羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

大阪・奈良神社遠征~枚岡神社、石切劔箭神社、往馬大社

 先週末は金曜に仕事で大阪に行ったので、京都に泊まり、土曜は神社巡りをしてきました。

 
 急きょ年明けに行くことが決まり、せっかくわざわざ大阪まで出向くのだから、初詣を兼ねて廣田神社にでも寄ってこようかと思い、ホテルを検索したら、梅田周辺より昔けっこう泊まっていたリーガロイヤルホテル京都のほうが直前割引で安かったので京都泊にしたのですが、京都に泊まるのなら西宮に行くのは逆流なので、さてどうしようかと思っていたら、品川駅にポスターが貼ってあって、現在京都デスティネーションキャンペーンをやっていることが判明。仕事を終えたあと大阪から京都に移動し、8時前にチェックインして、地下にあるバー「グラナダ」へ行き、シャンパーニュを飲みながら、夕食代わりの野菜サンドをつまみつつ、駅でもらってきたパンフレットを検討しました。
 
 ――なのですが、今回の京都DCの企画はイマイチで、特別公開も興味をそそられず、これといって見たい物、行きたい所がなかったので、結局神社巡りをすることにしました。とはいえ、寒い上に陽も短い季節であり、なおかつスキーで痛めた右足もまだ違和感が残っていて、長時間歩きそうなアクセスが悪いところは避けたほうがよさそうだったので、どこへ行こうか迷いました。そんな理由もあって電車とバスで行ける廣田神社に当初は行こうと思っていたのですが、ならば大阪に泊まったほうがよかったので、今さらその選択はなく、けれども京都も滋賀も奈良も大阪も和歌山も名神大社、旧官幣大社を中心に公共の交通機関で行ける式内社にはほとんど行っているので、悩んだ末、廣田神社同様に重要な神社なので見物に時間がかかるだろうと思い、今まで行っていなかった枚岡神社と、余裕があれば往馬大社に行くことにしました。
 
 2週連続の遠出なので朝からガツガツ動く気力も体力もなく、早起きをするつもりがなかったので、土曜の朝は8時過ぎに起きて、ブランチでアメリカンブレックファーストのルームサービスを取り、10時過ぎにチェックアウト。余計な荷物を預かってもらい、シャトルバスで京都駅まで行き、前回も立ち寄った駅構内のカフェ「チャオプレッソ」でテイクアウトのコーヒーを買い、10時40分発の近鉄特急に乗車。大和西大寺駅で乗り換え、11時半前に枚岡駅に到着。改札を出るとすぐ目の前に鳥居があり、山に向かって参道が続いていました。
 
 枚岡神社河内国の一宮で、名神大社であり、かつ官幣大社でもあるという、きわめて重要な神社なのですが、今まで行かずにいたのは、何故重要か、何故この地に神社があるのかが珍しく明らかだったからです。
 
 当社の現祭神は、天児屋根命、比売御神、経津主命武甕槌命の四神。奈良の春日大社と同じです。御朱印と一緒にいただいた略記によれば、皇紀前三年、神武天皇の詔により、神津嶽に天児屋根命と比売御神の二神が祀られ、その後枚岡の地に奉遷されたとのこと。神津嶽は生駒山地の西側の山で、枚岡はその麓にあたります。ホームページにはもう少し詳しく書かれていて、神津嶽から枚岡への奉遷は白雉元年(650)、神護景雲2年(768)に天児屋根命と比売御神が春日神社(現・春日大社)に祀られ、宝亀9年(778)に武甕槌命と斎主命(=経津主命)を春日神社から迎えて、現在の四神になったとのことです。

イメージ 1
枚岡神社の注連柱。鳥居の古い形です。
 
 ということで、上記のとおりであれば、当社の元々の祭神は天児屋根命と比売御神――になるわけですが、初めは天児屋根命だけで、比売御神はこの神の妻ということで後から一緒に祀るようになったのだと思います。というのも、天児屋根命こと児屋根=コヤネの妻は武甕槌=タケミカヅチの娘で、鹿島神ことタケミカヅチ主祭神とする鹿島神宮、香取神こと経津主=フツヌシを主祭神とする香取神宮とともに東国三社といわれる常陸国の息栖神社の元々の祭神だからです。
 
 息栖神社の現在の祭神は久那戸神とされていますが、『ホツマツタヱ』には、ヒメガミ=比売神が罷るとき、彼女の夫であるコヤネがヤマシロ=山背(山城)にいるので、イキスノミヤ=息栖宮を西向きにしたと書かれています。そして、のちにコヤネが見罷ったときの記事には「ヤマシロノ ヲシホニオサム ヒガシムキ」とあるので、ヤマシロノヲシホ=山城の小塩にヒガシムキ=東向きにオサム=納む――つまり葬ったということになります。また『ホツマ』には、「オシクモハ カハチニユキテ オシホヨリ カスガオマネキ ヒラオカノ ヤシロニマツリ」という文もあるので、オシクモがカハチ=河内に行ってオシホ=小塩よりカスガ=春日を招いてヒラオカノヤシロ=枚岡の社に祀ったことがわかります。「カスガ」とはカスガカミ=春日神の神名を与えられたコヤネのことなので、つまり山城の小塩に東向きに祀られた春日神のコヤネをオシクモが河内に行って祀ったのが枚岡の社――すなわち枚岡神社ということです。
 
 この事実を知ったとき、目から鱗が落ちたような気がしました。ちなみに「オシクモ」はコヤネの子で、オシクモ=押雲なので、当社の摂社である若宮社の祭神――天押雲根命のことです。そして「山城の小塩」は京都の西にある小塩山のことで、それゆえにこの山の麓には武御賀豆智命(武甕槌命)、伊波比主命(経津主命)、天之子八根命(天児屋根命)、比大神(比売神)を祭神とする大原野神社があるのだと思います。コヤネの葬地という聖地なので、たぶん神社ができる前から祭祀が行われていたのではないでしょうか。だからこそコヤネの子孫である藤原氏は、長岡京遷都の後、春日大社から氏神である四神を勧請して祀る場所に、この地を選んだのだと考えられます。何故藤原氏大原野神社を重視したのか――、何故当社はこの地にあるのか――いずれも理由があり、神社の存在には筋が通っていることを知ったことで、他の神社に関してもおそらくそういう歴史や背景が存在し、根気よく調べていけばわかるのではないかと思ったので、その思いに突き動かされて今も神社巡りを続けている次第です。

イメージ 10
春日神を枚岡に祀った初代祭主であるオシクモを「天押雲根命」という祭神名で祀る枚岡神社の摂社、若宮社。
 
 本殿にお参り後、枚岡神社の大本である神津嶽本宮に行こうと思ったのですが、枚岡梅林から通じる道が通り抜け禁止になっていたので、境内に戻って御守り授与所で訊いたら、反対側の道を大回りして行かなければならず、歩いて40~50分かかるとのこと。枚岡神社を訪れたら神津嶽まで行かなければ意味がないと思い、時間がないと行けないので、今まで来るのを後回しにしていたのですが、スキーで痛めた足で1時間弱も山を登る自信がなかったので、今回は断念しました。途中で歩けなくなったりしたらシャレになりませんから。
 
 ということで、本宮行きをあきらめたため、枚岡を出るときはまだ1時ぐらいだったので、来るときに看板を見かけた石切劔箭神社に寄ることにしました。行くべきところとして頭に入っていなかったのですが、スマホで調べたら式内社だったので。
 
 枚岡駅から二駅の石切駅で降り、まずは生駒山に向かう高台のほうにある上之社へと向かいました。後から登るのはしんどいので。当社の御祭神は饒速日尊と、その息子である可美真手命。神社でいただいた参詣のしおりによれば、紀元2年に生駒山中の宮山に饒速日尊を祀ったのが起源であり、その後崇神天皇の時代に下之社に可美真手命が祀られたとのことです。宮山の祭祀跡が現在の上之社で、下之社が現本社になります。

イメージ 2
石切劔箭神社上之社の鳥居。枚岡神社とは打って変わって新しいです。

イメージ 3
石切劔箭神社上之社の本殿。保存のためとはいえ、ガラス張りは気がそがれます。
 
 饒速日尊は、『古事記』では「邇芸速日命」、『日本書紀』では「櫛玉饒速日命」の表記で登場し、『ホツマ』では「アマテラス“ニギハヤヒ”キミ」と呼ばれる神のことです。「アマテラスニギハヤヒキミ」を漢字で表せば、ニギハヤヒ饒速日なので、「天照らす饒速日君」といったところでしょうか……実に意味深な名です。彼はコノハナサクヤヒメ=木花咲耶姫が生んだニニキネ=瓊々杵の三つ子の長男であるホノアカリ=火明の子で、ニニキネの兄であり、飛鳥を治めていたアスカヲキミ=飛鳥大君――クシタマホノアカリ=櫛玉火明に子どもがなかったため、その跡を継ぎました。そして、クシタマホノアカリの重臣だったフトタマ=太玉の孫であるミカシヤ=御炊屋を妻にして生まれたのがウマシマチ=可美真手です。その後、ニギハヤヒ、あるいはウマシマチは九州から大和に攻め上がったカンヤマトイハワレヒコ=神日本磐余彦(のちの神武)に屈し、クシタマホノアカリから受け継いだ天君の証である十種の神宝を献上して臣従しました。これが物部氏の祖です。ということで、『記紀』を読めばニギハヤヒ・ウマシマチ親子の顛末はわかり、『ホツマ』を読めば彼らの系譜も明らかなので、フィールドワークをしたところで目から鱗が落ちるような発見はないだろうと思っていたため、当社のことは頭に入っていなかったのでしょう。それよりも気になるのはクシタマホノアカリです。アマテル=天照の姉であるヒルコ=昼子や、皇后であるセオリツヒメ=瀬織津姫と同じく、『記紀』から消された神ですから……。
 
 とはいうものの、今回当社を訪れたことで、元々はニギハヤヒの葬地を起源としているのではないかという新たな考えは生まれました。生駒山地はクシタマホノアカリ、次いでニギハヤヒが治めた飛鳥の国境で天然の砦であり、ニギハヤヒに仕えるナガスネ=長髄と、飛鳥を征服しようとするカンヤマトイハワレヒコが激しい攻防を繰り広げた地です。よって、もしその戦のさなかでニギハヤヒが死んだのなら、一番近くて高い山である生駒山に葬られたと思います。そして、そうであるのならば、オシクモによってコヤネが小塩山から枚岡山に遷されたのは、神上がって神となったニギハヤヒを見張らせるためだったのではないかとも思います――現世に悪影響を及ぼす荒神にならないように。
 
 上之社を見てまわったあと、わりと急勾配の坂道を下って本社に向かったのですが、途中に通った石切参道があまりに怪しすぎてビックリしました。高野山も下界とは違うアナザーワールドだと思っていますが、ここもまた別の種のアナザーワールドでした。どこかに迷い込んだような錯覚すらあって、一人では立ち止まる勇気もありませんでした。
 
 なので素通りし、本社に行ったのですが、ここもアナザーワールド。すごい人で、本殿前ではお百度参りをする人が数珠つなぎで百度石をグルグルまわっていました。お参り後、御守り授与所を見て、御朱印授与所がある崇敬会館で正月限定の御朱印をいただいたあと、境内をまわって摂末社や本殿の造りなどをチェックしつつ写真でおさえるという、いつもと同じ、きわめて問題のない動きをしていたのですが、人がいることを失念していて、お百度参りを横切ってしまいました。私のように歴史的に重要な式内社だからいろいろ確認して調べたいという理由で訪れた人間には、なんとも居心地の悪い空間でしたね。境内社の前で立ち止まってじっくり見られないし、ざわざわしていて長居をしたいところでもなかったので、さっさと切り上げて往馬大社に行くことにしました。往馬大社の最寄り駅は生駒線の一分駅なのですが、生駒線の始発駅である生駒駅へは奈良線の他、けいはんな線でも行けるので、石切駅ではなく反対側の新石切駅へと向かいました。石切参道は疲れが倍増しそうで通りたくなかったので――。

イメージ 4
石切劔箭神社本社。本殿前にいるのは、ほぼお百度参りの人です。

イメージ 5
石切劔箭神社本社の本殿。上之社と同じくガラス張りの覆屋に覆われた状態ですが、まだマシな佇まいでしょうか。亀甲形の色が変わっている部分は、昨年九月の台風でガラスが落下して、とりあえず応急処置をしているからだそうです。
 
 往馬大社は、今回訪れた中で一番神社らしい、よい神社でした。生駒山御神体とする古社で、祭神は伊古麻都比古神と伊古麻都比売神の二神でしたが、鎌倉時代八幡神神功皇后の父母が祀られ、現在は七神となっています。往馬大社の正式名称は往馬坐伊古麻都比古神社で、その意味は“往馬にいる伊古麻都比古神の社”なので、元々の祭神は伊古麻都比古神だけで、伊古麻都比売神も後から祀られたのだと思います。

イメージ 6
往馬大社の鳥居。注連柱の名残もあります。
 
 ところで「伊古麻都比古神」という祭神名ですが、これは個人名ではありません。「都」は国津神の「津」と同様に格助詞である「の」と同じなので、“イコマの男神”ということです。同じく、伊古麻都比売神は“イコマの女神”という意味ですが、ではそれが誰なのかというと、現時点では不明です。往馬大社に行く前は、生駒を守って戦ったナガスネとその妹にあたるミカシヤではないかと考えていたのですが、今回の訪問で、ニギハヤヒとミカシヤという可能性もあるのではないかと思いました。というのも、石切劔箭神社も往馬大社もニギハヤヒにゆかりのある生駒山の麓にある神社ですが、石切劔箭神社は式内小社で、飛鳥大君であるニギハヤヒを祀る本社としては社格も低く規模も小さいので、式内大社であり神社としての規模も大きい往馬大社のほうがニギハヤヒの本社にふさわしいように思えたからです。ナガスネを祀っているとすると、臣下であるナガスネを祀る往馬大社が大社で、主君であるニギハヤヒを祀る石切劔箭神社が小社ということになり、それはおかしい気がするので……。

イメージ 7
往馬大社本殿(左から)。神の社はかくあるべきだと思います。

イメージ 8
往馬大社本殿(右から)

イメージ 9
七祭神名。その土地の守護神とされる産土神は、他所から遷されてきた神ではなく、最初からそこに祀られた土地に縁が深い神なので、この地に住んでいた、あるいはこの地を治めていた人物が伊古麻都比古神ということになります。ナガスネかニギハヤヒか、はたまた二人以外の別の者か……歴史研究というより完全に謎解きです。
 
 考察および検証はこれからになりますが、往馬大社はニギハヤヒの宮跡で、よってイコマを治めた君として「伊古麻都比古神」の名で祀られ、死後生駒山の西麓に葬られると、息子のウマシマチが父ニギハヤヒを祀ってその地で祭祀を行うようになり、さらにその西にある宮では、降伏後に神武から預けられた布都御魂剣を祀って祭祀を行うようになり、のちにニギハヤヒの葬地跡に建てられたのが石切劔箭神社上之社で、布都御魂剣を祀っていた宮跡に建てられたのが下之社なのではないかと想像しています。
 
 ちなみに、布都御魂剣とはタケミカヅチが出雲を平定したときの剣で、クシタマホノアカリの三人目の妃であるアメミチの兄タクリの子であるタカクラシタ=高倉下から神武に奉られました。ウマシマチの死後、十代崇神天皇の時代になると、布都御魂剣は石上神宮に遷され、そちらで祀られるようになったので、布都御魂剣を祀っていた石切の宮では祭主であるウマシマチが祭神に格上げされて、今に至っているのではないでしょうか。よくある祭主の祭神化です。よって、最初は剣を神として祀っていたので、それゆえ社名が石切“劔箭”神社なのだろうと思います。
 
 御朱印をいただき、境内を一巡して一分駅に戻ると、そろそろ3時になろうかという時間だったので、いつもより早かったのですが、これにて神社巡りを終えることに。時間的には生駒聖天ぐらいなら行けそうでしたが、さすがに右足が限界でした。スマホの電池も切れかかっていたので、潔くあきらめ、充電したかったので、帰りも大和西大寺から京都まで特急を使うことにしました。
 
 予定より早く京都に帰ってきたので、みどりの窓口で1時間早い新幹線に乗車変更し、シャトルバスでホテルに行って荷物を回収。再びシャトルバスで駅に戻ると乗車時間までまだ20分ほどあったので、いつものようにタカラ缶チューハイを買ったあと551蓬莱の行列に並び、今回も間に合って豚まんとシューマイをゲット。17時19分発ののぞみ38号に乗車し、遠征終了です。