羽生雅の雑多話

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京都寺社遠征 その3~岩屋神社、霊山歴史館(付・山城国名神大社及び飛鳥坐神社考)

 12月京都遠征の最終日は、山科の岩屋神社に行きました。

 

 11月の京都遠征の最終日、帰りの新幹線の予定を早めることができなくて、醍醐寺のあと何処へ行こうか悩み、スマホで近郊を調べたところ、この神社を見つけました。不覚にも今まで知らなかったのですが、なんと二つの巨石があるとのこと。前回もとても行きたかったのですが、どう考えても時間がかかりそうだったので日を改めることにし、その時は昔行ったことがあり、さして時間がかからないことがわかっている勧修寺及び隋心院を選んだ次第です。

 

 何故時間がかかるかというと、交通アクセスがよくないということもありますが、巨石がある岩屋神社の奥之院は現在の本社の後ろにある山の中腹にあるからです。いうまでもなく、巨石は神社以前の古代祭祀の跡である磐座なので、したがって、これこそが岩屋神社の大本であり、よって奥之院に行かなければ意味がなく、そして山に登るとなると、どうしたって時間はかかります。

 

 ということで、ホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらい、JR線で山科駅まで行き、山科駅から大宅行きの京阪バスに乗って終点で降り、大宅バス停から10分ほど歩くと岩屋神社に着きました。

f:id:hanyu_ya:20200116115912j:plain岩屋神社鳥居

 

 まずはお参りをして御朱印をいただき、境内を一巡して摂末社を確認したあと、奥之院へと向かいました。

 

 川崎大師京都別院の前を通って左に曲がり、案内板に従って右に曲がって山に入り、しばらく登ると、奥之院の石碑と「岩屋皇大神」と書かれた朱色の鳥居群が現れ、陰岩の前に到着。そこからさらに左上に登っていくと、突き当りに陽岩があります。本社から歩いて20~30分といったところですが、山道なのでそれなりにキツイです。

f:id:hanyu_ya:20200116115632j:plain山道を登っていくと途中に岩屋神社奥之院の石碑があります。

f:id:hanyu_ya:20200116115708j:plainしばらく朱色の鳥居の参道が続きます。

f:id:hanyu_ya:20200116115809j:plain岩屋殿前に到着すると、まず陰岩が現れます。

 

 岩屋神社の現祭神は天忍穂耳命、栲幡千々姫命、饒速日命。参拝のしおりによると、饒速日命天忍穂耳命と栲幡千々姫命の皇子で、別名「天火明櫛玉饒速日命」とのこと。――であるならば、『ホツマツタヱ』でいうところのニギハヤヒではなく、クシタマホノアカリということになります。クシタマホノアカリ=櫛玉火明はオシホミミ=忍穂耳とタクハタチチヒメ=栲幡千々姫の息子ですが、ニギハヤヒ饒速日はクシタマホノアカリの弟ニニキネ=瓊々杵の息子であるホノアカリ(クシタマホノアカリとは別人で、彼の甥)の子なので、したがってオシホミミとタクハタチチヒメにとっては曾孫にあたります。クシタマホノアカリは飛鳥を治めていましたが、子がないまま亡くなったので、甥の子であるニギハヤヒがその跡を継いだのです。

 

 本社の現祭神は三柱ですが、奥之院である岩屋殿は二つの磐座から成るので祭神も二柱で、陽岩に祀られているのが天忍穂耳命、陰岩に祀られているのが栲幡千々姫命です。どちらにも表示がありましたが、陰陽それぞれの岩の形を見れば、どちらが男神でどちらが女神かは一目瞭然。男神を祀る陽岩のほうが女神を祀る陰岩より上にあることも含めて、とても偶然の産物とは思えない場所でした。岩の形はともかく、山の中腹に存在する磐座の佇まいは、出雲の須我神社の磐座を思い出しました。須我神社の祭神は須佐之男命ことソサノヲと稲田比売命ことイナタヒメで、当社の起源は二人がヤマタノオロチ退治後に夫婦となって住んだ宮の跡といわれています。ということは、同じような磐座がある岩屋神社も須我神社に匹敵する神代の聖跡と考えてよいと思います。

f:id:hanyu_ya:20200116120415j:plain栲幡千々姫命を祀る陰岩

f:id:hanyu_ya:20200116120508j:plain天忍穂耳命を祀る陽岩

f:id:hanyu_ya:20200116120557j:plain実に意味がわかりやすい陽岩の形。

 

 なので、『延喜式』に掲載されている山科神社(式内山科神社)に擬されたこともあるそうですが、現在は否定されているらしく、式内山科神社は山科区西野山にある山科神社ということになっています。

 

 『延喜式』に掲載されている並名神大社の「松尾神社二座」(式内松尾神社)とは現在の松尾大社のことで、松尾大社には磐座があります。同じく、『延喜式』に掲載されている名神大社の「日吉神社」(式内日吉神社)とは現在の日吉大社のことで、こちらにも磐座があります。ならば、『延喜式』に掲載されている並名神大社の「山科神社二座」(式内山科神社)とは、やはり磐座がある岩屋神社こそがふさわしいように思えます。磐座の有無以外にも、岩屋神社は山科一宮といわれる郷社で山科神社は村社だったという現実的な社格差、さらには実際に両社を訪れた印象を踏まえても、岩屋神社のほうがいかにも名神大社らしく思えました。

 

 ……なのですが、『延喜式』の成立時期を考えると、延喜の帝こと醍醐天皇外戚である宮道氏の地位を格上げし確立すべく、彼らが本拠地である山科において氏祖ヤマトタケルとその子ワカタケルを祭神として奉祀する山科神社を名神大社に列した――という説も捨てきれません。というのも、名神大社である平野神社桓武天皇外戚の祖神を祀る神社であり、同じく名神大社である梅宮大社と自玉手祭来酒解神社は仁明天皇外戚である橘氏氏神を祀る神社だからです。ゆえに、古代祭祀場の跡である岩屋神社のほうがどんなに山科神社より名神大社にふさわしくても式内山科神社の当該社であるとは言い切れないため、どちらが式内山科神社かは不明――ということにしておきます。とはいえ、磐座がある以上、山科神社より岩屋神社のほうが縄文・弥生史研究において重要で、神代の聖地であることは間違いありません。

 

 岩屋殿の祭神であるオシホミミとタクハタチチヒメは、『ホツマツタヱ』でいうところのハコネカミ=箱根神とスズカノカミ=鈴鹿神で、その長男であるクシタマホノアカリはアスカキミ=飛鳥君――すなわち“飛鳥に坐す神”であり、次男のニニキネはワケイカツチノカミ=別雷神です。

オシホミミ     箱根神  箱根神社祭神   現祭神名:天忍穂耳命

タクハタチチヒメ  鈴鹿神  椿大神社祭神   現祭神名:栲幡千々姫命

クシタマホノアカリ 飛鳥坐神 飛鳥坐神社祭神  現祭神名:天照皇大神

ニニキネ      別雷神  賀茂別雷神社祭神 現祭神名:賀茂別雷神

 

 クシタマホノアカリ=櫛玉火明は、『日本書記』では「天照国照彦火明命」、『先代旧事本紀』では「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」の名で登場します。そして、天照国照彦火明命は鏡作坐天照御魂神社の祭神です。すなわちクシタマホノアカリ=天照御魂神で、天照御魂神は略すと天照神であることから、天照大神天照大御神、天照皇大神として祀られている神の正体が実はクシタマホノホノアカリであることも多くあります。飛鳥坐神社もその一つで、境内に御神体と思われるものも含めてたくさんの陽石が存在するのも、さらには天下の奇祭と名高い「おんだ祭」――子孫繁栄を願い、夫婦和合の様子を再現する神事――が行われてきたのも、子を生まない后を変えてまで熱望したにもかかわらず子宝に恵まれず己が血筋を残せなかったクシタマホノアカリを祀っているからなのだと思います。

 

 一方、クシタマホノアカリの弟で、ニギハヤヒの祖父であるニニキネは別雷神ですが、別雷神とは賀茂別雷神のことなので、つまり賀茂別雷神社上賀茂神社)の祭神です。何故ニニキネが上賀茂神社に祀られ、その上賀茂神社が山城一宮であるかというと、彼が山城国を造った祖神だからです。

 

 『ホツマ』によれば、祖父である八代天君アマテル=天照の許可を得て国土開発に励んだニニキネは、ヤマクイに琵琶湖の西の山の後ろの土地を開拓するように命じました。そうして拓かれたのが現在の京都盆地で、山の後ろだからヤマウシロ=ヤマシロ=山背と呼ばれ、京都盆地が王城の地となった平安京遷都以後は「山城」の漢字が使われるようになりました。

 

 ということで、ニニキネは山城国の祖神ですが、ニニキネの命を受けて実際に土地を拓いた国土開拓神はヤマクイ=山咋なので、彼も「大山咋神」という祭神名で琵琶湖の西の山――京都盆地の東の果てに祀られて日吉神となりました。さらに、大山咋神は盆地の西の果ての山にも松尾神として祀られていますが、こちらはワカヤマクイ=若山咋のことだと思います。

 

 ワカヤマクイは、十代天君ニニキネの命を受けてヤマシロを開拓した人物ではなく、十二代天君ウガヤフキアワセズ=鵜葺草葺不合の命を受けて、高野川と賀茂川が出合い鴨川となる河合国で別雷神の祭祀に奉仕していたタマヨリに、皇子の乳母として出仕するように促した人物です。そうして宮中に入ったタマヨリは、のちにウガヤフキアワセズの寵愛を受けて御子を生み立后し、彼女が后となってから生んだ皇子――カンヤマトイハワレヒコ=神日本磐余彦は神武天皇となりました。それゆえ、初代天皇の両親であるウガヤフキアワセズとタマヨリは賀茂御祖神として賀茂御祖神社下鴨神社)に祀られ、天皇家に篤く信仰されたのです。その後、大和の平城京から山城に都を遷して平安京を建都した桓武天皇の二人の皇子――平城天皇嵯峨天皇平城京平安京に分かれて争い(いわゆる薬子の変)、嵯峨側が勝利して平安京が都として確定すると、嵯峨天皇は皇女を賀茂御祖神社の祭祀に奉仕させました。それが賀茂斎院の始まりです。

 

 ヤマクイとワカヤマクイの関係性は『ホツマ』からはわからないのですが、『古事記』によると、大山咋神の兄弟である羽山戸神の子が若山咋神とのこと。ウガヤフキアワセズはニニキネの孫なので、ヤマシロの開拓神であるヤマクイと、タマヨリをウガヤフキアワセズの宮に連れていったワカヤマクイは、世代的に考えても伯父と甥の関係ということでよいと思います。

 

 ウガヤフキアワセズは、最初の妃がイツセ=五瀬を生んで亡くなったあと、遺された乳飲み子を育てるため、乳の出がよいと民のあいだで評判のヒヱ=日枝(比叡山)の麓に住む姫――タマヨリにワカヤマクイを勅使として遣わし、彼女を自分の宮に召し出しました。乳の出がよかったということは、ちょうどその頃タマヨリが子供を生んでいたということです。その子はミケイリ=御食入といい、シラハノヤ=白羽の矢が飛んできてタマヨリが孕んで生まれた子――ということになっています。けれども、そんなことは実際にはありえません。よって、「白羽の“矢”」というのは『古事記』でいうところの「鳴鏑を用つ神」の比喩表現と考えるのが妥当です――「鳴鏑」とは鏑“矢”のことなので。そして、この神は「葛野の松尾に坐し」と書かれているので、松尾神である大山咋神――つまり、ウガヤフキアワセズの勅使を務めたワカヤマクイということになります。勅使だったからタマヨリと懇意になったのか、はたまたタマヨリと懇意だったから勅使に任じられたのかはわかりませんが。

 

 ところで、名神大社とは、古来霊験が著しいとされ、国家祭祀である名神祭に与る神社のことで、『延喜式』の神名帳には計226社が挙げられています。そのうち山城国にあるのは16社で、『ホツマツタヱ』等を通してわかる本来の祭神や背景について考えると、何故重要視されたのかが見えてきます。16社の概要は次のとおり。

 

賀茂別雷神社

――ニニキネ山城国の祖神、十代天君)を祀る。

賀茂御祖神社二座

――ウガヤフキアワセズ(ニニキネの孫、十二代天君)タマヨリ祀る。

貴布祢神社(現・貴船神社

――トヨタ(ウガヤフキアワセズの母)を祀る。

鴨川合坐小社宅神社(現・河合神社)

――タケツミ(タマヨリの父、トヨタマの弟)を祀る。

三井神社

――イソヨリ(タマヨリの母)を祀る。

乙訓坐大雷神社

――オシホミミ(ニニキネの父、九代天君)を祀る。

⑦許波多神社三座

――オシホミミ(ニニキネの父、九代天君)を祀る。

松尾神社(現・松尾大社)二座

――ワカヤマクイ(ウガヤフキアワセズの勅使)を祀る。

⑨稲荷神社(現・伏見稲荷大社)三座

――オオトシクラムスビ(ヤマクイの父、ワカヤマクイの祖父)を祀る。

⑩葛野坐月読神社(現・月読神社)

――アヨミタマ(ニニキネの叔父)を祀る。

木嶋坐天照御魂神社

――アヒミタマ(ニニキネの叔父)を祀る。

⑫自玉手祭来酒解神

……54代仁明天皇外戚橘氏氏神を祀る。

⑬梅宮坐神(現・梅宮大社)四座

……54代仁明天皇外戚橘氏氏神を祀る。

⑭平野祭神(現・平野神社)四座

……50代桓武天皇外戚の祖神を祀る。

⑮山科神社二座

……60代醍醐天皇外戚・宮道氏の祖神を祀る?

⑯天津石門別稚姫神社 ※当該社不明につき詳細不明

 

 ⑥乙訓坐大雷神社の祭神は火雷神ですが、同じく火雷神を祭神とする神社に、北野天満宮の摂社である火之御子社があります。当社は、菅原道真北野天満宮に祀られるより以前に天満宮の地に存在していた神社で、火雷神を祀る地に祀られたので、道真は雷神と結びつけられた――とも考えられています。……ではあるのですが、火之御子社の社名である「火之御子」は、おそらく元々は「日之御子」なので、火雷神とはアマテルの子でニニキネの父であるオシホミミと考えてよいかと思います。前にも書いたおぼえがありますが、戸隠神社火之御子社の現在の主祭神は天鈿女命ですが、元々は配祀神である天忍穂耳命主祭神だったと思われます。だから栲幡千々姫命と高皇産霊命が一緒に祀られているのでしょう――オシホミミの母と祖父なので。つまり、ヒノカミ=日の神、アマヒカミ=天日神といえばアマテルのことで、それゆえ子のオシホミミは日の御子であり、孫のニニキネはアメノミマゴ=天御孫と呼ばれるのです。ということで、別雷神が火雷神の子であるという話は、神話というフィクションではなく、紛れもない事実――すなわち歴史ということになります。

 

 話を遠征記に戻すと、岩屋殿から山を下ってきて本社に戻り、岩屋神社を後にして大宅バス停に行くと、ちょうどバスが行ったばかりだったので、地下鉄東西線椥辻駅まで歩くことにしました。岩屋神社の次はどうするか決めていなかったので、歩いているあいだにあれやこれやと考え、12月14日なら大石神社で何かやっているのではないかと思い至ったので、椥辻駅バス停からバスに乗り、大石神社に行ってみることにしました――なんといっても赤穂浪士討ち入りの日ですから。

 

 何かどころか、スマホで調べると、やはり義士祭をやっていたのですが、いつのまにか混み合っていたバスの乗客のほとんどが大石神社バス停で降りたので、混雑のほどが予想されて行く気がしなくなり、そのままバスに乗って三条京阪に出て、東山の京都霊山護国神社の近くにある霊山歴史館へ行くことにしました――勝海舟没後120年ということで「龍馬と勝海舟をめぐる人々」という展示をやっていたので。

 

 バスを乗り換えて、最寄りの東山安井バス停で降りたあと、岩屋神社界隈には食事ができるような店もなかったので昼食を摂っていなかったのですが、3時前でお腹も空いてきたので、そろそろ何か食べようかと思いながら護国神社に向かって歩いていると、左手に「一休庵」という普茶料理の店を発見。表の札が営業中になっていたので、竜宮門を思わせる入口を通って店の玄関に入り、奥から現れた人に食事ができるか訊いてみると、できるというので、遅いランチにすることにしました。

f:id:hanyu_ya:20200118230503j:plain一休庵入口

 

 口頭でメニューを聞き、加茂茄子の田楽と胡麻豆腐付きのコースというのをオーダーすると、二階の座敷に通され、時間が大幅にずれていたためか、部屋には誰もいない上に、火灯窓からは八坂の塔がよく見えたので、実にのんびりとしたよい時間を過ごさせていただきました。

f:id:hanyu_ya:20200118230542j:plain二階の座敷

f:id:hanyu_ya:20200118230611j:plain座敷の火灯窓から見える八坂の塔

f:id:hanyu_ya:20200118230646j:plain普茶料理の基本コース

f:id:hanyu_ya:20200118230802j:plainプラスアルファの加茂茄子の田楽と胡麻豆腐

 

 食事後、店を出て護国神社へ続く坂を上り、神社の向かい側にある霊山歴史館へ。久しぶりに訪れましたが、海舟の大久保一翁追悼歌とか板倉勝静の詩書とかが見られたので、なかなかおもしろかったです。私は、坂本龍馬西郷隆盛桂小五郎など、薩長を中心とする維新推進派については徳川幕府側の面々に比べると興味がないのでどうでもいいのですが(勝てば官軍で、維新の英雄扱いされた彼らについては残されている史料も多く、世に知られていることも多いので)、家茂の周辺を調べたことで馴染みのある幕臣佐幕派の大名たちに関する見たことのない史料を見ると、自分が思い描いていた人物像が補足されたり、逆に思っていたのとは違うというように裏切られたりして、いろいろと新しい発見があるので楽しいです。

 

 4時半過ぎには霊山歴史館を出て、維新の志士たちのお墓参りにでも行こうかと思いましたが、あいにく雨が降ってきたので、護国神社のお参りだけで済ませ、切り上げて京都駅に戻ることにしました。駅構内のホテルに預けていた荷物を引き取ったあと、宿泊者サービスのドリンク利用券をもらっていたので、ラウンジで無料のコーヒーを飲んで一服してから、伊丹空港行きバス乗り場へ。予定より早い18時10分発のバスに乗り、到着後、空港の1階にある「道頓堀くくる」でハイボールを飲みつつ明石焼を食べ、さらにセキュリティチェック後、「たこぼん」でたこ焼をテイクアウトし、ゲート前の待合室で、充電しつつスマホをいじりながら食べました。一休庵での昼食からあまり時間が経っていなかったのですが、なにしろ食べたのが精進料理だったので、まったく問題なし。そして、ANAの羽田行き最終便で帰り、これにて2019年最後の寺社遠征も終了です。