羽生雅の雑多話

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「行くとこまで行こうと思う」~坂本龍一と小室哲哉(付・NHK大河ドラマ展「どうする家康」)

 昨日は仕事で日本橋に行ったので、ついでに三井記念美術館で開催中のNHK大河ドラマ展「どうする家康」を見てきました。ドラマでもおなじみの金陀美具足(重要文化財)や、スペイン国王フェリペ三世から贈られた洋時計など久能山東照宮博物館所蔵の遺品がけっこう展示されていて、さらに屏風も小牧・長久手の戦い豊田市郷土資料館蔵の「長篠・長久手合戦図」、関ケ原の戦い大阪歴史博物館蔵の「関ケ原合戦図(津軽屏風)」、大坂の陣東京国立博物館蔵の「大坂冬の陣図」と、全国から有名どころが集められて、主な合戦図が勢ぞろいしていたので見応えがあり、総じてなかなかおもしろかったです。久しぶりにみっちゃんにも会えましたし。徳川家康織田信長豊臣秀吉の三英傑とともに明智光秀の肖像もあり、三英傑像は大徳寺蔵とか高台寺蔵とか久能山名古屋東照宮蔵の実物が見られたのですが、光秀像はいつもの本徳寺の所蔵品で、残念ながら実物の展示は先月末で終わっていて複製でした。でもまあ、仕方がありません、明智光秀の肖像は現状これしかないので……過去の光秀関連展で何回か実物を見ているので(実物と複製の同時展示も含めて)、もはや複製で十分ですが。5時閉館で入場受付が4時半までなので4時過ぎに入館したのですが、じっくり見るには1時間弱では足りませんでした。この展覧会は、東京のあとは岡崎、静岡と巡回し、徳川家康の一生を辿る展示の組み立て方は同じですが、それぞれの地域に合わせて展示内容を変えるみたいなので、岡崎か静岡でまた見てみたいと思いました。美術館を出たあとは、少々夕食には早かったのですが、ディナータイムが始まった直後なら金曜の夜でも予約なしで入れるだろうと思い、近江牛を食べて帰ることにし、滋賀県のアンテナショップ「ここ滋賀」へと向かいました。

 

近江牛ステーキ重。「ここ滋賀」の2階は、以前は近江料理全般の店でしたが、3月に店が変わったそうで、「近江牛もりしま寛閑観ここ滋賀」という店になっていました。最初から近江牛を食べるつもりで行ったので、問題はありませんでしたが。

 

アラカルトで頼んだ牛寿し焼霜仕立て。近江八幡市近江牛・和牛専門精肉店がプロデュースしているとのことで、前より近江牛のメニューが増えていました。

 

 “さて”、本日のBGMは、坂本龍一の「セルフ・ポートレート」――途中で放置していた記事の続きを書くにあたって、レクイエムとしてリピートで流しています。

 

 ほぼ毎年のことですが、3~4月は多忙を極めていました。特に週末は何かしらイベントが入っていて、仕事で京都のついでに長谷寺、翌週は岐阜遠征、翌週はさいたまスーパーアリーナ世界フィギュア、翌週は新宿で送別会のオールナイトカラオケ、翌週は花見で長野遠征、翌週は赤坂で送別会、翌週は仕事関係の懇親会、翌週は歓迎会で、その翌日からゴールデンウィークに突入し、ようやくひと段落つきました。そんなこんなでブログの記事を書く余裕は時間的にも体力的にもなく、インスタにやや長めのキャプションを付けて写真を何枚かアップするのが精一杯(昨年10月からインスタグラムを始めています)。途中、疲労明智研究ができないストレスで体調を崩し、仕事を二日ほど休む羽目になったため、GWはまったく外出の予定はなし。カレンダーどおりに働いて溜まった仕事をこなし、休みの日は家に籠って明智研究に没頭。遠征以外のイベントも、5連休の前日に仕事を昼で切り上げて六本木で昼間からシャンパーニュのボトルを開けながらトリュフ料理を食べたぐらい。とはいえ、調子に乗って2軒目でもシャンパーニュのボトルを開けたので、気が付けば関西旅行に匹敵する散財になっていましたが。

 

「アルティザン ドゥ ラ トリュフ」のホワイトアスパラガスとトリュフのプレート。注文したコースメニューには入っていませんでしたが、すすめられたのでアラカルトで追加。この季節のホワイトアスパラガスはスルーできません。しかも大好物のトリュフ乗せですし。

 

スタッフがテーブルに持ってきたトリュフ。日本でトリュフを使った料理といってもグラインダーで挽かれた粉状のものが散らされて香り付けに使われている程度のものが多く物足りないのですが、この店は思っていた以上に厚めにスライスしてくれました。

 

 ということで、はや1か月以上前のことになりますが、教授こと坂本龍一氏が3月28日に亡くなりました。享年71歳。闘病中であることは知っていたので、年末の配信コンサートが「コンサートとしては最後かも」と友人と話したりしていましたが、まさかそれからこんなに早く訃報を聞くことになるとは思いませんでした。1月に幸宏さんが逝ったばかりでしたし。もしかしたら仲間の死の報せが、懸命に病と闘っていた龍一氏の気力の糸を断ち切ってしまったのかもしれません。

 

 小学生の頃から好きだった最愛のミュージシャンであるデヴィッド・ボウイの喪失を経験しているのでその時ほどの衝撃はありませんでしたが、坂本龍一というミュージシャンは私にとって特別な存在だったので、やはり数日腑抜けた状態になり(一年で一、二を争う多忙な日々の真っ最中に……)、しばらく「音楽図鑑」や「未来派野郎」など、彼のアルバムばかり聴いていました。何しろデヴィッドに会わせてくれた人ですから……。デヴィッド・ボウイのことも、デヴィッド・シルヴィアンのことも龍一氏に存在を教えてもらい、彼らの音楽を聴くようになりました。

 

 そればかりではありません。NHK-FMの「サウンドストリート」というラジオ番組の火曜のパーソナリティを務めていたことから、同番組の他の曜日のパーソナリティだった佐野元春を知り、山下達郎を知り、彼らの音楽を知りました。龍一氏がアレンジャーだったから大貫妙子の音楽を知りました。そして佐野元春から大瀧詠一山下達郎から竹内まりや、またそこからその先へと、私の音楽世界は瞬く間に広がりました。つまり、私にとって坂本龍一は国内外の音楽への窓口であり、まさしく“教授”だったのです。ダンスミュージックとデヴィッド・ボウイを中心とした洋楽及びその延長線上にあるYMOぐらいしか聴いていなかった私に日本のミュージシャンのよさを知るきっかけを与えてくれたのは坂本龍一だったといっても過言ではないかもしれません。デモテープ作成なんかしたのも龍一氏の影響でしたし。

 

 音楽的には、ラルクSMAPほど好きな曲が多くあるわけではないけど、ラルクSMAPより好きな曲があるという位置付けのミュージシャンでした。その筆頭が「セルフ・ポートレート」で、前にも書きましたが、おそらく10年以上、12月31日から1月1日にかけて聴いていました。好きすぎて、この曲で一年を終わりたい、新年の一番最初に聴くのはこの曲がいいと思っていたからです。この曲が収録されている「音楽図鑑」、そして「未来派野郎」は龍一氏のソロアルバムの中でも傑作だと思っています。

 

 しかし、それ以上の名盤が、やはり映画「戦場のメリークリスマス」のサウンドトラックと「コーダ」でしょう。サウンドトラックは最初から最後まで曲だけでなく並びも含めて非の打ちどころがなく、私はこのアルバムだけは曲を飛ばしたり途中から聴くことができません、「音楽図鑑」や「未来派野郎」は好きな曲しか聴かなかったりするのですが。この曲から聴かないとこの曲の盛り上がりが味わえないというような構成になっていて、良さが半減します。有名な「戦メリ」のメインテーマはシルヴィアンのボーカルが入った「禁じられた色彩」も含めて大好きなのですが、サントラの中で聴くと、それすら物語を彩る多くの曲の中の一曲にすぎないと思えるほど、全編の流れが見事で素晴らしいです。そのサントラ曲をピアノで演奏したのが「コーダ」。最後の配信コンサートで龍一氏が戦メリをピアノで弾いていましたが、「コーダ」はあの演奏が聴ける名盤です。

 

 ……という感じで、“さて”から上記のあたりまでは一気に書いたのですが、途中で終わっていて、あまりに時間が経ってしまったので、もうアップしなくてもいいかと思っていました。ところが、本日例によって1週間ほど溜まりまくった新聞を読んでいたら、5月7日の朝日新聞の文化面に、てっちゃんこと小室哲哉氏が教授について語ったインタビュー記事が載っていて、それがとても共感できるもので、自分の思いも書かずにいられなくなったため、遅きに失した感はありますが、この記事を完成させることにしました。

 

 その新聞記事の中で、てっちゃんは自分にとっての教授は「憧れて、ひたすら劣等感を感じ続ける存在」であり、「これほど意識させられ、感情を揺さぶられた人はいない。ただ一人、飛び抜けた存在」であると明かしています。そして、以下のようなことを語っていました。

 

「教授はプログラミングのように曲全体を構想し、コントロールできる範疇に置いて、暴走はしない。それぞれの楽器でどういう音を鳴らすのが一番生きるかを複合的に考えて、一瞬で構築できる。僕は直感的」

「ピアノやシンセサイザーをツールとしてどう使うかを考えていた。そしてシンセサイザーで人の心を動かすことができた。音色は元々決まっていて出せる音の幅が少ない。この楽器を使って人の心を揺さぶるのは奇跡に近い。教授はその奇跡を何度も起こしていた」

「あとはやっぱり、たたずまいの格好良さは抜群でしたね。ファッションにヘアスタイル、立ち方と弾き方。知性をパフォーマンスとしてみせるうまさもあった」

 

 ……もう本当におっしゃるとおりで、自分の思っていることを的確に表現してくれていたので、改めててっちゃんを見直しました。彼がメジャーデビューしたときに組んでいたTM NETWORKは「GET WILD」のヒットまでは大好きなユニットだったので、大衆迎合化以前は坂本龍一の音楽に通じるものがあったからこそ好きだったのかもしれない――と思いました。インターネットが普及する少し前に、てっちゃんは教授と「これから音楽配信が来る」という話をしたそうです。そのとき教授は「僕は行くとこまで行こうと思う」と言っていたそうで、てっちゃんも同じことを考えていて、「時代に対する感覚や認識、音楽の進化の予見に関しては、すごく似た考えを持っていたと思います」とも語っているので、二人のあいだには確かに通じ合うものがあったのでしょう。

 

 また、記事の終わりで、こうも言っていました。

「生きるのがすごく苦しいと思うこともあるけれど、教授の死によって、改めて考えさせられた。「死にたい」なんて言って投げだそうとしたら、きっと教授は「小室君は思考することすら拒絶するのか」と激高するだろうと思った。同時に、亡くなった71歳という年齢が、人生の長さの基準になってしまったようにすら思える。僕はあと7年でその年齢になる。7年後の自分が鏡に向き合ったとき、教授と同じように、きちんと立っているような存在にならないといけない。そう思うようになりました」

 

 龍一氏の寿命が「人生の長さの基準になってしまった」というてっちゃん。「世界のサカモト」とはまた違った意味で日本の音楽史に残る稀有な成功者でありながら、そこからの転落と挫折を味わい、人生における天国と地獄を知るてっちゃんの言葉だからこそ余計に心に響くのかもしれませんが、その気持ち、ものすごくよくわかります。

 

 私自身も最近は着々と、人生の終わりがひたひたと近づいてきているような気がしています。自分が送る毎日にそれほど変わりはないのですが、自分の思いなど関係なく、容赦なく変化していく周囲がそれを教えてくれます。そして気づいたときには、昔は難なくできたことが億劫だったり、いつのまにかできなくなったりしていました。いろいろなことに興味がありすぎて飽くなき探求心で退屈を知らない人間でしたが、ついに足る時が近いような感じもします――けっして欲したすべてをやり遂げたわけではないのですが。坂本龍一という巨星の死は、そんなことを考えさせられ、突きつけられた出来事でした。

 

 教授、人生に彩りをありがとう。Rest in Peace