羽生雅の雑多話

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祝・生誕450年~先祖は料理の神様!? 「鄙の華人」伊達政宗

 先月の勤労感謝の日の休日に、久しぶりに仙台へ行ってきました。今年は伊達政宗の生誕450年の記念の年なので。

 
 東日本大震災後、機会があれば東北に行くようにしていたので(JRのデスティネーションキャンペーン中とか)、数年前まではわりと仙台にも頻繁に行っていたのですが、行きたいところは行き尽くした感がありまして、しばらく足を向けていませんでした。
 
 なので、政宗の記念の年なら行くかと7月ぐらいにイベントを調べたのですが、その時はめぼしいものがなかったので重い腰が上がらす――だったのですが、11月にリリースされた、とあるスマホゲームがきっかけで、改めて政宗のことを調べたら、やっぱりおもしろい人物で、しかも10月7日から11月27日まで仙台市博物館伊達政宗展をやっていることがわかったので、急きょJR東日本トクだ値で割引切符を手配し、行ってきました。金曜土曜は予定が入っていたので日帰りでしたが。
 
 で、またまたやってしまいました、財布忘れ。トホホホ……ホントもうダメです。でも慌てません。経験値がありましたから。しかも行き先はJR東日本管轄、Suicaも使えます。一日現金を入れる財布がないだけです。そもそも忘れないのが一番いいことなので、経験値があるのがいいのか悪いのかわかりませんが、今回は助かりました。経験はどんなつまらないことでも、いつかどこかで役に立つ典型的なパターンでしょうか。
 
 ということで、大宮駅で新幹線に乗車する前にビューアルッテへ。西行きの新幹線は品川駅、北行きの新幹線は大宮駅から乗るので、東京駅や上野駅にはほとんど行きません。
 
 「ビュー・スイカ」カードのキャッシングで無事に現金をゲットし、いつものようにスタバでコーヒーを買い、さらに今回は日帰りのためランチの時間がもったいなかったのでブランチにして、車内で食べる駅弁を調達。駅弁屋に厚岸駅の「氏家かきめし」があったので買いました。品川駅では地元の「貝づくし」を買うのですが、大宮駅の駅弁は知りません。
 
 かきめしを食べて、10時前に仙台駅に到着。仙山線に乗り換え、北仙台駅で降りて、まずは政宗が「武振彦命」の祭神名で祀られている青葉神社にお参りしました。家を出た時はけっこうな雨降りだったのですが、仙台に着いたら止んでいたのでラッキー。
 
 この日、青葉神社では新蕎麦奉納の神事があるらしく、無料のお振る舞いをやっていたので、いただいてきました。その場で打っている手打ち蕎麦だったので、美味しかったのですが、かきめしを食べたばかりだったので、一杯でお腹がいっぱい(注、駄洒落)。「おかわりをどうぞ」と言われたのですが、残念ながら二杯はとても入りませんでした。知っていたら、かきめしを食べなかったのに……と思いましたが、概してそんなものです。
 
 仙山線で仙台駅に戻り、その日見られるイベントの情報を得るため駅構内の観光案内所に立ち寄ると、羽織袴姿のユヅのポスターが。仙台市の観光PRポスターで、そういえば仙台出身だったなと思いつつ立ち止まって見ると、目に入ってきた「伊達を生きる。」というキャッチフレーズ……いやはや、8~9等身の羽生結弦サンは仙台平の袴もよく似合っていてカッコよかったですが、伊達男という感じではないなと思いました。
 
 旅程を変えるようなイベントもなかったので、当初の予定どおり「るーぷる仙台」という市内観光バスでまわることにし、バス乗り場で一日乗車券を購入。事前に政宗生誕450年記念の限定バージョンがあるという情報を得ていたので売り場のおねーサンに訊いたところ、バスのみの620円の券はもう限定枚数を超えてしまったのでないけど、900円の地下鉄との共通券ならあるというので、そちらを買いました。その時は地下鉄に乗る予定はなかったのですが、結果的には乗ることになったので、各施設の優待料金も含めれば、十分に元は取れました。
 
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 正面に兜の前立ての三日月、側面に陣羽織の山形文様をあしらったデザインのバスに乗り、瑞鳳殿前のバス停で下車し、瑞鳳殿へ。
 
 瑞鳳殿政宗の御霊屋、すなわち墓所です。ただし、御霊屋自体は一度空襲で焼けてしまい、現在の建物は昭和56年に再建された比較的新しい建物なので、あまり興味は湧かず。とはいえ、建物の下には今も政宗が埋葬されているので、手を合わせてきました。
 
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瑞鳳殿入口の紅葉

 御霊屋の再建にあたって発掘調査が行われていて、残っていた遺骨や遺髪などから再現された政宗の容貌像や副葬品の復元品が隣の資料館に展示されているのですが、今回は生誕450年を記念して、「政宗公が愛した文房具」と題した企画展示が行われていました。舶来の鉛を先に付けて日本で作られたと思われる鉛筆や、筆先が見えるように窓部分がある漆塗りの筆入れの復元品などが並んでいて、どれも興味深く、少ない展示でしたがおもしろかったです。
 
 資料館を見たあと、二代藩主忠宗、三代藩主綱宗の御霊屋も巡って、再びるーぷる仙台に乗り、一つ先の博物館・国際センター前のバス停で降りて、今回の主目的である伊達政宗展を開催中の仙台市博物館へと向かいました。
 
 2時間近くもかけて見た特別展は久しぶりでした。けれども、おかげで何故私が政宗に興味を持つのか、よくわかりました。とにかく多趣味なんですよ、この人。
 
 舶来物好きで派手好き、「伊達者」の語源と言われるぐらいで(言葉自体は政宗以前からあったようですが)で、戦国武将で傾奇者といえば、織田信長前田慶次郎伊達政宗と言われます。しかし政宗はただの傾奇者ではありません。和歌は詠むし漢詩も作るし、書は書きまくり、筆まめを通り越した手紙魔で、よほど自分の手蹟に自信があったのか、屏風などにもやたら書き散らしています。今回も多数展示されていましたが、政宗が発給した文書は4500通余り知られていて、自筆書状がそのうちの1500通ほどとのこと。それが今でもほとんど原文で残っているのです。
 
 その他、能楽香道、茶道にも造詣が深く、家臣を能役者に育てて、香木を収集し、自分で茶杓までこしらえています。
 
 茶だけでなく料理も得意で、みずから献立を考え腕を振るうのはもちろんのこと、兵糧の開発にも励み、長期にわたる朝鮮出兵で他武将陣営の味噌は腐ったが政宗陣営の味噌は長持ちしたと評判になった味噌を作らせ、それが仙台味噌の始まりとも言われています。また、政宗文書の中には朝夕の献立を書いたものとかもあります。政宗の晩年の逸話を集めた『命期集』に「馳走とは旬の品をさりげなく出し、亭主みずから料理してもてなすことである」という彼の言葉があるそうで(未確認)、その言葉どおり、三代将軍家光を江戸屋敷に招待したときには、献立のすべてを考案し、みずから味見をして膳を運んだとのこと。家光は感激し、「伊達の親父殿」と呼んで、平素より親しんでいた政宗が亡くなったときには、父秀忠を失ったとき以上の落胆ぶりだったとか。
 
 ちなみに、伊達家の氏は藤原氏で、藤原山蔭を祖と称しているのですが、山蔭は平安時代前期の人物で、「名にし負はば 逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな」の歌が百人一首に採られている歌人でもある三条右大臣こと藤原定方の舅になります。つまり、醍醐天皇の叔父の妻の父です。現代では主に吉田神道発祥の地である京都の吉田神社の創建者として知られています。山蔭は清和天皇の側近で、光孝天皇の時代には中納言という高位の公卿でしたが、光孝天皇の命により新たな庖丁式(料理)を編み出した四条流庖丁式創始者ということで、吉田神社末社である山蔭神社に料理の神として祀られていて、料理人たちの信仰を集めています。すなわち、伊達家が山蔭の末裔なら、政宗は料理の神様の子孫ということになるのです。おもしろいですね。
 
 そんな趣味人である政宗のことを、かつて豊臣秀吉は「鄙の華人」と賞したそうですが(微妙に失礼な言いようのような気もしますが……)、他方では「独眼竜」とも呼ばれた武将なので、インドア系だけでなく、鷹狩や川漁などのアウトドア系の趣味も好みました。
 
 政宗の凄いところは、こんなに多趣味なのに、趣味に生きる文化人という名の遊び人や楽隠居だったというわけではなく、江戸開府前は15歳の初陣以来、戦に明け暮れた歴戦の猛将で南奥羽の覇者であり、江戸開府後は前田、島津に次ぐ大藩62万石を治める領主で、治水などの街づくりにも長け、現在「杜の都」とも称えられる東北唯一の政令指定都市である仙台の街を開いた、指折りの有能な政治家でもあったことです。
 
 しかも世に広く知られているとおり、彼は隻眼です。戦場で生き残るのも、芸を身に付けるのも人一倍努力が必要だったと思います。それでもこれだけの事績を残しているのは、見たい、やりたいと思ったことを、見ずに、やらずにはいられなかったからでしょう。発掘時の調査で行われたDNA鑑定により政宗はB型だったことがわかっているのですが、典型的なB型人間だと思います。自分もそうだと思っていますが(笑)。いわば、私も政宗もあきらめが悪い人間なのです。隻眼だからだとか、お金や時間がないからといって、理由が何であれ、止め立てする人もない己が望むことを成し得ないというのが許せないというか、座りが悪くて落ち着かない状態でストレスが溜まるというか……それゆえ共感を覚えるのでしょう。特に政宗は伊達家の十七代、下剋上の時代とはいえ、奥州のそれなりの名門の城主の嫡男として生まれ、成り上がりの秀吉などより幼少時からプライドが高かったでしょうから、隻眼ゆえに人に劣るというのも許せなかったでしょう。
 
 ミュージアムショップで図録と政宗騎馬絵のクリアファイル、そして既刊未刊含めて76巻まであるらしい大崎八幡宮が発行している仙台・江戸学叢書を吟味して1冊買ったあと、青葉城址まで歩き、仙台城見聞館、伊達政宗騎馬像を見て、青葉城資料展示館へ。

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ご存知、伊達政宗騎馬像(昼バージョン)
 
 展示館のシアターでは、ハイビジョン新CG映像「謹製仙臺城~だって、本丸だもん」という番組が上映されていて、16分ほどの内容なのですが、これが中々におもしろくて、2回見てしまいました。修業中の枝豆と名乗る「まめぼーず」が案内人で、CGで再現された仙台城の外から中まで体験できます。いかにも政宗らしい派手さと手堅さを兼ね備えた城であることがよくわかりました。

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青葉城資料展示館のパンフレットより「まめぼーず」。最初は「何故に枝豆?」と思いましたが、仙台の名産品であるずんだ餅の原料であることに思い至り、納得。
 
 予定外のリピートで、シアターを出ると閉館時間も迫っていたので、急いで展示を見てまわり、階下に降りて出口に向かいながら1階に何軒か入っている土産物屋を覗くと、仙台か山形に来たときには必ず買って帰る「萩の月」をバラで売っていたので購入。自分で食べるために買うので、箱は不要な上に箱入りは嵩張るし量も多いので、いつもは確実にバラ売りをしている駅ビル――エスパル内の地下に入っているお店で買うのですが、ここでもバラで買えたので。地方土産の銘菓といえば、「萩の月」「かもめの玉子」「博多通りもん」「三方六」「雷鳥の里」「日光甚五郎煎餅」――これらは基本的に自分用に買いますから、東京で見つけても買います。
 
 「萩の月」をゲットし、エスパルの地下に寄る必要がなくなったのでラッキーと思いつつ展示館を出ると日が暮れていて、政宗騎馬像もライトアップされていました。改めて近くまで見に行ったのですが、いやはや……なんだかやたら色っぽい怪しげなライティングでした。
 
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ご存知、伊達政宗騎馬像(夜バージョン)
 
 帰りは6時半過ぎの新幹線で、まだ5時前だったので、社務所は閉まっているけど神社なので大崎八幡宮には寄れるかと思いつつ、るーぷる仙台のバス停に行ったら、誰もいない上に照明も落ちていて真っ暗。暗い中で時刻表を見ると、最終が4時20分台で、その日の運行がすでに終わっていました。「一日乗車券で優待される資料館の閉館時間まで見ていたら間に合わないなんてアリ?」とやや憤りを感じながらも、現実問題さてどうやって仙台駅まで戻ろうかと悩み、考えていても方法は限られているので、仕方なく徒歩で青葉山を下りて、最寄り駅である地下鉄の国際センター駅まで歩くことに。山下りだったので、20分強で駅に着きましたが、要注意ですね。
 
 地下鉄では使う予定のなかったるーぷる仙台・地下鉄共通一日乗車券で改札を入り、電車に乗ってしまえば3駅なので、5時半過ぎには仙台駅に到着。「萩の月」もすでに手に入れ、出発時間まで1時間近くあったので、時間があったらいつも寄っている仙台駅3階にあるすし通りのお店で早めの夕食を摂ることにしました。青葉神社のお振る舞いの蕎麦のあと、まともなものを食べていなかったので、手始めに日本酒と大好きな生ガキを地元産の食べ比べで頼み、フカヒレの入ったにぎりセットをいただいて、6時20分ぐらいにお店を出て、改札を入りホームへ。

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宮城の3産地の生ガキ。志津川がおいしかったです。

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にぎり寿司セット。フカヒレの大きさが半端ではありません。

 帰りの車中では、デザート代わりに「萩の月」を食べつつ、博物館で買った『仙台藩に彩りを添えたお姫さま』を一読。著者は伊達家の人のようですが、手紙魔だった政宗は文がたくさん残っているからこういう研究もさかんで、多趣味ぶりも含めて、彼を取り巻くいろいろなことがわかるからおもしろいのだと、かつ、その判明した人物像が魅力的だから人々を惹きつけてやまないのだろうと思いました。個人的に今回おもしろかったのは、三日月の前立てに深い意味があることがわかったことでしたが。

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今回購入した『仙台藩に彩りを添えたお姫さま』と、確か松島で買った『五郎八姫物語』。五郎八姫は徳川家康の息子に嫁いだ政宗の長女です。

 兜には月、そして旗には日の丸、旗印の日輪は密教金剛界を表し、半月輪を用いた前立ては胎蔵界を表すそうで、つまり兜と旗でワンセットで曼荼羅世界を表しているわけです。
 
 それと、今回の展示で、政宗はずいぶん月が好きだったのだと思いました。前立てが三日月だったからかはわかりませんが、ずいぶん多くの月の歌を詠んでいます。辞世の歌も「曇りなき 心の月を先立てて 浮き世の闇を照らしてぞ行く」ですし。
 
 暗い闇夜で行き先を照らしてくれる月は、一寸先も見えない闇夜のような状況に置かれている人間には、ことのほか特別な存在のようです。政宗も、まさに闇夜のような戦国の世を生き、光のない中でも、迷いのない自分自身の心を指針とし、進むべき先を照らす月として、道を見失わずに生きてきた、ということでしょう。
 
 「心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」と詠んだのは、藤原道長の甥でありながら、在位中彼の圧迫を受け続けて苦しんだ三条院で、昔宮中で見た月を懐かしがったというよりは、暗いうき世を照らす月のような存在を欲した歌のように思われます。
 
 ですが、政宗や、あるいは討ち入り後に「うき世の月にかかる雲なし」と詠んだ大石内蔵助のように、この世は「うき世」――つまり「憂き世」であり「浮き世」であると、苦しくて儚い世だと認めつつも、それでもこの「うき世」という闇を照らす月を見出せる人間は、人間的に強くて、他人を惹きつける吸引力があるのだと思います。それが現代人をも魅了する伊達政宗大石良雄という人物の魅力の源なのかもしれません。伊達政宗展も老若男女で混んでいて、「どれだけ政宗スキーがいるんだ」と思いましたからね。