羽生雅の雑多話

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滋賀寺社遠征 その2~三井寺、日吉大社

 二日目は、昨秋のリベンジということで、まず三井寺に向かいました。当寺は天台寺門宗の総本山なので境内がとても広いのですが、前回は閉門ギリギリに受付に駆け込んだので、西国三十三所の札所である観音堂だけしか行けなかったからです。

 

 ホテルをチェックアウトして、草津からJR線で石山へ行き、荷物を駅構内のコインロッカーに預けて、京阪電車石山駅で一日乗車券を購入。三井寺駅で下車し、琵琶湖疏水べりを歩いて突き当りで左に曲がり、今回は観音堂の参道から入りました。昨年参拝したときに御朱印はいただいたのですが、今は西国三十三所草創1300年記念の特別印も押してもらえるので、再び御朱印を頂戴することに。

 

 観音堂に続いて、境内にある三井寺五別所の一つ、微妙寺へ行き、黄不動にお参りして、こちらの御朱印もいただきました。黄不動は日本三大不動の一つで、以前京都にある青蓮院の夜間特別拝観に行ったときに青不動にお参りしたことがあるので、あと一つの赤不動はどこだろうと思っていたら、高野山明王院とのこと。高野山には何度か行っているので、灯台下暗し、という感じでした。私にとって高野山の仏像といえば、霊宝館にある深沙大将で、高野山に行くときにはそれが見られるかどうかだけが気になり、他の仏像についてはあまり気にしていないので、不覚にも知りませんでした。

 

 微妙寺を出て、その前にある文化財収蔵庫を見学したあと、塔頭の一つでお茶処になっている本寿院で、三井寺のスイーツ巡礼のメニューである朝宮ほうじ茶ロールケーキとコーヒーをいただきました。他に誰も客がいなかったので、ほのかに香が漂う静寂の中で、のんびりさせていただきました。

 

 その後、三重塔や弁慶の引摺り鐘を見て、鐘みくじという、水に浸けると番号が出てくるおみくじを引いたところ、「半吉」という初めて見る占で、内容も微妙。このおみくじを買った霊鐘堂には釣鐘グッズがいろいろとあり、弁慶が釣鐘を担いだ絵が描かれた釣鐘型の土鈴があったので購入しました。土鈴コレクターなので。

f:id:hanyu_ya:20211230193158j:plain釣鐘型土鈴

 

 弁慶の引き摺り鐘は、そもそもは藤原秀郷龍神に頼まれて三上山で大ムカデを退治し、そのお礼としてもらったものとのことで、奈良時代の作とされる古い鐘です。三井寺に寄付されましたが、のちに比叡山とのあいだで争いが起こり、比叡山の荒法師であった弁慶が比叡山へ引き摺って持ち帰ったところ、撞いても鐘の音が出ず、ただ「イノー、イノー」と鳴るだけで、そのため怒った弁慶が「イニたけりゃ、イネ」と谷底へ投げ捨てたのを、三井寺にもらって帰ったという逸話があります。「イネ」というのは「去ね」なので、「去りたい、去りたい」と言ったということなのでしょう。近江八景の一つとして知られる三井の晩鐘は、弁慶鐘の跡継ぎとして、この鐘を模して慶長7年(1602)に造られたものだそうです。

 

 霊鐘堂に続いて、天智、天武、持統の三天皇が産湯に用いたと伝わる泉が湧く閼伽井屋を見たあと、鐘楼へ行き、現役の鐘――三井の晩鐘を撞きました。隣の受付で300円を払うと、通常100円で売っている「三井寺の鐘」という小冊子がもらえて、鐘が撞けるのです。長命寺の鐘は無料で撞けますが、石山寺の鐘は普段は撞けなくて期間限定で300円でしたので、小冊子付きで日本三銘鐘の一つが撞けるのなら、お得だと思います。

 

 後に尾を引く低い荘厳な音を間近でしみじみと聞いたあと、総本堂である国宝の金堂へ行き、御本尊である弥勒仏にお参り。秘仏のため、お姿は見られませんでしたが、記念にこちらの御朱印もいただきました。金堂内は内陣の裏まで拝観することができて、数々の仏像が展示され、その中には数体の円空仏もありました。円空仏が好きなので、「こんなところで会えるとは!」と感激し、久しぶりのナマ円空仏を十分に堪能したあと、何故かその前に売店があったので、絵葉書数枚を買って帰りました。内陣裏に売店があるのは初めてだったので、ちょっと驚きました。

 

 最後に釈迦堂に寄って、モダンな印象の釈迦如来像を拝んで、参拝終了。三井寺を後にし、三井寺駅から再び京阪電車に乗って、日吉大社の最寄り駅である坂本へ。終点の坂本駅で下車後、ちょうどお昼時だったので、参道の途中にある芙蓉園本館で昼食を摂ることに。何故なら、一日乗車券を持っていると10%引きになるからです。前回と同じ近江牛の柳川御膳を食べて、庭園にある洞窟を見たあと、日吉大社へ向かい、1時半から始まる今回の旅のメインイベントである八王子山登拝ツアーに参加しました。

 

 日吉大社が主催するこのツアーは、神職の先導で八王子山の牛尾宮と三宮宮に参拝し、さらに両本殿内も拝観できるというもの。参加者は私とあと一人で、案内役の神職も合わせて、計3名のミニミニ御一行でした。定員30人なのに……。

 

 八王子山を登ると、つづら折りの参道の途中から琵琶湖が見渡せて、東に近江富士こと三上山、北に沖島と、その隣に山が見えました。位置的に八幡山かと訊いたら長命寺山ではないかと神職が教えてくれました。八幡山には武内宿禰が大島神を祀ったのが起源とされる日牟礼八幡宮があり、長命寺山には武内宿禰御神体とされる磐座がある長命寺があります。三上山の麓には名神大社御上神社沖島には、やはり名神大社の奥津島神社があります。そして、八王子山にある日吉大社名神大社です。

 

 ――ということは、つまり、重要な古社が存在するのは、いずれも地形を見ただけで明白な、地図を見なくてもわかる場所だということです。地図がない時代にわかりやすいように、ランドマーク的な場所が選ばれたからでしょう。

 

 牛尾宮と三宮宮のあいだにある巨石――念願の磐座を拝み、牛尾宮本殿に入って再び琵琶湖を眺めると、ほぼ真東に三上山が見え、この地に日吉大社がある意味がわかったような気がしました。帰って調べたら、八王子山が北緯34度59分、三上山が北緯35度3分、ほとんど一直線です。

f:id:hanyu_ya:20211230192117j:plain牛尾宮と三宮宮あいだにある磐座

f:id:hanyu_ya:20211230193734j:plain牛尾宮から見る三宮宮。階段の突き当りが磐座です。

f:id:hanyu_ya:20211230192247j:plain牛尾宮から見る琵琶湖。真ん中に見えるのが三上山。

 

 日吉大社主祭神は、東本宮の祭神である大山咋神です。元宮というか奥宮であり、現在は摂社である牛尾宮の祭神は大山咋神荒魂、隣の三宮宮の祭神は鴨玉依姫神荒魂で、鴨玉依姫神は摂社の樹下宮の祭神です。神職の話によれば、この二神はご夫婦――とのこと。

 

 ところが、鴨玉依姫神というのは、どう考えても、下鴨神社こと賀茂御祖神社の祭神である玉依媛命のことです。“鴨の玉依姫”という意味ですから……。そして、玉依媛は初代天皇・神武の母です。つまりどういうことかといいますと、『ホツマ』によれば、次のようになります。

 

 十一代天君ヒコホオデミ=彦火火出見の后であるトヨタマヒメ豊玉姫の弟のタケツミ=建津見は、十代天君ニニキネ=瓊瓊杵より二つの川が合流する三角州の土地を賜って治めました。河が合う場所なので、その国をカハアヒノクニ=河合の国といい、タケツミとその妻であるイソヨリは、カアヒノカミ=河合神の神名を贈られました――これが現在の賀茂御祖神社の祭神、賀茂建角身命になります。タケツミの神名は河合神なので、元々は摂社である河合神社の祭神だったのだと思います。

 

 タケツミとイソヨリ夫婦には長らく子が生まれなかったので、ワケツチカミに祈願しました。ワケツチカミ=別雷神で、これはニニキネの神名の一つであり、国土開発に貢献した彼の功績を称えて、祖父のアマテル=天照から贈られたものです。したがって、上賀茂神社こと賀茂別雷神社の祭神である賀茂“別雷神”とはニニキネのことになります。

 

 祈願の末に、夫婦は女の子を授かりました。それがタマヨリヒメです。自分の誕生にはそんな経緯があったので、タマヨリヒメは両親の死後もワケツチカミを信奉し、この神の祭祀に明け暮れる生活を河合国で送っていました。後世の斎宮みたいなものでしょう。

 

 そんなとき、十二代天君ウガヤフキアワセズ=鵜葺草葺不合(ホオデミとトヨタマヒメの子)の后が亡くなり、乳飲み子が残されました。その子を育てる乳母を探していたときに、乳の出がよいということで白羽の矢が立ったのが、タマヨリヒメです。

 

 ということで、『ホツマ』には書かれていませんが、この少し前にタマヨリヒメは子供を生んでいたということになります。その子の父親がヤマクイ=山咋――つまり大山咋神です。上賀茂神社の縁起では、彼女は丹塗りの矢によって身籠ったことになっていますが、大山咋神は『古事記』に「鳴鏑を用つ神なり」とあるので、鳴鏑の矢を用いる神です。つまり丹塗りの矢とは、この神の暗喩と考えてよいと思います。この点については、今回案内していただいた神職にご指摘をいただきましたので、その意味でも非常に有意義なツアーでした。日吉大社のお祭りである山王祭には「宵宮落とし」という神事があり、これは大山咋神と鴨玉依姫神御子神誕生の様子を再現している儀式だそうです。この神事の存在こそが、ヤマクイとタマヨリヒメのあいだに子供がいたという証に他なりません。

 

 さて、皇子の乳母として天君の宮に出仕したタマヨリヒメは、ウガヤフキアワセズのお手付きとなり、皇子を生んで、后となりました。天君の正妃となって生んだ子がカンヤマトイハワレヒコ=神日本磐余彦――すなわち神武天皇です。ウガヤフキアワセズと最初の后の子がイツセ=五瀬、タマヨリヒメとヤマクイの子がミケイリ=三毛入、ウガヤフキアワセズと后に立つ前のタマヨリヒメの子がイナヰイ=稲飯です。イツセは竈山神社の祭神である彦五瀬命で、高千穂神社はミケイリがニニキネ、ホオデミ、ウガヤフキアワセズ三代の夫婦神を祀った神社です。

 

 タマヨリヒメの夫となり、神武天皇の父となった十二代天君のウガヤフキアワセズですが、彼は高祖父のアマテルから「ミヲヤアマキミ」という名を贈られています。八代天君のアマテルは長生きし、玄孫の御代に亡くなりました。ミヲヤアマキミ=“御祖”天君ですから、下鴨神社こと賀茂御祖神社の祭神である賀茂“御祖”神とは、ウガヤフキアワセズとするのが妥当です。よっておそらく元々の祭神は賀茂建角身命(タケツミ)と玉依媛命(タマヨリヒメ)の父子ではなく、賀茂御祖神ウガヤフキアワセズ)と玉依媛命(タマヨリヒメ)の夫婦、あるいは賀茂御祖神であるウガヤフキアワセズだけだったと思います。そして、賀茂建角身命ことタケツミを祀ったのは、あくまでも河合神社と考えるのが自然です。なにしろ河合神なのですから……。河合神社は今でこそ下鴨神社の一摂社ですが、『延喜式』の神名帳に載っている、れっきとした式内社ですし。

 

 磐座を後にしたあと、比叡山の横川に続くという山道を辿って神宮寺跡の奥惣社まで行き、内部を拝観。そこから麓宮に戻るわけですが、帰りは来た道を戻るか、二度ほど川に入るけど大宮川沿いの行者道を行くかと神職に訊かれ、来た道を戻るのはつまらないので川沿いを選んだら、本当に修行の道でした。神職は川でスッ転んで装束を真っ黒ビチョビチョにしていましたし、私も山道でスッ転んだ上に、川に片足を突っ込んで水ポチャ。この登拝ツアーは今回が6回目だと言っていたので、「こんなはずじゃなかったって言う人いませんでしたか?」と訊いたら、「言いそうな人には、最初から選択肢を与えません」とのこと。

 

 予定時間を30分ほど過ぎて、4時前に帰着。時間通りに終われば近くの西教寺にでも行こうかと思いましたが、そんな余力はなかったので、坂本駅へ。次の日は月曜で仕事があるため、6時過ぎの新幹線を予約していたので、どこにも寄らず、石山駅で荷物だけ引き取って京都駅に直行。兎にも角にも、今回も無事に遠征を終えることができました。