羽生雅の雑多話

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京都寺院遠征~智積院

 10月最終週の金曜は三重と京都で仕事があり、津駅に午前10時半に行かなければならなかったのですが、早起きする自信がなかったので、大事を取って前泊することにしました。津にはあまりホテルがないので名古屋に泊ろうと思っていたのですが、金曜の夜は京都の業者と食事をする予定だったので、京都駅の近くにホテルを取っていて、違うホテルに一泊ずつして朝荷造りをするのも億劫だったので、京都に二泊することにしました。のぞみを使えば京都から名古屋までは30分なので。

 

 で、仕事とはいえ、関西往復にかかる時間と相応の労力を費やす以上、個人として得るものがないというのは空しくてストレスになるので、いつものように土曜はどこかに寄ってから帰ろうと思い、ネットで調べていたら、10月23日から31日まで智積院で夜間特別拝観が開催されているという情報をキャッチ。なので、木曜は2時半で仕事を切り上げて、品川発15時37分ののぞみに乗ると、17時44分に京都駅に着いたので、6時にはホテルにチェックインして荷物を置き、智積院へと向かいました。市バスで東山七条バス停まで行って、そこから3~4分歩き、6時半過ぎに到着。受付で拝観料を払い、夜間拝観期間中に一日限定50枚頒布という特別御朱印が書き置きで用意されていたので、そちらをいただきました。

f:id:hanyu_ya:20211111003926j:plain智積院冠木門

f:id:hanyu_ya:20211111004025j:plain特別御朱印。隣は夜間拝観参拝者にもれなく授与される疫病退散御守。

f:id:hanyu_ya:20211111004146j:plain疫病退散御守についての説明文

 

 智積院真言宗智山派の総本山で、御本尊は大日如来。元々は紀州根来寺の学問所で、根来寺豊臣秀吉によって焼き払われると、智積院の学頭は高野山、さらには京都に逃れていましたが、元和元年(1615)に徳川家康から祥雲禅寺を寄進され、五百仏山根来寺智積院として再興し、現在に至っているとのこと。ちなみに、祥雲禅寺は秀吉が夭折した愛児鶴松の菩提を弔うために建立した禅寺だそうです。よって、今回の夜間拝観では国の名勝に指定されている庭園の他、国宝や重要文化財に指定されている寺宝を見ることができたのですが、これらは祥雲禅寺から受け継いだもののようです。

 

 案内に従って、まずは拝観受付所の隣にある収蔵庫へ。智積院文化財についても詳しく把握していなかったので何があるのだろうと思って入ったら、等伯率いる長谷川一派が手がけた障壁画がありました。国宝です。祥雲禅寺の客殿を飾っていたものとのこと。金地院で猿を見るまでは、等伯の絵は北野天満宮にある弁慶ぐらいしか記憶になかったので、「最近やたらと縁があるなぁ」と思いました。長谷川等伯の絵というと思い出すのは、猿や東博にある国宝「松林図」なので、金をふんだんに使った、いかにも桃山文化的な、御用絵師っぽい絵まで描いていたとは知らず、意外でした。

 

 続いて講堂の前を通って大書院へ行き、建物の中からライトアップされた名勝庭園を鑑賞。こちらも祥雲禅寺時代に作られたもので、中国の廬山を模しているとのこと。「利休好みの庭」と呼ばれ、元々は秀吉が創建した寺院の庭なので、秀吉の茶頭だった千利休が関係しているのかもしれません。

f:id:hanyu_ya:20211111004553j:plain大書院に向かう途中の講堂(左)と庭園

f:id:hanyu_ya:20211111004653j:plain大書院の縁側から見る名勝庭園「利休好みの庭」(正面から)

f:id:hanyu_ya:20211111004753j:plain大書院の縁側から見る名勝庭園「利休好みの庭」(斜めから)

f:id:hanyu_ya:20211111004910j:plain縁側前にある手水鉢には花がきれいに生けられていました。

f:id:hanyu_ya:20211111005037j:plain庭の反対側、大書院内部にある、長谷川派の国宝襖絵を模写したレプリカ

f:id:hanyu_ya:20211111005134j:plain大書院の上座。御簾にある桔梗紋は智積院の寺紋ですが、前身である祥雲禅寺の造営奉行だった加藤清正の家紋に由来するそうです。清正の家紋といえば蛇の目紋が有名ですが、桔梗紋も使用したとのこと。まあ、清正の先祖は明智家からの養子で、つまり清正の加藤家は土岐氏に連なる血筋ですから。

f:id:hanyu_ya:20211111005323j:plain大書院の西側にある枯山水庭園

 

 大書院から渡り廊下で繋がる宸殿に渡り、今回の特別公開で一番気になっていた重要文化財――王維筆の「瀑布図」を鑑賞。この絵が公開されていると知ったときには、王維が絵を描いていて、その絵が日本に残ってるなんて思いもしなかったので、「王維って、あの王維?」と驚き、これは見てみたいと思いました。なにしろ王維といえば李白杜甫らと同じ唐代を代表する詩人で、すなわち彼が残した絵ということは、美術的にはもちろん、歴史的にも貴重な文化財ですから。

 

 ……のはずなのですが、展示物というより床の間を飾る普通の掛軸として飾られていたので、まずはその事実にビックリ。そして画風だけでなく、絵が描かれている紙も軸装もとてもそんな長い年月が経っているとは思えない保存状態で(修復されているのかもしれませんが)、実に洗練された趣の画軸でした。加えて、その部屋がなんともシュールな空間だったので、今までに味わったことのない奇妙な感覚をおぼえました。というのも、宸殿は客殿として昭和33年(1958)に造営された建物だそうで、襖絵は当時画壇の重鎮だった京都出身の堂本印象が手がけた「婦女喫茶図」――画題のとおり洋装と和装の女性がお茶をしている絵です。カラフルな人物画という近代の作らしいモダンな襖絵で彩られた部屋の床の間の掛物として、中国唐王朝時代の漢詩人で「詩仏」とも称された王維が描いた水墨画を見るのは、そのアンバラスさゆえに新鮮でもあり、たいそう摩訶不思議な気分でした。

 

 智積院宸殿の堂本印象作の襖絵というとこの「婦人喫茶図」が有名みたいですが、私は別の部屋にあった襖絵のほうが気に入りました。「婦人喫茶図」がある隣の部屋には「朝顔に鶏の図」「茄子に鶏の図」「流水に鶯の図」があり、正面の朝顔だけに色が使われていて他は墨絵なのですが、その隣の部屋の襖絵はまた金地に極彩色で描かれた「松桜柳の図」で、部屋ごとに雰囲気ががらりと変わって意外性があり、とてもおもしろかったです。特に、これぞ日本画におけるモダニズムというような極端にデフォルメされた木々が描かれた「松桜柳の図」はインパクトがある作品でしたが、それでいて寺院の客殿という典型的和室空間にそぐわないということはなく、見事に馴染んでいて、訪れた人の目を楽しませる役目を果たしていたので、堂本印象という画家に対する自分の認識が一変しました。今までは世間的な評価を素直に受け入れて近代画壇の大家の一人と思っていましたが、間違いなく優れた絵描きであると再認識しました。

 

 「松桜柳の図」の隣の部屋は「三山の間」という部屋で、国宝の等伯筆「松に黄蜀葵及菊図」の一部があるのですが、違い棚の奥に貼り付けられていたので、「なんて贅沢な使い方なのか」と内心唸ってしまいました。金地院でも等伯の絵が現役の襖として使用されているのに驚きましたが、「三山の間」の国宝はその絵の前に違い棚がある――つまり違い棚そのものや、棚の上に香炉などを置けば置いた物で絵が部分的に隠れてしまうような使い方をしているのです。これこそが障壁画の本来の在り方かもしれませんが。

 

 さらに驚いたのが、この部屋の利用者。智山派の三つの大本山貫主が来山したときに滞在する部屋なので「三山の間」という名称のようですが、“三つの大本山”とは新勝寺平間寺薬王院……。いずれも関東の人間にはお馴染みの、お寺に興味がなくても知っている名刹――毎年初詣参拝客数トップ3にランクインする成田山と川崎大師、そしてミシュランガイド掲載の高尾山です。「えー、この有名どころが全部智山派!?」という感じでした。真言宗天台宗以上に宗派が細かく分かれていて、宗祖空海が開いた東寺と高野山を筆頭に、醍醐寺仁和寺大覚寺泉涌寺、勧修寺、随心院信貴山長谷寺などが各派の本山として名を連ねています。どの寺も好きなので二度三度、所によってはそれ以上訪れているのですが、その本山の中に智積院が入っているとはつゆ知らず、京博の斜向かいという、他の本山に抜きん出てアクセスの良い場所にありながら、今回が初訪問。まだまだ知らないこと、驚かされることがたくさんあります。

 

 王維の掛軸もこのたび16年ぶりの公開で、次はいつ見られるかわからなかったので、宸殿を二巡すると、本坊、講堂をまわって大書院玄関に戻り、靴を履いて屋外に出て拝観終了。時刻は8時になろうかというところで、宿坊の智積院会館は食事だけの利用も可能なのですが、オーダーストップが8時で微妙に間に合わなかったので、そちらで精進料理を食べるのはあきらめて、智積院を後にしました。

f:id:hanyu_ya:20211111010722j:plain大書院から講堂に向かう回廊にあった釣鐘

f:id:hanyu_ya:20211111010826j:plain講堂から見る唐門近くの紅葉。隣に高浜虚子の句碑があります。

 

 いつもは新幹線改札口に近い八条口のほうにホテルを取るのですが、今回はたまたま京都タワーの近くにしていたので、途中で夕飯を食べようと思い、七条通を歩いて戻ることにしました。京博沿いにメニューが鰻雑炊のみの「わらじや」という創業400年になろうかという老舗があり、雰囲気も古色を帯びていて、お気に入りの店なのですが、残念ながら閉まっていたので、ホテルに向かってあてもなく歩いていたら、「鴨川製麺所」という店を発見。このところ疲労が溜まっているせいか胃腸の調子が良くなく、食欲はあっても消化不良気味で、その日も精進料理か雑炊ぐらいしか食べる気がしなかったので、蕎麦うどんでもいいかと思いつつ近づいていったら、「京都自家製抹茶うどん」という看板の文言が目に入り、俄然食べてみたくなって入店。気になるメニューがいろいろありましたが、量は食べられず、かつ湯葉好きなので、生湯葉うどんを注文しました。

f:id:hanyu_ya:20211111011233j:plain「鴨川製麺所」の生湯葉うどん。いかにも抹茶が練り込まれていそうな緑色を帯びた麺でした。七味を入れ過ぎたせいか、抹茶の味はわかりませんでしたが。

 

 店を出ると、忙しい朝に窓口や券売機に並ぶため早めにチェックアウトをするのは嫌だったので、駅に寄って翌日の切符を買ってからホテルに戻り、翌金曜は三重と京都で仕事をし、土曜は静岡の親元に寄ってから夕方家に帰り、遠征終了です。

f:id:hanyu_ya:20211112000835j:plain静岡駅構内のキオスクで見つけた「はにわぷりん」。一瞬登呂遺跡関連のお土産かと思いましたが、堺名物だそうで、スポット的に期間限定で販売されていたようです。埴輪スキーにとっては埴輪っぽい焼物の容器に入っていることが重要で、静岡土産とか大阪土産とかはどうでもいいことなので、迷わず購入

 

※11月13日追記

 王維は盛唐時代の詩人ですが、智積院リーフレットを読み直したら「『瀑布図』は13世紀宋時代に描かれ」と書かれていました。唐の時代は618~907年、宋の時代は960~1279年。王維は出典によって生没年は異なりますが、李白杜甫と同時代に活躍しているので8世紀の人間です。したがって13世紀に絵を描くことはできません。……どういうことなのかわからず、少々混乱しています。