羽生雅の雑多話

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滋賀寺社遠征&明智光秀探訪17~多賀大社、十兵衛屋敷跡、十二相神社

 翌30日の日曜は、前の週に大雪が降って真っ白になった多賀大社の様子をネットで見て、山間の集落である佐目はもっと雪が深いのではないかと思い、多賀は以前訪れていて多賀大社も胡宮神社も時間をかけて見ているので、今回はパスして行ったことのない佐和山城址に行き先を変更しようかと前日まで迷っていたのですが、佐目十兵衛会発行の冊子が彦根で手に入らなかったので、当初の予定どおり佐目に行くことにしました。

 

 10時過ぎにホテルをチェックアウトして彦根駅に行き、観光案内所近くのコインロッカーに荷物を預けると、10時35分発の近江鉄道に乗車。高宮駅で乗り換え、終点の多賀大社前駅で下車。冊子の販売所の一つが多賀観光協会だったので、駅構内の観光案内所に寄ったのですが、なんと案内所だった場所は無人のがらんとした空間になっていて、地図などのパンフレット類が置いてあるだけ。販売物など皆無でした。冊子の件だけでなく、佐目までの行き方についても確認しようと思っていたので「おいおい」と思いましたが、とりあえず多賀観光協会のホームページで唯一の公共アクセス手段として紹介されていた「愛のりタクシーたが」を電話で予約し、多賀大社の駐車場近くにある多賀観光協会へと向かいました。

 

 置いてあった周辺散策マップによると、多賀大社の駐車場は国道306号線沿いで、駅から行くと表参道である絵馬通りを神社の前を通り過ぎて終点まで行き右折したところ。「電車で来る客を完全に無視しているな」と思いましたが、コロナ禍の今は車で来る近場の参拝客のほうが圧倒的に多いような気もしたので、仕方がないとも思いました。

 

 徒歩12、3分で着き、観光案内所と多賀町のマスコットキャラクターである「たがゆいちゃん」のグッズ売り場を兼ねた建物に入って、一人だけいたスタッフのおねーサンに冊子のことを訊ねると、こちらの分も売り切れだと言うので、「佐目にはありますかね? これから行くので、まだ在庫がある販売所を教えてもらえれば寄りますが」と言うと、どこかに電話をかけて確認してくれました。電話をしながら「十兵衛屋敷跡にある十兵衛茶屋に置いておくそうです。何時頃行かれますか?」と訊かれ、「1時の愛のりタクシーで行きます」と応じ、「では、村の寄り合いで誰もいないので、料金は置いてある貯金箱に入れてください」などとやりとりをする中で、電話の相手が十兵衛会の方のように思えたので、ダメもとで「すいません、冊子の1種類はホームページでは売り切れになっていたのですが、1冊ぐらい残っていたら、そちらも売ってほしいのですが、あるか訊いてもらえないでしょうか?」と訊いたら、「探してあったら一緒に置いておくそうです」とのこと。彦根や多賀駅では肩透かしを喰らってガッカリしましたが、結果的にはラッキーでした。あと、多賀大社の愛のりタクシーの乗り場がわからなかったので、そちらも教えてもらい、心からお礼を言って案内所を出ました。若い頃は寄っている時間がもったいなかったので、まったく利用しなかった観光案内所ですが、最近は便利に使わせてもらって、本当に助かっています。

 

 絵馬通りに戻り、「一休庵」の前と教えられたタクシー乗り場を確認すると、11時半を過ぎていたので昼食を摂ることにし、観光案内所に向かっているときに前を通りかかって気になった「不二家」という店に入店。何故気になったかというと、村山たか女の住処という案内板があったからです。村山たか女といえば、井伊直弼の情人。反幕勢力の情報を送るなど安政の大獄で直弼に協力した罪で、直弼が暗殺された桜田門外の変のあと尊皇攘夷派に捕らえられて、三日三晩三条河原に晒されました。案内板によれば、彼女は多賀大社別当を務めた京都尊勝院の院主である尊賀上人と、多賀大社の境内にあった般若院の院主である藤山慈算の妹のあいだに生まれたとのことで、「不二家」の店主は母方の藤山家の子孫の方のようです。入ってみると食券を買う形式の普通の食事処だったので、近江牛かわかりませんでしたが、鍋焼きうどんの牛肉入りというメニューを選択。多賀観光協会発行のパンフレットに多賀の名産品として鍋焼きうどんが紹介されていたので。その説明によれば、遠方から多賀詣りに来る参拝者に夫婦鍋(フタとナベ)でうどんを煮込み、その中にかしわ、ねぎ、かまぼこ等々を入れ、人々をもてなしたとのこと。夫婦鍋で煮込むというのは、多賀大社の祭神がイサナギとイサナミの夫婦神であることに由来するみたいです。

不二家」の店の外に掲げられていた案内板

牛肉入り鍋焼きうどん。美味しかったので、たぶん近江牛だと思います。安土考古学博物館で食べた「近江牛のうつけうどん」の肉を思い出しましたが、やわらかい牛肉に具材の味が溶け込んだ汁がしみ込んでいて、より複雑な味わい。うどんの良し悪しは印象に残りませんでしたが、完成度の高い鍋焼きうどんでした。

 

 食事を終えると、多賀大社に参拝。式内社で旧官幣大社でもあり、『ホツマツタヱ』に登場するタガノミヤの跡なので、もちろん以前に来たことがあり、その時に隈なく見ているので、今回は拝殿と摂末社にお参りだけし、食後のコーヒー代わりに甘酒を飲むことにしました。

多賀大社境内全図

多賀大社の神橋。奥書院庭園と同じく、太閤秀吉の寄進によって造られたものなので、「太閤橋」と呼ばれています。

多賀大社拝殿。参拝客が多かったので、正面からは撮る気になれませんでした。

多賀大社本殿(鰹木しか見えませんが……)

境内にある大釜。江戸幕府が作った物で、神事に使われていたようです。

境内西側にある式内社日向神社(奥)と神明両宮。日向神社の現祭神は瓊々杵尊ことニニキネですが、ニニキネの宮はミズホノミヤ=水穂宮で、その跡は御上神社と思われるので、元々の祭神は、古くなった多賀宮を復興したウガヤフキアワセズか、ナガスネヒコの乱の時に多賀宮留守居を務めたクシミカタマだと思います。

 

 甘酒を飲み終わってもまだ時間があり、絵馬通りに近江牛専門店「千成亭」の支店があって、その隣に焼き立てを売る売店があったのを思い出したので、神社を後にして近江牛のコロッケを食べに行くことにしました。愛のりタクシーは、福井の明智神社に行くときに利用した「文殊山号」と同じく、時間が決まっていて基本的に1時間に1本で、1時間前までに予約しなければならず、よって時間変更はより遅い時間にしかできないので。前日に彦根でプレミアムコロッケを食べたので、今度は普通のコロッケを買って食べ比べてみようと思っていましたが、行ってみると、夢京橋キャッスルロードの店では注文してから時間がかかるとされていたメンチカツがすぐに用意できるというので、そちらを注文。参道を隔てたところにベンチらしきものがあったので、そこに座って食べることにしました。メンチカツにすると他の味が主張して近江牛の味が薄まるので、コロッケのほうが美味かったな、などという感想を抱きつつ味わっていると、数メートル先のタクシー乗り場にタクシーが停まっているのが目に入ったので、待たせるのは悪いと思い、急いで食べ終えて、参道を渡り店先のゴミ箱に紙を捨て、タクシー乗り場へと向かいました。まだ1時まで5分ぐらいあったのですが。

 

 またしても他に乗客はなく、途中から乗ってくる客もなく、どこにも停まらなかったので、10分ほどで上佐目停留所に到着。車を降りると、すぐに鳥居が見えたので、そちらに向かって歩き出しました。十二相神社に通じる参道でしたが、途中の左手に十兵衛屋敷跡を発見。雪に埋もれたキャラクターのパネルが出迎えてくれました。

十二相神社の鳥居。思ったとおりの残雪でしたが、通り道はきちんと雪かきがされていて、ほとんど残っていませんでした。

十兵衛屋敷跡のキャラクターパネル。向かって一番左の桔梗紋のあるパネルが明智光秀。光秀だけもっとアップで撮りたかったのですが、雪で近寄れませんでした。

十兵衛屋敷跡の十兵衛茶屋

 

 十兵衛茶屋に寄って、冊子が置いてあることと貯金箱は確認できたので、あとでゆっくり展示を見ようと思い、まずは「十兵衛くんが遊んだかもしれない」十二相神社に参拝。

十二相神社についての説明板

十二相神社。四本の杉は明らかに鳥居です。背後は小山のようだったので、古墳かもしれないと思いました。

 

 十二相神社は常駐の神職もいない小さな神社ですが、古くからの街道である国道306号線から脇に入って集落を貫くように真っすぐ伸びている参道と、山に囲まれた地形から、佐目が山間のわずかな平地にこの神社を中心にできた集落であることがわかります。現祭神は少彦名神。『ホツマツタヱ』にもスクナヒコナとして登場する神で、オホナムチの国造りを手伝ったことで知られます。しかし、この神社の分霊である岐阜県海津市の十二相神社の祭神は「天神七代地神五代」とのことなので、佐目に社を建てて祀られ、社名となっている「十二相神」も、元々は初代クニトコタチから十二代ウガヤフキアワセズに至る十二代の天神や天君だったのだと思います。

 

 スクナヒコナ主祭神になった経緯の真相は知るべくもありませんが、多賀大社でも境内社の一つである聖神社の祭神として祀られているので、オホナムチと共にタガノミヤを中心とした国土経営に寄与した神だったのでしょう。あるいは、十兵衛茶屋に貼ってあった資料にも六角氏関与の可能性が書かれていましたが、この地を治めていた六角氏が自分たちの氏神を勧請して祀ったのかもしれません。明智氏が本来土岐氏であるように、六角氏は佐々木氏で、佐々木源氏の氏神は安土の沙沙貴神社であり、沙沙貴神社主祭神は少名彦神なので、少名彦神は佐々木氏がこの地に根付いたときに十二相神社に勧請されて合祀され、佐々木氏の力が近江守護を務めるぐらい大きくなると、後から祀られた少名彦神のほうが主祭神になったのかもしれません。

 

 多賀大社末社である聖神社三宮神社と同殿で、三宮神社の祭神は四代、五代、六代の天君、摂社の日向神社は十代天君ないしは十二代天君……いずれも十二相神社で祀られている神々です。そして、佐目を通る国道306号線は鈴鹿山脈の鞍掛峠を越える山越えの古道で、七代天君イサナギ・イサナミ夫妻を祀る多賀大社と、夫妻の息子である八代天君アマテルを祀る伊勢神宮を繋ぐ道――つまり「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」という俗謡にしたがって、お伊勢参りの参詣者がそのままお多賀参りに行くのなら通る最短距離で、306号線の佐目トンネルの入り口には「山越えの 伊勢人もあり 多賀祭り」という句碑もあるとのこと。その街道筋に初代から十二代までの天君を祀っていたと思われる十二相神社があるのです。果たしてこれは何を意味しているのか……。考えられるのは、十二相神社も古代の聖地の跡ではないかということです。『ホツマ』によれば、多賀大社の起源であるタガノミヤはイサナギの最後の宮、伊勢神宮の起源であるサコクシロウチノミヤはアマテルの最後の宮なので。はっきり言って、明智光秀の謎以上にミステリアスです。

 

 光秀が佐目の出身であるという説の根拠となっている『淡海温故録』には、光秀の二、三代前の祖とされる明智十左ヱ門が土岐成頼(土岐宗家当主で美濃守護)に背いて浪人し、六角高頼(近江守護)を頼って近江にやってきたので、高頼は「明智は土岐家の庶流で旧家であるから」と言って扶助米を与えた、と書かれています。よって食客のような待遇で迎えたのでしょう。しかし十左ヱ門が高頼に近いところではなく、佐目に居住することになったのは、高頼が彼を保護したことを人目に付かぬよう隠す必要があったか、さもなければ、故郷の美濃に近い佐目でなにがしかの役割を与えられたかのどちらかだと思います。もし後者なら、十二相神社が古代の聖跡で、佐目が中世以前から重要な土地であることがわかれば、その役割が何だったのか見えてくるかもしれません。

 

 十二相神社から十兵衛茶屋に戻ると、探して見つけてくれたのか2種類の冊子が置かれていたので、2冊分の代金を指示されたとおり貯金箱に入れたのですが、郵便ポスト形の貯金箱だったので、折りたたんだ紙幣が途中で詰まってしまいました。茶屋では手作りのストラップなどが販売されていたので、これでは後から来る人が困るだろうと思い、さらに強引に突っ込んでみたのですが、凹凸がありストレートな円柱形ではないため中で引っかかってしまい、奥に入れることも取り出すこともできず。進退窮まってしまったので、多賀観光協会に電話し、先ほど対応してもらったスタッフのおねーサンに事情を説明。すると、参道にある十兵衛会の集会所に置いておいてくれと言われたので、貯金箱を持っていき、玄関に置いておきました。

なんとか手に入れることができた『明智十兵衛光秀 謎多きルーツに迫る多賀出身説!』と『今、何故 光秀か』の2冊。佐目まで行った甲斐がありました。

 

 その後、茶屋に戻って展示を見ていたら、十兵衛会の関係者と思われる女性がやってきて、集会所の暖房を入れたので時間があったらお茶を飲みに寄ってと声をかけてくれたので、ひととおり展示されていた資料を読んだあと、集会所へと向かいました。貯金箱について説明したかったこともありますが、帰りの愛のりタクシーの時間までまだ1時間以上あったので。多賀大社停留所を13時3分に出発する愛のりタクシーの上佐目停留所着は時刻表によると13時25分で、30分ではゆっくり見られないと思ったので、14時発ではなく15時発を予約したのですが、1時10分には到着し、50分もあれば十分ゆっくり見られたので、お言葉に甘えて集会所で待たせてもらうことにしました。

キャラクターパネルの隣にあった『淡海温故録』についての説明板。こちらの前は雪かきがしてあり、すぐそばまで近寄れるようになっていたので、細かい文字も読むことができました。

茶屋に掲示されていた『淡海温故録』を取り上げた新聞記事。彦根藩筆頭家老の木俣守勝は一時光秀の家臣だったとか、興味深いことが書かれています。

茶屋に掲示されていた十二相神社についての説明。六角氏との関係について触れられています。

茶屋を出るときは晴れていて、山がとてもきれいでした。それにしても雪が深いです。こちらの看板にもこれ以上近寄れませんでした。

 

 集会所でとりとめのないことを話しながらお茶をいただいているあいだに、詰まっていた貯金箱の紙幣は道具を使って取り出してくれたので、貯金箱を茶屋に戻して集会所に戻ると、もう一人男性の方が現れて、光秀が掘ったとも伝わる「カミサン池」に案内してくれました。光秀を助け、光秀から「みつ」を賜ったが、本能寺の変後「見津」と書いて「けんつ」と読み、長らく謀反人扱いされてきた光秀との関係を隠してきたという見津家では、「この水を使うときには光秀さんに感謝しろ」と言われてきたそうで……声をかけてくれた女性も、案内してくれた男性も、どうやら今も集落に何軒か残っている見津家ゆかりの方のようでした。

カミサン池。池ではなく井戸でした。祠は最近作った物だそうですが、お地蔵さんの石像は昔からあったそうです。

 

 カミサン池から引き上げてくると、まだ3時まで10分以上あったので集会所に戻ったのですが、中に入る前に見えた停留所に車が停まっていて、派手なラッピングで見るからにタクシーだったので、玄関でお礼を言って辞去を告げると、集会所で待っていてくれた女性が「お茶を淹れ直したので、お茶菓子に出そうと思っていたのだけど……」と言って、「鬼まんじゅう。サツマイモが嫌いでなければ持っていって」と手に持っていたものを渡してくれました。「ありがとうございます。いただいていきます」と再びお礼を言って停留所に向かうと、派手なラッピングは島左近のイラストで、後で調べたら、ゲーム「戦国無双」のキャラクターのようでした。

 

 3時過ぎには多賀大社前駅に着きましたが、愛のりタクシーと同じく近江鉄道もこの時間帯は1時間に1本で、次の電車は15時27分発だったので、以前多賀に来たときに行ったことのある、駅に一番近いカフェでコーヒーを飲むことにしました。カウンター席が埋まっていて、一つずつあるソファ席とテーブル席が両方空いていたので、ソファ席に座ったのですが、その後立て続けに二人組の客が来て、最初のひと組は空いているテーブル席に座りましたが、ひと足遅かった次の二人連れはあきらめて出て行きました。前に来たときに周辺を歩きまわって駅の近くに他に店がないことは知っていたので、二人席に一人で座っていた私はなんとなく申し訳ない気持ちになり、罪滅ぼし的な気分で本日のケーキも注文。私が店に入ったときにはすでに三人全員が食べ終わっていたにもかかわらず、新しい客が来ても席を空けようとしないカウンター席の家族連れにはいささか腹が立ちましたが、文句を言えることでもないので、さっさと食べて飲んで店を出ました

 

 近江鉄道彦根駅に戻ってくると、コインロッカーの隣にある観光案内所内にある土産物屋に寄ってみたのですが、欲しいものがなかったので、ひこにゃんグッズを扱っている駅前の平和堂へ。残念ながらそちらでも欲しいものはなかったので、ひこにゃんの顔の焼き印を押したきんつばと、食料品売り場でタカラ缶チューハイを購入。帰りの新幹線は、乗り換えなしのひかりにこだわると早くて米原発16時57分で、それだと大河ドラマの開始時間に微妙に間に合わないため、米原発16時33分のこだまで名古屋まで行き、4分の乗り換え時間で17時6分発ののぞみに乗ることにしました。57分発のひかりに乗るより30分ほど早く品川駅に着けます。しかしその場合、缶チューハイを新幹線内で調達するとなると、こだまは車内販売がないため必然的に名古屋以降となり、運が悪ければまた車内販売のワゴンが来るのが遅く、静岡あたりまで飲めないということも無きにしも非ず。それは避けたかったので、事前にゲットしました。

 

 ロッカーから荷物を引き上げて、16時19分発の琵琶湖線に乗り、5分で米原駅に到着。ケーキを食べた上に、佐目でいただいた鬼まんじゅうもあったので、弁当類を買うつもりはなく、新幹線改札内のコンビニで酒のつまみになるようなスナックでも買おうと思っていたのですが、改札に行く途中に井筒屋の販売スタンドがあり、「元祖鱒寿し」を発見。以前これを求めて米原駅構内をさまよったこともある大好きな駅弁なので、とても素通りすることができなかったため、鬼まんじゅうは家に持ち帰ることにし、のぞみに乗り換えて名古屋駅を出発したあと、鱒寿しとチューハイで早めの夕食。これにて今回の遠征終了です。