羽生雅の雑多話

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岐阜・京都寺社遠征&明智光秀紀行12 その3~亀山城址、特別展「丹波決戦と本能寺の変」in亀岡市文化資料館、鍬山神社

 最終日の6日は、ホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらうと、京都発9時32分の嵯峨野線の各停電車に乗車。10時に亀岡駅に到着し、駅構内にある観光案内所で亀山城が見学できるかどうかの確認と、文化資料館と鍬山神社の行き方を訊いて地図とバスの時刻表をもらうと、まずは現在宗教法人大本の管轄となっている亀山城址を目指しました。

f:id:hanyu_ya:20210117213653j:plain亀山城の外堀だった南郷池のある南郷公園の明智光秀

 

 歩いて10分ほどで大本の正門に到着すると、敷地内に入り、案内に従ってみろく会館1階にある総合受付に行き、城址を見学するために必要なギャラリーおほもとの入場券を購入。その時に御城印も売っていたので購入し、もう受付に戻ってくる必要はないので、見学を始める前にフロアをうろつくと売店を発見したので寄ってみたら「丹波亀山城明智光秀公―出口王仁三郎の文章・詠歌など―」という冊子が販売されていたので、そちらも購入。

f:id:hanyu_ya:20210117213814j:plain亀山城の御城印と冊子。冊子の表紙にある城の絵は、江戸時代の亀山城で、徳川家康による天下普請で五重の層塔型天守を持つ城に修築されました。

 

 それから、ギャラリーで亀山城に関するVTRが見られるというので2階へ行き、VTR視聴後、ギャラリーで開催されていた特別展示「耀盌」を鑑賞。陶芸家でもあった大本教の教祖、出口王仁三郎が制作した茶碗が展示公開されていたのですが、見たことのない楽茶碗で、ちょっと驚きました。楽焼のイメージを覆す、茶陶の概念を越えた明るく鮮やかな色絵付で、とにかく華やか。亀山城址にある大本教の本部は天恩郷というのですが、まさしく天界を感じさせるというか、パライソを想像させる色合いだと思いました。「パラダイス」ではなく「パライソ」です。命をかけて海を渡り布教に努めたポルトガルの宣教師たちが説いた天国、彼らの熱心な布教活動によって教化されたキリシタンたちが死後に行けると信じて殉教した天国です。そういうものがあると信じる一途な心、どんなに迫害されても持ち続ける篤い信仰心が、天国を茶碗で表現したらこうなると示されたように思いました。楽茶碗としては亜流かもしれませんが、作り手の心がきちんと表現されていて、また見る者にきちんと伝わってくるという時点で、この茶碗たちには紛れもなく存在価値があり、この世に存在する役目を立派に果たしているように思いました。なので、もはや他者が別の価値観をもとに判断を下す茶碗としての良し悪しなどどうでもいいような気がしました。

 

 ギャラリーを後にすると、みろく会館から外に出て、受付でもらったパンフレットの順路に沿って見学。明智光秀丹波統治の拠点として築いた亀山城は、江戸時代になると、天下普請によって五重の層塔型天守を持つ城に修築されました。天下普請とは江戸幕府が全国の大名に命令して行わせた土木事業で、城郭建造は13しか例がなく、江戸城名古屋城大坂城駿府城、二条城など徳川家のための城と、あとは幕府が諸大名に睨みをきかせる上で重要な拠点となる城が天下普請によって築かれました。つまり亀山城はそのうちの一つだったということです。しかし維新後に廃城となり、そのまま管理されずに荒れ果てていたのを、大正8年(1919)に出口王仁三郎が購入し、整備。地面を掘り起し石垣を積み直して大規模な神苑造営を行い、大本教発祥の地である綾部の梅松苑とともに二大聖地とし、現代に至るとのこと。出口王仁三郎は亀岡の出身で、亀山城に格別の思い入れがあったらしく、築城主である明智光秀のことも「名将」と断言しています。購入した冊子には出口王仁三郎の文章がいくつか掲載されているのですが、その中に下記のような文があります。

 

明智光秀は稀に見る名将であったのである。太閤秀吉にあの偉業を遂げさした裏面には光秀の功績を無視することはできない。しかし表面伝わっている歴史では、主殺し親殺しの大罪人の汚名を着ているが決してそんな大悪人ではない。天下の将来を達観して大所高所から身を殺して仁をなした大勇者である。」

 

 この文の最後は「人為の歴史というものは信ずるに足らぬものである。」で締めくくられているのですが、まさにそのとおりだと思います。出口王仁三郎のすごいところは、この文章を言論統制下にある大日本帝国の時代に書いて発表していることです。これでは危険人物として目を付けられても仕方がないと思います。実際に、敬神尊皇報国の大義を唱導する教団でありながら、逆賊無道主殺しの不倫不徳の明智光秀城址を教団の聖地に選ぶとはいかがなものかという批判があったとも書かれていました。また、以下のような分析もしていて、少々長いですが、言い得て妙だと思ったので、引用しておきます。

 

「群雄割拠して権謀術数至らざるなく、陶晴賢はその主なる大内氏を亡ぼし、上杉景勝はその骨肉を殺し、斎藤龍興は父の義龍を討ち、その他これに類する非行逆行数うるにいとまなき時代に際し、独り光秀のこの挙あるを難ずるの大にしてかつ喧ましきは、五十四万石の大名が、右大臣三公の職を有する主人を弑したりということと、戦場が王城の地にしてその軍容花々しく、もって人口に膾炙することの速やかなると、加うるに世は徳川の天下に移り、世襲制度に変ぜしめたる上は、光秀をそのままに付しておくことは、政策上もっとも不利益であったことと、第二第三の光秀出現せんには、徳川の天下は根底より転覆する次第であるから、偏狭なる儒者が光秀を攻撃したのが、今日光秀に対して非難の声が特に甚しいのではないかとも思わるるのであります。」

 

 いろいろな史料が発見されて明智光秀に関する情報が増えて見方が変わってきた昨今ならともかく、大正という時代において明らかだった、限られた事実から見てもこのように思っていた人間がいる――それほどに光秀に対する評価は不当だったのだと思います。けれども、思っていてもそれを口にすることはできなかった――みながみな一宗教の教祖にまでなった出口王仁三郎のようにはなれなかったし、一宗教の教祖である出口王仁三郎に迎合することもできなかったのだと思います。

 

 城址で見学できるのは光秀の手植えと伝わるイチョウの木あたりまでで、そこから先は見学者は立入禁止なので引き返し、花明山植物園へと向かいました。大本の敷地内にあるこの植物園は、昭和26年(1951)に開園。亀山城の外堀だった南郷池に隣接し、その範囲は橋が架けられた中の島まで及び、日本の野生植物を中心に約1000種類が植えられているそうですが、なんとメタセコイアの木までありました。

 

 亀山城址の次は歩いて5分ほどのところにある文化資料館へ行き、特別展「丹波決戦と本能寺の変」を見学。光秀の書状が多く展示されていて、朝倉氏遺跡資料館の講座でも触れられた、光秀が怪我を気づかう小畠永明宛ての文や、福知山市の御霊神社が所蔵するものとはまた別の明智家家中法度などがありました。こちらは山口市歴史民俗資料館の所蔵品で、内容は御霊神社の所蔵品と同じですが、若干語句の異動が見られるそうです。何故山口市歴史民俗資料館に明智家の家中軍法があるのか、山口市周辺から発見されたものなのか大いに気になりました。その他、大津歴史博物館の時と同様に、個人蔵の書状など、丹波国の地元ならではの史料も豊富でした。展示も工夫されていて、主な展示品には解説にQRコードがあって、それを読み込むと亀岡PR特別大使の戦国VTuber明智光秀が出てきて解説してくれたりするのですが、VTuberによる説明があってもその場で理解するのは至難なので、図録を買って確認することに。本展は当館の第35回特別展で、第34回特別展の「明智光秀と戦国丹波丹波進行前夜」の図録もあったので、両方購入しました。

f:id:hanyu_ya:20210119004939j:plain特別展の案内人であるVTuber明智光秀。動物戦国武将占いなどもあり、なかなか手の込んだ展示内容でした。ちなみに、武将占いをやってみたら結果は狼で、竹中半兵衛タイプでした。

 

 資料館を出ると亀岡駅に戻り、12時55分発のバスに乗って、式内社の鍬山神社へと向かいました。13時5分に鍬山神社バス停に到着し、そこから徒歩5分ほどで到着。社務所無人だったので呼鈴を鳴らすと、しばらくして神職の方が現れたので御朱印をお願いし、待っているあいだに御守り授与所を見渡すと、50円で略記を売っていたので購入。

f:id:hanyu_ya:20210117220025j:plain鍬山神社の鳥居

f:id:hanyu_ya:20210117222404j:plain鍬山神社鍬山宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210117221443j:plain鍬山神社八幡宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210117221132j:plain本殿

 

 その略記によると、当社の創建は和銅2年(709)で、祭神は大己貴神応神天皇。神社創建前から祭祀は行われていたようで、大己貴が国土経営に励んでいた往古、丹波国は泥湖でしたが、八柱の神が相談して山を切り拓いて山城方面に水を流して抜くことに成功し、広大な平野が開拓されたとのこと。それによってできたのが保津峡であり保津川で、その徳を尊んで鍬山神を祀り、「鍬山」という祭神名は開削に使われた鍬が山積みになっていたことから名付けられたそうです。――ということはつまり、現在の祭神は大己貴神と、平安時代末期に祀られた応神天皇ではありますが、元々は亀岡盆地の開拓神である八柱の神を鍬山神として祀ったのが起源ということなのだと思います。境内には金山・樫船・高樹神社、日吉神社熊野神社、稲荷疱瘡神社、愛宕神社天満宮厳島社、百太夫神社という八つの境内社があるので、大己貴以外は本社から分けられて、境内社で祀られるようになったのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20210117221914j:plain境内の奥にある鳥居。鍬山神社は当初背後にある面降山の西にある医王渓に鎮座していましたが、慶長15年(1610)に亀山城の城主となった岡部長盛が現在地に遷座したとのこと。行かなかったので鳥居の先はわかりませんが、想像するに面降山で、神社創建以前の古代祭祀においては面降山を御神体として祭祀が行われていたのかもしれません。

 

 金山姫命を祭神とする金山神社カナヤマヒコ猿田彦命を祭神とする樫船神社はサルタヒコ、高樹神社の祭神は「山雷大神」と書いてありましたが、おそらく『日本書紀』に“高木”神として登場するタカキネを祀ったのだと思います。大山咋神を祭神とする日吉神社はヤマクイ、熊野神社は本来熊野神といえばイサナミのことですが、こちらは大己貴=オホナムチの父であるソサノヲを祀ったのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117221817j:plain境内社の高樹・樫船・金山神社日吉神社熊野神社

 

 天満宮の祭神は菅原道真ですが、道真がこの地の開拓神ということはないので、元々はこちらが山雷大神を祀った社だったのだと思います。山雷大神→雷神→天神→菅原道真と変化したのでしょう。愛宕神社の祭神は「火産霊神(稚産日命)雷神」と書かれていましたが、稚産日=ワクムスビは火産霊こと迦具土カグツチの子で、父子といえども両者は別神なので、元々はわざわざカッコ書きで記されているワクムスビを祀った社だったのではないかと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117222727j:plain境内社天満宮愛宕神社

 

 百太夫神社の祭神は豊磐間戸神と櫛磐間戸神。丹波篠山には、この二柱を祭神とする櫛岩窓神社があり、丹波国の四つの名神大社の一つとされているので、丹波国とゆかりの深い神なのだと思います。

f:id:hanyu_ya:20210117223443j:plain境内社の百太夫神社

 

 ということで、おそらく国土開発の神である大己貴神を筆頭に、丹波国に坐す神である豊磐間戸神と櫛磐間戸神、山城国の開拓神である大山咋神丹波と山城のあいだにある愛宕山に坐す愛宕神、道案内の神である猿田彦神中山道を拓いた金山彦神、それと天君の政治を支える国府の神である高木神か、水神の厳島神あたりが亀岡盆地の開拓に関わったとされる八柱の神の正体で、当初鍬山神として祀られた面々ではないでしょうか。

 

 そして現在、鍬山神として祀られているのは大己貴神ですが、元々は大物主神が祀られていて、その正体は初代大物主の大己貴=オホナムチではなく、オホナムチの孫で三代大物主の子守=コモリではないかと思います。何故ならば、亀岡にある丹波一宮の出雲大神宮の祭神は大国主命三穂津姫命ですが、こちらの正体も二代大物主の大国主=ヲコヌシではなく三代大物主のコモリと思われるからです。その理由は、下鴨神社の摂社、三井神社の祭神である伊賀古夜日売命が丹波の神だからです。

 

 伊賀古夜日売命は『ホツマツタヱ』にはイソヨリという名で登場し、子守神ことコモリの娘ということになっています。イソヨリは、父コモリの母で祖母にあたるミホツの推薦で宮中に出仕し、十一代天君の皇后トヨタマの弟であるタケツミに下賜されました。そしてイソヨリとタケツミのあいだに生まれたのが、のちに神武天皇を生むタマヨリです。つまり、丹波神武天皇の外祖母イソヨリの出身地で、それゆえにイソヨリの父コモリと、孫娘イソヨリの出世の道を拓いた祖母のミホツが出雲大神宮に祀られていると考えるのが自然です。とはいえ、これも祭神と祭主の関係で、コモリが父ヲコヌシと母ミホツを祀って祭主として祭事を行っていたけれども、神上がるとコモリ自身が祀られて祭神とされたのかもしれませんが。そう考えると、高樹神社の祭神は、元々は丹波とゆかりの深いミホツだったのではないか――という気もします。ミホツは高木神ことタカキネの娘なので。

 

 さらに略記を読むと、当社は、楽田、油田、八日田、相撲田、馬場田、雑用田、奉射田、華田という8種の社領田を持っていたので、当地名を「八田」といい、のちに当地を賜った源頼政が「八田」を「矢田」に改めたので「矢田宮」とも呼ばれましたが、8種の社領田は明智光秀によって没収されたとのこと。そのため一時衰退しましたが、江戸時代になって亀山城主の岡部長盛が社殿を造営し社田を寄進し、以後は歴代藩主に崇敬されて明治維新を迎え、今に至るそうです。比叡山焼き討ちにおける「なでぎり」もそうですが、この事実からも明智光秀が怪我や病気を気づかう情け深い人物である一方で、容赦のない一面を持っていたことがわかります。

 

 乗ってきた13時4分発の次のバスは14時33分発だったのですが、神社の周辺には何もなかったので、来るときにバスの中から見かけた400メートルほど離れた店に行ってドリンクを買ってきたり、エクスプレス予約で帰りの新幹線を予約したり、文化資料館で買った図録などを読みながら、どうにか時間をつぶし、定刻どおりに来たバスに乗車。一方通行のバスなので行きより時間がかかり、3時前に亀岡駅に到着。新幹線は4時半過ぎののぞみを選び、少々時間的に余裕があったので、サンガスタジアムの1階にある物産館に寄って、クーポンで丹波黒豆の豆菓子を購入。そして亀岡駅に戻り、15時21分発の嵯峨野線の各停電車に乗車。49分に京都駅に到着し、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイと平宗の柿の葉寿司を買い、ホテルに行ってキャリーバッグを引き取ると、手持ちの図録や豆をしまうべくロビーで荷物整理をしてから駅に戻り、16時36分発のぞみに乗車。これにて2020年最後の遠征終了です。

 

 二度目の緊急事態宣言が出されたあと、先週の3連休も今週の土日も終日家に籠っていたので、残っていた昨年の遠征記を書き終えることができました。家にいたらいたで、やることはたくさんあるのですが、正月休みと3連休にブログを書きすぎて肩こりが激しく、吐き気や頭痛に見舞われたので、家にいてもなるべく座りっぱなしは避けて、体操などをして極力動くようにしました。気をつけなければならないのは、コロナだけではありません。

 

 亀山城址については、大本の神域ということでインターネットへの写真掲載が禁止されていたので、説明文や案内図なども載せられないため、記事を書くにあたって改めて調べていたら、緊急事態宣言により来月7日まで再び見学不可となったことを知りました。最初の緊急事態宣言を受けて見学受付休止となったあと再開されたのが10月だったので、見学ができたのは10~12月の三月のみ。本当に行っておいてよかったです。「いつか」なんてないものだと、つくづく思います。