羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

21世紀初のディズニーランド

 先週の土曜日は、東京ディズニーランドに行ってきました。昔、アナハイムに行ったあとに浦安に行ったら1回で気が済んだので、その後ディズニーリゾートには近寄らなかったのですが、昨年ディズニーシーデビューを果たしたら、とても楽しかったので、今年は今世紀初となるランドに行ってきました。園内でアルコールも飲めるようになったと聞いたので。

 

 前回のシーとは打って変わって天気がよく、アメリカ河の風景がとてもきれいだったので、最高でした。昔とは作り物の完成度も違い、水や木々は本物ですし。

蒸気船マークトゥエイン号からアメリカ河

アメリカ河のライオン

アメリカ河の蛇

アメリカ河の象

蒸気船マークトゥエイン号からビッグサンダー・マウンテン

蒸気船マークトゥエイン号とスプラッシュ・マウンテン

エレクトリカルパレードその1

エレクトリカルパレードその2

スプラッシュ・マウンテンの入場待ち列に並んでいるときに見た花火

スプラッシュ・マウンテンからの夜景

閉園前のシンデレラ城その1

閉園前のシンデレラ城その2

閉園前のシンデレラ城その3

 

 ちなみに、昨年のディズニーシーは3時ぐらいまで雨降りで、雨が上がっても気温が上がらず寒くて、アトラクションも混んでいたので、順番待ちの列に並ぶのは早々にやめてアルコールを飲んでダラダラしていましたが、ついには頭痛までしてきたので我慢できなくなり、ショップでディズニーグッズのウェアを買って暖を取ることに。扱いやすいファンタジア柄のストールマフラーがあったので、それをを購入し、レジでタグを切ってもらい、すぐに羽織って手持ちの薬を飲んだら、即回復しましたが

 

 初のシーはそんな感じでしたが、今は乗り物に乗れなくても、街並みを見てのんびりするだけでも楽しめるので、問題なし。海外のカフェで一杯飲みながらのんびりしているのと同じ感覚なので、十分満足できました

 

 昔はアトラクションが一番の楽しみで、アメリカでディズニーランド、ナッツベリーファーム、マジック・マウンテンというロサンゼルス近郊のテーマパーク巡りをしたのも、スケールの大きいアトラクションが目当てでした。しかも、上記はいずれも敷地が広くて混んでいる印象がなく、ところが、一度行った浦安の園内は激混みの上にアトラクションも行列で、それゆえ懲りて以降足を踏み入れなかったのですが、今は待ち時間が長ければ悩むことなく即刻あきらめてスルーできるので、人間変われば変わるものだと思いました。

去年のディズニーシーその1

去年のディズニーシーその2

去年のディズニーシーその3

奈良神社遠征~矢田坐久志玉比古神社、売太神社

 昨日、大和郡山の矢田坐久志玉比古神社から御朱印が郵便で届きました。

 

 ちょうど一週間前の先月27日にお参りをしたのですが、その時は社務所が閉まっていました。そもそも、今回の遠征の主目的は京博の藤原時平であり、とはいえ、式内社の宝庫である旧大和国まで来て一つも式内社に行かないというのはもったいない気がして訪れましたが、式内社の社務所が無人であることはよくあることなので、なんとなく予想はしていました。しかも、雨予報の平日で他に参拝客もいなかったので、仕方がないと思いつつ、せめて由緒書きだけでも手に入らないかと思い、社務所の建物に寄りました。

 

 そうしたら、御朱印を後日郵送してもらえるようになっていて、御守り授与所の窓口(閉まっている)の前に置いてあるファイルの中の小さな用紙に参拝日と送付先などを記入し、その用紙と一緒に用意されていた、クリップ付きの中身が空のポチ袋に御朱印代と送料を入れてクリップで封をし、賽銭箱に入れると送ってもらえるというシステムでした。簡単ではありますが、今までに経験のない素晴らしい方法で、たいへんありがたいと思いました。当社は、名神大社に次ぐ社格の式内大社で、『延喜式』の神名帳においては大和国添下郡十座の筆頭に掲載されているという、とても重要な古社なので。明智研究がひと区切りつかないと本格的な神社考察には戻れないので、足を運ばずにいたのですが、こんなに近くまで来て、さすがにスルーはできませんでした。

 

 御朱印と一緒に送られてきた由緒書きによると、当社の祭神は櫛玉饒速日命と御炊屋姫命。『延喜式』の時点ですでに二座が大社とされているので、この二柱が祭神となったのはそれより前だと思いますが、社名が「久志玉比古神社」なので、元々は久志玉比古神、つまり久志玉比古=クシタマヒコ=櫛玉彦、現在は“櫛玉”饒速日命とされている神を祀っていたのだと思います。御炊屋姫=ミカシヤヒメは饒速日=ニギハヤヒの后なので、かなり早い段階で合祀されたのでしょう。

矢田坐久志玉比古神社の鳥居と社号標

境内

 

 さらに由緒書きによれば、祭神の久志玉比古=クシタマヒコは、天磐船に乗って大和の天空を駆け巡り、「吾が宮居の地に導き給え」の祈願とともに天羽羽矢3本を射たところ、境内に二の矢が、一の矢が南500メートル、三の矢は北500メートルの場所に落ち、それゆえこの地を「矢田」と呼び、当社も「矢落神社」と呼ばれるとのこと。御朱印も「矢落大明神」と揮毫されていました。そして、天磐船に乗ってきて地上に降臨したという故事から、昭和の初めに内務省神社局が「航空祖神」として考証し、以降航空関係者に信仰され、楼門のプロペラは昭和18年(1943)に大日本飛行協会大阪支部から奉納されたものだそうです。

楼門。正面にプロペラが付いています。嘉永6年(1853)に建立されたという、両側に翼廊まで付いた立派な入母屋造りの門で、今なら考えられない装飾(?)ですが、戦中は「航空祖神」であることをアピールすることのほうが重要だったのかもしれません。

拝殿の扁額にも「矢落大明神」とありました。

 

 ところで、以前に訪れた京都の山科にある岩屋神社の記事でも書きましたが、岩屋神社の現祭神は天忍穂耳命、栲幡千々姫命、饒速日命で、当社の参拝のしおりによると、饒速日命は天忍穂耳命と栲幡千々姫命の皇子で、別名「天火明櫛玉饒速日命」とのことでした。ならば、「天火明櫛玉饒速日命」は『ホツマツタヱ』でいうところのニギハヤヒではなく、クシタマホノアカリということになります。クシタマホノアカリ=櫛玉火明はオシホミミ=忍穂耳とタクハタチチヒメ=栲幡千々姫の息子ですが、ニギハヤヒ=饒速日はクシタマホノアカリの弟ニニキネ=瓊々杵の息子であるホノアカリ(クシタマホノアカリとは別人で、彼の甥)の子なので。したがって、オシホミミとタクハタチチヒメにとっては曾孫にあたります。クシタマホノアカリは飛鳥を治めていましたが、子がないまま亡くなったので、甥の子であるニギハヤヒがその跡を継いだとされています。

 

 つまり、『ホツマ』によれば、アシハラクニ=葦原国こと豊葦原中津国を治めるべく遣わされたのはニギハヤヒではなくクシタマホノアカリなので、矢田坐久志玉比古神社の祭神である“櫛玉”饒速日命も元々は“クシタマ”ホノアカリであり、すなわち岩屋神社の天火明櫛玉饒速日命と同一神と思われます。クシタマホノアカリ=櫛玉火明がニギハヤヒ=饒速日と一緒くたにされたため、「櫛玉饒速日」や「天火明櫛玉饒速日」という祭神名が生まれたのでしょう。よって、この神名は二人の名前が合わさったものなのですが、子孫に恵まれて物部氏の祖となり祭祀が続けられたニギハヤヒだけが祭神として生き残り、クシタマ(ホノアカリ)の存在は薄くなってしまったのだと思います。そんな中でも「久志玉比古神社」という社名が伝えられてきたのは、よほどこの地がクシタマホノアカリとゆかりが深い土地だったからではないでしょうか。

 

 理由が何であれ、クシタマホノアカリをこの地に神として祀ったのは後継者であるニギハヤヒと思われるので、ニギハヤヒは本来ならば若宮ということになります。コヤネを祀る春日大社の若宮が息子のオシクモであるように――。そして、祭主であったニギハヤヒが亡くなると、今度はニギハヤヒが神として祀られ て祭神となったのではないでしょうか。杵築大社(現・出雲大社)でソサノオを祀っていたオホナムチが祭主から祭神に格上げされたように――。そのため、若宮の祭神はニギハヤヒとミカシヤの子であるウマシマチとされ、いつしかクシタマホノアカリは影が薄くなってしまったのかもしれません。大抵の場合、本社から追い出されると摂末社の祭神となっていることが多いので、現在は矢田坐久志玉比古神社の摂社である若宮神社に合祀されているという大神社の祭神である天照坐皇大神がクシタマホノアカリと思われます。若宮神社の現祭神は宇摩志麻遅命ことウマシマチですが、クシタマホノアカリの若宮はニギハヤヒなので、当初は本社にクシタマホノアカリ、若宮にニギハヤヒが祀られていたか、あるいは、当社の祭神が二座とされているのは、クシタマホノアカリとニギハヤヒを本社で祀っていたからかもしれません。

 

 八代天君であるアマテル=天照の跡を継いだ九代天君オシホミミと、その后であるタクハタチチヒメは、『ホツマ』でいうところのハコネカミ=箱根神とスズカノカミ=鈴鹿神で、二人の長男であるクシタマホノアカリはアスカキミ=飛鳥君――すなわち“飛鳥に坐す神”であり、次男のニニキネはワケイカツチノカミ=別雷神です。

オシホミミ     箱根神  箱根神社祭神   現祭神名:天忍穂耳命

タクハタチチヒメ  鈴鹿神  椿大神社祭神   現祭神名:栲幡千々姫命

クシタマホノアカリ 飛鳥坐神 飛鳥坐神社祭神  現祭神名:天照皇大神

ニニキネ      別雷神  賀茂別雷神社祭神 現祭神名:賀茂別雷神

 

 クシタマホノアカリ=櫛玉火明は、『日本書記』では「“天照”国照彦“火明”命」、『先代旧事本紀』では「“天照”国照彦天“火明櫛玉”饒速日尊」の名で登場します。そして、天照国照彦火明命は、矢田坐久志玉比古神社と同じく式内大社である鏡作坐天照御魂神社の祭神です。すなわち、クシタマホノアカリ=天照御魂神で、天照御魂神は略すと天照神であることから、天照大神、天照大御神、天照皇大神として祀られている神の正体が実はクシタマホノアカリであることも多くあります。飛鳥坐神社もその一つで、境内に御神体と思われるものも含めてたくさんの陽石が存在するのも、さらには天下の奇祭と名高い「おんだ祭」――子孫繁栄を願い、夫婦和合の様子を再現する神事――が行われてきたのも、子を生まない后を変えてまで熱望したにもかかわらず子宝に恵まれることなく、おのが血筋を残せなかったクシタマホノアカリを祀っているからなのだと思います。現在奥の社に「天照皇大神」の祭神名で祀られている神の正体がクシタマホノアカリでしょう。今は伊勢神宮内宮の祭神と同じとされていますが。

 

 矢田坐久志玉比古神社を参拝した日の午後には郡山城址を訪れたのですが、天守台からはアスカキミが降り立ったという鳥見山が見えました。『ホツマ』では「トリノシラニハ」、『日本書紀』では「鳥見白庭山」の名で登場する山です。郡山城の天守台はやや高所にあり、調べたところ西ノ京丘陵の南端に造られているそうです。

郡山城天守台から見る鳥見山。鳥見山は桜井市に二つあるのですが、高いほうの鳥見山です。

この説明図があったので、鳥見山がわかりました。

 

 郡山城址を含め、豊臣秀長関連の観光スポットを巡ったあと、4時に間に合いそうだったので、JR郡山駅から徒歩15分とされている売太神社にも行ってきました。一服していた箱本館「紺屋」から一番近い式内社だったので。この神社のことは知りませんでしたが、スマホで検索して調べると、祭神は稗田阿礼命。言わずと知れた『古事記』の伝承者です。稗田阿礼まで神として祀られているということに驚き、いったいどんな神徳がある神として信仰されているのか興味が湧いたので、足が限界に近づき、のんびりとコーヒーを飲んでいましたが、まだ時間的余裕はあったので、20分ぐらいかけて行くつもりで立ち上がりました。

 

稗田橋から見る佐保川

売太神社の鳥居と社号標。こちらの神社は無人ではなかったのですが、書き手がいないということで、御朱印はいただけませんでした。平日に参拝すると、よくあることです。

拝殿

祭神についての説明板。稗田氏は猿女君らしいので、となると、サルタヒコとウズメが先祖になります。

さらに詳しい由緒の説明。まだ全部読んでいません(笑)

売太神社がある稗田環濠集落の濠(堀)。環濠集落とは周りに濠を巡らせた集落のことです。遺跡ではなく、今も人々が住む現役の集落として機能しています。

 

 帰りは、グーグルマップで調べたら、環濠集落の真ん中を通っている道を突っ切って環濠集落を出て、ひたすらまっすぐに北上すると県道144号線にぶつかり、左折して佐保川を越えればJR郡山駅に着くことがわかったので、最後の力を振り絞って歩き、JR線で奈良駅に戻って、日程終了です。

 

 大納言塚あたりは雨が本降りで、天守台から距離もあり、かなり憂鬱でしたが、大河ドラマ館を出るころには雨も上がって、その後は最後まで天気がもってくれたので、本当に助かりました。もっとも、雨だったら売太神社には行きませんでしたが。

 

 ただし、この日に無理をしすぎたため、次の日の京都は天気ではなく足がもたず、予定より早く引き上げる羽目になりました。あとどれぐらい神社巡りをすることができるのか……そろそろ吟味して絞っていかないといけないかもしれません。

奈良・京都遠征 その5~特別展「北野天神」in京都国立博物館

 まだ6月に入ったばかりですが、本日は台風6号が首都圏を直撃し、とんでもない大雨でした。今からこれでは、先が思いやられます。

 

 さて、遠征の最終日は、JR奈良駅前のホテルをチェックアウトすると、奈良線で京都に出て、駅のコインロッカーに荷物を預けたあと、京博こと京都国立博物館へ行き、ただいま開催中の特別展「北野天神」を見てきました。

京博の明治古都館。旧本館で、明治28年(1895)に竣工。東博の表慶館、奈良博の仏像館と同じく、ジョサイア・コンドルの弟子で、宮廷建築家として活躍した片山東熊による設計。

反対側から明治古都館

特別展の看板

特別展で展示されていた太刀「膝丸」。「薄緑」とも呼ばれます。現在の所蔵元である大覚寺でも見ましたが、今回は北野天満宮の所蔵品である「髭切(鬼切丸)」とともに撮影が許可されていました。

室町時代の作品「綱絵巻」から、羅城門の鬼と膝丸で対決する渡辺綱

薄緑こと膝丸の伝来記。源氏相伝ですが、源氏の棟梁たちに混ざって何故か曽我五郎の名があります。曽我五郎の世を忍ぶ仮の姿が花川戸助六です。ということは、「『助六由縁江戸桜』で助六が探している源氏の宝刀「友切丸」って、膝丸のことか?」と思いました。

刀剣男士のパネル。京博でもコラボをしていました。白いのが髭切で、黒いのが膝丸。

ミュージアムカフェの刀剣乱舞コラボメニュー。ランチを食べようと思って入店し、案内された席に着いたら、メニューはテーブル上に置いてあったこれだけとのことだったので、カレーを食べました。

「源氏の黒カレー」。なんで黒いのか、食べてもわかりませんでした。

 

 私が藤原時平が好きなことは、このブログの記事でもたびたび書いてきましたが、今回の関西遠征の主目的は、この特別展で藤原時平に会うことでした。姿を見られるのが天神関係の絵巻ぐらいなので。おかげさまで、今までにない数の時平の絵姿を見ることができました。

 

 東博で開催中の加賀前田家展で思ったとおり、国宝「北野天神縁起絵巻」よりも重要文化財「荏柄天神縁起絵巻」のほうがカッコよかったです。土佐光起本の時平もいい感じ。同じ土佐派でも光信本はイマイチでしたが。

 

 そもそも、本院左大臣こと藤原時平は延喜9年(909)に39歳で亡くなっているので、菅原道真が死去した延喜3年(903)には33歳。年齢的に考えても「荏柄天神縁起絵巻」や土佐光起本のイメージが近いと思っています。

加賀前田家展の展覧会オリジナルグッズのクリアファイルから「荏柄天神縁起絵巻」の藤原時平

京博の券売所近くにある特別展の看板より「北野天神縁起絵巻(承久本)」の藤原時平。この場面の展示は5月26~31日の六日間だけなので、今回のタイミングでの遠征と相成りました。

 

 時平絵図に関する保存用の資料が欲しかったのですが、承久本も含めて、図録に掲載された時平の絵は小さすぎて、顔の表情とかがまったくわからなかったので、購入しませんでした。ポストカード類もなく、その点はとても残念でした――需要がないからかもしれませんが。何か残せるものがないかと、いろいろ見比べた結果、券売所近くの看板が一番細かいところまでわかったので、そちらを撮ってきました。

券売所近くの看板の全体。下の四つの絵の右から2番目の向かって左側に時平がいます。右側の階から転げ落ちている公卿(藤原清貫か?)を拡大したポストカードとかはあったのですが……。まあ、こちらのほうが断然面白くて絵として魅力的なので、クローズアップされるのはわかるのですが。

 

 午後は5月末まで霊宝館を開館している清涼寺にでも行こうかと思っていましたが、前日からの足の疲れが取れず、特別展鑑賞後は足が痛くてもう歩きたくなかったので、食事を終えるとバスで京都駅に戻り、3時前の新幹線で帰りました。気温も湿度も高く、蒸し暑くて歩きまわるのがしんどい天候で、京博が思っていた以上に混んでいて、もっと混んでいるだろう嵐山を想像したらゲンナリしましたし。

奈良・京都遠征 その4~「豊臣兄弟!」大和郡山大河ドラマ館(+名古屋中村大河ドラマ館)

 明智光秀が主人公だった2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」をきっかけに始めた大河ドラマ館巡り。浅草にしか大河ドラマ館がなかった去年の「べらぼう」以外は、いい旅のきっかけになってくれています。大和郡山も、豊臣秀長の大河ドラマ化が決まった時点で、放映年に行こうと決めました。街の盛り上がり方が全然違うので。普段は見られないところや見られないものが見られたりしますし。

 

 ということで、「豊臣兄弟!」大和郡山大河ドラマ館にも行ってきました。長浜も大河ドラマ放映年に行こうと決めていたので、名古屋中村の大河ドラマ館に行ったときに3館共通入館券を購入しました

大和郡山大河ドラマ館があるDMG MORI やまと郡山城ホール。近鉄郡山駅のバス停から路線バスがあり、施設の前にバス停がありますが、駅から歩いても7~8分程度で、郡山城も近いです。

入口

豊臣秀長の衣装

出演者パネル。こちらの衣装と比べると、上の写真はずいぶん豪華になったことがわかります。

併設のショップで買った平宗の柿の葉寿司。中身はいつもと同じでした。

郡山城址にある「番屋カフェ」で食べた、大河ドラマ記念スペシャルランチプレート。大和ポークカツ、大和牛ミンチカツ、エビフライといった内容で、大納言塚まで歩く理由になりました。

 

 名古屋中村の大河ドラマ館は3月に行ってきました。インスタグラムに写真を投稿しましたが全部消えたので、残っている画像だけですが、こちらにアップしておきます。

小一郎(のちの豊臣秀長)が百姓時代に住んでいた中村の家のセットの再現

明智光秀役の要潤さんのコメント。赤と黒の衣装は、松永久秀爆死回に着ていたものと思われます。

豊臣秀長のマンホール。中村公園駅から大河ドラマ館に向かう途中にあります。

加藤清正のマンホール。清正も名古屋中村の出身です。豊臣秀吉のマンホールももちろん存在しますが、反対側の歩道のようだったので、スルーしました。

奈良・京都遠征 その3~郡山城、柳澤神社、大納言塚、春岳院(+大光院)

 遠征二日目は大和郡山へ。矢田坐久志玉比古神社(式内社)➡春岳院➡柳沢文庫➡郡山城東多聞櫓➡番屋カフェ➡柳澤神社➡郡山城天守台➡大納言塚➡大河ドラマ館➡箱本館「紺屋」➡売太神社(式内社)と巡り、4時過ぎにはついに足が動かなくなったので、終了。近鉄郡山駅から矢田坐久志玉比古神社の最寄りのバス停まではバスを往復使いましたが、あとはずっと徒歩移動だったので、さすがに疲れました。柳沢吉保と金魚が気になって、豊臣秀長で注目される前から訪れたかった街なので、少々欲張りすぎました。5代江戸将軍徳川綱吉の側用人だった柳沢吉保は、私の出身地である川越藩の藩主だったので。

 

 足が棒――ではなく、ガクガクするほど歩いて、秀長さんが大和郡山の人々に愛されていることが、よくわかりました。秀長が長生きしていたら暴走する兄を諫めることができ、秀吉晩年の狂気の沙汰はなかったかもしれないと言われるほど人物的にも評価の高い武将ですが、故郷から離れた最期の地で今も親しまれているのは、たぶん水野家と柳沢家のおかげでもあると思います。

追手向櫓。郡山城は筒井順慶が築城し、天正13年(1585)に豊臣秀長が入城。江戸時代は水野氏、松平氏、本多氏と城主が替わり、柳沢吉保の息子である柳沢吉里が入城すると、以降は郡山藩主を世襲した柳沢氏が城主を受け継ぎ、明治維新を迎えました。

追手門と追手向櫓。いずれも再建されたもの。

東多聞櫓の前から追手門

天守台

本丸への登城口である極楽橋

天守台についての説明板

石垣の転用石である逆さ地蔵。雨の中、頑張ってスマホのカメラレンズを隙間に向けて撮影してきました。

逆さ地蔵がある隙間。外側ではなく、意図的に隠れるところに石を使っているように思え、安土城よりマシな気がしました。あそこは大手道に使われているので、容赦なく踏まれます。郡山城の築城に携わった人足たちには何か思うところがあったのでしょう。

逆さ地蔵についての解説

本丸ビューポイント付近から見る天守台。傘を持った人がいるあたりが逆さ地蔵の場所。

柳澤神社の拝殿から本殿。明治維新後、本丸跡に旧藩士たちによって創建された神社です。郡山藩主柳沢家の藩祖である柳沢吉保を祀っているので、扉に柳沢家の家紋である花菱紋があります。柳沢文庫で柳沢氏は武田甲斐守護家の家臣だったと知り、だから菱紋かと納得。柳沢文庫には柳沢家郡山初代藩主である吉里が描いた「武田二十四将図」という掛軸なども展示されていました。殿様の絵にしては上手で、驚きました。

「大和大納言」こと豊臣秀長の墓所、大納言塚の説明板

大納言塚の五輪塔。豊臣秀長は天正19年(1591)に郡山城で病死し、ここに葬られました。

五輪塔前の卒塔婆

春岳院の塀の説明板。豊臣一族の滅亡後、庇護者を失って主君秀長の菩提寺である大光院が荒廃するのを危惧した藤堂高虎が大光院を京都に移したあと、春岳院が秀長の位牌と墓所(大納言塚)を管理し菩提を弔う菩提寺となりました。

春岳院の切り絵御朱印。これは5月バージョンで、毎月変わります。他の月の切り絵のほうが秀長の顔が好みだったのですが、参拝していない月の御朱印をいただいても仕方がないので。

春岳院の堂内は撮影不可でしたが、郡山城の東多聞櫓で「秀長と郡山のあゆみ」という展覧会が開催されていて、こちらは撮影できました。展示品の一つ、春岳院本堂の向拝留蓋瓦。

2月に訪れた大光院の参道。大徳寺の塔頭です。

大光院は通常非公開ですが、今年の「京の冬の旅」で特別公開をしたので行ってきました。秀長と高虎の墓があります。秀長は大和郡山の大納言塚、高虎は東京の上野に葬られたので、大光院にあるのは供養塔です。ちなみに、「大光院」も「春岳」も秀長の法名。大納言塚の卒塔婆も新しかったので、はっきりと読めました。

奈良・京都遠征 その2~特別公開「金峯山寺金剛力士立像」in奈良国立博物館仏像館

 奈良博の旧本館である仏像館では、金峯山寺仁王門の金剛力士立像が期間限定で展示されていたので、こちらも見てきました。

 

 奈良博の仏像館は見どころが多いので、4時半に特別展の見学を切り上げ、展覧会グッズのショップを覗いたあとに寄ったのですが、入口から入ったとたんに2体の巨像が現れてビックリ。解説を読むと、金峯山寺仁王門の金剛力士立像だったので、さらに驚きました。

 

 結局、閉館までの30分弱、この2体だけを見ていました。普段は見られない全身を四方から見られる貴重な機会だったので。現在、仁王門が修復中なので吉野山から出張してきていますが、高さ5メートルに及ぶ巨像なので、修復が終わって門番に戻ったら、しばらく門から出てくることはないと思います。

奈良博の仏像館。旧本館で、明治27年(1894)に竣工。東博の表慶館と同じく、ジョサイア・コンドルの弟子で、宮廷建築家として活躍した片山東熊による設計。

特別展示の案内板。特別展「神仏の山 吉野・大峯 ―蔵王権現に捧げた祈りと美―」は6月7日までですが、金峯山寺仁王門の金剛力士立像は9月13日まで展示されます。

金峯山寺仁王門の金剛力士立像吽形の顔

金峯山寺仁王門の金剛力士立像阿形の顔

金峯山寺仁王門の金剛力士立像阿形の顔。いろいろな角度から見られたので、とても面白かったです。仁王門に納まっているときには絶対に見られないので。

金峯山寺仁王門の金剛力士立像吽形の足。これも門内にいたら見られません。

金峯山寺仁王門の金剛力士立像阿形の全身

金峯山寺仁王門の金剛力士立像吽形の全身

金剛力士立像についての解説。南北朝時代の作品で、作者は南都仏師の康成。重要文化財です。

子供向けの解説。左上のイラストは奈良博の公式キャラクターで、名前は「あおじし」と「しろぞー」。東博のトーハクくんや、京博のトラりんみたいなものです。「ざんまいず」という五人組で、他に「はにわんこ」「ぎゅーたろ」「くじゃっぴ」というメンバーがいます。

奈良・京都遠征 その1~特別展「神仏の山 吉野・大峯 ―蔵王権現に捧げた祈りと美―」in奈良国立博物館

 26~28日は関西に行っていました。

 

 初日は昼前のJAL便で伊丹に飛び、リムジンバスでJR奈良駅へ。駅前のホテルに寄って大きな荷物を預かってもらったあと、今度は路線バスで駅前バス停から県庁前バス停まで行き、3時前に奈良博こと奈良国立博物館に到着。

奈良博の現本館と、天然記念物の奈良公園の鹿

 

 奈良公園も観光客で混んでいましたが、奈良博内も混んでいて、特別展「神仏の山吉野・大峯―蔵王権現に捧げた祈りと美―」の展示会場も平日の昼間にもかかわらず大混雑でした。通常ならこの混み方だと鑑賞する環境ではないので嫌気がさして足早に展示室を通りすぎるのですが、展示内容が素晴らしく、人込みの中でなんとか我慢して粘り、1時間半かけて見学しました。役行者、藤原道長、天武天皇、後醍醐天皇、西行、豊臣秀吉……すべてが網羅されていました。おさえどころが完璧です。吉野、熊野、高野(山)は大好きで、気になる特別公開などがあるたびに足を運んでいますが、それでも知らなかったこと、見たことがなかったものが見られて、大満足です。

 

 特に印象深かったのが、藤原道長関連の展示。いろいろと思うところがあったので。金峯山に納めた紺紙金字経文の種類の多さに、どれだけ仏に救いを求めているのかと思い、同時に、欲が深い人間だと思いました。そして、経筒の願文などを読むと、やっぱり自分がしてきたことに罪悪感があって、三条院や定子、公任などに対しての行動は何もかもが確信犯だったのだろうとも思いました。当時の政治家として際立って道長があくどいわけではないので、先祖である忠平や師輔、兼家らに比べると小心者だったのかもしれません。強引に一条天皇の中宮とした娘彰子がなかなか子に恵まれなかったので、仏罰と感じて気が弱くなったのかもしれませんが。それでも、現状を打破するために金峯山詣でを実行に移したのは、道長の行動力のなせる業で、「この世をば」の歌が詠めるほどの栄華を極めた原動力だと思いました。

ロサンゼルス・カウンティ美術館の所蔵品で、今回里帰り展示されていた鎌倉時代の作である蔵王権現立像。特別展の展示品の中で、唯一撮影が許可されていました。春の吉野山を描いた壁が囲む展示室に単独で展示されていました。

蔵王権現立像の上半身。桜の冠飾りは珍しいそうです。

横から、蔵王権現立像。正面から見ただけでは想像できない前かがみ具合と、裾のなびき方が素晴らしいと思いました。こういう角度から見られるのが展覧会の醍醐味です。

等身大の「ゴンげんくん」?

特別展のポスター。大峯山寺の蔵王権現立像。標高1700メートルを超える山から蔵王権現がたくさん下りてきていました。

蔵王堂の御本尊は別として、一番お気に入りの蔵王権現は東博にいます。大峯山頂遺跡の出土品である「押出蔵王権現像」。