羽生雅の雑多話

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サモス島&クシャダス旅行記 その2~世界遺産 古代都市エフェソス(エフェス)

 次の日は、この旅一番のハイライトであるエフェソス遺跡巡りです。

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エフェソス遺跡
 
 前にも書きましたが、昔、篠原千絵さんのマンガ『天は赤い河のほとり』を読んだときに、どうしてもヒッタイトの首都ハットゥシャの遺跡に行きたくなって、衝動的にトルコに行ったことがありました。20年ぐらい前のことで、個人旅行はまだ自信がなく、アクセスも悪いところだったので旅行会社のツアーに参加したのですが、イスタンブールから地方に出たとたん大地震がありました。運よくツアーは継続されたのですが、帰国前にアンカラから寝台特急イスタンブールに戻るとき、線路を復旧しながらの運行だったので、早朝に着く予定が昼過ぎになりました。帰国便は夕方だったので、イスタンブールでの半日自由行動がなくなったぐらいで、予定どおり帰国できましたが。
 
 その時にイスタンブール、トロイ、ベルガマ、パムッカレ、コンヤ、カッパドキア、ボアズカレを訪れ、さらにクシャダスにも行っていたのですが、エフェソスに寄ったことは今回の旅行から帰ってくるまで忘れていて、帰ってきたらなんか行ったことがあるような気がしたので、昔の写真をひっくり返したら、やっぱり行っていました。ムルシリ2世の都ハットゥシャや、大好きな『イリアス』の舞台であるトロイ、気球に乗ったカッパドキア、温泉に足を浸したパムッカレに比べると印象が薄かったのかもしれません。この四つは当時すでに世界遺産でしたが、エフェソスやベルガマはまだ世界遺産でもなかったし……ということで、すっかり記憶から抜け落ちていましたが、今回二度目の訪問になります。
 
 7時半に朝食を食べて、9時前にホテルを出ると、トルコリラの現金をまったく持っていなかったのでATMを探し、一番近い銀行のATMでキャッシング。そして、ホテル近くのバス停からミニバスに乗ってオトガル(バスターミナル)へ。距離があるので最初はタクシーを呼んでもらおうと思っていたのですが、レセプションでオトガルに行きたいと言うと、1番バスに乗ればいいと教えてくれたので、そうしました。
 
 クシャダスのバスは10人乗りぐらいのミニバスで、停めるのも乗るのも見るからにハードルが高い感じでしたが、乗りこなせれば運賃が安いので使い勝手がよく、ホテル前のバス停からオトガルまで一人4リラという安さ、約80円ぐらいで行けました。ただし、バス停にはバス停名の表示がなく、時刻表も路線図もなく、車内にもバスにあるはずの情報はなく、運賃は乗ったときにドライバーに行き先を告げて支払うというシステム。乗ってバスが発車していたとしても運転中のドライバーに払わなければなりません。街中ではないかぎり原則バス停以外でも停めることができますが、席に余裕がなければ、バス停で待っていても停まってくれません。よって、混む路線の途中で止めるのは外国人観光客には至難だと思います。
 
 オトガルに行くと、停車しているのが長距離線と思われる大型バスばっかりだったので、バスドライバーみたいな人に「エフェスに行きたい」と訊くと、長距離バス乗り場とは別にある乗り場を教えてくれました。飲食店の裏側にあるそこへ行くと、ミニバスが並んでいたので、フロントガラスに「セルチュク」と書いてある看板を出しているバスを探して乗車。ドライバーに途中のエフェスで降りると告げて一人8リラを支払い、走ること約30分。エフェソス遺跡分岐路の前で降ろしてもらい、約15分ほど歩くと、大型観光バスが停まる駐車場に到着。そこから遺跡の入口のあいだに立ち並ぶ土産物屋の中に郵便局があったので、クレジットカードの都合でATMでキャッシングができなかったI氏がユーロからリラに両替したあと、チケット売り場へと向かいました。
 
 72リラで入場券を買い、自動改札を入ると、すぐ左手にカフェを併設したミュージアムショップがあり、その隣の建物で音声ガイドを貸し出しているのを見つけ、日本語の扱いもあったので、日本語を貸してくれと言ったら、ジャパニーズは品切れとのことでした。普通は同じ機械で希望の言語を設定するものだが……と二人で腑に落ちない思いでいたら、微妙なイントネーションの日本語で話しかけられ、振り向くと、どう見ても日本人には見えない男性がいて、プライベートガイドの売り込みでした。首からIDカードを提げていて、どうやら遺跡の許可を得てやっている公認ガイドのようだったので話を聞いてみると、英語を交えた日本語で、北口から南口まで一方通行の案内で1時間、料金は一人15€――したがって30€とのことでした。
 
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遺跡の北口を入ったところにある世界遺産登録記念碑
 
 エフェソス遺跡はまともに見たら2時間はかかるといわれている広い遺跡で、ならば我々は倍の4時間は滞在時間として考えておこうと思い、丸一日をエフェソス遺跡関連施設の観光にあてていたので、ガイドのペースで1時間案内をしてもらい、そのあとは個人のペースでゆっくりと見学しつつ南口から戻ってくるのがよいのでは――ということでI氏と合意したので、10時半から11時半までお願いすることにしました。
 
 エフェソスは紀元前11世紀に創られた古代イオニア地方の港湾都市で、元々は『天は……』にも出てくるアルザワ王国の首都ではないかとも考えられています。ギリシャ時代には小アジア最大の都市となり、商業、宗教の中心として栄え、紀元前6世紀ごろに黄金期を迎えました。「万物は流転する」という、いつの時代にあっても変わらない名言で知られる哲学者のヘラクレイトスはこの町の出身です。彼のこの言葉は、考えてみれば至極あたりまえのことではありますが、昔も今も、そして未来永劫変わらない普遍性を、2000年以上前に公言したということが素晴らしいと思います。
 
 その後はマケドニア、エジプト、シリアが一時エフェソスを占拠したこともありましたが、紀元前2世紀にローマに攻略されてからはローマの支配下となり、東地中海交易の中心地として重視され、アントニウスクレオパトラが訪れたりもしました。ヨハネもパトモス島の流刑から解放されたあとはエフェソスの教会の司教となり、福音書を記したといわれています。おそらくこの地でパトモス島の洞窟で得た天啓をまとめたのでしょう。聖母マリアも晩年はエフェソスで過ごし、遺跡から7キロほど離れた山には、彼女の終の棲家と伝わる、聖母マリアの家があります。
 
 さらに時代が下って、古代ローマ帝国が東西に分かれたあとは、東ローマ帝国下で繁栄し、史上有名なキリスト教のエフェソス公会議なども開かれましたが、8世紀ごろからアラブ人の侵攻を受け、なおかつ海に面していた街は土砂の堆積によって港として機能しなくなりはじめていたので、帝国に放棄されて廃墟となりました。ということで、歴史上きわめて重要な古代都市であり、遺跡の規模も保存状態も突出していましたが、それゆえに早くから世界各国が参加して発掘、研究、修復が進められたため、後世の手が入りすぎているという理由で長らく世界遺産とは認められず、2015年に至ってようやく認定されました。
 
 ガイドによると、エフェソスは地震などで壊れては直され、いま残っている遺跡は第4期の町の遺跡とのことでした。第4期が何時代にあたるのかはわかりませんでしたが――。港から上陸すると両脇に店が並んでいたという大理石の道路――アルカディアン通りとなり、まずはそこで風呂に入って身ぎれいにしないと、エフェソスの街には入れなかったそうです。
 
 大劇場前からエフェソス遺跡の顔ともいえるセルシウス図書館に続く道はマーブル通りというのですが、図書館の手前に娼館があり、大理石の道には、彫り刻まれた娼館の広告が残っていました。
 
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娼婦の顔とその下に店の情報、足で店の方向が彫られた広告。この足より小さな人は「大きくなったらおいで」という意味だとか。 

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アレキサンドリア、ベルガマと並ぶ世界三大図書館の一つである、セルシウス図書館のファサード 

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図書館に行く手前の右にトンネルがあるのですが(写真の青い服の人の隣にあるドーム型の入口)、ガイドの話によると、図書館に行くフリをして、マーブル通りの娼館通いをするための抜け道だそうです。 

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公衆トイレ(男性用)。匂いがこもらないように屋根はなく、排泄物が落ちるところまで2メートルの高さがあり音が響くため、近くに池を作ってカエルを鳴かせていたそうです。また、オープンエアの上に便座は大理石で冷たいため、冬場は今の1ユーロ相当を支払って奴隷をしばらく座らせて暖めてから使用したとのこと。ウソかホントかわかりませんが、ローマ人なら考えそうです。古代版のウォームレットや音姫といったところでしょうか。 

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ハドリアヌス神殿の門に彫られたメデューサの彫刻。ペルセウスに退治されたゴルゴン三姉妹の末っ子であるメデューサは青い瞳をしていたそうで、魔除けとして知られるトルコ名物のナザール・ボンジュウは、実は彼女の眼なのだそうです。

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ヘラクレスの門のアーチとして飾られていた勝利の女神ニケのレリーフ。「ニケ」の英語読みは「ナイキ」。ということで、ナイキのロゴマークはこのレリーフを元にデザイン化されたものとのこと。
 
 11時半前に南口に到着し、遺跡の全体模型の前で時間まで説明を受けて、ガイドは終了。音声ガイドよりは高くつきましたが、プチトリビア満載で満足度も高かったので、ガイドを頼んでよかったです。
 
 その後は、マーブル通り、クレテス通りから逸れる脇道にある遺跡はすべてすっ飛ばしてきたので、寄り道しつつ北口に戻ることに。
 
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ヴァリウスの浴場 

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オデオン前の石柱が並ぶ通り

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イオニア式石柱とコリント式石柱(左奥) 

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セルシウス図書館のそばにある、丘の上の住宅。建物で覆われていて、中では修復作業中。見学をするためには別料金36リラが必要です。 

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丘の上の住宅の壁に残るフレスコ画

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丘の上の住宅の床に残るモザイク。月桂冠をかぶっているので、アポロンだと思います。 

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クレテス通りの高級住宅街前のモザイク。左奥は、丘の上の住宅が入っている建物。
 
 丘の上の住宅を見学したあと、建物から出てくると近くに売店があり、I氏が水を買いたいというので小休憩。1時近くになり、かなり気温が高くなっていましたが、再び歩きはじめて、下のアゴラを見学し、行きはガイドの都合で素通りした大劇場の観客席に上がってみることにしました。
 
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24000人を収容できたという大劇場。港から続くアルカディアン通りの突き当りにあるのですが、ガイドの話によると、海からの風を受けて観客席は夏でも涼しく、海風のエコー効果で音響もよかったそうです。
 
 1時半を過ぎると、3時間以上も歩いていたので、さすがにヘトヘトだったのですが、北口に戻る途中で聖母マリア教会という遺跡への脇道があったので、せっかく来たからには――という思いで、気力を奮い立たせて立ち寄ることに。ひととおり見終わってから北口に戻り、無料トイレに寄ったあと、ミュージアムショップを物色し、お決まりのマグネットと、エフェソスオリジナルデザインだという、シルバープレートでアルテミス像を象ったレザーベルトのブレスレットを買って遺跡を出ました。
 
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聖母マリア教会の門 

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聖母マリア教会内の跡
 
 エフェソスの出土品は遺跡からバスで15分ほど行った町――セルチュクのエフェソス考古学博物館にあるので、遺跡見物のあとはセルチュクに向かう予定でしたが、足の疲れも暑さもハンパなく、ひと息入れたかったので、遺跡前の売店でフローズンジュースを購入。飲みながら店の前のベンチで少し休みましたが、それでも15分歩くのはキツかったので、来たときに降りたバス停ではなく、大型バスが並ぶ駐車場の近くに見つけたバス停に行ってみると、例によって時刻表などの文字情報は一切なく、電話をしろという文言と電話番号だけが貼ってあったのですが、貼り紙を睨んでいると、隣の木陰で椅子に座っていたおじサンに「セルチュク?」と訊かれたので、「そうだ」と答えると、空いている他の椅子に座るように言われました。言われるがままに座ってジュースを飲んでいると、だんだんと人が集まってきて、おじサンは電話で連絡を取っていて、どうやら乗客数を知らせてバスを手配しているようで、10人ぐらいになるとバスが来ました。行きに乗ったクシャダス~セルチュク間を運行するバスではなく、パムジャック~エフェソス遺跡~セルチュク間を運行するバスでした。このおじサンがいてくれて我々は大いに助かりましたが、彼が常駐しているのかはわかりません。ヨーロッパからの観光客が多いバカンスシーズンだけいるのかもしれません。
 
 セルチュクの町に着き、乗り合わせた乗客に博物館前と教えられたところでバスを降りて、博物館へと向かいました。この博物館には世界的にも有名な2体のアルテミス像があり、彫りの細密さと、それが現代まできれいに残っている価値は、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケ以上と思っている神像なので、実物と対面したときは感無量でした。
 
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アルテミス像1(正面から)。遺跡のミュージアムショップで買ったブレスレットは、この像の顔をモデルにしたもの。 

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アルテミス像1(斜めから) 

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アルテミス像1の体正面の上部分。獅子と何か。

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アルテミス像1の体正面の中部分。何かとグリフォン 

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アルテミス像1の体正面の下部分。 

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アルテミス像1の頭部。鼻は潰されていますが、顔脇の獣たちが凄いです。 

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アルテミス像2(正面から) 

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アルテミス像2(斜めから) 

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黄金の女神像(紀元前580年頃)。金は変わらない素材なのだと改めて認識させられました。

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ブロンズ像「イルカに乗るエロス」(紀元前2世紀)。2200年前、すでにこんなデザイン力と造形力がありました。大したものです。 

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マルクス・アウレリウス胸像(紀元2世紀)。驚くほど顔の表現が緻密です。
 
 博物館を堪能したあとは、ヨハネ墓所がある聖ヨハネ教会へと向かいました。(続く)