羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

京都寺院遠征~清水寺、高台寺、圓徳院、醍醐寺

 昨日に続き、本日も36度超えでした。熱中症から身を守るためにはマスクを着けなくてもいい冷房の効いた部屋にいるしかないので、明智研究にハマって途中で放り出していた遠征記を仕上げることにしました――今から3か月以上前のことですが。

 

 1月から始まった首都圏のまん延防止等重点措置は3月21日にようやく解除されましたが、当初は6日には解除される予定だったので、第7波が到来して動けなくなる前に――と思い、3月中に仕事で京都と出雲と金沢に行ってきました。

 

 で、仕事で3週連続遠征という無理をするからには仕事以外で自分が何か得るものがなければストレスになるので、京都と島根ではついでに寺社巡りをしてきました。金沢は日帰りだったので、仕事だけして帰ってきましたが。京都はちょうど東山花灯路の期間で、今回で最後の開催とのことだったので、東山に行ってきました。11日金曜5時過ぎに仕事を終えるとタクシーを拾い、まずはイベントに合わせてライトアップと夜間特別拝観をしている清水寺へ。烏丸二条付近にいたので、バスで行っても電車で行っても乗り換えが必要な上に、どちらで行っても清水道バス停か清水五条駅からは歩かなければならないので、清水坂の合流地点まで五条坂を登ってもらいました。

11日の朝、仕事先に向かう途中で寄った京都御苑の黒木の梅。まだ咲き初めでした。

 

 渋滞もなかったので6時前に到着すると、何故か仁王門前の人だかりは門ではなく清水坂の参道のほうを向いて写真を撮っているので、何かと思って振り向いて見ると、ちょうど陽が沈むところでした。

仁王門前から見る日没

仁王門の隣にいたこけし清水寺で開催されていたアートフェアの展示物。

夜になるとこんな感じ

西門と三重塔

清水の舞台からの夕焼け

音羽の滝に向かう途中から見える本堂、経堂、三重塔

下から見るライトアップされた清水の舞台

下から見るライトアップされた本堂と奥の院

下から見るライトアップされた三重塔

 

 清水寺を後にすると、産寧坂を下り、八坂の塔の前を通って、同じく夜間拝観を行っている高台寺に向かいました。

産寧坂から見る八坂の塔

正面から見るライトアップされた八坂の塔

 

 高台寺の境内に到着すると、時刻は6時45分過ぎで、拝観後だと店が混むと思ったので、先に境内にあるカフェ「茶筅」に寄り、スパークリングワインと、よもぎ生麩と生湯葉の京味噌風味という謎の味のピッツァを注文。7時半前に食事を終えると拝観受付に行き、夜間限定の御朱印を購入し、入山。

夜間特別拝観限定の「光る御朱印」。御朱印もここまで進化したかと驚きました。

「光る御朱印」の名のとおり、暗いところで見ると蓄光インクで印刷されたねね様のイラストと豊臣家の家紋の菊桐紋、高台寺の寺号が浮かび上がります。

高山寺の方丈から見る勅使門のプロジェクションマッピングその1

高山寺の方丈から見る勅使門のプロジェクションマッピングその2

高山寺の方丈から見る勅使門のプロジェクションマッピングその3

臥龍池の水鏡

臥龍池に映る臥龍廊と開山堂

臥龍池と霊屋

 

 高台寺を出ると、続いて塔頭の圓徳院へ。高台院ねねが夫秀吉の死後に移り住んだ屋敷の跡で、彼女はここで生涯を終えています。ねねの死後、彼女の甥である木下利房によって寺とされ、ねねの実家である木下家の菩提寺となりました。私は秀吉があまり好きではないため、今まで訪れたことがなかったのですが、こちらも夜間拝観をやっていて、まだ入れたので、寄ってきました。

受付でいただいた「疫病退散」の御朱印と三面大黒天像

ライトアップされた南庭

南庭から北庭へ行く途中にいる宗旦狐。千利休の孫、宗旦に化けてしばしば茶席に現れたという化け狐で、幕末には相国寺の雲水に化けていたとのこと。死後相国寺に祠が建てられ、宗旦稲荷として祀られています。

 

 圓徳院では秀吉の守り本尊といわれる三面大黒天も祀っているのですが、会わなかったなと思って建物を出たら、出たところに単独の立派なお堂があったので、参拝。その後、時間があれば円山公園まで足を伸ばそうと思っていたのですが、この時点で8時半になろうかという時刻だったので、帰り客で道や交通機関が混む前に切り上げることにし、東山安井バス停からバスで京都駅まで行き、駅構内のホテルに戻り、この日は終了です。

 

 翌日は、「京の冬の旅」の企画で「僧侶が案内する特別拝観 醍醐寺五重塔」の11時の回に申し込んでいたので、8時半過ぎにホテルをチェックアウトしてロッカーに荷物を預けると、京都駅八条口バス停を8時53分に出発するバスに乗り、醍醐寺へと向かいました。

 

 当初、五重塔の特別拝観は2月の最終週に予定していたのですが、仕事で3月第二週に京都に行かなければならなくなったので、遠征を1回にまとめることにしました。そのあと出雲や金沢に行く予定もありましたし。……なのですが、元々は関東にいるはずの週だったので、12日土曜は3時半から日比谷で友人と宝塚を観ることにしていました。その公演に遅刻しないためには3時には品川駅に着いていなければならず、五重塔の拝観が10~15時だったので、朝イチで行くつもりでいたのですが、数日前に「京の冬の旅」のホームページで拝観について確認すると、なんと30分おきに人数を決めての案内で、しかも事前予約制。慌てて申込みフォームのページを開きましたが、時すでに遅し。10時と10時半の回は満員でした。

 

 しかし、以前にも書きましたが、醍醐寺五重塔は私にとって特別な建造物で、この貴重な機会を逃すことはとてもできなかったので、まだ定員に空きがある回で1番早い11時の回に申し込み、宝塚は開演に間に合わなかったら後半のショーから観ることにしました。雪組時代から注目してきたレイコ(月城かなとさん)が月組のトップスターに就任したお披露目公演だったので、初めからちゃんと観たかったのですが。

 

 ということで、五重塔の拝観が終わったらすぐに引き上げて東京に帰れるよう早めに醍醐寺に向かい、9時半には到着すると、まずは同じ「京の冬の旅」の企画で特別公開中の三宝院へ。2年前の特別拝観の時にも訪れましたが、三宝院の御本尊である快慶作の弥勒菩薩像が祀られている本堂は通常非公開エリアで、特別拝観の時にしか入れないので、拝めるときは拝むようにしています。続いて10時に開館する霊宝館の仏像棟へ行き、一番好きな不動明王像である、同じく快慶作の不動明王坐像と対面。

醍醐寺特別公開の看板

醍醐寺三宝院の表書院(国宝)から見る庭園。国の特別名勝特別史跡でもあります。

醍醐寺三宝院の本堂。重要文化財です。ここに快慶作の弥勒菩薩像が安置されています。

 

 霊宝館を後にすると、観音堂と金堂にお参りし、見るべきものは見たので、15分ほど早かったのですが、五重塔の特別拝観の受付に行ってみました。すると、コロナ感染対策でなるべく人が密集しないように主催者から指導されているらしく、僧侶によるガイドも30分に1回ではなく、10人ぐらい集まると順次行われていたので、予定より早く拝観することができました。

醍醐寺五重塔

 

 醍醐寺五重塔京都府下最古の木造建築物で、60代醍醐天皇の冥福を祈るために息子の61代朱雀天皇の時代に建築が始まり、朱雀天皇の弟である62代村上天皇の時代――天暦5年(951)に完成しました。建物と内部の初層壁画が別々に国宝に指定されていて、初層壁画には両界曼荼羅真言八祖像が描かれています。その八祖像の中に空海の肖像もあり、現存する空海の画像としては日本最古といわれているのですが、五重塔は非公開のため、一般人がこの貴重な壁画を見る機会はありませんでした。……なのですが、昨年は弘法大師号下賜1100年という空海のアニバーサリーイヤーだったので、初めて塔の内部が単に開扉という形ではなく中に入れる形で公開されました。けれども、11月27~29日のたった三日間だけだったので、この公開は気づいたときには終わっていました。この事実を知った私がひどく落胆したのは言うまでもありません。なので、今回は1月29日から3月13日の土日のうち6日間が公開日だったのですが、まん延防止等重点措置だろうが何だろうが、公開が中止にならないかぎり絶対に行こうと決めていました。

 

 ガイド役の僧侶の説明を聞きつつ、塔内に設けられた見学スペースで向かって右側にある空海の肖像を見てから塔の周囲をぐるりと回ると、四方に向けて醍醐天皇朱雀天皇村上天皇、そして朱雀・村上両天皇の生母である藤原穏子の位牌が祀られていました。それを見たとたん、目元が熱くなって涙があふれそうになりました。文字の上でだけ知っていた架空の人間に等しき歴史人物が、実在の人物になった瞬間です。

 

 私の好きな藤原時平の妹で、父基経亡き後、基経の跡継ぎである長兄の時平が親代わりとなって醍醐天皇に入内し、皇后となり、女人の栄華を極めた穏子。時平が39歳の若さで亡くなると、今度は自分が早世した兄の子供たちの庇護者となり、その血筋を藤原北家嫡流として守ろうと懸命に努めました。また、醍醐寺五重塔の発願者で、やはり34歳の若さで亡くなった朱雀・村上の異母兄である代明親王の子供たちも庇護しました。五重塔の完成が朱雀天皇の代では叶わず次代まで持ち越し醍醐天皇崩御から20年後となったのは、発願者である代明親王が亡くなったために工事が停滞したからだともいわれています。穏子が何故藤原北家の縁者ではない代明親王の子女たちを庇護したのか、卒論のテーマに選んだほど疑問で解き明かしたい謎でしたが、代明親王が彼女の夫である醍醐天皇冥福のための五重塔創建に力を尽くしたことが無関係ではないと思っています。穏子の実子である朱雀天皇に工事を推進する意志と力があればその在位中に完成したはずなので、できなかったということは、若くして帝位につき病弱だった朱雀天皇にはその器量がなく、亡き親王の遺志を継いで五重塔を完成させたのは穏子だったということでしょう。それゆえ彼女の位牌が三天皇の位牌とともに祀られているのだと思います――千年の長きにわたって。

醍醐寺五重塔その1。塔の内部は撮影禁止でしたが、建物は許可してくれました。

醍醐寺五重塔その2

醍醐寺五重塔その3

三宝院と五重塔の限定御朱印弘法大師諡号下賜1100年慶讃法要の印が押されています。

 

 村上天皇の位牌の前に置かれていた受け皿に一字一願写経を奉納し、一週目は僧侶の説明に従って、二週目は自分のペースで塔の周囲を2度巡り、五重塔を後にしました。そして醍醐寺前バス停に行ったのですが、時刻表を見ると京都駅行きのバスはしばらく来なかったので、歩いて12,3分のところにある醍醐駅に向かい、地下鉄で京都駅へ。東西線から烏丸線への乗り換えの接続もよく、予定より1本早い12時半過ぎの新幹線に乗れたので、3時前には有楽町駅に到着し、開演10分前には劇場に着けました。これにて遠征終了です。