羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

明智光秀紀行③ 番外編~東寺のライトアップ と夜間特別拝観

 不要不急の外出自粛が県知事から要請された3月最終週の土日は、土曜は夏日近く、日曜は一転して厳しい冷え込みで雪、連続した二日間の日中の気温差が約20℃という荒れた天候で、新型コロナウィルスの感染拡大もあいまって、いよいよ天変地異の前触れかと思うような週末でした。人間の力ではどうにもならないこと、人間は自然をコントロールできないこと、自然の前に人類は非力であることを突き付けられていますね。

 

 さて、明智探訪二日目の続きですが、大覚寺バス停から乗ったバスが京都駅に着くと、6時を過ぎていたので、夕食を摂ろうと思い、駅直結の地下街ポルタにある「田ごと」へ行きました。この店で食べるものは決まっているので、いつもと同じように湯葉セットを注文し、それと玉乃光があったので、そちらも頼みました。前日飲めなかったので。

f:id:hanyu_ya:20200328222301j:plain京ゆば御膳。玉乃光は片口で出てきたので、少々驚きました。

 

 食事を終えると、いったん八条口前のホテルに戻って不要な荷物を置き、再び部屋を出て、ライトアップと夜間特別拝観をしている東寺へ。ホテルからは徒歩10分ぐらいなので歩いて行きました。ちなみに、東寺は東寺真言宗の総本山で、大本山が午前中に行った石山寺になります。

 

 東寺には不二桜という名の大きな八重紅枝垂桜があり、こちらはまだ咲いていませんでしたが、五重塔の前の桜などはきれいに咲いていました。

f:id:hanyu_ya:20200328224225j:plain夜間拝観の入口である慶賀門付近より五重塔と宝蔵

f:id:hanyu_ya:20200328224303j:plain五重塔と柳

f:id:hanyu_ya:20200328224353j:plain不二桜と五重塔と講堂

f:id:hanyu_ya:20200328224435j:plain瓢箪池周辺の桜

f:id:hanyu_ya:20200328224545j:plain瓢箪池に映る五重塔の前にある桜

f:id:hanyu_ya:20200328224624j:plain五重塔と桜

f:id:hanyu_ya:20200328224719j:plain正面より、五重塔と桜

f:id:hanyu_ya:20200328224809j:plain 瓢箪池と桜と講堂

 

 夜間拝観は金堂と講堂が開いていたので、薬師三尊と立体曼荼羅を見てきました。前回は上野でお会いした帝釈天が定位置に戻っていて、いつ見ても端整で凛々しい見甲斐のあるお姿ですが、やはり中央の大日如来をはじめ、みんなと一緒にいるのがよいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20200330115250j:plain東寺遠景。不二桜の大きさがよくわかります。高さ13メートルあるそうです。2006年に弘法大師の帰朝1200年を記念して寄贈され、東寺に移植されたとのこと。

 

 引き上げる前に売店の中にある御朱印授与所を覗いたら、東寺オリジナル朱印帳の限定バージョンだけでなく、“夜間”限定バージョンというものまで売っていたのでビックリしました。すでに何冊も持っている朱印帳ですが、装丁にプリントではなく織りで柄を表現した生地を使っている上に、夜間限定朱印帳にしか書かれていないという帝釈天梵天御朱印込みで2,500円だったので、「これは買(ってしま)うでしょ」と思い、購入。

 

  稀少価値を売りにする付加価値商売も、お寺ですらもうここまで来ているのだと思い知らされ、あまりに衝撃的で、目が覚めるというか、鈍器で後頭部を殴られたような気分になりました。――と同時に、旅に出ると、やはり家と仕事場を往復しているだけでは味わえない感覚を得られるな、とも思いました。固定観念が打ち破られるというか、頭を柔らかくしてくれるというか、目から鱗というか……。帰りも歩きでしたが、いろいろと考えるにはいい時間で、夜の冷気も頭をクリアにしてくれました。

f:id:hanyu_ya:20200328225352j:plain夜間限定の東寺オリジナル朱印帳御朱印

 

  9時前にホテルに到着し、日程終了です。

明智光秀紀行③ その2~石山寺、三井寺、大覚寺

 二日目は、明智門と明智陣屋があり、現在春季名宝展を開催中の大覚寺と、光秀の娘である細川ガラシャゆかりの勝竜寺城公園で4月5日まで開催されている企画展を見に行くついでに、山崎の古戦場や、まだ行ったことのない名神大社の自玉手祭来酒解神社に行こうと思っていたのですが、勝竜寺城公園はアクセス方法を確認するためホームページを見たら展示コーナーが閉鎖中ということが判明。新型コロナウィルス対策だろうと思うので仕方がないのですが、さてどうしようかと思い、慌てて特別公開やら寺社情報を調べまくったところ、ゴールデンウィークを過ぎてから行こうと思っていた石山寺三井寺の観音様の御開帳が始まっていたので、そちらに行くことにしました。

 

 石山寺東寺真言宗大本山三井寺天台寺門宗の総本山で、どちらも西国三十三所の札所なので、1300年記念行事が始まってから行っているのですが、石山寺は前回の御開帳の時に見た如意輪観音像が素晴らしかったので、機会があればまた見たいと思っていました。また三井寺は、1300年記念の特別印入り御朱印をいただくのと、集めていた「浄土の鳥」を購入するのが目的で訪れましたが、その時は観音様の姿を見ることできなかったので、今年の御開帳は必ず行こうと思っていました。石山寺三井寺も、稀に特例はありますが、基本的には御開帳は33年に一度で、今度はいつ見られるかわからないので。今回は即位記念の御開帳で、三井寺についてはわかりませんが、石山寺では即位開帳という習いがあり、新天皇が即位した翌年には御開帳が行われてきたそうです。石山寺の場合、「御開帳」ではなく「御開扉」といっていましたが。

f:id:hanyu_ya:20200328172440j:plain石山寺山門

 

 まずは石山寺から行くことにし、9時にホテルを出発して、JR線で石山駅まで行き、京阪電車に乗り換えて、終点の石山寺駅で下車。10分ほど歩いて10時過ぎに石山寺に到着しました。受付で入山料と本尊特別拝観料、そして「石山寺紫式部」展の入場料が一緒になったセット券を購入すると、境内の建物は以前来たときに見ていて、桜もまだ咲いていなかったので、すぐに本堂へ向かい、御本尊と対面。二度目なので最初の時のような驚きはありませんでしたが、やはり圧倒的な迫力に気圧されるような感じがする観音様でした。それと、今回は内陣に入ってすぐのところに薬師如来像があったのですが、その台座部分の板彫十二神将像が実に見事でした。四面のそれぞれに三人ずつがあしらわれている形だったので、参拝ルートに面した前面と右側しかよく見えませんでしたが。

 

 御朱印は前に来たときに1300年記念の特別印入りでいただいていましたが、今回は即位開帳の特別印も押してもらえるとのことだったので、再びいただいてきました――通常料金300円にプラス100円の追加料金が必要でしたが。

 

 本堂を出ると、続いて「石山寺紫式部」展を見るために展示会場である豊浄殿へと向かったのですが、その途中、経蔵の近くで、前に来たときには気づかなかったものを発見。

f:id:hanyu_ya:20200328172822j:plain松尾芭蕉の句碑(向かって右の円柱)です。隣は紫式部の供養塔。

 

 「まあ、あのスーパー俳聖がここに来ていないわけはないよな」と妙に納得し、石碑の文字は解読できなかったので、隣にある看板を見れば、「あけぼのは まだ紫に ほととぎす」とのことでした。その立て看板を見た瞬間、「うわぁ~」と心の中で叫び、思わず引いた気分になったぐらい、あまりにベタな感じで秀句とはとても思えませんでしたが、句としての良し悪しはともかく、五七五という限られた字数の中に因縁の平安女流作家二人を入れ込む技は、さすが芭蕉翁だと感服しました。おそらく、“紫”は当寺に籠って『源氏物語』の構想を練ったといわれている紫式部を、“あけぼの”は「寺は石山」と『枕草子』に書いた清少納言を意識したと思うので。

f:id:hanyu_ya:20200328173118j:plain経蔵と豊浄殿あいだにあった、日本最古の多宝塔と散りかけのカンザクラ

 

 豊浄殿の展示を見終わったあとは、時間的にあまり余裕がなかったので石山寺を後にし、次の目的地である三井寺へと向かいました。石山寺山門前バス停からバスで石山寺駅まで行き、京阪電車に乗って三井寺駅で下車。琵琶湖疏水沿いを10分ほど歩いて突きあたると、右に行けば総門ですが、左に行けば観音堂前に出る参道なので、今回は左を選択。入山受付の前に、以前来たときには気づかなかった蕎麦屋があったので、観音堂に行く前に腹ごしらえをすることにしました。境内ではお休み処になっている塔頭の本寿院で、三井寺の巡礼スイーツである朝宮ほうじ茶ロールケーキセットを食べる予定だったので。

f:id:hanyu_ya:20200328174007j:plain「ふじの木茶屋」で食べた「弁慶そば」。写真入りメニューとかはなかったので、何が弁慶なのか注文時にはわかりませんでしたが、とりあえず三井寺ゆかりの人物名を冠しているメニューなので頼んでみたら、力持ちに引っかけたらしい餅とウナギが入っていました。

 

 食事後、受付で特別拝観券を購入し、観音堂へ。三井寺の観音様を見るのは初めてでしたが、こちらも思いがけず素晴らしい像でした。石山寺と同じ如意輪観音ですが、全然違うタイプで、約5メートルある石山寺の像ほど大きさはないので迫力があるというわけではないのですが、とにかく美しい。というか、「これって、三井寺の観音様だったんだ」と思ったぐらい見覚えのある、馴染み深い像でした。かつて読み漁った様々な平安時代関連の文献資料で見かけたので。胡坐を組んで印を結んだり、あるいは持物を手にしている像とは一線を画していて、立膝に肘をついて頬杖をつき首をかしげているという、どこかアンニュイな雰囲気が漂う悩ましげなポーズの傑作でした。

f:id:hanyu_ya:20200328174246j:plain観音堂参道側の入山受付にあった御開帳の看板。実物は撮影禁止なので、こちらを撮ってきました。

 

 ところで、三井寺には「べんべん」という、高野山の「こうやくん」みたいな広報を担う公式キャラクターがいるのですが、文化財収蔵庫の入口に三井寺グッズを扱うショップがあって、そこでべんべんグッズも売っているので、何かおもしろいものがないかと思い、立ち寄ってみたら、以前にはなかった「べんべんおみくじ」のガチャガチャがあって、普通のおみくじと同じ100円で、何かしらべんべんグッズも付いているとのことだったので、試しにやってみました。

f:id:hanyu_ya:20200328174544j:plain「べんべんおみくじ」と、一緒にカプセルに入っていた木製クリップ。べんべんは、三井寺に残る弁慶の引摺り鐘と千団子祭りの亀をモチーフにしているそうです。

 

 まあ100円ならこんなものだろうと思い、1回で終了し、本寿院へ。拝観料と観音堂特別参拝料が一緒になった特別拝観券を買うと、別々に買うより100円安く、また観音堂の書院で行われている西国三十三所草創1300年記念の展示「三井寺の観音信仰と美術」展も見ることができ、さらに、本寿院で100円割引のサービスが受けられました。ということで、当初の予定どおりコーヒーと朝宮ほうじ茶ロールケーキのセットをいただきました。

f:id:hanyu_ya:20200328174653j:plain本寿院の喫茶室内と、朝宮ほうじ茶ロールケーキセット。

 

 一服したあと、三重塔、弁慶の引摺り鐘を見て、金堂を参拝し、そこで時間がなくなったので、その他は省略して三井寺駅に戻り、京阪電車山科駅へ。JR線に乗り換えて嵯峨嵐山駅まで行き、歩いて大覚寺へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20200328174837j:plain三井寺駅からびわ湖浜大津駅まで乗った電車は「麒麟がくる」のラッピング車両でした。

 

 大覚寺真言宗大覚寺派大本山で、52代嵯峨天皇の娘で53代淳和天皇の皇后である正子内新王が、父天皇の死後、譲位後に暮らしていた離宮である嵯峨院を寺に改め、彼女の息子で嵯峨天皇の孫にあたる恒貞親王が開山となり開創された寺です。

 

 恒貞親王淳和天皇と正子内親王のあいだに生まれた皇子で、正子内親王と同じく嵯峨天皇と皇后橘嘉智子のあいだに生まれた54代仁明天皇の皇太子になりましたが、承和の変廃太子となり出家。藤原氏の圧力に屈してこの陰謀に加わった母嘉智子を恨み、正子内親王が泣いて怒ったという話が『日本三大実録』に載っています。事変後、新たに藤原冬嗣の娘順子を母に持つ道康親王が皇太子に立ち、父仁明の跡を継いで55代文徳天皇となると、順子の兄である良房が娘の明子を文徳の皇后とし、二人のあいだに生まれた子をわずか9歳で天皇にしたのが56代清和天皇で、幼帝ということから祖父である良房が摂政として政治の実権を握ることになりました。これが藤原北家による摂関政治の始まりです。

 

 ということで、嵯峨天皇の時代は私が主に研究していた摂関期よりやや前の時代なので、59代宇多天皇ゆかりの仁和寺、60代醍醐天皇ゆかりの醍醐寺や勧修寺ほど大覚寺には興味が湧かなかったため、今まで行ったことがなく、今回が初めての訪問でした。けれども、何故今まで訪れなかったのかと悔しく思うほど素晴らしい寺でした。

f:id:hanyu_ya:20200328175735j:plain大覚寺表門

f:id:hanyu_ya:20200328175822j:plain式台玄関

f:id:hanyu_ya:20200328182610j:plain式台玄関にあった説明書き

f:id:hanyu_ya:20200328182705j:plain宸殿の襖絵、狩野山楽筆「紅梅図」(複製)。

f:id:hanyu_ya:20200328182759j:plain「紅梅図」は全部で8面あり、現在宸殿にあるのは複製ですが、霊宝館で開催されていた名宝展で実物が特別公開されていました。重要文化財に指定されている実物は修復が終わったばかりで、今秋東博で開催される特別展「桃山――天下人の100年」で展示されるそうです。

f:id:hanyu_ya:20200328184712j:plain村雨の廊下

f:id:hanyu_ya:20200328184821j:plain御影堂前の灯籠と五大堂。いつ造られたものかわかりませんが、灯籠の毘沙門天の彫りがよく残っていて、夕日を受けて線がはっきりし、とてもきれいでした。

 

 建物も、それを囲む周囲の風景も美しく、それらを借景で取り入れつつ、日本最古の庭湖である大沢池を配した庭園も実に素晴らしかったのですが、さらに今回、この池のほとりに名古曽の滝跡があることを知り、一気に舞い上がってしまいました。

f:id:hanyu_ya:20200328184932j:plain五大堂から見る大沢池

f:id:hanyu_ya:20200328185405j:plain名古曽の滝跡

f:id:hanyu_ya:20200328185057j:plain大沢池と名古曽の滝跡の説明

 

 私が『和漢朗詠集』の編者で「三船の誉れ」と世に称えられ、漢詩、和歌、管絃の三才に秀でていた藤原公任を好きなことは記事の中でもよく触れていますが、その公任の歌で百人一首に採られているのが「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」です。心に響くいい歌かというと、その点は微妙なのですが、絶妙な韻を踏んでいて、文化的才覚にあふれた公任らしい作り込まれた巧い歌だとは思っていました。しかし実のところはそれだけでなく、「名こそ」に名古曽の滝を詠み込んでいて、この掛詞だけでなく、歌意にも二重の意味が込められた、誠に複雑な、切ない歌だったことが、このたび判明しました。まさしく、生まれながらの貴公子であり、それゆえに酸いも甘いも味わい、なおかつ非凡な才人である公任でなければ詠めなかった歌です。というのも、今まで歌の意味は、

 

“滝の流れる水音が聞こえなくなって久しいけれど、その名は水が流れるように巷間に伝えられて、今も世に聞こえているよ”

 

 ぐらいに思っていましたが、ここでいう「滝」が名古曽の滝ならば、そんな単純な意味ではなく、

 

“名古曽の滝が流れる水音が聞こえなくなって久しいけれど、その名は水が流れるように巷間に伝えられて、今も世に聞こえているよ”

 

 という歌意になるからです。つまり、枯れてしまったけど、今なおその名を世間に知られている名古曽の滝のことを歌いつつ、実は自分のことを歌ったのだと思われます。政治家としては道長の後塵を拝し、昔の栄華は名古曽の滝と同じく見る影もないが、当代を代表する歌人、詩人、楽人としての自分は健在であり、今もって藤原公任の名が世に聞こえが高いことに変わりはないという、強い自負と名門出身らしい高い矜持が感じられます。

 

 名古曽の滝に浮かれた結果、明智門と明智陣屋を見に来たことはすっかり頭の中から抜け落ちていて、見るのを忘れてしまいました。トホホホ。そのことに気が付いたのは京都駅に戻るバス待ちのあいだで、時すでに遅し。大沢池の庭に出ると帰りは庭園側にある門から出ることになり、建物には原則戻れないので、お堂を悔いなく見てから最後に本堂である五大堂を参拝して御朱印をいただき、その後別料金が必要な庭に出たのですが、すでに4時半をまわっていたので、受付のスタッフに庭園の門は5時10分前には閉まるので注意するよう言われ、足早に散策。すると、庭園内を見回っているスタッフとすれ違い、5時に閉まると言われたので、それならまだ余裕だと思い、いささか歩く速度を緩めて門に行ったら、やはり10分前に閉められたようで出られませんでした。近くにまだ片づけをしているスタッフがいたので、事情を説明し、自分の他にあと2名ほど庭園内に残っている人間がいたことを知らせると、鍵を取りに行って門を開けてくれました。そんな具合だったので、バス停で気づいても、もはや表門に引き返して明智門と明智陣屋を見ることは叶わず、期間限定の特別公開や特別展と違って、また来れば見られると自分を納得させて、京都駅行きのバスに乗りました。(続きます)

f:id:hanyu_ya:20200328191457j:plain大沢池と桜

f:id:hanyu_ya:20200328191555j:plain桜は咲き始めたばかりでした。

f:id:hanyu_ya:20200328191649j:plain黄色い花は遠目からはレンギョウかと思ったのですが、何でしょう?

f:id:hanyu_ya:20200328191730j:plain大沢池と大覚寺

f:id:hanyu_ya:20200329194627j:plain五大堂でいただいた数量限定の季節限定御朱印。勅使門と紅枝垂桜が色鮮やかに描かれています。限定御朱印はいろいろといただいていますが、こんなに綺麗なものは珍しいです。派手なものはけっこうありますが(笑)。

明智光秀紀行③ その1~特別展「光秀と京」in京都市考古資料館&京都市歴史資料館

 神奈川県民なので、週末の外出自粛に備え、昨日は仕事を4時半で切り上げて、スーパーに買い物に行きました。前日いつもどおりに仕事をしてから違うスーパーに寄って帰ったら、あまりに物がなくて驚いたので。5時過ぎに店に寄った昨日は、2軒めで久しぶりにトイレットペーパーを買うことができました。12ロールで税別680円という、いつもの2倍以上の値段でしたが……。品薄の報道以降、仕事帰りにドラッグストアやスーパーを何軒まわっても買えなかったので、背に腹は代えられません。かろうじて1袋残っていたのは、値段が高かったからでしょう。

 

 このように、今の日本はとんでもない事態になっていて、本日行くはずだった宝塚公演も中止になったので、この週末は家でおとなしくしていますが、先週の3連休は予定どおり京都に行ってきました。明智光秀坐像がある慈眼寺と、4月5日まで開催されている明智光秀関連の特別展が見たかったので。

 

 先月は「京の冬の旅」の特別公開を巡るのが精一杯で時間的余裕がなく行けなかったため、帰ってきて改めて京都行きの予定を組み、とはいえ特別公開の中止なども始まっていたので、状況が悪化したらいつでも延期できるように新聞やNHKニュースなどで情報収集し世の動きは注視していたのですが(ちなみに新聞は、勧誘防止策で、朝日と読売を1年交代でとっていて、今年は読売)、3連休前に引き続き警戒は必要だが3密(密閉、密集、密接)を避ける対応をすれば感染リスクは減らせるみたいな報道があり、宝塚をはじめ、営業を停止していた施設なども再開したので、決行することにしました。イベントなどは中止になったとしても通常公開や拝観は変わりなくしていて、それに従事している人たちもたくさんいるため、仕事をしている身としては、経済活動が滞ることのほうが歓迎できなかったからです。日常生活が送れる人間は極力普段と変わらずに過ごすのがよいと思っていますし。東日本大震災の時もそのように考えて、できるかぎり東北寺社遠征をしました。今月も宴会は控えて、主にサシで、多くても4人までのメンバーで何回か飲みに行きました。メディアに踊らされて根拠のない過度な恐れを抱き、非日常的な行き過ぎた行動は避けるべきだとも思っています。なので、もし今のように感染者が増えることが予測できていて、けれどもオリンピック延期決定の前で、そのために明確な自粛要請などを控えていたのであれば、為政者たちの罪は大きいですね。私のように考えている人もけっこういると思うので。諸外国のように強力な外出禁止令がなかったから、京都に行って見たいものを見られたという事実はあるのですが、この時期に旅行をするという選択をしたのも旅行ができたのも、政府や自治体が甘かったから――否、甘かったおかげですから。

 

 で、遠征ですが、19日木曜に昼で仕事を切り上げて品川駅に行き、1時17分発の新幹線に乗って京都に向かいました。3時半前に京都駅に到着し、ホテルが八条口前で、もうチェックインができる時間だったので、部屋に荷物を置くと駅に戻ってバス乗り場へ。市バスに乗って、堀川今出川バス停まで行き、京都市考古資料館へと向かいました。考古資料館と歴史資料館の共同開催で「光秀と京」という特別展が開催されていたので。

 

 4時30分の入館終了時間の15分前に資料館に到着し、2館間で記念品をもらえるスタンプラリーをやっていたので、台紙とスタンプをもらうため受付に寄ったら、摂関時代好きとしては見過ごせない平安京関連の資料がたくさん販売されていて目移り。気になるものがありすぎでしたが、荷物になるので厳選し、図録タイプの京都市文化財ブックス『平安京』と『京都古地図巡り』、そしてミウラ折りタイプの平安京復元地図と現代の史跡散策地図が入った『平安京図会』を購入。昔、貴族邸宅の場所と位置関係は喉から手が出るほど欲しかった情報で、『拾芥抄』などの記述を基に自分で貴族邸宅地図を作っていた身なので、「もっと早くここに来れば!」とか「摂関時代史研究にのめり込んでいたときにこれがあれば!」とか、心の底から思いました。

f:id:hanyu_ya:20200324194847j:plain裏面がスタンプラリーの台紙になっている特別展「光秀と京」のパンフレット。特別展のシンボルになっているのは、慈眼寺の明智光秀坐像です。

 

 「資料を購入してくれたので」とクリアファイルをくれた受付のおねーサンに、他に平安貴族邸宅に関する書籍はないかと訊くと、受付の奥にいた人たちにも訊いてくれて、販売しているものの見本のページを繰って、いろいろと探して見せてくれたのですが、図録タイプで2ページぐらいしか情報がないものはこれ以上持って帰る気力が出せないのであきらめると、「これは?」と言って出してくれたのが「~文化財と遺跡を歩く~京都歴史散策マップ」でした。ミウラ折りタイプの地図で「12平安京貴族邸跡」というのをいただいたのですが、他にもいくつか種類があり、四つまでもらえるというので、明後日行く予定の「29京北 周山 弓削 山国」と、よく行く「17西賀茂 上賀茂」と「35小野 醍醐 日野」の計4冊をいただきました。

 

 そうこうしていたら、閉館まで30分もなくなってしまったので、急いで展示を見学。本徳寺の明智光秀像がパネルで紹介されていたのですが、その解説文におもしろいことが書かれていました。何故岸和田の本徳寺に光秀の唯一の肖像画と伝わるこの絵があるのか不思議に思っていたのですが、本徳寺は妙心寺派の寺院で、妙心寺で出家した光秀の息子――南国梵桂が鳥羽荘に開いた海雲寺を前身とすると伝えられているそうです。私は光秀がクローズアップされて関連情報があふれている今年、光秀=天海説を本格的に追ってみようと思い、光秀探訪を始めたのですが、光秀の長男である光慶が山崎の合戦のあとも死なずに南国梵桂として生き延びたのならば、光秀も南光坊天海として生き延びたという伝承もあながち絵空事ではなく、ありえる話なのではないかと思います。

f:id:hanyu_ya:20200324212951j:plain考古資料館の特別展の看板。考古資料館のテーマは「入京から本能寺の変」でした。

f:id:hanyu_ya:20200324213043j:plain唯一の肖像画といわれる本徳寺の明智光秀像のパネル。

f:id:hanyu_ya:20200324213129j:plain光秀坐像を基にした慈眼寺の公式キャラクター「くろみつくん」もいました。

 

 光慶=南国梵桂説も今のところ俗説にすぎないとされているようですが、山崎の合戦後の光慶の生死ははっきりせず、否定材料もないので、個人的には信じていいのではないかと思っています。火のないところに煙は立ちませんから。それに、光秀の叔父が塔頭の住職をしていて縁が深かった妙心寺がからんでいるのも大いに引っかかりますし。そして、そう思うもう一つの理由が、本徳寺の光秀肖像画と慈眼寺の光秀坐像の相似性です。同時代に作られた総見院の信長坐像や高台寺の秀吉坐像と比べると、慈眼寺の光秀坐像は頬から顎にかけてかなり丸みを帯びているのですが、本徳寺の肖像画もこれに近い輪郭で描かれており、表情は違いますが、顔形が似ていて、同一人物といわれてもまったく違和感がありません。

 

 ところで、慈眼寺の光秀坐像ですが、これは初めから黒いわけではなく、謀反人であることを憚ったのか、あとから墨で真っ黒に塗られて、秘像としてひっそりと祀られてきたそうです。「謀反人であることを憚った」というのは、おそらく秀吉が天下人になったため、彼が謀反人の烙印を押して成敗をした光秀を祀ることを憚ったということだと思います。何故なら、徳川時代にはそれほど光秀を憚らなくなっていたと想像されるからです。2代江戸将軍秀忠に旗本として召し抱えられた津田昌澄(光秀の外孫)や、秀忠の嫡子――のちの3代江戸将軍家光の乳母に任命された斎藤福(春日局、光秀の重臣だった斎藤利三の娘)の処遇を考えると、徳川政権下ではある程度光秀の復権が成されていたように思えます。光秀を討った秀吉は自分の行為やその後に得た立場など、天下人としての己のすべてを正当化するために光秀を謀反人にしておかなければならなかったはずですが、家康にはその必要がなかったからでしょう。

 

 それに、本徳寺の肖像画が描かれたのは慶長18年(1613)だそうですが、それが事実ならば、大坂冬の陣の前年のことになるので、むしろその頃になると、明智光秀よりも豊臣秀吉に肩入れするほうが憚られたのではないでしょうか。信長の跡を継いだ秀吉が死に、石田三成を筆頭とする秀吉派を関が原で斥けて征夷大将軍となり、名実ともに天下人に王手をかけていた家康にとっては、前天下人である豊臣家こそが存在を認めることができない、滅ぼさなければならない相手だったのですから。よって慈眼寺の光秀坐像は、山崎の合戦の直後に光秀の菩提を弔うために制作されたが、関ヶ原の合戦よりも前――秀吉政権下の早い時期に彼を憚って黒く塗られたと考えられます。ということは、光秀没年の1582年から秀吉没年の1598年のあいだに作られて黒く塗られた、おそらく光秀の死後10年も経たないうちに制作された像ということになります。ならば、総見院の信長坐像や高台寺の秀吉坐像と同様に、生前の姿に近いと思われます。本徳寺の肖像画が、生前の姿に近いであろう慈眼寺の坐像とよく似ているということは、確実に明智光秀本人を知る人物が描かせたものであり、しかもその人物は光秀の死後から30年経っても彼の肖像を残したいと欲した人物である――ということになります。そういった人物が実在したことが確実で、なおかつ、その肖像画が残る寺の開祖が光秀の息子だという伝説があるのなら、わざわざ他所に該当者を探し出さなくても、素直に光秀の息子をその人物にあてはめれば済むことです。よって、光慶=南国梵桂説は十分に信憑性があると思います。

 

 特別展は1階だけで2階は常設展示でしたが、常設展示も山城国縄文時代平安京時代に関する展示があり、たいそう興味深かったので、閉館時間ギリギリまで粘って退館。私が資料館を出ると、職員の方も外に出てきて片付けを始めました。

 

 続いて、ひと夜限りのナイトミュージアムということで、3月19日だけ夜8時まで開いている京都市歴史資料館へと向かいました。資料館の前にある今出川大宮バス停から市バスに乗って河原町今出川バス停で下車し、寺町通りをひたすら南下。拝観時間を過ぎていたのでもう門は閉まっていましたが、明智光秀関連の特別展をやっている廬山寺の前を通り過ぎて、5時半前に歴史資料館に到着。受付で台紙にスタンプを押してもらうと、コンプリートしたので、記念品のクリアファイルをくれました。

f:id:hanyu_ya:20200324214012j:plain歴史資料館の特別展の看板。歴史資料館のテーマは「信長、義昭、そして町の人びと」でした。

f:id:hanyu_ya:20200324214106j:plainスタンプラリーの記念品は、本能寺跡の出土品である戴輪宝鬼瓦のクリアファイル(左)。鬼が輪宝を戴いていて、なんとなく信長っぽい鬼瓦です。ちなみに、考古資料館でもらったのは、聚楽第周辺の出土品である金箔瓦のクリアファイル(右)。金箔仕上げの桐紋……こちらはいかにも秀吉っぽいです。

 

 こちらの展示も興味深く、撮影が禁止だったので、メモを取りました。伊藤坦庵(1565-1664)が江村専斎(1565-1708)の話す思い出話を記した『老人雑話』という資料があったのですが、これは読んでみたくなりましたね。本能寺の変の時に18歳だった生き証人の口述筆記なので。それと、光秀の生まれ年は諸説があり確定できていませんが、特別展のパンフレットにも子年生まれということはほぼ確定――とありました。ならば、今のところ有力視されている1528年、それより一回り早い1516年、それより一回り遅い1540年のいずれかに生まれた今年の年男ということになるのですが、慶長19年(1624)に元明智家家臣の森秀利が口述した『明智物語』に、天文18年(1549)の時点で光秀は元服していなかったという記述があるそうなので(未確認)、私は1540年生まれ説を推したいと思います。というのも、1516年生まれの根拠である『当代記』は寛政年間(1624-1644)の成立とされ、1528年生まれの根拠である『明智軍記』に至っては光秀の死後100年以上経った元禄期(1688-1704)に書かれた物語で、したがって史料としては『明智物語』が一番鮮度が高いからです。

 

 そして、もし光秀が1940年生まれであれば、1936年の生まれとされていて、すなわち1643年に108歳で没したとされる天海にも成り得ます。104歳なのでかなり長命ではありますが、医師だった江村専斎も100歳という寿命を保ったそうなので、戦で死なずに養生の心得があれば、そのくらい長生きする人も多かったのかもしれません。光秀が医学に明るかったことは、2014年に発見された米田文書の『針薬方』などからも明らかになっていますし。

 

 ということで、光秀=天海説のネックの一つとされている年齢の問題をクリアできる材料が見つかったので、満足して歴史資料館を後にし、丸太町駅まで歩いて、地下鉄で京都駅に戻りました。駅に着いたのは7時前で、いつもならこの時間だと予約なしでは入れないJR伊勢丹の「松山閣」ですが、新型コロナウィルス騒ぎで今はそれほど混んでいないのではないかと思い、ダメもとで行ってみると入れて、窓際の四人席に案内してくれました。

 

 ゆば桶膳と、玉乃光が京都産酒米の祝を使った純米大吟醸だったので、今回は山田錦を使った純米吟醸の「伝匠」を注文。大吟醸も祝もあまり好みではないので。湯葉と春野菜に舌鼓を打って、ホテルに戻り、その日は終了です。

環翠楼と鈴廣かまぼこの里

 

 先々週末は箱根の環翠楼に行ってきました。和宮の最期の地なので、もちろん行ったことはあるのですが、今回は仕事でお世話になっている先輩たちと一緒だったので豪遊し、黒御影石の浴槽に源泉が掛け流しになっている部屋風呂付きの萌黄の間に宿泊しました。

f:id:hanyu_ya:20200318230228j:plain環翠楼の玄関。段飾りの雛人形が飾られていました。

f:id:hanyu_ya:20200318230330j:plain帳場と応接間のあいだにある和宮の遺品

f:id:hanyu_ya:20200318230421j:plain萌黄の間の廊下

f:id:hanyu_ya:20200318230523j:plain廊下から見える本館

f:id:hanyu_ya:20200318230612j:plain大広間の掛軸

f:id:hanyu_ya:20200318230700j:plain大広間の襖絵

f:id:hanyu_ya:20200318230743j:plain環翠楼の番傘。こういう物が無造作に置かれています。

f:id:hanyu_ya:20200318230839j:plain夕食(もちろん一部です)

f:id:hanyu_ya:20200318230929j:plain朝食

 

 翌日は10時のチェックアウト後、タクシーを呼んでもらって鈴廣かまぼこの里へ。箱根登山鉄道は昨年の台風19号の影響で長期運休中なので、行きも箱根湯本駅からタクシーを使いました。

 

 かまぼこの里に着き、まずはかまぼこ博物館へ行くと、100円玉が帰ってくるコインロッカーがあったので大きな荷物を預けて、かまぼこ作りなどを見学。その後、かまぼこを買いに鈴廣本店の隣にある鈴なり市場へ行ったら、かまぼこバーという一角を発見し、カウンターでかまぼこをつまみながらビールや日本酒が飲めたので、まだ昼前でしたが一杯やることにしました。

f:id:hanyu_ya:20200318231047j:plainかまぼこバーで食べたグランシェフセット。日本酒は秋田の名酒「新政」があったので、そちらをいただきました。

 

 お昼はお食事処「千世倭樓」の中にある蕎麦屋「美蔵」で、蕎麦焼酎の蕎麦湯割りを飲みながら板わさをつまみ、締めでざるそばを食べました。

f:id:hanyu_ya:20200318231213j:plain蕎麦屋が混んでいて待たされているあいだにコーヒーを飲んだ「千世倭樓」内にある茶房「しゃざ」。

 

 食事を終えると、かまぼこ博物館のロッカーから荷物を引き上げて、鈴なり市場と直結している風祭駅から電車に乗って小田原駅まで行き、ロマンスカーに乗って帰りました。

f:id:hanyu_ya:20200318231445j:plainかまぼこ博物館の前に咲いていた桜

f:id:hanyu_ya:20200318231531j:plain「大漁桜」だそうです。

京都寺院遠征~高台寺、知恩院、新善行寺、雲龍院

 

 2月の3連休二日目は、ホテルをチェックアウトしたあと荷物を預かってもらい、京都駅前から市バスに乗って東山安井バス停まで行き、霊屋を特別公開している高台寺へと向かいました。数えきれないくらい京都に来ていて、何度もすぐ近くまで行っていますが、高台寺を訪れるのも今回が初めてでした。

f:id:hanyu_ya:20200317092613j:plain高台寺特別公開の看板

 

 高台寺は、豊臣秀吉正室である北政所ねねが夫の菩提を弔うために建立した寺院で、霊屋はねねが実際に眠っている墓所です。今回の特別公開では内部に入ることができ、ガラス越しではありましたが、厨子内に祀られた秀吉とねねの木彫像などを近くで見ることができました。なんといっても素晴らしかったのは、須弥壇厨子に施された蒔絵装飾。あえて「高台寺蒔絵」と別格扱いで呼ばれる理由がなんとなくわかりました。単にきらびやかで派手なだけでなく、洗練された派手さなのです。そして秀吉の坐像は、高台寺の建立が慶長11年(1606)で、死後からそれほど経っていないときに妻であるねねが作らせたものなので、生前の様子を伝えているといわれています。

f:id:hanyu_ya:20200317093010j:plain内部が特別公開されていた霊屋。外側は修復中でした。

f:id:hanyu_ya:20200318091846j:plain霊屋の下にある開山堂と観月台。高台寺の庭園は小堀遠州の作で、国の史跡・名勝に指定されています。

f:id:hanyu_ya:20200317220746j:plain高台寺庭園の説明

f:id:hanyu_ya:20200317221346j:plain時雨亭(手前)と傘亭(奥)

 

 霊屋を見たあとは、人も多くなってきたので、順路どおりに進んで出口へ。次は知恩院に行く予定でしたが、11時を回っていたので、混む前に店に入って何か食べようと思い、前回京都に来たときに霊山歴史館に行くため維新の道を歩いている途中で見つけて気になっていた高山寺のカフェへと向かいました。すると、カフェと同じ建物内にある強化ホールで、奇妙な文字を発見。「アンドロイド観音」……?

 

 気になって立ち尽くしていると、そばにいたスタッフに「無料なので見ていきませんか? 写真も撮れますよ」みたいなことを言われたので、勧められるまま中に入ってアンドロイド観音とご対面。

f:id:hanyu_ya:20200317221000j:plainアンドロイド観音サマ Σ( ̄。 ̄ノ)ノ

 

 1日2回法話もするとのことでしたが、せめて衣装や鬘でも身に着けていればいいのに……と思いました。質素な仏様と違って、観音様は瓔珞やら何やら身に着けているのが普通なので。複雑な構造を見せたいのかもしれませんが。けれども、時代はもうここまで進んでいるのだと思い知らされ、探幽の天井画を見たときとはまた違った意味で衝撃を受けて、隣のカフェ――高台寺茶所「スロージェットコーヒー高台寺」に入りました。

 

 こちらは基本的にカフェなので、選べるほどフードメニューはないのですが、「豚角煮と生湯葉のだし茶漬け」という京都らしいメニューがあったので、それと食後のブレンドコーヒー、待っているあいだに食前酒として飲む白のグラスワインを注文。とりあえずこの次に向かう知恩院で「明智光秀と戦国の英傑たち」の特別公開寺院巡りは終わりなので、少々のんびりしながらその後の予定を検討することにしました。

f:id:hanyu_ya:20200223113642j:plain豚角煮と生湯葉のだし茶漬けと白ワイン

f:id:hanyu_ya:20200317221828j:plainこのどんぶりの形状の工夫が素晴らしいと思いました。

f:id:hanyu_ya:20200223121814j:plainカフェの外から見える八坂の塔京都タワー。テラス席ではこれらを眺めながら飲食ができます。

 

 食事後、ねねの道を北に向かって歩き、円山公園を通って知恩院に到着。知恩院を訪れたのも初めてだったのですが、山門の巨大さに度肝を抜かれました。知恩院のパンフレットによると、2代江戸将軍徳川秀忠が建立したものだそうです。将軍家の威信をかけて作ったのでしょう。目の前に続く男坂も信じられない傾斜で、年を取って今より足腰が弱くなったらとてもお参りには来られないと思いました(帰りに女坂があることに気づきましたが……)。境内に入ると、これまた巨大な御影堂がお出迎え。こちらは秀忠の息子である、3代江戸将軍徳川家光が建立したものとのこと。華やかさはなく、純粋に質量だけで人を圧倒する建物に、徳川将軍家の方針のようなものを見たような気がしました。質実剛健というか、名より実を重視するといったような……。

f:id:hanyu_ya:20200223122841j:plainねねの道の途中にある料亭「高台寺和久傳」の梅

f:id:hanyu_ya:20200317222145j:plain知恩院の山門。中央に掲げられている「華頂山」の扁額の大きさは畳2畳以上あるそうです。

f:id:hanyu_ya:20200317222258j:plain御影堂。間口45メートルあるそうです。

 

 知恩院は浄土宗の総本山で、開祖法然墓所があり、法然を御本尊とする寺院。現在の伽藍が整えられたのは江戸時代に入ってからで、浄土宗徒だった初代江戸将軍徳川家康が永代菩提所とし、寺地を拡大して諸堂を造営したそうです。ということで、明智光秀織田信長豊臣秀吉に続く戦国武将、徳川家康ゆかりの寺として今回特別公開がされていました。

 

 思いがけずとんでもない規模の寺だったので、混み始める前に御朱印をいただいておいたほうがよいと思い、まずは御朱印授与所へ。それから特別公開の入口へと向かいました。今回公開されていたのは大方丈、小方丈、方丈庭園。方丈も大小二つありました。知恩院の特別公開は新型コロナウィルスの影響で、3月5日からは中止となってしまったので、早めに行っておいてよかったです。

f:id:hanyu_ya:20200317222522j:plain知恩院特別公開の看板

f:id:hanyu_ya:20200317222613j:plain唐門近くにある仏足石

f:id:hanyu_ya:20200317222712j:plain方丈庭園にある家光手植えの松

f:id:hanyu_ya:20200317222801j:plain方丈庭園から見る大方丈

f:id:hanyu_ya:20200317222909j:plain大方丈の説明

f:id:hanyu_ya:20200317223028j:plain小方丈の説明

 

 特別公開を見終わったあとは、阿弥陀堂にお参り。その後、大鐘楼を見て、境内を出る前に売店「泰平亭」に立ち寄ったら、おもしろいものを見つけたので、つい衝動買いしてしまいました。

f:id:hanyu_ya:20200317223148j:plainなんと「光る知恩院のお茶」です!

 

 知恩院は「知恩院のお茶」というオリジナルブランドのペットボトルのお茶を発売しているのですが、その形を模したライトです(笑)。プラスチック製のキーホルダーですが、ライトの電源は単4電池3本で電池交換ができ、しかもLEDという、なかなかのスグレモノ。裏に取説が書いてある台紙に「非常時に役立つ」と書いてあるので、防災バッグにでも入れておこうかと思います。

 

 計6か所の特別公開を見終わり、2枚目のスタンプラリーのシートがコンプリートしたので、知恩院の和順会館内にある「カフェ かりん」に寄りました。記念品との引き換えだけでなく、指定の接待場所でドリンクや菓子などをいただくこともできたので。特に店内が混んでいたわけではないのですが、テーブル席に座って無料コーヒーだけを飲むのもどうかと思ったので、ケーキを頼んで一服しました。

  f:id:hanyu_ya:20200223141226j:plainスタンプラリーシートと引き換えでいただいたコーヒーと別途注文したケーキ。

 

 知恩院のあとは結局泉涌寺に行くことにしました。山内の3か所で「京の御大礼 雅の御所文化」というテーマで特別公開をしていたので。知恩院前バス停から市バスに乗って泉涌寺道バス停で下車し、泉涌寺の霊明殿と御座所の特別公開は以前に見ていたので、まだ訪れたことのない塔頭寺院から行くことにしました。

 

 まずは「京の冬の旅」初公開の新善光寺へ。「都の人々が信州善行寺本尊と近くで縁を結べるように」という後嵯峨天皇の勅願で創建されたため「新善行寺」と名付けられたそうで、よって御本尊は善光寺の本尊を模して鋳造された阿弥陀如来像です。というわけで、皇室ゆかりの品々が寺宝としていろいろと伝わっているのですが、中でも見ごたえがあったのが、大方丈の襖絵。幕府御用絵師である木挽町狩野派3代目、狩野周信が玄宗皇帝と楊貴妃、白楽天などの唐人を描いた作品ですが、保存状態が素晴らしく、周信が描いた当時とほぼ変わらぬであろう絵を堪能することができました。

f:id:hanyu_ya:20200317233928j:plain新善行寺特別公開の看板

f:id:hanyu_ya:20200317234004j:plain大方丈前の庭

 

 新善行寺では大方丈の出口の手前に喫茶室が設けられていて、お寺にしては珍しく洋菓子とコーヒーのセットメニューがあり、洋菓子は焼き上がりに金箔をのせたパウンドケーキだったので、またまた一服することにしました。6人席の空いている椅子に座ってコーヒーとお茶菓子が出てくるのを待っていると、お寺の方が相席して、一緒にお茶を飲みながらお寺にまつわる興味深い話をしてくれました。新善行寺は長らく非公開でしたが、次代のことを考えて数年前に期間限定で初公開に踏み切り今回の公開の依頼にも応じたとか、それゆえ寺宝の保存状態が良く、襖絵などは普段はしまってあるとか等々。他の席で飲食していた客も興味をそそられたのか集まってきて、瞬く間に6人席は満員になり、時間もなかったので、話の途中でしたが失礼して、新善行寺を出ました。

f:id:hanyu_ya:20200317234129j:plain金箔押しのプレートでいただいた金箔パウンドケーキとチョコクッキー、コーヒーのセット。見た目が金色の仏様のように眩しくてありがたい感じがしたので、「これは食べなきゃアカン」と思いました。

 

 予定になかったコーヒーブレイクで新善行寺での滞在時間が長引いたため、次の雲龍院に着いたのは受付終了ギリギリでした。雲龍院は他所より受付が30分長く、16時30分まで入れたので助かりました。

f:id:hanyu_ya:20200317234321j:plain雲龍院特別公開の看板

f:id:hanyu_ya:20200317234407j:plain山門を入ってすぐに早咲きの桜に出合いました。

f:id:hanyu_ya:20200223161707j:plain河津桜の花です。

 

 雲龍院は北朝後光厳天皇によって創建された、泉涌寺の別格本山。霊明殿は孝明天皇和宮たちの援助を受けて建立されたそうです。

f:id:hanyu_ya:20200317234809j:plain霊明殿の説明

f:id:hanyu_ya:20200317234911j:plain霊明殿前にある15代江戸将軍・徳川慶喜寄進の石灯籠

 

 その他、大石内蔵助の書という意外なものもありましたが、寺宝よりも部屋のつくりなどの建物が印象的なお寺でした。

f:id:hanyu_ya:20200317235123j:plain大石内蔵助の書。かつて雲龍院には大きな池があり、内蔵助が「龍淵」と名付けたそうです。

f:id:hanyu_ya:20200317235307j:plain蓮華の間

f:id:hanyu_ya:20200317235407j:plain書院・悟之間の「迷いの窓」

f:id:hanyu_ya:20200317235452j:plain書院・悟之間の「悟りの窓」

f:id:hanyu_ya:20200317235540j:plain本堂・龍華殿の廊下から見えた最初に出合った河津桜

f:id:hanyu_ya:20200317235612j:plain帰りがけに撮った夕暮れの河津桜

 

 走り大黒天という珍しい像もあって見どころが多かったので、閉門時間の5時まで粘って雲龍院を後にし、京都駅に戻るため泉涌寺道バス停へ。バス停に着くと、前日の北野天満宮前バス停と同じく行列ができていたので、京都駅行きバスの本数が増える博物館三十三間堂前バス停まで歩くことにました。

 

 駅に戻ったあと、ホテルに預けていた荷物を引き取り、指定席を取っていた新幹線の時間まで余裕があったので蓬莱551の列に並び、豚まんと甘酢団子を購入。その後いつものように、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイを買って改札口へ。6時48分発ののぞみに乗車し、これにて第2回明智光秀探訪及び寺院遠征終了です。

明智光秀紀行②~妙心寺、玉鳳院、大徳寺、総見院、北野天満宮

 

 2月の3連休は妙心寺明智風呂が見たくて京都に行ってきました。京都市京都市観光協会がJRと組んで毎年実施している「京の冬の旅」の非公開文化財特別公開の企画で現在公開されているのですが、期間が3月18日までで、3月の3連休では間に合わないため、気合いで新型コロナウィルスを蹴散らすつもりで二泊三日の旅を決行しました。

 

 今回の「京の冬の旅」のテーマは「明智光秀と戦国の英傑たち」及び「京の御大礼 雅の御所文化」。ということで、個人的にものすごくツボにはまっていたので、15か所の特別公開施設のうち半分の8か所を見てきました。こんなことは初めてです。「京の冬の旅」や「京の夏の旅」の特別公開にはよく行っていますが、特別公開をしていても興味のないところは見向きもしない性格ゆえ、これまでは行っても1回の旅で3か所ぐらいだったので。

 

 初日はまず一番の目的である明智風呂を見に妙心寺へ――。3連休前の金曜日、仕事を終えたあと東京駅に出て7時半過ぎの新幹線に乗り、夜10時に京都駅に着いて駅前のホテルに前泊していたので、拝観時間が始まる朝9時には最寄り駅である花園駅にいたのですが、電車移動中に確認したところ特別公開は10時始まりだったので、駅から歩いて12、3分で行けそうな場所にある蚕の社こと木嶋坐天照御魂神社へと向かいました。この神社は以前に行ったことがあり、その時の遠征記も祭神についての考察も記事にしてアップ済みなので、今回は本殿と三柱鳥居にお参りだけして花園駅に戻りました。途中で雨も降ってきたので。

f:id:hanyu_ya:20200315010800j:plain木嶋坐天照御魂神社の鳥居と社号標

f:id:hanyu_ya:20200315010902j:plain由緒書き

 

 駅から蚕の社とは反対方面に5分ほど歩くと、妙心寺に到着。9時半過ぎで、やはりまだ明智風呂は開いていなくて、チケット売り場や入口の設営が始まったところだったので、先に通常拝観で見られる法堂と大庫裏を見ることにしました。といっても、自由見学できるわけではなく、9時10分からほぼ20分間隔で行われるガイドツアーによる拝観のみなので、次の開始時間である9時50分まで10分ほど待つことに。御朱印をいただいたあとは、受付近くの待合所に最寄り駅やバス停の時刻表が貼り出されていたので、妙心寺の次の目的地である大徳寺への行き方を検討したりしていました。

f:id:hanyu_ya:20200315011158j:plain浴室(明智風呂)正面。時間になると扉が開いてここから中に入るのですが、行ったときはまだ閉まっていました。

 

 妙心寺を訪れたのは今回が初めてだったのですが、受付で拝観料を払ってチケットとリーフフレットをもらったときに、驚きのあまり目を剥きました。リーフフレットはB4サイズで、一面が狩野探幽雲龍図……「この天井画って、この寺にあったのか!!!」と声に出したいのを我慢して心中で叫びました。興味が寺から神社にシフトして以降、仏像以外の寺宝については積極的に情報を得ようとしていなかったので所在地に関する記憶はありませんでしたが、探幽のこの絵は、天井に描かれた雲龍図の中で、私が一番の傑作だと思っている作品です。天龍寺加山又造作などを見ても、やっぱり探幽のほうがいいと思いましたし。なので、「こういうパンフレットをもらえることがわかっていたら、丸めて入れられる筒を持ってきたのに~」と悔しく思いながらも、B4サイズの紙をそのまま持ち歩くわけにはいかなかったので、やや断腸の思いで四つ折りにし、旅行の時には必ず持ち歩いているA5 ファイルにしまいました。

f:id:hanyu_ya:20200311232553j:plain雲龍図のB4リーフレット。反対面は妙心寺の説明書きがB5、B6サイズの面付でレイアウトされていて、四つ折りするとB6サイズのパンフレットになります。

 

 集合時間になり、参加者は私と他1名、ガイドを入れて計三人のツアーでした。3連休初日にしては少ない気がしましたが、新型コロナウィルスによる観光客減の影響があり、しかも雨降りの上、10分後には明智風呂の公開が始まるので、まあこんなものかもしれないと思いつつ、まず法堂へと案内されたのですが、いきなり天井画にノックアウトされました。昔仕事で複製画を取り扱っていたこともあり、絵としては見慣れた作品で、構図や筆致の見事さに惚れ込んでいたのですが……実物はもっと凄かった。あんなに天井を眺めたのは若冲の天井画を見に行った信行寺以来だったと思います。システィーナ礼拝堂ミケランジェロ作の天井画と同じぐらい、絵に携わっている人間は見たほうがいい、見るべきと思った作品でした。ガイドの説明によると、龍がいる円は直径12メートルで、構想3年、執筆5年の計8年をかけて探幽が55歳の時に完成させた作品とのこと。東西南北四方のどこから見ても目が合う「八方睨み」と呼ばれる龍、デコパージュの立体画のように浮き上がって見える鱗……何故そう見えるのか、何故そう見えるように計算して描けるのか不思議でたまりませんでした。さらに驚くことに、この天井画は一度も修復をしていないそうで、描写力、表現力だけでなく、350年以上経っても色褪せない絵を描いたという点でも、やはり探幽は類稀なる天才だと思いました。

 

 法堂には文武2年(698)に鋳造された日本最古の梵鐘も展示されていました。現在鐘楼にあるのはこちらを模して造られた二代目で、初代は昭和48年まで現役で活躍し、毎年「ゆく年くる年」の冒頭で紹介されていましたが、これ以上撞くとヒビが入って割れる危険性があるので引退したとのこと。現在は実物の前で録音した鐘の音を聞かせてくれます。法堂は妙心寺の伽藍で一番大きい建物で、しかもその日は雨だったので常にも増して薄暗く、そんな中で21世紀の2020年に、狩野探幽の八方睨みの龍が見守る江戸初期建造のお堂で、氷高皇女(元正天皇)時代に造られた鐘の音を聞いているという空間はなんとも摩訶不思議な気がしました。1300年の時を一気に超えるような……。精神的タイムトリップという感じでしたね。次に大庫裏に案内されましたが、法堂がすごすぎて、もはやおまけのようなものでした。

f:id:hanyu_ya:20200315011857j:plain大庫裏正面

 

 現地解散でガイドツアーが終了し、10時10分ぐらいだったので、続いて特別公開を見に行きました。仮設のチケット売り場でチケットとガイドブックを購入し、さらに明智風呂と仏殿の書き置きの御朱印もあったので、そちらも両方いただいて、まずは順路に従い、仏殿から拝観。ここには御本尊の釈迦如来像が祀られていて、御本尊の右手奥にある祠堂には「明叟玄智大禅定門」の戒名が記された位牌が祀られていました。明叟玄智大禅定門の俗名は明智光秀――つまり光秀の位牌です。この仏殿は「京の冬の旅」では初公開で、ボランティアガイドの話によると、今年の大河ドラマの主人公である明智光秀とゆかりのある寺ということで公開依頼がきたので公開することにした――とのことでした。大河ドラマの影響は大きいですね。ありがとうNHK、と思いました。基本的に興味のあるところしか行かない人間で、そのため訪れる場所については事前に知っていることが多いので、いつもはほとんどメモを取らないのですが、戦国時代に関しては知識の蓄積が少なかったので、今回の旅ではかなり真面目にメモを取りました。スマホの入力ではとても追いつかなかったので、パンフレットの余白に走り書き殴り書きでしたが(笑)。

f:id:hanyu_ya:20200315012518j:plain妙心寺仏殿(手前)と法堂(奥)

 

 仏殿の次はいよいよ「明智風呂」こと浴室へ――。禅宗寺院の正式な建築法である七堂伽藍は山門、仏殿、法堂、庫裏、僧堂、浴室、東司で構成されますが、そのうちの一つである浴室は心身を清浄にするための修行の場であり、また信者が僧侶のために風呂を施し、その見返りとして供養を依頼する「施浴」のための施設とされています。妙心寺の浴室は、光秀の母方の叔父にあたる妙心寺塔頭大嶺院住職の密宗紹檢が光秀の菩提を弔うために建立したといわれ、そのため通称「明智風呂」と呼ばれています。妙心寺史には、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変のあと、光秀は妙心寺に現れて白銀10枚を置いて帰ったという記録があるそうで、密宗和尚はその白銀を用いて光秀の死から5年後に浴室を建てて光秀供養の場とし、以後光秀の月命日である毎月14日には「開浴」の札が掲げられて僧侶が入浴して光秀の供養を行い、それ以外の日は「施浴」の札が掲げられて庶民に解放され、供養をすると風呂に入ることができたようです。

f:id:hanyu_ya:20200315012814j:plain明智風呂特別公開の看板

f:id:hanyu_ya:20200315013006j:plain風呂の正面。下段の引き戸が出入り口、中段が温度調節用、上段が明かり取りだそうです。

f:id:hanyu_ya:20200222104941j:plain手前の床に風呂と平行に走っている細長い板の下は排水路で、ここに水が集まるように床が中央に向かって少々斜めに下がっているのがわかります。写真中央部の風呂の右手奥に見える部屋は脱衣所だそうです。

f:id:hanyu_ya:20200315013258j:plain風呂の裏側。井戸の水をここの釜で沸かして、蓋が開いている口から入れます。湯船はなく、サウナのような蒸し風呂形式です。

 

 明智風呂の次は、近くなので妙心寺玉鳳院の特別公開へと向かいました。花園法皇離宮を禅寺に改めたことを起源とする妙心寺臨済宗妙心寺派大本山で46の塔頭がある日本最大の禅寺ですが、その離宮跡が玉鳳院で、したがって山内最古の塔頭寺院である――とのことでしたが、花園天皇にはあまり関心がないため、サクッと見て終了。織田家と武田家の石塔が並んで立っているのはおもしろく思いましたが。

 

 玉鳳院を後にすると、妙心寺北門から出て龍安寺駅まで歩いて嵐電北野線に乗り、終点の北野白梅町まで行ってバスに乗り換え、大徳寺前バス停で下車。ちょうど12時になろうかというところだったので、大徳寺に行く前に腹ごなしをしておこうと思い、雨も降っていて歩き回るのも億劫だったので、バス停から大徳寺総門に向かう途中にあった蕎麦屋に入って昼御飯を食べることにしました。

f:id:hanyu_ya:20200222121205j:plain大徳寺通蕎麦屋「徳寿」で食べた「徳寿うどん」

 

 食事後、大徳寺本坊の特別公開へ。今回は法堂、方丈、唐門が公開されていて、こちらでも狩野探幽の素晴らしい雲龍図の天井画が見られました。妙心寺雲龍図から20年前――探幽35歳の時の作品で、妙心寺雲龍図はまさしく集大成であり、大徳寺の天井画を手掛けた経験があったからこそあそこまで見事な完成度の高い雲龍図が生まれたのだろうと思える作品でした。妙心寺の龍は「八方睨みの龍」と呼ばれていますが、大徳寺の龍は下で手を打つとブルルルという共鳴音がして龍が鳴いているように聞こえることから「鳴き龍」と呼ばれています。

f:id:hanyu_ya:20200315014317j:plain大徳寺特別公開の看板

 

 方丈から法堂に行くあいだには、スリッパではなくクロックスサンダルが用意されていて、そんなことは初めてだったので、何故こんなものを履くのかわからなかったのですが、法堂を見たあとそのまま外に出て唐門を正面から見られるようになっていました。大徳寺の唐門は豊臣秀吉聚楽第の遺構と伝えられ、桃山時代の代表的な建築物であり、国宝にも指定されています。方丈から内側が見えますが、やはり見どころは装飾性豊かな外側。いかにも秀吉好みのきらびやかさで、日光の陽明門を思い出しましたが、これが桃山時代の流行なのだろうと思いました。ともあれ、間近で見られてよかったです。その日は雨が降っていたので、傘の貸し出しもあり、まさに至れり尽くせり。運営の努力に頭が下がる思いでした。

 

 あとで大徳寺でいただいたパンフレットを読むと、興味深いことが書かれていました。この聚楽第の遺構である唐門は、日光東照宮の日暮門の模型となっているとのこと。ならば、陽明門を思い出したのも、あながち的外れではなかったということです。日暮門とは陽明門の別称なので……いつまで見ていても見飽きないことから、そう呼ばれています。また、明治になって明智門があった今の場所に移建されたとのことで、「明智門」とは明智光秀本能寺の変後に母の菩提を弔うため大徳寺に寄進した銀100枚だか金1000枚だかを使って(諸説あり)建てられたと伝わる唐門のことですが、こちらは南禅寺塔頭の金地院に移建されました。金地院にあった伏見城の唐門が豊国神社に移されたためだそうです。まさに唐門の玉突き状態です。

 

 本坊を出るときに御朱印をいただこうとしたら書き置きしかなかったので紙でいただき、次に隣の隣にある塔頭総見院へと向かいました。臨済宗大徳寺派大本山である大徳寺には22の塔頭寺院があり、そのほとんどが非公開のため、行ったことがあるのは、本坊と総見院のあいだにある聚光院ぐらいで、それも仕事で御縁があって訪ねただけでした。その折に狩野永徳の襖絵は見せてもらいましたが。ということで、本坊も総見院も、妙心寺や玉鳳院と同じく、今回が初めての拝観。こちらも御朱印は書き置きでした。通常非公開の寺院は御朱印受付の体制を整える必要がないので対応しきれず、その場でいちいち書いてはいられないのだと思います。

 

 ところで、織田信長の戒名は「総見院殿贈大相國一品泰厳大居士」ですが、それと同じ名であることからもわかるように、総見院は言わずと知れた織田信長菩提寺です。豊臣秀吉が信長の一周忌に間に合うように建立、よって御本尊は織田信長ということになります。今回の特別公開では秀吉が一周忌の法要に合わせて作らせた御本尊像――沈香に彫られた衣冠束帯姿の信長坐像(重要文化財) を見ることができました。制作時期が信長の死後からあまり経っていないことから、生前に近い姿ではないかといわれています。その他、境内には信長一族の墓もありました。

f:id:hanyu_ya:20200315014657j:plain総見院特別公開の看板。「明智光秀と戦国の英傑たち」がテーマの京の冬の旅、光秀の次は信長です。

f:id:hanyu_ya:20200315182601j:plain境内にある織田家の墓。これ以上引けなくて、左右が切れていますが、全部で七つの五輪塔がありました。参道正面に位置しているのは信長の五輪塔ですが、その向かって左にある次男信雄の五輪塔のほうが微妙に背が高いのはどこか不自然で、何か意味があるのではないかと、意図的なものを感じました。

f:id:hanyu_ya:20200315182749j:plain 墓碑案内図

f:id:hanyu_ya:20200315014835j:plain創建当時のままの袴腰付鐘楼(重要文化財

 

 総見院を出て大徳寺境内を後にすると、大徳寺前バス停に戻り、市バスに乗って北野天満宮前バス停で降りて、北野天満宮に行きました。梅が見頃だろうと思ったからです。「お牛さまに願いを!」という展示をしていて、菅原氏を称する加賀前田家から奉納された太刀を5振公開しているというので、まずは宝物殿を見学。ここには源頼光が夢の中で天照大御神から受け取り、それを借り受けた家臣の渡辺綱が鬼の腕を切り落としたという逸話から「鬼切丸」と呼ばれる源家相伝の刀が展示されているので久しぶりに拝んできました。また今回は狩野探幽書の御神號「南無天満大自在天神」も見られたので、おもしろかったです。余談ですが、頼光は摂津源氏の祖なので、明智光秀の先祖になります。そして、頼光の鬼切丸は時を経て源家嫡流筋の新田義貞、続いて義貞を討った斯波高経の手に渡り、高経の子孫である最上家に伝わって、のちに売り出されたものが有志によって買い戻されて北野天満宮に奉納されたそうです(ウィキペディア情報)。

f:id:hanyu_ya:20200315015056j:plain五代加賀藩前田綱紀奉納の太刀

 

 宝物殿を見たあとは本殿にお参り。本殿前には太宰府天満宮の梅と種が同じと伝わる「飛梅」があるのですが、思ったとおり、ちょうど見頃でした。「飛梅」は、菅原道真が九州に流罪になって都の自宅の庭の梅との別れを惜しんで歌を詠むと、梅が道真を慕って彼を追い、太宰府まで飛んできて根付いたという伝説の梅です。その時に詠まれたのが「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春なわすれそ」――。私は時平が好きなので道真が好きではなく、左遷についても藤原北家全盛の時流に逆らうように身分をわきまえず天皇の信頼を笠に着て調子に乗りすぎ周囲の反感を買ったせいなので自業自得だと思っているのですが、この歌は好きで、いい歌だと思っています。

f:id:hanyu_ya:20200315015333j:plain飛梅と梅鉢紋入りの提灯

f:id:hanyu_ya:20200315015639j:plain飛梅と本殿

f:id:hanyu_ya:20200222153131j:plain飛梅は八重梅でした。

 

 お参り後は観梅を楽しみつつ境内を散策し、梅苑に行く前に手前の絵馬所で御朱印授与所を覗くと、令和の限定御朱印があったので列に並んだら、朱印帳に書く列と同じだったので、思いのほか時間がかかり、梅苑に入苑するのがギリギリになってしまいました。

f:id:hanyu_ya:20200315015827j:plain雨上がりの梅と南天

f:id:hanyu_ya:20200315015909j:plain本殿裏の紅梅。残念ながら規模が小さい湯島天神ではこういう風景は拝めません。

f:id:hanyu_ya:20200315020619j:plain本殿裏の白梅

 

 梅苑から史跡に指定されている御土居(秀吉が敵襲や川の氾濫から京都を守るために作った土塁)に抜けられるのですが、御土居への入口は16時で閉まっていて、残念ながら行けず。仕方がないので苑内に戻って茶屋に行き、梅もまだろくに観ていませんでしたが、チケットに付いている券で飲めるお茶とお茶菓子をいただくことにしました。店の前では猿芸をやっていたのですが、時間がなかったので見ることもなく、麩焼きせんべいを梅こぶ茶で喉に流し込んで席を立ち、早足で苑内を巡りました。

f:id:hanyu_ya:20200315020736j:plain梅苑の枝垂れ梅

f:id:hanyu_ya:20200315020857j:plain枝垂れ梅と摂末社

f:id:hanyu_ya:20200222161418j:plain梅苑の白梅

f:id:hanyu_ya:20200315021109j:plain梅苑の紅梅

f:id:hanyu_ya:20200222160044j:plain有識菓子御調進所「老松」の麩焼きせんべい「菅公梅」と梅こぶ茶「香梅煎」

 

 4時20分になると、門が閉まるという案内があったので苑を出て、そのまま北野天満宮を後にし、最寄りの北野天満宮前バス停には行列ができていたので、一つ前の北野白梅町バス停まで歩き、そこから市バスに乗って京都駅へ。特別公開施設3か所でスタンプをもらえばいい「京の冬の旅」のスタンプラリーがコンプリートしていたので、駅構内にある京都総合観光案内所「京なび」に寄って記念品と引き換え。記念品は「京の冬の旅」の文字が入ったエコバッグでした。

 

 そのあと駅前のホテルに戻り、シャンパーニュがメニューになかったので悩んだのですが、また雨が降り始めた上に、ハッピーアワーの設定と宿泊者割引サービスでかなりお得になるので、地下のバーでスパークリングワインとハイボールを飲みながら軽めの夕食。これにて日程終了です。

f:id:hanyu_ya:20200315021445j:plain 北野天満宮でお土産に買って帰り、夕食後のデザート代わりにホテルで食べた「長五郎餅」。秀吉主催の北野大茶会で献上され、この餅を気に入った秀吉が、献上した河内屋長五郎の名を取って「長五郎餅」と命名したそうです。

明智光秀紀行①~称念寺と丸岡城(付・本能寺の変の動機についての一考)

 2020年のNHK大河ドラマは「麒麟がくる」ですが、これが決まったときから、明智光秀関連の史跡とその周辺にある、まだ行っていない式内社はこの年にまとめて訪れることにしたので、今年は1年かけてまわるつもりでいます。「まっぷる明智光秀」も買いましたし。

 

 さて、兼六園金沢城のライトアップを見た翌日は、せっかく北陸まで来たので、一乗谷永平寺でも行こうかと思い、9時半にホテルをチェックアウトし、54分発の特急サンダーバードに乗車。どちらもいつかは行こうと思っていて、いまだに行っていなかったので。公共の交通機関を使うのであれば、福井駅からバスを使うのがいいみたいだったので、とりあえず金沢〜福井の切符を往復で購入して乗りましたが、一乗谷で時間を取られて永平寺の滞在時間が短くなるようなら、またの機会にして違うところに行こうと思ったので、車中で金沢駅の観光案内所でもらってきた福井市周辺のパンフレットを検討。そうしたら、この時間からでは両方は行けないだろうと思って今回はあきらめた称念寺丸岡城がまわれそうだったので、急きょ行き先を変更し、芦原温泉駅で下車して、約10分後に駅前から出発するバスに乗りました。事前にネットで調べたところ、丸岡城へ行くのにバスを使うなら福井駅丸岡駅発で、しかも丸岡駅は特急が停まらない上に、バスの本数も極端に少なく日中に3本ぐらいでアクセスが悪いため、福井駅から40分かけて行くしかないと思っていたので、タイムリー&ナイスな情報で助かりました。やはり地元で得る情報は違います。

 

 芦原温泉駅から20分ほどで丸岡城バス停に到着。ちょうど11時で、天守に行って戻ってくると12時を過ぎると思ったので、まずは腹ごしらえをすることに。 土産物屋を兼ねた「一筆啓上」という店がバス停前にあったので、そこで越前なので名物のぶっかけそばを食べることにしました。私が入ったときは、土産物屋の客だけで、そば処には誰もいませんでしたが、出るときには5組ぐらいいました。

f:id:hanyu_ya:20200229200844j:plain越前おろしそば。石臼で挽いた地元産のそば粉を手打ちしているとのこと。そば粉の割合はわかりませんが、並そばと田舎そば風の2種類が味わえ、シンプルなので、2種の違いとそば本来の味が楽しめました。

 

 食事を済ませると、店の隣に見えている丸岡城天守へ。復元ではない現存天守は全国に12あり、丸岡城はその一つなので、城好きとしてはいつか行こうとは思っていました。――が、柴田勝家の甥が初代城主という地味な城ゆえ、姫路城、彦根城松江城弘前城やらに比べると思い入れが足りなかったため、このタイミングになってしまいました。光秀ゆかりの称念寺が近くになければ、訪れるのはもっと遅くなったかもしれません。何回か行っている彦根城松江城と違って、今度はいつ来られるかわからなかったので、初めて御城印をいただきました。寺社の御朱印と異なり、意味はなく、単なる訪問記念だとは思いましたが。

f:id:hanyu_ya:20200229201008j:plain丸岡城。北陸で現存する唯一の天守。別名「霞ヶ城」。

f:id:hanyu_ya:20200229201106j:plain丸岡城天守正面

 

 次の目的地である称念寺へは丸岡城から公共交通機関では行けないのでタクシーを使おうと思っていたのですが、城内の展示で丸岡城の近くに式内社の国神神社があることを知り、しかも丸岡の地名は当社の祭神から来ているとわかり、到底無視することはできなかったので、城の麓にある丸岡歴史民俗資料館を見学したあと歩いて向かうことにしました。徒歩10分もかからない場所だったので。丸岡城の入場券で入れる場所は民俗資料館の他、「一筆啓上 日本一短い手紙の館」という施設もあったのですが、予定になかった国神神社に寄ることになったので、そちらはスルーしました

f:id:hanyu_ya:20200229201234j:plain丸岡歴史民俗資料館の入口にあった本多成重(六代城主、丸岡藩本多家初代)のかかし

 

 国神神社の祭神は椀子皇子。26代継体天皇が男大迹王と呼ばれて越前国を治めていたころに、倭姫を母として生まれた皇子です。男大迹王は25代武烈天皇が後嗣を残さずに崩御したため、武烈天皇の姉である手白香皇女を皇后として即位し、二人のあいだに生まれたのが29代欽明天皇――33代推古天皇の父親です。

f:id:hanyu_ya:20200229201611j:plain国神神社の鳥居と社号標

 

 社務所でいただいた由緒書きによると、椀子皇子は父が即位する前年に磨留古乎加(まるこのおか)で生まれ、その胞衣を埋めて神明社としたのが当社の起源とのこと。磨留古乎加に降誕した皇子なので「椀子」と名付けられ、長じて湿地帯であった坂中井平野の治水開拓を進めたことにより、国土開発の神――国神として崇められました。

f:id:hanyu_ya:20200229201748j:plain由緒書き

 

 のちに「磨留古乎加」は「丸岡」と表されるようになり、丸岡の地にあった国神神社を遷座して建てられたのが丸岡城です。“岡”という地名が示すように、丸岡は平野の中で独立した小高い丘陵なので、城を建てるにあたって最適な場所だったのでしょう。椀子皇子の生誕地ということは、そこに男大迹王の宮があったということに他なりません。つまり、1500年前の昔からこの地を治めるのに一番適した場所とされてきた――ということです。

 

 福井大地震で倒壊焼失したため、現在の社殿は昭和30年代に完成したものとのことで比較的新しく、建造物としての見どころはないため、本殿に参拝し、社務所御朱印と由緒書きをいただくと、国神神社を後にして称念寺に向かって歩き始めました。30分あれば着くだろうというけっこうな距離でしたが、丸岡城まで戻ってタクシーを呼ぶのも億劫だったので。丸岡城にタクシーは常時いないため、どうしたらいいか一筆啓上茶屋のレジのおねーサンに訊いたのですが、店の入口にある直通電話で呼ぶとのこと。なので、10分歩いて店まで戻り、それからタクシーを呼んで来るまで待って乗っていくのなら、30分歩くのも同じような気がしました。単に体力が要るというだけで。その点、あえて日頃鍛えているわけではありませんが、寺社巡りをしているときには休憩を挟みつつも数時間歩き続けることなどざらなので、大して苦ではなく、また、国神神社は丸岡の肝ともいえる場所だったので、現地情報のおかげで寄ることができて気分もよかったので、わりと上機嫌で歩いていました。古い土地柄ゆえ、途中で他にも興味深い神社に出合えるかもしれないという期待もありましたし。

 

 結局出合えたのは八幡神社ぐらいでしたが、県道10号を歩いていると斜め前方の田んぼの中に神社の鎮守の杜のようなものが見えてきて、方向を考えると称念寺であることは間違いないので、ずいぶん早く目的地が確認できて励まされました。何故寺なのに神社のような鎮守の杜があるのか、新田義貞墓所があるからなのか等々考えながら、坂井警察署を越えたところの交差点で県道を左に曲がり、鎮守の杜の真ん前に建設されている北陸新幹線の工事中の高架橋を左に見ながら数百メートル歩くと、ようやく称念寺に到着。見積もったとおり、国神神社から25分ぐらいでした。

 

 いい機会なので、今年は明智光秀関連の史跡を訪ねながら神社巡りをしようと思い、改めて光秀について調べている中で知ったのですが、称念寺織田信長に仕える前の光秀が家族と共に暮らしていた場所だそうです。ゆかりの地であることをアピールする幟やら看板やらが本堂の前にたくさんありました。

f:id:hanyu_ya:20200229202421j:plain称念寺本堂前。何種類もの幟が立っていました。気合いが入っています。

f:id:hanyu_ya:20200229210421j:plainこんな看板もありました。

 

 称念寺養老5年(711)に44代元正天皇の勅願によって白山信仰の開山である泰澄が建立した阿弥陀堂が起源で、鎌倉時代一遍上人時宗を開くと、その教えを広めるため北陸の地で遊行(布教)をしていた真教上人(一遍の弟子、時宗2代目)によって念仏道場とされ、今に至るとのこと。ということで、現住職はなんと41代目だそうです。このご住職が称念寺叢書というミニ冊子のシリーズを発行していて、事前にホームページでタイトルを見たのですが、何冊か興味深いものがあったので、今回下記の4冊を購入してきました。

 

 『改訂 明智光秀公と時衆・称念寺

 『松尾芭蕉翁と時衆・称念寺ー黒髪伝説を通してー』

 『白山信仰と泰澄大師』

 『明智光秀公夫人熙子さんと時衆・称念寺

 

 「時衆」とは時宗の誤植ではなく、時宗のお坊さんのことだそうです。以下これらの冊子から得た情報によると、称念寺には浪人時代の明智光秀が当寺の住職の世話で寺子屋を開きながら生活していたという言い伝えがあったそうで、長らく証明するものがなく作り話といわれてきましたが、『遊行三十一祖京畿御修行記』という、時宗の総本山である遊行寺の31代住職である同念上人が書き残した業務日誌が残っていて、それによって単なる言い伝えではないことがはっきりしたとのことです。

 

 斎藤道山・義龍父子の戦で、道山に仕える家臣であり彼の正室を出している明智一族として道山側についた光秀は、義龍に主君と居城の明智城を滅ぼされて浪人の身となり、一族は離散しました。叔父光安から明智家再興を託されて落ちる城から逃がされた光秀一家は、称念寺の薗阿上人を頼って美濃から越前に落ち延びました。というのも、その昔、光秀の父である明智光綱亡きあと、母の小牧は姑に嫌われて明智家を出されたため、腰元の竹川の縁を頼って、彼女の伯母が庵主を務める若狭小浜の西福庵に身を寄せていたことがあり、まだ幼かった光秀も母に連れられ一緒に小浜に移って西福庵で過ごし、その西福庵の本寺が称念寺で、そのため竹川が亡くなると称念寺の上人が回向するなど、少なからぬ縁があったからです。そして称念寺に落ち着くと、上人の勧めで門前で寺子屋を開いて日々の糧を得る浪人生活を始めたそうです。そうして10年ほど過ごしたようで、有名な黒髪伝説はその間のエピソードとのことでした。

 

 黒髪伝説とは、とある日、光秀が宴席を設けて接待をすることになったが、その資金がなくて困っていたところ、妻の熙子が黒髪を売って金子を調達し、無事に宴を催し面目を施したという話です。のちに光秀が築城した近江の坂本城跡の近くにある明智一族の菩提寺――西教寺には「月さびよ 明智が妻の咄しせむ」という松尾芭蕉の句碑があるのですが、同じ句碑が称念寺にもありました。光秀は側室を持たなかったので、「明智が妻」といえば熙子のことです。糟糠の妻たる熙子の黒髪伝説を知った芭蕉は、『奥の細道』の旅のあと訪れた伊勢で、弟子である島崎又玄とその妻から貧しいながらも心のこもった接待を受けると、甲斐甲斐しく働く妻を熙子に例えて讃え、二人にこの句を贈り、不遇な生活を送る夫妻を励ましたとのことです。

f:id:hanyu_ya:20200215133746j:plain松尾芭蕉の句碑。「さすが芭蕉翁、ここにも来ていましたか」と改めて敬服しましたが、これだけ度重なれば、もう驚きません。もはや、さすらいの俳人というより、江戸のスーパーマンだと思っているので……。芭蕉に匹敵、あるいは彼を凌ぐのは、伊能忠敬ぐらいだと思います。

f:id:hanyu_ya:20200229204051j:plain句碑近くにあった説明書き

 

 冊子によると、黒髪伝説の詳細は、落ちぶれてしまった明智家を再興するため、斎藤家に代わる仕官先を探していた光秀が、薗阿上人の口添えで、当時越前を治めていた守護大名朝倉家の家臣たちを招いて連歌の会を開くことになり、自身を売り込む絶好の機会を得たのはよかったのですが、寺子屋の収入だけで何分逼迫していたため、客を十分にもてなすだけの蓄えがなく、妻の熙子が黒髪を売って宴の費用を工面し、朝倉家――あるいは朝倉家家臣である黒坂家に仕官が叶った――ということみたいです。

 

 また、称念寺で過ごした10年のあいだには、三女の玉も生まれました。のちの細川ガラシャ細川忠興室)です。よって、称念寺細川ガラシャゆかりの寺でもあり、それゆえにか、ここには光秀とお玉のかかしがいました。ちなみに、長女(荒木村安、のち明智秀満室)は美濃で生まれ、次女(明智光忠室)は美濃から越前に逃れるときに熙子のお腹にいたそうです。

f:id:hanyu_ya:20200229204752j:plain本堂にいた光秀・お玉(細川ガラシャ)父子のかかし

 

 ということで、称念寺元正天皇勅願寺であり、新田義貞の菩提所であり、室町将軍家の祈祷所であるため、武力権力の及ばない安全地帯で、それゆえ新田家の家来が逃げ込むなど、駆け込み寺的なところがあったと冊子には書かれています。称念寺の御本尊は阿弥陀如来なのですが、内陣の厨子の中には新田義貞の像が納められていて、阿弥陀如来像は脇壇に置かれていました。この寺における新田義貞の重要性と、彼の菩提所であることの誇りがひしひしと感じられました。御朱印を書いていただいているあいだに聞いた話では、この像は義貞の生前だか死して間もなくだかに作られたそうで(うろ覚え)、したがって義貞の姿を忠実に写している像とのことでした。称念寺は神社ではなく、あくまで寺なので、ご神像というわけではないようでしたが。

f:id:hanyu_ya:20200229210510j:plain新田義貞墓所

 

 明智氏は、清和源氏3代目の源頼光を祖とする摂津源氏美濃源氏嫡流である土岐氏の支流で、美濃源氏とは摂津源氏の中でも頼光の孫で美濃に土着した国房の血筋をいい、彼の子孫がのちに土岐氏を名乗り、この土岐氏から分かれたのが明智氏です。新田氏は、河内源氏嫡流で、河内源氏の祖は頼光の弟である頼信ですが、頼信の孫である八幡太郎義家が鎌倉将軍家の祖となったので、兄頼光ではなく弟頼信の血筋が源氏の主流となりました。つまり、光秀も清和源氏の血筋だったから称念寺を頼ることにしたのかもしれません。敗れたとはいえ足利氏と並ぶ清和源氏嫡流筋である新田義貞の菩提所であるがゆえに、足利将軍家も手が出せない場所であり、なおかつ清和源氏に対する庇護が期待できるということで――。そうはいっても、相応の伝手がなければ門前払いされかねないので、もちろん個人的な縁があったことが一番の理由だとは思いますが。

 

 以上のようなことを改めて知ると、本能寺の変という歴史的大事件が今までとは違って見えてきました。平安時代、江戸時代、古代に比べると勉強していない時代で、資料および研究書など関連文献をほとんど読んでいないので、そうではないかと想像されるとしか言いようがないのですが……。

 

 本能寺の変が起こったの天正10年(1582)、4年前の天正6年4月に右大臣の任を辞して以降朝廷の官職に就かず散位のままだった信長に、征夷大将軍太政大臣、関白のいずれかの任に就くことが提案されました。いわゆる「三職推任問題」です。朝廷と信長どちらの側から持ちかけられた話なのかは不明ですが、朝廷側の代表である武家伝奏の勧修寺晴豊と信長側の代表である京都所司代村井貞勝のあいだで、4月25日と5月4日の両日話し合いが持たれたことが晴豊の日記『晴豊公記』から判明しています。それから1か月もたたないうちに本能寺の変が起こったので、信長の回答や彼の真意がどこにあったかはわからないままですが、この会談から間もない6月2日に光秀が信長を討ったことを考えると、その理由はこの問題とは無関係ではないと思われます。天下人になるという野心や些末な私怨が理由ではないでしょう。おそらく危機感です。自分個人に対するものではなく、世の中や源氏一族に対しての……。ということで、考えられるのは次のとおり。

 

信長の征夷大将軍就任――真偽のほどはともかく、信長は自らの出自を平氏としています。源頼朝以降、清和源氏が担ってきた征夷大将軍の職を平氏出身の信長に奪われ、源氏(主に清和源氏)の立場が悪くなり、信長が樹立する武家政権(幕府)の蚊帳の外に追いやられ、清和源氏が弱体化することを恐れた。

信長の太政大臣就任――平氏を自称する信長が太政大臣となり、平氏出身太政大臣の悪しき先例である平清盛のように同族ばかりを重用する悪政を行い、今以上に世が乱れることを恐れた。

信長の関白就任――武家出身の関白は先例がないため(豊臣秀吉が初例)、それは旧来の政治秩序の瓦解のように思え、また、信長の行為が将軍を追放したり天皇に譲位を迫るだけでは済まなくなり、いずれ自らが天皇に代わる地位に就こうとするのを恐れた。

 

 足利将軍家が弱体化し武家を統率する力がなくなったため、武士のあいだでは下剋上がさかんになり戦乱の世となりました。そんな乱世を平定させるため、清和源氏の出である光秀は清和源氏嫡流である将軍家の再興をはかり、13代室町将軍義輝が三好三人衆に殺されると義輝の弟である義昭の将軍擁立に力を貸し、将軍家を存続させようとしました。けれども、当の義昭が器量不足で、もはや将軍家には乱れた天下を仕切り直し平穏な世に戻す力はないと見切りをつけると、天下統一に一番近いところにいる信長に仕えて、彼のもとで鬼神のように八面六臂の働きをし、数々の武功を立てました。

 

 ところが、信長の三職推任問題が起こったことによって、征夷大将軍にしろ太政大臣にしろ関白にしろ、極官を得た信長が将来的にやろうとしていることは、自分が目指しているものとは違うということがわかったのではないでしょうか。

 

 おそらく信長は、これまでの既得権力を撤廃することを考えていたと思います――さながら明治維新のように。正親町天皇に対する態度などから想像するに、無条件に天皇を絶対的存在として尊崇していたとは言い難く、日本が諸外国に追いつき、彼らと対等に付き合う先進国家となるためには天皇制は旧い体制で弊害と考え、廃止することも視野に入れていたかもしれません。一方の光秀は、将軍家が栄華を誇った足利義満政権下のような、清和源氏の棟梁がすべての武士を統べ、天皇を頂点とする朝廷を支える平和な世への回帰を望んでいたように思えます。正親町天皇の要請を受けて盧山寺焼き討ちをやめるよう信長に進言し実際に止めさせたのも、光秀が天皇の申し出を重く受け止めたからで、つまり天皇を蔑ろにしていなかったからだと思います。よって、将軍が民間人になり武士が特権階級ではなくなる180度世界が変わった明治の世のような変革は考えていなかったでしょう――武家の名門に連なる血筋ゆえに。

 

 光秀は自分が清和源氏の血筋であることに誇りを持っていたのだと思います。朝倉家は、光秀にとって苦しい浪人の身分から取り立ててくれた恩のある家でしたが、清和源氏嫡流で武士の棟梁である足利将軍家断絶の危機にあたって腰が重く動こうとしなかったので見限りました。信長の家臣となる以前から細川藤孝(幽斎)と懇意にしていたのも清和源氏の血筋同士だったからかもしれません。つまるところ、武士の世というか、清和源氏が武士の棟梁である世を守るために起こしたのが本能寺の変だったのかもしれないと思います。例えれば、新しい時代の波を起こした薩長に対して今までどおりを守ろうとして幕府方の武士たちが抗った戊辰戦争みたいなものです。こういったことは旧体制が破綻しているからこそ生じる、起こるべくして起こる、いわば必然なので、古きが新しきに勝てることはまずありません。時はけっしてとどまることなく、時代は確実に動いているのですから――。流れと同じ方向を向いているものは勢いが違います。流れに逆らうのは気力体力が要り、逆らっても結局は流され、遅ればせながらも流れに乗れればいいですが、力尽き飲み込まれて終わるかもしれしません。それが感覚的にわかっていたというか感じるところがあったから、藤孝らは光秀の誘いに応じなかったのでしょう。

 

 落ちぶれたとはいえ腐っても清和源氏の血筋である光秀と違い、もしかしたら武家出身ですらない秀吉は、信長が天下統一の先に見ていたと思われる実力主義の世の象徴的な存在で、まさに下剋上が正当化され群雄が割拠するという新しい時代の寵児でした。その流れを止めたり引き戻そうとしても、上から下に流れ始めたものは戻ることはないのが自然の摂理です。ストッパーがなければ止まることもありません。光秀は天運というよりも時代に見放されたのだと思います。

 

 義貞の墓所にお参りしたあと、1日6本しかないバスの時間が近づいていたので称念寺を後にし、徒歩10分ほどの最寄りの舟寄バス停からバスに乗り、丸岡駅へ。2時半前に駅に到着しましたが、これから福井に出ても時間的に何も見られそうになかったので、金沢に戻ることにしました。6時前に金沢駅を出発する新幹線の切符を取っていたので、1本早い「かがやき」に変更できればしようと思っていましたが、乗変できず中途半端な時間ができてしまったときのために、短時間で行けるような神社がないか電車移動中にスマホで調べると、小松駅から徒歩7分という式内社を見つけたので、小松駅で下車。莵橋神社へと向かいました。

f:id:hanyu_ya:20200229210659j:plain莵橋神社の鳥居と社号標

 

 当社の祭神は、莵橋大神と諏訪大神。莵橋大神は、神社の所在地である加賀国能美郡莵橋郷の産土神とのことなので、名は不明ですが、この地の国神であり、諏訪大神は建御名方命とその妃神である八坂刀賣命。社伝によれば、建御名方命ことタケミナカタは父の大国主命(オホナムチ)と共に加賀の地に到り、まず洪水を治めて暴風を防ぎ、国土を開拓し、農耕、機械、殖産の道を教えて民衆の生業を助けた後、諏訪の地に赴いたとのこと。『旧事本紀』によれば、タケミナカタの母は越国のヌナカワヒメなので、父のオホナムチは出雲出身ですが、父の北陸経営を手伝って小松一帯の開拓に携わり、それから諏訪に行ったというのは十分にあり得る話で、おそらく神話ではなく史実なのだと思います。

 

 当社にも松尾芭蕉の句碑があったらしいのですが、あとから知ったことで、訪れたときには知らなかったので、残念ながら気づかず。境内社などをひととおり見たあと御朱印をいただき、小松駅へと戻りました。

 

 駅に着くと電車のタイミングが悪く、金沢行きの発車時刻まで30分ほどあったので、駅構内にある加賀白山そばの店に入り、かけそばを食べて時間をつぶすことにしました。次の電車で金沢に戻っても1本前の「かがやき」には間に合わないので、金沢駅に着くと、ホテルに預けた荷物を引き取り、駅ビル内の土産物屋へ。駅弁と、タカラ缶チューハイが見つけられなかったので角ハイボール缶を買い、予定どおり17時55分発の新幹線に乗車。これにて終了です。