羽生雅の雑多話

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熊本神社遠征&明智光秀探訪8 その2~藤崎八旛宮、阿蘇神社

 三日目は、今回の旅の三つの目的の一つである阿蘇神社へ行くことにしていましたが、乗るつもりでいた熊本発9時9分の特急あそぼーい!の特急券が満席で買えず、買えたのが2時間半以上遅い11時45分発の特急あそ3号だったので、その前に行けるところがないか調べ、検討した結果、熊本市内の藤崎八旛宮に寄ることにしました。八幡宮ということは祭神は応神天皇なので、特に疑問もないため訪れるつもりはなかったのですが、調べたら鶴岡八幡宮より古い御鎮座1000年以上の旧国幣小社だったので、足を運んでみることに。ということで、当初の予定より30分ほど遅い9時にホテルを出発し、辛島町駅から市電に乗って水道町駅まで行き、白川沿いを15分ほど歩くと到着。

f:id:hanyu_ya:20201025235050j:plain藤崎八旛宮の鳥居。神職が入ってしまいましたが、これはこれで聖域らしい清々しい朝の美しい光景だと思いました。

 

 藤崎八旛宮は、承平5年(935)、平将門藤原純友の乱の平定を祈願して61代朱雀天皇の勅願により石清水八幡宮を勧請したのが起源。八幡宮の総本社は宇佐神宮で、宇佐神宮が遠いため平安京遷都後の貞観元年(859)に都の近くに勧請したのが石清水八幡宮なので、宇佐神宮の孫みたいなものです。

f:id:hanyu_ya:20201025235217j:plain藤崎八旛宮の本殿

 

 お参り後に御朱印をいただき、その後いつものように境内を見てまわると、清原元輔の歌碑があったので驚きました。元輔は、四条大納言こと藤原公任が選んだ三十六歌仙の一人であり、すなわち都でも名高い歌人で、都のド真ん中にいる一条天皇の皇后である中宮定子に仕えた清少納言の父親なので、「何故こんなところに……?」と思って説明書きを読むと、元輔は肥後守としてこの地に着任し、その間に藤崎宮で「子の日の松」の行事を催し、歌碑の歌はその折に詠んだものとのこと。当時においては鄙と呼ばれる遠国の地にあっても歌人としての心を忘れなかった老いた三十六歌仙に感慨深いものをおぼえました。続いて、71代後三条天皇の時代に力士として活躍した郡司を祀った境内社に遭遇。朱雀天皇に続き、清原元輔後三条天皇という、馴染み深い平安摂関期の歴史人物の名が次々と現れるので楽しくなり、来てみるものだと思いました。その他、灰塚社という、これだけ神社巡りをしていても見覚えのない珍しい石祠にも出合えたので、なかなかおもしろいところでした。

f:id:hanyu_ya:20201025235428j:plain清原元輔の歌碑と説明書き。歌碑の歌は「藤崎の軒の巌に生ふる松 いま幾千代の子の日過ぐさむ」。細川幽斎の母は清原氏の出なので、元輔の歌碑が残されているのは、そのへんの事情によるのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201025235655j:plain「相撲道の神様」である日田永季を祀る日田社。永季は豊後国日田一帯の郡司だったそうなので、それゆえ“日田”社なのだと思うのですが、藤崎八旛宮のホームページにある説明によると、旧肥後藩士である財津氏が祖神を豊後から勧請したため、当地に社があるとのことです。

f:id:hanyu_ya:20201025235744j:plain日田社についての説明板。永季は16歳の時に宮中行事である相撲の節会に初出場し、以後49年の生涯において15回召された天覧相撲で連続全優勝を果たしたそうです。

f:id:hanyu_ya:20201026000112j:plain灰塚社。石祠は数多く見ていますが、これだけ立派な寄棟造りの屋根を持つ石祠は記憶にありません。

f:id:hanyu_ya:20201026000341j:plain灰塚社についての説明。いつごろ建てられたのかはわかりませんでしたが、石祠の祭神が火産霊神軻遇突智で、火災除けの神というのは納得でした。石は木のように燃えないので(笑)。

 

 藤崎八旛宮を後にすると、まだ時間的に余裕があり、来たときと同じルートを使うのはつまらないので、参道から熊本電鉄藤崎宮前駅の前を通る道に出て、坪井川へと向かいました。川に突き当たって左に曲がり、川沿いを歩いていると右手に熊本城が見えてきたので橋を渡り、稲荷神社に参拝。そのまま坪井川沿いに熊本城を眺めつつ歩き、行幸橋を越えたところにある書物櫓跡の熊本城記念碑を見たら、熊本城に向かう人並みに逆らって進み、花畑町駅から市電に乗車。

f:id:hanyu_ya:20201026000639j:plain熊本城馬具櫓。石垣が崩れて建物の下が抜けた状態ですが、なんとか持ちこたえています。

f:id:hanyu_ya:20201026000604j:plain熊本城記念碑。痛々しいです。

 

 熊本駅前駅で市電を降りてJR熊本駅に着くと、まずは予約した切符を券売機で発券し、次に駅ビル内にあるコンビニで駅弁を調達。それでもまだ時間があったので、改札口近くにあるスタバでコーヒーを買ってからホームへ。

f:id:hanyu_ya:20201026201504j:plain熊本駅で買った駅弁「肥後牛とろ玉しぐれ」。コロナ禍のせいか、販売している駅弁の種類も数量も少なく、あまり選択肢がありませんでした。置いてあるだけでもありがたいのかもしれませんが。

 

 定刻どおりに出発し、13時7分に宮地駅に到着すると、宮地駅から阿蘇神社バス停に停まるバスの情報が得られなかったので、徒歩で阿蘇神社に向かいました。20分ほどで到着しましたが、ゆるやかな下りで、帰りはしんどそうだったので、阿蘇神社から戻るときはバスで阿蘇駅に出ようと思いました。登りだと時間も20分以上かかりそうだったので。

 

 阿蘇神社は肥後一宮で、式内社の中でも格の高い名神大社でもあります。現在の主祭神神武天皇の孫である健磐龍命――なのですが、元々は阿蘇山御神体として祀ったのが起源だと思います。火山の噴火は山の神の怒りと考えられていたので。富士山、浅間山榛名山鳥海山なども同じです。神の怒りを鎮めるために祭祀が行われ、仏教の伝来を機に寺院のように社殿を建てて神事を行うようになり、神社が建てられたのです。おそらく、この地を開拓した健磐龍は、原始的な祭祀場を創設して阿蘇神を祭神として祀り、祭祀を始めた祭主だったのだと思います。祭主が死して神となり一緒に祀られ、のちに元々の祭神に代わって主祭神となるのはよくあることで、健磐龍も彼の死後に彼が行ってきた祭祀を受け継いだ息子の速瓶玉らによって阿蘇の開拓神として祀られると、健磐龍自身が祀っていた阿蘇神と同等の神となり、長い年月のあいだに阿蘇神に取って代わる位置付けとなったのでしょう。もしくは、人間に災厄をもたらす阿蘇神を封じる神としての役割を期待されて、故意的に後世の人々によって主祭神に祭り上げられたのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20201026201805j:plain南参道の入口に立つ阿蘇神社の社号標

 

 阿蘇神社の参道は正面ではなく南北に延びる横参道なので、南参道から入ると左に楼門が現れるのですが、楼門は熊本地震で完全倒壊し、復旧は修繕というレベルではないため、現在は楼門全体が工事用の素屋根で覆われていて、その壁面に被災前の大写真が貼られています。被災前の楼門は、鹿島神宮筥崎宮と並ぶ日本三大楼門の一つであり、フィールドワークを兼ねて数年のうちに見に行くつもりだったので、柱が崩れてぺしゃんこになり、屋根が折り重なるようになった姿をニュースで見たときは唖然として言葉もなく、やはり見たいものはさっさと見ておくべきだと痛感しました。その時の自分のショックがけっこうなものだったので、確実にそれ以上であろう地元の人々の落胆はいかほどのものかと想像し、楼門がなくても必ず近いうちに参拝しようと思っていました。――ということで、今回満を持して訪れた次第です。熊本城と同じように、今の阿蘇神社も今後は見ることがない(と信じたい)稀少な状態だと思いましたし。

f:id:hanyu_ya:20201026201843j:plain現在の阿蘇神社の楼門。素屋根の壁面に被災前の大写真が貼られていて、その前に賽銭箱が置かれていました。

f:id:hanyu_ya:20201026202034j:plain復旧工事中の阿蘇神社本殿

f:id:hanyu_ya:20201026202132j:plain仮設の参拝所

f:id:hanyu_ya:20201026202231j:plain参道にある御神水「神の泉」。北参道の延長線上にある門前町の通りにも湧き水の水飲み場である水基がたくさんあり、水基巡りをする参拝客で賑わっていました。

 

 肥後国式内社は全部で四つあり、健磐竜命神社、阿蘇比咩神社、国造神社、疋野神社なのですが、健磐竜命神社と阿蘇比咩神社の二座は現在の阿蘇神社で今回訪れ、玉名の疋野神社にも何年か前に行っているので、阿蘇神社と同じく阿蘇にあり、健磐龍の息子である速瓶玉を祭神とし、阿蘇神社の北に位置するため阿蘇北宮とも呼ばれる国造神社をクリアすれば全部まわったことになるので行きたかったのですが、水基巡りの門前町通りの終わりにあった案内板によると、同じ阿蘇といえどもそこから歩いて1時間以上はかかりそうだったので、断念。ならば、阿蘇駅行きのバスの時間が10分後に迫っていて、これを逃すと熊本に戻る電車も1本逃し1時間20分ほど待つ羽目になるので、急いで通りを引き返して南参道の入口にあるバス停に行き、定刻より2、3分ほど遅れて来たバスに乗車。すると、そのバスが宮地駅前経由だったので、バス停二つほど悩んだ末、帰りは指定席のない各停電車なので、阿蘇山の玄関口である阿蘇駅よりも手前の宮地駅から乗ったほうが座れる可能性が高いかもしれないと思い、予定を変更して、宮地駅前バス停で下車。

 

 阿蘇駅から乗るつもりだった電車の宮地駅の発車時刻は5分早い15時1分で、阿蘇駅まで見込んでいたバスの所要時間が短縮でき、30分ほど待ち時間があったので、駅構内にあるカフェ「エレファントコーヒー」で、コーヒーを飲むことにしました。カウンター席を確保して、先払いなので、キャッシュカウンターに行きメニューを見ると、1日限定20杯という阿蘇水出しコーヒーというものがあり、まだ用意できるというので、そちらを注文。どんなに暑くてもコーヒーはホットが美味いと思っている人間なので、アイスコーヒーは無料であってもめったに飲まないのですが、阿蘇の水が美味しいのは出水神社や阿蘇神社の御神水を飲んで感じていたので、チャレンジしました。水出しだからいいのか、使っている水が美味しいからいいのか、コーヒー専門店のコーヒーだからいいのか理由は不明でしたが、ガムシロップなしのストレートで飲んでもいける味でした。時間が経つと普通の薄いアイスコーヒーになったので、氷を断ればよかったと思いましたが。

 

 3時10分前に店を出て、5分前にはホームへ行き、豊肥本線の上り電車に乗車。特急電車を使った行きと違い、帰りは短い区間を各停で走るローカル電車を乗り継いでいくので、肥後大津駅で乗り換えなければなりませんでした。

 

 豊肥本線は旧豊後国の大分と旧肥後国の熊本を繋ぐ電車ですが、阿蘇肥後大津間は熊本地震による被害のため今年の8月7日まで不通で、8月8日に運転が再開され、これによりようやく全線復旧となりました。つまり、それまで熊本から電車で阿蘇神社を訪れることはできなかったのです。8月の下旬に熊本城の特別公開その他の情報を得るために銀座熊本館に行ったときに、豊肥本線の全線開通を知り、電車で阿蘇まで行けるのなら熊本からの日帰りでも阿蘇山頂まで足を延ばせるのでラッキーと思っていたのですが、コロナ禍の折に特急電車が満席になるようなことがあるとは、よもや思わず……。なるべく阿蘇での滞在時間が多く取れるように熊本泊の中日で天気予報が晴れの日にわざわざ阿蘇行きを設定したのですが、結局当初の予定どおり阿蘇神社だけ訪れて、熊本に戻ることになりました。まあ、三つの目的の一つが無事に果たせたので、よかったのですが。

 

 各停電車を乗り継いで2時間近くかかって熊本駅に到着すると、時刻は5時過ぎで、これから向かえば6時までには着けるので、市電で辛島町駅まで行き、そこから歩いて3分ほどの桜町バスターミナルへと向かいました。というのも、前日「青柳」で料理を待ちつつ、くまモンスクエアについて調べているときに、バスターミナル内にくまモンビレッジというものがあることを知ったからです。桜町バスターミナルは昨年9月にオープンしたので、したがってくまモンビレッジも1周年で、ショップ限定の1周年記念グッズもあるとのことだったので、時間があれば寄りたいと思っていました。

 

 くまモンビレッジ1周年記念限定フリクションボールペンなど、いくつかのくまモングッズをゲットすると、ショップの隣にあったオープンスペースのくまモン装飾のカフェコーナーへ。メニューを見ると、くまモンカレーなど気になるものがあり、食事をするには中途半端な時間だからか客が一人もいなかったので、のんびりと早めの夕食が摂れるかと思い、入ることにしました。……なのですが、感染予防対対策でショップと同じくカフェも6時までの時短営業で、残念ながらフードメニューはラストオーダーが終わっているとのこと。ならば仕方がないので、やはり1周年記念メニューの気になったカフェラテだけを注文することに。

f:id:hanyu_ya:20201026222911j:plain1周年記念メニューのステンシルラテ。ラテアートでくまモンビレッジ仕様の探検家コスのくまモンが描かれています。

 

 ホテルはバスターミナルから歩いて5分ほどのところだったで、食べ損ねたくまモンカレーの代わりに何か食べてから戻ろうと思い、6時10分前にカフェを出て、地下1階のレストラン街へと向かいました。せっかくなので熊本らしいものが食べたいと思い、けれども馬肉は苦手なので、他に何かないかとキョロキョロしていると、創業60年の熊本ラーメンの店――「黒亭」があったので、前日に続いてですが、熊本ラーメンを食べることにしました。あとはもうホテルに戻るだけなので、レモンサワーも注文し、ジョッキで出てきたサワーを飲んでラーメンを食べたら追加で注文した餃子が入る余地がなかったので、テイクアウトで用意してもらってホテルに戻り、その日は終了です。