羽生雅の雑多話

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京都・滋賀寺社遠征 その2~石山寺、建部大社、日吉大社、三井寺、近江神宮

 記事など書いてるヒマはないと、ガラケーユーザーの時はブログをやらなかったわけですが、スマホに変えてもやはりそれは同じでした。そりゃそうです。時間が増えるわけではないのだから。でも、せっかく始めたので、ボチボチやらせていただきます。だいぶ間があいてしまいましたが、今月初めの遠征記の続きです。
 
 二日目はせっかくの平日なので、休日だと混みそうな滋賀県のメジャー寺社をまわりました。七五三参拝客がいっぱいで落ち着かなかった先月の多賀大社みたいな状況はなるべく避けたかったので。
 
 まず草津駅から石山駅まで行き、一日乗車券を買って、京阪電車に乗車。石山寺駅で降りて、第13番札所の石山寺へ。今回の石山寺の特別公開は、御本尊御開帳に加えて内々陣初公開という西国三十三所草創1300年記念特別拝観のメインイベントと言ってもよい大盤振る舞いなので、混むのは必至と思い、ガンバって起きて朝イチで向かいました。
 
 駅から10分ぐらい歩いて8時半には到着し、山門前のバス停の時間を確認してから、入山料+特別拝観料+特別展入場料のセット券1000円を購入。以前来たときに山内はひととおりまわっているので、脇の塔頭は素通りして本堂へと向かいました。ところが、特別拝観は9時からだったので、時間まで石山寺名物の天然記念物の硅灰石と国宝の多宝塔の写真を撮ることに。人はいないし、周囲の色づき始めた木々が真っ青な秋空に映えてとてもきれいだったので、ベストアングルを探して同じ場所を行ったり来たり。傍目にはすこぶる怪しかったと思います。はじめて石山寺を訪れたのは源氏物語千年紀の時だったのですが、この硅灰石を見たときはかなり驚いて、「なるほど、だから“石山”寺なのか」と妙に納得したものです。
 
 9時になったので本堂へ行き、拝観受付。当寺の御本尊である如意輪観音像は丈六の大きなもので、外陣からでもお姿は見えるのですが、お顔は隠れているという状態。内陣に入って大きなお体にだんだん近づくにつれて期待も高まり、お顔が現れて正面から真近に拝すると、その威容に圧倒されました。古人がこぞって石山詣でに参じた理由がわかります。先月から三十三観音を見てまわっていますが、一番迫力があり霊験あらたかな力のありそうな観音像です。一見の価値あり。創建当初の奈良時代に造られた塑像の御本尊は早々に失われて現在の木像の御本尊は平安時代後期に造られたものだそうですが、初期の像に倣ったとのことなので、紫式部たち平安貴族が見たものと印象はそう変わらないでしょう。とりわけ興味深かったのは、蓮華座の下にも硅灰石があったこと。まさしく石山寺の御本尊は石山の上に座しておられるのです。1000年以上変わることなく。
 
 お参り後、角度を変えたりしてしばらくのあいだ眺めていましたが、添乗員率いる団体客が来たので、混む前に内陣から出て御朱印授与所へ。以前いただいた御朱印は紙だったので、改めて朱印帳にいただきました。
 
 そして、忘れてはならないのが「浄土の鳥」。石山寺は孔雀でした。
 
 本堂を出たあと、普段は閉まっているという鐘楼が開いていて、一般人は元旦の深夜2時から並んだ先着何名かしか撞けないという鐘が、今は御開扉記念で300円で撞けるというので撞かせてもらいました。長命寺の鐘楼は開けっ放しになっているので、行くたびに断りもなく撞かせてもらっているのですが。
 
 それから豊浄殿で特別展「石山寺紫式部展」を見たあと、バスで唐橋前バス停まで行き、瀬田の唐橋を渡って15分ほど歩いて近江一宮の建部大社へ。
 
 建部大社は式内社の宝庫である近江国の中でも筆頭の一宮なので、いずれ必ず行こうと思っていた神社の一つなのですが、主祭神日本武尊ということで後回しにしていました。日本武尊は神代ではなく初代天皇である神武以後の人物なので、わりと事績がはっきりしていて、正体が曖昧とか謎めいたところがなく、改めて謎解きが必要な部分が少ないからです。なので、行って新たにわかることもないだろうと高をくくっていましたが、やはり現場には行ってみるものです。相殿神が天照皇大神、権殿神が大己貴命というのは、ちょっとした発見でした。
 
 いわゆる天照皇大神こと天照=アマテルは皇祖神なので、12代天皇の皇子である日本武=ヤマトタケル(『ホツマツタヱ』ではヤマトタケ)にとっても直系の先祖にあたるため合祀されていても何ら不思議ではないのですが、大己貴命こと大己貴=オホナムチは、『ホツマ』によればアマテルの弟ソサノヲ(=スサノオ)の子なので、ヤマトタケルから十八代くらい遡らないと先祖が一緒にならないという、かなり遠い関係――にもかかわらず、共に祀られているのですから、意味深です。
 
 日本武=倭建の名を残すために近江国の神崎郡に御名代として定められたのが“建”部郷で、由緒によれば、この郷に彼の妃が夫の霊を祀ったのが当社の起源とのこと。
 
 では何故ヤマトタケルの御名代である建部を定めるにあたって神崎郡の中でもその地が選ばれたのか――、建部郷が定められた神崎郡の“神”とはいったい誰をさすのか――、また、当社は天武天皇時代に国府に近い現在地に遷されたのですが、何故遷座先に瀬田のこの地が選ばれたのか――、もともと何かが祀られていて聖地とされていた場所だったからではないか――、当社に祀られている大己貴神は大和一宮の大神神社から勧請されたとのことだが、その理由は何故か――、もしかしたら、この地にもともと祀られていた神というのが大己貴であり、日本武が遷ってきたために正殿とは別に権殿を造って祀ることにしたのではないだろうか――、もしそうならば、建部大社の元々の起源は大己貴の宮跡か――などと思ったりするわけです。この土地にもヤマトタケル以前の歴史があるはずですから。興味は尽きないですね。
 
 せっかく来たので御朱印授与所で頼んで宝物館を開けてもらい内部を見学させていただいたのですが、由緒書に写真が掲載されている重要文化財の女神像の他に男神像も収蔵されていたので、女神像は伝承で言われているヤマトタケルの妃ではなく、相殿神の天照皇大神であり、男神像は権殿神の大己貴命なのではないかとも思いました。漢字渡来以前の歴史書である『ホツマ』によればアマテルは男ですが、神像は平安時代に作られたものなので、その当時の認識では、すでに天照皇大神は女神ということになっていたでしょうから。
 
 最後に御守り売場を物色し、日本武尊の土鈴があったので購入しました。土鈴はその神社に縁が深いものを象っているものだったら記念に買うことにしています。大山祇神社の鎧とか、大石神社の火事頭巾を被った内蔵助の頭部とか。土鈴にするためのデザインというかデフォルメがおもしろいので。埴輪や土偶に近い感じです。どれも立派なアートですね。
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土鈴コレクション。建部大社の日本武尊の隣は伊勢神宮倭姫命
 建部大社を出ると、建部大社バス停からバスで石山駅に行き、石山駅から京阪電車に乗車。終点の坂本に向かうあいだ、ようやくまとまった時間ができたので、この先のルートを検討するため、一日乗車券を買ったときにもらったパンフレットを熟読し、その時にはじめて一日乗車券には様々な特典があることを知りました。たいていは飲食や買い物が1割引きとかワンドリンクサービスとか入山料50円引きとかなので、わざわざ行くというより行った先で使えたら使うというものでしたが、行ってきたばかりの建部大社の特典が「たけるくんストラップ」進呈。「え~何それ。それさぁ、もっと早く言ってよ~」と、某CMの松重さんみたいに叫びたくなりました。後ろ髪引かれる思いでしたが、もはや電車に乗ってしまったので、当初の予定どおり日吉大社に向かうことに。御開帳の石山寺と七五三シーズンの日吉大社だけは休日はメチャ混みの予感がしたので、平日である金曜日中に行っておきたかったので。
 
 坂本で電車を降りたあと、日吉大社では奥宮がある八王子山にも登るつもりだったので、神社まで行ってしまうと大したものが食べられないかと思い、蕎麦屋で腹ごしらえをすることに。ちょうどお昼時でしたが客は一人もおらず、メニューも定食とかは一切なくて、サイドメニューで白御飯があるだけ。仕方がないので湯葉入りだと説明された「古代そば」というのを食べましたが(どのへんが古代なのかサッパリわかりませんでしたが、湯葉好きなので)物足りず、これでは途中お腹がすきそうだったので、途中にあった「芙蓉園」にも寄って、名勝の庭園そっちのけでがっつり近江牛の柳川膳を食べました。
 
 美味しかったのでよかったのですが、さすがに食べ過ぎだったので、これはガンバって歩いて消化せねばと思い、あとは寄り道せずに一路日吉大社へ。
 
 神社にはお寺のような入山料とか拝観料というものはないので、普通はお参りをするのにお賽銭以外のお金はかからないものですが、日吉大社は入苑協賛料という入場料が必要です。これを払わないと境内に入れず、したがって参拝することもできません。神社なのに入るのにお金が要る珍しい神社です。
 
 ということで、通常300円かかるところを一日乗車券の特典で1割引きしてもらい、270円を納めて境内へ。近江一宮である建部大社より敷地も広い大きな神社であり、膨大な管理費がかかるのは一目瞭然なので何の文句もありませんが、このシステムだと日参して願掛けするような参拝者はいないだろうと思いました。
 
 特にイベントがあるわけでもないのに、今回の遠征で日吉大社を訪れることにこだわったのは、神使――つまり、こちらの神様のお使いが猿だからです。この機会を逃すと申年の今年中に来るのは難しそうだったので。当社は神代研究において非常に重要な神社の一つなので、建部大社と同様にいずれ必ず行くと決めていましたが、猿にゆかりの深い神社なので、どうせ行くなら申年でしょと、何年も前から思っていて、あえて今まで訪れずにいました。近ければ毎年でも行けばいいので干支など気にすることもないのですが、残念ながら神奈川県民が頻繁に行ける距離ではないので。
 
 余談ですが、寅年には奈良の信貴山に行きました。干支の動物にゆかりのある寺社にその干支の年に行くと他の十一年と違うので得した気分になります。限定の記念品とかもありますし。日吉大社には申年の限定色である銀のおサルさんに入ったおみくじがあったので、そちらを引いてみました。実は、おみくじが入っている焼き物もコレクションしています。前述したように、土鈴も集めているためキリがないので、原則神使などを象ったものだけに限っていますが、集めてみると神使にも様々あることがわかり、おもしろいです。春日大社は鹿、石上神宮は鶏、等々――。いろいろな動物がいますが、けっこうヤタガラスが多いですね。熊野系と賀茂系の神々の神使なので。ユニークなところでは、京都の平野神社が挙げられます。神使はリスでした。日吉大社の神使であるおサルさんは「神猿」と書いて「まさる」といいます。ちゃんと神猿舎というのがあって、生きた猿が飼われています。
 
 神猿舎を通り過ぎると、大己貴神を祀る西本宮があり、他に大山咋神を祀る東本宮があります。『ホツマ』によれば、大己貴=オホナムチはソサノヲの子、一方の大山咋は、『ホツマ』ではヤマクイの名で登場しますが、血縁関係には触れられていないのでわからず。けれども、『古事記』によればソサノヲの孫なので、西本宮と東本宮の祭神の関係は伯父と甥ということになります。そして、大己貴といえば建部大社の権殿神……ということは、つまり琵琶湖の南――大津や石山あたりは大己貴と縁が深い土地ということでしょう。
 
 ちなみに『ホツマ』によれば、ヤマクイは「ヒヱの山」を作った人物。ヒヱの山とは、ヒヱ=ひえなので、比叡山のことです。そして、ヒヱ=日枝=日吉でもあるので、ヒヱの神=日吉の神=比叡の神――つまり日吉神である大山咋神ことヤマクイは比叡山の神ということです。何故ならこの山を作った人物だからで、もう少し現実的に言えば、この山裾を開拓した人物ということでしょう。比叡山の神であるヤマクイが鎮座する聖域だから、最澄はこの山を選んで延暦寺を開いたのだと思います。高野山もしかり。あそこは高野神が坐す聖域です。
 
 『古事記』によれば、大山咋神は別名を山末之大主神といい、近江の日枝山にいて、また、葛野の松尾にいるとのこと。日枝山の居場所が日吉大社であり、松尾の居場所が松尾大社ということです。「居場所」は、神となった今では鎮座地ですが、神になる前は住んでいた宮や殿だったのではないでしょうか。
 
 日吉大社は両本宮それぞれに摂末社があり、摂社が並の本社ぐらいの規模なので、とにかく広いです。御朱印も8種類あり、もちろん全部いただいたので、御朱印をいただいたからには全部お参りしようと思っていたのですが、八王子山登拝は挫折しました。牛尾宮と三宮宮の両遥拝所に挟まれた階段を上ったところで、誰もいない深閑とした先が見えない山道の参道に臆し、下りてきて遥拝所ですませてしまいました。磐座がある奥宮の場所こそが神社の本質であり、その起源を知るためには最重要とわかってはいるのですが、その時はそれ以上に気になることがあったので。
 
 ということで、とりあえず申年詣での目的は果たしたので、特別公開や紅葉まつりの時にでもまた来ればよいと思い、どうしても気になる「たけるくんストラップ」をもらいに建部大社に戻ることにしました。というのも、土鈴やおみくじ入りの焼き物、覗き瓢箪などを集めているので、寺社の御守り売り場はいつも隅から隅まで見ているのに(そうして神猿の土鈴も見つけたので購入)、「たけるくんストラップ」らしきものを目にしたおぼえがなかったからです。なので、「もしや、特典でしか手に入らない非売品かも」と思ったら、あきらめられませんでした。限定品に弱い人間なので。
 
 我ながらアホやねんと思いましたが、気になるものはいつまでも気になり、心身によくないのもわかっているので、こういう時はつまらないことに囚われ続けるほうがナンセンスと考えて、気がかりを解消するための行動をとるようにしています。なので、さっさと坂本駅に戻り、再び京阪電車に乗って南下。建部大社までの最短経路を調べたところ、ギリギリの乗り換え時間でしたが、石山駅からバスというのが一番早かったので、石山駅で降りてバス停へまっしぐら。建部大社バス停に止まるバスは1時間に1、2本なので、乗り遅れたら電車で唐橋前駅まで行って、そこから歩いたほうが早いという状況だったので、懸命に走りました。
 
 なんとかバスに乗れて、4時前に建部大社に到着。受付も開いていたので、無事にストラップをゲットしました。「こんな遠方まで来て、いったい何をやっているんだか」と少々むなしい気分になりましたが、気になることは解消されて、ストラップのたけるくんも可愛かったので、よしとすることにしました。
 
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たけるくんストラップ」。横長の顔とつぶらな瞳が愛らしいヤマトタケルノミコトです。
 
 用が済んだので石山駅行きのバス停に行きましたが、案の定当分バスは来ないので歩き出し、その日二度目の瀬田の唐橋を渡って唐橋前駅へ。ちょうど日暮れ時だったので、瀬田の夕照はこんな感じかと思いながら川を見ていたのですが、頻繁に行き交う新幹線が近江八景に数えられる景勝を台無しにしていました。
 
 唐橋前駅に着くと、最短で建部大社に行けたおかげで、思っていた以上に時間があり、4時半までに行けそうだったので、第14番札所の三井寺を目指すことに。
 
 三井寺駅で降りてから琵琶湖疏水べりを脇目もふらずに歩いたのですが、お寺に着いてみると、すでに入山料を払う受付は閉まっていて、係りの人は車で帰るところでした。「あと30分で閉門だけど入るの?」と訊かれたので、観音堂だけでもお参りしたいが間に合わないかと訊き返すと、「それなら行ける」と言って車から戻ってきて受付を開けてパンフレットをくれました。そこに地図が載っていたので、迷わず観音堂を目指し、お参りをして御朱印をいただき、来訪の目的である「浄土の鳥」を購入。三井寺は鸚鵡でした。
 
 当寺は天台寺門宗の総本山だけに境内は広く、5時までに一周することはとてもできないので、日吉大社を再訪したときにでもまたゆっくり来ようと思い、未練なく後にして、気になる隣の三尾神社に立ち寄っていると鐘の音が聞こえてきました。時間的に5時を告げる時鐘で、しみじみとしたいい音色でしたが、三井の晩鐘かどうかは不明。
 
 琵琶湖と洛東の山々に挟まれたこのあたりは太陽が隠れるのが早く、すでに日の入りを迎えていましたが、まだ明るかったので、最後に三つ隣駅の近江神宮へ行くことにしました。ここは神宮といっても伊勢神宮鹿島神宮香取神宮のような神代の聖跡ではないため、それほど時間はかからないと思ったからです。
 
 神々の聖跡ではありませんが、古代の重要な史跡であり、天智天皇が遷都した近江宮の跡に建てられたのが近江神宮です。よって当然のことながら、天智天皇が祀られています。ということで、祭神も疑いの余地はなく、由緒も明らかで、解き明かすような謎はないため、特に調べることもないので、紙で御朱印をいただいて早々に切り上げました。神名帳に載っていない、それ以後に創建された官国幣社御朱印は、朱印帳ではなく、ファイルに大社、中社、小社の順に並べて保存しているので。
 
 滞在時間は短かったですが、平日の夕暮れ時で人が少なかったため、静かな境内はいかにも聖域らしい雰囲気があり心地よかったので、十分に堪能しました。満足して近江神宮前駅に戻り、京阪電車石山駅まで行き(何度目?)、JRに乗り換えて草津駅へ。予期せぬ行程となり、北へ南へ行ったり来たりした上に、ずいぶん歩いたので疲れてはいましたが、お昼に食べ過ぎたせいか、お腹は減らず、まともな夕食を摂る気になれなかったので、駅構内のマネケンで季節限定のワッフルを買い、ついでにコンビニで缶チューハイを買ってホテルに帰着。これにて二日目終了です。