羽生雅の雑多話

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東京寺社巡り~布多天神社、深大寺、青渭神社

 本日は節分だったので、豆まき式に行ってきました。

 
 今年はどこに行こうか悩みましたが、夕方5時から東京フォーラムで観劇予定があったので、それに間に合うように近場で、かつ、まだ行ったことがない式内社ということで、東京都調布市にある布多天神社に行くことにしました。長らく式内社を巡っていますが、小さな神社だと普段は社務所が閉まっていたり無人御朱印も由緒書きももらえなかったりするので、行事があればなるべくそれに合わせて行くようにしています。
 
 ネットで調べると、12時30分から16時30分までのあいだ30分おきに豆まきをするとのことなので、12時前に京王線調布駅に到着し、駅から徒歩で神社へ。
 
 5分ほどで着くと、鳥居の前で恵方巻を売っていて、参道では食べ物の屋台の他にアンティークを扱う露店が出ていて骨董市みたいなものが開かれ、想像していたよりも賑やかな様子でした。境内では甘酒のお振る舞いがあったので1杯いただき、拝殿の前に人が並んでいたので、社務所朱印帳を預けてから列に並んでお参り。朱印帳を引き取ったあと、続いて本殿脇に並んでいる末社に参拝。
 
 社務所でいただいた由緒書によると、当社の創建は、社伝によれば、11代垂仁天皇の時で、現祭神は少名毘古那神と菅原道真公――ということは、道真を祀ってはいますが、社名である「布多天神」の「天神」というのは、どう考えても道真ではないということになります。となると、もう一人の祭神である「少名毘古那神」こと少彦名命のことなのか、はたまた、まったく別の神なのか……実に興味深いと思いました。
 
 それというのも、式内社というのは平安時代の60代醍醐天皇の時に当時の政権トップだった藤原時平たちによって編纂が始まった延喜式に記載されている神社のことなのですが、当社はこのときすでに今と同じ「布多天神社」の名で記されているからです。それはすなわち、「布多天神」と呼ばれる神がこの時点ですでに存在したということになります。
 
 ところが、道真はといえば、醍醐天皇の時には右大臣の官職にあり、左遷されて太宰府で亡くなったあとに、祟りを恐れた人々によって神格化され、天神として祀られるようになりました。なので、道真は「布多天神」には成りえません。そもそも道真は、当社のホームページによると、文明9年(1477)に多摩川の洪水を避けて現在地に遷座されたときに配祀されたとのこと。つまり、戦国時代に祀られた祭神なのです。
 
 正体不明の「布多天神」に関するヒントが、もしかしたら摂末社にあるかと思い、家族連れが去るのを待って社殿に近寄り、改めて社名を確認。稲荷社と、その隣は大鳥神社金刀比羅神社の社名が併記されていて、さらにその隣の同じ大きさの小さな祠は御嶽神社、祓戸神社、疱瘡神社でした。いずれも祭神名は書かれていなかったので正確なところはわかりませんが、本社と照らし合わせれば、稲荷神は宇迦之御魂神、大鳥神は日本武尊、金刀比羅神は大物主神、祓戸神は祓戸四神、疱瘡神社の祭神については不明ですが、疫病神を祀ったものと思われます。
 
 御嶽神社は、国常立尊大己貴命少彦名命、あるいは日本武尊を祭神とするところもありますが、日本武尊大鳥神社の祭神であり、大己貴命は別名とされる大物主神を金刀比羅神として祀っていると思われるので、当社における御嶽神社の祭神は国常立尊と考えられます。そして、それならば「布多天神」とはこの国常立尊のことではないかという気がしました。というのも、国常立尊という神は記紀にも登場し、『ホツマツタヱ』では“天神”の初代とされているからです。
 
 『ホツマ』によれば、天下を治める神が天君=アマキミと呼ばれるようになったのは、夫婦で治めるようになった四代目からで、初代から三代までは天神=アマカミと呼ばれていました。ちなみに、七代天君がイサナギとイサナミ、八代天君がアマテル、10代天君がニニキネ、十二代天君がウガヤフキアワセズで、ウガヤフキアワセズの子が初代神武天皇であり、11代垂仁天皇の子が12代景行天皇で、大鳥神社の祭神である日本武尊は彼の息子になります。すなわち、垂仁天皇の頃に初代天神である国常立尊が祀られ、のちにこの地で疱瘡が流行ったため、それを鎮めるために、また二度と流行らないことを祈願して、薬の神である少彦名命が祀られ、その時に併せて祓戸神と疱瘡神が祀られ、少彦名が国造りを手伝ったとされる大己貴も祀られた――ということではないでしょうか。
 
 その後、日本武尊がこの地に立ち寄ったので、彼も祀られることになったのでしょう。日本武尊は東国征伐をしているので、関東や東北のあちこちに足跡が残り、ゆかりの地にはほとんどと言っていいほど神社が建てられています。おそらく当社もその一つと思われます。
 
 12時半になったので、豆まきが行なわれる神楽殿の前へ。お子様連れとお年寄りには勝てないので、そんなに前のほうには行けないため、豆は取れず。まあ、最初から取れるとは思っていなかったので、特設テントで販売していた福豆と枡のセットを買い、御札とともに福引券をくれたので福引をし、残念賞のチップスターをもらって、次の目的地――深大寺へと向かいました。

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有名人のゲストなどいない、地元民と思われる方々による豆まきでした。
 
 調布駅前に戻ってバスに乗り、深大寺バス停で下車。こちらの豆まきは第2回目が13時半からだったので、参道の鬼太郎とねずみ男は無視して、本堂前へ。
 
 深大寺は元三大師良源ゆかりの寺であり、元三大師は「鬼大師」、「豆大師」とも呼ばれているので、深大寺の豆まきには行かなきゃイカンだろうと思い、何年か前にも来たことがあるので、その時の教訓を生かし、今回は本堂前に設置された特設ステージの前ではなく、ステージを真横から見る位置で待機。ステージ上で行われる生演奏などは斜め後ろからしか見えませんが、福豆は正面だけでなく、左右両側にも投げられるので、飛んでくることは前回確認済み。自分のところに落ちてくるかはわかりませんが。
 
 女子学生たちによる和太鼓の演奏が終わって、住職や豆まきゲストらの挨拶があり、注意事項が述べられて、ようやく豆まきが始まりました。本堂前のステージ左側にいましたが、メインゲストではない着ぐるみのゆるキャラが投げてくれた福豆の袋をゲット。初めて豆まきで福豆を取ることができました。

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緑が国税庁キャラクターのイータくん、オレンジが警視庁キャラクターのピーポくん、青のヘルメットをかぶっているのが東京消防庁キャラクターのキュータくんだそうで……まったく知りませんでしたが、取れた福豆は、この三人のうちの誰かが投げてくれたものです。ありがとう。
 
 福豆は一つ取れれば十分なので、後ろの人に場所を譲って人垣から抜け、釈迦堂に白鳳仏を拝みに行きました。
 
 白鳳仏こと釈迦如来像は昨年国宝に指定され、今年の3月末までは無料で拝観できますが、4月からは有料拝観になるそうです。小さい御仏像でしたが、興福寺の国宝の仏頭を思い出させる、涼やかな若者の御顔でした。
 
 豆まき前の注意事項で、福豆が取れなかった人のために終了後に豆を配るので、押し合い圧し合いしないようにと言っていたのですが、釈迦堂を出ると、その言葉どおり豆を配っていたので、せっかくなので並んでもらいました。まるで配給の列のようでしたが。枡ですくって景気よくひと枡分――苦労して取った福豆袋の何倍もの豆をくれました。
 
 すぐには食べきれない量だったので、もらった豆は予備のハンカチにティッシュを敷いて包んでしまい、残念ながら名物の蕎麦を食べている時間はなかったので、参道で野沢菜のおやきを一つ買って食べ、バスに乗って次の目的地へ。
 
 調布駅からバスで深大寺に行く途中に通る、式内論社の青渭神社へ行こうと思ったのですが、降りる場所を間違えたらしく、バス停三つ分ほど歩くことになりました。
 
 式内論社というのは、延喜式に記載されている神社と同じであるという確証がなく、おそらくここではないかと論じられている式内社候補の神社のことです。候補ですから複数あります。
 
 青渭神社も候補が三つあるのですが、私は調布市にある当社が式内社だと思っています。何故なら、水波能売大神とともに「青沼押比売命」という珍しい神を祀っているからです。一般的に知られていない、歴史的にも世間的にも認知度が低い神をそれでも祀っているのは、その神社――あるいは、その神社がある土地と祭神が切っても切れない関係だからで、神徳が高いとされ、もっと人気のある他の有名な祭神に替えることができないほど深い関係があるからです。
 
 水波能売大神は、水波能売=ミズハノメ=ミヅハメ=罔象女なので、貴船神社で「高おかみ神」の神名で祀られている神のことですが、青沼押比命は『古事記』に「青沼馬沼押比売」の名で登場する神のことと思われます。彼女は敷山主神の娘であり、美呂浪神の妻であり、布忍富鳥鳴海神の母――そして、夫である美呂浪神大国主神の六世孫であるという系譜が掲載されています。『古事記』における「大国主神」は『ホツマ』における「クシキネ=オホナムチ」のことなので、すなわち『古事記』の記述をまともに受け取れば、美呂浪神はオホナムチの六世孫ということになります。ちなみに、「オホナムチ」は、『日本書紀』では「大己貴」という漢字で表記されています。
 
 ところで、奈良の大神神社や香川の金刀比羅宮の祭神である「大物主神」の大物主=オホモノヌシとは、『ホツマ』によれば役職名であり、大将軍といったような立場です。世襲制で、初代がオホナムチことクシキネ、彼の息子であるクシヒコが二代大物主、クシヒコの子でクシキネの孫にあたるミホヒコが三代大物主なので、大神神社祭神の大物主はクシヒコ、金刀比羅宮祭神の大物主はミホヒコだと私は考えています。
 
 クシキネは国譲りで故郷の出雲を明け渡したのち、アソベの地(現在の青森あたり)に封じられて、この地で死ぬと「顕国魂神」という神名で岩木山に祀られました。おそらく、この山に入って神上がったか、葬られたからでしょう。それが岩木山神社の起源です。「顕国魂神」は「ウツシクニタマノカミ」と読み、『日本書紀』では「顕国玉神」と書かれ、大国主神の別名ということで登場しますが、ウツシクニタマ=移し国霊で、本来は“国を移した御霊”という意味です。ということで、出雲から国を移したクシキネが津軽にいたこともあり、彼の息子であるクシヒコも孫のミホヒコも東国に足跡を残しているので、出雲出身の大物主たちの末裔が関東の地に根を張っていても、何ら不思議なことはありません。
 
 おそらく、クシキネ=オホナムチの子孫である美呂浪神の妻である青沼馬沼押比売が、死んだあとに神として祀られたときの神名が「青渭神」なのでしょう。社務所でいただいた当社の由緒書には「水神様」とあるので、この地を襲った水害で犠牲になり、水神として祀られることになったのではないでしょうか。想像をたくましくすれば、弟橘媛――海神の怒りを鎮めるために荒れた海に身を投げた日本武尊の妃のように、生贄になるなど、水害を収めるために青沼馬沼押媛が身を捧げて、その犠牲ののちに水害が収まったので、水神として祀られた――などということも考えられます。
 
 青梅市の青渭神社の祭神は青渭神ではなく大国主命なので論外ですが、稲城市の青渭神社は青渭神、猿田彦神、天鈿女命の三柱を祭神としています。よっておそらく、稲城市の神社は猿田彦と天鈿女という夫婦神を祀っていたところ、多摩川の洪水で度々困るようになったので、調布に祀られている水神の青渭神を勧請し、元々の祭神であるニ柱とともに祀って、水が暴れるのを防いで川を鎮めようとしたのではないでしょうか。
 
 青渭神社の境内には節分祭の幟がたくさん立っていましたが、当社の豆まき式は4時からで、その時間まではいられなかったので、お参りをし、準備をしている神職に声をかけて御朱印をいただくついでに福豆を買い、調布市の天然記念物に指定されている欅を拝んで、神社を後にしました。
 
 青渭神社前バス停からバスに乗って調布駅に戻り、もう一つ行けそうな時間があったので、都心に出て神田明神日枝神社に寄ろうと思ったのですが、電車に乗っているあいだにかったるくなってしまい、両社とも豆まき式はすでに終わっていて、行ってもせいぜい福豆を買うぐらいなので、やめにして東京フォーラムへと向かいました。家を出る前にいつもより遅めの朝食を摂ったあと、深大寺の参道で買った野沢菜のおやきしか食べていなかったため空腹で、開演前に腹ごしらえをしておきたかったからですが、フォーラムには先月行ってきたモン・サン・ミッシェルの「ラ・メール・プラール」が出店しているので、どうせ何か食べるのならオムレツでも頼んで、本店と食べ比べてみようとも思ったので。
 
 「ラ・メール・プラール」の海外初出店のお店である東京店のオムレツは、ほとんど本店と味が変わらず、日本人に適量サイズで、十分満足でした。

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「ラ・メール・プラール」東京店のオムレツセット。何も言わなくてもキノコが入ってきます。

 しかも、グラスシャンパーニュモエ・エ・シャンドンも比較的リーズナブルで、レジ前の売店スペースには、荷物が増やせず持ち帰れなかったので現地では買えなかったクッキーやビスケットも売っていたので、モン・サン・ミッシェルに来たから「ラ・メール・プラール」に寄るというのはアリですが、「ラ・メール・プラール」に行くためにモン・サン・ミッシェルに行く必要はないなと思いました。

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日本で買えたフランス産のサブレ類。現地から持ち帰っていたら、さぞかし悔しい思いをしたと思います。

 開演10分前になったので、お店を出てホールCへ。ミュージカル感想は別記事でアップします。

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2018年節分の収穫。右下が豆まきで初めて取れた福豆です。