羽生雅の雑多話

引越してきました! 引き続きよろしくお願いします!

福井神社遠征~気比神宮(付・御上神社、白髭神社、天孫神社、甲斐一宮浅間神社、酒折宮の起源について)

 神社遠征であり、かつ明智光秀探訪13でもある遠征記の続きですが、赤レンガ倉庫の次に行った気比神宮に関する記事は、光秀とは関係がない上に、長くなること間違いなしだったので、分けることにしました。

 

 越前一宮である気比神宮は、名神大社であり旧官幣大社、北陸でも随一といってよい神社です――規模においても歴史においても。現祭神は伊奢沙別命仲哀天皇神功皇后日本武尊応神天皇、玉姫命、武内宿禰命の七柱ですが、元々は伊奢沙別命だけで、大宝2年(702)に仲哀天皇神功皇后を本殿に合祀し、その周囲に日本武尊応神天皇、玉姫命、武内宿禰命が配祀されました。

f:id:hanyu_ya:20210225114630j:plain気比神宮の大鳥居

f:id:hanyu_ya:20210225114724j:plain大鳥居についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210225130147j:plain気比神宮の沿革についての説明板

 

 主祭神伊奢沙別命は「筍飯大神」とも呼ばれるので、その正体は『ホツマツタヱ』に「ケヰノカミ」の神名で登場するヒコホオデミ――ということになります。ケヰノカミ=筍飯の神=気比の神なので。つまり当宮は、初代神武天皇の祖父である十一代天君を祀った聖地なのです。

 

 『ホツマ』によると、ヒコホオデミの父である十代天君ニニキネが九州巡幸のためにアワウミのミズホノミヤを留守にすることになると、代わりにハラアサマノミヤにいた長兄のムメヒト(ホノアカリ)がミズホノミヤに入り、ウカワノミヤにいた次兄のサクラギ(ホノススミ)と、オオツシノミヤにいたウツキネ(ヒコホオデミ)はキタノツで政務を執るように命じられました。「アワウミ」は漢字で表すと「淡海」――つまり湖のことで、すなわち琵琶湖のことです。古代に知られていた淡海は二つあり、「遠つ淡海」である浜名湖に対して琵琶湖は「近つ淡海」と呼ばれたので、琵琶湖周辺を「近江」の国といい、浜名湖周辺は「遠江」の国と呼ばれるようになりました。

 

 ミズホノミヤとハラアサマミヤについては説明が長くなるので後に回しますが、ウカワノミヤとオオツシノミヤはいずれも近江の国の琵琶湖沿岸にあった宮で、「ウカワノミヤ」は漢字で表せば「鵜川宮」なので高島市“鵜川”にある白髭神社、「オオツシノミヤ」は漢字で表せば「大津四宮」なので、かつて大津市“四の宮”町にあり、そこから遷座したあとも四宮神社と呼ばれる天孫神社の起源です。天孫神社の祭神は彦火々出見命なので、その正体は紛れもなく彦火々出見=ヒコホオデミですが、白髭神社の祭神である白髭大明神は、現在は猿田彦命のこととされています。しかし『ホツマ』で「シラヒゲカミ」と呼ばれているのはホノススミであり、シラヒゲカミ=白髭神で、当然のことながら白髭神社は白髭神の社なので、元々はホノススミだったと思われます。とはいうものの、アマテルが天君の時に、孫のニニキネは全国行脚をし、その時にタカシマでサルタヒコと出会い、サルタヒコはニニキネをウカワカリヤに招いて饗応しているので、白髭神とはホノススミのことですが、サルタヒコが白髭神社に祀られていても何らおかしくはありません。「タカシマ」を漢字で表せば高島市の「高島」で、「ウカワカリヤ」は「鵜川仮屋」――つまり、のちの鵜川宮なので。

 

 さて、父から「キタノツニイキテオサメヨ イササワケアレバムツメヨ(北の津に行きて治めよ イササワケあれば睦めよ)」と言われたホノススミとヒコホオデミでしたが、海幸彦とも呼ばれたホノススミの釣り針を山幸彦とも呼ばれたヒコホオデミが失くしたことから、ニニキネが懸念していた「イササワケ」が起こってしまいました。兄弟は睦めず、山幸彦ことヒコホオデミは途方に暮れて、失くした釣り針を探しに海を越えて九州まで行く羽目になりました。「イササワケ」の「ワケ」を漢字で表せば「別」なので、「イササワケ」とは“些細な決別”といった意味で、「イササ」が転じて「いささか」という言葉になったのかもしれません。そして共同統治者であるホノススミとヒコホオデミのあいだで些細な決別が生じた宮だから、キタノツの宮は「イササワケミヤ」と呼ばれるようになったのでしょう。よって「イササワケミヤ」を漢字で表せば「些別宮」がふさわしいような気もしますが、わかりにくいので、祭神である伊奢沙別命と同じ漢字を使い、「伊奢沙別宮」としておきます。「イササワケミヤ」の呼称が先で、「イササワケミヤ」に葬られて祀られたから“イササワケミヤの祭神”という意味でヒコホオデミが「イササワケノミコト」と呼ばれるようになったのだと思いますが。ちなみに「キタノツ」は、漢字で表せば「北の津」で、“北の船着き場”という意味なので、当時都があった近江から見て北に位置し、日本海の玄関口となっていた、現在の敦賀のことになります。

 

 ところが、この諍いが転機となって、ヒコホオデミの運命が変わりました。九州に渡るとトヨタマヒメと出会い、二人は結ばれ、ヒコホオデミはトヨタマヒメの父――住吉神カナサキの孫で、九州の国君であるハデツミの婿となって執政に携わり、筑紫を治めるツクシヲキミ=筑紫大君に任じられ、為政者としての実績を認められて、のちには二人の兄を差し置いて父の跡を継ぎ、十一代天君となりました。その後は近江に戻ってミズホノミヤで政務を執り、譲位後にかつての宮である大津四ノ宮に移って崩御しましたが、遺言で伊奢沙別宮に葬られました。海幸彦である兄の大事な釣り針を失くして困り果てていたときにシホツチに出会って九州に導かれ、釣り針を見つけることができ、以後トントン拍子に運が開けたからです。すなわち気比神宮は、十一代天君の葬地が起源という、神代史上きわめて重要な聖地ということになります。七代天君イザナギから十二代天君ウガヤフキアワセズまでの鎮座地は次のとおり。

 

 イサナギ      =伊弉諾神宮(葬地)

 アマテル      =籠神社(葬地)

            ➡伊勢神宮

 オシホミミ     =箱根神社(葬地)

            ➡英彦山神宮

 ニニキネ      =霧島神宮(葬地)

            ➡賀茂別雷神社

 ヒコホオデミ    =気比神宮(葬地)

 ウガヤフキアワセズ =宮崎神宮(葬地)

            ➡賀茂御祖神社

 

 都から遠いと祭祀を行うのが不便なので遷座したのだと思いますが、オシホミミを祀った英彦山神社は、ニニキネが九州巡幸中に父神の祭祀を行うために英彦山に分霊したのが起源かもしれません。

 

 気比神宮から話は逸れますが、せっかくなので、ここで「ミズホノミヤ」と「ハラアサマミヤ」についても触れておきたいと思います。

 

 まずニニキネがいた「ミズホノミヤ」については、『古事記』によると、九代開化天皇の第三皇子である彦坐王が近つ淡海の御上祝が信奉する天御影神の娘――息長水依比売を娶って生んだ子に“水穂”之真若王という人物がいて、彼は「近淡海の安直(やすのあたい)の祖」とのことなので、同じく「近淡海」こと近江の国に存在した「ミズホノミヤ」を漢字で表せば、ミズホ=水穂で「水穂宮」ということになります。よって、天之御影命を祭神とする御上神社の起源と考えるのが妥当です。アマテルの姉であり妹であるヒルコがアマテルの日嗣の御子で甥にあたるオシホミミを育てた「アメヤスカワ」の宮もおそらくここで、ヒルコが亡くなり、その夫であるオモイカネが信州の阿智に隠居すると、オシホミミの子であるニニキネが天君にふさわしい宮として改築したのだと思います。「アメヤスカワ」を漢字で表せば「天安河」で、水穂之真若王の子孫は天“安”河の近辺を本拠地とした豪族だったため“安”直を名乗り、のちに「安河」は「野洲川」に変化したのでしょう。それゆえ御上神社は、本殿の祭神である天之御影命の他に、ニニキネを「瓊瓊杵命」の祭神名で摂社の三宮神社に祀り、ヒルコを「天照大神」の祭神名で大神宮社に祀っているのだと思います。三宮神社は「三宮」という社名なので、元々の祭神はニニキネではなく、父ニニキネと同様に水穂宮で天君として世を治めた、ニニキネの三男であるヒコホオデミだったのかもしれません。なお、御上神社近江富士と呼ばれる三上山を御神体として祀る神社なので、水穂宮に関してはヤスカワ=野洲川の川沿いではなく、三上山にあった可能性もあります。

 

 次に「ハラアサマノミヤ」ですが、『ホツマ』によれば、ワカヒトの諱を持つアマテルが生まれた宮は「ハラミノミヤ」といい、母イサナミが孕んだ宮だからその名が付いたとのことなので、ならば漢字で表せば「孕みの宮」ということになります。また「イミナワカヒト ウブミヤハ ハラミサカオリ」という記述があるので、ウブミヤ=産宮である孕みの宮は「ハラミサカオリ」であることがわかります。サカオリの孕みの宮は、アマテルの孫であるニニキネの時代には単純に「サカオリノミヤ」と呼ばれていたようで、さらに「キミ サカオリノ ツクルナモ ハラアサマミヤ」という記述もあるため、ニニキネがサカオリにハラアサマミヤを建てたことがわかります。サカオリノミヤをハラアサマミヤに建て替えたのか、サカオリノミヤがあるサカオリという地域に新たにハラアサマミヤを建てたのかはわかりませんが、前者であれば「サカオリノミヤ」を漢字で表すと「酒折宮」なので甲府市酒折”にある酒折宮、後者であれば「ハラアサマミヤ」を漢字で表すと「孕浅間宮」なので、笛吹市一宮町にある甲斐一宮の浅間神社ということになります。浅間神社は水穂宮の跡と想定される近江の御上神社と同じく名神大社(ただし論社)であり旧官幣中社という高い社格なので、こちらが天君の宮跡である可能性が高いと思います。

 

 浅間神社の現祭神は木花開耶姫命木花開耶姫コノハナサクヤヒメで、ニニキネとのあいだにホノアカリ、ホノススミ、ヒコホオデミの三つ子の兄弟を生み、ニニキネが天君となって近江の水穂宮に移ったあとは長男のホノアカリが甲斐の孕浅間宮を任され、ハラヲキミ=孕大君として酒折を支配したので、息子と共にこの地に残り、おそらく孕浅間宮で亡くなって、浅間山に葬られました。よって「アサマノカミ」と呼ばれ、孕浅間宮で乳母任せではなく自分で乳をやって三人の子を育てたので「コヤスカミ」とも呼ばれました。漢字で表せば、アサマノカミ=浅間神、コヤスカミ=子安神で、浅間神の社だから浅間神社という社名になり、子安神の社であれば子安神社となります。

 

 『ホツマ』によると、コノハナサクヤヒメはたった一夜の契りで天孫ニニキネの子を孕んだので、妹を妬んだ姉の讒言もあり、ニニキネに本当に自分の子かと疑われ、天孫の子であることを証明するために、月満ちて出産の時を迎えると、「お腹の子が天孫の種でないのなら、ともに滅びよう」と言って、産屋の柴垣に火を点けました。姫は助け出されて、子供も無事に生まれましたが、だんだん勢いを増していく火の中で生まれたので、ホノアカリ=火の明り、ホノススミ=火の進み、ホオデミ=火火出見と名付けられました。火中という過酷な状況であっても無事に生まれたことによって、コノハナサクヤヒメの思惑どおり、子供たちはただ人の子ではなく神の子と証明され、ニニキネは己の子であることを認めましたが、姫は自分を疑った彼を恨み、実家に帰ってしまいました。ニニキネが迎えにきたので従いましたが、その時の遺恨が残っていたのか、夫が水穂宮に遷都するときには息子に譲られた孕浅間宮に残りました。

 

 時代が下ると、火を制し、火の中で無事に新しい命を生み出したコノハナサクヤヒメは火山の神に擬せられ、神の怒りである噴火を鎮めるために、各地に浅間神を祀る浅間神社が建てられました。今は休火山である富士山も例外ではなく、7代孝霊天皇の時代に起こった大噴火を機に11代垂仁天皇が富士山の山霊を鎮めるために建てたのが、コノハナサクヤヒメこと「木花之佐久夜毘売命」を祭神とする社――駿河一宮で旧官幣大社の富士山本宮浅間神社です。

 

 酒折宮についても述べておくと、現祭神は日本武尊で、記紀によれば、12代景行天皇の皇子である日本武尊が東征の帰りにこの宮に立ち寄ったときに「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と片歌で家臣に問いかけたところ答える者がなかったのですが、その様子を見て身分の低い火焚きの者が「日々(かか)なべて夜には九夜日には十日を」と応じたので、日本武尊はその者の機知を称えて、宮を発つときに「吾、行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言って、甲斐国造の塩海足尼に、かつて自分の命を救った火打ち袋を授けました。それを塩海足尼が御神体として祀ったのが酒折宮の神社としての起源で、それゆえ当宮の祭神は、酒折で生まれたアマテルでも酒折で政務を執ったニニキネでもホノアカリでもなく、日本武尊なのです。

 

 ちなみに、御神体となった火打ち袋は、東征に赴く前に日本武尊が叔母である伊勢斎宮の倭姫から剣と一緒に授かったもので、東国に向かう途中、駿河国で襲われて、敵の放った野火に囲まれ絶体絶命の時に、剣で草を薙ぎ払い、火打ち石で向い火を起こして敵を食い止め、窮地を脱することができました。ゆえに剣は、かつてソサノヲがヤマタノオロチ退治の時に得たものでアマテルに献上されて「天叢雲剣」と呼ばれていましたが、以後「草薙剣」と呼ばれるようになり、焼かれた土地は「焼津」、日本武尊が草を薙ぎ払った土地は「草薙」と呼ばれるようになりました。敦賀もそうですが、古い地名には土地の歴史に通じる語源があるので、憶えにくい読みにくいなどの理由でむやみやたらと変えずに、残してほしいと思います。

 

 いろいろ脱線して話が長くなりましたが、上記の考察は前回気比神宮を訪れる前には終えていたので、今回は時間が許す範囲内での滞在。気になる摂末社も多い神社なので40分ぐらいはいましたが、2時間以上いた初回に比べれば短いものです。

 

 ということで、バスを降りると、まず拝殿に行き、お参りのあと社務所に寄って、御朱印と由緒略記をいただきました。御朱印は初めて来たときにもいただいたのですが、ずいぶん前のことなので。

f:id:hanyu_ya:20210225220505j:plain最初にいただいた御朱印(向かって左)と今回いただいた御朱印。神紋が追加されて、「越前国一宮」の印が変わっています。

 

 続いて、拝殿の西に位置する九社之宮と神明両宮を参拝。神明両宮は天照大神豊受大神を祭神とし、九社之宮は伊佐々別神社、擬領神社、天伊弉奈彦神社、天伊弉奈姫神社、天利劔神社、鏡神社、林神社、金神社、劔神社という九つの摂末社で、各祭神は次のとおり。

 

 伊佐々別神社(摂社)……御食津大神荒魂神

 擬領神社(末社)…………武功狭日命

 天伊弉奈彦神社(摂社)…天伊弉奈彦大神

 天伊弉奈姫神社(摂社)…天比女若御子大神

 天利劔神社(摂社)………天利劔大神

 鏡神社(末社)……………国常立尊

 林神社末社)……………林山姫神

 金神社(末社)……………素戔嗚尊

 劔神社末社)……………姫大神

 

 説明板によれば、天伊弉奈彦神社、天伊弉奈姫神社、天利劔神社式内社で、林神社は比叡山に祀らている気比明神の本社、金神社は高野山に祀られている気比明神の本社とのことです。

f:id:hanyu_ya:20210225220657j:plain九社之宮についての説明板

f:id:hanyu_ya:20210225220810j:plain伊佐々別神社(向かって左)と擬領神社。後ろに見える建物は御守り授与所。

f:id:hanyu_ya:20210225220857j:plain天伊弉奈彦神社から劔神社までの七つの摂末社と拝殿(向かって右の切れている建物)

 

 九社のうち七つは正面が拝殿に向かっている東向きですが、御食津大神こと気比大神の荒魂を祭神とする伊佐々別神社と、この地域を治めていた角鹿国造の祖である武功狭日命を祭神とする擬領神社だけは北向きで、本殿の西側に本殿と並ぶように建っている南向きの神明両宮と向かい合う形で鎮座しています。実に意味深です。おそらく、この二社と神明両宮で三つの摂社と四つの末社を監視する役目を担っているのだと思います。つまり他の七つの社には監視が必要な神――気比大神の関係者が祀られているということです。そして、監視が必要な神とは祟る(と思われている)神に他なりません。気比神宮の場合もあてはまるかはわかりませんが。

 

 その後まだ時間があったので、伊奢沙別命の降臨地と伝わる土公、角鹿神社、兒宮、大神下前神社を順に参拝。角鹿神社と大神下前神社も式内社です。

 

 土公は磐境――つまり巨石の磐座と同じで、神社建築文化が始まる前の古代祭祀の跡だそうなので、社殿が建てられる以前はここで祭祀を行っていたのでしょう。――であるならば、この位置から司祭が拝み奉ったのは、どう考えても目の前に見える天筒山なので、伊奢沙別命ことヒコホオデミが葬られたのは天筒山で、伊奢沙別宮が存在したのも天筒山だったと思われます。その頃は縄文海進で現代より海が最大で5メートルぐらい高く、したがって現在海抜5メートル以下の低い場所は海の底で、宮を建てることはできませんから。というわけで、こんなに古くから聖地だったのですから、天筒山とは稜線続きの金ヶ崎山に円墳があっても何ら不思議ではありません。古墳文化は神代よりも後の時代なので。

f:id:hanyu_ya:20210225214627j:plain土公(向かって左)と天筒山。ここから見ると実に端正で、明らかに神奈備山です。

f:id:hanyu_ya:20210225214545j:plain土公についての石碑

 

 摂社である角鹿神社の祭神は都怒我阿羅斯等命。説明板によれば、朝鮮半島にあった任那の皇子で、10代崇神天皇の時代に気比の浦に上陸したとのこと。そして天皇に貢物を賜ったので、崇神天皇は彼を気比宮の司祭に任じて、この地域の政治を任せました。その政所の跡に彼を祀ったのが当社の起源だそうです。社名の「角鹿」は「つぬが」と読み、「つぬが」が転じて「つるが」となり、この地の地名となりました。すなわち敦賀の語源です。

f:id:hanyu_ya:20210225214300j:plain角鹿神社、兒宮、大神下前神社についての説明板

 

 末社の兒宮の祭神は、説明板によれば伊弉冉尊ですが、社名から判断すると、どうも違うような気がします。角鹿神社の隣に“兒”宮の名で祀っているからには、都怒我阿羅斯等命の子か子孫が祭神のように思えますが、情報が少なすぎて推理できず。他に確固たるアテがあるわけでもないので、今のところはそんな気がするとしかいえません。

 

 兒宮の隣にある、同じく末社の大神下前神社の祭神は大己貴命とのことですが、こちらも疑わしく、しかし情報不足で不明。明治44年(1911)に当社に合祀されたという金刀比羅神社の祭神である金刀比羅大神は、大己貴命ことオホナムチの孫であるミホヒコのことで、ミホヒコは祖父クシキネ(オホナムチ)、父クシヒコ(ヲコヌシ)と続いてきた三代目の大物主であり、気比の神ことヒコホオデミの右の臣だったので、気比神宮に祀られているのは大いに納得がいくのですが、大神下前大神のことはわかりません。

 

f:id:hanyu_ya:20210225213809j:plain大神下前神社の社号標。大神下前大神の左右に、後から合祀された金刀比羅大神と稲荷大神の名があります。

 

 最後に松尾芭蕉の句碑を見て気比神宮を後にすると、敦賀港開港100年を記念して設置された「宇宙戦艦ヤマト」と「銀河鉄道999」のモニュメントが並ぶシンボルロードを通って敦賀駅へ。15分ほど歩いて5時前に到着し、券売機で予約していた特急券を発券してから駅構内の観光案内所の隣にある土産物売り場を覗き、特に欲しい物もなかったのでコンビニでコーヒーを調達して改札を入ると、17時15分発の特急サンダーバードに乗車。18時9分に京都駅に到着し、その日は日曜日で、飲みながら「麒麟がくる」を見たかったので、みやこみちの「ハーベス」でタカラ缶チューハイを買ってホテルに戻り、日程終了です。

f:id:hanyu_ya:20210225213653j:plain松尾芭蕉の句碑。刻まれている句は「涙しくや 遊行の持てる 砂の露」。『奥の細道』にある「月清し 遊行のもてる 砂の上」の原案のようです。

 

 翌日は宝塚大劇場雪組公演を観て帰るだけでしたが、開演は13時で、どこかに行くには時間がありませんでしたが、途中下車ぐらいはできそうだったので、宝塚駅の一つ手前の中山寺駅で降りて、中山寺に寄り、蓮ごはんを食べてから劇場に行くことにしました。

 

 9時半にホテルをチェックアウトして荷物を預かってもらうと、45分発の姫路行き新快速に乗車。大阪駅宝塚線に乗り換え、10時40分に中山寺駅に到着。中山寺の最寄り駅は阪急宝塚線中山観音駅で、そこからなら徒歩1分ですが、JR線駅の中山寺駅からでも徒歩10分ぐらいで行けます。

 

 参拝後、時間があったので梅林公園まで足を延ばすと、紅梅がちらほらと咲いていました。

f:id:hanyu_ya:20210225213521j:plain中山寺梅林公園の梅その1

f:id:hanyu_ya:20210225213440j:plain中山寺梅林公園の梅その2。こちらは八重です。

 

 梅林を散策したあと、古墳を経由して、11時半過ぎにお休み処「梵天」に入ると、蓮ごはんだけでは物足りなかったので、前回と同じくたこ焼&うどんセットも注文。今回は食事の前にちくわも食べていないしチューハイも飲んでいないので大丈夫かと思いましたが、やはり量が多すぎました。

 

 なんとか完食して12時15分過ぎに店を出ると、中山寺駅には戻らず、中山観音駅から27分発の阪急宝塚線に乗り、33分に宝塚駅に到着。宝塚大劇場へ向かい、開演10分前には席に着けました。

 

 終演後は、はるばる来てよかったと思えるほど、だいもんこと望海風斗さんのサヨナラ公演を堪能しましたが、余韻に浸る間もなく劇場を出て宝塚駅へ。16時26分発の電車に乗り、大阪駅で長浜行き新快速に乗り換え、17時29分に京都駅に到着。551蓬莱で豚まんと甘酢団子を買ったあと、「ハーベス」でタカラ缶チューハイを買い、ホテルに行って荷物を引き取り、18時1分発ののぞみに乗車。これにて明智光秀探訪13&福井神社遠征&宝塚観劇の遠征終了です。