羽生雅の雑多話

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滋賀寺社遠征 その3~馬見岡神社、多賀大社、胡宮神社

 続きです。

 三日目はチェックアウトしてをから、駅前発9時過ぎのバスに乗り、岩倉バス停から歩いて3分ぐらいの馬見岡神社へ。

 この神社は無人のため御朱印はいただけませんが、立地や本殿の造り、摂末社などは確認できるので、いつものようにチェック。岩倉山の麓に位置するので、この山も神奈備山で、元々はこの山が御神体だったのだと思います。山腹や近辺には古墳も多く点在していますし。

 神奈備山というのは、だいたい神が住んでいた宮の跡か葬地です。だから神は縁の深いその地に鎮座するのです。
まれに死後に魂だけが移ってきて鎮座している場合もありますが。

 当社の祭神は天戸間見命と天津彦根命ですが、おそらく天戸間見=アメトマミを主祭神とする唯一の式内社ではないでしょうか。そういう意味で貴重なので、機会があればずっと来たいと思っていたところです。『ホツマツタヱ』(以下、ホツマと略します)によれば、アマツヒコネはアマテルの三男、アメトマミはアマテルの孫で、アマテルの五男であるクマノクスヒの息子です。アマツヒコネは伊勢二宮の多度大社の祭神でもあり、クマノクスヒは紀伊国熊野那智大社の祭神である夫須美神、アマテルは言わずと知れた伊勢神宮内宮の祭神、天照大御神のことです。

 神々となった神代の人物たちと神社の関係については、いろいろと思うところがあるので、おいおい書いていくつもりです。賛否あるとは思いますが。

 バスの時間まで近くの古墳を見て駅に戻ると、ホテルで預かってもらっていたキャリーバッグを引き取って、近江八幡を後に。まだ時間があったので、新幹線乗車駅の米原でロッカーに荷物を預けて、近江鉄道多賀大社へと向かいました。

 多賀大社前駅でマップをもらい、10分ほど歩いて神社近くになると、七五三のお宮参りがわんさか。境内も三世代家族連れで賑わっていて、一般の参拝客は肩身が狭い感じでした。まあ、この時期は仕方ないですね。正月に次ぐ稼ぎ時でしょうから。

 当社の祭神は伊邪那岐大神と伊邪那美大神。『
ホツマ』でいうところのイサナギとイサナミで、アマテルの両親です。

 『
ホツマ』によれば、当社の起源は、アマテルに位を譲ったあと二人が隠居所としたタガノミヤ=多賀宮で、譲位後に上皇が住む院御所みたいなものです。その跡地が聖跡とされ、奉祀されるようになったのでしょう。最初のうちは巨石や巨木などが神の鎮座地の目印となり、磐座や磐境と呼ばれて祭祀が行われ、あるいは山や島などを御神体として祭祀が行われてきましたが、殿や像を作って人を超えた存在を祀る仏教が伝来して以後、本殿などの建造物や神像が作られるようになり、神の社たる神社が誕生したということでしょう。

 多賀大社は大社だけに摂末社も多く、式内社日向神社も現在は当社の末社です。祭神は天津日高日子火之瓊々杵尊。『
ホツマ』でいうところのニニキネで、アマテルの孫にあたり、アマテルの二男で父の位を継いだオシホミミの二男です。日向神社の隣にはニニキネの妃であるコノハナサクヤヒメを祀る子安社と祖父のアマテルを祀る神明社があるので、現在の祭神はニニキネで間違いないと思いますが、社名にある日向神=ヒウガノカミとは、『ホツマ』によれば、ニニキネの孫にあたるウガヤフキアワセズの神名で、彼はひいひいじーちゃんであるアマテルに言われて荒れ果てていた古宮の多賀宮を作り替えてここに都を遷した人物なので、元々の祭神は彼ではないかと思っています。

 あるいは、江戸時代に書かれた『神名帳考證』には天日方奇日方命が当社の祭神と書かれているらしいので、天日方奇日方ことクシミカタマである可能性も高いと思います。この人も神武東征に至るナガスネヒコの乱の時に多賀宮を守った人で、ゆかりが深いので。神武天皇の舅というエラい身分の人でもありますし。大和一宮の大神神社の祭神、大物主大神のことです。この神は正式名称を倭大物主櫛甕玉命といいます。つまり櫛甕玉=クシミカタマが名で、大物主は役職名になります。ソサノヲの子孫が代々受け継いだ将軍職ですね。ちなみに諱はワニヒコといいます。

 チェック事項をおさえ、摂末社を見てまわったあと、御朱印をいただいたついでに、せっかくなので入園料を払い、奥書院庭園を見ました。こちらは静かでよかったです。

 その後、15分ぐらい登り道を歩いて胡宮神社に到着。当社は青龍山の麓にあり、青龍山には磐座があって、そこまで登ることができます。磐座という明らかな古代祭祀の跡が残っているため、むしろ多賀大社より気になる神社だったので、山上の磐座に行ってきました。
往復40分の山登りです。祭祀の前に禊ぎをしたらしい池もあるようなので(前日の山歩きの筋肉痛がキツくて、磐座に行くのが精一杯だったので、行くのはあきらめ未確認)、当社も聖跡に建てられた神社です。イサナギ、イサナミと共に、『日本書紀』でイサナギの子とされている事勝國勝長狭命を祭神としているので、当社が『ホツマ』に出てくるタガワカミヤ=多賀若宮の跡でないかと考えています。イサナギの子と伝わる事勝國勝長狭命は、実は子ではなく孫であり、祖父に引き取られて多賀で育てられたオシホミミが、猶子ということで子として伝わったのではないかと思うのです。『古事記』におけるオシホミミの名は正勝吾勝勝速日天忍穂耳命で、正勝吾勝」が事勝國勝」と似ていますし。

 胡宮神社を出ると、ちょうど一周するような感じで駅に戻り、1時間に1本の電車の時間まで余裕があったので、駅近に1軒しかない小さなカフェに入ってコーヒーを頼み、ようやく一服しました。ふだんはお茶がわりに飲んでいる根っからのコーヒー党ですが、神社巡りの時は時間が惜しいので、空いた時間に飲むだけです。

 その後、3時台の電車に乗り、米原駅にはあまりめぼしいお店がなかったので、途中の彦根で下車して、お土産を物色。城下町なので品揃えは豊富でしたが、ピンとくるものがなかったので、結局ひこにゃん10周年記念ピンズだけを買って米原へ。

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 米原では新幹線の中で食べるお弁当を買う予定でしたが、井筒屋は全部売り切れ。参ったなぁと思いながら、すがるような思いで、多賀に行く前に寄って昼食用にパンを買って店内でコーヒーを飲んだ店に行ったら、ビワマス寿司を発見。琵琶湖に鱒がいて食べられるなんて知りませんでしたが、大いに気になったので、試しに買ってみました。「帰りも寄ってくれたんですね」と行きに寄ったときと同じレジのおねーサンが「天然物なのでおいしいですよ」と言うので、期待して、ホームのキオスクでピッコロサイズのワインも調達しました。いつもはチューハイなのに。

 乗車後、飲みながら食べてみたら、思いのほか美味で、一転してラッキ~と思いました。有名な富山のます寿司弁当より断然おいしかったです。

 とまあ、今回も実にいろいろとありましたが、総じて運のよい旅だったと思います。これも神仏の御加護でしょう。来月文化の日から週末にかけては京都周辺を巡るので、またとりとめのない遠征記を書く予定です。よろしければ覗いてみてください。