二日目は、明智門と明智陣屋があり、現在春季名宝展を開催中の大覚寺と、光秀の娘である細川ガラシャゆかりの勝竜寺城公園で4月5日まで開催されている企画展を見に行くついでに、山崎の古戦場や、まだ行ったことのない名神大社の自玉手祭来酒解神社に行こうと思っていたのですが、勝竜寺城公園はアクセス方法を確認するためホームページを見たら展示コーナーが閉鎖中ということが判明。新型コロナウィルス対策だろうと思うので仕方がないのですが、さてどうしようかと思い、慌てて特別公開やら寺社情報を調べまくったところ、ゴールデンウィークを過ぎてから行こうと思っていた石山寺と三井寺の観音様の御開帳が始まっていたので、そちらに行くことにしました。
石山寺は東寺真言宗の大本山、三井寺は天台寺門宗の総本山で、どちらも西国三十三所の札所なので、1300年記念行事が始まってから行っているのですが、石山寺は前回の御開帳の時に見た如意輪観音像が素晴らしかったので、機会があればまた見たいと思っていました。また三井寺は、1300年記念の特別印入り御朱印をいただくのと、集めていた「浄土の鳥」を購入するのが目的で訪れましたが、その時は観音様の姿を見ることできなかったので、今年の御開帳は必ず行こうと思っていました。石山寺も三井寺も、稀に特例はありますが、基本的には御開帳は33年に一度で、今度はいつ見られるかわからないので。今回は即位記念の御開帳で、三井寺についてはわかりませんが、石山寺では即位開帳という習いがあり、新天皇が即位した翌年には御開帳が行われてきたそうです。石山寺の場合、「御開帳」ではなく「御開扉」といっていましたが。
石山寺山門
まずは石山寺から行くことにし、9時にホテルを出発して、JR線で石山駅まで行き、京阪電車に乗り換えて、終点の石山寺駅で下車。10分ほど歩いて10時過ぎに石山寺に到着しました。受付で入山料と本尊特別拝観料、そして「石山寺と紫式部」展の入場料が一緒になったセット券を購入すると、境内の建物は以前来たときに見ていて、桜もまだ咲いていなかったので、すぐに本堂へ向かい、御本尊と対面。二度目なので最初の時のような驚きはありませんでしたが、やはり圧倒的な迫力に気圧されるような感じがする観音様でした。それと、今回は内陣に入ってすぐのところに薬師如来像があったのですが、その台座部分の板彫十二神将像が実に見事でした。四面のそれぞれに3人ずつがあしらわれている形だったので、参拝ルートに面した前面と右側しかよく見えませんでしたが。
御朱印は前に来たときに1300年記念の特別印入りでいただいていましたが、今回は即位開帳の特別印も押してもらえるとのことだったので、再びいただいてきました――通常料金300円にプラス100円の追加料金が必要でしたが。
本堂を出ると、続いて「石山寺と紫式部」展を見るために展示会場である豊浄殿へと向かったのですが、その途中、経蔵の近くで、前に来たときには気づかなかったものを発見。
松尾芭蕉の句碑(向かって右の円柱)です。隣は紫式部の供養塔。
「まあ、あのスーパー俳聖がここに来ていないわけはないよな」と妙に納得し、石碑の文字は解読できなかったので、隣にある看板を見れば、「あけぼのは まだ紫に ほととぎす」とのことでした。その立て看板を見た瞬間、「うわぁ~」と心の中で叫び、思わず引いた気分になったぐらい、あまりにベタな感じで秀句とはとても思えませんでしたが、句としての良し悪しはともかく、五七五という限られた字数の中に因縁の平安女流作家二人を入れ込む技は、さすが芭蕉翁だと感服しました。おそらく、“紫”は当寺に籠って『源氏物語』の構想を練ったといわれている紫式部を、“あけぼの”は「寺は石山」と『枕草子』に書いた清少納言を意識したと思うので。
経蔵と豊浄殿あいだにあった、日本最古の多宝塔と散りかけのカンザクラ
豊浄殿の展示を見終わったあとは、時間的にあまり余裕がなかったので石山寺を後にし、次の目的地である三井寺へと向かいました。石山寺山門前バス停からバスで石山寺駅まで行き、京阪電車に乗って三井寺駅で下車。琵琶湖疏水沿いを10分ほど歩いて突き当たると、右に行けば総門ですが、左に行けば観音堂前に出る参道なので、今回は左を選択。入山受付の前に、以前来たときには気づかなかった蕎麦屋があったので、観音堂に行く前に腹ごしらえをすることにしました。境内ではお休み処になっている塔頭の本寿院で、三井寺の巡礼スイーツである朝宮ほうじ茶ロールケーキセットを食べる予定だったので。
「ふじの木茶屋」で食べた「弁慶そば」。写真入りメニューとかはなかったので、何が弁慶なのか注文時にはわかりませんでしたが、とりあえず三井寺ゆかりの人物名を冠しているメニューなので頼んでみたら、力持ちに引っかけたらしい餅とウナギが入っていました。
食事後、受付で特別拝観券を購入し、観音堂へ。三井寺の観音様を見るのは初めてでしたが、こちらも思いがけず素晴らしい像でした。石山寺と同じ如意輪観音ですが、全然違うタイプで、約5メートルある石山寺の像ほど大きさはないので迫力があるというわけではないのですが、とにかく美しい。というか、「これって、三井寺の観音様だったんだ」と思ったぐらい見覚えのある、馴染み深い像でした。かつて読み漁った様々な平安時代関連の文献資料で見かけたので。胡坐を組んで印を結んだり、あるいは持物を手にしている像とは一線を画していて、立膝に肘をついて頬杖をつき首をかしげているという、どこかアンニュイな雰囲気が漂う悩ましげなポーズの傑作でした。
観音堂参道側の入山受付にあった御開帳の看板。実物は撮影禁止なので、こちらを撮ってきました。
ところで、三井寺には「べんべん」という、高野山の「こうやくん」みたいな広報を担う公式キャラクターがいるのですが、文化財収蔵庫の入口に三井寺グッズを扱うショップがあって、そこでべんべんグッズも売っているので、何かおもしろいものがないかと思い、立ち寄ってみたら、以前にはなかった「べんべんおみくじ」のガチャガチャがあって、普通のおみくじと同じ100円で、何かしらべんべんグッズも付いているとのことだったので、試しにやってみました。
「べんべんおみくじ」と、一緒にカプセルに入っていた木製クリップ。べんべんは、三井寺に残る弁慶の引摺り鐘と千団子祭りの亀をモチーフにしているそうです。
まあ100円ならこんなものだろうと思い、1回で終了し、本寿院へ。拝観料と観音堂特別参拝料が一緒になった特別拝観券を買うと、別々に買うより100円安く、また観音堂の書院で行われている西国三十三所草創1300年記念の展示「三井寺の観音信仰と美術」展も見ることができ、さらに、本寿院で100円割引のサービスが受けられました。ということで、当初の予定どおりコーヒーと朝宮ほうじ茶ロールケーキのセットをいただきました。
本寿院の喫茶室内と、朝宮ほうじ茶ロールケーキセット。
一服したあと、三重塔、弁慶の引摺り鐘を見て、金堂を参拝し、そこで時間がなくなったので、その他は省略して三井寺駅に戻り、京阪電車で山科駅へ。JR線に乗り換えて嵯峨嵐山駅まで行き、歩いて大覚寺へと向かいました。
三井寺駅からびわ湖浜大津駅まで乗った電車は「麒麟がくる」のラッピング車両でした。
大覚寺は真言宗大覚寺派の大本山で、52代嵯峨天皇の娘で53代淳和天皇の皇后である正子内新王が、父天皇の死後、譲位後に暮らしていた離宮である嵯峨院を寺に改め、彼女の息子で嵯峨天皇の孫にあたる恒貞親王が開山となり開創された寺です。
恒貞親王は淳和天皇と正子内親王のあいだに生まれた皇子で、正子内親王と同じく嵯峨天皇と皇后橘嘉智子のあいだに生まれた54代仁明天皇の皇太子になりましたが、承和の変で廃太子となり出家。藤原氏の圧力に屈してこの陰謀に加わった母嘉智子を恨み、正子内親王が泣いて怒ったという話が『日本三大実録』に載っています。事変後、新たに藤原冬嗣の娘順子を母に持つ道康親王が皇太子に立ち、父仁明の跡を継いで55代文徳天皇となると、順子の兄である良房が娘の明子を文徳の皇后とし、二人のあいだに生まれた子をわずか9歳で天皇にしたのが56代清和天皇で、幼帝ということから祖父である良房が摂政として政治の実権を握ることになりました。これが藤原北家による摂関政治の始まりです。
ということで、嵯峨天皇の時代は私が主に研究していた摂関期よりやや前の時代なので、59代宇多天皇ゆかりの仁和寺、60代醍醐天皇ゆかりの醍醐寺や勧修寺ほど大覚寺には興味が湧かなかったため、今まで行ったことがなく、今回が初めての訪問でした。けれども、何故今まで訪れなかったのかと悔しく思うほど素晴らしい寺でした。
大覚寺表門
式台玄関
式台玄関にあった説明書き
宸殿の襖絵、狩野山楽筆「紅梅図」(複製)。
「紅梅図」は全部で8面あり、現在宸殿にあるのは複製ですが、霊宝館で開催されていた名宝展で実物が特別公開されていました。重要文化財に指定されている実物は修復が終わったばかりで、今秋東博で開催される特別展「桃山――天下人の100年」で展示されるそうです。
村雨の廊下
御影堂前の灯籠と五大堂。いつ造られたものかわかりませんが、灯籠の毘沙門天の彫りがよく残っていて、夕日を受けて線がはっきりし、とてもきれいでした。
建物も、それを囲む周囲の風景も美しく、それらを借景で取り入れつつ、日本最古の庭湖である大沢池を配した庭園も実に素晴らしかったのですが、さらに今回、この池のほとりに名古曽の滝跡があることを知り、一気に舞い上がってしまいました。
五大堂から見る大沢池
名古曽の滝跡
大沢池と名古曽の滝跡の説明
私が『和漢朗詠集』の編者で「三船の誉れ」と世に称えられ、漢詩、和歌、管絃の三才に秀でていた藤原公任を好きなことは記事の中でもよく触れていますが、その公任の歌で百人一首に採られているのが「滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」です。心に響くいい歌かというと、その点は微妙なのですが、絶妙な韻を踏んでいて、文化的才覚にあふれた公任らしい作り込まれた巧い歌だとは思っていました。しかし実のところはそれだけでなく、「名こそ」に名古曽の滝を詠み込んでいて、この掛詞だけでなく、歌意にも二重の意味が込められた、誠に複雑な、切ない歌だったことが、このたび判明しました。まさしく、生まれながらの貴公子であり、それゆえに酸いも甘いも味わい、なおかつ非凡な才人である公任でなければ詠めなかった歌です。というのも、今まで歌の意味は、
“滝の流れる水音が聞こえなくなって久しいけれど、その名は水が流れるように巷間に伝えられて、今も世に聞こえているよ”
ぐらいに思っていましたが、ここでいう「滝」が名古曽の滝ならば、そんな単純な意味ではなく、
“名古曽の滝が流れる水音が聞こえなくなって久しいけれど、その名は水が流れるように巷間に伝えられて、今も世に聞こえているよ”
という歌意になるからです。つまり、枯れてしまったけど、今なおその名を世間に知られている名古曽の滝のことを歌いつつ、実は自分のことを歌ったのだと思われます。政治家としては道長の後塵を拝し、昔の栄華は名古曽の滝と同じく見る影もないが、当代を代表する歌人、詩人、楽人としての自分は健在であり、今もって藤原公任の名が世に聞こえが高いことに変わりはないという、強い自負と名門出身らしい高い矜持が感じられます。
名古曽の滝に浮かれた結果、明智門と明智陣屋を見に来たことはすっかり頭の中から抜け落ちていて、見るのを忘れてしまいました。トホホホ。そのことに気が付いたのは京都駅に戻るバス待ちのあいだで、時すでに遅し。大沢池の庭に出ると帰りは庭園側にある門から出ることになり、建物には原則戻れないので、お堂を悔いなく見てから最後に本堂である五大堂を参拝して御朱印をいただき、その後別料金が必要な庭に出たのですが、すでに4時半をまわっていたので、受付のスタッフに庭園の門は5時10分前には閉まるので注意するよう言われ、足早に散策。すると、庭園内を見回っているスタッフとすれ違い、5時に閉まると言われたので、それならまだ余裕だと思い、いささか歩く速度を緩めて門に行ったら、やはり10分前に閉められたようで出られませんでした。近くにまだ片づけをしているスタッフがいたので、事情を説明し、自分の他にあと2名ほど庭園内に残っている人間がいたことを知らせると、鍵を取りに行って門を開けてくれました。そんな具合だったので、バス停で気づいても、もはや表門に引き返して明智門と明智陣屋を見ることは叶わず、期間限定の特別公開や特別展と違って、また来れば見られると自分を納得させて、京都駅行きのバスに乗りました。(続きます)
大沢池と桜
桜は咲きはじめたばかりでした。
黄色い花は遠目からはレンギョウかと思ったのですが、何でしょう?
大沢池と大覚寺
五大堂でいただいた数量限定の季節限定御朱印。勅使門と紅枝垂桜が色鮮やかに描かれています。限定御朱印はいろいろといただいていますが、こんなに綺麗なものは珍しいです。派手なものはけっこうありますが(笑)。