羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

関西寺社遠征&明智光秀紀行⑨ その3~売布神社、中山寺

 翌日は、宝塚大劇場で3時半開演の月組公演を観る予定だったので、3時までに宝塚に行けばいい感じでした。関西における大雨のピークはこの日の午前中で、午後には台風が東海から関東に移動して回復してくるという予報だったので、e5489で福知山発9時50分の特急電車を予約していましたが、天気が悪ければ変更し、チェックアウトの時間ギリギリまでホテルにいて、昼過ぎに宝塚に入り、歩くのが億劫なほど雨が降っていたら、ワインでも飲みながらランチをのんびり食べるつもりでいました。

 

 しかし朝起きると、予報に反して陽が出ていて、スマホで調べたら宝塚の天気も雨ではなかったので、9時半にはホテルをチェックアウトし、駅の券売機で特急券を発券して、当初の予定どおり特急こうのとり10号に乗車。朝食を摂っている余裕がなかったので、車内で前日「光秀が話す自動販売機」で買った「鬼滅の刃」缶コーヒーを飲みながら「足立音衛門」の栗菓子を食べることに。「栗一粒」という栗がまるごとひと粒入ったパウンドケーキで、食べ比べてみたかったので和栗とマローネを買ったのですが、和栗のほうが断然美味しかったです。そうこうしているうちに11時になり、宝塚駅に到着。

 

 JRの改札口を出たところにあるコインロッカーに大きな荷物を預けると、阪急宝塚線に乗り換えて、売布神社駅で下車。駅から5分ほど歩くと売布神社に到着し、お参りをして境内をひととおり見たのち、御守り授与所に行ったら無人だったので、呼鈴を押すと、程なくして神社の方が来てくれたので、御朱印と由緒書きをいただきました。

f:id:hanyu_ya:20201123155312j:plain売布神社参道。古い形の鳥居です。

f:id:hanyu_ya:20201123155410j:plain売布神社の由来についての説明板

 

 売布神社式内社で、祭神は下照姫命と天稚彦神。いただいた由緒書きには、下照姫神の別名は高姫神で、大国主神の第二皇女であり、天稚彦は天津国魂神の皇子と書かれていました。記紀を基にした一般的な認識では、下照姫は、またの名を高照姫といい、大国主の娘とされているので、ほぼ由緒書きに近いのですが、『ホツマツタヱ』によれば、下照姫と高照姫は別人で、はっきり言って、『ホツマ』のほうが格段に説得力がある血縁・婚姻関係になっています。

 

 記紀において大国主神大己貴命と同一神とされていますが、『ホツマ』によると、大己貴=オホナムチ、大国主=ヲコヌシで、オホナムチはアマテルの弟ソサノヲの子であるクシキネ、ヲコヌシはクシキネの子であるクシヒコのことになります。そもそもヲコヌシ=大国主とは、漢字表記のとおり“大きな国の主”の意味であり、個人名ではありません。アマテルの孫であるニニキネがクシヒコに賜った尊称です。

 

 オホナムチにはクシヒコの他にタカヒコネとタカコという子がいて、タカコはタカヒメとも呼ばれます。漢字で表せば、タカヒメ=高姫、タカヒコネ=高彦根であり、よってタカヒコネとは奥州一宮の都々古別神社や下野一宮の日光二荒山神社の祭神である味耜“彦根”命のことです。タカヒコネは馬術を能くし、そのためタカマガハラの馬を司る馬事長官のヲバシリの生まれ変わりと言われ、ヲバシリの跡を継いで馬事長官となり、「フタアレカミ」という神名を賜りました。「フタアレ」を漢字で表せば「ニ生れ」で、二度生まれたという意味であり、つまりヲバシリの生まれ変わりであることを意味したものです。けれども、後世に至って「フタアレ」には「ニ荒」の漢字があてられるようになり、二荒神を祀った山は二荒山(男体山)と呼ばれ、二荒山の神を祀った社は二荒山神社となりました。

 

 一方、カナヤマヒコの子であるアマクニタマには、アメワカヒコとオクラヒメという子がいました。漢字で表せば、カナヤマヒコ=金山彦、アマクニタマ=天国魂、アメワカヒコ=天稚彦、オクラヒメ=大倉姫で、すなわちカナヤマヒコとは美濃一宮の南宮大社の祭神、“金山彦”命のことです。

 

 タカヒメとオクラヒメは、アマテルの姉であり妹であるヒルコに仕えていて、またの名をワカヒメともシタテルヒメとも呼ばれていたヒルコは、オクラヒメシタテルヒメの名を継がせ、タカヒメには新たにタカテルヒメの名を与えました。そして、タカテルヒメはアメワカヒコの妻になり、シタテルヒメはタカヒコネの妻になりました。出仕と結婚、どちらが先かはわかりませんが。

 

 ということで、シタテルヒメ=下照姫といえばヒルコのことで、したがって下照姫を祀っている場合、その正体は初代下照姫のヒルコと二代下照姫のオクラヒメ、そしてオクラヒメとほとんど同一化されているタカヒメの三者が考えられます。

 

 ところで、由緒書きにある売布神社由来記によると、往古諸人がいまだ木の葉をまとい、草樹の実を食物として飢餓をしのいでいたころ、当地に来た下照姫が麻布を織り、稲を植えることを教え、衣食を整えた里人らが、その後豊かな生活を送ることができたので、神徳を慕って祀ったとあります。そして『ホツマ』には、ヒルコは祓いの歌によって害虫を払い、キシヰクニの枯れた稲をよみがえらせ、和歌の力で稲をよみがえらせたことからワカヒメ=和歌姫と称えられ、キシヰクニの民から感謝されてタマツミヤを贈られたという記述があります。

 

 「キシヰクニ」は、漢字で表せば「紀志伊国」――つまり紀伊国志摩国のことで、「タマツミヤ」は「玉津宮」――すなわち玉津島神社がその跡ということになります。それゆえ玉津島神社の筆頭祭神は稚日女尊なのです――稚日女=ワカヒルメ=ワカヒメ=ヒルコですから。キシヰクニのタマツミヤの跡が実際に残っている以上、ヒルコが枯れた稲をよみがえらせたというエピソードは、それに近いことが史実としてあったと考えてよいと思います。であるならば、ヒルコは稲作技術に精通していて人々に農業指導を行う立場だったと想定できるので、売布神社周辺の里人に稲を植えることを教えたのもヒルコで、この恩人を祀ったのが当社の元々の起源ではないかと思います。

 

 ところが、式内社売布神社は松江にもあって、そちらの主祭神は下照姫ではなく、速秋津比売神となっています。速秋津比売=ハヤアキツヒメで、よってその正体は、アマテルの12人の妃の一人であるハヤアキツヒメアキコのことになります。ハヤアキツヒメは住吉神ことカナサキの娘であり、住吉神の鎮座地は摂津一宮の住吉大社筑前一宮の住吉神社なので、何故出雲国に祀られているのかわからず、場所が宍道湖と大橋川の接点なので、海の神の娘で潮流を司る水戸の神が水害防止を祈念して祀られたのだろうぐらいに思っていました。しかし今回、宝塚の売布神社を訪れたことで別の一つの可能性に思い至りました。

 

 由緒書きによると、宝塚の売布神社はいつごろからか貴船大明神として崇められていたそうで、八代江戸将軍徳川吉宗の時代に行われた調査で、売布神社であるというのが正しいと判明したそうです。境内社の一つに豊玉神社があり、祭神は豊玉彦神と豊玉姫神とされていましたが、この境内社はおそらく本社が貴船神ではなく売布神の社になったときに建てられ、本社の祭神ではなくなった貴船神をこちらに祀ることになったのだと思います――貴船神といえばトヨタマヒメのことなので。トヨタマヒメ豊玉姫で、つまり豊玉神社の祭神、豊玉姫神のことです。

f:id:hanyu_ya:20201123160453j:plain売布神社の社号標についての説明板

 

 他方、松江の売布神社には摂社の和田津見神社があり、櫛八玉神と豊玉彦神、豊玉比売神を祭神としています。こちらも海が近いから海神を祀っているのだろう程度に思っていましたが、二つの売布神社における共通の祭神が豊玉彦豊玉姫であり、宝塚の売布神社貴船大明神とされていたことを併せ考えると、売布神とは本来トヨタマヒメのことではなかったかと思います。

 

 トヨタマヒメはカナサキの子孫であるハデツミ(鹿児島神宮祭神)の娘で、十代天君ニニキネの息子で、山幸彦として知られるヒコホオデミが兄から借りて失くした釣り針を探し求めて九州に至ったときに彼と出会い、その妻となりました。二人の宮跡が青島神社です。やがてヒコホオデミが父の跡を継いで十一代天君になることが決まり、急いで近江の国へ帰ることになり、トヨタマヒメは後から行くことになりました。そのとき彼女は身籠っていて、早船の旅は危険だったからです。臨月も近く、すでに産屋に移っている状態でした。その産屋の跡が鵜戸神宮で、生まれてくる子――のちにウガヤフキアワセズと名付けられる子のために建てられた産屋の跡なので、当宮の祭神は日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊なのです。日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊=ヒコナギサタケ“ウガヤフキアエズ”ノミコト――すなわちウガヤフキアワセズのことです

 

 出産に備えて産屋に移っていたトヨタマヒメでしたが、子供が生まれる前に近江へ向かうことになりました。夫が天君となり、お腹の子は無事に生まれれば天君の第一子なので、子の将来のためにも、田舎で生むわけにはいかなかったのかもしれません。あるいは皇后となって正妻の地位を維持するためにも離れているわけにはいかなかったのかもしれません。理由はともかく、身重で旅立ったトヨタマヒメは近江に着く前に産気づいてしまい、途中の小浜で子を生むことになりました。その時の産屋の跡が若狭一宮の若狭姫神社です。急造の産屋で生まれた子に、母親のトヨタマヒメはウガヤフキアワセズと名付けました。茅葺きが間に合わなかった――という意味で、史上稀に見るヘンテコリンな名前です。いったいどんな思いだったのでしょうね。

 

 ということで、トヨタマヒメは宮崎から小浜経由で近江に入っているので、出雲国に寄った可能性が大いにあります。なので、松江の売布神社はその時にトヨタマヒメが立ち寄って滞在した宮か何かの跡ではないかと思います。宝塚の売布神社は、ヒルコはカナサキによってヒロタノミヤ=広田の宮(現在の広田神社)で育てられていたので、その頃に周辺地域で機織りや稲作の指導をしたとも考えられます。そのヒルコを称えて祀っていた場所にトヨタマヒメが縁を持つことになり、神上がったのちにヒルコと一緒に祀られたのではないでしょうか。ヒルコとトヨタマヒメには三世代の開きがあるので。

 

 売布神社を後にすると、まだ時間的に余裕があったので、駅に戻って再び宝塚線に乗り、隣の中山観音駅で下車。西国三十三所の第24番札所の中山寺へと向かいました。

 

 山門前に到着すると、けっこうな人出で、久しぶりに人が多いと思う混み具合でした。山門をくぐり、露店なども出ている塔頭が並ぶ参道を歩くと階段に突き当たるのですが、その隣にエスカレーターが設置されていたことにまず驚きました。お参りをするのにエスカレーターを使ったおぼえがあるのは、江戸城の鎮守である日枝神社ぐらいで、日枝神社は首都東京のド真ん中の赤坂にあるので、なんとなく納得していましたが、宝塚という地方都市にある中山寺が何故そこまでするのかわからず、「???」という感じでした。お参りという一種の行においてエスカレーターを使うのも気が引けたので、歩いて階段を上ると、境内は予想外に広く、本堂に行くにはもう一つ階段を登る必要がありました――こちらにもエスカレーターがありましたが。

f:id:hanyu_ya:20201123162500j:plain中山寺山門

f:id:hanyu_ya:20201123162607j:plain本堂に続く階段の隣にあるエスカレーターと五重塔

 

 本堂の奥には五重塔もあり、わりと境内を見るのに時間がかかりそうだったので、先に腹ごしらえをしようと思い、まずは観音茶屋の案内が出ている大国堂のほうへ向かうことにしました。ちょうど時刻も12時を回ったところだったので。すると、右手に予期せぬものを発見し、思わず瞠目。なんと古墳があり、しかも柵もなく自由に石室内に入れて、中に石棺まであったのです。

f:id:hanyu_ya:20201123162749j:plain古墳の入口

f:id:hanyu_ya:20201123162845j:plain古墳内の石棺

 

 入口脇にあった説明板によると、この中山寺古墳は、寺伝によれば14代仲哀天皇の后である大仲姫の墳墓とされ、「石の櫃」と称されるとのこと。仲哀天皇日本武尊の子で、神功皇后とのあいだに応神天皇をもうけたことで知られます。つまり熱田神の子であり八幡神の父です。仲哀天皇には神功皇后の他に妃が二人いて、そのうちの一人が大仲姫命です。大仲姫命は日本武尊の異母弟である彦人大兄命の娘なので、仲哀天皇とは従兄妹の間柄であり、彼女が生んだ子が仲哀天皇の長男と次男なので、仲哀天皇が即位以前に娶った最初の妻は大仲姫命だったと考えられます。神功皇后仲哀天皇の即位後に立后し、応神天皇は父天皇崩御して10か月後に生まれた遺腹の子なので、明らかに大仲姫命より後に迎えられた妻です。

f:id:hanyu_ya:20201123163149j:plain石の櫃に着いての説明板

f:id:hanyu_ya:20201123163247j:plain中山寺古墳ついての説明板

 

 被葬者が大仲姫かどうか真実は定かではありませんが、死後に神として祀られた貴人の葬地だったからこそ、この地は聖地として崇められ、古来の聖地だったからこそ、この地が選ばれて中山寺が建立されたのは明白です。同じく聖徳太子の開基と伝わる第31番札所の長命寺も第32番札所の観音正寺も、磐座と思われる巨石が残る古代祭祀の聖地に建立された寺でした。比叡山高野山も、元々はヤマクイとイブキドヌシの聖地です。よって、神社ではなく寺であっても、平安時代前期ぐらいまでに建立された古刹は、古来の聖地を選んで建てられているのかもしれません。

 

 観音茶屋に到着すると、選べるアルコールとちくわの磯辺揚げがセットになったちょい呑みセット500円というメニューがあったので、そちらを注文し、飲み物はチューハイを選択。ジョッキか何かで出てくるのかと思いましたが缶チューハイで、神戸居留地のストロングチューハイでした。

 

 ひと休みして本堂へ行くと、こちらもたいそうな賑わいで、コロナ禍中とは思えないほど混雑していました。行くまで知らなかったのですが、中山寺は現在は安産祈願の寺として有名らしく、本堂の前には仮設テントの祈祷申込所まで設置されている有り様で、あまりの人気ぶりに驚いたのですが、どうやらこの日は戌の日だったので、余計に人が多かったみたいです。たくさんの妊婦さんや小さなお子様連れを見て、エスカレーターがあることも合点がいきました。私は西国三十三所の札所で、聖徳太子の建立と伝わる古刹だから行ったのですが、御守り授与所を覗いても安産守しか見あたらなかったので何も買わず。売布神社のあと中山寺に行く余裕があると思っていなかったので、朱印帳もロッカーに入れてきたため、御朱印をいただくこともできませんでした。紙でいただくこともできるはずですが、西国三十三所御朱印朱印帳にいただいているので……。なので、お参り後、平成29年に再建されたという見るからに新しい青い五重塔を見て引き上げました。

f:id:hanyu_ya:20201123165203j:plain本堂の裏。青空があっという間に雲で見えなくなりました。

f:id:hanyu_ya:20201123165300j:plain本堂屋根の鬼瓦

 

 せっかくなので、帰りはエスカレーターを使ってみると、降りたところに「梵天」というお休み処があったので、昼食を摂ることにしました。店に入ると、最初に目についた、たこ焼とうどんのセットを注文したのですが、席で待っているあいだに、中山寺名物の「蓮ごはん」というメニューがあることを知り、どうしても気になったので追加。結果、とんでもないボリュームになり、少し前にちくわを食べて缶チューハイ1本を空けていたこともあって、動くのが億劫なくらい腹いっぱいになりました。

f:id:hanyu_ya:20201123191357j:plain店内に貼られていた中山寺名物「蓮ごはん」についてのポスター。蓮の葉で包まれた炊き込みご飯です。

f:id:hanyu_ya:20201123165548j:plainたこ焼と「蓮ごはん」

f:id:hanyu_ya:20201123165640j:plainうどんと「蓮ごはん」。蓮の葉を開くと、こんなカンジ。

 

 2時過ぎに宝塚駅に戻って、2時半には宝塚大劇場に入り、開演まで1時間ほどありましたが、コーヒーすら飲む気がしないほどの満腹状態だったので、武庫川が見えるテラスの席に座って時間をつぶすことにしました。その時にスマホをいじっていたら、GoToトラベルを利用した宿泊予約でクーポンが付与されていることに気づき、大劇場のショップでもクーポンが使えることがわかったので、急いで使い方を調べました。そして、どうにか理解したのでショップに行ったのですが、その店では紙クーポンのみ利用でき、電子クーポンは使えないとのこと。クーポンには紙と電子があり、電子は使えないところがあるという認識はまったくなく、そのとき初めて知りました。このときレジに持っていったのはクーポンが使えるなら買おうと思った土産物ばかりだったのですが、レジスタッフにクーポンが使えないのなら買わないとも言えなかったので、仕方なく現金払いで購入しました。

 

 松本悠里前理事のサヨナラ公演で、坂玉サマこと坂東玉三郎氏監修の和風レビューと、男役トップスターの男女二役という微妙な感じのミュージカルを観終わると、宝塚駅に行き、ロッカーから荷物を引き上げて、JR線に乗車。途中尼崎駅で乗り換えて、8時前に京都駅に到着し、ホテルにチェックインすると、夕食を摂るために再び駅構内へ。大劇場で使えなかった電子クーポンの有効期限がその日で切れるため、電子クーポンが使える店に入りたかったのですが、「はしたて」は紙クーポンのみの取り扱いだったり、グランヴィアの「ル・タン」は営業時間短縮でラストオーダーが終わっていたりで、しばらくさまようことになりました。ポルタの「田ごと」に至って、ようやく9時まで開いていて電子クーポンも使えたので、いつもの京ゆば御膳セットと玉乃光を注文。食事後ホテルに戻り、日程終了です。

f:id:hanyu_ya:20201123170200j:plain安定の味、京ゆば御膳と玉乃光の組み合わせ。昼に食べ過ぎたので 夜は軽く済ませるつもりだったのですが……。

関西寺社遠征&明智光秀紀行⑨ その2~福知山城、福知山光秀ミュージアム、御霊神社

 二日目は、9時にホテルを出たあと、ちょっと用があったので、9時から開いているはずの駅構内の観光案内所に行き、ついでに毎正時に駅前から出発する光秀ルートのバス以外に福知山城近くまで行くバスがないかを確認。しかし、あっさり「ない」と言われたので、前日に続き、歩いて福知山城へと向かいました。

 

 7月に福知山から帰ってくると、福知山市からふるさと納税の返礼品として送られてきた福知山城天守閣と光秀ミュージアムの無料チケットが届いていたので、年内に再訪することは決めていました。福知山には光秀関連の見どころの他にも、皇大神社豊受大神社、天岩戸神社という元伊勢の三社や、小式部内侍の歌や鬼伝説で知られる大江山、また、電車で1時間ほど行けば光秀の首塚がある盛林寺もあるのですが、7月には行けなかったので。

 

 しかし残念ながら、前回に続いて今回も天気が悪いため、足場の悪いところを歩き回る寺社巡りはあきらめ、とりあえず午前中に福知山城と光秀ミュージアムの会場である佐藤太清記念美術館に行き、午後は、いまだに行けていない亀山城を訪れることにしていました。宗教法人大本の管轄である亀山城は、コロナ禍で公開が長らく中止されていたのですが、10月からようやく再開され、亀岡までは福知山から特急で1時間ほどなので。

 

 9時半過ぎに福知山城に到着すると、ドリンクは持っていましたが一気飲みできそうだったので、本丸広場にあった「明智光秀が話す自動販売機」にチャレンジしてみることに。前回いくつか見かけたのですが、すでにドリンクを持っていて荷物を増やしたくないなどの理由で、試せなかったので。商品ラインナップを見ると、今大ブレイク中の「鬼滅の刃」缶コーヒーがあったので、そちらを選択。歩いてきて喉が渇いていたので飲み干すと、特にファンというわけではないので、缶を近くのゴミ箱に捨てて天守閣に入りました。

f:id:hanyu_ya:20201108232343j:plain二度目の福知山城

f:id:hanyu_ya:20201108232437j:plain本丸広場にある「明智光秀が話す自動販売機」。ひと言ふた言かと思ったら、けっこうしゃべってくれました。

 

 展示内容は7月に来たときとほぼ変わっていませんでしたが、2018年の竜王戦が開催された特設対局場が公開されていて、その奥でシアターが見られました。それと、「いがいと!福知山」のPR武将に就任した「イケメン戦国」のキャラクター、明智光秀のパネル展示と、ゲーム内でCV(キャラクターヴォイス)を担当している声優、武内駿輔さんによる音声ガイドが前回はなかった点。ガイドでは武内さんがゲームの光秀に扮して案内してくれます。なので、

「ようこそ、福知山城へ。俺は明智光秀。この城を築いた戦国武将だ。今日は俺がこの城の案内をしてやろう。……まあ、そう気負うな。肩の力を抜いて、ゆっくりしていくといい。」

 から始まり、

「俺が丹波を平定したあとの話をしようか。」

 と切り出して、ひととおり説明してくれたあと、

「江戸時代には御霊神社に俺が神として祀られたらしいな。後の世で、広く大衆に己の功績を讃えられるとは……人間、一度死んでみるものだな。」

 などと言って、ガイドを締めくくります。いやはや、こんなガイドは聞いたことがなかったので、なかなかおもしろかったです。「本当に手を変え品を変え、よくやるよ、福知山city!」と、そのアイデアと実行力に改めて感心しました。

f:id:hanyu_ya:20201108232901j:plain竜王戦の特設会場

f:id:hanyu_ya:20201108233022j:plain座敷の窓からは釣鐘門が見えます。

f:id:hanyu_ya:20201108233122j:plain福知山・光秀シアター「天涯の刃 我、乱世を翔けり」の冒頭。光秀が定めた「明智家家中軍法」の末尾にある言葉の意訳で、これが書かれたのは本能寺の変の1年前のこと。1年前にこれほどの想いを抱いていた相手を滅ぼすほどの翻心とはいったい……だから本能寺の変は謎なのです。

f:id:hanyu_ya:20201108233351j:plainPR武将のパネル展示の様子その1。福知山城内にゲーム内の光秀の部屋が再現されていました……といってもイラストですが。けれどもゲーム内の部屋自体がそもそもイラストなので、再現といってよいと思います。

f:id:hanyu_ya:20201108233522j:plainPR武将のパネル展示の様子その2。向かって右は「いがいと!福知山」のオリジナルイラストで、福知山ドッコイセまつりの浴衣バージョン。福知山踊りは「福知山城築城の際、多くの領民が石垣の石や木材を運んだときに、「ドッコイセ、ドッコイセ」というかけ声にあわせ、手ぶり足ぶり楽しげに踊り出したのが、福知山踊りと、一緒に唄われる福知山音頭の始まりと言われている」と、PR武将がみずから音声ガイドで説明してくれました。

f:id:hanyu_ya:20201108233637j:plainPR武将のパネル展示の様子その3。現代的なスーツバージョンも含めて、好きなコスチュームを選ぶ人気投票コーナーも設置されていました。

 

 天守の最上階まで見学すると、城外の見どころも案内してくれるようなので、外に出て、音声ガイドに従って転用石の石垣や、銅門番所、豊磐井などを見学。番所や井戸などは江戸時代以降の遺構だと思い、前回は雨のためスルーしたので、改めて説明が聞けてよかったです。しかも光秀から(笑)。

f:id:hanyu_ya:20201108233842j:plain転用石の石垣。見るからに墓石の土台と思われる石が随所にあります。

 

 音声ガイドで案内してくれるところをすべて見終わると、登坂道を降りたところにある光秀ミュージアムへ。ここでは開館期間を10期に分けて展示替えをしているのですが、本徳寺の肖像画をはじめ光秀関連の史料が多かった前回に比べると、今回は信長関連の資料が多かったので、さらっと見て、隣のゆらのガーデンにある福知山城おみやげ処へと向かいました。というのも、福知山でしか買えないPR武将グッズというものがあるのですが、その販売場所がこのおみやげ処と駅の観光案内所の2か所で、それゆえ福知山城に来る前に観光案内所に寄ったのですが、目当てのA4クリアファイルは残念ながらどちらも売り切れでした。

f:id:hanyu_ya:20201108234022j:plain佐藤太清美術館2階の光秀ミュージアムの入口の前にあるパネル。ここから中は撮影禁止です。

f:id:hanyu_ya:20201108234121j:plainゆらのガーデン入口の飾り。ハロウィン仕様でした。

 

 せっかく来たのに何も買わないのもさびしいので、どこに飾るんだと自問しつつも、記念に福知山オリジナルイラストのアクリルアートを購入。ついでに栗菓子を買って店を出ると、11時半を過ぎていたので昼食を摂ろうと思い、ゆらのガーデン内にある「焼肉ゆらの」に入店。スマホで調べたいことがあったので、自分で焼かなくていいメニューを訊いて、その中からビビンバ重を選びました。

f:id:hanyu_ya:20201108234302j:plain「焼肉ゆらの」のビビンバ重

 

 午後は、京都方面行きの特急電車は1時間に1本なので、12時44分発か13時46分発で亀岡に行こうと思っていたのですが、料理を待っているあいだに亀岡の天気を調べると、1時間に5ミリの雨とのこと。台風14号は変な進路で、北上して日本列島に突き当たると列島の南岸を沿うようにして東に進むという予報だったため、太平洋側のほうが被害が大きく、南から天気が崩れてきて、和歌山県はすでに防風雨、京都府京都市亀岡市を含む京都南部は今後大雨の予報でした。なので、なんとか曇りで天気がもっていて現時点で雨が降っていない福知山から、すでに雨が降っていてこれから強まることが予想される亀岡にわざわざ出向くのもいかがなものかと思い、交通機関が乱れることも予想されたので、亀山城は断念し、いつ天候が崩れてもいいように、嵐になってもすぐにホテルに避難できるように、福知山市内で過ごすことにしました。

 

 電車での移動がなくなったので、のんびりと食事をしてから店を出ると、PR武将も動画で紹介していた仏蘭西焼菓子調進所「足立音衛門」に足を運んでみることにしました。城から歩いて5分程度のところですが、光秀が由良川の水害対策のために築いたという明智藪が近かったので、そちらに寄ってから行くことにしました。

f:id:hanyu_ya:20201108234632j:plain明智藪」こと蛇ヶ端御藪と説明板。福知山光秀プロジェクト推進協議会発行のガイドブックによると、それまで西に蛇行していた由良川の流れを北に変えて流路の安定化を図り、かつての川底に16町からなる城下町を築いたといわれているそうです。

 

 「足立音衛門」は京都府指定文化財にもなっている大正元年築の旧松村家住宅を店舗にしているのですが、藪の向かい側がその敷地の裏門で、門が開いていたので入ってみると「光秀が話す自動販売機」を発見。何故ここにあるのか疑問だったので立ち止まって凝視していると、敷地内を歩いていた人に「その自動販売機、話すよ」と声をかけられたので、「ああ、知っています。福知山城で買ってみました」というようなことを答えたら、「場所によって話す内容が違うらしいよ」と言われたので、「え、そうなんですか?」と真面目に驚き、「じゃあ、もう1回買ってみようかな」と言って、またまた「鬼滅の刃」缶コーヒーを購入。今度もいろいろ光秀がしゃべってくれましたが、福知山城の時と内容が違うかはわかりませんでした――おぼえられる量ではなかったので。帰宅後に「いがいと!福知山」のホームページから入手した情報によると、基本フレーズは硬貨投入時に「ときは今! 明智光秀、ここに見参!」、商品選択時に「敵は本能寺にあり!」、商品落下時に「ドッコイセ~ドッコイセ♪ いがいと!福知山 よいところであろう?」だそうで、その他に時間限定フレーズとか場所によって違う隠しフレーズとかがあるみたいです。本当に芸が細かい。

 

 「130円使わせちゃって悪かったね」と言われたので「いえいえ」と答えましたが、その時は缶コーヒーを1本飲みきる自信がなかったので、声をかけてくれた人が建物の中に消えるのを待ってバッグの中にしまいました。

 

 敷地内を通って表通りに抜けると、右隣が「足立音衛門」の店舗でした。店に入ると、食べてみたいものは日持ちしない要冷蔵の物が多かったので、まずは栗のジェラートを食べることに。店内では食べられなかったので、外のベンチに座って食べながら、その日の行動予定と併せて考えた末、栗菓子をバラで5点ほど購入。それから広小路通りに出て北から南まで歩くと、光秀を祀る御霊神社に突き当たりました。

 

 御霊神社は、前回来たときに境内は見ていて、社務所で資料も購入しているので、参拝をしたあと、叶石だけじっくり見てきました。というのも、境内社でもなかったので前回はよく見なかったのですが、NHK大河ドラマの放送後にやる紀行で福知山が取り上げられたときに紹介され、思兼神と手力男命を祀っていることを知ったからです。

f:id:hanyu_ya:20201109013449j:plain御霊神社の叶石

f:id:hanyu_ya:20201109013540j:plain叶石についての説明板

 

 御霊神社の主祭神宇賀御魂大神で、またの神名を保食神――すなわちウケモチのことですが、これは稲荷神のことです。稲荷神を祀る神社は全国にそれこそ腐るほどあるため気にしませんでしたが、思兼神と手力男命が一緒に祀られている聖跡があるとなると話は変わってきて、当社の起源が俄然興味深いものになります。

 

 手力男命は配祀神や合祀神として見かけることも多く、戸隠神の神名で境内社の祭神であることも多々ありますが、阿智神である思兼神を祀る神社はそれほど多くありません。しかし『ホツマツタヱ』によれば、思兼=オモヒカネは、天照=アマテルの姉であり妹である昼子=ヒルコの夫で、手力男=タチカラヲはこの二人の息子です。つまり思兼神と手力男命は父子であるため、本来一緒に祀られるのは極めて自然なことなのです。それゆえ戸隠神社では、本社である奥社にタチカラヲを、中社にオモイカネを祀っているのです。けれども、この親子関係を知らなければ、有名な手力男命とともに思兼神という地味な神を祀ることはないような気がするので、叶石こそが二人が親子であるという認識が普通だった頃に祀られた古くからのものではないでしょうか。イナリ=稲成ということで、稲作の神である宇賀御魂大神は田を拓いた場所であればほとんどの地に勧請されて祀られてきました。よって、元々は思兼神と手力男命の父子が祀られていたところに、あとから祀られたのではないかと思います。親子共々信州に鎮座する神が丹州のこの地に祀られた理由はわかりませんが。

 

 御霊神社を後にすると、「足立音衛門」で1時間ぐらいの保冷剤を入れてもらってからちょうどそのぐらい経ったので、一度ホテルに戻って栗菓子を冷蔵庫に入れ、それから近くの「明智茶屋」へと向かいました。遅ればせながら昼食後のコーヒーを飲むためと、前回食べ損ねた桔梗ロールを食べるためです。がっつりビビンバ重を食べたので空腹ではありませんでしたが、前に夕方に行ったら売り切れだったので。

f:id:hanyu_ya:20201108235723j:plain明智茶屋」の光秀プレートセット。食後のデザートにしてはボリュームがありすぎました。これを食べるために広小路通りや御霊神社などを歩き回ったのですが。栗のジェラートも食べていましたし。

 

 これで歩いて行ける範囲内で気になる場所には全部行ったのですが、まだ2時半過ぎだったので、残りの時間は福知山市立図書館で過ごすことにしました。

 

 図書館は二度目で場所はわかっていたので「明智光秀コレクション」コーナーに直行し、近くの閲覧席を確保して、まずは開架図書を物色。『慶長三年醍醐寺の夜(太閤夜話 明智光秀の巻)』という本が目に留まり、醍醐寺、太閤、明智光秀という文言に魅かれて読みはじめました。ネタバレしてしまうと、明智光秀本能寺の変後も生きていて、自分がもう長くないことを察している豊臣秀吉に呼び出されて語らう話です。ありがちな設定だけに描写力が問われますが、おもしろかったので、ほぼその場で読んでしまいましたが、あとで買おうと思いました。手元に置いて読み直したいと思ったので。

 

 それから『明智一族 三宅家の史料』という分厚い本を見つけ、もしかして熊本の三宅家の史料ではないかと思ったので内容を確認すると、思ったとおりで、三宅家に残されていた史料をまとめたものでした。熊本県立美術館で「細川忠利と三宅藤兵衛 肥後にやってきた、光秀の孫たち」という特別展が開催されたように、熊本の三宅家は光秀の孫にあたる三宅藤兵衛の子孫で、藤兵衛は光秀の娘と、明智秀満と同一人物とされる明智光春の子といわれています。

 

 ということで、光秀やガラシャこと玉、忠興らの書状の他、三宅家の系図や家譜、つまり明智家の系図や家譜も載っていたので、これはラッキーと思い、席に戻って、コピーを取るために必要なところをピックアップしたのですが、なにしろ830ページもある上に、活字に直されている翻刻文とはいえ古文書なので、吟味に時間がかかりました。「これはまともに読んでいると、いつまで経っても終わらない」と思い、系図と家譜に絞って、拾い読みに変更。途中で後半は同じ内容の読み下し文であることに気づいたのですが、結局60枚ほどコピーを取ることになりました。歴史研究においては史料を参照するときにはより原書に近い翻刻文をあたるのが基本ですが、解読の自信がなく、読み下し文を捨てて翻刻文だけに絞ることができなかったので。そのため、資料複写申込をしてコピーが終わったときには4時半になろうかという時間でした。ピックアップしている途中で、もはやこれは買ったほうが早いのではとも思ったのですが、スマホで調べたら定価24,000円(税別)の本だったので、買うという決心はできませんでした。コピーはもちろん有料ですが、それでも600円ぐらいで済むので、買うよりはずっと安上がりです。

 

 コピー終了後、感染対策のため長時間の利用は控えてくださいというようなことも書かれていたので、サービスカウンターで枚数が複写許可の規定以内であることを確認してもらってから本を書棚に戻すと、図書館を出てホテルに戻り、その日は終了です。

 

 熊本に行っても出合えなかった、熊本に残されていた史料に福知山で出合えるというのも、また不思議なもので、これこそ旅の醍醐味であり、まさしく明智光秀が繋いだ縁というもの。三宅藤兵衛の父と伝わる秀満は生前は福知山城の城代でしたが、福知山ではなく熊本に伝わったからこそ光秀関連の文書も大事に受け継がれて、現代まで残されてきたように思えます。熊本は藩祖が光秀の孫であり、しかも54万石の大藩、つまり深い血縁関係と経済的余裕があったことで、長岡忠恒・忠春兄弟(細川忠隆の子)や三宅藤右衛門(三宅藤兵衛の子)など光秀の子孫を招聘し高待遇で召し抱えました。その確たる事実が、三宅家史料が失われたり散逸したりすることなく現代に残った大きな理由だと思います。

 

 今回出合った、光秀の孫の家に伝わってきた貴重な一次資料を読み込めたら中途半端になっている明智家の系図研究も飛躍的に進みそうなのですが、遠征記が後手後手になっているので、現在そちらは放置しています。手をつけてしまえば、ハマることは必然なので。大河ドラマが終われば、特別展などの明智光秀関連のイベントも落ち着いて、それほど多くなくなるはずなので、予定している遠征をすべて終えて、今入手できる材料が出揃ったら、しばらく引きこもって、どっぷり浸かって考察に励みたいと思います。

兵庫寺社遠征&明智光秀紀行⑨ その1~福知山城ライトアップ

 はや11月です。今年も残すところ、あと2か月となりました。9月の熊本遠征記をようやく文化の日に書き終わったところですが、先月も2回遠征をしてきたので、順に記事を書いていきたいと思います。

 

 さて、10月は月初にカード入れを紛失し、どこで失くしたかわからなかったので、その前週に行った店を再訪して忘れ物や落とし物がなかったか訊いてまわったのですが、見つからなかったので、入っていたクレジットカードをすべて止めることにし、解約したり再発行の手続きをしたり新しいカードを受け取ったりでバタバタしていました。幸い、どれも不審な使用履歴はないと言われたので安心したのですが、8日から三泊四日で関西に行く予定を入れていたので、メインのゴールドカードとSuica機能が付いているカードを失ったのは不便極まりなく、さらに、そのカード入れの中には再発行してもらえるカードだけでなく、再発行できない限定バージョンの各種カードも入っていたのでショックが大きく、あきらめきれずに探していたところ、探しはじめてから三日目に地元の図書館から電話があり、貸出カードが入ったカード入れが届いているという連絡が金沢の警察署からあったとのことでした。それにより、5日に仕事で金沢に行ったときに、どうやら昼食か夕食で寄ったいずれかの店で忘れてきたらしいことが判明。運よく見つかって安堵しましたが、余裕のないスケジュールを組むとロクなことがないと、しみじみ思いました。この時の金沢行きは日帰りの強行軍だったので。

 

 で、気がかりもなくなったので、予定どおり8日の昼で仕事を切り上げ、品川発13時37分ののぞみに乗車し、15時44分に京都駅に到着。本来この時間に着けば考古資料館に行ったり本能寺に行ったりしたように、5時まで開いている施設に余裕で行けるのですが、この時は台風14号が襲来していて、その日も雨降りで外を歩くのが億劫だったので、JR京都伊勢丹の7階にある美術館「えき」KYOTOで開催している「キスリング展」を観ることにしました。

 

 キスリングは、フリードリヒ、マグリット、ルソー、ミュシャラファエロクリムトのように海外まで作品を観に行くほど好きな画家というわけではないのですが、ミモザの絵だけは大好きで、機会があれば観ることにしています。今回も1枚でも観られればよいと思っていましたが、個人蔵とパリ市立美術館蔵の作品が来ていたので、行ってよかったです。キスリングのミモザは小さな丸い花の一つ一つにたっぷりの絵具をのせて描かれているのが特徴で、その画法による立体的な描写から生まれる迫力と、緻密な表現による繊細さが同居しているところが魅力。久しぶりに実物を味わえ、正直なところ9月に観た国立西洋美術館のロンドン・ナショナル・ギャラリー展よりも格段に満足感がありました。

 

 ちなみに、ロンドン・ナショナル・ギャラリー展は、すべての作品が初来日ということで、これは観るべきではないかと思い行ったのですが、世界的にメジャーな一流画家の凡作の集積という印象で、多くの所蔵品の中でも長期間館外に出してもかまわない作品だから貸し出しが許されたのではないかと思ったほど。まったくの期待外れで、事前予約までして観に行くほどではなかったとがっかりしました。最初に予約した日時は都合が悪くなり行けなくなって再予約する羽目になりましたし、入場制限しているわりには密な会場でしたし。

 

 美術館を出ると4時半過ぎで、e5489で予約した特急電車の出発時刻まで1時間弱あったので、西口改札前のイートパラダイスへ行き、料亭「和久傳」がやっているカジュアル店「はしたて」で、3~5時までの軽食メニューである「むしやしない」を食べることに。5時10分を過ぎると店を出て、改札近くのキオスクでタカラ缶チューハイを調達してから嵯峨野線のホームへ行き、すでに停車していた17時28分発の特急きのさき13号に乗車。

f:id:hanyu_ya:20201107001229j:plain 「はしたて」のむしやしない

 

 今回の関西遠征は、大津市歴史博物館で10月10日から始まる企画展と11日までのミニ企画展が目的で、それゆえ両方が見られるのはこの土日しか日程がなかったので、4か月前から決めていたのですが、どうせ関西に行くのならタカラヅカも観たいと思い(コロナのせいで販売席数が減って、東京公演のチケットが取れにくくなっているので)、いつもチケットの手配を頼んでいるヅカ友に、10日か11日の大劇場のチケットが取れないか頼んだら用意してくれたので、宝塚まで行くことにしました。

 

 そして宝塚まで行くのなら、特急電車で1時間ほどなので、福知山を再訪することにしました。というのも、ふるさと納税の返礼品で謀反のお知らせハガキと一緒に送られてきた福知山城と光秀ミュージアムのチケットがまだ残っていて、しかも福知山城ではスマホゲームの「イケメン戦国」とのコラボ企画も始まったので、いずれにしろ年内にもう一度行こうとは思っていたので。今回は大津を中心に考えていたので、福知山城に行くのは12月ぐらいと考えていたのですが、調べたら、ふるさと納税で集まった寄付金で10月から文化の日まで1か月ほど福知山城でライトアップをやっているという情報を得たので、この機に足を延ばすことにしました。

 

 ということで、18時52分に福知山駅に到着すると、7月に来たときと同じ駅近のホテルにチェックイン。そして部屋に大きな荷物を置くと、雨が止んでいたので、さっそく福知山城へと向かいました。城に行くバスがすでに終わっていることも、道順もわかっていたので、歩きです。

 

 時刻は7時10分ぐらいで、この時間に行っても城とミュージアムは閉館していて中には入れないので、次の日の夕方から夜にかけて訪問し、城内とミュージアムの見学およびライトアップ見物を一緒にするほうが効率はよかったのですが、台風が近づいていて雨の可能性が高かったので、二日続けて訪れることにしました。ホテルから歩いて15分ほどで行ける距離なので。城内やミュージアムの見学は雨が降っていてもかまいませんが、ライトアップは雨の中で見物しても楽しくないので。

 

 城の登坂道に到着すると、木曜の夜でしたが、思っていた以上に人出がありました。金曜土曜は台風が日本列島に最接近し大雨の予報だったので、予定を前倒しして早めに見に来たのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201106234753j:plainライトアップされた福知山城の石垣。上に見えるのは釣鐘門。

f:id:hanyu_ya:20201106234256j:plain本丸広場のプロジェクションマッピングとライトアップされた福知山城

f:id:hanyu_ya:20201106234348j:plain本丸広場のプロジェクションマッピングとライトアップされた福知山城

f:id:hanyu_ya:20201106234452j:plain北側城壁のプロジェクションマッピング。石垣に桔梗紋が咲きました。

f:id:hanyu_ya:20201106234659j:plain北側城壁のプロジェクションマッピング。カラフルにもなりました。

f:id:hanyu_ya:20201106234056j:plain登坂道のプロジェクションマッピング

f:id:hanyu_ya:20201106234150j:plain登坂道のプロジェクションマッピング。水の流れが桔梗紋に変わりました。

 

 城の外周を一周し、8時過ぎに引き上げて9時前にはホテルに戻り、その日は終了。翌9日、再び福知山城に向かう前に駅構内にある観光案内所に寄ったら、暴風雨に備えて機材を撤去するため、本日から15日まで城のライトアップは中止という案内があったので、二日連続で訪れる羽目にはなりましたが、前日城に行っておいたのはいい判断だったと自分を褒めたくなりました。

 

 物事は総じて、懸念や不安材料があるときは用心するに越したことなく、運が悪かった場合のパターンを想像し、それを回避するための対策を立てて、たとえその対策を実践すると効率は悪くなろうとも、当初の目的を確実に成し遂げたいのなら、費やせる労は惜しまぬ選択をするのが正解だと改めて思いました。予定より労力や時間、そしてお金がかかったとしても、目的を果たせないよりは数段マシですから。目的を果たせなかった原因が、人間が勝てない自然のせいであっても、わざわざ遠方から見に来たものを見られずに帰るというのはたいそうがっかりで、二度手間以上にショックが大きいものです。よって極力避けたいですから。

熊本寺社遠征&明智光秀紀行⑧ その3~展覧会「光秀の残映」in島田美術館、立田自然公園(泰勝寺跡)

 最終日の四日目は、9時にホテルをチェックアウトしてキャリーバッグを預かってもらうと、三つの目的の最後の一つである島田美術館へと向かいました。というのも、当初は6月22日までの予定だった展覧会「熊本に明智光秀の血脈あり! 光秀の残映」が、途中コロナ禍で休業を余儀なくされたため、会期延長して12月まで開催されているからです。桜町バスターミナルから10分ほどバスに乗り、慈恵病院前バス停で下車。そこから徒歩3分ほどで到着しました。

 

 島田美術館といえば、自画像をはじめとする宮本武蔵関連の資料を多く所蔵していることで有名ですが、武蔵を熊本に招聘し客分扱いで召し抱えたのが細川家初代熊本藩主の忠利です。その忠利は細川忠興明智玉(細川ガラシャ)の三男なので、玉を含めた細川家関連の資料もかなり所蔵しています。特に今回の展示では、忠興と玉の長男である細川忠隆を祖とする細川内膳家伝来の品々が充実していました。ちなみに、三男の忠利が細川本家の当主となったのは、長男の忠隆が父忠興の不興を買って勘当され廃嫡となり、次男の興秋は叔父興元の養子となっていたからです。

 

 細川内膳家の家紋は細川本家と同じ九曜紋ですが、裏家紋は土岐明智氏の桔梗紋で、実際に二つの家紋が併用されている道具がいくつか見られました。しかもそれらが硯箱や幟旗などという、日常的に使用する物や多くの人が目にする物なので、こういう物の存在を突き付けられると、改めて江戸時代において明智光秀の血筋であることは秘すべきことではなかったのだということがわかります。

 

 そもそも、光秀の重臣だった斎藤利三の娘である福が将軍世子の乳母に採用され、養い子である家光の成人後も大奥で重きをなし、大御所家康はもちろん後水尾天皇にも謁見を許され、春日局として権勢を誇ったという史実、また、常陸から入部して新たに福知山藩を治めることになった朽木種昌が光秀を神として祀ることを許し、御霊神社が建てられたという史実なども併せ考えると、明智光秀は忌避する存在ではなかったように思えます。むしろ我々現代人のほうが学校教育によって植え付けられた意識により、長いあいだ明智光秀に対してマイナスイメージを抱いてきた――いや、抱かされてきたような気がします。最近はそれも少しずつ変わりつつあるように思えますが……。謀反人の像を祀ることを憚ったためといわれる、くろみつ像こと慈眼寺蔵の木像が黒く塗られたのは、おそらく江戸時代より前のことで、光秀の敵だった天下人秀吉を畏れたのだと思います。なので、豊臣家と敵対した徳川家が治める時代には、明智家関係者はそれほど悪い待遇ではなかったのではないでしょうか。敵の敵は友――みたいな感じで。

 

 我々が受けたのは民主主義時代の教育ですが、歴史的に考えれば、江戸時代に主流だった儒教精神や、維新以後戦前まで絶対的だった尊皇精神を経てきた末の民主主義であり、したがって民主主義時代の教育とはいえ、その根底には儒教や尊皇の精神が間違いなく流れています。歴史は分断して考えられるものではないので。何事も過去があって現在があるのですから。儒教の教えや尊皇思想が広く浸透していた国民性の上に根付いた民主主義に基づいて、勝者が作った歴史を学ばされるのが今の義務教育です。とはいえ、教える側に罪はなく、それが悪いと言いたいわけでもありません。世間的にそう決められていて、それしかやりようがないのだから。教える側も教わる側も学校で学ぶのは偏った歴史であり、歴史の一部にすぎないことを認識していればいいのだと思います。

 

 展示を見たあと、本展覧会の図録はなかったので、さんざん悩んだ末に「近世肥後の文武 清正、忠興、ガラシャ、武蔵から松本喜三郎まで」という資料を購入しました。というのも、今回の展示品に、玉に仕えていた侍女が玉の孫である二代藩主光尚の求めに応じて玉の最期について記した「霜女覚書」という史料があり、どうしてもそれについての解説が欲しかったからです。残念ながらあまり詳しいことは書かれていなかったのですが、島田美術館にこういう史料があることを思い出せる資料があれば、内容などはあとからいくらでも調べられます。ネット時代ですから。

 

 11時前に美術館を出ると、次のバスの時間に間に合うかどうかという微妙なタイミングだったので、1本遅らせて、同じ敷地内にある雑貨屋兼カフェ「木のけむり」でコーヒーを飲むことにしました。コーヒーだけのつもりでしたが、メニューを見ると「酒粕マフィン」という気になるものがあったので、そちらも注文。その時はスタッフが一人で切り盛りしていて、他の客もいて、頼んだ品が出てくるのに時間がかかったので、やはりコーヒーだけにしておけばよかったかと後悔しましたが、催促するとすぐに対応してくれました。

 

 コーヒーで流し込むようにマフィンを平らげると、急ぎ城西校北バス停へ。島田美術館の最寄りのバス停は2か所あり、次の桜町バスターミナル方面行きのバスは11時46分発で、こちらからの出発でした。行きのバスとは路線が異なり、桜町バスターミナルでの乗り場も別で、行きはどちらが先に来るのかわからず二つの乗り場を行ったり来たりしていたので、9時10分にはバスターミナルに着いていましたが、結局乗れたのは9時54分発のバスでした。

 

 12時前に桜町バスターミナルに戻ってくると、ランチで前日食べそびれたくまモンカレーを食べるつもりでしたが、マフィンを食べてしまったので、カフェには寄らずに、そのまま乗り場を変更して、次の目的地である立田自然公園に向かうことにしました。島田美術館に行く前にホテルから到着して40分以上もバスターミナルにいる羽目になったのは、美術館の最寄りの二つのバス停に行く路線を迷ったからだけでなく、立田自然公園入口バス停に行く路線の乗り場と時刻を調べたからでもありました。なので、乗り換えはスムースにでき、12時5分発のバスに乗れました。15分ほどで立田自然公園入口バス停に到着し、そこから10分ほど歩くと、立田自然公園に到着。入園料は200円でしたが、バスの一日乗車券の特典で、無料で入れました。

 

 立田自然公園は細川家の菩提寺として建立された泰勝寺の跡で、「四つ御廟」と呼ばれる、細川幽斎とその妻である沼田麝香、二人の息子である忠興とその妻である明智玉の墓があり、その他に十代から十五代藩主の墓や彼らの家族の墓があります。 

f:id:hanyu_ya:20201103205635j:plain立田自然公園についての説明

f:id:hanyu_ya:20201103205729j:plain旧境内地にある十一代藩主斉樹らの墓

f:id:hanyu_ya:20201103205817j:plain四つ御廟についての説明

f:id:hanyu_ya:20201103205940j:plain四つ御廟の入口。正面は細川藤孝の墓。

f:id:hanyu_ya:20201103210217j:plain四つ御廟。向かって右から、藤孝、麝香、忠興、玉(ガラシャ)の霊屋

f:id:hanyu_ya:20201103210345j:plain細川藤孝の墓。戒名は「泰勝院殿前兵部徹宗玄旨幽斎大居士」。ほとんど見えませんが……。

f:id:hanyu_ya:20201103210548j:plain藤孝の五輪塔の裏。刻印は「慶長十五庚戌年八月廿日」……命日です。

f:id:hanyu_ya:20201103210651j:plain沼田麝香の墓。戒名は「光寿院殿華岳宗栄大姉」。

f:id:hanyu_ya:20201103214506j:plain麝香の五輪塔の裏。刻印は「元和四戊午年七月二十七日」。ウィキペディアによると、命日は16日ですが……。

f:id:hanyu_ya:20201103210922j:plain細川忠興の墓。戒名は「松向寺殿前参議三斎宗立大居士」。

f:id:hanyu_ya:20201103211029j:plain忠興の五輪塔の裏。刻印は「延宝四丙辰年九月十五日」。ウィキペディアによると、命日は正保2年(1646)12月2日。延宝4年は西暦1676年なので、何の日付でしょうか。

f:id:hanyu_ya:20201103211225j:plain細川ガラシャの墓。戒名は「秀林院殿華屋宗玉大姉」。キリシタンですが……。

f:id:hanyu_ya:20201103211341j:plainガラシャ五輪塔の裏。刻印は「于時慶長五庚子年七月十七日」……命日です。

f:id:hanyu_ya:20201103211639j:plainガラシャの霊屋の隣に置いてあった愛用の手水鉢

f:id:hanyu_ya:20201103212141j:plain宮本武蔵供養塔

f:id:hanyu_ya:20201103212233j:plain忠興の茶室を復元した「仰松軒」

f:id:hanyu_ya:20201103212331j:plain「仰松軒」についての説明

 

 他に誰もいなかったので、40分ほどゆっくりのんびり見てまわり、13時30分発のバスに間に合うように立田自然公園入口バス停に戻って、桜町バスターミナル方面行きのバスに乗車。これにて予定していた旅程はすべて終了し、あとはバスターミナルに着いたら前日食べ損ねたくまモンカレーを食べてからホテルに戻り、荷物を引き取って、熊本駅から九州新幹線博多駅まで行き、福岡空港から東京に帰る予定でしたが、予約してある新幹線の出発時刻まで、カレーを食べても十分に余る時間があったので、市役所前バス停で降りて、熊本県伝統工芸館へ寄ることに。いわゆる大量生産品ではなく、伝統工芸的な手作り感のあるくまモングッズが欲しかったので、余裕があれば行こうと思っていたのですが、水前寺成趣園で彦一こまを手に入れていたので、最後に行けたら行くという感じにしていました。

 

 県の伝統工芸館なので、熊本市だけでなく県内中から代表的な伝統工芸品が集められていて、くまモンのコマも、島田美術館で買った資料も売っていました。「なんだ、全部ここで買えるのか」と少々悲しくなりましたが、せっかく来たので何か買って帰りたいと思い、熱心にくまモングッズを吟味。すると、スタッフの人に声をかけられ、いろいろと説明してくれましたが、銀座熊本館などで見たことがあるものばかりで、くまモンの花手箱もすでに持っているので、珍しかったのは、くまモンのい草てまりぐらい。肥後てまりは「あんたがたどこさ」の手毬唄でも知られ有名ですが、木綿糸でかがって模様を作る鞠の表面にい草が編み込まれている、い草てまりというのは知らなかったので興味深く、しかも細い木綿糸でくまモンの顔が精緻に、かつ可愛く作られていたので、大いに心惹かれました。見るからに手作りの一点物で、店頭に並んでいた商品も一つとして同じ色合いの物はなかったので、在庫分も全部見せてもらい、一番気に入った物を選んで購入させていただきました。

f:id:hanyu_ya:20201103212614j:plainくまモンのい草てまり。くまモンの左耳の右上に位置する赤と緑と黄色の編み込みがい草です。鼻を近づけるとい草の香りがします。くまモンの顔は布ではなく、細い木綿糸でかがって表現しています。箱に入っていた説明書に「草木染め 熊本い草てまり」と書かれていたので、木綿糸の色は草木染めで出しているのかもしれません。いずれにしろ根気と腕が必要な匠の技です。くまモンぐらいメジャーなキャラクターになると、こういう素敵な物がいくつも存在するので、ついつい集めたくなります。

 

 物は欲しいと思えば買うし、買うか買うまいか迷ったら買うことにしています。なので、地元発行の資料や神社グッズなどの購入もそうなのですが、旅先では基本的に悩むことなく散財しまくりです。寄付やボランティアという行動は、経済的にも時間的にも体力的にもそこまでの余裕はないので、なかなか難しいのですが、維持管理費がかかる神社や寺院や史跡、復興が大変な被災地にはできるかぎり足を運び、訪れたらケチケチせず贅沢をして、自分も楽しみつつ地域にいくばくかでもお金を落としたいと思っているので、こういう買い物は躊躇しません。だからいまだに物が増える一方なのですが……。

 

 けれども、ここ数年は、自分に買えない物はそれほど欲しいとは思わないというか、物に関しては自分が買える程度の物しか欲しいと思わなくなりました。値段が付いていない物や、付けられない物はまた別ですが……。自分が買えない物は、大抵の場合、イコール使えない、使わない、必要としない物で、分不相応な物や手に余る物は、あるとかえって面倒だということもわかってきたので……もはやなくていいと思っています。

 

 伝統工芸館を出ると、最寄りの県立美術館分館横バス停から14時37分発の「しろめぐりん」に乗車。熊本城周遊バスである「しろめぐりん」に乗ったのは熊本滞在四日目にして初めてでしたが、なんか妙な車内アナウンスで、変だと思っていたら、芸人のコロッケがモノマネでしゃべっていました。ずっと違和感を感じつつ不思議なアナウンスだと思っていたので、内容はほとんど耳に入ってきませんでした。

f:id:hanyu_ya:20201103221651j:plain伝統工芸館から見えた熊本城

 

 3時5分前に桜町バスターミナルに着き、くまモンビレッジのカフェでくまモンカレーを食べたあと、ホテルに寄って荷物を引き取り、辛島町駅から市電に乗って熊本駅へ。コロナ禍の影響か、熊本発の羽田行きは便数も少ない上に最終便の時間も早く、四日目がほとんど使えない旅程になるため、帰りは福岡空港からにしました。便数が多く、市街地からのアクセスも楽なので、行きは鹿児島、熊本、佐賀空港を利用しても、帰りは福岡空港から帰ることが多いです。

f:id:hanyu_ya:20201103214614j:plain くまモンビレッジのカフェの様子。入ったときには客が一人もいなかったので、コーヒーブレイク中らしき(カップには何も入っていませんでしたが……)くまモンのテーブルに相席させていただきました。

f:id:hanyu_ya:20201103214708j:plainくまモンカレー。海苔で顔が表現されています。

 

 熊本駅に着くと、e5489で予約した切符を券売機で発券し、16時35分発の新幹線に乗車。17時8分に博多駅に到着し、地下鉄に乗り換えて二つ目の福岡空港駅に着いたのは5時20分頃でした。もともと空港で夕食を摂るつもりで、19時15分発の便を予約していたので、レストランフロアでスパークリングワインが飲めそうな店を探していたら、展望デッキの隣に店があることを発見。前回来たときにはなかったので知らなかったのですが、行ってみると、屋根はありましたが、展望デッキ階に作られたオープンスペースのテラス席で、展望デッキと同じように窓越しではなく飛行機の離発着が眺められるので、ここで食事をすることにしました。閉鎖空間ではないため、換気状況もよさげだったので。まだ日が暮れる前で明るく、酒を飲んだり夕食を摂ったりする客も少なく、店内も空いていましたし。ちなみに、店の名前は「SORAGAMIAIR」と書いて「ソラガ・ミエール」……「エール」のアルファベット表記が「AIR」であるところに、命名者のこだわりを感じます(笑)。

 

 入店し、スタッフに案内された席の脇にキャリーバッグを置くと、フードコート式なので、ドリンクカウンターに行ってレモンサワーを購入し席に戻り、飲みながらフードメニューを検討。くまモンカレーを食べてからまだ2時間半ぐらいしか経っていなかったので、あまり食べる気はなかったのですが、博多といえばこれだろうという、昔屋台に行ったら必ず食べた博多明太だし巻きがあったので、それだけ注文することに。食べ物はドリンクのようにすぐにはできないので、食券を買って渡し、代わりに渡されたブザーで用意できると呼び出されるシステムなのですが、待っているあいだにほとんどレモンサワーを飲み終わってしまい、アルコールなしで明太だし巻きを食べるのもつらいので、二杯目を買いにドリンクカウンターへ。

 

 先に注文している客がいたので後ろに並び、順番を待つあいだに改めてドリンクメニューを見ると、「福岡あまおうハイボール」というものが目に入りました。「ハイボールにしたら、イチゴがあまおうかどうかはわからないよな」と思いつつも気になったので、レモンサワーのお代わりをやめて、そちらを注文。やはり違いはわかりませんでしたが、こんなことでもないとイチゴ味のハイボールなんて頼まないので、これはこれでおもしろい体験でした。

f:id:hanyu_ya:20201103213943j:plain博多明太だし巻きと「福岡あまおうハイボール」。奥は「ソラガ・ミエール」のメニュー。

 

 「福岡あまおうハイボール」を飲み終わると、外もすっかり暗くなり、それにつれて店内も混んできたので、店を出て早めにセキュリティチェックへ。感染対策で、列は間隔をあけて並び、検温などもあるので、いつもより時間がかかるため、ギリギリに行くと慌てる羽目になります。スマホの電池がほとんどなかったので、待合室で充電をしながら安心して写真の整理などをしているうちに搭乗が始まり、ほぼ定刻どおりに出発。9時過ぎに羽田に着いて、これにて熊本遠征終了です

 

※11月4日追記

 本日帰宅したら「復興城主の皆様へ」というハガキが届いていて、熊本城特別公開への無料ご招待でした。またしても……_| ̄|○ 福知山城の時もそうでしたが、ちょっと遅い(笑)。来るかわからないものを待って旅行の計画を立てることはなく、あてにしているわけではないため、こういうものを送ってきてくれるだけでもうれしいのですが。幸い、招待券の有効期限は来年の10月末までで、天守閣内部を公開する来春の第3弾特別公開見学にも使えるようなので、今回行けなかった装飾古墳や阿蘇火口見学、国造神社フィールドワークなどと併せて、熊本再訪を目論みたいと思います。

f:id:hanyu_ya:20201104221518j:plain熊本城特別公開ご招待券を兼ねた復興城主宛てのハガキ

熊本寺社遠征&明智光秀紀行⑧ その2~藤崎八旛宮、阿蘇神社

 三日目は、今回の旅の三つの目的の一つである阿蘇神社へ行くことにしていましたが、乗るつもりでいた熊本発9時9分の特急「あそぼーい!」の特急券が満席で買えず、買えたのが2時間半以上遅い11時45分発の特急「あそ3号」だったので、その前に行けるところがないか調べ、検討した結果、熊本市内の藤崎八旛宮に寄ることにしました。八幡宮ということは祭神は応神天皇なので、特に疑問もないため訪れるつもりはなかったのですが、調べたら鶴岡八幡宮より古い御鎮座1000年以上の旧国幣小社だったので、足を運んでみることに。ということで、当初の予定より30分ほど遅い9時にホテルを出発し、辛島町駅から市電に乗って水道町駅まで行き、白川沿いを15分ほど歩くと到着。

f:id:hanyu_ya:20201025235050j:plain藤崎八旛宮の鳥居。神職が入ってしまいましたが、これはこれで聖域らしい清々しい朝の美しい光景だと思いました。

 

 藤崎八旛宮は、承平5年(935)、平将門藤原純友の乱の平定を祈願して61代朱雀天皇の勅願により石清水八幡宮を勧請したのが起源。八幡宮の総本社は宇佐神宮で、宇佐神宮が遠いため平安京遷都後の貞観元年(859)に都の近くに勧請したのが石清水八幡宮なので、宇佐神宮の孫みたいなものです。

f:id:hanyu_ya:20201025235217j:plain藤崎八旛宮の本殿

 

 お参り後に御朱印をいただき、その後いつものように境内を見てまわると、清原元輔の歌碑があったので驚きました。元輔は、四条大納言こと藤原公任が選んだ三十六歌仙の一人であり、すなわち都でも名高い歌人で、都のど真ん中にいる一条天皇の皇后である中宮定子に仕えた清少納言の父親なので、「何故こんなところに……?」と思って説明書きを読むと、元輔は肥後守としてこの地に着任し、その間に藤崎宮で「子の日の松」の行事を催し、歌碑の歌はその折に詠んだものとのこと。当時においては鄙と呼ばれる遠国の地にあっても歌人としての心を忘れなかった老いた三十六歌仙に感慨深いものをおぼえました。続いて、71代後三条天皇の時代に力士として活躍した郡司を祀った境内社に遭遇。朱雀天皇に続き、清原元輔後三条天皇という、なじみ深い平安摂関期の歴史人物の名が次々と現れるので楽しくなり、来てみるものだと思いました。その他、灰塚社という、これだけ神社巡りをしていても見覚えのない珍しい石祠にも出合えたので、なかなかおもしろいところでした。

f:id:hanyu_ya:20201025235428j:plain清原元輔の歌碑と説明書き。歌碑の歌は「藤崎の軒の巌に生ふる松 いま幾千代の子の日過ぐさむ」。細川幽斎の母は清原氏の出なので、元輔の歌碑が残されているのは、そのへんの事情によるのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201025235655j:plain「相撲道の神様」である日田永季を祀る日田社。永季は豊後国日田一帯の郡司だったそうなので、それゆえ“日田”社なのだと思うのですが、藤崎八旛宮のホームページにある説明によると、旧肥後藩士である財津氏が祖神を豊後から勧請したため、当地に社があるとのことです。

f:id:hanyu_ya:20201025235744j:plain日田社についての説明板。永季は16歳の時に宮中行事である相撲の節会に初出場し、以後49年の生涯において15回召された天覧相撲で連続全優勝を果たしたそうです。

f:id:hanyu_ya:20201026000112j:plain灰塚社。石祠は数多く見ていますが、これだけ立派な寄棟造りの屋根を持つ石祠は記憶にありません。

f:id:hanyu_ya:20201026000341j:plain灰塚社についての説明。いつごろ建てられたのかはわかりませんでしたが、石祠の祭神が火産霊神軻遇突智で、火災除けの神というのは納得でした。石は木のように燃えないので(笑)。

 

 藤崎八旛宮を後にすると、まだ時間的に余裕があり、来たときと同じルートを使うのはつまらないので、参道から熊本電鉄藤崎宮前駅の前を通る道に出て、坪井川へと向かいました。川に突き当たって左に曲がり、川沿いを歩いていると右手に熊本城が見えてきたので橋を渡り、稲荷神社に参拝。そのまま坪井川沿いに熊本城を眺めつつ歩き、行幸橋を越えたところにある書物櫓跡の熊本城記念碑を見たら、熊本城に向かう人並みに逆らって進み、花畑町駅から市電に乗車。

f:id:hanyu_ya:20201026000639j:plain熊本城馬具櫓。石垣が崩れて建物の下が抜けた状態ですが、なんとか持ちこたえています。

f:id:hanyu_ya:20201026000604j:plain熊本城記念碑。痛々しいです。

 

 熊本駅前駅で市電を降りてJR熊本駅に着くと、まずは予約した切符を券売機で発券し、次に駅ビル内にあるコンビニで駅弁を調達。それでもまだ時間があったので、改札口近くにあるスタバでコーヒーを買ってからホームへ。

f:id:hanyu_ya:20201026201504j:plain熊本駅で買った駅弁「肥後牛とろ玉しぐれ」。コロナ禍のせいか、販売している駅弁の種類も数量も少なく、あまり選択肢がありませんでした。置いてあるだけでもありがたいのかもしれませんが。

 

 定刻どおりに出発し、13時7分に宮地駅に到着すると、宮地駅から阿蘇神社バス停に停まるバスの情報が得られなかったので、徒歩で阿蘇神社に向かいました。20分ほどで到着しましたが、ゆるやかな下りで、帰りはしんどそうだったので、阿蘇神社から戻るときはバスで阿蘇駅に出ようと思いました。登りだと時間も20分以上かかりそうだったので。

 

 阿蘇神社は肥後一宮で、式内社の中でも格の高い名神大社でもあります。現在の主祭神神武天皇の孫である健磐龍命――なのですが、元々は阿蘇山御神体として祀ったのが起源だと思います。火山の噴火は山の神の怒りと考えられていたので。富士山、浅間山榛名山鳥海山なども同じです。神の怒りを鎮めるために祭祀が行われ、仏教の伝来を機に寺院のように社殿を建てて神事を行うようになり、神社が建てられたのです。おそらく、この地を開拓した健磐龍は、原始的な祭祀場を創設して阿蘇神を祭神として祀り、祭祀を始めた祭主だったのだと思います。祭主が死して神となり一緒に祀られ、のちに元々の祭神に代わって主祭神となるのはよくあることで、健磐龍も彼の死後に彼が行ってきた祭祀を受け継いだ息子の速瓶玉らによって阿蘇の開拓神として祀られると、健磐龍自身が祀っていた阿蘇神と同等の神となり、長い年月のあいだに阿蘇神に取って代わる位置付けとなったのでしょう。もしくは、人間に災厄をもたらす阿蘇神を封じる神としての役割を期待されて、故意的に後世の人々によって主祭神に祭り上げられたのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201026201805j:plain南参道の入口に立つ阿蘇神社の社号標

 

 阿蘇神社の参道は正面ではなく南北に延びる横参道なので、南参道から入ると左に楼門が現れるのですが、楼門は熊本地震で完全倒壊し、復旧は修繕というレベルではないため、現在は楼門全体が工事用の素屋根で覆われていて、その壁面に被災前の大写真が貼られています。被災前の楼門は、鹿島神宮筥崎宮と並ぶ日本三大楼門の一つであり、フィールドワークを兼ねて数年のうちに見に行くつもりだったので、柱が崩れてぺしゃんこになり、屋根が折り重なるようになった姿をニュースで見たときは唖然として言葉もなく、やはり見たいものはさっさと見ておくべきだと痛感しました。その時の自分のショックがけっこうなものだったので、確実にそれ以上であろう地元の人々の落胆はいかほどのものかと想像し、楼門がなくても必ず近いうちに参拝しようと思っていました。――ということで、今回満を持して訪れた次第です。熊本城と同じように、今の阿蘇神社も今後は見ることがない(と信じたい)稀少な状態だと思いましたし。

f:id:hanyu_ya:20201026201843j:plain現在の阿蘇神社の楼門。素屋根の壁面に被災前の大写真が貼られていて、その前に賽銭箱が置かれていました。

f:id:hanyu_ya:20201026202034j:plain復旧工事中の阿蘇神社本殿

f:id:hanyu_ya:20201026202132j:plain仮設の参拝所

f:id:hanyu_ya:20201026202231j:plain参道にある御神水「神の泉」。北参道の延長線上にある門前町の通りにも湧き水の水飲み場である水基がたくさんあり、水基巡りをする参拝客で賑わっていました。

 

 肥後国式内社は全部で四つあり、健磐竜命神社、阿蘇比咩神社、国造神社、疋野神社なのですが、健磐竜命神社と阿蘇比咩神社の二座は現在の阿蘇神社で今回訪れ、玉名の疋野神社にも何年か前に行っているので、阿蘇神社と同じく阿蘇にあり、健磐龍の息子である速瓶玉を祭神とし、阿蘇神社の北に位置するため阿蘇北宮とも呼ばれる国造神社をクリアすれば全部まわったことになるので行きたかったのですが、水基巡りの門前町通りの終わりにあった案内板によると、同じ阿蘇といえどもそこから歩いて1時間以上はかかりそうだったので、断念。ならば、阿蘇駅行きのバスの時間が10分後に迫っていて、これを逃すと熊本に戻る電車も1本逃し1時間20分ほど待つ羽目になるので、急いで通りを引き返して南参道の入口にあるバス停に行き、定刻より2、3分ほど遅れて来たバスに乗車。すると、そのバスが宮地駅前経由だったので、バス停二つほど悩んだ末、帰りは指定席のない各停電車なので、阿蘇山の玄関口である阿蘇駅よりも手前の宮地駅から乗ったほうが座れる可能性が高いかもしれないと思い、予定を変更して、宮地駅前バス停で下車。

 

 阿蘇駅から乗るつもりだった電車の宮地駅の発車時刻は5分早い15時1分で、阿蘇駅まで見込んでいたバスの所要時間が短縮でき、30分ほど待ち時間があったので、駅構内にあるカフェ「エレファントコーヒー」で、コーヒーを飲むことにしました。カウンター席を確保して、先払いなので、キャッシュカウンターに行きメニューを見ると、1日限定20杯という阿蘇水出しコーヒーというものがあり、まだ用意できるというので、そちらを注文。どんなに暑くてもコーヒーはホットが美味いと思っている人間なので、アイスコーヒーは無料であってもめったに飲まないのですが、阿蘇の水が美味しいのは出水神社や阿蘇神社の御神水を飲んで感じていたので、チャレンジしました。水出しだからいいのか、使っている水が美味しいからいいのか、コーヒー専門店のコーヒーだからいいのか理由は不明でしたが、ガムシロップなしのストレートで飲んでもいける味でした。時間が経つと普通の薄いアイスコーヒーになったので、氷を断ればよかったと思いましたが。

 

 3時10分前に店を出て、5分前にはホームへ行き、豊肥本線の上り電車に乗車。特急電車を使った行きと違い、帰りは短い区間を各停で走るローカル電車を乗り継いでいくので、肥後大津駅で乗り換えなければなりませんでした。

 

 豊肥本線は旧豊後国の大分と旧肥後国の熊本を繋ぐ電車ですが、阿蘇肥後大津間は熊本地震による被害のため今年の8月7日まで不通で、8月8日に運転が再開され、これによりようやく全線復旧となりました。つまり、それまで熊本から電車で阿蘇神社を訪れることはできなかったのです。8月の下旬に熊本城の特別公開その他の情報を得るために銀座熊本館に行ったときに、豊肥本線の全線開通を知り、電車で阿蘇まで行けるのなら熊本からの日帰りでも阿蘇山頂まで足を延ばせるのでラッキーと思っていたのですが、コロナ禍の折に特急電車が満席になるようなことがあるとは、よもや思わず……。なるべく阿蘇での滞在時間が多く取れるように熊本泊の中日で天気予報が晴れの日にわざわざ阿蘇行きを設定したのですが、結局当初の予定どおり阿蘇神社だけ訪れて、熊本に戻ることになりました。まあ、三つの目的の一つが無事に果たせたので、よかったのですが。

 

 各停電車を乗り継いで2時間近くかかって熊本駅に到着すると、時刻は5時過ぎで、これから向かえば6時までには着けるので、市電で辛島町駅まで行き、そこから歩いて3分ほどの桜町バスターミナルへと向かいました。というのも、前日「青柳」で料理を待ちつつ、くまモンスクエアについて調べているときに、バスターミナル内にくまモンビレッジというものがあることを知ったからです。桜町バスターミナルは昨年9月にオープンしたので、したがってくまモンビレッジも1周年で、ショップ限定の1周年記念グッズもあるとのことだったので、時間があれば寄りたいと思っていました。

 

 くまモンビレッジ1周年記念限定フリクションボールペンなど、いくつかのくまモングッズをゲットすると、ショップの隣にあったオープンスペースのくまモン装飾のカフェコーナーへ。メニューを見ると、くまモンカレーなど気になるものがあり、食事をするには中途半端な時間だからか客が一人もいなかったので、のんびりと早めの夕食が摂れるかと思い、入ることにしました。……なのですが、感染予防対対策でショップと同じくカフェも6時までの時短営業で、残念ながらフードメニューはラストオーダーが終わっているとのこと。ならば仕方がないので、やはり1周年記念メニューの気になったカフェラテだけを注文することに。

f:id:hanyu_ya:20201026222911j:plain1周年記念メニューのステンシルラテ。ラテアートでくまモンビレッジ仕様の探検家コスのくまモンが描かれています。

 

 ホテルはバスターミナルから歩いて5分ほどのところだったで、食べ損ねたくまモンカレーの代わりに何か食べてから戻ろうと思い、6時10分前にカフェを出て、地下1階のレストラン街へと向かいました。せっかくなので熊本らしいものが食べたいと思い、けれども馬肉は苦手なので、他に何かないかとキョロキョロしていると、總業60年の熊本ラーメンの店――「黒亭」があったので、前日に続いてですが、熊本ラーメンを食べることにしました。あとはもうホテルに戻るだけなので、レモンサワーも注文し、ジョッキで出てきたサワーを飲んでラーメンを食べたら追加で注文した餃子が入る余地がなかったので、テイクアウトで用意してもらってホテルに戻り、その日は終了です。

熊本寺社遠征&明智光秀紀行⑧ その1~熊本城、加藤神社、熊本県立美術館、水前寺成趣園、出水神社

 はや1か月以上前になりますが、シルバーウィークの4連休は、三つほど目的があったので、Go Toトラベルキャンペーンとマイレージを使って熊本に行ってきました。

 

 連休の初日、ANAの熊本空港行きでその日一番安い便を選んだため、羽田発17時50分、熊本着19時40分という飛行機だったのですが、到着が予定より15分ほど遅れて、熊本市内行きのリムジンバスの最終が20時発だったので、慌ててバス停に行き、なんとか間に合って乗車。桜町バスターミナルで下車し、そこから徒歩5分ほどのホテルにチェックインして、一日目は終了。

f:id:hanyu_ya:20201005205252j:plainホテルのくまモンもマスク姿でした。

 

 次の日は、目的その1である熊本城の特別公開を見るために、9時前にホテルを出て熊本城へと向かいました。熊本を訪れるのは4回目ですが、熊本城に行ったのは最初の時だけなので、20何年ぶりです。

f:id:hanyu_ya:20201005095349j:plain熊本城の内堀の役目を果たしていた坪井川にかかる行幸橋の手前にある、熊本城の築城主、加藤清正の像。やはり清正といえば名古屋ではなく熊本だと思いました。熊本では「せいしょこさん」の愛称で親しまれているヒーローですから。

 

 国の特別史跡である熊本城は、2016年4月の熊本地震天守閣をはじめとする13棟の国の重要文化財建造物すべてが被災し現在復旧中ですが、6月から特別公開が行われていて、地上から約6メートルの高さに造られた特別見学通路を通りながら被害状況や復旧工事の様子が見られるようになっています。この特別公開は第2弾なのですが、有料区域の一部が公開された第1弾と違って、特別見学通路という、復旧工事がなければ造られることのない場所から――つまり通常の公開時には見られない視点から熊本城を見ることができる、この先あるかわからない、望むらくは二度とあってほしくない貴重な機会なので、絶対に行こうと決めていました。

 

 行幸橋を渡ると、案内に従って「桜の馬場 城彩苑」へと向かい、そこでまず連絡先を書かされ、その後検温を受けてから、熊本城ミュージアム「わくわく座」の建物内にある券売機で入場チケットが購入できる仕組み。チケットは何種類かありましたが、特別公開見学とミュージアムの共通チケットを購入。再び案内に従って特別見学通路の南口まで行くと、仮設にしてはとても立派な通路が目に入ってきました。

f:id:hanyu_ya:20201005100330j:plain南口の階段から見える特別見学通路の裏側。地上から6メートルの高さなので、入口からは階段かエレベーターで上って通路に出ます。左手にあるのは、数寄屋丸二階御広間。

f:id:hanyu_ya:20201005100412j:plain特別見学通路から見た数寄屋丸二階御広間。石垣が部分的に崩落したため、支えを失った上の建物が歪んでいるのがよくわかります。重さを考えると、崩れずにもっているのが不思議でした。

f:id:hanyu_ya:20201005100456j:plain通路の壁に貼られていた、被災前の数寄屋丸二階御広間の写真

f:id:hanyu_ya:20201005205714j:plain数寄屋丸二階御広間の下の石垣。見事に崩れています。

f:id:hanyu_ya:20201024234939j:plain熊本城天守閣。大々的に復旧工事中でしたが、ここからはクレーンなどを外して写真を撮ることができました。

f:id:hanyu_ya:20201005205950j:plain天守閣と数寄屋丸二階御広間(左)と特別見学通路

f:id:hanyu_ya:20201005210029j:plain本丸御殿大広間の床下にある「闇り通路」。とんでもない太さの丸太が二つの石垣に渡されて作られている地下通路です。

f:id:hanyu_ya:20201005210117j:plain「闇り通路」についての説明

 

 特別公開は、平日の場合は天守閣前広場でUターンして特別見学通路を往復し、入ったときと同じ南口から出るようですが、日曜と祝日は北口と、そこから続く北ルートが開いているので、広場の売店で御城印と熊本城のミニファイルを購入すると、天守閣と本丸御殿の間を通る北ルート経由で北口から出て、天守閣の北西にある加藤神社へと向かいました。清正を主祭神として祀る神社です。

f:id:hanyu_ya:20201005210207j:plain天守閣前広場まで来るとこんな感じ。思いきり工事中です。

f:id:hanyu_ya:20201005210341j:plain天守閣前広場の売店で買った熊本城の御城印とミニファイル

f:id:hanyu_ya:20201005210420j:plain北ルートの右手に見える宇土

f:id:hanyu_ya:20201005210517j:plain加藤神社の御由緒

 

 本殿では神前挙式の最中だったので、控えめに拍手を打って参拝し、境内を見てまわったあと社務所御朱印をいただくと、熊本県立美術館へと向かいました。加藤神社は新しい神社なので、フィールドワークが目的というわけではなく、単に熊本城に来たのなら清正に挨拶して旅の安全を祈ろうと思い、寄っただけだったので。

f:id:hanyu_ya:20201005213710j:plain加藤神社の境内にある清正手植えと伝わる銀杏

f:id:hanyu_ya:20201005213906j:plain加藤神社から見る熊本城天守

f:id:hanyu_ya:20201005213939j:plain加藤神社から見る宇土櫓。石垣がすごいです。堀があろうとなかろうと、これはとても侵入できないと思います。難攻不落といわれる理由がわかったような気がしました。

 

 県立美術館では7月5日まで「細川忠利と三宅藤兵衛 肥後にやってきた、光秀の孫たち」という展覧会をやっていたので、図録なりとも買えないかと思って行ったのですが、残念ながらなかったので、開催中の展覧会を見ることにしました。本館の企画展「歴史をこえて 細川家の名宝」の見どころは「細川ミラー」と呼ばれる紀元前の鏡で、とても2000年以上前の物とは思えない洗練された繊細な意匠と、金彩などの装飾の残り方が奇跡的で素晴らしかったのですが、それ以上に嬉しかったのは、遠い熊本の地で大好きな白隠の作品に出合えたことでした。

f:id:hanyu_ya:20201005214027j:plain目玉展示品の「細川ミラー」こと国宝「金銀錯狩猟文鏡」。こちらは撮影可能でしたが、白隠の絵は撮影禁止でした。

f:id:hanyu_ya:20201005214110j:plain「金銀錯狩猟文鏡」についての解説

 

 本館で企画展に続いて常設展を見たあと、別棟の企画展を見に行く前に、出入り口や展示室がある階からすぐ下の階に降りてみると、行きたかった装飾古墳のレプリカ展示室――装飾古墳室というのがあったので、嬉々として見てきました。群馬県もそうですが、熊本県も古墳が多い地域で、しかも熊本には内壁や石棺に彫りや彩色などの装飾が施されている装飾古墳が多く存在するため、時間があれば代表的な山鹿市の岩原古墳群とその近くにある熊本県立装飾古墳館に行きたかったのですが、事前に公共の交通機関でのアクセス方法を調べたところ、熊本市からは一日がかりでないと往復できそうもなく、実質三日の滞在で三つの目的がある今回の遠征では一日を割くことができなかったので、断念しました。そんな時にこちらの展示室に巡り合ったので、たいそう嬉しかったのですが、やはりたいへん興味深い物で、レプリカでは物足りず。余計に実物が見たくなったので、結局のところ改めて来ないとだめだと再認識しただけでした。

f:id:hanyu_ya:20201005214418j:plain鍋田横穴古墳の壁面の浮彫レリーフの復元品

f:id:hanyu_ya:20201005214545j:plain鍋田横穴古墳についての解説

 

 別棟の細川コレクション永青文庫展示室で開催していた企画展「二の丸動植物園」を見て美術館を出ると11時前だったので、二の丸広場まで歩いて、そこからシャトルバスで「桜の馬場 城彩苑」に戻り、「わくわく座」を見学。ミュージアムといっても子供向けで、おもしろいのは熊本城のVR映像ぐらいでしたが、熊本城の復興城主のデジタル芳名板というのがあったので、行ってよかったです。VR視聴コーナーがある2階の端にひっそりと、気にして見ないとわからないような一角に検索機とモニターがあるのですが、地震があった年に寄付をして復興城主になっていたので、数年前の城主でも名前が出てくるかと試しに検索してみたら、ちゃんとヒットして、壁の大画面モニターに桜の季節の熊本城天守閣と共に名前が映し出されました。

f:id:hanyu_ya:20201005214817j:plain「熊本城 城主」という文字の左に名前が出ます。

 

 「わくわく座」を出ると、目の前のお食事処とお土産屋が集まった「桜の小路」でくまモンの人形焼を売っているのを見つけ、可愛さのあまりつい欲しくなったので、食事の前でしたが一つ買って食べ、その後昼食の予約を入れている郷土料理屋「青柳」へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20201005215019j:plainくまモンの人形焼。いも味を食べました。

 

 熊本城では、平成19年に築城400年を記念して本丸御殿が復元されたときに、本丸御殿で振る舞うために、武家の食文化を掘り起こした「本丸御膳」が再現されて御殿で食べられるようになっていたのですが、地震後はそれもできなくなったので、料理を作っていた「青柳」の店舗で提供されることになりました。で、ランチならディナーよりも安く食べられるので、予約の電話を入れたのは前日熊本に着いてホテルに落ち着いたあとでしたが、1時なら空いているのではないかと思い訊ねたら、カウンターでよければと受けてもらえたので、行くことにしました。

 

 店に着いて、カウンターの一番端の席に案内されると、料理は決まっているので、飲み物のメニューをもらい、「八海山」をグラスで注文。京都で湯葉料理を食べるときもそうですが、手の込んだ和食を食べるときには必ず日本酒が欲しくなるので……それに、昼間から酒が飲めるのが休暇の醍醐味でもあります。メニューには「美少年」などの熊本の地酒もたくさんありましたが、外したくなかったので、自分が好きな銘柄にしました。アルコールに関しては美味しく飲めることが最重要で、口に合わない物は飲みたくないというか悪酔いするだけなので、どこに行っても地元産ということにはこだわりません。

 

 ちびちびと「八海山」を飲みつつ、スマホをいじりながら待ち、しばらくして出てきた本丸御膳は、まず見た目に驚かされました。最初に出されるお茶の茶碗もそうでしたが、細川家の家紋である九曜紋入りの器で出されます。料理については、「青柳」のホームページによると、「約200年前の武家の献立を再現するため参考にしたのは、江戸時代 肥後藩主細川家の御料理頭であった村中乙右衛門が書き記した貴重な料理の秘伝書「料理方秘(りょうりかたひ)」(1803年)。他に近世熊本の食品・料理集「歳時記」(1817年)をもとに往時の献立を再現した「熊本藩氏のレシピ帖」を編集し、当時の料理を今に復刻する事ができました。肥後の「地の素材」の持ち味をあわせて調理しています」とのことでしたが、内容は以下のとおり。

 

 ①御肴………精進うなぎかば焼、ひともじぐるぐる、辛子蓮根、玉子カステラ、干しこる豆の豆腐味噌漬け

 ➁御鱠………鯛昆布〆、烏賊

 ③煎酒

 ④御汁………くしいと、そそろ麩

 ⑤御香物……野菜漬けいろいろ

 ⑥御猪口……白身鯨至りて和らかに煮様

 ⑦御飯………蛸めし

 ➇御平椀……香魚もどき――たで蒸し鮎

 ⑨御菓子……玲瓏豆腐

f:id:hanyu_ya:20201024233619j:plain席に置かれていた献立

f:id:hanyu_ya:20201005220625j:plain最初のお茶から九曜紋入りの蓋付き茶碗で出てきます。

f:id:hanyu_ya:20201005220710j:plain蓋を開けたら、こんな感じ。

f:id:hanyu_ya:20201005221903j:plain御飯と汁物

 

 料理は食感やら何やら食べたことがないものも多く、けれども現代人が食べても十分に美味しいと感じられる味だったので、もし本当に今より食材に恵まれていない江戸時代にこんなものを食べていたのだとしたら、細川の殿様はとんでもない美食家ということになります。

 

 1時間ほど食事を楽しんで店を出ると、次に細川家ゆかりの大名庭園である水前寺成趣園を訪れるつもりでしたが、料理を待っているあいだにスマホでアクセス方法を検討していたら、「青柳」からくまモンスクエアがわりと近いことが判明。くまモンスクエアは熊本営業部長であるくまモンの部長室がある本拠地で、今年はくまモンが誕生して10周年という記念の年なので、くまモンはいない時間帯のようでしたが、10周年記念のご当地限定レアグッズとかがあるのではないかと思い、寄ってみることにしました。限定品に弱いので。

 

 ……なのですが、くまモンスクエア限定のグッズは売っていましたが、10周年記念関連の商品は、「青柳」に行く前に寄った熊本県物産館の品ぞろえと変わらなかったので、何も買わずに水道町駅へと向かいました。

 

 健軍町行きの市電に乗って水前寺公園駅で降り、3分ほど歩くと、土産物屋などが並ぶ参道があり、その突き当りが水前寺成趣園の入口で、入場券売り場があったので、400円を払って入園。

f:id:hanyu_ya:20201005221503j:plain参道にいたくまモン。熊本は至る所にくまモンがいる、くまモンの街です。

 

 水前寺成趣園は、明智光秀の娘である玉(細川ガラシャ)を母に持つ細川家初代熊本藩主の細川忠利が建立した寺院――水前寺の地に茶屋を建てたのが起源で、二代藩主、三代藩主の時に作庭が行われて、寛文11年(1671)に現在とほぼ同じ規模の庭園が完成し、陶淵明の有名な詩「帰去来辞」にある「園日ニ渉以成ス趣」という一文から採って「成趣園」と名付けられたそうです。阿蘇の伏流水を湛える回遊式庭園で、国の名勝・史跡に指定されています。

f:id:hanyu_ya:20201005221736j:plain正面広場からの眺め

f:id:hanyu_ya:20201005221951j:plain正面広場からの眺め(松ありバージョン)

 

 この庭園は今回の旅の三つの目的には入っていないのですが、7月に舞鶴の田辺城を訪れたときに、田辺城に籠城して石田三成方の西軍と戦った細川幽斎の命を救った古今伝授の逸話を知り、その折に、幽斎が八条宮智仁親王に古今伝授を行った古今伝授の間が、幽斎を祖とする熊本藩主細川家ゆかりの水前寺成趣園に移築復元されて現存することも知ったので、熊本に行ったら見てみたいと思っていました。

 

 まずは園内にある出水神社へ行き、参拝。加藤神社と同じく式内社でも官国幣社でもない新しい神社ではありますが、明智玉が祭神として祀られている神社を他に知らないので、お参りをしてきました――主祭神ではなく配祀神ではありますが。社務所御朱印をいただいたときにもらった略記によると、明治10年(1877)の西南の役で焼け野原となった熊本の街を復興するべく、翌年に旧熊本藩士たちが、敬い慕っていた旧藩主の御霊を祀ることで、その恩徳によって、戦いで荒んだ人心を安定させようとの願望から、細川家初代である幽斎こと藤孝を筆頭に、二代忠興、三代忠利、八代重賢を祭神とし、旧藩主細川家ゆかりの水前寺成趣園に社殿を建てたのが当社の縁起とのこと。のちに十四代までの残りの藩主10人と、忠興の妻で初代藩主忠利の母である細川ガラシャこと明智玉が合祀されたそうです。

f:id:hanyu_ya:20201005222805j:plain出水神社についての説明板

 

 鳥居をくぐると左手に手水舎があり、それ自体は神社においては普通のことなので何の驚きもないのですが、出水神社の手水舎の柱には板が掛けられていて、そこには幽斎の歌が書かれていました。籠城する幽斎が後陽成天皇に献上する古今伝授の秘伝書を託した場所といわれる田辺城の庭園――「心種園」の名の由来となった「いにしへも今もかはらぬ世の中に 心のたねを残す言の葉」という歌です。それを見た瞬間、舞鶴から熊本へと歴史が繋がっていることを実感し、感無量でした。舞鶴の幽斎の存在がなければ熊本藩主細川家は存在せず――すなわち、幽斎が光秀を裏切って戦国の世を生き延びなければ、今自分がいる熊本という街はなく、違う形で存在したかもしれませんが、目に映るものは変わっていただろうと思うと、幽斎の選択は間違いではなかったのだと認めざるをえないと思いました。幽斎の子孫が、かつてこの町を任され治めていたけれども改易された加藤家を反面教師とし、江戸時代260年のあいだ自領を守って発展させた街は、今や九州を代表する街となったのですから。

f:id:hanyu_ya:20201005223056j:plain出水神社の手水舎

f:id:hanyu_ya:20201006003641j:plain手水舎の近くにある御神水「長寿の水」

f:id:hanyu_ya:20201006003751j:plain出水神社本殿

f:id:hanyu_ya:20201006003918j:plain境内にある五葉松。細川忠利が育てた盆栽がここまで大きくなったみたいです。

 

 出水神社のあとは、いよいよ古今伝授の間へ。行ってみると建物の隣に売店があり、なんとそこで申し込めば建物の中でお茶が飲めるようなので、園内をひと回りしてから、戻ってきてゆっくりしようと思い、まずは庭園を散策することにしました。

f:id:hanyu_ya:20201006004029j:plain古今伝授の間の建物

f:id:hanyu_ya:20201006004112j:plain古今伝授の間についての説明板

f:id:hanyu_ya:20201006004154j:plain湖畔通りから池の向こうに見る古今伝授の間

f:id:hanyu_ya:20201006004410j:plain湖畔通りから見た富士築山

f:id:hanyu_ya:20201006004523j:plain東通りから見た富士築山

f:id:hanyu_ya:20201006005058j:plain古今伝授の間の近くの土産物屋で見つけた、くまモンのコマ。彦一こまという八代地方の郷土玩具で、五つのコマになります。

 

 庭園を一周すると古今伝授の間の建物に戻り、一服することに。メニューは抹茶と和菓子のセットが基本ですが、抹茶をコーヒーにすることもできたので(多少高くなりますが)、コーヒーセットを注文。お茶席は書院の座敷を3人ぐらいが座れる毛氈でスペースを区切って作られていたのですが、一つしか空いていない席が運よく庭に近い場所で端っこだったので、視界を邪魔するものがない絶好のシチュエーションで落ち着いて庭を眺めることができました。運ばれてきたコーヒーはなんとプレス式で、ゆうに2杯分はあったので、のんびりと飲んでいると、後ろの席の客も含めて誰もいなくなったので、席を立って奥の間の古今伝授の間を撮影しました。

f:id:hanyu_ya:20201008184308j:plain古今伝授の間の建物から見える庭園とコーヒーセット。和菓子は2種類のうち「十六夜」を選択。泡みたいに溶ける食感が予想外で驚きました。口に含むと勝手に溶けて自然と口の中に甘みが広がります。黄身餡を淡雪羹でくるんだものだそうです。

f:id:hanyu_ya:20201024232912j:plain古今伝授の間。手前に写っている毛氈は、私が座っていた席の後ろのお茶席で、客が帰ったあと、まだ飲み終わった茶碗が片付けられていない状態です。

f:id:hanyu_ya:20201024233020j:plain古今伝授の間がある書院の座敷

 

 入口の木戸にあった持ち帰り自由の栞によると、古今伝授の間は、元々は京都御所内にあった八条宮智仁親王の学問所とのこと。そこで幽斎から宮に古今伝授が行われていましたが、西軍の攻勢が激しくなってきたので、幽斎は領地を守るために居城がある田辺に戻らなければならなくなりました。京から丹後に帰国すると戦況はますます悪化して、ついには籠城することになり、自分が討死することで古今伝授が途切れることを恐れた幽斎は、古今伝授に関する秘伝書と、まだ途中ではありましたが、伝授修了の証明書を、「いにしへ」の歌を添えて宮に送りました。それらを受け取った智仁親王は、兄である後陽成天皇に事の次第を報告し、幽斎を惜しんだ天皇が勅使を遣わして東西両軍を仲裁したことは先の記事で述べたとおりです。ということで、細川幽斎から智仁親王への古今伝授が行われたのは関が原の戦いより前のことなので、江戸時代以前であり、つまりこの建物は戦国時代の建造物ということになります。

 

 智仁親王は桂に別業を建て、それが八条通沿いの延長線上にあることから「八条宮」や「桂宮」と号されました。この別業が桂離宮で、よって古今伝授の間には桂離宮との共通点が多く見られるとのことです。以後、桂宮宮号世襲され、智仁親王を祖とする桂宮家は、伏見宮家、有栖川宮家、閑院宮家とともに世襲親王家として江戸時代を通して存続していましたが、明治14年(1881)に十二代桂宮が亡くなり嗣子がなかったため断絶しました。最後の桂宮は淑子内親王――仁孝天皇の皇女で、腹違いではありますが、和宮が生きているあいだに生存していた唯一の姉です。明智光秀から始まって、光秀の盟友である細川幽斎、幽斎の弟子である智仁親王智仁親王が創始した桂宮家、その最後の当主である淑子内親王、淑子内親王の妹である和宮親子内親王……縦だけでなく横にも繋がり、時には斜めや、あらぬ方向に紡いでいかれるのが歴史です。本当におもしろいですね。実は、正真正銘血筋の上でも和宮や淑子内親王明智光秀と繋がっていて、彼女たちは光秀の十代孫になります。つまり二人の父親である仁孝天皇が光秀の九代孫なので、仁孝天皇の六代孫である今上天皇も光秀の子孫ということになります。もっとも、ネット情報によると、今上天皇には、明智光秀だけでなく、織田信長徳川家康、斎藤道山や細川幽斎の血も入っているとのことですが。

 

 新しい客が入ってきて混んできたので、お茶席を後にして水前寺成趣園を出ると、水前寺公園駅から市電に乗って熊本駅前駅で降り、JR熊本駅へ。翌日は阿蘇に行くので、特急券を買いにみどりの窓口へ行ったのですが、乗ろうと思っていた熊本発9時9分の特急「あそぼーい!」は行きも帰りも満席で、全席指定なので自由席券はなく、したがって乗れないとのこと。各停電車を乗り継いでいくと熊本から阿蘇までは2時間以上かかり、次の特急は熊本発11時45分の「あそ3号」だというので、いったん保留にし、みどりの窓口を出て向かい側にある駅ビル内に観光案内所があったので、バスで行く方法を訊いたのですが、バスを使っても2時間以上かかり、しかも前日の夜7時までに予約しないとダメな路線もあるとのこと。その上、火口に行くためのロープウェーは現在運休中なので、アクセス手段はシャトルバスしかなく、40人定員なので、こちらも事前予約が必要――という絶望的な説明でした。

 

 阿蘇神社と火口見学に行くつもりだったのですが、予定していた特急電車に乗れず、似たような時間に到着するバスもなく、それで本当に熊本市から日帰りで行って帰って来られるのか微妙なところだったので、どこかの店に入って座ってじっくり検討しようと思い、駅ビル内を探したら、新宿でおなじみの「桂花ラーメン」があり、5時も過ぎていたので、少し早めの夕食を摂ることにし、入店。

f:id:hanyu_ya:20201024233229j:plain桂花ラーメン。昔、新宿で飲んだあと、締めの一杯でよく食べました。

 

 ラーメンを食べ終わっても旅程が決まらなかったのですが、ホテルに戻り、バスの予約受付時間である7時を過ぎたところで、火口見学は断念することに決めました。「あそぼーい!」より2時間ほど早い各停電車に乗れば阿蘇駅到着時間は特急よりも早く、乗るつもりだった阿蘇山西駅行きのバスにも間に合うのですが、接続を特急に合わせているので、阿蘇駅で1時間近く待つことになり、また熊本発7時台の電車に乗るのも現実的ではなく、無理だろうと思いました。熊本遠征の三つの目的の一つは阿蘇神社で、火口見学は阿蘇まで行くからついでに――という感じでしたし。ついでの目的のために早起きはできないし、阿蘇神社での滞在時間が短くなるのも本末転倒で、本意ではありませんでした。

 

 ということで、改めてスマホでe5489から熊本発11時45分発の「あそ3号」の指定席特急券を予約し、その日は終了です。

明智光秀紀行⑦ その3~天龍寺、明智城址、「麒麟がくる」ぎふ可児大河ドラマ館

 三日目の土曜は可児に行ってきました。可児には明智城址があり、それゆえ明智光秀の生誕地の有力候補とされ、市内の花フェスタ記念公園内に大河ドラマ館がオープンしているからです。岐阜県には可児市の他に岐阜市恵那市、全部で三つの大河ドラマ館があるのですが、岐阜市プレミアムフライデーに合わせて行きたいので来月末に遠征する予定で、恵那市も、そこまで行くのなら式内社の恵那神社にも行きたいと思ったので、台風の襲来で天候が安定しない今回は回避し、どちらも来月末に訪れることにしました。

 

 その日も夕方から天気が崩れるという天気予報でしたが、9時にチェックアウトをしてホテルを出たときには晴れていたので、大河ドラマ館に行く前に、雨が降っていなければ行こうと思っていた明智城址を訪れることにしました。

 

 名鉄名古屋駅9時11分発の準急で新可児駅まで行き、10時14分発の広見線に乗り換えて、10時18分に明智駅に到着。明智駅前10時23分発のKバスで明智城跡口バス停まで行くつもりでしたが、時間になってもバスが現れず、停留所に要予約と書いてあったので、まさか予約が必要なのかと思い、書いてある電話番号にかけてみると、「予約が必要なのは路線バスで、Kバスは不要なはずです」とのこと。そんなやりとりをスマホでしていたら、駐車スペースに停まっていた1台の車が動き出して、後ろ姿から商用のワゴン車だと思っていたらミニバスで、走り出したことで向きが変わって見えた側面にKバスと書かれていました(涙)。

 

 明智城址までは徒歩だと25分ぐらいかかかるのですが、次のバスは1時間半後で、駅周辺には店も含めて時間をつぶせるようなところはなかったので、仕方なく歩くことに。駅でもらってきた「明智光秀生誕の地 明智荘散策マップ」というのがあったので、それを頼りに、まずは明智城址の手前にある天龍寺を目指しました。

 

 途中にある瀬田川を渡る前に右折して少し行くと、光秀産湯の井戸跡というものがあり、現在は耕地整理されて痕跡は残っていないと地図に書かれていたので、寄るつもりはなかったのですが、橋詰まで来て右方向を見ると、幟がはためいているのが見えて、そう遠くないような気がしたので、寄り道してみることにしました。

f:id:hanyu_ya:20200929194610j:plain田んぼの傍らにある光秀産湯の井戸跡に関する解説板と幟

f:id:hanyu_ya:20200929194657j:plain解説板の内容。実際の跡地は田んぼのど真ん中のようです。

 

 戻って橋を渡り、しばらく南へ進むと天龍寺に到着。残念ながら社務所は休みで御朱印はいただけませんでしたが、本堂は開いていたので、日本一大きい明智光秀の位牌は見ることができました。賽銭箱のすぐ後ろに安置してくれていたので。

f:id:hanyu_ya:20200929194818j:plain天龍寺入口

f:id:hanyu_ya:20200929195036j:plain天龍寺についての説明板

f:id:hanyu_ya:20200929195119j:plain天龍寺山門

f:id:hanyu_ya:20200929195240j:plain6尺1寸3分(約184㎝)あるという日本一大きい明智光秀の位牌。戒名は「長存寺殿明窓玄智禅定門」……京都の明智祠とほぼ同じです。位牌の隣に見えるのは、光秀の木彫像。

f:id:hanyu_ya:20200929195401j:plain境内にある明智氏墓所。説明板にも書かれているように、天龍寺の開基は江戸初期の寛永2年(1625)なので、何故本能寺の変で滅びた明智氏墓所と伝わるものが当寺にあるのか不明ですが、明智城が落城する前は天龍寺の境内周辺も明智城の一部で、ここも城内だったのかもしれません。

 

 天龍寺から西に向かうと、明智城址の大手口に着き、そこから山道を登っていくと、大手門に突き当たります。

f:id:hanyu_ya:20200929195827j:plain城址入口にある説明板

f:id:hanyu_ya:20200929200137j:plain大手門

f:id:hanyu_ya:20200929200010j:plain桔梗坂を登ったところにある明智城址散策路マップ

 

 城址は長山一帯に及んでいるので、けっこう広い範囲が散策できるのですが、前日の雨で日陰部分の地面はまだ湿っている上に、天気が崩れる前に名古屋に戻って神奈川に帰ろうと思っていたので、今回は本丸と二の丸周辺だけを見てきました。ちなみに、今回訪れた地域と土岐明智氏の城の関係は次のようになります

 

 瑞浪市――神篦城 築城主:土岐光衡(美濃土岐氏祖)

 可児市――明智城 築城主:明智頼兼(光衡五代孫、土岐明智氏祖)

 土岐市――妻木城 築城主:明智頼重(光衡五代孫、頼兼養子)

 

 本丸跡地には一見して新しいとわかるさまざまなモニュメントがあり、明智光秀ゆかりの地を盛り上げようという地元の気合いがひしひしと感じられました。

f:id:hanyu_ya:20200929231118j:plain本丸跡にある「明智城址」の石碑。これは昔からあるものみたいで、元々はこれしかなかったのだろうと思います。

f:id:hanyu_ya:20200929231222j:plain明らかに新造の「明智城」の石碑

f:id:hanyu_ya:20200929231312j:plain昨年8月に作られた説明板

f:id:hanyu_ya:20200929231431j:plain昨年12月に整備されたらしい展望台からの展望。解説地図と正面に見える風景が微妙に違い、正面で解説地図を撮ると美濃金山城跡が写りませんでした。

f:id:hanyu_ya:20200929231639j:plainもっと右を見ると金山城跡が見えます。本能寺の変で討死した森蘭丸の居城です。

 

 その中でも最たるものが、今年6月に建立されたという明智光秀のブロンズ像で、台座の裏書を見ると、作者は神戸峰男氏、題字は有馬頼底老師とのこと。神戸氏は可児市在住の地元の彫刻家ですが、芸術院会員で、日展副理事長という日本彫刻界の大御所、一方の有馬老師は久留米藩主有馬家の血筋で、金閣寺銀閣寺の住職も兼ねる相国寺132世という日本仏教界の大御所です。仕事で有馬老師の揮毫作品や高村光雲の復刻ブロンズ像などを取り扱ってきた身からすれば、無人の山中に雨ざらしにするなどとんでもない贅沢な作品で、それゆえ、他所に遅れて今から光秀の像を建てるのなら、現代美術の代表作のような作品で後世に恥ずかしくない物をという、制作依頼者の強いこだわりが感じられ、熱い思いが伝わってくるようでした。

f:id:hanyu_ya:20200929231831j:plain鎧に陣羽織をまとい、鉄砲を携える明智光秀ブロンズ像。陽を受けて輝く青銅が青い空と緑の木々に映え、颯爽としています。下からのアングルで肉眼で遠目に見たときには、さして驚きのない普通の人物彫刻で、それほど魅力的には思えなかったのですが、ズームして撮ったこの写真を見たら、顔の彫りの深さと、表面の仕上げに荒々しさを残した力強い表現が判明し、それなりにカッコいいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20200929232118j:plain明智光秀ブロンズ像の全体。まだ地面になじんでいません。

f:id:hanyu_ya:20200929232848j:plain台座の裏書

 

 帰りは大手口には戻らず、反対側の馬場口から出て、城址を後にしました。

f:id:hanyu_ya:20200929233009j:plain二ノ丸曲輪にある七つ塚。明智城落城の際に戦死した明智軍の7武将を祀っているそうです。

f:id:hanyu_ya:20200929233057j:plain馬場口に向かうときに七つ塚についての説明があり、7武将の名が判明。

 

 住宅街を抜けて県道381号線に出て北に向かって歩くと、城址から約15分ほどで花フェスタ記念公園に到着。事前にホームページをチェックしたときに、他の大河ドラマ館のチケットの半券を持っていくと入場料が割引になるという情報を得ていたので、京都大河ドラマ館の半券を持っていって提示し、通常大人一枚500円のチケットを400円で購入。

f:id:hanyu_ya:20200929233156j:plain西教寺大河ドラマ館を中心に四つのパビリオンを展開している大津市の「びわ湖大津・光秀大博覧会」と同じく、可児市大河ドラマ館を中心に複合的な「明智光秀博覧会」を開催しています。

 

 予定どおり正午前の到着で、しかも炎天下の中を歩きっぱなしでいい加減疲れていたので、昼食がてら少し休もうと思い、大河ドラマ館を見学する前に、まずは入口前の屋外に設営されていた「戦マルシェゾーン」という屋台スペースに寄りました。ところが、ほとんどの店が開店休業で、やっているのかやっていないのかわからないという状態。なので、食事するのはあきらめて大河ドラマ館に入ろうかと思いましたが、よくよく見ると、かろうじて一つ、確実に営業していると思われる店があったので、そこで「十兵衛餅」なる物を注文。一人しかいない店員に「焼き立てを出すので少々お時間がかかる」と言われ、単に客がいないので作り置きがないだけだろうと思いましたが、別に急ぐわけではなかったので、あまおうソフトクリームも追加で頼み、それを食べながら待っているから餅は急がなくていいと言って、仮設テント下にテーブルと椅子が設置されている飲食スペースでひと休みすることにしました。

 

 ソフトクリームを食べ終わり、コーンに巻かれていた紙をゴミ箱に捨てて席に戻ると、ちょうど店員が餅を持ってきたので、続いてそちらを食べることに。「十兵衛餅」の正体は何の変哲もない五平餅でしたが、確かに焼き立てなので柔らかく、熱かった体もソフトクリームを食べて落ち着いていたので、美味しく食べられました。

f:id:hanyu_ya:20200929233421j:plain光秀御幣餅店の十兵衛餅

f:id:hanyu_ya:20200929233514j:plain「十兵衛餅」という名称について、屋台に説明が貼ってありました。

 

 とりあえず小腹が満たされたので、大河ドラマ館に入場。こう言ってはなんですが、意外にも西教寺の禅明坊光秀館や京都スタジアムの京都大河ドラマ館より立派な展示会場で、「明智光秀博覧会」と銘打っているだけありました。有料ゾーンの大河ドラマ関連の展示は他と似たようなものでしたが、光秀ゾーンという無料で見られるスペースに展示されていた光秀の生涯を紹介するパネルが充実していて、その他に、もう一人の地元出身の戦国武将である可児才蔵になって光秀と戦えるというバーチャルリアリティのチャンバラアトラクションがあったり、9月末までの期間限定でしたが、歴代大河ドラマ明智光秀」甲冑展というミニ展示もやっていました。

f:id:hanyu_ya:20201003162228j:plain有料ゾーンの入口でもらった御城印風の来館記念証。日付は自分で入れます。明智家の桔梗紋の朱印は共通ですが、右下の絵は毎月デザインが変わるそうです。9月は稲穂でした。

f:id:hanyu_ya:20200929233639j:plain大河ドラマ館の入口横にあった可児市明智光秀のパネル。これを目にしたときには、笑いだすのを堪えるのが大変でした。内心、ここまでくると、もう笑うしかないという気分だったので……。ちなみに、クレジットによると、こちらのイラストを手がけたのは、宮下英樹さん。

f:id:hanyu_ya:20200929233804j:plain大河ドラマ明智光秀が着用する甲冑の複製

f:id:hanyu_ya:20200929233902j:plain明智荘の光秀の館の模型。縁側に座っているのは光秀で、他の部屋には母親の牧もいました。

f:id:hanyu_ya:20200929234042j:plain出演者や制作者などドラマ関係の展示は権利の都合上撮影NGでしたが、撮影コーナーのこのパネルだけOKでした。

 

 パネル展示を順に見ていくと2階に到るのですが、そこには1階の土産物売り場とは別に売店とカフェがあり、食事もできるようだったので、ひととおり全部見終わって時間があったら戻ってきて何か食べることにしました。土産物売り場を物色したあと、1時間半~2時間に1本の可児駅行きのバスの次の出発時間まで40分ほどあったのでカフェに戻り、「飛騨牛入り」という煽り文句に魅かれて「華麗なる裏切りカレー」なるメニューと、ホットコーヒーを注文。

f:id:hanyu_ya:20200929234225j:plain土産物屋でゲットした物その1……可児市明智光秀関連企画展示図録「明智光秀物語」――64ページオールカラーの立派な本です。

f:id:hanyu_ya:20200929234338j:plain土産物屋でゲットした物その2……明智光秀年譜A4クリアファイル――本や冊子を見たり検索するより手っ取り早い資料として購入。

f:id:hanyu_ya:20200929234456j:plain土産物屋でゲットした物その3……武将お薬手帳カバー明智光秀――医者だったのでは?という説もある光秀なので、「これは買うでしょ」と思い買ったのですが、出せばすぐに売り切れる人気商品だと店員さんが言っていました。商品はカバーだけで、中身のお薬手帳は私物です。さっそく使っています。

f:id:hanyu_ya:20200929234642j:plain土産物屋でゲットした物その4……「拙者、明智光秀は、信長様に謀反致します」プリントクッキー――配布用ですが、ちゃんと可児市で作られた菓子でした。

f:id:hanyu_ya:20200929234740j:plain飛騨牛入りの「華麗なる裏切りカレー」。皿とカップの絵柄はいずれも染付で描かれた麒麟で、売店で販売されていました。まあ、美濃焼の産地ですから。

 

 毎度のことですが、ランチには遅い2時過ぎという時間だったからか、店内には他に客はおらず、そのためか注文した品が出てくるのも早かったので、ゆっくりのんびりと食事をさせていただきました。

 

 2時半に店を出て、土産物屋を経由し、見落とした物がないかもう一度確認してから大河ドラマ館がある建物を出て、花フェスタ記念公園の出入り口近くにあるバス停へ。ちょうど少々遅れていたらしい33分発の明智駅行きKバスが来ましたが、明智駅から広見線に乗っても新可児駅で乗り換えなければならないので、40分発の可児駅行きを待つことにしました(10月から可児駅からのシャトルバスはなくなるみたいです)。

 

 時間どおりに来たバスに乗って、3時前に可児駅に到着し、新可児駅発15時14分の広見線に乗車。名古屋まで1時間かかり、到着は4時過ぎ、青空にも雲が多くなってきたので、切り上げる頃合いかと思い、乗車中にエクスプレス予約で5時前の新幹線を予約。

 

 4時15分に名鉄名古屋駅に着くと、ホテルに預けていた荷物を引き取り、ホテルからJR名古屋駅に向かう途中にある名鉄百貨店の食品売り場に寄って、前日とは違うシューマイをつまみに購入。その後切符を発券し、いつものタカラ缶チューハイをJR駅構内のコンビニで調達してから、16時59分発ののぞみに乗車。これにて遠征終了です。

 

 ……この日、名古屋や岐阜では天候に恵まれましたが、帰りの新幹線では静岡あたりから東京は雨でした。最近増えている場所も時間もピンポイントの豪雨なので、幸い地元に着いたときには止んでいましたが、家に帰ってから30分もしないうちに雨音がうるさいほどの豪雨になりました。所詮自然には勝てないので、天気が怪しい時には旅程に余裕を持って変更がきくようにし、判断も早くしてフレキシブルに動くようにしていますが、今回も早めに切り上げて大正解でした。昔は「せっかく来たのだから、ここにも行きたい、あれも見たい」と時間と体力の許すかぎりギリギリまで粘ったものですが、ここまで多く旅をしてくると、これが最後ではなく、縁があればまた来る機会があるとわかっているので、もはやそんな気にはならず、若い時と違って体の無理がきかないことも承知しているので、嫌な予感がする時はさっさと帰ることにしています。おかげで予定の日に帰れなかったような災難に遭ったこともなく、いい思い出だけを持ち帰れているので、また次の旅に繋げることができています。