羽生雅の雑多話

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滋賀寺社遠征 その1~岩間寺、佐久奈度神社、立木観音

 時間がなくて、寺尾聡、佐野元春ビリー・ジョエルバリー・マニロウのCDを大人買いしたにもかかわらず聴けず。新聞も2週間ほど読めていない状態です。
 
 しかし、やりたいことはやります。特に、その時しかできないことは。
 
 先週の土日に、急きょ思い立って大津に行ってきました。
 
 今月末に京都に行く予定があるので、さてどこへ行こうかと特別公開などをネットで調べていまして、前回奥宮がある八王子山登拝を断念した日吉大社は、何か行事があれば再訪したいと常々思っていたので、ホームページを見ましたら、18日の八王子山登拝ツアーの案内を発見。それが三日前の15日のことでした。「うわー、明々後日だよ」と思いながら、珍しく観劇の予定もなかったので、定員30名に間に合ったら行こうと思い申し込んだら、まだ大丈夫とのこと。滋賀を巡るときや京都のホテルが取れないときに定宿にしている草津のホテルも取れて、天気も問題なさそうだったので、エクスプレス予約で新幹線の切符を手配。下記の理由のもと、「これは行くしかないでしょ」ということで、決行しました。
 
理由①昨年秋、建部大社の「たけるくんストラップ」の誘惑に負けて、神社の真髄は奥宮にあると知りながら八王子山登拝を断念している。
理由②登拝ツアーは神職の案内付で、祭りの時ぐらいしか入れない牛尾宮、三宮宮、奥総社の内部拝観ができる。
理由③登拝ツアーは次回未定で、仮に来月、再来月に開催されたとしても、暑くて登山はきつい。
理由④コレクションをしている「浄土の鳥」の残り一つを販売している西国三十三所第12番札所の岩間寺は、公共の交通機関ではアクセスが悪くて行けずにいたが、縁日の毎月17日に石山駅から無料のシャトルバスが出ている。
理由⑤17日が仕事のない土日にあたっていることはめったにない。
 
 以前記事にも書きましたが、最近は腰が重くて三つ四つの理由がないと動きませんが、裏を返せば、三つ四つ以上の動機があれば動くということで、どんなに時間がなかろうが捻出して行動することにしています。貴重な機会なので。
 
 ということで、前日の16日夜には銀座でフレンチを食べる約束があったので、週末は予定を入れなかったというか、予定がないから食事の約束をしたのですが、ワインをシャンボール・ミュジニーの1本にセーブし、なんとか翌朝起きて、予約した新幹線に乗りました。
 
 この日の最初の目的地である岩間寺は、最寄りの路線バスのバス停から徒歩50分という、たいへん行きにくい場所にあるのですが、毎月17日の縁日には石山駅から無料のシャトルバスが出ます。なので、昼過ぎに京都駅に到着したあと、在来線で京都から石山まで行き、駅構内のコインロッカーに荷物を預けて、観光案内所でバス乗り場の場所を聞き、石山駅13時発の岩間寺シャトルバス最終便に乗車。お寺が貸し切っているらしきバスなので、ノンストップの直行で、お寺のバス乗り場に30分ほどで着きました。
 
 帰りの石山駅行のシャトルバス最終便は14時発なので、さっさと入山料を払って、まずは御朱印授与所へ。現在、西国三十三所は草創1300年記念事業の一つで、各寺オリジナルの特別印がいただけるので、御朱印とともにそれをいただいてから、ゆっくりと観音様にお参りしました。
 
 岩間寺の御本尊は千手観音。当寺は、奈良時代の女帝、元正天皇勅願寺で、御本尊も同天皇の御念持仏が胎内に納められてお祀りされたという由緒正しき観音様です。永井路子さんが書かれた『美貌の女帝』という小説が大好きなので、実に感慨深いものがありましたね。
 
 さらに驚きだったのは、この寺の本堂横にある池は、俳聖・松尾芭蕉が「古池や蛙飛びこむ水の音」の句を詠んだと伝わる場所だったことです。
 
 意識して足跡を辿っているわけではないのですが、私の行く先々には芭蕉の句碑があります。平泉の中尊寺立石寺は言うまでもなく、日光東照宮、那谷寺、三井寺などという有名どころはもちろんのこと、京都の上御霊神社御香宮神社、大津の天孫神社、瀬田の唐橋、果ては小松の多太神社、岐阜の妙照寺などという、知る人ぞ知る地味な寺社にも句碑がありました。今回もそうとは知らずに行き、「ああ~、こちらのお寺だったのですね、あの名句が生まれたのは」と感動しつつも、またもや後塵を拝するかという気になりました。ああ、偉大なる旅人、芭蕉翁。自分の数々の旅路を思い返せば、おのずと尊敬せざるを得ない御方です。
 
 お参り後、岩間寺参拝の一番の目的である「浄土の鳥」を購入。最後は白雁でした。もう二つしか残っていなかったので、感無量でした。
 
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コンプリートした「浄土の鳥」
 
 「浄土の鳥」というのは、西国三十三観音の中でも近江国にある六つの札所が限定で作っている鳥型の土鈴なのですが、これでついにコンプリートと相成りました。長命寺、法厳寺、観音正寺石山寺三井寺、そして岩間寺です。このコレクションによって、古寺巡礼というのは本当に大変だということがよくわかりました。
 
 西国三十三所草創1300年記念の企画は、特別拝観の他、特別印授与、スイーツ巡礼などがあります。岩間寺のスイーツは葛きりで、ひと皿100円で食べさせてくれたので、いただきました。
 
 そのあたりでいい時間になったので、境内を後にしてバス停に行き、シャトルバス最終便で石山駅に戻り、路線バスに乗り換えて、近江国名神大社の一つである佐久奈度神社へ向かいました。
 
 この神社は瀬田川から信楽川が分かれる分岐点の川沿いにあります。御祭神は、瀬織津姫尊、速秋津姫尊、気吹戸主尊、速佐須良姫尊の四神。いわゆる祓戸の神と呼ばれる神々で、この世の罪穢れを払うとされていて、大きな神社の入口には必ずと言っていいほど祀られている神々です。大祓詞の中にも名が出てきますので、一般的にはあまり馴染みのない神かもしれませんが、たいへん重要な神です。近江の一宮は日本武尊主祭神として祀る建部大社ですが、個人的には建部大社よりも重要で、一宮と同じ名神大社という社格も当然の神社だと思っています。
 
 現在は四神で「佐久奈度神」とされ、「サクナド神」と言いますが、佐久奈度=佐久奈渡=サクナタリで、『古事記』や『日本書紀』より古い、漢字渡来以前の史書である『ホツマツタヱ』には「サクナタリセオリツヒメ」という神が出てきます。つまり、「サクナタリ」はセオリツヒメに冠せられる詞なので、「サクナタリ神」とはセオリツヒメ=瀬織津姫――すなわち瀬織津姫尊のことになります。そして『ホツマ』によれば、瀬織津姫は、アマテル=天照のキサキ=后です。
 
 天照大御神アマテラスオオミカミとして知られるアマテル=天照には、正妃である皇后の他、12人の妃がいましたが、そのうちのハヤアキツヒメ=速開津姫が速秋津姫尊のことで、まだ検討の余地はありますが、おそらくマスヒメ=益姫とコマスヒメ=小益姫の姉妹が速佐須良姫尊のことではないかと思っています。
 
 天照の子供は五男三女ですが、そのうちの三男三女はこの四人の妃が生んだ子供になります。神話化されている記紀では、アマテラスとスサノオの誓約によって剣や珠から生まれたことになっていますが、そんなことは現実的にはあり得ないので、もちろんそれぞれの子供に母親がいます。
 
 皇后であるセオリツヒメホノコ=瀬織津姫ホノ子は次男のオシヒト=オシホミミを生みました。オシホミミ=忍穂耳なので、記紀に登場する天忍穂耳のことです。八代天君・天照の跡を継いだ九代天君で、死後に贈られた神名は「ハコネカミ(箱根神)」。よって、彼が箱根神社の元々の祭神ということになります。
 
 ハヤアキツヒメアキコ=速開津姫(速秋津姫)アキ子は三男のタタキネ=アマツヒコネを生みました。アマツヒコネ=天津彦根なので、『日本書紀』に登場する天津彦根尊のことで、伊勢二宮の多度大社の祭神です。ハヤアキツヒメの「アキ」は、佐久奈度神社の祭神名にも見られるように、「秋」の字をあてられることが多いのですが、八潮が会う場所にいて、海を開いて罪穢れを呑み込ませる神ですから、『延喜式』に記載されている大祓詞にある「開」のほうが妥当だと思っています。
 
 マスヒメモチコ=益姫モチ子は長男タナキネ=ホヒを生みました。ホヒ=穂日で、『日本書紀』に登場する天穂日尊のことです。能義神社の祭神で、出雲大社宮司は彼の末裔になります。
 
 マスヒメ=益姫の妹であるがゆえにコマスヒメ=小益姫と呼ばれたハヤ子はオキツシマヒメタケコ、ヱツノシマヒメタキコ、イチキシマヒメタナコの三つ子の姉妹を生みました。オキツシマヒメタケコはオキツシマヒメ=奥津島姫なので、『古事記』に登場する奥津島比売命――つまりは多紀理毘売命のことで、『日本書紀』では田心姫になります。ヱツノシマヒメタキコはヱツノシマヒメ=江津之島姫、タキコ=湍子なので、『古事記』に登場する多岐都比売命のことで、『日本書紀』では湍津姫になります。イチキシマヒメタナコはイチキシマヒメ=市杵島姫なので、『古事記』に登場する市寸島比売命のことで、『日本書紀』では市杵嶋姫となります。それぞれ竹生島の都久夫須麻(竹生島)神社、江の島の江島神社、宮島の伊都伎島(厳島)神社の元々の祭神です。『ホツマ』によれば、オキツシマヒメには「タケフカミ(竹生神)」、ヱツノシマヒメには「ヱノシマカミ(江の島神)」の神名が贈られ、イチキシマヒメは「イツクシマミヤ(厳島宮)」で神となった――そうですから。
 
 三姉妹は、現在は宗像大社の祭神として知られていますが、宗像神社(現・宗像大社)に元々祀られていたのは、当然のことながら宗像神です。三姉妹の実母であるコマスヒメは、アマテルの弟のスサノオと密通し、兄に代わって天下を取れとけしかけましたが、その謀反は発覚して、皇后になったセオリツヒメを妬んで殺そうとしていた姉のマスヒメとともに宇佐に流されました。その宇佐の宮跡が宇佐神宮です。その時に三姉妹も一緒に流されましたが、母と伯母は彼女たちを置いて故郷に帰り、アマテルに反旗を翻すたくらみを始めました。そのため、残された三姉妹は、母たちが天君の宮から追われた後に新たに妃の一人となった、九州出身のトヨヒメ=豊姫に託されました。このトヨヒメがムナカタ=宗像の娘だったので、その縁が転じて、後世宗像神社に祀られることになったのではないでしょうか。そして、上記の話は記紀にはなく、確認できる文献としては『ホツマ』のみが伝えるところですが、真実、三姉妹が宇佐の宮跡にいたからこそ、宇佐神宮には比売大神の祭神名で彼女たちが祀られているのだと思います。
 
 ちなみに、トヨヒメはアマテルの五男クマノクスヒを生みました。クマノクスヒ=熊野樟日なので、『古事記』の熊野久須毘命、『日本書紀』の熊野●樟日尊のことです(●は木偏に豫)。彼は「ナチノワカミコ(那智の若御子)」と呼ばれているので、熊野那智大社の元々の祭神ということになります。ならば、当社の現祭神である「熊野夫須美神」の正体は彼であろうと、私は考えています。
 
 以上のような『ホツマ』の考察と検証が神社巡りの最大の目的なので、つい話が逸れましたが、遠征記に戻りますと、佐久奈度神社では、宮司さん手作りの朱印帳が売っていて、本殿のお社が刺繍で表現されたとても素敵な物だったのですが、持ってきた朱印帳御朱印をお願いした後だったので、同じく刺繍で神紋とタイトルが施された布貼りの大祓詞の蛇腹本を購入。大祓詞は、すでに春日大社や丹生都比売神社でいただいたものが手元にあるのですが、神社によって少々文言が異なったりするので、祓戸の神の本拠地に残されている文言は無視できないだろうと思い、入手しました。
 
 その後、少し離れたところにある御旅所に寄って、一応その日のノルマは終了だったのですが、まだ陽が高く4時ぐらいだったので、近くの立木観音へ行くことにしました。このお寺のことは知らなかったのですが、スマホで調べたら、弘法大師開基の古刹とのことだったので。
 
 十分に時間があると思ったのですが、参道の石段が800近くもあって、登りはじめてすぐに後悔しました。お寺の社務所はだいたい5時ぐらいまでで、入山料を取るところは30分前には閉まるのですが、半分ほど来たところで、どうにもギリギリな感じ。ここまで登ってきて間に合わなかったら泣くに泣けないと思ったので、キツいのに歩調をゆるめることができず、水も切らしていたので、境内に着いたときには足はガクガク、呼吸はゼエゼエ、汗はダラダラで、声も出せない状態でした。しかし、お守り売り場などは片付けを始めていたので、根性で社務所へ行き、とりあえず御朱印をいただきました。待つあいだ、あんなにゼエゼエしている人間も稀だったと思います。
 
 それから観音様にお参りし、何か飲んでひと休みしようと思ったのですが、見渡しても茶屋はおろか自動販売機一つなかったので、石段を下る前にどうしようかと思っていたら、休み処にお茶を発見。まさしく観音様の御加護と思いました。
 
 お茶は熱かったので、ガバガバとは飲めませんでしたが、なんとか人心地つき、本当に生き返る気分だったので、志納でしたが100円を置いて下山。足はまたすぐにガクガクになりましたが、喉を潤すことができたので、帰りは息切れせずにすみました。
 
 立木観音前から路線バスで石山駅に戻りましたが、目的地が終点で、30分ほどかかったので、ほぼ熟睡状態。石山からホテルを取った草津に出るためJR線に乗ろうとしたところで、ロッカーに荷物を置いていたことを思い出し、駅員さんに頼んで改札外に取りに行かせてもらいました。
 
 その後はまっすぐホテルに行って、コンビニで夕朝食を買い、さっさと部屋で休むつもりでしたが、我ながらよほど疲れているのだろうと思ったので、翌日の登拝に備えて力をつけるため、夕食は奮発して肉を食べることにしました。滋賀なので近江牛が食べたかったのですが、近くの店で見あたらなかったのでフォアグラで手を打ち、ホテルにチェックインして日程終了です。