昨日、大和郡山の矢田坐久志玉比古神社から御朱印が郵便で届きました。
ちょうど一週間前の先月27日にお参りをしたのですが、その時は社務所が閉まっていました。そもそも、今回の遠征の主目的は京博の藤原時平であり、とはいえ、式内社の宝庫である旧大和国まで来て一つも式内社に行かないというのはもったいない気がして訪れましたが、式内社の社務所が無人であることはよくあることなので、なんとなく予想はしていました。しかも、雨予報の平日で他に参拝客もいなかったので、仕方がないと思いつつ、せめて由緒書きだけでも手に入らないかと思い、社務所の建物に寄りました。
そうしたら、御朱印を後日郵送してもらえるようになっていて、御守り授与所の窓口(閉まっている)の前に置いてあるファイルの中の小さな用紙に参拝日と送付先などを記入し、その用紙と一緒に用意されていた、クリップ付きの中身が空のポチ袋に御朱印代と送料を入れてクリップで封をし、賽銭箱に入れると送ってもらえるというシステムでした。簡単ではありますが、今までに経験のない素晴らしい方法で、たいへんありがたいと思いました。当社は、名神大社に次ぐ社格の式内大社で、『延喜式』の神名帳においては大和国添下郡十座の筆頭に掲載されているという、とても重要な古社なので。明智研究がひと区切りつかないと本格的な神社考察には戻れないので、足を運ばずにいたのですが、こんなに近くまで来て、さすがにスルーはできませんでした。
御朱印と一緒に送られてきた由緒書きによると、当社の祭神は櫛玉饒速日命と御炊屋姫命。『延喜式』の時点ですでに二座が大社とされているので、この二柱が祭神となったのはそれより前だと思いますが、社名が「久志玉比古神社」なので、元々は久志玉比古神、つまり久志玉比古=クシタマヒコ=櫛玉彦、現在は“櫛玉”饒速日命とされている神を祀っていたのだと思います。御炊屋姫=ミカシヤヒメは饒速日=ニギハヤヒの后なので、かなり早い段階で合祀されたのでしょう。
矢田坐久志玉比古神社の鳥居と社号標
境内
さらに由緒書きによれば、祭神の久志玉比古=クシタマヒコは、天磐船に乗って大和の天空を駆け巡り、「吾が宮居の地に導き給え」の祈願とともに天羽羽矢3本を射たところ、境内に二の矢が、一の矢が南500メートル、三の矢は北500メートルの場所に落ち、それゆえこの地を「矢田」と呼び、当社も「矢落神社」と呼ばれるとのこと。御朱印も「矢落大明神」と揮毫されていました。そして、天磐船に乗ってきて地上に降臨したという故事から、昭和の初めに内務省神社局が「航空祖神」として考証し、以降航空関係者に信仰され、楼門のプロペラは昭和18年(1943)に大日本飛行協会大阪支部から奉納されたものだそうです。
楼門。正面にプロペラが付いています。嘉永6年(1853)に建立されたという、両側に翼廊まで付いた立派な入母屋造りの門で、今なら考えられない装飾(?)ですが、戦中は「航空祖神」であることをアピールすることのほうが重要だったのかもしれません。
拝殿の扁額にも「矢落大明神」とありました。
ところで、以前に訪れた京都の山科にある岩屋神社の記事でも書きましたが、岩屋神社の現祭神は天忍穂耳命、栲幡千々姫命、饒速日命で、当社の参拝のしおりによると、饒速日命は天忍穂耳命と栲幡千々姫命の皇子で、別名「天火明櫛玉饒速日命」とのことでした。ならば、「天火明櫛玉饒速日命」は『ホツマツタヱ』でいうところのニギハヤヒではなく、クシタマホノアカリということになります。クシタマホノアカリ=櫛玉火明はオシホミミ=忍穂耳とタクハタチチヒメ=栲幡千々姫の息子ですが、ニギハヤヒ=饒速日はクシタマホノアカリの弟ニニキネ=瓊々杵の息子であるホノアカリ(クシタマホノアカリとは別人で、彼の甥)の子なので。したがって、オシホミミとタクハタチチヒメにとっては曾孫にあたります。クシタマホノアカリは飛鳥を治めていましたが、子がないまま亡くなったので、甥の子であるニギハヤヒがその跡を継いだとされています。
つまり、『ホツマ』によれば、アシハラクニ=葦原国こと豊葦原中津国を治めるべく遣わされたのはニギハヤヒではなくクシタマホノアカリなので、矢田坐久志玉比古神社の祭神である“櫛玉”饒速日命も元々は“クシタマ”ホノアカリであり、すなわち岩屋神社の天火明櫛玉饒速日命と同一神と思われます。クシタマホノアカリ=櫛玉火明がニギハヤヒ=饒速日と一緒くたにされたため、「櫛玉饒速日」や「天火明櫛玉饒速日」という祭神名が生まれたのでしょう。よって、この神名は二人の名前が合わさったものなのですが、子孫に恵まれて物部氏の祖となり祭祀が続けられたニギハヤヒだけが祭神として生き残り、クシタマ(ホノアカリ)の存在は薄くなってしまったのだと思います。そんな中でも「久志玉比古神社」という社名が伝えられてきたのは、よほどこの地がクシタマホノアカリとゆかりが深い土地だったからではないでしょうか。
理由が何であれ、クシタマホノアカリをこの地に神として祀ったのは後継者であるニギハヤヒと思われるので、ニギハヤヒは本来ならば若宮ということになります。コヤネを祀る春日大社の若宮が息子のオシクモであるように――。そして、祭主であったニギハヤヒが亡くなると、今度はニギハヤヒが神として祀られ て祭神となったのではないでしょうか。杵築大社(現・出雲大社)でソサノオを祀っていたオホナムチが祭主から祭神に格上げされたように――。そのため、若宮の祭神はニギハヤヒとミカシヤの子であるウマシマチとされ、いつしかクシタマホノアカリは影が薄くなってしまったのかもしれません。大抵の場合、本社から追い出されると摂末社の祭神となっていることが多いので、現在は矢田坐久志玉比古神社の摂社である若宮神社に合祀されているという大神社の祭神である天照坐皇大神がクシタマホノアカリと思われます。若宮神社の現祭神は宇摩志麻遅命ことウマシマチですが、クシタマホノアカリの若宮はニギハヤヒなので、当初は本社にクシタマホノアカリ、若宮にニギハヤヒが祀られていたか、あるいは、当社の祭神が二座とされているのは、クシタマホノアカリとニギハヤヒを本社で祀っていたからかもしれません。
八代天君であるアマテル=天照の跡を継いだ九代天君オシホミミと、その后であるタクハタチチヒメは、『ホツマ』でいうところのハコネカミ=箱根神とスズカノカミ=鈴鹿神で、二人の長男であるクシタマホノアカリはアスカキミ=飛鳥君――すなわち“飛鳥に坐す神”であり、次男のニニキネはワケイカツチノカミ=別雷神です。
オシホミミ 箱根神 箱根神社祭神 現祭神名:天忍穂耳命
タクハタチチヒメ 鈴鹿神 椿大神社祭神 現祭神名:栲幡千々姫命
クシタマホノアカリ 飛鳥坐神 飛鳥坐神社祭神 現祭神名:天照皇大神
ニニキネ 別雷神 賀茂別雷神社祭神 現祭神名:賀茂別雷神
クシタマホノアカリ=櫛玉火明は、『日本書記』では「“天照”国照彦“火明”命」、『先代旧事本紀』では「“天照”国照彦天“火明櫛玉”饒速日尊」の名で登場します。そして、天照国照彦火明命は、矢田坐久志玉比古神社と同じく式内大社である鏡作坐天照御魂神社の祭神です。すなわち、クシタマホノアカリ=天照御魂神で、天照御魂神は略すと天照神であることから、天照大神、天照大御神、天照皇大神として祀られている神の正体が実はクシタマホノアカリであることも多くあります。飛鳥坐神社もその一つで、境内に御神体と思われるものも含めてたくさんの陽石が存在するのも、さらには天下の奇祭と名高い「おんだ祭」――子孫繁栄を願い、夫婦和合の様子を再現する神事――が行われてきたのも、子を生まない后を変えてまで熱望したにもかかわらず子宝に恵まれることなく、おのが血筋を残せなかったクシタマホノアカリを祀っているからなのだと思います。現在奥の社に「天照皇大神」の祭神名で祀られている神の正体がクシタマホノアカリでしょう。今は伊勢神宮内宮の祭神と同じとされていますが。
矢田坐久志玉比古神社を参拝した日の午後には郡山城址を訪れたのですが、天守台からはアスカキミが降り立ったという鳥見山が見えました。『ホツマ』では「トリノシラニハ」、『日本書紀』では「鳥見白庭山」の名で登場する山です。郡山城の天守台はやや高所にあり、調べたところ西ノ京丘陵の南端に造られているそうです。
郡山城天守台から見る鳥見山。鳥見山は桜井市に二つあるのですが、高いほうの鳥見山です。
この説明図があったので、鳥見山がわかりました。
郡山城址を含め、豊臣秀長関連の観光スポットを巡ったあと、4時に間に合いそうだったので、JR郡山駅から徒歩15分とされている売太神社にも行ってきました。一服していた箱本館「紺屋」から一番近い式内社だったので。この神社のことは知りませんでしたが、スマホで検索して調べると、祭神は稗田阿礼命。言わずと知れた『古事記』の伝承者です。稗田阿礼まで神として祀られているということに驚き、いったいどんな神徳がある神として信仰されているのか興味が湧いたので、足が限界に近づき、のんびりとコーヒーを飲んでいましたが、まだ時間的余裕はあったので、20分ぐらいかけて行くつもりで立ち上がりました。
稗田橋から見る佐保川
売太神社の鳥居と社号標。こちらの神社は無人ではなかったのですが、書き手がいないということで、御朱印はいただけませんでした。平日に参拝すると、よくあることです。
拝殿
祭神についての説明板。稗田氏は猿女君らしいので、となると、サルタヒコとウズメが先祖になります。
さらに詳しい由緒の説明。まだ全部読んでいません(笑)
売太神社がある稗田環濠集落の濠(堀)。環濠集落とは周りに濠を巡らせた集落のことです。遺跡ではなく、今も人々が住む現役の集落として機能しています。
帰りは、グーグルマップで調べたら、環濠集落の真ん中を通っている道を突っ切って環濠集落を出て、ひたすらまっすぐに北上すると県道144号線にぶつかり、左折して佐保川を越えればJR郡山駅に着くことがわかったので、最後の力を振り絞って歩き、JR線で奈良駅に戻って、日程終了です。
大納言塚あたりは雨が本降りで、天守台から距離もあり、かなり憂鬱でしたが、大河ドラマ館を出るころには雨も上がって、その後は最後まで天気がもってくれたので、本当に助かりました。もっとも、雨だったら売太神社には行きませんでしたが。
ただし、この日に無理をしすぎたため、次の日の京都は天気ではなく足がもたず、予定より早く引き上げる羽目になりました。あとどれぐらい神社巡りをすることができるのか……そろそろ吟味して絞っていかないといけないかもしれません。