土曜は、先年亡くなった昔の会社の社長夫妻のお墓参りで、鎌倉の覚園寺に行ってきました。物書き志望だった社長は私の商業コピーライティングの師みたいなもので、よく飲みに連れて行ってもらいましたし、夫人は直接の上司で、二人にはたいへんお世話になったので。
10時に当時の先輩&同僚方8名と鎌倉駅で待ち合わせ、鎌倉宮行きバスに乗り、終点で下車して10分ほど歩くと、覚園寺に到着。
土牢の中
覚園寺は二代執権北条義時が建てた大倉薬師堂が起源で、当寺のホームページによれば、九代執権貞時が真言、天台、禅、浄土四宗を学べる道場の寺にしたとのこと。墓地の手前にある茅葺き屋根の本堂には、素晴らしい薬師三尊像と十二神将がおられました。国の重要文化財とのことです。撮影禁止なので写真は撮れませんでしたが、本堂を含めて一見の価値があると思います。
鎌倉宮は、後醍醐天皇の第三皇子、大塔宮護良親王を祭神とする神社。護良親王は、6歳の時に出家して京都の三千院に入り、11歳の時に比叡山延暦寺に移って、その後天台座主となり、24歳の時に還俗し、26歳の時に征夷大将軍に任命されるという数奇な運命を辿ったあと、父天皇によって敵対している足利軍に売られて捕らえられ、幽閉中に、足利尊氏の弟、直義の家臣に殺されたという悲運の皇子です。享年28歳。護良親王が非業の死を遂げた地に、明治天皇がその霊を弔うために創建したのが鎌倉宮で、親王が幽閉されていたという土牢もあり、拝観料が必要ですが見ることができます。一説には、親王が幽閉されていた土牢そのものではなく、伝承から再現されたものだとも言われていますが、見るかぎり、こんなところに9か月も閉じ込められて人間が生きていられるものかと思うような環境で、もし生きていたとしても衰弱して足腰は立たず、暗殺者の手から逃れることはできなかったと思います。

護良親王の存在を邪魔に思い、抹殺したのは足利尊氏・直義兄弟ですが、親王の不幸は後醍醐天皇の皇子に生まれたことだったと思います。父親に振り回され、力を貸しても踏みにじられ、挙句の果てに切り捨てられた人生でした。父親が後醍醐天皇でなければ――野心家で、島流しにあったり、朝廷を二つに割るような破天荒な君主でなければ、護良親王の一生もまた違ったものになっていたでしょう。
そんなことを感じることができたので、わざわざ戻って来てよかったと満足しつつ宝物殿を見学し、御朱印授与所で通常御朱印と奉祝特別御朱印をいただいたあと、厄落としのかわらけ割りをしてバス停へ。時刻表を見ると、バスが来る時間までまだ余裕があったので、参拝者休憩所に立ち寄ることに。

