先日仕事で浅草に行く用があったので、帰りに久しぶりに浅草神社にお参りし、授与所を覗いたら、見たことがない御守りがありました。今まで何度も来ているのですが。
「浅草神社」の社名が入っている御守りの背中。その正体は……
おみくじ付きの「はにわ御守り」というもので、浅草神社と埴輪の関係はわかりませんでしたが、埴輪スキーなので迷わず買いました。あとで調べたら、浅草神社の祭神である土師真中知命の祖先が、埴輪を考案し皇室の葬喪儀礼時に利用したとされていることから作られたみたいです。
浅草神社のはにわ御守り。だいたい善光寺の幸せ牛守と同じぐらいの背丈です。ちなみに、前回記事のアルクマだるまと一緒に移っている写真では大きさの差があって牛守が小さくてわかりにくかったのですが、耳に五色の紐でくっつけているのは御開帳の時に立てられる回向柱です。実物と違って木ではなく金属製ですが。
はにわ御守りのおみくじは中吉でした。
さて、長野遠征の二日目は、朝9時までに善光寺に行ける時間に起きられたら御朱印をいただきに行こうと思い、起きたら6時半だったので、再び善光寺を訪れました。
8時過ぎにホテルをチェックアウトし、フロントで荷物を預かってもらうと、駅前のバス乗り場へ。善光寺方面行きは駅ビルから一番遠い1番乗り場なのですが、すでにビルの出入り口付近まで列ができていたので、徒歩で行くことにしました。駅から歩いても30分はかからないため、9時前には余裕で着けそうだったので。行きは時間が惜しいので歩いたことはなかったのですが、時間に余裕がある帰りはよく駅まで歩きました。バスの時間が合わないと、所要時間は大して変わらないので。
8時40分過ぎに大門に着きましたが、もうすでに門前からすごい人出で、「いったい何時起きで来ているんだ? みな長野泊なのか?」と不思議に思いました。内陣参拝は翌日でも参拝券が使えると券売所のスタッフに言われたので、まずは本堂に行ってみたのですが105分待ちで、記帳の御朱印授与所も105分待ちでした。当初土曜は武水別神社か上田城にでも行こうと思っていましたが、この日の長野の天気は午後から雨で、所によっては雷という予報だったので、千曲市や上田市に行くのはあきらめ、天気が崩れる前に引き上げることに決定。御朱印をいただいたあと、時間が許すかぎり長野市内の神社巡りをすることにして列に並び、3時過ぎの新幹線をスマホで手配したり、善光寺周辺の神社の情報を調べたり、ルートを検討したりしていました。
御朱印待ちの列に並んでいるあいだに撮った本堂。今回地面を入れて撮った善光寺の写真で、唯一人が外せた一枚。
1時間以上の御朱印待ちは醍醐寺の観音堂や興福寺の南円堂で経験し、待ち時間の過ごし方は心得ていたので、神社巡りの情報収集を終えると、次は前日撮った写真の整理と補正を始め、そんなことをしていたら順番が来たので、感覚的には覚悟していたより早く御朱印をいただくことができました。並ぶのに飽きなかったというだけで、時間は確実に経っていて、10時半を過ぎていましたが。100分以上立ちっぱなしだったことを自覚したとたん、足の疲れを感じたので、神社巡りを始める前にひと休みすることに。このあとは善光寺を後にして、県立美術館の先にある健御名方富命彦神別神社に行くことにしていたので、とりあえず山門を出て左に曲がり東に向かおうとしたところ、門前にある「門前そば ももとせ」が開店していることに気づきました。長野に来たからには蕎麦も食べたかったので、混む前に食べようと思い、立ち寄ると、朝食にも昼食にも中途半端な時間帯でしたが、もうすでに混んでいて、2階の小上がりなら空いているとのこと。小上がりでも座敷でもカウンターでも何でもよかったので案内してもらい、とろろ蕎麦を食べました。
「門前そば ももとせ」のとろろそば
食事後、店を出て10分ほど歩くと、健御名方富命彦神別神社に到着。平安時代に編纂された『延喜式』に掲載されている健御名方富命彦神別神社は式内社の中でも社格が高い名神大社ですが、はっきりとした所在地や後継社が不明で、候補の論社が三つあり、そのうちの一つになります。他二つは信州新町と飯山市にあります。名神大社ではありますが、今は無人の、鳥居と拝殿を繋ぐ参道以外は草ぼうぼうの境内で、由緒書きの説明板も見当たらなかったため、詳細は不明。……なのですが、社名から導けば、祭神は健御名方富命彦神別神のはずです。「健御名方富命」は健御名方=タケミナカタで、オホナムチの子でソサノヲの孫。出雲の国を譲るように高天原からやってきたタケミカヅチに抵抗して挑みましたが、負けてシナノに逃れ、シナノスワ=信濃諏訪に鎮座したので、ついた神名はスワノカミ=諏訪の神という、信濃一宮の諏訪大社の祭神です。「健御名方富命彦神別神」は、ネットで調べた情報によると、健御名方富命と八坂刀売命の子とあり、『諸系譜』では健志名乃命と妻科姫命の子である武水別神の別名とされているとのこと。神名にある「彦」は息子、「神別」は子孫を意味するので、健御名方富命ことタケミナカタの息子か子孫ではある可能性は高いと思います。
健御名方富命彦神別神社の社号標。草ぼうぼうで近寄れませんでした。
健御名方富命彦神別神社の鳥居。扁額が有栖川宮幟仁親王(和宮の婚約者だった熾仁親王の父)の書だったので、境内を見るととても名神大社とは思えませんでしたが、社格が高いことは偲ばれました。
拝殿
本殿
境内社の木匠祖神社。鳥居の下にかすかに見えているのが本殿。本殿は流造でしたが、こちらは神明造。
木匠祖神社の社殿の後ろにあった石碑。文面によれば、祭神は手置帆負命と彦狭智命とのこと。
境内社の千幡社。祭神は不明。
千幡社と木匠祖神社の位置関係。木匠祖神社は本殿に向かって左にあり、本殿と同じく南向きでしたが、千幡社は東向きで、善光寺を背にしています。祭神はわかりませんが、参道に向かっているので、本殿祭神の見張り役だと思います。
健御名方富命彦神別神社は無人でしたが、善光寺での長い御朱印待ちのあいだにスマホで情報収集し、御朱印は武井神社でいただけることがわかっていたので、次に武井神社へと向かいました。歩いて15分ほどで到着し、参拝後、御守り授与所で健御名方富命彦神別神社と武井神社の御朱印をいただきました。境内に立っていた説明板に書かれていた由緒によると、当社の祭神は健御名方神の和魂だそうです。
武井神社の鳥居
境内にあった由緒書きの説明板
武井神社を後にすると、忠霊殿の先、善光寺の北西にある湯福神社へと向かいました。大門から仲見世を通ると、いっそう人が多くなっていて、もはや善光寺に用もないのに激混みの表参道を歩くのは苦痛だったので、駒返し橋の手前で左にそれて大勧進の裏手を通っていったのですが、そちらはそちらで、駐車場に入れず動けない車で大混雑でした。渋滞の中にはツアーバスはもちろん、チャーターして社員旅行で来たみたいな大型バスも交ざっていて、日帰りか泊りかは知るすべもありませんでしたが、スケジュールどおりに旅程をこなせるのだろうかと他人事ながら心配になり、幹事とか行き先を善光寺に決めた人はきっと文句を言われるだろうなと思いました。駐車場の入口横に土産物屋があり、自販機の脇にベンチが設置されていたのでひと休みし、御開帳特別デザインのリンゴの缶ジュースを買って飲み終わると再び歩きはじめて、武井神社から30分ほどで湯福神社に到着。
湯福神社の鳥居
境内にあった由緒書き
拝殿。手前にある2本のケヤキは、明らかに古い形の鳥居です。
湯福神社の現祭神は健御名方命の荒魂。こちらも無人でしたが、拝殿の柱に御朱印や授与品希望の場合の連絡先が書かれた紙が貼ってあったので、お参りを終えると電話で連絡を入れ、電話番号と一緒にあった地図を記憶し、湯福神社の宮司を兼ねる弥栄神社の宮司さん宅に取りに伺いました。御朱印待ちのあいだの調べで、湯福神社と妻科神社の宮司も一緒であることはわかっていたので、二社の御朱印をいただきました。妻科神社はまだお参りをしていなかったのですが、県庁の近くなので、そちらに行ったあとに、また大勧進の向かいにある弥栄神社まで戻ってくるのは効率が悪かったので。弥栄神社から大本願の裏手を通る道を南に進み、国道406号に突き当たって右に曲がり、若松町交差点で左に曲がり、ひまわり公園の前を通って、30分ほどで妻科神社に到着。
妻科神社は式内社で、宮司さん宅でいただいた由緒書きによると、現祭神は八坂刀売命――健御名方富命の妻です。しかし「古くは御長女の妻科姫命も祀られていました」と書かれているので、八坂刀売命の前は妻科姫命が祭神だったのだと思います。
妻科神社と神奈備山っぽい山
妻科神社の鳥居。拝殿までの参道が直線ではなく微妙にずれていて、しかもそれがほんの僅かな角度であることが実に意味深でした。参道を直線に作らないのは祭神が鳥居の外に出られないようにするためで、つまりそこにある社が神を封じ込めるためのものであることが多く、ということは、この参道が作られたときに祀られた祭神は祟ると畏れられた神だったと考えてほぼ間違いありません。この地で非業の死を遂げた神、後から来た神に追いやられた神などです。
拝殿前のケヤキ。本殿に向かって左の木は折れていましたが、湯福神社と同じく昔の鳥居です。
本殿
拝殿の脇にある「右大臣」という名札が付いた御神木のケヤキ。この木を避けて拝殿が作られているように思えました。神籬かもしれません。
長野県の旧国名である「信濃」は、諸国郡郷名著好字令が発せられた和銅6年(713)より前は「科野」と書いたので、科=シナの野という意味であることがわかります。シナとは、一説によれば段差のことで、高低差がある土地を表す言葉のようです。『ホツマツタヱ』には、ハニシナ=埴科、ハエシナ=波閉科、サラシナ=更科、ツマシナ=妻科というヨシナアガタノヌシ=四科県主が登場します。そして、ハニシナはアマテル=天照の胞衣を祀り、ハエシナ、サラシナ、ツマシナはアマテルの孫であるニニキネ=瓊々杵の三つ子の胞衣を祀ったと書かれています。
式内社で、長野県と岐阜県にまたがる恵那山の山頂に奥宮がある恵奈神社は、『ホツマ』によれば、オオヤマスミ=大山住がアマテルの胞衣をエナガタケ=胞衣が嶽=恵那が嶽に納め、それをハニシナに祀らせたのが元々の起源です。なので、同じく式内社である波閉科神社も佐良志奈神社も妻科神社もハエシナ、サラシナ、ツマシナが三つ子の胞衣をそれぞれ祀ったのが元々の起源なのだと思います。コノハナサクヤヒメが生んだニニキネの三つ子はホノアカリ、ホノススミ、ヒコホオデミの順で生まれたので、ハエシナがホノアカリの胞衣を、サラシナがホノススミの胞衣を、ツマシナがヒコホオデミの胞衣を祀ったと思われます。タケミナカタの娘とされる妻科姫は、ツマシナが胞衣を祀った土地に関係が深かったため、「妻科」という名を与えられたのでしょう。その土地で生まれたか暮らしたか、あるいは亡くなったか葬られたのだと思います。そして死後ツマシナゆかりの妻科神社に祀られ、新たに祭神とされたのでしょう。つまり妻科神社の祭神は、ニニキネの息子(おそらくヒコホオデミ)の胞衣(御神体)→ツマシナ(最初に胞衣を祀った祭主)→妻科姫(タケミナカタの娘)→八坂刀売(タケミナカタの妻)という形で変遷したと考えられます。
ところで、武井神社、湯福神社、妻科神社は善行寺三鎮守で、この三社と健御名方富命彦神別神社を合わせた四社が持ち回りで寅年と申年に御柱祭を執り行っているそうです。そして、この四社は、ほぼ善光寺の北東、南東、北西、南西に、つまり善光寺を囲むように位置しています。ということは、意図的にこの四社には善光寺を守護する役目が与えられたということでしょう。いずれの鳥居も神仏習合の神社に多い両部鳥居が建っていましたし。おそらくその時に、各社の元々の祭神がタケミナカタとその縁者に替えられたのだと思います――信濃で一番力のある国神の加護を得るために。
善光寺が創建されると、その北西には当寺の開祖である本多善光の墳墓が築かれて聖地とされていましたが、そこに湯福神社を建ててタケミナカタの荒魂が祀られ、当社と善光寺を挟んで対角線上に位置する南東の地には武井神社を建てて和魂が祀られ、もともと善光寺の南西の地に存在し、神代からの聖地である妻科神社には、その社名からタケミナカタの妻である八坂刀売が祀られ、当社と善光寺を挟んで対角線上に位置する北東の地にはタケミナカタの長子である彦神別神が祀られたのだと思われます。したがって、健御名方富命彦神別神社の本社は信州新町か飯山のどちらかで、そこから善光寺如来を守らせるために勧請されたのではないかと思います。
善光寺北東の健御名方富命彦神別神社は、ウィキペディアの情報などによると、明治11年(1878)までは善光寺境内にあって、「年神堂八幡宮」と称したとのこと。延文元年(1356)成立の『諏方大明神画詞』では「年神堂が諏訪大社の分座であり持統天皇5年(692)に記載のある水内神である」としていて、また、江戸時代末期の『芋井三宝記』には「年神堂八幡宮は、風祭等の存在からして御年神でなく健御名方富命彦神別神社であり、当地に善光寺如来が来たため仏式になって神名を失い、八幡宮とも誤り称されるようになった」と記しているそうです。ということは、おそらく善光寺が建てられた場所はもともと聖地であり、御名方富命か彦神別神、またはその子孫か、誰のゆかりかはわかりませんが、タケミナカタの末裔である諏訪氏の聖地を選んで建てられたのだと思います。高野山は高野御子神の聖地に立てられ、滋賀の長命寺も武内宿禰の聖跡に建立された寺なので、寺院の建立にあたって神々ゆかりの聖地を選ぶことはよくあることだったのでしょう。善光寺如来がやってきたので、健御名方富命は如来の守護神として境内に祀られて年神堂八幡宮となり、彦神別神は北東の地に祀られて健御名方富命彦神別神社となり、明治の世になり年神堂八幡宮の祭神である健御名方富命が境内から北東の地に遷されると、健御名方富命彦神別神社は健御名方富命彦神別神の社でありながら、彦神別神ではなく健御名方富命が主祭神とされ、今に至っているのかもしれません。
善光寺と善行寺三鎮守および健御名方富命彦神別神社の位置関係。駅の観光案内所でもらった地図で、ピンクのマーカーで社名が囲まれているところが四社です。
妻科神社の参拝を終えて、最寄りの議員会館前バス停から中心市街地循環バスの「ぐるりん号」で長野駅に戻ると、時刻はちょうど1時で、次は長野電鉄で本郷駅まで行って式内社の美和神社に行くつもりでしたが、12時57分に電車が出たばかりで、次発は1時30分だったので、とりあえず駅構内にあるスタバでコーヒーを飲むことにしました。ここで30分のロスは大きく、コーヒーを飲みながらスマホでアクセス時間を調べたところ、次の電車で行くとなると、帰りの電車も30分に1本なので、3時までに長野駅に戻ってくるのが難しいと判明。天気は変わらず2~3時には雨が降り出す予報だったので、美和神社は断念し、ランチを食べて帰ることにしました。駅や周辺の人の多さを見て、駅ビル内の店は混んでいる気がしたので、ホテルの1階にあった信州の食材を使った和食レストランに行くことにし、ネットでランチタイムを確認すると2時までで、ならばオーダーストップは1時半ではないかと思ったので、御朱印待ちのあいだに予約した3時41分発の新幹線のeチケットを変更して1時間ほど早めると、急いでコーヒーを飲み終えてホテルへと向かいました。
着いたのが1時20分過ぎだったからか、店内の客も引いていく頃合いで、混んでいてもカウンターなら座れるだろうと思っていたのですが、ちょうど空いた四人席のテーブルに案内してもらえ、この分だとそれほど時間もかからず料理も出てきそうだったので、刺身と牛フィレミニステーキがメインの「志もだ定食」を注文。グラスの白ワインも頼んで飲みながら食事をし、閉店ギリギリまで粘って席を立ち会計を済ませると、ホテルのロビーに続いている出口から出て、フロントに寄って預けた荷物を引き取り、再び長野駅へ。2時25分発のはくたかに乗り、これにて今回の遠征は終了です。
「茶寮 志もだ」の「志もだ定食」。とにかく今回の旅は和牛が美味しかったです。