を再開し、10月に入るとさらに移動&活動を本格化。その他、年に3回ぐらいは顔を出していたフレンチレストランに10か月ぶりに行ってボランジェのボトルを空けたり、7月以来の宝塚観劇をしたりと、以前と同じように忙しく過ごしています。

 

 で、はや半月前のことになりますが、先月の16日はラルク・アン・シエルの30周年記念ライブが常滑であったので、その日は京都に泊まり、翌日曜は比叡山に行ってきました。今年は開山である伝教大師最澄の1200年遠忌にあたる年ということで、9月12日から戒壇院と東堂が特別公開され、10月1日からは国宝館で「戦国と比叡~信長の焼き討ちから比叡復興へ~」という特別展が開催されているからです。毎月23日が明智光秀ゆかりの愛宕神社の縁日なので、念願の愛宕詣でをするつもりで当初は22~24日に京都遠征を考えていましたが、22日はまたラルクの幕張公演に行くことになったので、遠征を前倒しにしました。縁日は今後も毎月あるので愛宕詣では延期できますが、特別公開&特別展は期間が限られているため、行けるときに行っておいたほうがいいと思ったので。この御時世、何があるかわかりませんから……(第6波到来とか)。

 

 ライブの開演時刻は17時だったので、その前にもどこか神社に寄れたらと思っていましたが、10月以降は仕事も忙しく、木曜の時点でそんな気力も体力もすっかりなくなっていたので、金曜の夜に名古屋入りする予定を土曜出発に変更。当日は朝早く起きることもできず、結局家を出たのは10時半過ぎでした。品川発12時7分ののぞみに乗り、1時半過ぎに名古屋駅に到着。名鉄線に乗る前に大きな荷物を手放したかったので空きロッカーを探しましたが、見あたらず。京都や大阪で昼過ぎに空きロッカーを見つけるのが難しいことはわかっていましたが、名古屋では記憶になく、しかもコロナ禍で最近は旅行者が少なかったので預けられないことはなかったのですが、やはり人出が増えたということなのでしょう。

 

 仕方がないので、荷物を持ったまま14時過ぎの中部国際空港行き特急電車に乗り、14時40分に終点に到着。ライブ会場の愛知スカイエキスポ(愛知県国際展示場)は駅から徒歩5分ほどの所でしたが、家を出る前に食事をしたきりだったので、まずは遅い昼食兼早い夕食を摂るため、セントレアへ寄ることに。4階のレストラン街に宮きしめんの店が入っていたので、そこを目指したのですが、行ってみると満席で待機組もいたので、あきらめて、すぐに入れる店を探し、「牛まぶしや」という店に入店。名古屋めしの好物を食べるつもりで新幹線ではスタバのコーヒーを飲んだだけだったので、ハイボールを飲みつつ「知多牛まぶし御膳」というメニューを食べました。私の名古屋めしの好物は、きしめんとひつまぶし(ウナギ)なので、今回もそのどちらかを食べるつもりでいたのですが、知多牛というのは今まで聞いたことがなく知らなかったので、知多半島でないと食べる機会がない稀少食材なのではないかと思い、予定を変更してこちらを注文。ブランド和牛は今までに出合った近江牛鳥取和牛オレイン55、前沢牛などが忘れられないぐらい素晴らしく美味だったので、地元で食べる機会があれば極力食べるようにしています。……なのですが、はっきり言って、知多牛は普通に美味しい牛肉で、あまり印象には残りませんでした。

「牛まぶしや」の知多牛まぶし御膳

 

 食事後、まだ時間があったので空きロッカーを探してターミナル内をうろつき、出発ロビー階で見つけて重い荷物から解放されると、4時過ぎにセントレアを出て、愛知スカイエキスポへと向かいました。ライブはほぼ時間どおりに始まり、終演後は席ごとに時間差で退場させる規制退場なので、ラストの曲の前の曲の演奏中に席を立ち、会場を後にしました。規制退場でもそれなりに密にはなるし、帰りの電車は混むし、ラストナンバーは想像がついていて、それほど聴きたい曲でもなかったので。

 

 セントレアに行ってロッカーから荷物を引き上げると、19時22分発の新可児行き準急電車に乗れたので、乗車中にエクスプレス予約で名古屋発20時33分ののぞみを予約。定刻どおり20時10分に名古屋駅に到着し、20分ほど余裕があったのでタカラ缶チューハイを調達するため売店に寄ったら、昨年恵那で買った中津川の和菓子屋――松月堂の栗きんとんを見つけたので購入。新幹線に乗車後、京都まで30分ほどの時間でしたが、栗きんとんをつまみにひと缶を空けました。21時6分に京都駅に着くと、八条口近くのホテルにチェックインして、この日は終了です。

 

 明けて翌朝は9時過ぎにチェックアウトをして、荷物をホテルのロッカーに入れたあと、駅の反対側のバス乗り場へ。9時30分発の比叡山ドライブバスに乗り、10時45分に比叡山バスセンターに到着。前回は釈迦堂の特別公開の時に訪れたのですが、その時も秋で、麓より4度ほど低い気温にブルブル震えていた記憶があったので、家を出るときは25度ぐらいでしたが、折りたたみできる薄いコットンコートを羽織って出ました。愛知の気温も26度ぐらいだったので、土曜は終日手荷物でしたが、時折雨がぱらつく日曜の比叡山では必須でした。それでもバスを降りたときはやや寒いくらいでしたが、境内は広大な上に山地なので坂や階段が多く、必然的にたくさん歩くので、歩いていたらちょうどよい加減になりました。

 

 バス停の前にある売店の隣にあるチケット売り場で巡拝セット券を購入すると、まずは最寄りの国宝殿へ。ここで開催されている特別展では、元亀2年(1571)9月12日に行われた比叡山焼き討ちの十日前に書かれた明智光秀の書状や、坂本の滋賀院で見た物とはまた別の、慈眼大師天海所用と伝わる具足など、たいへん興味深い資料を見ることができました。明智光秀関連の展示は昨年見まくりましたが、まだ初めて見る物があって、嬉しくてたまりませんでした。撮影は禁止でしたが、図録が販売されていて、400部限定と書かれていたので即購入。正直なところ、にわか雨の天気で、かさばるサイズの本を持って境内を歩きまわるのは気が進まなかったのですが、帰りに寄ることにして万が一売り切れていたら超ショックですから。図録には光秀書状の釈文も載っていたので、買いそびれたらダメージ大です。何故なら、この書状は個人蔵のため、おそらくネットで調べても出てこず、今度はいつ見られるかわからなかったので。今年は比叡山焼き討ちから450年という特別な年だから所蔵者も出展してくれたのだと思います。焼き討ちと同じ9月12日には『比叡山仏教文化シンポジウム「比叡山焼き討ちから450年の時を経て···」~織田信長公・明智光秀公の末裔をお迎えしての特別対談~』というイベントが開催され、織田信長明智光秀両者の末裔と延暦寺の僧侶による対談も実現していましたし。こういう機会は逃すべからず、です。

特別拝観の看板

特別展の看板

特別展の図録

 

 国宝殿を出ると、次は特別公開をしている法華総持院東塔へ。まだ新しい建物だったので、チケット売り場でもらったパンフレットを読むと、最澄が国を護り人々の安寧を祈るために全国6か所に計画した宝塔――「六所宝塔」の一つであり要となる総塔だが、長らく途絶えていて、昭和55年(1980)に約400年ぶりに再建されたとのこと。帰ってさらに調べてみたら、東塔が失われたのは元亀の法難が原因であることがわかりました。つまり織田軍による焼き討ちによって焼失し再建された塔を焼き討ちから450年という節目の年である今年公開しているわけで……延暦寺もなかなか皮肉のきいたシャレたことをする、と思いました。

 

 東塔近くの御朱印授与所で特別御朱印をいただいて、東塔の隣にある阿弥陀堂にお参りすると、続いて阿弥陀堂の坂下に位置する戒壇院へ。こちらも元亀の法難で焼失しましたが、僧侶に戒を授ける「授戒」の場で、すなわち最澄の教えの担い手を世に送り出すという重要な役割のある堂だからか、延宝6年(1678)には再建されました。ということで、300年以上前の江戸時代前期の建物なので、重要文化財に指定されています。ただし堂内の釈迦牟尼仏は昭和62年(1987)に新調された像で、西村公朝仏師の作とのこと。公朝師は絵が巧みで、昔仕事で師の直筆仏画とかを扱っていたので、仏画師ではなく仏師だったのだと改めて思いました。ちなみに、戒壇院は天長4年(827)の創建以来一般に公開されることはなく、今回が初めてだそうです。パンフレットによると、授戒は燈明と蝋燭の灯りだけに照らされた堂内で行われるそうなので、おそらくその状態を再現したのであろう、暗くて神秘的な空間を体験することができました。

東塔

戒壇

東塔と戒壇院の特別御朱印。特別拝観期間中のみ授与されます。

 

 戒壇院を出ると、今回の比叡山詣での目的はすべて果たし、時刻も11時半を過ぎていたので、昼食を摂ることにしました。ケーブルで坂本へ下りて芙蓉園本館にでも行こうかと思いましたが、前に来たときには混んでいて入店を断念した延暦寺会館へ行ってみることにしました。宿坊ですが、宿泊客ではなくても利用できる食事処があり、以前と違って時間も早く参拝客も少ないため、入れるのではないかと思ったので。思ったとおり、少ないというか、ガラガラでした。ひと組の客しかいなかったので、琵琶湖がよく見える窓際の席に案内してもらえ、数量限定の精進料理「比叡御膳」も問題なく注文できました。

窓から見えた琵琶湖。真ん中の木の先にある山は三上山。近江富士と呼ばれるだけあり、すぐにわかります。

比叡御膳。精進料理です。

 

 食事をしているあいだに、この後どうするか検討したのですが決まらなかったので、とりあえず食後のコーヒーでも飲みながら考えようと思い、1階のカフェ「れいほう」に寄ったら「梵字ラテ」というメニューがあって、自分の守り本尊の梵字を選べたので、そちらを頼んでみました。

キリークの「梵字ラテ」。安土で飲んだ織田木瓜紋ラテを思い出しました。抹茶ラテもありましたが、食後のコーヒーなのでカフェラテを選択。

 

 東塔以外のエリア――西塔や横川に行くことも考えましたが、前回隈なく見ていて、紅葉にはまだ早く、雨が降ったり止んだりで、歩きまわるのに適した天候でもなかったので、結局京都市中に戻って帰ることにし、京都駅行きドライブバスの出発時刻までまだ時間があったので、根本中堂に参拝。比叡山延暦寺の本堂にあたる根本中堂は現在「平成の大改修」中で味気ない素屋根に覆われていますが、お参りはでき、かろうじて不滅の法灯も見ることができます。それだけでなく、今ならではの仮設のステージが作られていて、工事途中の屋根などが見られ、アプリをダウンロードして所々にある立て看板のARマーカーを読み込むと、その場所の工事後がスマホで見られるというようなこともやっていました。アンドロイド観音を見た高山寺や御歌頭作の墨絵を見た本能寺でも思ったことですが、メジャーで由緒もあるお寺ほど文化の最先端を行っています。歴史的に見ても寺とは元来そういう場所なので、まあ当然といえば当然のような気もしますが。天台宗の総本山である延暦寺も例外ではなく、つくづく「攻めているなぁ」と思いました。海外からの観光客も多く、元々広く教えを知らしめることが前提にあるため、世界を基準としたグローバルな視野で活動を考えているからかもしれません。

根本中堂の石碑と遠忌の立札

萬拝堂の隣の無料休憩所にいた伊達政宗サン。比叡山が『戦国BASARA』とコラボしてスタンプラリーをやっていました。本当に攻めています。

根本中堂の素屋根内の様子。壁画絵師、木村英輝さん画のタペストリーが掛かっていました。モチーフは、不滅の法灯に導かれて躍動する生物だそうです。

撮影許可エリアのステージから見た根本中堂の屋根

 

 根本中堂のあとは、星峰稲荷、文殊楼、大黒堂と巡り、鐘楼で鐘を撞いて大講堂へ。大講堂から出てくると、次を見に行く余裕はなかったので、バス停へと向かいました。バス停には出発時刻の20分前には着きましたが、すでにバス待ちの列ができていたので、バス停前の売店胡麻豆腐を買ったら列に並び、14時11分発のバスに乗車。行きは自分の他ひと組の乗客だけでしたが、帰りはほとんどの座席が埋まっていました。

 

 バスを待っているあいだに降ったり止んだりしていた雨が本格的に降り出し、乗車中は傘なしでは歩けない本降りとなったので、引き上げてよかったと思いつつ、エクスプレス予約で新幹線の予約を1時間ほど早めて4時台にすると、京都駅は終点で1時間半ぐらいかかり寝過ごす恐れがなかったため、安心してウトウト。気が付けば三条京阪の手前で、外を見ると雨も上がって晴れていたので、このまま帰るのは惜しくなり、慌てて降車ボタンを押し、下車。東西線に乗って蹴上駅で降り、かねてから行きたかった、明智門のある金地院へと向かいました。

 

 駅から徒歩5、6分ほどで到着し、山門を入ってすぐの受付に特別拝観の案内があり、当日でも申し込み可能とのことだったので、特別拝観券を購入。特別拝観エリアはガイドツアーによる見学で、次の開始時刻は10分後の15時30分から。拝観時間は5時までで、受付は4時半までなので、時間的にその日の最後のツアーと思われ、なんてラッキーなんだと思いました。事前予約客が少なければ当日申し込みで拝観できることはネットの情報で知っていましたが、時間が決まっているガイドツアーとはつゆ知らず。10分の待ち時間で最終ツアーに参加できたのだから幸運です。

金地院の山門

 

 受付でいただいた栞によると、金地院は臨済宗南禅寺派の寺院で、応永年間(1394~1428)に大業和尚が4代室町将軍足利義持の帰依を得て京都北山に開創し、慶長年間の初めに崇伝和尚が移転して南禅寺塔頭となり今に至るそうです。それゆえ崇伝和尚は「“金地院”崇伝」と呼ばれ、徳川家康に近侍し、比叡山南光坊に住していた天海と共に参謀として活躍したので「黒衣の宰相」とも呼ばれました。金地院にある明智門は、天正10年(1582)に明智光秀が母の菩提を弔うため黄金千枚を寄進して大徳寺に建立したもので、明治元年(1868)に金地院に移されたとのこと。それより前には伏見城から移築された唐門があり、現在重要文化財に指定されている金地院の方丈も慶長16年(1611)に崇伝が徳川家光から賜った伏見城の殿舎を移建したものだそうなので、南禅寺塔頭としての金地院は伏見城の遺構を再利用して建立された寺院なのでしょう。

 

 唐門の玉突き移築については大徳寺の遠征記でも少し触れましたが、改めて説明すると、豊臣秀吉を祭神とする豊国神社は、豊臣家を滅ぼした徳川家康によって廃絶となり江戸期には廃れていましたが、維新で家康が開府した徳川幕府が瓦解すると明治天皇の意向で再建されることになり、その際に金地院に移建されていた伏見城の唐門が移築されました。そのため金地院は代わりの唐門を大徳寺から購入、それが明智門です。そして大徳寺明智門があった場所に三門(山門)西側にあった門を方丈前に移建。これが現在方丈前にある国宝の唐門で、秀吉の聚楽第の遺構とのことです。伏見城の築城主は秀吉なので、その唐門の移転先が秀吉を祀る豊国神社であるのは理に適っていてよくわかりますが、その後釜が大徳寺明智門であるのは何故なのか……、家康の参謀だった崇伝の金地院の唐門に、同じく家康の参謀だった天海と同一人物説がある明智光秀建立の唐門が選ばれたのは単なる偶然なのか……実に意味深です。

明智門と方丈

正面から明智

明智門についての説明板

 

 念願の明智門を見て、ガイドツアーの集合場所である方丈へ行くと、まずは金地院に寄ったため乗れなくなった4時過ぎの新幹線をエクスプレス予約で6時台に変更。そして不思議な形の石がある目の前の庭園を興味深く見ていたら、10分なんてあっという間に経過して、建物の中からガイドさんが登場。方丈には二組の先客がいましたが、特別拝観はしないようで、ガイドツアーの参加者は私一人だけでした。特別拝観エリアに入る前に庭園についての説明を受けたのですが、小堀遠州の作で、鶴と亀に見立てた庭石があるので「鶴亀の庭」といい、国の特別名勝とのこと。名勝ではなく特別名勝は全国に36しかなく、近年行った所だと日本三景天橋立とか、日本三名園兼六園とか、世界遺産の二条城や醍醐寺とか、特別史跡でもある一乗谷などが挙げられますが、南禅寺塔頭である金地院にそれらに比肩する名庭園があるなんて知らずに来たので驚きでした。

鶴亀の庭。向かって右に、無数の松葉を羽毛に見立てた松の木で折りたたんだ羽を、細長い石で嘴を表した鶴がいて、左には、赤茶けた大きな石と黒みがかった小さな石で甲羅と手足が表現された亀がいます。いったい小堀遠州って何者なのでしょうかね? 茶人かと思っていましたが、夢窓疎石なみの庭づくりのプロです。二人とも正真正銘のマルチタレントですね。

方丈から見る鶴亀の庭

 

 特別拝観エリアに入ると、すぐ右手に鍵付きのロッカーがあり、手荷物をすべて預けてから案内がスタート。明智門が目的だったので金地院の文化財については詳しく把握しておらず、特別拝観も京都三名席の一つである遠州設計の茶室「八窓席」が見られるというので参加したのですが、予期せず大好きな等伯の猿に遭遇し、ビックリ仰天。重要文化財に指定されている長谷川等伯猿猴捉月図と老松図が描かれた襖があり、「いやぁ~、この猿、ここにおったんかい」と思わず声に出したくなるほど驚いて、しばらく襖の前でウロウロし、右から左からまじまじと見てしまいました。隔てるガラスやアクリル板、竹の結界などもなく、そのうえ襖として本来の形で見られたので感無量。国宝や重要文化財となっている襖絵は、保存のために実物は外されて宝物館などの別所に保管、あるいは展示され、それらがあった部屋には複製や別物が置かれていることが多いので。襖を襖として見ることができると、絵師が狙った効果を実際に確認することができます。等伯の猿も、座って見るときと立ったときでは猿と視線の合い方が明らかに変わったので感動しました。等伯の他、狩野探幽、尚信らが描いた襖も今なおちゃんと襖として機能していて、しかも残っている状態もよいので、部屋という空間で求められた襖絵の役割のようなものを当時とほぼ同じ感覚で確かめることができ、本当に嬉しくてゾクゾクし、何故今までこんな文化財の宝庫に来る機会がなかったのかと思いました。金地院のことを単に南禅寺の数ある塔頭の一つとしか思っていなかったからなのですが……。遅ればせながら貴重な文化財に触れることができ、当院を訪れるきっかけとなってくれた明智光秀に心から感謝しました。

 

 金地院には東照宮もあるのですが、栞によると、崇伝は家康の遺髪と念持仏を賜ったそうなので、それらを御神体として東照神君徳川家康)を祀っているのかもしれません。本殿とともに重要文化財に指定されている拝殿の三十六歌仙絵額は土佐光起によるもので、よく見えませんでしたが天井の鳴龍は探幽の作だそうです。探幽は幕府御用絵師で、光起は宮中御用絵師、いずれも時代を代表する一流の絵師です。妙心寺の「雲龍図」や二条城の「松に鷹図」を描いた探幽も好きですが、私は平安貴族スキー、源氏物語スキーなので、光起の源氏絵が大好きで、学生の頃から複製色紙などを買っていました。神社の拝殿に三十六歌仙絵が掲げられていることはよくありますが、大和絵の大家である光起筆の歌仙絵などという貴重な物は初代江戸将軍徳川家康墓所である日光東照宮にしか存在しないと思っていたので、またまたビックリ。日光東照宮や上野の寛永寺を創建した天海のほうが有名かもしれませんが、天海に劣らぬ崇伝の政治力――探幽、光起、遠州など天下に轟く一流どころに仕事をさせることのできる権勢の凄さを改めて思い知らされました。

東照宮に向かう途中にある苔庭の飛び石

東照宮に続く参道

金地院東照宮

東照公遺訓。久しぶりに見ました。「不自由を常と思へば不足なし」……実に奥が深いです。これほど令和を生きる現代人に刺さる言葉もないように思えます。

金地院東照宮についての説明板

 

 崇伝を祀る開山堂をまわって境内を一周すると時刻は4時半前、あと数分で受付も閉まる頃合いで、見渡せば他に拝観している人も見あたらず、自分がいなくなれば門も閉められるのだろうと思い、一巡したのに境内をフラフラしているのは申し訳ない気がしたので、急いで金地院を出ました。

金地院の山門にあった特別拝観についての案内。等伯の猿と光起の三十六歌仙絵を見たことで、昔見た悲田院にあった光起作の猿を思い出し、また見たくなりました。

 

 蹴上駅から地下鉄に乗り、烏丸御池経由で京都駅に戻ると、まずは券売機で新幹線の特急券を発券。その後、荷物を引き取りにホテルへ行き、少々時間があったので、ホテルのラウンジで宿泊客専用サービスの無料コーヒーを飲みつつ荷物整理をしてから、改札口へ。そして、いつものタカラ缶チューハイ近江牛弁当を改札内売店で調達すると、18時13分ののぞみに乗車。これにて遠征終了です。天海や崇伝のことはまったく意識していなかったので、本当に偶然なのですが、家康のブレーンだった二人の「黒衣の宰相」それぞれにゆかりの深い寺を同日に訪ねることと相成りました。光秀サンが結ぶ縁は奇縁としか言いようがありません。

 

 以下余談ですが、私はビクトリノックスのスイスアーミーナイフ――いわゆる十徳ナイフを長年愛用していて、ハサミが便利なので小型の物は毎日持ち歩き、ワインオープナーが付いている普通サイズは旅行に持っていくことにしています。過去ホテルや旅館で何度も借りた経験があるので。小型の物があれば用が足りる日帰り旅行と、荷物を預けない飛行機を使った旅行は取り上げられてしまうので持っていきませんが……一度アメリカの入国審査で引っかかり、プレゼントでもらったお気に入りを没収された悲しい経験もありますし。ということで、もちろん最近の遠征にも欠かさず持っていったのですが、そのビクトリノックスの十徳ナイフで、なんと墨絵師の御歌頭さんが書き下ろした明智光秀の絵をあしらったデザインがあると知ったので、どうしても欲しくなり、先週末銀座に出たついでに買ってきました。明智光秀+御歌頭の墨絵+ビクトリノックスですよ。こんな組み合わせ、いったい誰が考えたのか、スイス人ではないですよね? ビクトリノックス・ジャパンの社員? 信長はわかるけど何故光秀?……いろいろと疑問は尽きませんが、自分にとってスルーできない代物であることは確かなので、店で実物を見せてもらい、即決で購入。個人的には間違いなく頻繁に使うものですし。

ビクトリノックス戦国墨絵コレクションの十徳ナイフ、明智光秀バージョン。織田信長バージョンもあります。

桔梗紋があしらわれた裏面。商品に付いていた栞には「明智桔梗の家紋は現代人である我々が見ても非常に美しいデザインである。己の心にまっすぐな方に贈る明智仕様」と書かれていましたが……「我々」っていったい誰? ちなみに隣の迷彩柄は、アメリカで取り上げられたあと買い直して、今まで愛用してきた物です。こちらより光秀バージョンはやや薄いと思ったら、写っているノコギリが付いていませんでした。ほとんど使わないツールなので、なくても不便はありませんが。