羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

岐阜寺社遠征~白川八幡神社、明善寺in白川郷

 先々週の木曜金曜に輪島と金沢で仕事があり、土曜に帰ることにしていたので、帰る前に白川郷に行ってきました。当初はまだ行ったことがない越前二宮の剣神社か、10月1日にオープンした一乗谷朝倉氏遺跡博物館にでも行こうかと考えていたのですが、そこまで自分で移動するのが面倒くさくなり、とはいえ、もはや金沢や富山で見たいものもなかったので、さてどうしようかと思っていたら、金沢駅発着の白川郷日帰りバスツアーというのがあったので、そちらに参加してきました。

輪島の白米千枚田。世界農業遺産です。もう稲刈りが終わっていました。

千枚田の隣にある道の駅「千枚田ポケットパーク」から見える七ツ島

輪島寿司処「伸福」の地物にぎり

 

 時間に縛りがあり自由に動けないので、海外旅行も含めてツアーにはあまり参加しないのですが、昨年公共の交通機関ではどうにも効率よくまわるのが難しい出羽三山に行くために利用し、思っていたよりも満足できたのでその後も利用するようになり、5月にも有田&久留米での仕事ついでに博多駅発着の高千穂バスツアーに参加しました。アクセスが悪いところは公共交通機関を乗り継いで行けたとしても本数が少なく、結局は電車やバスの時間に合わせなければならないので、自由時間がある程度設定されているツアーならば、滞在時間はそんなに変わらないように思えました。

 

 しかも、ここ数年はコロナ対策でバスが密にならないように定員も少なめで、参加者もほとんどが一人か二人参加。なので、今のところ車内でうるさく喋ったり集合時間に遅れたりする困った客に遭遇することもなく、その意味でも快適に利用できていました。しかし水際対策が緩和され、全国旅行支援が始まった今後は、外国人も含めて旅行者が増えるので、そうもいかなくなる気がし、ならば、ツアーの参加者も少ない今のうちに、人出が多くなりそうな世界遺産に行っておくかと思い、参加。白川郷世界遺産なので一度行ってみたかったのですが、特にこれが見たいというものがあるわけではないので、なかなか腰が上がらなかったのですが、今までの経験により、遠征しているときに歩きまわるのが困難な気温ではなく、嵐の襲来もなく雨風の心配もない好天という条件は、望んでも揃わないことは身に沁みてわかっていて無駄にしたくなかったので、今回いい機会だと思い、訪れることにしました。

 

 ということで、9時過ぎにホテルをチェックアウトして荷物を預かっておらうと、20分に金沢駅西口の集合場所に行き、9時30分に出発。カリフォルニアからの参加者がいたので、ネクタイを締めたサラリーマンのような男性の添乗員が日本語に続いて英語でガイドをしてくれました。途中で1回トイレ休憩があり、10時45分に白川郷荻町城跡展望台に到着。

荻町城跡にある世界遺産の碑

天守閣展望台からの風景

寄るとこんな感じ。

 

 11時過ぎに展望台から下って「いろり」という店に到着すると、いったん解散して12時45分に再集合し、その店で昼食だったので、まずは添乗員サンに教えられた、どぶろくと栃の実のジェラートを食べに行きました。昼食の前後だとボリューム的に厳しいと思ったので。そのあと、事前リサーチでちょうど例大祭であることを知ったので、白川八幡神社へと向かいました。

 

 白川八幡神社例大祭は「どぶろく祭り」として知られる白川郷の秋の風物詩で、五穀豊穣、郷の平和などを祈願して、神社の酒蔵で独特の製法で醸造されたどぶろくが神に捧げられ、参拝者にも振る舞われます。コロナ禍で規模を縮小し、民俗芸能の奉納などの主要行事は中止となったみたいですが、どぶろくは振る舞われていたので、参拝後、拝殿で「例大祭」の文字が入った御朱印をいただくと、特設テントで記念盃を購入し、どぶろくをいただいてきました。多少酸味が強かったのですが飲みやすく、とはいえアルコール度数は14度ほどあり、空きっ腹にはきくはずなので、先に栃の実、どぶろく、和栗のジェラート3種盛りを食べておいてよかったです。安心して、勧められたお代わりも飲み干してきました。

和田家からの道

神田家

稲刈りの終わった田と明善寺庫裡

白川八幡神社拝殿

白川八幡神社の釈迦堂。見事な茅葺き屋根です。

釈迦堂の仏像

釈迦堂についての説明

どぶろく祭の記念盃と例大祭御朱印

 

 続いて浄土真宗の寺である明善寺に行き、庫裏と本堂を見学。およそ200年前――江戸時代末期に建てられた明善寺の庫裏は五階建て合掌造りとして最大のものだそうです。

明善寺の茅葺きの鐘楼。奥は本堂。

鐘楼についての説明板

庫裏の中から見える隣の合掌造り

庫裏の中から見える本堂の茅葺き屋根

庫裏の屋根裏。庫裏は郷土館になっていて、昔の道具が展示されています。いただいたパンフレットによると、蚕の飼育場だったそうで、柱が黒いのは、焚火の煙によって、欅や檜が漆塗りのような光沢を放っているとのことです。

見学の最後に居間の囲炉裏でくつろげます。白木が焚火の煙で黒くなるほど生活の中で囲炉裏を使うことによって建物が燻され住居の耐久性が高まったそうですが、囲炉裏を使う機会が減ったことにより、40~50年に一度だった茅葺きの葺き替えの周期も短くなっているそうです。

 

 明善寺を出ると12時半だったので、庄川沿いの秋葉神社に寄ってから、メイン通りではなく本覚寺の前の道を通って「いろり」へと向かいました。

秋葉神社から「いろり」に向かう途上の合掌造りその1

秋葉神社から「いろり」に向かう途上の合掌造りその2

秋葉神社から「いろり」に向かう途上にあった石碑

こんなのもいました。赤いボディと黒地に白抜き文字の名前のインパクトが強すぎて、思わず立ち止まってガン見してしまいました。「ひだっち」……いったい何者? シッポがあるから猫? 知らなかったので後で調べたら、飛騨高山PRキャラクターのようです。そういえば、白川郷は高山と同じ飛騨地方でした。昔の飛騨国ですね。

 

 再集合時間の5分前に着きましたが、添乗員は見あたらず、どうしたものかと思っているとドライバーが店内に案内してくれ、食事会場に入ると、ほとんどのツアー参加者はすでに食事を始めていました。そんなに見るところがなかったのかと思いましたが、添乗員に合掌造りはどれも同じだから内部を見るのは一つでいいと言われたので一つだけ見学し、あとは添乗員おすすめのビュースポットに行って写真を撮るぐらいなら大してかからず、買い物もしないのなら時間も余るかと思いました。

「いろり」の昼食。鍋は飛騨牛の朴葉味噌焼きです。

 

 1時10分過ぎに食事を終えて、食事処に隣接する土産物屋でどぶろく羊羹と添乗員おすすめの紫蘇もなかを買い、出発まで15分ほどあったのでメイン通り界隈をぷらぷら歩いていると、豆菓子専門店の豆吉本舗があったので、白川郷店限定の飛騨どぶろく豆と飛騨栃の実豆、それとレジ前に中津川の新杵堂の栗きんとんがあったので購入。「石川県から来たけど、そういや白川郷って岐阜県だったな」と改めて思いました。県が違えども金沢市のほうが岐阜市より断然近いですが。

食後の散策で出合った合掌造りとススキ

 

 出発時刻の5分前にバスに戻ると、今度は自分が最後で、席に着くなり、全員が揃ったということで、予定より5分早い1時25分に出発。途中で富山県福光町にある「ささら屋」の本店に寄り、白エビせんべい2枚の手焼き体験を経て、予定より10分早い15時10分に金沢駅に到着しました。渋滞にハマったりして駅に着くのが遅くなっても焦らないように、帰りの新幹線は16時48分発のかがやきにし、まだ1時間以上時間があったので長町あたりに行ってもよかったのですが、スマホの電池が4%ぐらいしかなく、途中で電池切れとなり、写真を撮るのも決済をするのもできなくなりそうだったので、あきらめてネットで駅近くでコンセントがあるカフェを探し、ヒットしたハイアットハウスのラウンジで一服することに。充電しながらコーヒーでも飲もうと思っていましたが、店に行ってみるとスパークリングがあったので、そちらを注文。どぶろくを飲んだせいで、昼食の時にはアルコールを飲む気になれず、お茶だけで済ませたので、ちょうどいい感じでした。節電のため控えていたネット検索やメールのチェック、写真の整理などをしながら1時間ほど過ごし、16時20分に店を出て、駅構内のホテルに寄って荷物を引き取ったあと、もうアルコールはいらなかったので、スタバでコーヒーを購入。30分過ぎに改札を入ると、金沢が始発のため、すでに車両が入線していたので乗車。これにて遠征終了です。

ハイアットハウス金沢のHバー。初めて行きましたが、静かでよかったです。

 

兵庫寺社遠征 その2~家島神社、射楯兵主神社

 姫路城プレミアムツアーの翌日は、チェックアウトタイムが11時で朝食も付けていなかったので、起きられなければギリギリまでダラダラするつもりでしたが、思いのほか早く起きられたので、10時半にチェックアウトし、予定どおり家島に行くことにしました。瀬戸内海の大小44の島々で構成される家島諸島のメイン島です。

 

 フロントに荷物を預かってもらうと、神姫バスの駅前案内所へ行き、前日に観光案内所で教えられたバスと船の往復割引チケット「しま遊びきっぷ」を購入。10時40分発の姫路港行きバスに乗り、間に合うか微妙でしたが、乗船券を買う必要がなかったので、なんとか間に合って11時05分発の高速いえしまに乗船。家島の中心は真浦港ですが、目的は名神大社の家島神社だったので、宮港で下りることにしました。乗った船はたまたま宮港経由の真浦港行きだったので、11時36分には宮港に到着。観光案内所で港から海岸沿いに徒歩15分ほどと聞いた家島神社に向かって歩きはじめました。

家島の宮港と高速いえしまの中型船。真浦港から乗った帰りの船がこれでした。

 

 ……が、前日に続き、この日も気温28度というけっこうな暑さ。ところが降水確率が0%だったので、手荷物を少なくするため、預けた荷物に傘を入れてきてしまい、帽子もなかったので、水分だけはまめに取ろうと思い、さっそく水を飲もうとしたら、ホテルの冷蔵庫から取り出して入れたと思っていたペットボトルがバッグの中にありませんでした。「どこかで調達しないとまずいぞ」と焦りましたが、港の周囲を見まわしても店や自販機がなかったので、とりあえず神社に向かって進むことにしました。途中に食事処が1軒あるはずだったので。

家島神社に行く途中にあった海神社。神戸市に本社がある播磨国の並名神大社です。海神三神を祀っているので、海を司る神ということで分祀されたのでしょう。社も海を向いていましたし。

 

 期待どおり「割烹旅館志みず」の前の道路脇に自販機が設置されていたので、お茶と見間違えて抹茶ラテを購入し、ひと息入れると、旅館の前は海水浴場になっていて海辺に続く階段があったので、行ってみることにしました。

家島の海

清水の浜海水浴場から見る家島神社の鳥居

家島神社の鳥居と防波堤

 

 社務所神職がいるのなら12時前に着くのがいいだろうと思ったので、海水浴場を通り過ぎてからは休まず歩き、12時10分前に鳥居前に到着。

家島神社の鳥居

鳥居と社号標と万葉歌碑

社号標と灯籠

万葉歌碑

参道から見る鳥居

参道の階段。170段あるそうです。

 

 参道は、海沿いから階段を上るルートと、ホタルロードという山道ルートがあり、170段の階段を登り切ると社務所があり、右手にホタルロードから来たときの鳥居があります。

山道ルートの鳥居と社号標。左の手水舎の奥が階段&海沿いルートの参道入口。右奥は社務所のようでしたが閉まっていました。真ん中が社殿に通じる参道ですが、よく見ると右に曲がっているので社殿は見えません。

由緒書き

拝殿が見えてきましたが、参道は真っすぐではありません。果たして、いずれの神を封じ込めているのやら……。

 

 由緒書きによれば、家島神社の祭神は大己貴命、少名彦命、天満天神。大己貴命と少名彦命は、海神社と同じく播磨三大社に数えられる名神大社で播磨一宮である伊和神社の祭神なので、家島に播磨の国の神が分霊されて祀られたと考えられます。しかし当社は“家島神の社”であり、曲げられた参道から判断すると、本来の祭神は封じられた神であると思われます。天満天神は菅原道真のことなので封じられた神――正真正銘祟り神ですが、後から合祀された神なので家島神ではないでしょう。おそらく、家島の地主神が本来の祭神ではないでしょうか。

拝殿

拝殿の扁額

本殿(左から)

本殿(右から)。鰹木は4本と思われます。

 

 拝殿内に神職がいたので御朱印をいただけるか訊ねたのですが授与していないとのことなので、おみくじを引くと、来た道を戻るのはつまらないので、ホタルロード経由で真浦港を目指しました。

おみくじ。前日の凶から小吉まで運勢が回復しました。

ホタルロードから見える男鹿島と宇和島の二島。男鹿島はメチャクチャ削られているのがわかります。

清水公園の東側

清水公園の西側

 

 散策マップによると、ホタルロードの途中から遠見遊歩道という海岸沿いに出る道があったので、そこを通っていこうと思ったのですが、遊歩道の入口に着くと、その先は原生林内のただの山道で、イノシシ注意の看板が。昼は出ないと書いてありましたが、何かに遭遇してもその日の寺社詣りスタイルではとても対処できないと思ったので、あきらめて道なりに車道を歩き、途中で右折してすれ違うのもやっとの幅が狭い階段を通って海沿いに降りるルートがあったので、そちらを選択。平地が少なく斜面を宅地利用している島にはよくある細道ですが、レンタサイクルを借りると、こういう場所は通れません。幅1メートルもない路地裏みたいな階段をしばらく下っていたら鳥居が見えたので、GPSで調べたら宮浦神社でした。

白髭霊祠こと宮浦神社

宮浦神社の由緒書き。家島神社に行く途中にあった海神社は当社の境外末社のようです。

境内末社の竃社

本殿。鰹木は5本。家島神社より多いです。

 

 平日には島民の足として走っているコミュニティバスも土曜は午前中しか走っていないので、ひたすら真浦港に向かって歩き、25分ほどで到着。港の近くにある食事処も2時には閉まるとの情報を得ていたので、1時半にはラストオーダーだろうと思い、一番最初に発見した「料理旅館おかべ」に入店。すでに客は一人もおらず店じまいの準備に入っている様子でしたが、予約がないけど食事ができるか訊くと「どうぞ」と言われたので、カウンターに座り、これなら閉店間際でも確実にできそうな、お任せの内容で、おすすめメニューである「家島海の幸セット」を頼むことに。この日の内容を確認すると、お造り中心とのことで、暑い中2時間ほど歩いてきて疲れてもいたので、当然のことながらレモンチューハイも注文。お茶と間違えて抹茶ラテを買ってしまったので、よけいに喉が渇いていました。

料理旅館おかべの「家島海の幸セット」。この日のメインは鯛のお造りで、引き締まった歯ごたえのある身が美味しく、魚の種類は不明ですが、煮つけもタタキも食べられて、写真には写っていませんが、このあとフライも出てきて、すべてが魚の味がしっかりしていて、島の味を堪能しました。

 

 バスの案内所でもらったリーフレットによると要予約の店が多いとのことで、時間的に余裕があったら食事をするつもりだったので予約は入れられず、したがって食べられたらラッキーぐらいの気持ちでいたのですが、ガッツリと海の幸を味わうことができ、大満足で食事を終えると、ランチタイムが終わる2時に店を出て真浦港へ。上陸したのが宮港で、場所がわからなかったため、まずは乗り場を確認すると、次の姫路港行きの船の出発時間は14時30分だったので、近くにあるはずの真浦神社に行くことにしました。案内板を見ると、「どんがめっさん」という名所がすぐのようだったので、そちらに寄ってから神社へと向かいました。

「どんがめっさん」

「どんがめっさん」についての説明

真浦神社

真浦神社についての説明板

本殿。鰹木は宮浦神社と同じく5本。

 

 説明板によれば、当社は「家島の神の摂社」で、明治期に真浦神社と改称される前は荒神社と呼ばれていたとのこと。……ということは、家島の地主神である本来の家島神とは、こちらの荒神だったと思われます。荒ぶる神だからこそ封じる必要があったのでしょう。説明板には、当社の祭神は奥津彦神と奥津姫神とも書かれていましたが、これは荒神三宝荒神と混同され、三宝荒神は竃の神なので、同じく竃の神である奥津彦神と奥津姫神に比定されたからだと考えられます。つまり、本来の祭神ではないはずです。

 

 では、本来の荒神の正体は――というと、これこそ家島神だったのではないでしょうか。島に本土の播磨の国神が勧請されたことにより、島の地主神である家島神は本社から摂社の祭神に格下げされて荒神社に祀られたのだと思います。もっと穿った見方をすれば、家島が播磨国支配下に入ったときに、島の地主神である家島神は播磨人に祟るかもしれない荒神となり、その神を封じ込めるために播磨の国神の分霊が島に呼ばれ、その結果祭神が交代し、家島神社の本社には大己貴命と少名彦命が祀られ、摂社に荒神として家島神が祀られることになったのではないでしょうか。宮浦神社には境内末社として竃社がありましたが、おそらくそれは竃社の祭神が元々は奥津彦神と奥津姫神ではなく荒神だからで、比叡山の僧である覚円が比叡山に近い近江高島白髭神社から猿田彦神を勧請し当社を建てると、土地の地主神である家島神も一緒に祀った名残なのだと思います。あるいは、宮浦神社の鰹木が真浦神社と同じく家島神社より多い5本であることから考えると、家島神という荒神を祀った名残である竃社が最初は宮浦神社の主祭神で、猿田彦神末社の祭神であったのが、逆転したのかもしれません。家島神社で家島神が大己貴命主祭神の立場を取って代わられたように。

 

 その他、真浦神社と宮浦神社の両方に蛭子大神を祭神とする境内社の恵美酒社があったことも興味深かったです。西宮神社の記事でも書きましたが、えびす神は面倒くさく、恵美酒=えびす=蛭子=ヒルコ=ヒヨルコ=淡島=スクナヒコナという関係性が成り立つ、実に複雑な神です。よって、播磨一宮の伊和神社から分霊されて家島神社に祀られたのは大己貴命だけで、スクナヒコナ=少名彦命は真浦神社と宮浦神社の蛭子大神と同一神であり、家島諸島の隣に位置し、えびす神の生誕地である淡路島の信仰の影響を受けて祀られた可能性もあります。また、蛭子=ヒルコ=昼子=和歌姫=天照大御神でもあるので、宮浦神社で天照皇大神が祭神とされているのは、境内末社である恵美酒社の蛭子大神が転化して本社に合祀されたからかもしれません。一緒に祀られている底筒男神は境外末社である海神社の祭神がやはり本社に合祀されたのでしょう。真浦神社の三社宮は播磨国総社からの分霊とのことですが、宮浦神社に天照皇大神と底筒男神が祀られていたから総社から神明社の天照皇大神と住吉社の底筒男神が勧請され、家島神社の現祭神が大己貴命だから金刀比羅宮大己貴神も勧請されたのだと思われます。厳密に言えば、金刀比羅神とは大己貴=オホナムチのことではなく、オホナムチの孫のことですが……。宮浦神社の祭神の中で武甕槌神だけが他では祀られていなかったので由来の想像がつきませんでしたが、あとは辻褄が合って理に適っていたので、やはり神社研究はフィールドワークが大事だと思いました。

 

 出航10分前に真浦港に戻ると、すでに列ができていたので並び、高速いえしまの中型船に乗車。行きの船より大きくデッキも広かったので、船室から出て瀬戸内海と浮かぶ島々を見ながら家島を後にしました。

船から見た家島神社の鳥居

家島神社の鳥居と島々

右から男鹿島、宇和島、太島、鞍掛島(多分)

男鹿島の全景

帰りの船から振り返って見た家島

 

 3時に姫路港に着くと、15時05分発の姫路駅行きバスに乗り、20分ほどで駅前に到着。それから姫路城方面に行く乗り場に移動すると、ちょうど書写山ロープウェイ行きのバスがいたので乗り、姫路城大手門前バス停で下車し、そこから徒歩3分ほどの射楯兵主神社へ。式内社なので、最初に姫路城を訪れたときに一度訪れたことがあるため、時間があったら寄ることにしていました。

神門。播磨国総社で姫路城の鎮守でもあるので立派です。

境内案内図

 

 当社の祭神は射楯大神こと五十猛神と兵主大神こと大国主神。どちらもソサノヲの子で、五十猛神紀伊一宮の伊太祁曽神社主祭神大国主神出雲大社主祭神でもあります。紀伊はソサノヲの生国で、出雲は終焉の地で鎮座地ですから。この大国主神大己貴命のことなので播磨一宮の伊和神社の祭神でもあり、すなわち家島神社の現祭神でもあります(厳密に言えば、大国主神とは大己貴命の子ですが)。ということは、紀伊から淡路島→家島→姫路→宍粟(伊和神社)を通って、伯耆国日本海に出て出雲に至るルートがあったのではないかと考えられます。

本殿。二間社流造です。

播磨国総社の鳥居。この奥に播磨国16郡の神が祀られ、国司はこちらを参拝すれば、現地に出向かなくても16郡の神を参拝したことになりました。

鹿島神社と琴平社(左)。真浦神社の末社である金刀比羅宮はこちらからの勧請。

戸隠社と神明社(左)。真浦神社の末社である神明社はこちらからの勧請。

富姫を祀る長壁神社。最初は姫路城がある姫山に祀られていましたが、姫路城築城のため総社の境内に遷されました。しかし城主の池田輝政が病に罹ったときに富姫の祟りという噂が立ったので、輝政が改めて天守に祀りました。それゆえ姫路城天守と総社にあるそうです。

 

 参拝して御朱印をいただき、境内をひと巡りして射楯兵主神社を後にすると、近くに大きな鳥居があったので、姫路神社かと思って行ってみたのですが、護国神社で、興味がなかったためスルーし、最寄りのバス停にちょうど姫路駅行きのバスが来たので乗車。

射楯兵主神社から護国神社に向かう途中にあった城見台公園から見る姫路城。どこから見ても絵になる城です。

 

 姫路駅前に着くと、ホテルに寄って荷物を引き取ってから駅に戻って特急券を発券し、駅構内のコンビニで例によってタカラ缶チューハイを調達。昼食が豪勢だったので駅弁は少々重いと思いながら、ツマミを求めて駅ビル内をふらついていたら、フードコートみたいなところに「姫路玉子焼き」という看板があったので、ピンと来てテイクアウト。いわゆる明石焼で、大好物なのでラッキーと思っていたのですが、荷物が多い状態で、だし汁のパックが斜めってこぼれないように真っすぐ持って歩くのはけっこう大変で、たこ焼にしておけばよかったと思いました。

 

 5時過ぎののぞみに乗車し、これにて遠征終了です。

兵庫寺社遠征 その1~円教寺

 昨日一昨日と輪島と金沢で仕事だったので、今日は白川郷に行き、8時過ぎに帰ってきました。白川郷の記事はそのうち書きますが、まずは3連休に書きかけて途中で終わっている兵庫遠征記をこの土日で仕上げたいと思います。

 

 さて、姫路城を見たあと、プレミアムナイトツアーまで時間があったので、西国三十三所第27番札所である円教寺に行ってきました。草創1300年記念行事を機に西国三十三所巡りもしているので、次に姫路を訪れたときには必ず円教寺まで足を延ばさなければならない、それも記念行事が終わる2023年3月までには――と思っていたところに姫路城の特別公開があったので姫路行きに固執していたのですが、今年の夏はとんでもなく暑く、姫路城だけならまだしも、高低差があり広い書写山の境内を歩いてまわるのは相当厳しいだろうと思ったので、お盆休みの姫路遠征は断念した次第です。

 

 で、9月に仕切り直したわけですが、まだ日中は28度ぐらいあったので快適とは言えず、しかし歩くのが苦というほどの気温ではないので、当初の予定どおり奥の院まで行くつもりで大手門前バス停へと向かいました。書写山ロープウェイ行きのバスは1時間に3本で、次は姫路駅前発が12時35分だったので、その2、3分後のはずでしたが、バス停の前に鱧や牡蠣を食べさせる魅力的な店があり、客もひと組いるだけで席も空いていたので、急きょ昼食を摂ることに。店の前の看板にあった鱧の蒲焼き丼を食べるつもりでしたが、席に着いてメニューを見せてもらうと、気になるものが他にもたくさんあり、ちょうど暑くて喉も渇いていたので、レモンサワーを頼み、すべて単品でつまむことにしました。プレミアムナイトツアーにはコース料理が付いていましたし。

鱧の蒲焼き風。養殖鱧についての説明も一緒に出てきました。

蒸し牡蠣。あまりに美味だったので、焼き牡蠣も頼んでしまいました。

マアジのハンバーグ

食事をした「はりかい」。大手前通り沿いの店なので、席によっては姫路城を見ながら一杯飲めます。私は人通りを避けて、家老屋敷跡公園に近いほうの席で、大通りを見ながら飲んでいましたが。

 

 どれもこれも好みの味だったので、レモンサワーをお代わりし、すこぶる上機嫌で店を後にしました。結局最初乗るつもりだったバスより2本遅いバスに乗り、30分ほどで書写山ロープウェイバス停に到着。姫路城に行く前に姫路駅構内にある観光案内所に寄り、そこで教えてもらったバスとロープウェイのセット券を駅前のバス案内所で買っていたので、直接乗り場に行ったのですが、15分ごとの運行で、ちょうど行ったばかりで次の出発まで10分ほどあったので、外にあったトイレに寄ることに。外観が銭湯の玄関風で中も広い、姫路城より入りやすいトイレでした。姫路城ではトイレに入らなかったので、中の様子は比較できませんが。

書写山山内図

 

 14時発のロープウェイに乗り、下車して道なりに歩いて入山受付に着くと、入山料は500円でしたが、別途500円の特別志納金を納めると観音堂の摩尼殿までシャトルバスで連れていってくれるそうなので、計1,000円を納め、すでに待っていたマイクロバスに乗車。奥の院まで行くので極力体力を温存したく、文明の利器の力を借りることにしました。入山受付から摩尼殿までは歩くと25分ぐらいで登り坂。500円で登山を省略して楽ができ、20分を短縮できるのなら安いものです。時間も体力も限りがあるものなので。

 

 円教寺は「西の比叡山」とも呼ばれる天台宗の別格本山で、比叡山伯耆大山と並ぶ三大道場の一つです。標高371メートルの書写山の山上に広がる境内は東谷、中谷、西谷に区分され、西国三十三所札所の中でも最大規模を誇るとのこと。映画やドラマのロケ地としてもよく使われ、トム・クルーズ主演の「ラストサムライ」などもこちらで撮影されました。実際に羽柴秀吉の中国攻めにあたっては境内に陣がしかれたそうなので、これ以上ないロケ地だと思います。開山は性空上人で、上人が康保3年(966)に入山し、西谷に庵を結んだことが当寺の起源。入山受付でもらったパンフレットによれば、摩尼殿の本尊は如意輪観音で、御本尊の像は上人が根のある生木の幹に彫ったものだそうです。現在年に1回公開しているのは、この像を模して昭和時代に造られた像らしいですが。

摩尼殿。独特の舞台造りです。

円教寺の案内図

摩尼殿からの景色その1

摩尼殿からの景色その2

久しぶりに凶を引きました。「万事我たのみにおもふものにうらぎりせらるるかたちなり」……つい最近思いあたることがあり、かなり凹みました。おみくじ、侮れず。

 

 観音様にお参り後、御朱印をいただくと、性空上人が悟りを開いたという白山神社に行こうとしたのですが、山道で険しかったので途中で断念し、三つの堂へ。三つの堂とは大講堂、食堂、常行堂のことで、いずれも国の重要文化財です。大講堂の裏山には白山神社に通じる道があり、この山道はまだ歩けたので、白山神社まで行って同じルートで戻ってきました。靴などの装備がしっかりしていれば、摩尼殿の横から白山神社を経由して大講堂の裏に抜けられ、同じ山道を引き返すようなつまらないことをせずに済んだのですが、仕方がありません。夕食がレストランでコース料理なので、山登りスタイルというわけにはいきませんでした。

白山神社

白山神社についての説明板

白山神社の隣にあった末社。本社も末社も山の中にあります。

 

 白山神社の説明板によると、性空上人の入山以前からこの地には素戔嗚尊を祀る堂があり、その起源は神代に素戔嗚尊が一宿したからとのこと。ゆえにこの山を「素戔の杣」と呼び、書写山の名はそれに由来するといわれているそうです。つまり、素戔の杣=スサノソマ=ソサノソマ=ソサノヤマ=ショシャノヤマ=書写山と転化したということなのでしょう。素戔嗚=スサノオ=ソサノヲなので、スサ=ソサの転化はよく見られますが、ソサ=ショシャならば、かなり訛った転化です。ともあれ、性空上人はソサノヲゆかりの地であることを知っていて、それゆえに他でもないこの山を修行の場に選んだことはまず間違いないと思うので、古刹が存在する地にはやはりそこが選ばれた理由があり、古代の神々の聖地である可能性が高いことが今回も認められました。比叡山はヒヱノカミ=比叡神=日枝神=日吉神ことヤマクイの聖地であり、高野山はタカノカミ=高野神ことイブキドヌシの聖地、西国三十三所の札所である長命寺観音正寺には磐座があるので、こちらも神代の聖地であり、中山寺にも古墳があったので古墳時代の聖地です。

 

 三つの堂の食堂内は宝物館で、仏像や鬼瓦などの寺宝が展示されていて、無料で自由に拝観できるようになっていました。

大講堂。左は食堂。

食堂。圧巻の建物でした。

食堂2階から見る大講堂

食堂2階から見る大講堂と本多家墓所

円教寺の年譜。今年のNHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」ですが、元暦元年(1184)には、源頼朝が平家追討祈願のため梶原景時畠山重忠らを遣わし不断経を読ませたそうです。

食堂の前にある本多家墓所。姫路城オーディオガイドに登場した本多忠刻と宮本三木之助の墓もここにあります。

本多家墓所についての説明板

奥の院の開山堂(左奥)と不動堂(右)。開山堂も国の重要文化財です。

奥の院の開山堂と護法堂(右の二つ)と護法堂拝殿(左手前)。両護法堂も護法堂拝殿も国の重要文化財です。

 

 奥の院から金剛堂、榊原家墓所、鐘楼、松平家墓所などを見て、再び摩尼殿の下まで来ると、バスは往復乗れるのですが、時間的に余裕があったので、帰りは歩くことにしました。摩尼殿前にある端月茶屋の脇道を通り、十妙院、金輪院、壽量院などの塔頭を横目に見つつ、仁王門、入山受付を通り抜けてロープウェイ乗り場へ。

十妙院の説明板。赤松満祐ゆかりの寺院が残っていて、それが西国三十三所札所の塔頭で建物が重要文化財だなんて、少々驚きました。六代室町将軍である足利義教を暗殺した人物なので……。非は義教にあり、満祐は被害者ということで、ゆかりの寺院が維持されて残ったのでしょうか。

仁王門

東坂から見える景色

入山受付の近くにある看板。行きは気づきませんでした。

 

 入山受付の近くにあった看板の説明によると、書写山和泉式部と縁が深く、一条天皇中宮藤原彰子性空上人の教えを受けたくて書写山を訪れたときに、上人は権力者と関わりたくなくて居留守を使って面会を回避したので、中宮は失望して山を下りようとしましたが、側仕えの女房であった和泉式部が上人に歌を届け、その歌に感銘した上人は、中宮のために仏の道を説いた――とのことです。そのとき上人に送られた歌が「冥きより 冥き道にぞ入りにける 遥かに照らせ山の端の月」。恋多き女性で恋歌の秀作が多い和泉式部ですが、この歌の作者だからこそ間違いなく名歌人だと私が認める和泉式部の最高傑作です。この歌を贈られた性空上人が折れて中宮に面会したというのが実に現実的で、上人の心境がよくわかります。上人は橘氏の出身で出家前は都の貴族だったそうなので、文化的素養があり、歌の心を汲み取ることができる人物だったのでしょう。

和泉式部の歌の逸話を伝える看板。『拾遺和歌集』の詞書には「性空上人のもとによみてつかはしける」とあるだけで、場所も、性空上人が何者かもわからなかったので、大好きな歌ですが、書写山が関係しているとは今の今までまったく知りませんでした。

 

 1300年記念特別印入り御朱印をいただき、ソサノヲの聖地であることが確認でき、赤松満祐や和泉式部の意外なエピソードを知り、たいそう実のある参詣だったと大満足で、16時15分発のロープウェイに乗車。35分発の姫路駅北口行きバスに乗り、好古園前バス停で降りて、プレミアムナイトツアーの集合場所である姫路城迎賓館へと向かいました。

兵庫寺社遠征 番外編~姫路城&姫路城プレミアムナイトツアー

 先月末に、やっと姫路城に行ってきました。

 

 一度行ったことがあるのですが、世界遺産になる前という大昔で、世界遺産に認定されたので改めて行こうと思っていたら平成の大修理が始まってしまい、2015年にようやく終わったと思ったら、白すぎて違和感をおぼえたので、数年経って色が落ち着いてきたら行こうと思っていたらコロナ禍になってしまいました。ということで、20年ぐらい前から再訪したいと思っていたところ、今年の7月15日から8月31日まで特別公開をするというので、「これは行くしかない」と思い、ちょうどお盆休みに宝塚大劇場のチケットが取れていたので、その前後に行くことにしていました。

 

 ところが、舞台関係者に陽性者が出て公演が中止になり、ならば暑い上に一番混むときに行くこともないだろうと思い、お盆休みが終わってから行こうと思ったのですが、コロナ感染による半月隔離生活の影響もあって仕事が忙しく、時間的にも体力的にも遠征が難しく、けれどもあきらめきれなくてイライラしながらネットで特別公開関連の情報収集を続けていたところ、姫路市が主催する「姫路城プレミアムナイトツアー」の情報をゲット。史上初の夜間の大天守登閣ツアーで、姫路城研究の専門家が非公開区域も案内してくれ、姫路城が見えるレストランでの夕食と伝統工芸品のお土産付きで、参加費はなんと一人50,000円……。申し込む人がいるのかと気になって申込み状況を見てみたら、設定日が9月の五日間のみで、一日限定10名のためか、すでに三日は満員で、まだ空いている日がちょうど行ける日だったので、5分ほど悩んだ末に申し込みました。高いとは思いましたが、申し込んでいる人がいるので、それなりに身のある内容かもしれないと思ったこと、どんな人が参加するのか興味が湧いたこと、今夏も海外旅行に行けなかったことなど理由はいろいろありましたが、何よりも、行きたいのに行けない状態が続き、このままイライラして過ごすよりは精神衛生上よいだろうと思ったからです。やりたいこと好きなことを好きにやるために仕事をしているので、仕事のせいでそれができないとなると本末転倒でストレスが大きく精神的にきつくなります。稼いで日々の糧を得なければ生きていけないので、やむなく仕事をしていますが、真面目にやれば確実に心身を消耗する労働というものは、単に食い繋ぐことだけが目的で何年も続けられるほどたやすいことではないので……。思ったとおり、なかば清水の舞台から飛び降りるような気持ちで申し込みましたが、8月末までの特別公開はすっぱりとあきらめがつき、とたんにイライラも解消して、怒涛のような仕事に集中することができました。

ツアー申込後に姫路市から書類とともに送られてきたリーフレット

書類やリーフレットと一緒に入っていた本。ツアー当日の城内は、この本を監修している工藤茂博さんが案内してくれました。

 

 当日は17時30分に姫路城迎賓館に集合とのことだったので、前日仕事を終えると品川発18時37分ののぞみに乗車し、21時30分に姫路駅に着いて、駅近のホテルにチェックイン。明けて翌日、ナイトツアーはおもしろいだろうけど、現実的にはよく見えず歴史的建造物の見学には適さないと思ったので、明るい時間帯にしっかり見ておこうと思い、朝食後に姫路城へと向かいました。集合時間より早めに行って見学するというのもアリでしたが、午前中の陽の光の中で見たほうが姫路城は美しいのではないかと思ったので。

テルモントレ姫路の朝食会場から見えた姫路城

姫路城と桜門橋

姫路城と世界遺産の碑

左から、リの渡櫓、チの櫓、西小天守、大天守、井郭櫓(多分)、帯郭櫓(多分)

左から、大天守、リの渡櫓、チの櫓、二の丸跡

右から、チの櫓、リの一渡櫓、ニ渡櫓、ぬの門、中央奥は大天守

黒田官兵衛普請の石垣。自然石を積み上げる野面積みです。

チの櫓の下の石垣。内側の野面積みは豊臣秀吉時代に築かれた石垣。

 

 チケットを購入すると、改札口を入る前に姫路城インフォメーションに寄って、プレミアムオーディオガイドをレンタル。従来の松平健ナビゲーターのバージョンと、今年の7月から登場したという声優バージョンがあったので、そちらを借りました。鳥海浩輔さんが千姫の夫である本多忠刻小野友樹さんが宮本武蔵の養子で忠刻に仕えて殉死した宮本三木之助に扮し、ラジオドラマ形式でナビゲートしてくれます。ガイドの順番は資料館になっている西の丸から天守でしたが、人が少ないうちに天守を見たほうがいいだろうと思ったので、先にそちらへと向かいました。聞きたいガイドは数字ボタンで選べるので、まったく問題ありません。

プレミアムオーディオガイド声優バージョンを借りたときにもらったリーフレット鳥海浩輔さんは「イケメン戦国」で豊臣秀吉のCVを担当しているので耳馴染みがあり、イケボであることはわかっていたので、こちらを選びました。

菱の門

姫路城鳥瞰図

天守と三国掘

はの門と将軍坂。将軍坂は、実際に江戸将軍が通ったことは一度もなく、暴れん坊将軍が通ったことに由来する俗称だそうです。

ほの門(左下)と乾小天守

石落とし

天守内その1。1階にある天守出入口。

天守内その2。破風の屋根裏部分。

天守内その3。高いところから攻撃するための石打棚

 

 大天守の最上階には長壁神社があり、播磨富姫神が祀られていました。私が好きな泉鏡花の戯曲『天守物語』の主人公である富姫は姫路城の天守に棲みついている妖ですが、彼女は播磨富姫神がモデルなのでしょう――今の今まで知りませんでしたが。説明板によると、主祭神は姫路長壁大神で、富姫はその娘とのこと。工藤さんが監修した姫路城の本には、刑部姫宮本武蔵の伝説について書かれていて、姫川図書之助のモデルがどうやら宮本武蔵であるらしいことも、このたび初めて知りました。

長壁神社

長壁神社についての説明板

不思議な形の桐紋の瓦。下の揚羽蝶の丸紋は江戸時代初期に城主だった池田氏の家紋。

天守を支える東西2本の大柱。ナイトツアーで東大柱は樅の一本柱と説明されました。

右から、大天守、西小天守、乾小天守

怪談『播州皿屋敷』ゆかりのお菊井戸。城外にありましたが、明治期に城内の井戸に移したとのこと。

 

 チの櫓とリの一渡櫓の常設展示を見て、三国堀の脇を通り、天守コースと西の丸コースの分岐点である菱の門の前に戻ってくると、続いて西の丸へ。

大名行列についてのパネル展示その1。大名行列の持ち物

大名行列についてのパネル展示その2。姫路から江戸までの行程。

大名行列についてのパネル展示その3

大名行列についてのパネル展示その4。プチトリビアです。

西の丸から見る天守

西の丸についての説明板

百間廊下

百閒廊下についての説明パネル

百閒廊下から見る天守

 

 西の丸の内部は資料館で、歴代城主についてなどの説明パネルが展示されていましたが、池田家→本多家→松平家→榊原家とコロコロと城主が変わった城なので、興味がなくスルー。徳川家康の孫で豊臣秀頼の妻、のちに姫路城主本多忠政の嫡男である忠刻に再嫁した千姫についても、大坂城時代に比べると興味が薄いのでスルーし、化粧櫓から出てくると、時刻は12時をまわったところ。午後は西国三十三所の札所である圓教寺に行くことにしていたので、約2時間の見学を終え、改札口の横にある売店で御城印を購入し、インフォメーションに寄ってオーディオガイドを返却すると、姫路城大手門前バス停へ。(圓教寺については別記事を書く予定)

 

 5時過ぎに書写山から戻ってくると、集合時間が17時30分で受付開始が15分からだったので少し早かったのですが、他に寄るところもないので、集合場所の姫路城迎賓館へと向かいました。すでにスタッフがいたので受付を済ませ、迎賓館内でお茶と姫路銘菓の「玉椿」をいただきつつ説明を聞き、時間になるとガイドに伴われて出発。姫路城の職員、姫路市観光課の職員、JTB姫路支店の社員と思われるスタッフが同行し、参加者よりスタッフのほうが多いツアーでした。まあ、姫路城には夜間公開の設備がないので、ほとんどが照明要員で、行く手を照らしたり、足元を照らしたり、説明箇所を照らしたりしてくれました。

姫路城と桜門橋。午前中とは全然印象が違います。

大手門

夕映えの姫路城

迎賓館の待合室。黒田官兵衛の甲冑と、官兵衛が賜って黒田家の家宝となった織田信長所有の名刀、へし切長谷部の飾り物がありました。

配られた案内ルートの地図

菱の門。開門時間外なので、職員が後ろの閂を開けてくれ、ツアー客が扉を押して開けました。

菱の門の裏側。開門時間内には見られないものです。開けて入ったあとに、また職員が閉めて、施錠の状態を見せてくれました。ちなみに、江戸時代の城の城門の名前は、転封などで城主が代わっても鍵の引き渡しが間違いなく行われるように、すべて幕府に届けられ、勝手に変えられるものではなかったそうです。

乾小天守

乾小天守と二の櫓。スタッフが電灯で照らしてくれないと見えません。

ロの渡櫓の中にある井戸。こちらも真っ暗なので、スタッフが数人がかりで照らして見せてくれました。

天守にある厠その1。下にあるのは備前焼の甕だそうで、厠の甕としては高級すぎるので、実際に使われたものではないだろうとのことでした。

天守にある厠その2。特別公開で見せるのは甕ありのほうで、こちらは公開していないそうです。

夜の長壁神社その1。光源が行灯風ライトだけだとこんな感じと、戦国~江戸時代の暗さを体験。

夜の長壁神社その2。窓の戸を開けると、天守内に電灯がなくても、現代は外のネオンが明るいので、ある程度見えます。

天守最上階から見る大手前通り

シャチホコと月

土壁と月

備前丸から見る大天守と西小天守

お菊井戸とチの櫓

化粧櫓内の千姫に関する展示品。復元着物のパネルなども展示されていました。こちらも特別公開中しか見られません。

化粧櫓から見る天守

 

 西の丸の見学が終わると、1台2名ずつ5台のタクシーに分かれて、姫路城の中堀の外側を一周し、ライトアップされた姫路城を四方から眺めたあとに、レストラン「SORA NIWA」へ。和洋折衷の創作コース料理で、デザート後のコーヒーまでサーブされると、あとは自由解散。ホテルか姫路駅まで個別にタクシーで送ってくれることになっていたので、姫路駅まで行ってもらい、駅構内のコンビニに寄って水などを調達してから、10時前にホテルに帰着。これにて日程終了です。

姫路城が見えるレストランで、全員が窓を向く席でした。

夕食メニュー。これにアルコールも選べるドリンクが1杯が付いていて、2杯目から有料でした。

帰りに渡された姫路城のイラストの紙袋と、中に入っていたクリアファイル。伝統工芸品のお土産は後日自宅に発送してくれるそうです。

 

 正直なところ、プレミアムツアーの内容が価格に見合っていたかは微妙ですが、本来明かりがないところに不自由さを感じないほど電灯を用意し、夜間のイベントで、その設備がない施設で参加者の怪我や文化財の破損などの事故が起こらないように細心の注意を払い準備をする必要があることを考えると、通常のツアーであれば生じないスタッフの人件費などもあると思うので、妥当な金額のような気もします。海で同じような遊覧を楽しむにしても、定期的に運行される観光船に乗るのと定期観光船がないところでチャーター船に乗るのとでは、かかる金額が違うのと同じようなものです。すべてのツアー参加者がそこまで考えてツアー料金に納得するかはわかりませんが。

 

 ということで、夜の姫路城も純粋におもしろかったのですが、世界遺産姫路城というコンテンツを使って姫路市が実験的に試みる企画に参加できたことは貴重な体験で、興味深いことでした。しかしながら、主催者側も参加者側も「プレミアム」は人それぞれなので、今後も続けるならば、できるだけ多くの人々が共感でき支持される落としどころを探っていかなければならないと思います。そのためにも、今回とはまた違った特別感のあるツアーを今後も企画し催行してほしいですね

 

 それにしても……善光寺の時もそうですが、再訪したいと思っていても、なかなか叶わず、気が付くといつのまにかけっこうな月日が経ってしまっています。そんな状態なので、「二度と行くことはないだろう」と思う旅先もたくさんあります。また、ここ数年足を運んでいる旅先でも「もう来ることはないかもしれない」と思って、自分に散財を許し、できる範囲内で豪遊しています。長寿時代で平均寿命が長くなり人生は長いのかもしれませんが、健康寿命は短く、安定した経済環境も残念ながら寿命ほど長くはないと思うので、今後もおもしろい旅の機会は逸しないように、旅先では再訪できなくても悔いのないように楽しみたいと思います。

岡山神社遠征 その2~吉備津神社(鳴釜神事)

 翌日は、ホテルをチェックアウトして、ボストンバッグとバッグに入らなかったデニムのイコちゃんをフロントで預かってもらうと、岡山発8時36分の吉備線――通称桃太郎線に乗車。吉備津駅で下車し、10分ほど歩くと、9時過ぎに吉備津神社に到着。鳴釜神事は10時開始で、10分前までに受付を済ませればよかったのですが、桃太郎線は1時間に1本で、次の電車では微妙に間に合わないため、集合時間の40分前に着くことになりました。しかし吉備津神社は広いので、まったく問題なし。受付を済ませて御朱印をいただくと、神事が終わったらすぐに岡山駅に戻れるよう、先に境内を見ておくことにしました。

吉備津駅から吉備津神社に向かう途中にある社号標

境内図

案内板

 

 当社は名神大社であり官幣中社、往古は大和王朝と並ぶ威勢を誇った吉備王朝の総鎮守でしたが、大和王朝に平定されて吉備は備前、備中、備後に三分割され、その後は備中一宮となりました。主祭神大吉備津彦命。大和王朝の大王家の七代である孝霊天皇の第三皇子で、初めは彦五十狭芹彦命といい、十代崇神天皇の時代に四道将軍に任じられて吉備を平定し、大吉備津彦命と称されるようになりました。社務所でいただいたリーフレットによれば、大吉備津彦命が平定したのが、吉備で蛮行を重ね、大和の朝廷に対抗していた温羅一族で、この大吉備津彦命の温羅退治の伝説神話が「桃太郎」のルーツとして親しまれているとのこと。……なのですが、現地でフィールドワークをすると、改めていろいろと考えさせられることがありました。

拝殿の扁額

拝殿と本殿。どちらも国宝です。

本殿の屋根は全国で唯一吉備津神社だけに見られる比翼入母屋造。

吉備津神社といえば……の名物廻廊。天正6年(1578)に再建されたもので、約360メートルあるそうです。赤い建物は南随神門。吉備津神社で一番古い建物で、延文2年(1357)の再建。足利尊氏征夷大将軍の時代です。

 

 廻廊を突き当りまで行って左に曲がると「吉備中山細谷川古跡」の石碑があり、その背後は吉備の中山で、廻廊の隣に御陵に通じる道があります。石碑の向かって左側には本宮社があり、社殿の規模は異なりますが、本殿と背中合わせに建てられています。つまり、どう見ても御陵に通じる道の入口に配された見張り役です。道を挟んで反対側には本宮社と向かい合うように瀧祭宮も配されていますし。しかも本宮社の祭神は孝霊天皇――本殿の祭神である大吉備津彦命の父親です。何故見張りが必要とされたのか……考えられるのは、御陵に祀られた神が祟り神だからです。正確に言えば、祀られた当人がどうであるかは関係がなく、後世の人々が祟ると思っていたからです。神として祀り封じ込めたところから出てきて自分たちに祟るのを防ごうとしたのです。そして大抵の場合、祟ると人々に思われる理由は、理不尽な非業の死を遂げて命を落とし、きっと恨んでいるだろうと思われたからです。菅原道真しかり、平将門しかり。以上のことから、二つの可能性が考えられます。まず一つ目は、吉備の中山の御陵に葬られたとされている大吉備津彦命は吉備を平定し治めたが、最期は非業の死を遂げて祟り神として畏れられ、鎮魂のために吉備津神として祀られた可能性――、そして二つ目が、吉備の中山の御陵に葬られているのは大吉備津彦命ではなく、征伐された人物である可能性――です。

廻廊の南端に突き当たると左手にある短い廻廊。左に見えるのが本宮社。

本宮社の正面。内宮社、新宮社、御崎社2社が合祀されています。本宮社の祭神は大吉備津彦命の父である孝霊天皇、新宮社の祭神は異母弟の吉備武彦命(稚武吉備津彦命)、内宮社の祭神は妃の百田弓矢比売命。

本宮社の本殿

本宮社と石碑と瀧祭神社の位置関係。右が本宮社の拝殿で、左が石碑の側面、その左の赤い社が瀧祭神社。白い柵の向こうが御陵に通じる道。

石碑の正面。読めませんが、「吉備中山細谷川古跡」と書いてありました。

 

 廻廊を戻り、まだ時間があったので、一童社と岩山宮へ。一童社は学問・芸能の神様とされていましたが、天鈿女命と菅原道真が祀られているためで、祭神の年代から考えれば、天鈿女命が祀られていたところに菅原道真が合祀されたと考えるのが妥当です。しかし、天鈿女命が吉備津神社に祀られている理由は不明。吉備との関係性がまったく想像がつかない上に、本殿が流造で鰹木の数が2本というのは規模こそ違えど吉備津彦神社と同じだったので、本来は吉備津彦神社と同じ祭神だったのではないかと思います。本殿より高い場所にあり、本殿よりも御陵に向かって拝む位置にありましたし。

一童社の正面

一童社の本殿。流造鰹木2本は吉備津彦神社と同じです。

一童社の位置から見る吉備津神社の本殿。見下ろす形になります。

 

 吉備の中山の中腹にある岩山宮の祭神は建日方別神。吉備国の地主神を祀っているとのことですが、『古事記』には建日方別は吉備児島の別称とあるので、こちらは納得できました。児島半島は昔は島で、本州との間に吉備の穴海という海があり、江戸時代の干拓で陸続きになりました。したがって、かつて吉備の中山は内陸ではなく、この海沿いに位置する山だったようです。

岩山宮

 

 ところで、吉備の中山の御陵とは中山茶臼山古墳のことですが、茶臼山古墳前方後円墳で、前方後円墳が築かれたのは3世紀中頃から7世紀初頭といわれています。宮内庁はこの古墳を大吉備津彦命の墓としていますが、3世紀中頃というと神功皇后からその息子である十五代応神天皇の時代です。ところが、大吉備津彦命こと彦五十狭芹彦命は七代孝霊天皇の皇子なので、その活躍期は紀元前と考えられ、世代に開きがありすぎるため、彦五十狭芹彦命の墓ではないと思います。しかし、吉備の中山の最高地点である竜王山の山頂には古代祭祀の跡である磐座があるそうなので(未確認)、そちらが彦五十狭芹彦命墓所である可能性は十分にあります。であるならば、吉備の中山は大吉備津彦命の葬地なので鎮座地である神奈備山ということで祭祀の対象とされていてよいのですが、茶臼山古墳の被葬者は別人ということになります。つまり、吉備津神社本宮社の祭神である孝霊天皇や岩山宮の祭神である建日方別神が監視しているのは、大吉備津彦命ではないということです。

 

 では誰なのか――というと、監視が必要な祟り神(正確には祟ると人々に思われていた神)なのだから、大吉備津彦命に退治されたとされている温羅ではないでしょうか。おそらく、大和軍による吉備侵攻は何度か行われ、紀元前の崇神天皇期に彦五十狭芹彦命による遠征によって討伐された吉備の首長がいて、3世紀中頃以降に鬼ノ城を築き吉備の民を治めていた百済出身の温羅を征伐した大和軍の将軍がいて、その二つの吉備平定の話が一緒くたにされたのではないかと思います。温羅を滅ぼすと大和軍は、頂上の磐座に大吉備津彦命が祀られている吉備の中山に前方後円墳を造って葬り、恨んで祟り人々に害を成さないように、かつて吉備を平定した大和出身の武神の力で封じようとしたのではないでしょうか。以上を踏まえて大雑把に吉備に関連する出来事を年表にして書くと、次のようになります。

 

BC660(皇紀元年)初代神武天皇、即位

BC290(孝霊元年)七代孝霊天皇、即位

~この間に、彦五十狭芹彦命(孝霊第三皇子)、誕生か?

BC214(孝元元年)八代孝元天皇、即位

BC097(崇神元年)十代崇神天皇、即位

   (崇神十年)四道将軍、派遣

BC029(垂仁元年)十一代垂仁天皇、即位

BC018      伯済国(馬韓の一つ、百済の前身)、建国

~これ以降に、温羅、日本に渡来か?(百済出身であれば)

AC201(神功元年)神功皇后、摂政

~このころ、前方後円墳が造られはじめるか?

AC270(応神元年)十五代応神天皇、即位

AC313(仁徳元年)十六代仁徳天皇、即位

~神社由緒によれば、仁徳天皇が吉備に行幸し、社殿を創建。

AC463      吉備下道臣前津屋の乱、吉備上道臣田狭の乱

AC479      星川稚宮皇子(二十一代雄略天皇と吉備稚媛の子)の乱

AC660      百済滅亡

AC663(天智二年)白村江の戦い

~敗戦後、防衛のため温羅の旧跡に鬼ノ城が築かれるか?

AC689(持統三年)吉備分国

 

 ということで、大吉備津彦命と温羅のあいだにあったと思われる世代差、前方後円墳の築造時期、吉備津彦神社と同じ一童社の鰹木の数などをもとに想像を逞しくすると、以下のような可能性が考えられます。

 

・七代孝霊天皇の第三皇子である彦五十狭芹彦命は、十代崇神天皇の時代に四道将軍に就任して吉備に進軍し、平定後は吉備津彦を名乗り、この地を治めて亡くなると、吉備の中山の頂上に葬られて磐座が作られ、祭祀が行われるようになった(吉備津神の祭祀の起源)。

・その後、百済から渡来した温羅が大陸渡りの先端技術を持ち込んで鬼ノ城を築き吉備を治めるようになったが、温羅が統治する吉備王国を認めない大和軍によって征伐されると、祟らないように、大和の大王家出身で武神である大吉備津彦命の力で封じ込めるために、吉備津神の神奈備山に葬られた(中山茶臼山古墳の起源)。――ただし、吉備津神社の由緒には、吉備に行幸した十六代仁徳天皇大吉備津彦命霊夢により、五社の神殿と七十二の末社を創建し奉斎したとあるので、史実としてそれに近いことがあったのなら、仁徳天皇大吉備津彦命の祭祀を行う神殿とともに古墳を築いて改葬した可能性も無きにしも非ず……。

・古代祭祀の時代から社殿を建てて祭祀を行う時代に移ると、吉備の中山の麓にあった吉備津彦の宮跡や温羅の首塚御釜殿)の近くに吉備津神の社である吉備津神社が建てられ、山頂の磐座から吉備津神の祭祀の中心が本殿に遷る。麓に遷ったことで、温羅の胴塚である中山茶臼山古墳からは遠くなったので、見張り役としてより近いところに吉備津神の分霊を祀り(一童社の起源)、その反対側――吉備津彦の宮跡に父である孝霊天皇を祀り(本宮社の起源)、山の中腹に吉備の地主神である建日方別神を祀る(岩山宮の起源)。

・吉備分国により、吉備津神社が備中一宮となったため、吉備津神の分霊を遷して吉備津彦神社が建てられ、備前一宮となる。

 

 9時40分になったので集合場所の大イチョウに向かうと、祈祷殿の横に見覚えのあるものを発見。

「吉備津のこまいぬ」

こちらは、当家にいる「吉備津のこまいぬ」

 

 「おー、これがオリジナルか」と感激したあとは、まだ間に合いそうだったのでおみくじを引き、大イチョウに戻ると、10時ちょっと過ぎに神職が登場。御守り授与所で販売されているオールカラーの小冊子が一人一人に配られ、案内が始まりました。

おみくじは吉。「いつも望高くして猶成就しがたし」……心に刺さりました。

 

 神職の説明によると、吉備津神社の本殿は一度も解体修理をしたことがないそうで、つまり三代室町将軍足利義満によって現在の建物が再建された600年前と同じ建物ということです――何度かお色直しはしていると思いますが。亀腹と呼ばれる白い漆喰の高い基壇の上に建てられているのですが、おそらく一童社が一段高い位置にあることを考えると、本殿は土台となる土地を削って建てられたもので、削り残した岩盤の上に漆喰を塗って亀腹を作り、その上に建てたので安定感があり、地震なども耐えられたのではないか――とのこと。それにしたって奇跡的な建物だと思いました。また、柱の間隔がまちまちなのですが、それは本殿内に合わせているからだということも教えてくれました。本殿内は外陣、朱壇、中陣、内陣、内々陣から成り、今まで数多くの神社を見てきましたが、古い神社でこれほど広い本殿は記憶にありません。義満による再建以降の形なのか、再建前からこんな複雑な様式だったのかはわかりませんが、いずれにしろ明確な意図なくして出来上がるものではないような気がしました。最初の説明が終わると、本殿の外陣に昇殿して正式参拝。その後再び説明があり、本殿内を一周。撮影が許可され、かつ後日社務所に問い合わせたら掲載許可もいただけたので、国宝本殿内の美しい写真をアップします。

朱壇正面

外陣から朱壇の右

内陣入口の扉

内陣の入口にいる金箔貼りの狛犬

内陣入口の扉

縁起稲穂の古代稲

屋根を支える組物

 

 本殿の案内が終わると廻廊を通って途中で右に曲がり、御釜殿で鳴釜神事を体験。神事の終了後に、今の音はどんなお告げなのか訊ねましたが、神職も、奉祀する阿曽女も吉凶は判じず、音を聞いた人間がいい音だと思えば吉とのことでした。

御釜殿に続く廻廊

御釜殿。中も真っ黒けでしたが、煤で黒くなっているとのこと。

鳴釜神事の案内板。国指定の重要文化財で毎日火を焚いているのはここぐらいだそうですが、午後は火が焚けないそうで、それゆえ神事は2時までとなっているそうです。こちらの建物内は撮影禁止でしたが、案内板にある写真のとおりでした。

鳴釜神事の由来についての説明板

 

 神事が終わって御釜殿を出ると、記念品をいただいて解散となったので、神職に教えられたビュースポットに戻って廻廊を撮影してから、吉備津神社を後にしました。

神職に教えられたビュースポットからの1枚。廻廊と吉備の中山

 

 時刻は11時40分ぐらいで、毎時36分発の岡山駅行き吉備津線が行ったばかりなので、駐車場にある食事処「桃太郎」で昼食を摂ることに。桃太郎うどんが看板メニューらしいのでそちらを注文したのですが、出てくるのに20分以上かかり、次の電車に乗り遅れると新幹線にも間に合わなくなるので、けっこう焦りました。

食事処「桃太郎」の桃太郎うどん。きび団子、キジの肉団子入りです。

 

 先に支払いを済ませておいて、味わう余裕もなく急いで食べて店を出て早足で歩き、12時30分前に吉備津駅に到着。岡山駅行きは改札があるホームではなく線路を越えなければならないホームなので、着いたのは3分ぐらい前で、なんとか12時36分発に乗車。51分に岡山駅に到着し、ホテルに寄って荷物を引き取り、切符を発券したあと、20分ほど余裕があったので、前日デニムのイコちゃんを購入した店に行き、一緒の棚にあった備前焼のイコちゃんを吟味して購入。改札前のコンビニでタカラ缶チューハイを調達して、13時33分発ののぞみに乗車し、これにて遠征終了です。

備前焼のイコちゃんと砥部焼のバリィさんと信楽焼カオナシ。いずれも国の伝統工芸品に指定されている日本を代表する焼物ですが、どんどんこういう親しみやすい作品を創って伝統工芸をより身近に感じてもらい、何百年も受け継がれてきた技術や技法が廃れることなく後世に残っていってほしいと思います。

 

 この日岡山では雨に降られずにすみましたが、静岡あたりから本降りで、横浜に至ってはやはり大型台風襲来かと思う大雨でした。鬼ノ城は高田崇史さんのQEDシリーズの「鬼の城伝説」を読んで興味を持ちましたが、吉備津神社はもっと前から――私の好きな上田秋成の『雨月物語』の中に「吉備津の釜」という話があるので、式内社巡りを始める前から気になっていました。なので、吉備津神社に行ったら必ず鳴釜神事を体験しようと思っていたのですが、初めて行ったときには受付が2時までとは知らなかったので間に合わず、残念ながら申し込むことができませんでした。その後なかなか岡山を訪れる機会がなかったのですが、今回のDC企画は鳴釜神事を体験できるだけでなく、本殿の正式参拝と神職による境内案内もあるということで楽しみにしていたので、台風により「吉備ロマン無料循環バス」の運行は中止になりましたが、吉備津神社の企画は中止にならなくて本当によかったです。また、撮影した画像をブログに掲載するにあたって問題がないか吉備津神社社務所に問い合わせたら、下記の返答をいただきました。自分たちが守っている文化財に対して、とても素敵な姿勢だと思いましたので、一部言葉を引用させていただきます。

「現代に生きる我々はこの貴重な文化財を受け継ぎました。しかし、我々は受け継いだだけではなく、次世代、その先の世代へと連綿と継いでいかねばなりません。残念ながら実際の文化財を不特定多数に随時公開することはその文化財の消耗に繋がります。ご覧いただきその神の空間を体感していただいたお方様が写真をアップしていただき、その写真を通じてでもご覧になられた皆様が文化財への関心と保護の必要性を感じていただけましたら幸いです。」

岡山神社遠征 その1~鬼ノ城、吉備津彦神社

 台風です。

 

 16日金曜の4時で仕事を終えると、羽田発18時のANA便で岡山に飛び、18日の岡山発19時のJAL便で帰ってくる予定でしたが、キャンセルしてエクスプレス予約で新幹線の指定席を取り直し、昼過ぎののぞみで帰ってきました。岡山発着便は19日は欠航が決まっているのでキャンセル料がかからないのですが、18日の便は昼過ぎの時点ではまだ終日運行予定のままだったので、半額しか戻ってきません(T_T)。エクスプレス予約のように発券前ならいくらでも変更できる予約システムに慣れてしまうと、本当に飛行機は不便だと思いました。以前吉野に行ったときにも、関西空港から帰る予定でしたが台風のため特典航空券をキャンセルして、自腹を切って新幹線で帰ったことがあります。エアーチケットが変更できないのは先割とかの割引価格で買っているからなのですが、基本的に新幹線を使うより運賃が高ければ飛行機を選ぶことはないので、飛行機を選んだ時点でおのずと変更不可となります。まあ、旅先で足止めを喰らい、予定の日に帰って来られないよりはマシですし、早く引き上げても岡山来訪の目的は果たせので、いいのですが。

 

 7月1日~9月30日まで岡山デスティネーションキャンペーン(略してDC)をやっていて、岡山DCの特別企画で、「吉備津神社の正式参拝と境内案内・鳴釜神事」というのがあったので、「これは行くしかない!」と思い、即申し込みました。キャンペーンは3か月間やっているのですが、吉備津神社のこの企画は各月2日、計6日しか設定日がなく、しかも各月とも月曜1日と日曜1日で、よって都合がつくのは最終日の9月18日の日曜だけだったので、7月上旬にはシルバーウィーク前半の岡山遠征を計画。富士登山の一週間後でしたが、問題ないだろうと思っていました。

 

 ところが、出発前日になっても筋肉痛が治らず階段の昇り降りに苦しみ、おまけに大型台風も襲来するというので、先月断念した関西に続いてまたまた挫けそうになりましたが、18日の鳴釜神事は屋内だし、17日はどうにか天気がもちそうだったので、気力を奮い立たせて出かけることにしました。……なのですが、出端をくじかれるように、行きのANA便は、使用機ではなく乗務員の都合がつかないという聞いたことのない理由で20分のディレイ。岡山駅行きのリムジンバスは待っていてくれましたが、駅近くのホテルに落ち着いたのは8時半過ぎだったので、その日は駅構内のコンビニでタカラ缶チューハイを買って部屋で飲んで終わりです。

 

 翌日は、9月25日まで土日祝日にかぎり「吉備ロマン無料循環バス」というのが走っていたので、9時発の便に乗車。このバスは岡山駅を起点に吉備津彦神社、吉備津神社、造山古墳、備中国分寺最上稲荷などの見所を巡回してくれる素晴らしいバスで、このバスの存在があり、天気もなんとかなりそうだったので、岡山行きを決行しました。以前岡山を訪れたときには、こんな便利な交通手段はなく、吉備津彦神社から吉備津神社へ行くのもひと苦労でしたから。こちらもDCの企画なので、この機を逃すと効率よく吉備路を巡る機会が今度はいつ訪れるかわかりません

 

 ……とは言いつつも、今回の目的ははっきりしていて、吉備津神社の鳴釜神事と鬼ノ城だったので、他は余裕があれば寄る――という感じでした。式内社巡りをしているので、名神大社吉備津神社は昔お参りをしたことがあるのですが、鬼ノ城は高田崇史さんのQEDシリーズの『鬼の城伝説』という本を読んでから興味を持ったので行ったことがなく、いつか行きたいと思っていたのですが、アクセスが難しい場所で、なかなか実現できませんでした。しかし岡山DCの企画で、9月25日までの土日祝日はバスで行くことができるので、またしても「行くしかないでしょ」と思い、足を運ぶことにしました。

 

 9時発の循環バスは右回りの第1便で、5分前に駅西口の発着所へ行くとほぼ満員で、後から乗ってきた人は補助席に座るという混みよう。18日19日の運行は台風のため中止が決まっていたことも影響していたのかもしれません。吉備津神社、造山古墳、備中国分寺でほとんどの人が降りて、目的地のサンロード吉備路に着く頃には乗客も半分ぐらいでしたが。左回りのバスもあるので、人がガクンと減ったのは、ここから先の発着所が目的の場合は岡山駅から逆回りに乗ったほうが早いせいもあったと思います。鬼ノ城に行くためにはサンロード吉備路で「鬼ノ城バス」に乗り換えるのですが、こちらは無料ではないため、サンロード吉備路内の売店でバスチケットを購入しなければなりません。2,000円と少々お高い金額でしたが、売店で使える1,000円のクーポンが付いているので、実質的には1,000円でした。昼休みの時間帯以外は9時から4時まで30分間隔で運行していたので、次の10時30分発の便に乗り、20分ほどで鬼ノ城駐車場に到着。

 

 岡山は、岡山空港が岡山“桃太郎”空港と名乗っているほど桃太郎伝説が息づく土地ですが、その御伽話のもとになったといわれているのが、吉備津神社吉備津彦神社の祭神である大吉備津彦命こと彦五十狭芹彦命と温羅の伝承です。7代孝霊天皇の皇子だった彦五十狭芹彦命は、大和の大王家が全国平定に向けてまだ支配下にない地方に差し向けた四道将軍の一人で、西道に派遣されて吉備を平定したので「吉備津彦」と称されました。そのとき皇子に討たれたとされるのが温羅です。温羅は百済の皇子とも伝わり、大陸渡来の技術を吉備の民に伝えて吉備で一大勢力を築いていました。それが大和の大王家にはおもしろくない上に脅威だったのでしょう。温羅は討伐され、歴史は勝者のものなので、その後の伝承では人々に悪さをしていたため退治された鬼であると貶められて、桃太郎伝説の一端を形作りました。切られた温羅の首は吉備津彦の宮の御釜殿の下に埋葬されましたが、いつまでも唸り声を上げ続けるので、吉備津彦が困っていると温羅が夢に現れて、わが妻に奉祀させれば吉凶を告げようと言ったので神事が始まり、これが今に続く鳴釜神事となりました。そして、吉備津彦に征伐された温羅が拠点としていたと伝わるのが、鬼ノ城です。

 

 鬼城山ビジターセンターに併設された駐車場まではバスで行けましたが、その先は徒歩なので、まずは情報を得ようと思い、ビジターセンターを見学。パネル展示の写真を見ると、どう見ても城跡は山の上で、鬼ノ城は標高約400メートルの鬼城山の山上に築かれた山城で城壁の全周は約2.8キロとのことなので、「しまった、これは城見物ではなく登山だ」と思いましたが、後の祭り。吉備津神社の正式参拝があったので、山登り向けのトレッキングシューズではなく、思いきりタウン仕様のコンフォートブーツでしたが、せっかく来たし、帰りのバスは約2時間半後の13時30分発なので、無理せずゆっくりと登ることにしました。西門の盾の図柄だという鬼ノ城オリジナルグッズの手ぬぐいが販売されていたので、記念に購入すると、登山開始。

鬼城山の看板

桃太郎伝説」の生まれたまち、おかやまについてのパネル。鬼ノ城、吉備津神社吉備津彦神社の他、吉備の大王ゆかりと思われる古墳群が紹介されています。

上から見た鬼ノ城全景のパネル。赤い点線部分が城壁ですが、城内面積はおよそ30ヘクタール(東京ドームの約6.4倍)あるそうです。

鬼ノ城の概容についてのパネル

四つの城門についての解説パネル

学習広場から見る鬼城山と、復元された鬼ノ城西門

ズームするとこんな感じ

西門の正面。屋根の下に並んでいるのは盾で、ちょうど真ん中に位置している顔の絵が手ぬぐいの柄に採用されていました。

西門と城壁

南門(横から)

南門(正面から)

南門についての解説

鬼ノ城からの眺めその1。柵などがない自然な感じで好感が持てたのですが、それゆえにかなり自己責任なコースで、雨が降ってきたら危ないと思いました。

鬼ノ城からの眺めその2

城山に残る礎石群

岩に彫られた仏像

近寄ると千手観音でした。

分岐点にある案内図

東門(右から)

東門(左から)。下に見えるのが血吸川か?

東門についての解説

城内の山道その1。時折小雨がパラついていて、ぬかるんだら悲惨な目に遭うことが容易に想像できたので、のんびり歩くわけにはいきませんでした。

城内の山道その2。それほど高低差がないハイキングコースですが、たまに金剛杖が欲しくなる段差もありました。分岐路はいくつかありましたが、迂回路ではありません。

鬼ノ城からの眺めその3。左に見えるのは屏風折れの石垣

屏風折れの石垣付近にあった鬼ノ城についての説明板

屏風折れの石垣の上

屏風折れの石垣の上から見る鬼城山頂上方面

屏風折れの石垣から北門に向かう途中にあった「温羅旧跡」の石碑

北門

北門についての説明

城壁を一周して戻り、上から見下ろす西

西門から見える山。何山かはわかりません。

 

 鬼ノ城は温羅の城といわれていますが、孝霊天皇の皇子である彦五十狭芹彦命が活躍したのは紀元前で、鬼ノ城は発掘調査から7世紀後半の建造――おそらく白村江の戦い(663年)で負けて防衛のために造られたと考えられています。したがって温羅の城というより、温羅の城跡を利用して新たに造られた城なのだと思います。

その後の鬼ノ城についてのパネル

 

 11時過ぎに歩きはじめて12時40分には登り口に戻ってきましたが、ドライバーが昼休みを取るためか、12時発の次は13時30分まで鬼ノ城バスの運行がなく、出発時刻まで40分以上あったので、ビジターセンターの無料休憩室にあった自販機で缶コーヒーを買って一服すると、休憩室は風が通らず暑かったので、駐車場のベンチに座って待つことにしました。10分前には新たな客を乗せてきたバスが到着したので乗車して待ち、定刻どおりに出発。20分ほどでサンロード吉備路に着き、建物内にあるカフェのランチタイムが2時までだったので急いで入店。ランチメニューはカレーとミートソースの二択でしたが、ランチバイキングをやっているレストランは13時で受付終了だったので仕方がありません

ベーカリーカフェ「クルール」の雑穀米カレーとサラダ&ドリンクのセット

 

 次の循環バスの出発時刻が右回りは14時15分、左回りは21分だったので、カレーセットを10分ほどで食べ終えると売店に寄り、クーポンを使ってお土産を買い、すでに来ていたバスに乗車。次の目的地は吉備津彦神社で、右回りも左回りも停まるのでどちらでもよかったのですが、乗ったのは21分発の左回りでした。40分ほどで吉備津彦神社に到着し、バスを降りて社殿の方向に歩いていたら、ついに雨が降りはじめました。降ったり止んだり、止んだかと思ったら突然雨脚が強くなったりの、たいそう気まぐれな雨でしたが。

循環バスの中から見た鬼ノ城バス。鬼のラッピングです

吉備津彦神社の鳥居と社号標。狛犬備前焼だそうです。後ろの山は神奈備山の吉備の中山。

本殿と同じく元禄10年(1697)に造営された随神門

境内案内図

 

 吉備津彦神社は備前一宮ですが、吉備の国の総鎮守は吉備津神社で、大化の改新後に強大な吉備の国は力を削ぐために分割されて備前、備中、備後の三国になり、吉備津神社は備中一宮となったため、備前国備後国には新たに吉備津彦を祀る祭祀の場が必要になりました。そこで分霊されて備前国吉備津彦神の社として整えられたのが吉備津彦神社です。よって吉備津神社と同じく大吉備津彦こと彦五十狭芹彦命主祭神とし、その墳墓であるとされている吉備の中山の麓に築かれました。ということで、旧社格でいうと、本社である吉備津神社官幣中社、その分霊である吉備津彦神社は国幣小社になります。

拝殿、祭文殿、本殿。本殿は岡山藩主の池田光政が造営し元禄期に完成したものですが、それ以外は昭和11年(1936)に再建されたものだそうです。

本殿(右から)。美しいです。

本殿(左から)。美しいです。

本殿についての説明

本殿背後の吉備の中山にある稲荷神社に続く参道の鳥居と温羅神社。温羅神社の社殿は小さいですが、本殿より奥――本殿の左斜め後ろに位置し、本殿より鰹木が多いです。実に意味深です。

藤原成親供養塔下古墳。吉備の中山にある石室です。

古墳についての説明

 

 参拝後、御守り授与所に寄ると、御朱印は書き置きのみで、通常版は以前いただいたので、夏至の日の日の出祭限定という御朱印をいただきました。今年の夏至は6月21日なのでだいぶ経っていますが、限定版の上に、9月17日の日付が手書きで入っていたので、よしとしました。ちなみに、何故夏至の日に吉備津彦神社で日の出祭りが行われるかというと、当社が夏至に太陽を真正面から迎えるように鎮座しているからだそうです。それゆえ「朝日の宮」とも称されているとのこと。

夏至の日の日の出祭の限定御朱印。「世界平和」「疫病退散」の文字に心惹かれて、こちらを頂戴してきました。

 

 ところで、彦五十狭芹彦命は“大”吉備津彦命といわれるように、「吉備津彦」と呼ばれる人物は二人いて、もう一人は稚武吉備津彦命といい、大吉備津彦命の異母弟になります。兄とともに吉備平定に尽力し、豪族吉備氏の祖は大吉備津彦命ではなく稚武吉備津彦命ともいわれています。彼は吉備津神社吉備津彦神社に相殿神として祀られていますが、吉備津彦神社では筆頭相殿神なので、吉備津神社大吉備津彦命の吉備津宮の跡であることから考えると、吉備津彦神社のほうは稚武吉備津彦ゆかりの聖地が選ばれているのではないかと思っていました。けれども、今回夏至の日の日の出祭という神事が存在することを知ったので、分霊にあたって、吉備の中山の麓で夏至に太陽が通る道が選ばれた――というのが、真実に近いように思えます

 

 境内をひととおり巡ると時刻は4時前で、岡山駅行きの循環バスの時間まで20分以上あり、門前の「桃太郎茶房」がまだ営業しているようだったので、一服することにしました。緑茶甘酒と、テイクアウトで赤姫もちとたかきび団子を注文したのですが、餅は時間が経つと固くなるというのですぐに食べることにし、団子だけを包んでもらいました。しかし、受け取った団子も温められていて冷めたら固くなりそうで、通常の団子よりも小粒だったので、その場で平らげることにしました。

「桃太郎茶房」のたかきび団子

 

 26分発の右回りのバスを待っているあいだにまた雨が強くなってきて、私は傘を持っていたので差して発着所で待っていたのですが、屋根がないため、少し離れた木の下でバス待ちをしている人がいました。バスが来たので発着所にやってきたのですが、逆方向へ行く30分発の左回りのバスで、「3連休で道が混んで渋滞しているから、もう少しかかると思うよ。傘がないなら貸すよ。返さなくていいから」と、運転手がバスのトランクを開けてビニール傘を取り出し、渡していました。返さなくていいと言われても処分はしづらいよなぁと考えていたら、案の定受け取った人が「営業所に返せばいいでしょうか」などと訊いていて、もう一人のバス待ち客は「私は持っているので」と断っていたので、賢明だと思いました。バスが遠ざかったあとも傘を差さなかったので、本当に傘を持っているのかは不明でしたが、雨に濡れている人がいて返却不要の傘があったら貸そうとするのはごく自然な行為で、その運転手の好意を断るのなら一番角が立たない妥当な返答だと思ったので。傘を借りなかった人は、参拝だけでなく明らかに吉備の中山などの古墳めぐりを想定した山登りスタイルだったので、雨は予想の範囲内で、多少濡れても問題のない格好をしてきたのだろうとも思いましたが。

 

 20分ほど遅れてバスが到着し、岡山駅には5時20分頃に到着。翌日は、台風のせいで無料循環バスの運行が中止になったので、8時36分発の吉備線吉備津駅まで行って吉備津神社に向かい、昼過ぎに岡山駅に戻ってきて13時33分発ののぞみで神奈川に帰る予定で時間がなさそうだったので、今のうちに土産物を物色しようと思い、ある店に入ったら、驚きの出会いがありました。

デニムのイコちゃん。岡山は国産デニムの代表的な産地ですが、こんなものまであるとは知りませんでした。

デニムのイコちゃんの後ろ姿。ジーンズを穿いているのではなく、体全体がデニムパンツ化していて、おしりにオレンジステッチ入りのバックポケットが付いています。

 

 シャインマスカットのチューハイとシャインマスカットきび団子を持ってレジに行ったら、レジ前に黒い物体がいて、「なんかカモノハシのイコちゃんみたいな形だな」と思って、支払いを済ませて店を出ようとしたら、近くの商品棚にいくつか並んでいて、売り物だったのかと思って手に取って見ると、なんとブラックデニム製のイコちゃんのぬいぐるみで、しかもエドウィンのライセンス商品。JRのキャラクターでは一番好きなのがイコちゃんで、ホテルグランヴィア大阪の「ICOCAルーム」にも泊ったことがある人間なので、「これは買うしかない」と思い、それぞれ縫製にクセがあり、一つ一つ微妙に違うので、念入りに見比べて購入。夕食は駅ビルの中で食べようと思っていましたが、荷物が増えたので店に寄るのが億劫になり、駅弁を買ってホテルの部屋で食べることにし、この日は終了です。

初のルビーロマンと18年ぶりの富士登山(付・小御嶽神社)

 9月です。ようやく朝夕は多少涼しくなってきて、だいぶ過ごしやすくなりました。

 

 やや耳の聞こえが悪いこと以外は特にコロナの後遺症もなく(そもそも後遺症かも不明)、8月は相変わらず忙しく過ごしていましたが、遠征はできず、おとなしく家と仕事場を往復していました。お盆休みに関西に行く予定を立てていたのですが、チケットを取っていた宝塚の公演が関係者陽性で休演になってしまい、8月いっぱいまで特別公開をしていた姫路城とあわせて行くつもりでしたが、病み上がり+一年で一番混んでいる時期+連日35度を下らない殺人的な猛暑の三重苦で、とても城見物だけを目的に出かける気にはなれなかったので、ホテルも飛行機もキャンセルして家に籠っていました。飛行機は半額しか戻ってこないし、ホテルは一度は泊まってみたかった念願の宝塚ホテルだったのですが……。宝塚は花組月組も東京公演のチケットが取れなかったので、ムラまで出張ることにし、ようやくリセールで大劇場の月組公演のチケットをゲットしたのですが、結局観られなくて、本当にもうガッカリです。コロナ禍による休演は仕方のないことで、誰が悪いわけでもなく、演じられないジェンヌさんたちのほうが悔しくて残念だとは思いますが。

 

 ということで、友人とフレンチに行ったことぐらいしかイベントがない夏だったので、なんかワクワク感がほしいと思い、ふと思い立って、8月の下旬にふるさと納税を申し込み、その返礼品が先週の日曜に届きました。

ルビーロマンです。比較しているのは、家にあった枝付きの干しブドウですが、1粒がメチャクチャ大きいです。2センチ以上ありました。

2房入っていました。

 

 ルビーロマンは石川県が14年かけて育成した当県限定の最高級ブドウで、今年の初競りではなんと150万円という高値がついた房(もちろん1房)もあったそうで……Σ(゚Д゚)スゴ。最初に食べた房は皮だけがきれいに剥けて、ブドウなのに歯ごたえがある、なんとも言えない食感で、それがジューシーさと溶け合って本当に美味でした。味に関しては好みだと思います。シャインマスカットとかも美味しいですし。

一緒に入っていた栞

栞の中ページ。もちろん今回届いたのは「秀ランク」です。

栞の中ページ

 

 で、ルビーロマンを堪能した週末は、金曜土曜の一泊二日で、この夏最大のイベントである富士登山に行ってきました。富士山は昔一度登ったことがあり、東京から3時間ほどで行ける場所でこれほど達成感を得られる経験ができることが素晴らしかったので、一生に一度は登るべきだと機会があれば説いていたら、登りたいと言ってくれた奇特な友人がいたので……。そして2年前にチャレンジしようと話していたのですが、コロナウィルス流行により中止し、昨年も感染流行とそれによる緊急事態宣言発出のため見送り、今年は感染の第7波到来中だけど行動制限はなしということで決行することにしました。この計画があったので、関西旅行は無理せずあきらめがついたし、コロナに感染したことも、重症化せずに済んだ上に、しばらく感染におびえなくていい抗体ができたのなら結果オーライと思えました。再感染がないとは言えませんが、今回の富士登山が原因で感染するリスクはかなり減ったはずなので……登山中にマスクをするのは厳しいので、この点は重要です。息切れするし、酸素が薄いから、マスクなんかしていたら酸欠で倒れるし、その場合、下手をすれば命にかかわりますから。

 

 前回は静岡側の富士宮ルートから登りましたが、今回は初心者が登りやすいとされる山梨側の吉田ルートを選択。同行の友人М氏とは登山口のある富士スバルライン五合目で待ち合わせたので、JR・富士急行直通特急の富士回遊で河口湖駅に向かっていると、高山病対策のため「標高に慣れたい」と言って早めに現地入りしているМ氏から「富士山駅からバスに乗ったほうが座れるかも」という連絡があったので、急きょ変更して二つ手前の富士山駅で下車。グッドアドバイスで、おかげで座ることができました。五合目までは1時間ほどの乗車時間なので、座れると座れないとでは大違いです。富士山駅からの乗車でも座れない乗客もいたぐらいの混み方だったので、当然のことながら河口湖駅からの乗車では座れず、それどころかバス停に並んでいた全員が乗れなくて、もう1台手配するみたいでした。途中、トイレに行くためか、バスを停めて降りて戻ってきた非常識な若者二人組がいたので、少々遅れて五合目に到着し、M氏と合流すると11時半だったので、まずは食事をしようということになり、土産物屋「富士山みはらし」の2階にある「みはらしキッチン」へ。

「みはらしキッチン」で食べた富士山ラーメン。どこが富士山かというと、海苔の絵とかまぼこの柄が富士山。

 

 食事を終えて階下に降りると、なんと雨がザーザー降りで、「いや、これは参ったね」と言いながら、金剛杖と水を買い、予報で天気が悪いことはわかっていたので、持ってきた雨具を着込んで準備をしていたら、運よくすぐに小雨になったので出発。登山口の前で検温を済ませ、富士山保全協力金を支払い、登山口へと向かいました。

検温済みの証明バンドと、協力金を納めるともらえる富士山保全協力者証の木札と富士登山アドバイスブック。

富士登山道吉田口の看板

六合目付近(多分)

 

 4時半過ぎに宿泊予定の八合目にある山小屋、太子館に到着。前回山小屋に着いたときは頭痛と寒気がひどくて(典型的高山病)、到着早々部屋の隅で寝込んでいましたが、今回は行動可能な軽い頭痛で済み、前回は全然食べられなかった山小屋の食事も体験することができました。

太子館の夕食。朝食は夕食時に菓子パンとレトルト釜メシを渡されました。

 

 コロナ対策もあって今回は個室を取ったのですが、Wi-Fiもあり、コンセントもあり、想像以上に快適な空間でした。御来光を頂上で見るためには1時ぐらいに起きなければならないので7時前には寝たのですが、思っていたより眠れて深く寝入ってしまったため、アラームをセットした1時半には起きられず二度寝して、なんとか2時に起床して出発。標高3000メートル以上、しかも夜なので、当然のことながら気温は5度あるかないかという寒さで、おまけに小雨まで降っていましたが、出ていくときには玄関にも玄関前にもけっこうな人数の登山者がたむろしていました。

3時50分頃。太子館から三つ目の山小屋、元祖室の看板。まだ真っ暗なので、看板ぐらいしか写りません。

4時40分頃。夜が明けてきました。

5時頃。見えてくると雲がすごいことが判明。

5時10分頃。左下に山小屋が見えます。このへんから登ってカーブのたびに止まって休んで日の出の状況を確認。

5時22分頃。太陽が上がろうとしています。思ったとおり、寝坊して予定より山小屋出発が遅くなったので、日の出前に頂上到達はできませんでした。

雲海と朝日を受けた山肌。北斎の赤富士の色です。

登頂は6時20分。吉田口から登ると久須志神社の前に着くのですが、残念ながら閉まっていました。前回御朱印をいただいているので、あきらめはつきましたが。

日の出からすでに1時間ほど経っているので、太陽がもうかなり上にありました。

 

 とりあえずベンチに座って朝食を摂ることにし、山小屋で渡されたときに温められていた釜メシは当然のことながら冷めていたので菓子パンだけを食べ、食事後М氏がトイレに行きたいと言うので探したのですが、見あたらず。どこかにあるはずなので下山道を案内しているガイドスタッフに訊ねたら、もう閉まっているので下山してくれとのこと。富士宮ルートの頂上にもあるので、そちらは開いているのかと訊いたら開いていると言うので、向かうことにしました。浅間神社の奥宮を通り過ぎてトイレに寄り、そこまで来れば最高峰地点である剣ヶ峰は目の前なので急斜面を登り、そのままお鉢巡りをして火口を一周。9時過ぎに久須志神社前に戻り、登山道とは異なる吉田ルートの下山道から下山。

吉田から富士宮へ向かうときに見えるお釜――火口です。

富士宮ルートの頂上にある浅間神社奥宮も閉まっていました。

富士宮のほうは下界が見えました。緑が深いので樹海かもしれません。

逆光で読めませんが、「日本最高峰富士山剣ヶ峰」の碑。ここが3776メートル地点です。

三角点の碑

剣ヶ峰から見るお釜

溶岩と青空

富士宮から吉田に戻るときに見えた下界

山梨県側に近づくにつれ雲が増えました。

吉田ルート下山道。雲に向かって進みます。

下山道の途中まで植物はなく、しみじみ火山であることを感じます。

 

 吉田ルートの下山道は登山道とは別になっていて山小屋がなく、登山道にある山小屋に寄れないこともないのですが、道を逸れてある程度登らなくてはならないため、とても寄る気になれず無視したら、八合目を過ぎたあたりから足が痛んでまっすぐ歩けなくなったので、休んでおけばよかったと後悔しました。下りのほうが登りより足にくることはわかっていたのですが、今回は予想以上でした。私の歩くペースが途端にガクンと落ちてノロノロになったのでM氏が終始前を歩き、そのМ氏がスキーのターンみたいな斜め歩きをしていたので真似てみたらなんとか痛みを堪えることができ、ヘロヘロの状態で七合目公衆トイレに到着。寄らなくてもよかったのですが、まだまだ先は長く、何があるかわからないので、入っておくことにしました。有料で料金は200円でしたが、同じ200円でも、ここに比べると、登りの時に借りた太子館や東洋館のトイレは相当きれいだったと思いました。公衆だから仕方がありませんが。頂上トイレは私は入らなかったのでわかりませんが、同じようなものかもしれません。それでもきちんと管理されているのでありがたいことです。今シーズンの山じまいは10日でギリギリの登山だったのですが、そのせいか登山道が渋滞することもなく自分のペースで登れて、どこのトイレも待たずに入れるぐらいの登山者数だったので、よかったです。家を出るときの気温も26度ぐらいで、山に行く服装もそれほど苦ではなかったですし。頂上の神社が閉まっていたのだけは残念でしたが。

 

 どうにか斜め歩きで凌いで2時前にスバルライン五合目に到着。途中、水でこまめに水分補給をしつつ、たまに男梅キャンディーで塩分補給をし、プロテインバーでエネルギー補給をしましたが、朝食のパンを食べてから7時間ほど経っていて、お腹が減ってガッツリ米を食べたかったので、「五合園レストハウス」で中華丼を食べ、ついでにハイボールを1杯飲んでようやく生き返りました。しばらく歩きたくない気分でしたが、やや復活したので、私が来る前に寄ったというМ氏と別れて小御嶽神社に参拝。京極夏彦サンの「絡新婦の理」を読んで以来訪れたかった神社で、ようやく念願が叶いました。社殿は昭和50年に建てられたものなので見所はありませんでしたが、8本の鰹木と折れ曲がった参道を確認できたのは収穫だったと思います。新しくしても、重要な部分はちゃんと受け継がれているのだと思いました。

御嶽神社の鳥居。土産物屋に挟まれて所在なさげな感じでしたが、よく見ると参道が曲がっていて、通り道を塞がなければならない祟り神を祀っていることがわかります。

境内案内図

 

 当社の現祭神は磐長姫命、桜大刀自命、苔虫命。筆頭祭神である磐長姫命は「ホツマツタヱ」に登場するイワナガのことで、「ホツマ」ではヤマタノオロチの生まれ変わりとされています。ヤマタノオロチの正体は天君であるアマテルに反旗を翻した妃のコマスヒメで、アシツヒメの姉に生まれ変わり、アマテルの孫であるニニキネに取り入ろうとしましたが、容姿が醜かったために忌避されてしまいました。そして、自分に代わって召されたアシツヒメが懐妊したため、妬んで妹の腹の子は天孫の子ではないと讒言し、それを真に受けたニニキネに本当に自分の子かと疑われたため、アシツヒメは身籠っている子が天神の胤である証を立てるべく、「神の子なら無事に生まれるはず」と、産屋にみずから火を放って出産しました。炎の中から無事に三つ子が生まれて母親も無事だったことで、彼女が生んだ子は神の子であると認められ、アシツヒメが出産した日から花が絶えなかったので「コノハナサクヤヒメ」と呼ばれるようになり、三つ子を乳母に任せず自分で乳を与えて育てたため「コヤスカミ」の神名が与えられ、ヰツアサマミネの洞に入って神上がったので「アサマノカミ」と呼ばれた――とのことです

 

 また、イワナガは岩のように不動である永遠の命の象徴で、彼女を拒否したためニニキネを祖とする天神(天つ神、天君と同じ)の子孫は永遠の命ではなくなったという話もあります。小御嶽は富士山の原型の山で、神社でいただいた由緒書きによると、小御嶽と古富士という二つの山が土台になり、その間で噴火がくり返されて今の形になったとのこと。おそらく、苔むす岩のように不動の山だったときにはイワナガが祀られていて、噴火して今の形になると、炎の中で新しい命を生み出したアサマノカミ=浅間神ことコノハナサクヤヒメが山の神として祀られたのだと思います。それが富士の神が浅間の神であり、富士山頂に富士神社ではなく浅間神社が祀られている理由なのでしょう。不動であった山が不動ではなくなり火を噴いて形を変えたから、山に祀られる神も永久不変の象徴である神から炎と生命誕生を象徴する神に変わったのです。つまり、富士山の原型である小御嶽に祀られている小御嶽神社は、元祖富士山の古い信仰を守っている貴重な神社といえます

 

 桜大刀自命と苔虫命は、あまり見ることのない珍しい祭神ですが、伊勢神宮内宮の第一の摂社である朝熊神社の祭神です。当社は摂社ではありますが別宮に準じた扱いを受ける格式の高さで、内宮の別宮に祀られている祭神の正体は神宮内宮の主祭神である天照大御神ことアマテルの弟であるツキヨミや后妃であるセオリツヒメやハヤアキツヒメなので、朝熊神社に祀られている桜大刀自命と苔虫命の正体もアマテルの近親である可能性が高いです。ちなみ、小御嶽神社の由緒では桜大刀自命の正体を木花開耶姫命コノハナサクヤヒメとし、朝熊神社の苔虫命は磐長姫命イワナガヒメともいわれています。「苔虫」は「苔むす」の訛った形とも考えられるので、あながち的外れな説ではないかもしれません。

江戸中期に編纂された『和漢三才図会』で大社クラスとされる8本の鰹木。浅間神の総本社である富士山本宮浅間大社は5本……果たしてこの意味は

御嶽神社の切り絵の御朱印。ありがたいことにクリアファイル入りだったので、リュックの中で折れずに済みました。

 

 お参りをして御朱印と由緒書きをいただくと神社を後にし、バスの時間まで10分ほどあったので、こけももソフトクリームを買ってバス停に行くとМ氏がいたので、同じバスで河口湖駅まで行き、中央線の途中まで一緒なので、帰りは各駅停車で帰りました。これにて富士登山遠征終了です

 

※9月28日追記

 先日しまい込んでいた18年前の金剛杖を見たら山小屋の焼印が地味で、今はかなりバラエティ豊かになっていることがわかっておもしろかったので、並べて撮った写真をアップしておきます。向かって左が今年の、右が18年前の杖です。焼印は18年前は一つ200円でしたが、現在は一つで300円か、二つで500円。山を登ってきて山小屋に到達し、ひと息入れがてら焼印を押してもらうのですが、それが増えていくのを見ると、ここまで来た者だけが手にできる証なので、なんか妙に嬉しかったです。

山小屋「花小屋」の焼印は不動明王

山小屋「鎌岩館」の焼印はアマビエ

山小屋「鳥居荘」の焼印は鳥居

宿泊した山小屋「太子館」の焼印はわりとシンプル。一番上は頂上で押してもらうためにあけておいたのですが、今回は売店がしまっていて、もらえませんでした。

押すところがなくなったら裏側に押します。にじんでいるのは、押し方が悪いのではなく、杖が雨で濡れていたせいです。

日のみこはどこの山小屋だったか……おぼえていません。