羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

京都・滋賀寺社遠征&明智光秀探訪3 その4~慈眼寺、山國神社、廬山寺、真如堂(付・光秀坐像についての一考)

 予定していた毎年恒例の句会兼花見もキャンセルして、引き続き家に籠っている週末です。

 

 さて、明智光秀探訪の三日目は周山の慈眼寺に行ってきました。慈眼寺は原則土、日、月曜しか開いていないので、今回の旅の一番の目的でしたが、最終日の訪問になってしまいました。

 

 周山は一応京都市右京区なのですが、神護寺がある高雄より、高山寺がある栂尾よりさらに奥地で、京都駅からバスで1時間半かかります。以前は京北町でしたが、2005年に京都市に合併されました。――とはいえ、「京都ではないよなぁ」と思いましたが。律令制の行政区分から見ても、山城国ではなく丹波国ですから……。ということで、丹波平定を成し遂げた明智光秀が築城したという幻の山城――周山城があったという周山の麓に慈眼寺はあります。

 

 その日は8時過ぎに京都駅八条口前のホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらい、8時半京都駅発のJRバスに乗車。市中混雑のため予定より10分ほど遅れて10時過ぎに周山バスターミナルに到着。歩いて5分ほどのところにある慈眼寺へと向かいました。

慈眼寺山門。日付パネルがありました。

門前にある慈眼寺についての説明板

 

 慈眼寺は曹洞宗の禅寺で、御本尊は聖観世音菩薩。本堂の他に烏枢沙摩明王を御本尊とする釈迦堂があるのですが、この釈迦堂は慈眼寺の北東にあった明智光秀の建立とも伝わる密厳寺から移築されたものとのこと。密厳寺は大覚寺の末寺で、釈迦堂は天保3年(1832)に聖観世音菩薩を祀る観音堂として建てられましたが、密厳寺が明治42年(1909)に大覚寺塔頭である嵯峨の覚勝院に統合されて廃寺となったため、慈眼寺に移築されたとのことです。

 

 明智光秀坐像も密厳寺から遷されたものですが、釈迦堂の移築時期とは異なり、その時にはすでに慈眼寺の開山堂にあったと伝えられているそうです。密厳寺の釈迦堂が慈眼寺に移築されたので、同じく密厳寺ゆかりの光秀坐像も開山堂から出されて釈迦堂に祀られることになったのでしょう―― 「主一院殿前日州明叟玄智大居士神儀」の戒名が刻まれた位牌とともに。そして、“黒”く塗りつぶされた“光”秀像なので「くろみつ」、また安置場所である釈迦堂の扁額に「大雄尊」と書かれていることから「くろみつ大雄尊」と呼ばれるようになり、この像をもとに「くろみつくん」というオリジナルキャラクターも作られています。

釈迦堂

明智光秀坐像の絵葉書。正面の写真はよく見かけますが、側面の写真は珍しく、実物もこの方向からは見られなかったので、資料として買いました。

光秀坐像をもとにした慈眼寺の公式キャラクター「くろみつくん」。坐像と同じ右肩の桔梗紋がポイント。坐像本体は桔梗紋も黒いため、目を凝らさないとわかりませんが、うっすらと透けて見えることから、初めから黒かったわけではなく、あとから塗りつぶされたことが判明したのだと思います。

 

 創建や変遷など、慈眼寺の歴史については残念ながら不明。いただいたリーフレットにも詳しいことは書いてありませんでした。――が、釈迦堂に説明パネルが用意されていて、堂内は撮影禁止でしたが、パネルならいいと許可をいただけたので、写真を撮らせてもらいました。

「くろみつ大雄尊」と題した説明パネル

明智光秀公と周山」と題した説明パネル

「釈迦坐像と明智光秀」と題した説明パネル

「釈迦堂はパワースポット」と題した説明パネル

 

 慈眼寺の次は、式内社の山國神社に行く予定だったので、まずは弓削川を渡ったところにある道の駅ウッディー京北へと向かいました。山國神社へ行くバスは本数がなくて時間が合わず、かといって歩いて行ける距離でもなかったため、レンタサイクルを利用しようと思ったので。川沿いの花がきれいだったので少し歩き、隣の橋を渡って対岸を来た方向に戻ったりしたので、大した距離ではないのですが、慈眼寺から15分ほどかかり、着いたのは11時前でした。

慈眼寺から道の駅に向かう途中に渡る弓削川岸から見える周山

周山と花

梅? 桜?

 

 さっそく500円で自転車を借りて、山國神社へ。学生の頃は駅まで自転車で通い、ほぼ日課だったので難なくペダルをこいでいましたが、数年ぶりに乗ると脚の筋力が思っていた以上に衰えていて、自転車の運転は運動であることを改めて実感しました。

 

 国道477号をひた走り、途中、右手に朱色の鳥居が見えたので、国道を逸れて川を渡り鳥居前まで行ってみると、どうも違う感じがして、地図を確認すると稲荷神社のようだったので、寄らずに国道に戻ることに。その日は今回の遠征の最終日で、廬山寺にも行きたかったので、4時までの拝観時間に間に合うためには周山バスターミナルを12時40分に出発する京都駅行きバスに乗らなければならず、道草をしている余裕はありませんでした。地図から判断すると距離的には山國神社まで行って帰ってくる時間は十分にあると思っていたのですが、来るときに国道が坂道で下りだったため、もしかしたら帰りは自転車を降りて引きながら歩かなければならないかもしれなかったので。しばらく走って鳥居バス停を越えたあたりで案内があったので右折し、再び上桂川を渡ると、山國神社に到着。

稲荷神社から国道に戻るときに渡った橋から見る上桂川

山國神社の参道

 

 山國神社は、式内社としては比較的新しい創建で、延暦13年(794)の平安京遷都に際し、大内裏造営の用材の供給地になった山国杣の鎮守として、内裏の修理造営を司る修理職が造営し、和気清麻呂が祭主として奉仕したのが起源です。祭神は大己貴命大国主命)で、丹波一宮である出雲大神宮の祭神と同じなので、丹波の国神を祀ったのだと思います。以後、山国杣は修理職領となり、鳥居の脇にあった説明書きや本殿にあったリーフレットによると、大嘗祭の悠紀殿・主基殿造営の用材を調達することが恒例になったそうです。

山國神社の鳥居。左の柱の陰に見える自転車は、私が乗ってきたものです。

鳥居の脇にあった説明板

社殿

境内社

本殿のすぐ裏に上桂川が流れています。かなり先ですが、鴨川に合流するので、この川で都の内裏近くまで木材を運ぶことができました。

 

 のちに山国杣は山国荘となり、禁裏領とされていましたが、戦国時代になって宇津荘にある宇津城城主の宇津氏が押領し、材木、米、鮎などの貢納が妨害されたため、皇室の経済困窮の原因となりました。朝廷は他の武将に山国荘の直支配が回復されるように命じ、その命を受けて、武家の棟梁である将軍――足利義昭を奉じる織田信長が宇津頼重に返還を命じましたが、頼重が従わなかったため、明智光秀に宇津氏を含む丹波平定が命じられ、天正7年(1579)、宇津城は落城し、頼重は城を捨てて逃亡しました。これによって朝廷による山国荘の直支配が回復し、朝廷から光秀に恩賞が与えられ、信長には御礼の勅使が遣わされたそうです。

 

 慈眼寺の説明パネルには、丹波平定を成し遂げた光秀は、百姓たちを還住させるなどの政策を施し、この地域を宇津氏の圧政から解放して善政を敷いたとされる――とありました。さらに、彼の坐像は、その人柄を讃えて崇敬の念から作られた――とも書かれていました。思うに、山国荘の民にとって、光秀は禁裏領を悪徳領主から解放したヒーローだったのではないでしょうか。

 

 というのも、山国荘は江戸時代には幕府領とされ、のちに一部が禁裏領に復し、幕府の旗本領と混在していましたが、幕末に山国荘の民は、地区全体が禁裏領に復古し、平安時代以来の禁裏との関係を取り戻そうとして、山国隊を結成し、戊辰戦争で転戦したという歴史があります。つまり、それほど天皇家と縁が深い禁裏領民であることに誇りを持っていたのだと思われます。また、宇津氏が本拠としていた宇津荘も、宇津氏の祖である宇津頼顕が横領する前は神護寺領だったそうなので、宇津氏が光秀に滅ぼされたことによって解放されたのかもしれません。山国荘、宇津荘が光秀の宇津氏討伐によって救われたのなら、宇津氏の支配はこの二つの荘園に限らなかったと思うので、他にも光秀に救われた荘園があったのだろうと思います。

 

 降りて自転車を引かなければならないかと思っていた国道447号の登り坂も、なんとか自転車に乗ったままクリアできたので、1時間弱で往復して道の駅ウッディー京北に戻り、自転車を返却。時計を見ると11時45分ぐらいで、バスの時間まで余裕があったので、混みはじめる前にお食事処へ行き、昼食を摂ることにしました。せっかくなので地元産の物が食べたいと思い、「子宝芋のこだわり定食」というメニューを注文。

「子宝芋のこだわり定食」。子宝芋というのは、農家、京都大学京都市の協働で開発された里芋の品種で、京北でしか栽培されていない、京北でしか食べられないブランドいも。新京野菜だそうです。

 

 食事を終えると、光秀と周山城のイラストがプリントされた北山杉のコースターを記念に買って道の駅を後にし、弓削川の橋を渡ってバスターミナルへ。慈眼寺に行く途中で、光秀にちなんだ和菓子を売っている和菓子屋を見つけていたので寄ってみると、いろいろとおもしろいものを売っていたので、つい買ってしまいました。「亀屋廣清」という大正11年(1922)創業という老舗なのですが、なかなかノリのよい斬新な菓子を作っていました。

「周山城最中」と「明智埋蔵金伝説」。最中は小豆餡の普通の最中でしたが、小判形のものは最中の皮に入ったチョコナッツクッキーで、食感がなんとも言えない新鮮な感じでした。

袋から出すとこんな感じ。最中には「周山城」の文字と桔梗紋の焼印が押されていました。

 

 何故小判形の菓子があるのかというと、京北の昔がたりで、明智埋蔵金伝説というのがあるそうで、「亀屋廣清」でもらったチラシによると、山崎の合戦で秀吉に敗れた光秀が坂本城への退却途中に殺されたと聞いた城代の明智光春(秀満)は、軍用金を持って周山へ行き、一部は周山城築城の御礼として協力してくれた住民や家来に分け与え、残りは明智再興のため、付近の山中に埋めて、密厳寺で自決したといわれているそうです。また、このチラシには、光秀坐像は密厳寺の住職が明智から永代供養料を寄進されて、その一部で作ったと書かれています。となると、慈眼寺の説明パネルに書かれていた「その人柄を讃えて崇敬の念から作られた坐像」というのは少々怪しくなってきますが、きちんと坐像を作って祀り供養を続けたのは、主君信長に反旗を翻し謀反人扱いされていた光秀ではありましたが、光秀によって宇津氏の支配から解放された周山周辺の民たちは彼を悪人とは思えず、気の毒に思ったからでしょう。なおかつ、その後も存在を知られたら危険な物を処分せずに黒く塗ってまで守ったのは、それなりに光秀が慕われていたからだと思います。まあ、そもそも光秀の悪人レッテルは自分を正当化しようとした秀吉の策略ですから……。裏切りや寝返りなど日常茶飯事の時代です。だったら松永久秀荒木村重高山右近はどうなんだ、悪人なのか?ってことです。

 

 周山という地名は光秀が名付けた地名だそうで、周の武王が善政を敷いたという中国の故事にちなんで付けられたといわれています。丹波の民にとって光秀はよそ者で、辛辣な言葉でいえば侵略者でしたが、自分がこの地を治めるからには前より悪いようにはしないという意思表示――どこか決意表明のようにも感じられます。そして、信長の家臣である光秀にできる範囲でそのとおりにしたので、坐像についても「人柄を讃えて崇敬の念から作られた」と伝わったのではないでしょうか。

 

 もっと想像を逞しくすれば、以下のようにも考えられます。秀満が後始末を終えて火を放った坂本城から脱出して密厳寺を訪れたのが事実ならば、そこで自決したことにして明智秀満の名は捨てて出家の身となり、密厳寺に身を寄せ、彼が光秀の坐像を作らせて、光秀の菩提を弔った――と。秀満の出自は諸説あって不明ですが、荒木村重の信長離反後に荒木家から出戻ってきた光秀の長女を娶ったことは確かなようで、つまり単なる家臣ではなく光秀の娘婿という、すなわち家族なので、秀満にはそうする理由が十分にありました。それゆえ坂本城の後始末も彼が引き受けたのでしょうから。

 

 上記の想像も交えて、慈眼寺の説明パネルと、帰宅してからネットで得た情報をもとに、慈眼寺の仏像と釈迦堂の推移を考えると、下記のようになるかと思います。

 

天正8年(1580)、明智光秀が築城している周山城の用材を確保するため、50代桓武天皇の勅願所であった門坊寺天台宗)の七堂伽藍が解体され、寺領も没収される。かろうじて毘沙門堂と湛慶作といわれる仁王像、御本尊である釈迦如来像の首だけが残り、のちに小さな堂と御本尊の木像(現・降魔釈迦坐像)が新たに造られて祀られた。(『北桑田郡誌』より)

⇒その一方で、光秀は新たに密厳寺(真言宗)を建立か?

天正10年(1582)、光秀が死去。その後いくらも経たないうちに明智秀満によって密厳寺に寄進された永代供養料で、光秀坐像(現・くろみつ大雄尊像)が作られ、位牌とともに密厳寺に祀られるが、天下人となった豊臣秀吉を憚って、黒く塗りつぶされた。

⇒光秀の娘婿である秀満が坂本城から周山まで逃れてきて、明智の軍用金の大半を明智家再興のために周山城周辺の山中に隠し、残りの資金を密厳寺や周辺住民に配ったあと(口止め用か?)、自決を装って出家の身となり密厳寺に隠棲し、光秀坐像を作らせるか?

寛文10年(1670)、慈眼寺が再興される。

⇒慈眼寺の本寺である永林寺は、1456年に宇津氏(おそらく初代頼顕)の発願で建立された曹洞宗の寺で、戦国の世の兵乱で荒廃していたが、万治元年(1658)に再興された。慈眼寺はこの寺の末寺のため、本寺の再興後に再興が果たされたと思われる。

天保3年(1832)、密厳寺に観音堂(現・慈眼寺釈迦堂)が建立される。

天保14年(1843)、穴原の釈迦堂に、門坊寺本尊の丈六釈迦如来像の首と仁王像、伽藍破却後に作られた等身大の釈迦如来の木像(現・降魔釈迦坐像)があった。(『桑下漫録』より)

――この間に、密厳寺の光秀坐像が慈眼寺に遷る。また、穴原の釈迦堂にあった釈迦如来の木像(変・降魔釈迦坐像)も慈眼寺に遷り、仁王像は大和の長谷寺へ。丈六の頭部は行方不明となった。

明治42年(1909)、密厳寺が嵯峨の覚勝院に統合されて廃寺となり、観音堂の本尊であった聖観世音菩薩像は覚勝院に遷されたが、堂宇は慈眼寺に移築された。

⇒密厳寺の観音堂が移築後に慈眼寺の釈迦堂とされたのは、慈眼寺に引き取られていた門坊寺の降魔釈迦坐像を本尊としたからか?

――こののち、慈眼寺に遷っていた光秀坐像が、移築された釈迦堂に祀られる。

大正6年(1917)、慈眼寺の開山堂の奥に秘められていた烏枢沙摩明王が奇跡的な霊験を見せて、以後広く信仰を集める。

烏枢沙摩明王の参拝者が増えたため、降魔釈迦坐像に代わって釈迦堂の本尊となり、今に至るか?

 

 ということで、光秀坐像が残る寺が、光秀が城を築いた周山の麓にあり、しかもその名が、“慈眼”大師天海と同じ“慈眼”寺ということで、ここに来れば、明智光秀=天海説に繋がる何かが得られるのではないかと思って行ったのですが、残念ながら今回は秀満生存説の可能性ぐらいしか得られませんでした。まあ、それも一つの収穫ではありますが。

 

 『イエズス会日本通信』を根拠に坂本城で自害したといわれている秀満に関して、周山まで逃れてきて密厳寺で自害したという言い伝えが現地に存在し、坂本城での自害説が怪しいということになれば、同様にもう一つの言い伝えである密厳寺での自害説もやはり怪しいわけで、両方の説以外の可能性――別人として生き延びたということも否定できなくなります。所詮我々が知り得る歴史は、勝者や生き残った者たちによって都合よく創作されたり事実を歪めて作り変えられたりしたものなので、散らばる史実の断片を集めて、辻褄が合うように再構築したものを信じるしかありません。事実、光秀の二人の息子に関しても、『イエズス会日本通信』には、現れないので噂どおりに死んだのだろうと思うが、逃げたという者もある――と書かれていて、当時の者でもはっきりしたことはわからないということだけが、はっきりとわかります。よって、光秀の長男である光慶が南国梵桂として生き延びたということも十分にあり得るわけです。

 

 ところで、最近は寺社仏閣の御朱印だけでなく、御城印というものも流行っているようで、慈眼寺が発行している周山城の御城印もあったので、本尊の御朱印および、くろみつ大雄尊の限定御朱印とともにいただいてきたのですが、慈眼寺は土、日、月曜しか開いていないので、寺が閉まっている日に訪れた人のために、「亀屋廣清」でも買えるようになっています。――なのですが、それとは別に、「亀屋廣清」オリジナルの周山城の御城印というのもあって、購入者にお渡ししているというので、もらってきました。慈眼寺発行の御城印にはない「明智光秀公ゆかりの地」という文言が入っていたので。慈眼寺バージョンは「登城記念」となっていますが、実際に周山城址まで行く人は少ないので、「亀屋廣清」バージョンは「周山来訪記念」にしているとのことでした。

2枚の御城印と、道の駅ウッディー京北で買った北山杉のコースター。

慈眼寺でいただいた枚数限定のくろみつ大雄尊の御朱印。この時点で、あと4枚か5枚とのことでした。

 

 予定どおり12時40分発のJRバスに乗って、福王子バス停で降りて市バスに乗り換え、河原町丸太町バス停で下車し、廬山寺へ。5分ほど歩いて、2時40分過ぎに到着し、まずは元三大師を祀る大師堂にお参りして、それから本堂へと向かいました。

廬山寺山門

大師堂の欄間に彫られた三猿。堂内には入れますが、内陣は非公開です。

筆塚近くの桜

 

 今回は「明智光秀の念持仏と廬山寺」という特別展をやっているので行ったのですが、廬山寺は紫式部の邸宅跡で『源氏物語』が執筆された場所なので、『源氏物語』の構想を練ったとされる石山寺と同じぐらい何度も足を運んでいる寺です。なんといっても、私が無人島に持っていく本はと訊かれて選ぶのは『源氏物語』ですから……読む自分の年代によって好きな巻や登場人物が変わるという強烈な体験をした小説は、いまだにこの本しかありません。

 

 光秀の念持仏である地蔵菩薩像は、普段は大師堂に安置されているのですが、特別展ということで本堂のほうに移されていて、見やすく展示されていました。脇侍は不動明王毘沙門天……実に意味深な三尊像です。毘沙門天は武神、不動明王は降魔退散の揺るぎなき仏法の守護者、そして地蔵菩薩修羅道地獄道に落ちた人々をも救う衆生救済の菩薩ですから。深読みすれば、安寧の世を築くのを邪魔する者を蹴散らす力を不動明王に願い、武将として戦における加護を毘沙門天に願い、天下統一という大義のためとはいえ多くの人間を殺めてきた己が救われることを地蔵菩薩に願ったというところでしょうか。解説に、地蔵菩薩像は取り外しができ、出陣の際には陣中に持ち運ばれて、陣仏として自軍の守り本尊とし、日々礼拝していたとされている――とありましたが、その逸話も含めて、殺らねば殺られる戦乱の世とはいえ、真に非情になりきれず、人の命を奪う戦に明け暮れるおのが身を憂い、衆生のすべてを救う地蔵菩薩にすがらずにいられなかった光秀の苦悩が想像されるような三尊像でした。周山をはじめ、新たに自分の領地となった土地で、周の武王を手本とする善政に努めたのも、罪滅ぼしの現れなのかもしれません。実は、天海の念持仏も地蔵菩薩だそうで……。こちらは行基作の像とのことですが、慈眼大師と慈眼寺の一致に続いて、気になる符合です

 

 廬山寺の御朱印は、もちろん本堂と大師堂の御本尊のものは以前にいただいていましたが、今回は光秀念持仏の特別朱印が特別展期間中のみ授与されていたので、いただいてきました。

桔梗紋の印入り地蔵菩薩の特別朱印

 

 廬山寺を出たのが3時10分ぐらいだったので、急げば真如堂の拝観時間に間に合うのではないかと思い、向かうことにしました。明智光秀とは関係ないのですが、藤原道長の姉であり一条天皇の母后である東三条院詮子ゆかりの寺で、涅槃図を特別公開をしていたので。廬山寺から真如堂へは、丸太町通まで歩いて戻ってバスに乗っても、岡崎道バス停で降りてから、また北へ向かって歩かなければならないので、直線距離で歩いていったほうが早い気がして、荒神口通を東に向かって歩きはじめました。

荒神口通にあった法成寺跡の碑。歴代の摂政関白は寺を建立し、良房は貞観寺(墨染寺)、基経は極楽寺(宝塔寺)、忠平は法性寺を建てましたが、道長が建てたのが法成寺です。詮子ゆかりの寺に行く途中で出合うなんて奇遇だと思いましたが、道長の邸の東隣に建てられた寺のほぼ真東に、彼の姉である詮子の寺があるのは偶然ではないのかもしれません。

 

 鴨川を越えて川端通を渡り、近衛通の京都大学街を歩いているときには徒歩を選んだことをすっかり後悔していましたが、タクシーは通らないし、最寄りのバス停からバスに乗っても時間的には歩きのほうが早そうだったので、ひたすら早足で歩き続けました。のんびり歩ければまだ楽しめる距離だったのですが、速度を落とすと間に合わないぐらいギリギリのタイミングだったので。

 

 どうにか3時45分に山門前に到着し、山門からは走って本堂の受付に行くと、あと15分しかないけどいいかと訊かれました。真如堂は、御本尊である阿弥陀如来像は慈覚大師円仁作の「うなずきの弥陀」と呼ばれるもので、また安倍晴明の念持仏である不動明王伝教大師最澄作と伝わる千手観音像まで安置する、平安貴族スキーには外せない寺なので、もちろん以前にも訪れたことがあり、とりあえず今回は涅槃図だけでも見られればよいと思ったので、「かまいません」と答えて特別拝観料を払って朱印帳を預けると、「まずは庭園から閉まるから、そちらを先に見てください」と言われたので、本堂を出て書院へ。涅槃の庭と、以前来たときにはなかった随縁の庭を見て本堂に戻り、しばらく座って涅槃図を眺め、4時になったので腰を上げて受付に寄り、朱印帳を引き取って本堂を出ました。

特別拝観の記念品である「花供曽あられ」。正月に御本尊に供えられた鏡餅から作られた菓子で、涅槃会で授与されるものだそうです。

涅槃の庭

随縁の庭

本堂前の桜と石灯籠

本堂と桜。扉はいつのまにか閉まっていました。

境内に咲いていた椿。西日を受けて、ひときわ鮮やかでした。

 

 真如堂を後にすると、そこから徒歩2、3分の「カフェ真古館」へと向かいました。吉田山荘の敷地内にあり、素敵な建物で落ち着けるので、開店時間内に吉田山や黒谷界隈に来たときには必ず寄ることにしています。メニューは少ないのですが、ワインがあるので、今回も赤ワインとチョコレートケーキを頼み、窓から後一条天皇陵が目の前に見える2階の北側の席で一服しました。

真如堂から吉田山荘に向かう途中にある陽成天皇神楽岡東陵

注文した赤ワインとチョコレートケーキ。おつまみが付いていたので、ちょっとした軽食でした。窓の向こうは後一条天皇菩提樹院陵。

 

 真古館では、注文したものに吉田山荘の大女将の手蹟による季節の歌を添えて出してくれます。今回は在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」でした。「月やあらぬ~」に次いで私が好きな歌なので感激し、「うわぁ、好きな歌です」と思わず運んできたスタッフの方に言ってしまいました。「ちはやぶる~」ではないのです、業平の真骨頂は。この歌は、今の日本人の心境も見事に言い表していると思います。桜が咲いていなければ、花見をしたい、そのために出かけたいという思いは湧かないので、家に閉じ込められていてもそれほど苦には思わないでしょうから。

金戒光明寺の山門と夕焼けに染まる桜。花が咲いていて、こんな光景が見られるとわかれば、それはそれは心はそぞろになります。

 

 5時10分前に店をて、金戒光明寺の境内を通って丸太町通まで行き、岡崎道バス停から京都駅行きのバスに乗ろうと思いましたが、信号待ちをしているあいだに、ちょうど向かい側のバス停にバスが来て目の前で行かれてしまい、通りを渡って、念のためバス停で時刻表を確認しましたが、思ったとおり次のバスはしばらく来ないので、途中のバス停で駅行きのバスが来れば乗り、来なければ神宮丸太町駅まで歩いて電車で戻ろうと思い、丸太町通を西に向かって歩きはじめました。新幹線の時間がギリギリな感じだったので。いつもすべてがギリギリです(笑)。けれど、もはや脚が限界で、挫けて川端通まで辿り着けず。手前の東山通の熊野神社前バス停から市バスに乗りました。

 

 いつものことですが、東山通は渋滞していてノロノロ運転だったので、スマホ特急券を変更。18時36分発ののぞみを予約していましたが、30分ほど遅らせて19時1分発にしました。エクスプレス予約はこういうときに便利です。遅くとも6時過ぎには駅に着くとは思いましたが、ホテルに寄って荷物を引き取り、切符を発券しなければならず、窓口や券売機が混んでいたら、並んでいても間に合うか気が気ではなく、さぞかしイライラするだろうと思ったので。

 

 予想どおり6時には駅に着き、中央口近くの窓口も3、4人待ちでそれほど混んではいなかったので、列に並んで発券してもらいました。そのあと、551蓬莱に並ぶ時間的余裕はなかったので、駅弁を調達するべく、荷物が多くなる前に駅弁屋に寄ったのですが、完売。仕方がないので、西口前の食品売り場を覗いてみると、新宿タイムズスクエアにも入っているとんかつ屋の「かつくら」があったので、そこで「京丹波高原豚ロースかつ弁当」を購入しました。それから、みやこみちでタカラ缶チューハイをゲットし、ホテルへ行って荷物を引き取り、今回は予定外の図録やら何やらで大荷物になってしまったので、なるべくコンパクトになるようジグソーパズルのようにバッグに入れて整理してから、駅に戻りました。昔だったら宅配便で送ったのですが、今は送料が高いので気軽に使えません。

 

 新幹線改札内に入ってしまうと椅子が空いていなくて座れないのは学習済みなので、551蓬莱の近くにあるベンチで待つことにし、6時50分になると腰を上げて改札へと向かいました。そのままホームへ行き、変更した7時過ぎの新幹線に乗車。行きもそうでしたが、同行者がいる乗客以外は2列席は一人だけ、3列席は必ず真ん中が空いているようで、座席は発券時に意図的に隣に人が座らないようにコントロールされているようでした。ともあれ、今回も無事遠征終了です。

 

 これからは桜にはじまり、花の美しい、一年でもいい季節ですが、新型コロナウィルスのせいで当分のあいだはまともに出かけられそうもないので、行っておいてよかったです。何事も思い立ったが吉日であり、悩んだらやれ、ですね。この春は花見がてら福知山や一乗谷を訪れるつもりでしたが、明智探訪も寺社遠征も残念ながらしばらくお預けです。宝塚観劇すら行けないし……(涙)。政府から経済V字回復クーポンが配布されたら、ガンガン行くことにします。