羽生雅の雑多話

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京都・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪4 その3~谷性寺、篠葉神社、稗田野神社、「麒麟がくる」京都大河ドラマ館

 6月の光秀探訪の最終日――14日の日曜は、光秀の命日なので、首塚がある谷性寺と京都大河ドラマ館がある亀岡を訪れました。

 

 9時過ぎにホテルをチェックアウトして京都駅に行き、亀岡駅で帰りの新幹線の特急券が発券できれば改札を出なくて済むように、中央改札口を入った右手にあるコインロッカーに荷物を預けて、嵯峨野線に乗車。10時前に亀岡駅に到着し、まずは駅構内にある観光案内所に行って「光秀公のまち亀岡一日乗車券」を購入しました。谷性寺最寄りの猪倉バス停までは駅から25分ほどかかり、帰りに国道佐伯バス停で途中下車して式内社の稗田野神社にも寄ると、一日乗車券を買ったほうが安上がりだったので。ついでにバスの時刻を確認すると、あてにしていた臨時便の桔梗シャトルはコロナの影響で運行中止になっていて通常の路線バスだけとのことだったので、なんとかバスを使って効率よく2か所をまわる方法がないかと訊くと、国道佐伯バス停から三つめの運動公園ターミナルバス停まで歩いて別の路線バスで駅に戻ってくるという、旅人ではとても考えつかない方法を教えてくれました。若い頃は時間が惜しかったので観光案内所に寄ることなどなかったのですが、神社巡りを始めてからは駅にあれば必ず寄ることにしています。現地情報は侮れないので。

 

 予定どおり10時22分発園部駅行きのバスに乗って猪倉バス停まで行き、そこから5分ほど歩くと谷性寺に到着。ちょうど11時ぐらいでした。

バス停から谷性寺に続く道に咲いていた紫陽花

谷性寺門前。やはり桔梗紋の幟が立っていました。

 

 谷性寺は不動明王を御本尊とする真言宗大覚寺派の寺。丹波を平定し、亀岡に亀山城を築いた光秀は、谷性寺の御本尊を崇敬したそうです。そのため、山崎の合戦後、従者によって墓碑が建立されたとのこと。思えば、廬山寺にあった光秀の御護仏は地蔵菩薩でしたが、その脇侍が不動明王毘沙門天でした。そして大覚寺派といえば、今は慈眼寺にあるくろみつ像(黒く塗りつぶされた明智光秀坐像)がもともと祀られていた、光秀建立と伝わる周山の廃寺――密厳寺も大覚寺派です。大本山大覚寺には亀山城からの移築と伝わる明智門と明智陣屋があるので、大覚寺派と光秀の関係は深いのかもしれません。亀岡の数ある寺の中でも特に谷性寺とのゆかりが深かったのは、この寺が大覚寺派であり不動明王を本尊としていることと無関係ではないような気がします。

谷性寺山門から本堂

本堂前にある石灯籠。茶道具が彫られているのは初めて見ました。

光秀首塚

境内の庭にいた狸の家族

 

 御朱印をいただいたあと、12時31分発のバスの時間までかなりあったので近くを散策することにし、谷性寺の石垣沿いに歩いていくと、篠葉神社という、貞純親王の創建だという神社がありました。

篠葉神社の社号標と谷性寺の石垣

篠葉神社の由緒書き

 

 当社の祭神は彦火々出見命大山祇命、野椎命。祭主である貞純親王は56代清和天皇の第六皇子で、延喜16年(916)に死去しているので、延喜年間に亡くなった彼が建てた神社が延喜式神名帳に掲載されることはなく、よって篠葉神社は式内社ではありませんが、1000年以上前に建てられた古社であることは確かです。そして貞純親王といえば、源頼光の曽祖父で清和源氏の祖――つまり光秀の祖です。この符合はいったい何なのだろうと思いながら、鬱蒼として暗い境内を見てまわりました。

篠葉神社の鳥居から見る舞殿と本殿

篠葉神社本殿。古い形の鳥居と思われる2本の御神木がありました。

 

 無人の神社なので看板に書かれていた由緒書き以上の情報は得られませんでしたが、参道を侵食するように張り出している石垣との位置関係を考えると、谷性寺は篠葉神社の神宮寺的存在だったのではないかと想像され、光秀がこの寺を尊崇したのは、先祖が創建した篠葉神社の存在も理由の一つではなかったかと思いました。

 

 近隣の観光名所である「ききょうの里」はまだ開園期間ではなかったので他に見るところもなく、湿度が高くてむやみに歩きまわるのもつらかったので、12時過ぎにはバス停に戻りました。すると、行きのバスで3人ほど同じバス停で降りた乗客がいたのですが、そのうちの二人が地べたに座り込んでバスを待っていました。ベンチも何もないバス停なので、気持ちは理解できました。

 

 時間どおりにバスが来たので乗り、国道佐伯バス停で下車し、そこから徒歩5分ほどの稗田野神社へと向かいました。

稗田野神社の鳥居

稗田野神社の説明板

 

 当社の祭神は保食命大山祇命、野椎命。大山祇命と野椎命は篠葉神社と同じなので、この二柱が亀岡の守護神――すなわち、この土地の開拓神なのだと思います。残念ながら考察に至っていないので、正体は不明。大山祇命といえば、アマテルの皇后セオリツヒメの父であるオオヤマズミや、オオヤマズミの息子で、ニニキネの妃コノハナサクヤヒメの父であるカグヤマツミであることが多いのですが、オオヤマヅミ=オオヤマズミ=オオヤマスミ=大山住で、その意味は“山に住んでいる神”、つまり山の管理者であり、固有名詞ではないため、オオヤマズミやカグヤマツミとはまた違う人物である可能性もあります。一緒に祀られている妻の野椎神が鍵ですね。

稗田野神社の舞殿、拝殿、本殿

 

 そして当社は『古事記』編纂者の一人である稗田阿礼ゆかりの神社でもあります。阿礼はこの地に住んでいたと伝わり、境内社稗田阿礼社に祀られています。社ができたのは御鎮座1300年記念の時だそうですが。

稗田阿礼

 

 稗田野神社を後にすると、国道佐伯バス停に停まる次のバスは2時間半後なので、観光案内所で教えてもらったとおり運動公園まで歩くことにしました。その前にひと息入れようと思い、神社の近くにあった大石酒造という酒造メーカーに立ち寄り、売店を併設した御休み処があったので、冷酒を1杯飲むことにしました。コーヒーとかもありましたが、せっかく蔵元で飲むので。

大石酒造。資料館とかもあって見学できます。

頼んだ冷酒。甘口か辛口の二択だったので、辛口を選びました。

 

 休んだおかげで足の疲れは取れたのですが、歩きはじめるとあまりに湿度が高くて、アルコールが入っていたせいか、なかば脱水症状のようになり、15分ほど歩いただけなのに、運動公園ターミナルバス停に着いたときには、いつになくヘロヘロでした。運よくそばに自販機があったので、エヴィアンを買って一気に飲み干しました。

 

 それから5分も経たずに来たバスで亀岡駅に戻ると、亀山城はホームページに県外の人は遠慮してくださいと書いてあったので次の機会にし、京都スタジアム内に特設されている「麒麟がくる」京都大河ドラマ館へと向かいました。

 

 スタジアム1階のフードコートで遅い昼食を摂ったあと2階の特設会場へ行き、券売所でチケットを購入。一日乗車券を見せると団体料金で買えました。検温と連絡先を記入して入場すると、会場内は今回の旅で一番密な場所でした。入場制限されたり展示が見えないというほどではなかったのですが、いる人の数が数えられなかったので(笑)。展示は音楽担当のジョン・グラム氏と衣装担当の黒澤和子氏の話が興味深かったです。

京都大河ドラマ館入口横

 

 見学後、出口が物産館に続いていたので土産物を物色しましたが、坂本のほうが品揃えがよかったので、何も買わずに出ました。昼食を食べたフードコートの店で、私が一番好きな京都の漬物屋である太秦の「もり」が出している光秀パッケージの詰め合わせを発見し買っていたので、それでよしとしました。

麒麟がくる」パッケージの漬物4種詰め合わせ。京都に漬物屋はたくさんあるのに、一番好きな「もり」の商品だったので、何か光秀との縁を感じました。

 

 スタジアムを出たときにはまだ4時前だったのですが、高温多湿の中で歩きすぎたことによる軽い熱中症なのか、はたまた二日酔いなのかわかりませんでしたが、少々頭が痛かったので、京都駅に戻り、帰ることにしました。亀岡にしろ坂本にしろ最終日に京都市中にいないことは確実だったので、余裕を持って19時1分発の新幹線を予約していたのですが、嵯峨野線に乗っているあいだにスマホエクスプレス予約の時間を2時間半ほど早めました。本当に便利な時代です

 

 駅に着いたら荷物を引き取って改札を出て、自動券売機で特急券を発券。さすがに飲食する気がなかったので、タカラ缶チューハイ551蓬莱も買わずに、16時39分発の新幹線に乗車。乗ったとたんに爆睡して、気が付くとはや小田原あたりでした。これにて遠征終了です。

 

 熱心なリピーターもいるらしく日曜日だったこともあり京都大河ドラマ館が一番人が多かったのですが、金曜日に訪れた本能寺は境内に人がいても宝物館に見物客は一人もいませんでした。「餅寅」でも梅宮社でも買い物客や観光客に遭遇することはありませんでした。土曜日に訪れた企画展示中の滋賀院門跡にも拝観客はいませんでした。それでも開館したり営業したりしてくれている状況にありがたいと思いつつ胸が痛みました。混んでいるところは極力避けたい人間ですが、一日も早くコロナ禍が収束し、観光地の店や名所が賑わいを取り戻すことを心から祈念します。