羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

夜の梅

 とらやの羊羹ではありません。昨日、偕楽園の夜梅祭に行ってきました。水戸が一年で一番賑わう日ではないでしょうか。


 東風ではなく北風が吹く3月にしては寒い日でしたが、晴天で気温が低く、空気が澄んでいたので、青空も満月前日の月もさやかで美しく、昼も夜も素晴らしい観梅日和でした。ただし風が強かったので、夕方から花粉症の症状が悪化して、かなり厳しい状態ではありましたが。まったく困ったものです。昔は、梅、桜、藤を中心によく花見に行ったのですが、花粉症のせいで激減し、花を愛でる機会もめっきり少なくなりました。梅を見に行ったのも何年か前の北野天満宮以来で、久しぶりでした。

イメージ 2


イメージ 3


イメージ 4


イメージ 5


イメージ 6

 水戸は2回目なのですが、前回は常陸国の式内社巡りが主目的だったので、常陸三宮である吉田神社に寄っただけで、水戸徳川家関連は完全にスルー。何故なら、拙著『武蔵野の露と消ゆとも~皇女和宮と将軍家茂』を読んだ方の中にはお気づきの方もいらっしゃるか思いますが、私は斉昭・慶喜父子があまり好きではないので。日本三大庭園に数えられる金沢の兼六園、岡山の後楽園にはさっさと行ったのに、水戸の偕楽園に今まで行っていなかったのはそのためです。梅の名所は他にもあるので、夜梅祭というイベントがなければ行かずに終わったかもしれません。しかし今回は斉昭が開園した偕楽園を訪れるのがメインなので、挨拶がてら偕楽園隣にある斉昭を祭神とする常盤神社に参拝し、斉昭が開校した水戸藩の藩校である弘道館にも行ってきました。これらを巡ると、斉昭の人柄云々はともかく、今の水戸は彼が残した遺産で成り立っていることがよくわかりましたので、水戸市民が烈公を愛するのは当然だと思いました。自分たちが住む町の基礎を築いた英雄ですから。

イメージ 1

 ところで、弘道館公園の孔子廟鹿島神社のあいだ、弘道館至善堂の裏にあたる場所には、要石歌碑というものがあるのですが、それは大きな2本の楠に挟まれています。帰ってきてネットで調べたら推定樹齢300年ぐらいらしく、つまり、弘道館が建設される前――この場所が水戸城三の丸であった頃から存在した木ということです。明らかに鳥居のような気がしました。

 神域との境目――結界をあらわす鳥居は、8世紀頃に今の形が生まれたとされていますが、それ以前は木と木のあいだを縄で結ぶ形でした。今でも参道の終わりの左右に巨木の二本杉が見られる神社がたくさんありますが、大半はその名残でしょう。これは圧倒的に杉の木が多いのですが、楠の鳥居があってもおかしくはないと思います。楠を御神木としている神社はけっこうありますし、厳島神社の鳥居は楠で作られているとのことですから。

 そして、3月11日は東日本大震災が発生した日でした。地震津波の他、原発事故の被害もあって、いまだに多くの人々が苦しんでいる福島県の陰で見落とされがちですが、偕楽園がある茨城県も県北部、太平洋沿岸部を中心に大きな被害を受けました。昨日は偕楽園でも震災について触れる園内放送があり、14時46分、花見客たちも1分間の黙祷を捧げました。

 私も1本の梅の木の前に立ち、梅の木と相対して黙祷し、それまで大勢の客で賑わう周囲で聞こえていたざわめきがほとんど消えてしんとした、稀有な瞬間を味わいました。

 6年前のこの日この場所にいた花見客もいたでしょう。その人は予期せぬ突然の大揺れでケガをしたかもしれません。地震後の交通の混乱によって遠方から来ていて帰れなかった人たちもいたかもしれません。江戸時代から人々の目を楽しませてきた梅の木の根元も容赦なく揺れて、時代を超えて風雪には耐えてきたけれど、ついに倒れてしまった木もあったかもしれません。弘道館には震災時の被害の様子も展示されていました。目をつぶりながら、人生にはいろいろなことがあり、毎日楽しいことばかりではありませんが、とりあえずのんきに花見が楽しめる身であることに感謝しました。

 ここに改めて、亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。