羽生雅の雑多話

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岡山神社遠征 その2~吉備津神社(鳴釜神事)

 翌日は、ホテルをチェックアウトして、ボストンバッグとバッグに入らなかったデニムのイコちゃんをフロントで預かってもらうと、岡山発8時36分の吉備線――通称桃太郎線に乗車。吉備津駅で下車し、10分ほど歩くと、9時過ぎに吉備津神社に到着。鳴釜神事は10時開始で、10分前までに受付を済ませればよかったのですが、桃太郎線は1時間に1本で、次の電車では微妙に間に合わないため、集合時間の40分前に着くことになりました。しかし吉備津神社は広いので、まったく問題なし。受付を済ませて御朱印をいただくと、神事が終わったらすぐに岡山駅に戻れるよう、先に境内を見ておくことにしました。

吉備津駅から吉備津神社に向かう途中にある社号標

境内図

案内板

 

 当社は名神大社であり官幣中社、往古は大和王朝と並ぶ威勢を誇った吉備王朝の総鎮守でしたが、大和王朝に平定されて吉備は備前、備中、備後に三分割され、その後は備中一宮となりました。主祭神大吉備津彦命。大和王朝の大王家の七代である孝霊天皇の第三皇子で、初めは彦五十狭芹彦命といい、十代崇神天皇の時代に四道将軍に任じられて吉備を平定し、大吉備津彦命と称されるようになりました。社務所でいただいたリーフレットによれば、大吉備津彦命が平定したのが、吉備で蛮行を重ね、大和の朝廷に対抗していた温羅一族で、この大吉備津彦命の温羅退治の伝説神話が「桃太郎」のルーツとして親しまれているとのこと。……なのですが、現地でフィールドワークをすると、改めていろいろと考えさせられることがありました。

拝殿の扁額

拝殿と本殿。どちらも国宝です。

本殿の屋根は全国で唯一吉備津神社だけに見られる比翼入母屋造。

吉備津神社といえば……の名物廻廊。天正6年(1578)に再建されたもので、約360メートルあるそうです。赤い建物は南随神門。吉備津神社で一番古い建物で、延文2年(1357)の再建。足利尊氏征夷大将軍の時代です。

 

 廻廊を突き当りまで行って左に曲がると「吉備中山細谷川古跡」の石碑があり、その背後は吉備の中山で、廻廊の隣に御陵に通じる道があります。石碑の向かって左側には本宮社があり、社殿の規模は異なりますが、本殿と背中合わせに建てられています。つまり、どう見ても御陵に通じる道の入口に配された見張り役です。道を挟んで反対側には本宮社と向かい合うように瀧祭宮も配されていますし。しかも本宮社の祭神は孝霊天皇――本殿の祭神である大吉備津彦命の父親です。何故見張りが必要とされたのか……考えられるのは、御陵に祀られた神が祟り神だからです。正確に言えば、祀られた当人がどうであるかは関係がなく、後世の人々が祟ると思っていたからです。神として祀り封じ込めたところから出てきて自分たちに祟るのを防ごうとしたのです。そして大抵の場合、祟ると人々に思われる理由は、理不尽な非業の死を遂げて命を落とし、きっと恨んでいるだろうと思われたからです。菅原道真しかり、平将門しかり。以上のことから、二つの可能性が考えられます。まず一つ目は、吉備の中山の御陵に葬られたとされている大吉備津彦命は吉備を平定し治めたが、最期は非業の死を遂げて祟り神として畏れられ、鎮魂のために吉備津神として祀られた可能性――、そして二つ目が、吉備の中山の御陵に葬られているのは大吉備津彦命ではなく、征伐された人物である可能性――です。

廻廊の南端に突き当たると左手にある短い廻廊。左に見えるのが本宮社。

本宮社の正面。内宮社、新宮社、御崎社2社が合祀されています。本宮社の祭神は大吉備津彦命の父である孝霊天皇、新宮社の祭神は異母弟の吉備武彦命(稚武吉備津彦命)、内宮社の祭神は妃の百田弓矢比売命。

本宮社の本殿

本宮社と石碑と瀧祭神社の位置関係。右が本宮社の拝殿で、左が石碑の側面、その左の赤い社が瀧祭神社。白い柵の向こうが御陵に通じる道。

石碑の正面。読めませんが、「吉備中山細谷川古跡」と書いてありました。

 

 廻廊を戻り、まだ時間があったので、一童社と岩山宮へ。一童社は学問・芸能の神様とされていましたが、天鈿女命と菅原道真が祀られているためで、祭神の年代から考えれば、天鈿女命が祀られていたところに菅原道真が合祀されたと考えるのが妥当です。しかし、天鈿女命が吉備津神社に祀られている理由は不明。吉備との関係性がまったく想像がつかない上に、本殿が流造で鰹木の数が2本というのは規模こそ違えど吉備津彦神社と同じだったので、本来は吉備津彦神社と同じ祭神だったのではないかと思います。本殿より高い場所にあり、本殿よりも御陵に向かって拝む位置にありましたし。

一童社の正面

一童社の本殿。流造鰹木2本は吉備津彦神社と同じです。

一童社の位置から見る吉備津神社の本殿。見下ろす形になります。

 

 吉備の中山の中腹にある岩山宮の祭神は建日方別神。吉備国の地主神を祀っているとのことですが、『古事記』には建日方別は吉備児島の別称とあるので、こちらは納得できました。児島半島は昔は島で、本州との間に吉備の穴海という海があり、江戸時代の干拓で陸続きになりました。したがって、かつて吉備の中山は内陸ではなく、この海沿いに位置する山だったようです。

岩山宮

 

 ところで、吉備の中山の御陵とは中山茶臼山古墳のことですが、茶臼山古墳前方後円墳で、前方後円墳が築かれたのは3世紀中頃から7世紀初頭といわれています。宮内庁はこの古墳を大吉備津彦命の墓としていますが、3世紀中頃というと神功皇后からその息子である十五代応神天皇の時代です。ところが、大吉備津彦命こと彦五十狭芹彦命は七代孝霊天皇の皇子なので、その活躍期は紀元前と考えられ、世代に開きがありすぎるため、彦五十狭芹彦命の墓ではないと思います。しかし、吉備の中山の最高地点である竜王山の山頂には古代祭祀の跡である磐座があるそうなので(未確認)、そちらが彦五十狭芹彦命墓所である可能性は十分にあります。であるならば、吉備の中山は大吉備津彦命の葬地なので鎮座地である神奈備山ということで祭祀の対象とされていてよいのですが、茶臼山古墳の被葬者は別人ということになります。つまり、吉備津神社本宮社の祭神である孝霊天皇や岩山宮の祭神である建日方別神が監視しているのは、大吉備津彦命ではないということです。

 

 では誰なのか――というと、監視が必要な祟り神(正確には祟ると人々に思われていた神)なのだから、大吉備津彦命に退治されたとされている温羅ではないでしょうか。おそらく、大和軍による吉備侵攻は何度か行われ、紀元前の崇神天皇期に彦五十狭芹彦命による遠征によって討伐された吉備の首長がいて、3世紀中頃以降に鬼ノ城を築き吉備の民を治めていた百済出身の温羅を征伐した大和軍の将軍がいて、その二つの吉備平定の話が一緒くたにされたのではないかと思います。温羅を滅ぼすと大和軍は、頂上の磐座に大吉備津彦命が祀られている吉備の中山に前方後円墳を造って葬り、恨んで祟り人々に害を成さないように、かつて吉備を平定した大和出身の武神の力で封じようとしたのではないでしょうか。以上を踏まえて大雑把に吉備に関連する出来事を年表にして書くと、次のようになります。

 

BC660(皇紀元年)初代神武天皇、即位

BC290(孝霊元年)七代孝霊天皇、即位

~この間に、彦五十狭芹彦命(孝霊第三皇子)、誕生か?

BC214(孝元元年)八代孝元天皇、即位

BC097(崇神元年)十代崇神天皇、即位

   (崇神十年)四道将軍、派遣

BC029(垂仁元年)十一代垂仁天皇、即位

BC018      伯済国(馬韓の一つ、百済の前身)、建国

~これ以降に、温羅、日本に渡来か?(百済出身であれば)

AC201(神功元年)神功皇后、摂政

~このころ、前方後円墳が造られはじめるか?

AC270(応神元年)十五代応神天皇、即位

AC313(仁徳元年)十六代仁徳天皇、即位

~神社由緒によれば、仁徳天皇が吉備に行幸し、社殿を創建。

AC463      吉備下道臣前津屋の乱、吉備上道臣田狭の乱

AC479      星川稚宮皇子(二十一代雄略天皇と吉備稚媛の子)の乱

AC660      百済滅亡

AC663(天智二年)白村江の戦い

~敗戦後、防衛のため温羅の旧跡に鬼ノ城が築かれるか?

AC689(持統三年)吉備分国

 

 ということで、大吉備津彦命と温羅のあいだにあったと思われる世代差、前方後円墳の築造時期、吉備津彦神社と同じ一童社の鰹木の数などをもとに想像を逞しくすると、以下のような可能性が考えられます。

 

・七代孝霊天皇の第三皇子である彦五十狭芹彦命は、十代崇神天皇の時代に四道将軍に就任して吉備に進軍し、平定後は吉備津彦を名乗り、この地を治めて亡くなると、吉備の中山の頂上に葬られて磐座が作られ、祭祀が行われるようになった(吉備津神の祭祀の起源)。

・その後、百済から渡来した温羅が大陸渡りの先端技術を持ち込んで鬼ノ城を築き吉備を治めるようになったが、温羅が統治する吉備王国を認めない大和軍によって征伐されると、祟らないように、大和の大王家出身で武神である大吉備津彦命の力で封じ込めるために、吉備津神の神奈備山に葬られた(中山茶臼山古墳の起源)。――ただし、吉備津神社の由緒には、吉備に行幸した十六代仁徳天皇大吉備津彦命霊夢により、五社の神殿と七十二の末社を創建し奉斎したとあるので、史実としてそれに近いことがあったのなら、仁徳天皇大吉備津彦命の祭祀を行う神殿とともに古墳を築いて改葬した可能性も無きにしも非ず……。

・古代祭祀の時代から社殿を建てて祭祀を行う時代に移ると、吉備の中山の麓にあった吉備津彦の宮跡や温羅の首塚御釜殿)の近くに吉備津神の社である吉備津神社が建てられ、山頂の磐座から吉備津神の祭祀の中心が本殿に遷る。麓に遷ったことで、温羅の胴塚である中山茶臼山古墳からは遠くなったので、見張り役としてより近いところに吉備津神の分霊を祀り(一童社の起源)、その反対側――吉備津彦の宮跡に父である孝霊天皇を祀り(本宮社の起源)、山の中腹に吉備の地主神である建日方別神を祀る(岩山宮の起源)。

・吉備分国により、吉備津神社が備中一宮となったため、吉備津神の分霊を遷して吉備津彦神社が建てられ、備前一宮となる。

 

 9時40分になったので集合場所の大イチョウに向かうと、祈祷殿の横に見覚えのあるものを発見。

「吉備津のこまいぬ」

こちらは、当家にいる「吉備津のこまいぬ」

 

 「おー、これがオリジナルか」と感激したあとは、まだ間に合いそうだったのでおみくじを引き、大イチョウに戻ると、10時ちょっと過ぎに神職が登場。御守り授与所で販売されているオールカラーの小冊子が一人一人に配られ、案内が始まりました。

おみくじは吉。「いつも望高くして猶成就しがたし」……心に刺さりました。

 

 神職の説明によると、吉備津神社の本殿は一度も解体修理をしたことがないそうで、つまり三代室町将軍足利義満によって現在の建物が再建された600年前と同じ建物ということです――何度かお色直しはしていると思いますが。亀腹と呼ばれる白い漆喰の高い基壇の上に建てられているのですが、おそらく一童社が一段高い位置にあることを考えると、本殿は土台となる土地を削って建てられたもので、削り残した岩盤の上に漆喰を塗って亀腹を作り、その上に建てたので安定感があり、地震なども耐えられたのではないか――とのこと。それにしたって奇跡的な建物だと思いました。また、柱の間隔がまちまちなのですが、それは本殿内に合わせているからだということも教えてくれました。本殿内は外陣、朱壇、中陣、内陣、内々陣から成り、今まで数多くの神社を見てきましたが、古い神社でこれほど広い本殿は記憶にありません。義満による再建以降の形なのか、再建前からこんな複雑な様式だったのかはわかりませんが、いずれにしろ明確な意図なくして出来上がるものではないような気がしました。最初の説明が終わると、本殿の外陣に昇殿して正式参拝。その後再び説明があり、本殿内を一周。撮影が許可され、かつ後日社務所に問い合わせたら掲載許可もいただけたので、国宝本殿内の美しい写真をアップします。

朱壇正面

外陣から朱壇の右

内陣入口の扉

内陣の入口にいる金箔貼りの狛犬

内陣入口の扉

縁起稲穂の古代稲

屋根を支える組物

 

 本殿の案内が終わると廻廊を通って途中で右に曲がり、御釜殿で鳴釜神事を体験。神事の終了後に、今の音はどんなお告げなのか訊ねましたが、神職も、奉祀する阿曽女も吉凶は判じず、音を聞いた人間がいい音だと思えば吉とのことでした。

御釜殿に続く廻廊

御釜殿。中も真っ黒けでしたが、煤で黒くなっているとのこと。

鳴釜神事の案内板。国指定の重要文化財で毎日火を焚いているのはここぐらいだそうですが、午後は火が焚けないそうで、それゆえ神事は2時までとなっているそうです。こちらの建物内は撮影禁止でしたが、案内板にある写真のとおりでした。

鳴釜神事の由来についての説明板

 

 神事が終わって御釜殿を出ると、記念品をいただいて解散となったので、神職に教えられたビュースポットに戻って廻廊を撮影してから、吉備津神社を後にしました。

神職に教えられたビュースポットからの1枚。廻廊と吉備の中山

 

 時刻は11時40分ぐらいで、毎時36分発の岡山駅行き吉備津線が行ったばかりなので、駐車場にある食事処「桃太郎」で昼食を摂ることに。桃太郎うどんが看板メニューらしいのでそちらを注文したのですが、出てくるのに20分以上かかり、次の電車に乗り遅れると新幹線にも間に合わなくなるので、けっこう焦りました。

食事処「桃太郎」の桃太郎うどん。きび団子、キジの肉団子入りです。

 

 先に支払いを済ませておいて、味わう余裕もなく急いで食べて店を出て早足で歩き、12時30分前に吉備津駅に到着。岡山駅行きは改札があるホームではなく線路を越えなければならないホームなので、着いたのは3分ぐらい前で、なんとか12時36分発に乗車。51分に岡山駅に到着し、ホテルに寄って荷物を引き取り、切符を発券したあと、20分ほど余裕があったので、前日デニムのイコちゃんを購入した店に行き、一緒の棚にあった備前焼のイコちゃんを吟味して購入。改札前のコンビニでタカラ缶チューハイを調達して、13時33分発ののぞみに乗車し、これにて遠征終了です。

備前焼のイコちゃんと砥部焼のバリィさんと信楽焼カオナシ。いずれも国の伝統工芸品に指定されている日本を代表する焼物ですが、どんどんこういう親しみやすい作品を創って伝統工芸をより身近に感じてもらい、何百年も受け継がれてきた技術や技法が廃れることなく後世に残っていってほしいと思います。

 

 この日岡山では雨に降られずにすみましたが、静岡あたりから本降りで、横浜に至ってはやはり大型台風襲来かと思う大雨でした。鬼ノ城は高田崇史さんのQEDシリーズの「鬼の城伝説」を読んで興味を持ちましたが、吉備津神社はもっと前から――私の好きな上田秋成の『雨月物語』の中に「吉備津の釜」という話があるので、式内社巡りを始める前から気になっていました。なので、吉備津神社に行ったら必ず鳴釜神事を体験しようと思っていたのですが、初めて行ったときには受付が2時までとは知らなかったので間に合わず、残念ながら申し込むことができませんでした。その後なかなか岡山を訪れる機会がなかったのですが、今回のDC企画は鳴釜神事を体験できるだけでなく、本殿の正式参拝と神職による境内案内もあるということで楽しみにしていたので、台風により「吉備ロマン無料循環バス」の運行は中止になりましたが、吉備津神社の企画は中止にならなくて本当によかったです。また、撮影した画像をブログに掲載するにあたって問題がないか吉備津神社社務所に問い合わせたら、下記の返答をいただきました。自分たちが守っている文化財に対して、とても素敵な姿勢だと思いましたので、一部言葉を引用させていただきます。

「現代に生きる我々はこの貴重な文化財を受け継ぎました。しかし、我々は受け継いだだけではなく、次世代、その先の世代へと連綿と継いでいかねばなりません。残念ながら実際の文化財を不特定多数に随時公開することはその文化財の消耗に繋がります。ご覧いただきその神の空間を体感していただいたお方様が写真をアップしていただき、その写真を通じてでもご覧になられた皆様が文化財への関心と保護の必要性を感じていただけましたら幸いです。」