羽生雅の雑多話

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関西寺社遠征&明智光秀探訪3 その1~特別展「光秀と京」in京都市考古資料館&京都市歴史資料館

 神奈川県民なので、週末の外出自粛に備え、昨日は仕事を4時半で切り上げて、スーパーに買い物に行きました。前日いつもどおりに仕事をしてから違うスーパーに寄って帰ったら、あまりに物がなくて驚いたので。5時過ぎに店に寄った昨日は、2軒めで久しぶりにトイレットペーパーを買うことができました。12ロールで税別680円という、いつもの2倍以上の値段でしたが……。品薄の報道以降、仕事帰りにドラッグストアやスーパーを何軒まわっても買えなかったので、背に腹は代えられません。かろうじて1袋残っていたのは、値段が高かったからでしょう。

 

 このように、今の日本はとんでもない事態になっていて、本日行くはずだった宝塚公演も中止になったので、この週末は家でおとなしくしていますが、先週の3連休は予定どおり京都に行ってきました。明智光秀坐像がある慈眼寺と、4月5日まで開催されている明智光秀関連の特別展が見たかったので。

 

 先月は「京の冬の旅」の特別公開を巡るのが精一杯で時間的余裕がなく行けなかったため、帰ってきて改めて京都行きの予定を組み、とはいえ特別公開の中止なども始まっていたので、状況が悪化したらいつでも延期できるように新聞やNHKニュースなどで情報収集し世の動きは注視していたのですが(ちなみに新聞は、勧誘防止策で、朝日と読売を1年交代でとっていて、今年は読売)、3連休前に引き続き警戒は必要だが3密(密閉、密集、密接)を避ける対応をすれば感染リスクは減らせるみたいな報道があり、宝塚をはじめ、営業を停止していた施設なども再開したので、決行することにしました。イベントなどは中止になったとしても通常公開や拝観は変わりなくしていて、それに従事している人たちもたくさんいるため、仕事をしている身としては、経済活動が滞ることのほうが歓迎できなかったからです。日常生活が送れる人間は極力普段と変わらずに過ごすのがよいと思っていますし。東日本大震災の時もそのように考えて、できるかぎり東北寺社遠征をしました。今月も宴会は控えて、主にサシで、多くても4人までのメンバーで何回か飲みに行きました。メディアに踊らされて根拠のない過度な恐れを抱き、非日常的な行き過ぎた行動は避けるべきだとも思っています。なので、もし今のように感染者が増えることが予測できていて、けれどもオリンピック延期決定の前で、そのために明確な自粛要請などを控えていたのであれば、為政者たちの罪は大きいですね。私のように考えている人もけっこういると思うので。諸外国のように強力な外出禁止令がなかったから、京都に行って見たいものを見られたという事実はあるのですが、この時期に旅行をするという選択をしたのも旅行ができたのも、政府や自治体が甘かったから――否、甘かったおかげですから。

 

 で、遠征ですが、19日木曜に昼で仕事を切り上げて品川駅に行き、1時17分発の新幹線に乗って京都に向かいました。3時半前に京都駅に到着し、ホテルが八条口前で、もうチェックインができる時間だったので、部屋に荷物を置くと駅に戻ってバス乗り場へ。市バスに乗って、堀川今出川バス停まで行き、京都市考古資料館へと向かいました。考古資料館と歴史資料館の共同開催で「光秀と京」という特別展が開催されていたので。

 

 4時30分の入館終了時間の15分前に資料館に到着し、2館間で記念品をもらえるスタンプラリーをやっていたので、台紙とスタンプをもらうため受付に寄ったら、摂関時代好きとしては見過ごせない平安京関連の資料がたくさん販売されていて目移り。気になるものがありすぎでしたが、荷物になるので厳選し、図録タイプの京都市文化財ブックス『平安京』と『京都古地図巡り』、そしてミウラ折りタイプの平安京復元地図と現代の史跡散策地図が入った『平安京図会』を購入。昔、貴族邸宅の場所と位置関係は喉から手が出るほど欲しかった情報で、『拾芥抄』などの記述を基に自分で貴族邸宅地図を作っていた身なので、「もっと早くここに来れば!」とか「摂関時代史研究にのめり込んでいたときにこれがあれば!」とか、心の底から思いました。

裏面がスタンプラリーの台紙になっている特別展「光秀と京」のパンフレット。特別展のシンボルになっているのは、慈眼寺の明智光秀坐像です。

 

 「資料を購入してくれたので」とクリアファイルをくれた受付のおねーサンに、他に平安貴族邸宅に関する書籍はないかと訊くと、受付の奥にいた人たちにも訊いてくれて、販売しているものの見本のページを繰って、いろいろと探して見せてくれたのですが、図録タイプで2ページぐらいしか情報がないものはこれ以上持って帰る気力が出せないのであきらめると、「これは?」と言って出してくれたのが「~文化財と遺跡を歩く~京都歴史散策マップ」でした。ミウラ折りタイプの地図で「12平安京貴族邸跡」というのをいただいたのですが、他にもいくつか種類があり、四つまでもらえるというので、明後日行く予定の「29京北 周山 弓削 山国」と、よく行く「17西賀茂 上賀茂」と「35小野 醍醐 日野」の計4冊をいただきました。

 

 そうこうしていたら、閉館まで30分もなくなってしまったので、急いで展示を見学。本徳寺の明智光秀像がパネルで紹介されていたのですが、その解説文におもしろいことが書かれていました。何故岸和田の本徳寺に光秀の唯一の肖像画と伝わるこの絵があるのか不思議に思っていたのですが、本徳寺は妙心寺派の寺院で、妙心寺で出家した光秀の息子――南国梵桂が鳥羽荘に開いた海雲寺を前身とすると伝えられているそうです。私は光秀がクローズアップされて関連情報があふれている今年、光秀=天海説を本格的に追ってみようと思い、光秀探訪を始めたのですが、光秀の長男である光慶が山崎の合戦のあとも死なずに南国梵桂として生き延びたのならば、光秀も南光坊天海として生き延びたという伝承もあながち絵空事ではなく、あり得る話なのではないかと思います。

考古資料館の特別展の看板。考古資料館のテーマは「入京から本能寺の変」でした。

唯一の肖像画といわれる本徳寺の明智光秀像のパネル。

光秀坐像を基にした慈眼寺の公式キャラクター「くろみつくん」もいました。

 

 光慶=南国梵桂説も今のところ俗説にすぎないとされているようですが、山崎の合戦後の光慶の生死ははっきりせず、否定材料もないので、個人的には信じていいのではないかと思っています。火のないところに煙は立ちませんから。それに、光秀の叔父が塔頭の住職をしていて縁が深かった妙心寺がからんでいるのも大いに引っかかりますし。そして、そう思うもう一つの理由が、本徳寺の光秀肖像画と慈眼寺の光秀坐像の相似性です。同時代に作られた総見院の信長坐像や高台寺の秀吉坐像と比べると、慈眼寺の光秀坐像は頬から顎にかけてかなり丸みを帯びているのですが、本徳寺の肖像画もこれに近い輪郭で描かれており、表情は違いますが、顔形が似ていて、同一人物といわれてもまったく違和感がありません。

 

 ところで、慈眼寺の光秀坐像ですが、これは初めから黒いわけではなく、謀反人であることを憚ったのか、あとから墨で真っ黒に塗られて、秘像としてひっそりと祀られてきたそうです。「謀反人であることを憚った」というのは、おそらく秀吉が天下人になったため、彼が謀反人の烙印を押して成敗をした光秀を祀ることを憚ったということだと思います。何故なら、徳川時代にはそれほど光秀を憚らなくなっていたと想像されるからです。2代江戸将軍秀忠に旗本として召し抱えられた織田昌澄(光秀の外孫)や、秀忠の嫡子――のちの3代江戸将軍家光の乳母に任命された斎藤福(春日局、光秀の重臣だった斎藤利三の娘)の処遇を考えると、徳川政権下ではある程度光秀の復権が成されていたように思えます。光秀を討った秀吉は自分の行為やその後に得た立場など、天下人としての己のすべてを正当化するために光秀を謀反人にしておかなければならなかったはずですが、家康にはその必要がなかったからでしょう。

 

 それに、本徳寺の肖像画が描かれたのは慶長18年(1613)だそうですが、それが事実ならば、大坂冬の陣の前年のことになるので、むしろその頃になると、明智光秀よりも豊臣秀吉に肩入れするほうが憚られたのではないでしょうか。信長の跡を継いだ秀吉が死に、石田三成を筆頭とする秀吉派を関が原で斥けて征夷大将軍となり、名実ともに天下人に王手をかけていた家康にとっては、前天下人である豊臣家こそが存在を認めることができない、滅ぼさなければならない相手だったのですから。よって慈眼寺の光秀坐像は、山崎の合戦の直後に光秀の菩提を弔うために制作されたが、関ヶ原の合戦よりも前――秀吉政権下の早い時期に彼を憚って黒く塗られたと考えられます。ということは、光秀の没年とされている1582年から秀吉没年の1598年のあいだに作られて黒く塗られた、おそらく本能寺の変後10年も経たないうちに制作された像ということになります。ならば、総見院の信長坐像や高台寺の秀吉坐像と同様に、生前の姿に近いと思われます。本徳寺の肖像画が、生前の姿に近いであろう慈眼寺の坐像とよく似ているということは、確実に明智光秀本人を知る人物が描かせたものであり、しかもその人物は光秀の死から30年経っても彼の肖像を残したいと欲した人物である――ということになります。そういった人物が実在したことが確実で、なおかつ、その肖像画が残る寺の開祖が光秀の息子だという伝説があるのなら、わざわざ他所に該当者を探し出さなくても、素直に光秀の息子をその人物にあてはめれば済むことです。よって、光慶=南国梵桂説は十分に信憑性があると思います。

 

 特別展は1階だけで2階は常設展示でしたが、常設展示も山城国縄文時代平安京時代に関する展示があり、たいそう興味深かったので、閉館時間ギリギリまで粘って退館。私が資料館を出ると、職員の方も外に出てきて片付けを始めました。

 

 続いて、ひと夜限りのナイトミュージアムということで、3月19日だけ夜8時まで開いている京都市歴史資料館へと向かいました。資料館の前にある今出川大宮バス停から市バスに乗って河原町今出川バス停で下車し、寺町通りをひたすら南下。拝観時間を過ぎていたのでもう門は閉まっていましたが、明智光秀関連の特別展をやっている廬山寺の前を通り過ぎて、5時半前に歴史資料館に到着。受付で台紙にスタンプを押してもらうと、コンプリートしたので、記念品のクリアファイルをくれました。

歴史資料館の特別展の看板。歴史資料館のテーマは「信長、義昭、そして町の人びと」でした。

スタンプラリーの記念品は、本能寺跡の出土品である戴輪宝鬼瓦のクリアファイル(左)。鬼が輪宝を戴いていて、なんとなく信長っぽい鬼瓦です。ちなみに、考古資料館でもらったのは、聚楽第周辺の出土品である金箔瓦のクリアファイル(右)。金箔仕上げの桐紋……こちらはいかにも秀吉っぽいです。

 

 こちらの展示も興味深く、撮影が禁止だったので、メモを取りました。伊藤坦庵(1565-1664)が江村専斎(1565-1708)の話す思い出話を記した『老人雑話』という資料があったのですが、これは読んでみたくなりましたね。本能寺の変の時に18歳だった生き証人の口述筆記なので。それと、光秀の生まれ年は諸説があり確定できていませんが、特別展のパンフレットにも子年生まれということはほぼ確定――とありました。子年生まれだとすると、今のところ有力視されている1528年、それより一回り早い1516年、それより一回り遅い1540年のいずれかに生まれた今年の年男ということになるのですが、慶長19年(1624)に元明智家家臣の森秀利が口述した『明智物語』に、天文18年(1549)の時点で光秀は元服していなかったという記述があるそうなので(未確認)、子年生まれ説ならば私は1540年生まれを推したいと思います。というのも、1516年生まれの根拠である『当代記』は寛政年間(1624-1644)の成立とされ、1528年生まれの根拠である『明智軍記』に至っては光秀の死後100年以上経った元禄期(1688-1704)に書かれた物語で、したがって史料としては『明智物語』が一番鮮度が高いからです。

 

 そして、もし光秀が1940年生まれであれば、1936年の生まれとされていて、すなわち1643年に108歳で没したとされる天海にも成り得ます。104歳なのでかなり長命ではありますが、医師だった江村専斎も100歳という寿命を保ったそうなので、戦で死なずに養生の心得があれば、そのくらい長生きする人も多かったのかもしれません。光秀が医学に明るかったことは、2014年に発見された米田文書の『針薬方』などからも明らかになっていますし。

 

 ということで、光秀=天海説のネックの一つとされている年齢の問題をクリアできる材料が見つかったので、満足して歴史資料館を後にし、丸太町駅まで歩いて、地下鉄で京都駅に戻りました。駅に着いたのは7時前で、近頃はこの時間だと予約なしでは入れないJR京都伊勢丹の「松山閣」ですが、新型コロナウィルス騒ぎで今はそれほど混んでいないのではないかと思い、ダメもとで行ってみると入れて、窓際の四人席に案内してくれました。

 

 湯葉桶膳と、「玉乃光」が京都産酒米の祝を使った純米大吟醸だったので、今回は山田錦を使った純米吟醸の「伝匠」を注文。大吟醸も祝もあまり好みではないので。湯葉と春野菜に舌鼓を打って、ホテルに戻り、その日は終了です。